Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ(仮)

政治経済軍事外交、書評に自然科学・哲学・聖地巡礼・田園都市ライフ、私の脳の外部記憶媒体としてこのブログに収めています。日々感じること、発見したことを記録していきます。同時にそれが、このブログをご訪問していただいた方の知識や感性として共有できれば幸せに思います。

タグ:心理学

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本書は超人類の誕生を一つのテーマとしている。 本書のピグミーの子供の超人類ヌース (アキリおよび姉エマ)は、完璧な神に近い「2001年宇宙の旅」の宇宙船コンピューターHAL9000を髣髴とさせます。
超人類とは著者の鬱屈した人格が解放されるメシアではないかと私は思った。

著者は日本人を憎む日本人であるだけでなく、超大国米国を憎み、資本主義も憎んでいるかもしれない。だが、この世界は資本主義であり、著者は今の平和な社会は先達達が犠牲となって、平和とは、誰かが悪役となって維持されていることに理解をしない、単なる偽善者である。

p214-219
 アーサー・ルーペンスが幼稚園の入園テストを受けた時、彼の両親は園長に呼び出され、「お宅の息子 さんのIQは測定不能です」と告げられた。もちろん、それが良い意昧での「測定不能」であったために、メリーランド州で小規模のレストラン・チェーンを経営する父と専業主婦の母は大いに喜んだ。

(略)

ところが周囲の期待とは裏腹に、ルーペンスが自分の能力を見限るのも早かっか。十代半ばを前にして、すでに自分は独創性に欠けていると気づいていた。先人たちが打ち立てた学問的業績を受け継ぐことはできても、そこに革新的な知見を加えることはできない。人類の歴史において、高度な科学文明を築き上げてきたのは天才たちの頭脳に宿った一瞬の閃きであり、そのような天啓を受け取るアンテナが自分の頭には立っていないことを、人生の早い段階で悟ったのだった。

そんな訳で、十四歳でジョージタウン大学に進学したルーペンスは、自ら神童の座から降りて秀才の地位に収まった。(略)彼を魅了したのは科学史だった。紀元前六世紀の自然哲学の誕生から二十世紀の理論物理学の発展まで、人類が集積した知の全貌を辿る旅は、何物にも代え難いほどの面白い娯楽となった。 (略)

勉学については申し分のない学生生活だったが、その他の面では最悪だった。ルーペンスの若さと頭脳、それにプロットに彩られた端整な顔立ちは、年長の学生たちの嫉みを買うのに十分なほど突出していた。悪ふざけを仕掛けてくる年上の同級生の眼の底には、いつも拭い難い敵意が潜んでいたし、とりわけ閉口したのは、童貞であることを殊更に強調されることだった゜嫉妬にまみれた男たちの、冗談めかして本気で他者を低めようとする醜い笑顔を何度も見せつけられているうち、ルーベンスは一つの傾向に気づいた。知的に劣る男ほど、性的な面で優位に立とうとするのが歴然と見て取れたのだった。ルーベンスが女子学生と親しくしようものなら、嫌がらせはより陰湿になった。愚かな男たちの姿は、大きな角を突き合わせてメスを奪い合う獣の姿を連想させた。

以来、ルーベンスは、残酷な観察者となった。愚鈍を装い、他人の悪意に気づかぬ振りをして接していると、相手はますます図に乗って心の中の獣性をさらけ出してくる゜すべてを見透かされているとも知らずに、自分たちが動物の一種であってそれ以上の存在ではないことを自ら暴露する。 

ルーベンスの見たところ、社会生活の中に見られるあらゆる競争の原動力は、ただ二つの欲望に還元されるようだった。食欲と性欲だ。当人よりも多く食べ、あるいは貯め込み、より魅力的な異性を獲得するために、人間は他者を低め、朧落とそうとするご獣性を保持した人間ほど、俯瞰や謀略といった手段を用いて、組織と名付けられた群れのボスにのし上がろうとする”資本主義”が保障する自由競争は、こうした暴力性を経済活動のエネルギーヘとすり替える巧妙なシステムなのだ。法で規制し、福祉国家を目指さない限り、資本主義が内包する獣欲を抑え込むことはできない。とにかくヒトという動物は、原初的な欲求を知性によって装飾し、隠蔽し、自己正当化を図ろうとする欺瞞に満ちた存在なのだった。

大学に入ってから六年後、二十歳の若さでルーべンスは数学基礎論の研究で哲学の博士号を取り、女性の美しさと優しさを初めて肉体的に知り、それから住み慣れたジヨージタウンを後にした。ロスアラモス研究所で博士研究員(ポスドク)として働へさらに複雑系という科学の新しい潮流を学ぶためにサンタフェ研究所に赴いた。そこのカフェでたまたま知り合った心理学者から、ルーべンスはその後の進路を決定づける興味深い話を聞かされた。アメリカ軍兵士の、戦場における発砲率の研究である。

「第二次世界大戦中、近距離で敵兵と遭遇したアメリカ軍兵士が、どれくらいの割合で銃の引き金を引いたと思うかね?」

茶飲み話で発せられた質問に、ルーべンスは深く考えることもなく答えた。「七割くらいですか?」

「違う。たったの二割だ」

ルーべンスの順に浮かんだ驚きと疑念を見て取って、心理学者は続けた。

「残りの八割は、弾薬補給などの口実を見つけて殺人行為を忌避していたんだ。この数字は、日本車の玉砕攻撃にさらされた場合でさえも変わらなかった。最前線の兵士たちは、自分が殺されるという恐怖よりも、敵を殺すストレスのほうを強く感じていたのさ」

「意外な話ですね。人間は、もっと野蛮な生物かと思つてました」

すると心理学者は、にやっと笑って、「まだ続きがあるんだ」と言った。「この調査結果に慌てたのは軍部だ。兵士が道徳的であってはまずいのだ。そこで発砲率を高めるべく心理学的研究が行なわれ、べトナム戦争での発砲率は九十五パーセントにまで急上昇した」

「軍部はどんなことをやったんです?」

「簡単なことさ。射撃訓練の的を丸型標的から大型標的に変え、本物の人間のように自動的に起き上がるようにした。さらに射撃の成績によって、軽い懲罰を科したり報酬を与えたりした」

「オべラント条件付けですか」

「そう。給餌機のレバーを押すようにネズミを仕向けるのと同じことだ。ところが――」と心理学者は、少しだけ顔を曇らせた。この「敵を見たら反射的に発砲する」ための訓練方法には、大きな欠陥があった。兵士の心理的障壁が取り除かれるのは発砲する時点までであり、敵を殺しか後に生じる精神的外傷(トラウマ)までは考慮されていなかったのである。結果、べトナム戦争では、帰還兵の間に大量のPTSD患者を生み出すこととなった。

「しかし」と、ルーべンスは疑問を口にした。

「人間がそこまで殺人行為を嫌悪しているのなら、どうしてこの世から戦争がなくならないんです? そもそもたった二割の発砲率で、どうしてアメリカは第二次世界大戦に勝てたんです?」

「まず、人を殺してもまったく精神的打撃を受けない”生まれついての殺人者”が男性兵士の二パーセントを占める。精神病質者だ。だが彼らの大半は、一般社会に戻れば普通の市民生活を送る。戦時においてのみ、後悔も自責の念も持たずに殺人を行なうことのできる”理想的な兵士”なんだ」

「しかし、それがたったのニパーセントでは、戦争には勝てないでしょう?」

「残りの九十八パーセントを殺人者に仕立て上げるのも、実は簡単なことだと分かった。まずは権威者への服従や帰属集団への同一化などで、個としての主体性を奪う。それからもう一つ、殺す相手との距離を隔てるのが重要となる」

「距離?」

「ああ。この言葉は二つの概念から成る。心理的距離と、物理的距離だ」

例えば敵が人種的に異なり、言語も宗教もイデオロギーも違うとなれば心理的距離は遠くなり、それだけ殺しやすくなる。そもそも平時からすでに他民族との心理的距離をとっている人間、つまり自らが所属する民族集団の優位性を信じ、他民族を劣等と感じている人間は、戦時においてはたやすく殺人者へと変貌する。普段の生活の中で周囲を見回せば、そんな人間の一人や二人はすぐに見つかるはずである。さらに戦う相手が倫理的にも劣った、鬼畜に等しい連中だと徹底的に教え込めば、正義のための殺戮(サツリク)か開始される。こうした洗脳教育は、あらゆる戦争で、あるいは平時にも、伝統的に行なわれてきた。敵国人にジャップやディンクなどといった凡称をつけるのが、その第一歩である。

「物理的距離を保つためには」と心理学者は続けた。「兵器というテクノロジーが必要になる」

戦闘の最前線で発砲をためらう兵士も、敵を直接見ることのできない遠距離にいるだけで、より破壊力のある攻撃手段――迫撃砲の発射や艦砲射撃、航空機からの爆撃など――を躊躇なく使えるようになる。目前の敵を射殺した兵士が生涯癒えぬ心の傷を負うのに対し、空襲に参加して百人の命を奪った爆撃手は何の痛痒(ツウヨウ)も感じないのである。

「人間と他の動物を隔てるのは、想像力の有無だと言った学者がいた。だが兵器を使う際には、ヒトとしての最低限の想像力も麻痺する。爆撃鉄の下で逃げ惑っている人々が、どんな悲惨な死を遂げるかは眼中にないのさ。こうした倒錯が起こるのは軍人だけじゃない。一般市民の間にも見られる普遍的な心理だ。分かるだろう?」

ルーペンスは頷いた。人々は、敵兵を銃剣で刺し殺した兵士を白眼視する一方で、敵機を十機撃墜したパイロットは英雄視する。

「殺戮兵器の開発は、敵をいかに遠ざけ、より簡単に大量の犠牲者を出すかに主眼が置かれてきた。素手で殴り殺すよりも刃物を、さらには銃器を、砲弾を、爆撃機を、果ては核弾頭を積んだ大陸間弾道ミサイルを、だ。しかもアメリカの場合、これが国を支える基幹産業の一つになっている。だから戦争は、なくならないのさ」

こうした研究に接しかルーペンスは、現代における戦争には共通した構造があることに気づいた。

戦争当事者の中で、もっとも残忍な意思を持つ人間、つまり戦争開始を決定する最高権力者ほど、敵からの心理的・物理的距離が離れた位置に置かれているということである。ホワイトハウスで晩餐会に出席している大統領は、敵の返り血を浴びることも、肉体を破壊された戦友が発する断末魔の叫びを聞くこともない。殺人にまつわる精神的負荷をほとんど被らない環境にいるからこそ、生来の残虐性を解き放つことができるのだ。軍隊組織がこのような形態に進化し、兵器が科学技術によって改良されてきた以上、近代戦において殺戮が激化するのは当然たった。戦争の意思決定者は、良心の呵責を感じることなく大規模空爆を命令できるのだ。

では、数十万人を殺すことになると分かっていながら戦争を指示する一国の指導者は、その残虐性において普通の人間なのだろうか。それとも、やはり彼らは異常な人間で、人並み外れた攻撃性を社交的な微笑の後ろに隠し持っているのだろうか。

ルーペンスは後者だろうと推論した。権勢欲に取り憑かれ、あらゆる政治的闘争を勝ち抜いていく人間は、正常の範囲から逸脱した好戦的な資質を有しているはずだ。しかしその反面、民主主義国家では、そうした人間をリーダーとして送出するシステムが民意によって作り上げられているので、選ばれた人間こそが集団の意思を体現しているとも言えるのである。となれば、戦争の心理学は、権力者の心理学に置き換えることが可能だ。人はなぜ戦争をするのかという疑問に答えるためには、戦争を命じる人間の精神病理の解明が不可欠なのである。
※ルーベンスとはこのフィクションの超人類抹殺計画の責任者である。

高野は本書でかつて日本軍が南京や戦場で虐殺の限りを尽くした邪悪な民族であると宣伝しているが・・・戦前の日本軍は「オべラント条件付け」などしていない。
皇軍が南京で大虐殺など行えるわけがない。

自らが所属する民族集団の優位性を信じ、他民族を劣等と感じている人間は、戦時においてはたやすく殺人者へと変貌する。普段の生活の中で周囲を見回せば、そんな人間の一人や二人はすぐに見つかるはずである。

この著者は私のような保守層に完全に喧嘩を売っている!反日教育を行っている
朝鮮人や中国人は日常から犯罪者で残虐な行為を平気で日本人にしている。
著者は一方的な反日的物語を書いたが、私はこの物語から、ありもしない南京大虐殺のプロパガンダを行い反日教育をしている中国および朝鮮は、もし戦争になれば日本人を平気でジェノサイドしかねないというこを私は警告したい。

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フロイトは精神分析の見地から、「人間の心を特定の方向に導き、憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか?」という問いに
「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにもない!」
と答えております。
フロイトは言います。文化の発展は人の心の有りように変化をもたらします。
p42~53
人間の衝動は二種類ある。一つは、保持し統一しようとする衝動。プラトンの『饗宴』に出てくる「愛」の話になぞらえ、これをエロス的衝動と呼ぶことができる。場合によっては、性的衝動と呼んでもよい(当然、ここで言われている「エロス」は、一般に言われる「性」という言葉よりも幅広いものを意味する)。もう一方の衝動は、破壊し殺害しようとする衝動。攻撃本能や破壊本能という言葉で捉えられているものである。

お気づきだとは思いますが、今述べた二つの衝動は、あまねく知られている愛と憎しみという対立を理論的に昇華させたものにすぎません。考えてみれば、これらは、古くから知られる引力と斥力という対立(物理学の領域に属する対立)の一つのあらわれかもしれません。

ただし、気をつけねばならないことがあります。ともすれば、こうした対立物の一方を「善」、他方を「悪」と決めつけがちなのですが、そう簡単に「善」と「悪」を決めることはできないのです。どちらの衝動も人間にはなくてはならないものなのです。二つの衝動がお互いを促進し合ったり、お互いに対立し合ったりすることから、生命の様々な現象が生まれ出てくるのです。一方の衝動が他方の衝動と切り離され、単独で活動することなど、ありえないように思えます。どちらの衝動にしても、ある程度はもう一方の衝動と結びついている(混ぜ合わされている)ものなのです。一方の衝動の矛先がもう一方の衝動によって、ある程度変わってしまうこともあります。それどころか、一方の衝動が満たされるには、もう一方の衝動が必要不可欠な時すらあるのです。

例を挙げましょう。自分の身や自分の命を保持したいという衝動は、間違いなくエロス的なものです。ですが、攻撃的な振る舞いができなければ、自分の身を保持することなどできません。愛の衝動というものは何かの対象に向けられているものですが、その対象を手に入れようと思えば、目の前のものを力ずくで奪い取ろうとする衝動が必要になります。両者が結びついているもろもろの現象において二つの衝動を分離するのがきわめて難しかったからこそ、二つの衝動の本性を見抜くことがなかなかできなかったのでした。

私の話にもう少しおつき合い願えるでしょうか。実は、人間の行動はさらに複雑なものなのです。エロスと破壊衝動が結びついてできあがった一つの衝動によって、行動が引き起こされることなどきわめて稀なのです。ほとんどの場合、エロスと破壊衝動が結びついた衝動、それが幾つも合わさって、人間の行動が引き起こされるのです。

このことには、一八世紀の物理学者ゲオルクークリストフーリヒテンベルクがすでに気づいていました。リヒテンベルクはゲッティングン大学で物理学を講じていましたが、物理学者としてよりも、心理学者として大きな業績を残したと言えるのではないでしょうか。彼の言葉を聞いてみましょう。「人間を行動に駆り立てる動機を分類するのは、言ってみれば、風を三二の方向に分類するようなものです。名前のつけ方にしても、風の方向と同じような調子で行うことができます。生活の糧=生活の糧=名声や名声=名声=生活の糧といった調子です」 こうしてリヒテンベルクは、人間の行動を引き起こす複雑な動機についての理論を打ち立てたのです。

すると、人間が戦争に駆り立てられるとしたら、様々なレベルの動機、数多くの動機が何らかの形で戦争に賛同していることになります。高貴な動機も卑賤な動機もあれば、公然と主張される動機も黙して語られない動機もありますが、多くの動機が戦争に応じようとしていることになるのです。人間を戦争に駆り立てる動機をここで列挙することはできないにしても、攻撃や破壊への欲求がその一つに数えられることは間違いありません。

過去の歴史の中にあらわれる無数の残虐な行為、日常生活に見られる夥しい数の残虐な行為を見れば、人間の心にとてつもなく強い破壊衝動があることがわかります。

この破壊への衝動に理想へのアピールやエロス的なものへのアピールが結びつけば、当然容易に破壊行動が引き起こされます。過去の残酷な行為を見ると、理想を求めるという動機は、残虐な欲望を満たすための口実にすぎないのではないかという印象を拭い切れません。また、異端審問の残虐さなどを目にすると、こう思われてきます。理想や理念を求めるという動機が意識の前面に出ているのは間違いないが、破壊への衝動が無意識のレベルに存在し、それが理念的な動機を後押ししているのだ、と。どちらも十分ありうることです。

貴方のご興昧が私たちの理論ではなく、戦争の防止にあるのは承知しております。ですが、今しばらく精神分析の衝動理論におつき合い願いたいと思います。これまで衝動理論に関心が向けられたとしても、衝動理論の重要さに見合うものだったとは言えないからです。

様々な思索を巡らした末に精神分析学者は一つの結論に達しました。破壊への衝動はどのような生物の中にも働いており、生命を崩壊させ、生命のない物質に引き戻そうとします。エロス的衝動が「生への衝動」をあらわすのなら、破壊への衝動は「死への衝動」と呼ぶことができます。「死への衝動」が外の対象に向けられると、「破壊への衝動」になるのです。生命体といえども、異質なものを外へ排除し、破壊することで自分を守っていくのです。しかし、破壊への衝動の一部は生命体へ内面化されます。精神分析学者たちはこの破壊衝動の内面化から、たくさんの正常な現象と病理学的な現象を説明しようとしました。それだけではありません。冒涜的なことに聞こえるかもしれませんが、精神分析学者の目から見れば、人間の良心すら攻撃性の内面化ということから生まれているはずなのです。

お気づきでしょう。このような内面への攻撃が大規模に行われるなら、ゆゆしき問題となります。ですが、攻撃性が外部世界に向けられるなら、内面への破壊が緩和され、生命体に良い影響を与えます。とすれば、どういうことになるでしょうか。私たちが反対してやまない人間の危険で醜悪な振る舞い、それを生物学的に正当化してしまうことになるのです。生物である以上、仕方がないという言い訳を与えてしまうのです。危険で醜悪な行為に抗うよりは、そのような攻撃的な行為に身を任せるほうが自然だということになるのです(こうなると、私たちが危険で醜悪な行為に対して不快感を覚えるのはなぜかを説明しなければならなくなるでしょう)。

ここまでの私の話を聞いて、どういう印象を持たれるでしょうか。おそらく、精神分析は一種の神話にほかならないと思うのではないでしょうか。

しかも、陰影な神話としか思えないのではないでしょうか。とはいえ、自然科学というものはすべて一種の神話にたどり着くのではないでしょうか。
物理学はどうでしょう。今日ではやはり神話と化しているのではないでしょうか。
以上の議論から、どういう結論が出てくるでしょうか。当面のテーマとの関連で言えば、こういう結論です。
「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにもない!」
なるほど、地球は広大で、自然が人間の望むものを十二分に与えてくれている場所があるとも言われます。そのような土地には、穏やかな生活を送る種族、強制や攻撃などとは縁のない種族が住んでいると言われます。

しかし、そのような人間たちがいるとは、私にはやはり信じられないのです。もし本当にいるのでしたら、彼らについてぜひとも詳しく知りたいと思います。考えてみれば、共産主義者たちも、人間の様々な物質的な欲求を満足させて人間たちの間に平等を打ち立てれば、人間の攻撃的な性質など消えると予想していました。けれども、このようなことは幻想にすぎません。今、ボルシェヅイキの人たちはどのような有様を呈しているでしょうか。武装化に余念がなく、実に入念な武装化をはかっています。そのうえ、ボルシェヅイズムを信奉しない人間への激しい敵意と憎悪こそ、彼らを一つに結びつける大きなものとなっているのです。

ともあれ、貴方もご指摘の通り、人間の攻撃性を完全に取り除くことが問題なのではありません。人間の攻撃性を戦争という形で発揮させなければよいのです。戦争とは別のはけ口をみつけてやればよいのです。

ですから、戦争を克服する間接的な方法が求められることになります。
そして、精神分析の神話的な衝動理論から出発すれば、そのための公式を見つけるのは難しくはないのです。人間がすぐに戦火を交えてしまうのが破壊衝動のなせる難だとしたら、その反対の衝動、つまりエロスを呼び覚ませばよいことになります。だから、人と人の間の感情と心の絆を作り上げるものは、すべて戦争を阻むはずなのです。

実は、この感情の絆には二つの種類があります。
一つは、愛するものへの絆のようなものです。ただし、絆の相手にむき出しの性的な欲望を向けている必要はありません。ここで「愛」を持ち出したわけですが、精神分析がそのことにやましさを感じることはありません。宗教でも言われているではないですか。汝、隣人を汝自身のごとく愛せよ! 素晴らしい言葉です。しかし、言うは易く行うは難しです。
もう一つの感情の絆は、一体感 や帰属意識によって生み出されます。人と人の間に大きな共通性や類似性があれば、感情レべルでの結びつきも得られるものなのです。こうした結びつきこそ、人間の社会を力強く支えるものなのです。

ところで、貴方は誤った権威の使い方についても言及しました。その批判に関連して、戦争への欲求を間接的に克服する二つ目のヒントを述べたいと思います。

人間は指導者と従属する人間に分かれます。人間というものに生まれつき備わっている性質からして、二つのグループに分かれるのであり、これはいたしかたないことです。どれほど、この差をなくそうとしても、それは無理なことです。人類の圧倒的大多数は、指導者に従う側の人間なのです。彼らには、決定を下してくれる指導者が必要なのです。そうした指導者に彼らはほとんどの場合、全面的に従うのです。

ここで一つ指摘しておかなければならないことがあります。優れた指導層をつくるための努力をこれまで以上に重ねていかねばならないのです。自分の力で考え、威嚇にもひるまず、真実を求めて格闘する人間、自立できない人間を導く人間、そうした人たちを教育するために、多大な努力を払わねばなりません。言うまでもないことでしょうが、政治家が力尽くで国民を支配したり、教会が国民に自分の力で考えることを禁止したりすれば、優れた指導層が育つはずがありません。

では、どのような状況が理想的なのでしょうか。当然、人間が自分の衝動をあますことなく理性のコントロール下に置く状況です。このような状態にたどり着けば、感情の絆は消えるかもしれませんが、人間の社会はいつまでも完全な一体化を見せるに違いありません。しかし、このようなことが可能なのでしょうか。夢想的な希望にすぎないとしか思えません。

戦争を防止する他の方法は間接的なものとはいえ、ずっと現実的で人間が実際に歩みうるものです。ただし、すぐに戦争を根絶させることができるとは思えません。そのことを考えると、悲しい比喩が思い浮かんできてしまいます。ゆっくりと回る製粉機――小麦粉ができる前に人が飢えて命を落としてしまうような製粉機 ―― が浮かんできてしまうのです。

おわかりでしょう。現実の緊急の課題を解決しようとするときに、世俗に疎い理論家に相談してみても、あまり多くのことは得られないのです。個々の具体的なケースにおいては、理論家に相談するよりも、手元にあってすぐに使える方法で対処するほうが望ましいのではないでしょうか?

フロイトは完全に望みを捨てているわけではありません。文化が発展するにつれ、人は戦争に憤り、嫌悪するようになっている、とフロイトは言います。文化の発展は人の心の有りように変化をもたらします。
P59
すべての人間が平和主義者になるまで、あとどれくらいの時間がかかるのでしょうか? この問いに明確な答えを与えることはできません。
…しかし、今の私たちにもこう言うことは許されていると思うのです。
文化の発展を促せば、戦争の終焉に向けて歩みだすことができる!
まあ、特亜諸国のように反日を国民に植え付けるような国が有る限り、世界平和は達成できない。

このフロイトの指摘を東京裁判史観から未だ覚醒していない護憲論者は耳を傾けるべきだろう。

人間から攻撃的性質を取り除くことはできないのである。我々日本人がいかに平和を好む民族であったとしても、戦前のナチスのように領土を拡大しようとする中国に対しては、平和憲法で臨んでも何等解決できないことは明白である。

消費税などにうつつを抜かしている暇はない、文化が発展していない国々が周辺諸国ににある限り、戦争を防止する為には今すぐ不当な暴力から国民を守る為の戦争ができる憲法に改正すべきと私は思うのです。



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イメージ 1出口の見えない不況、きつい人間関係……。
 
この時代をどのように生きぬいていったらいいのか。
 
困難に直面した人たちが絶望せずに生き続けたのはなぜか。
 
心の中の回復していく力とは。誰もが「弱者」にならうる時代に届けたい1冊。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
江川紹子さんといえばオウム事件で有名になりましたが、言わずとしれた日本の女性ジャーナリストの第一人者です。
 
時に左翼的な彼女の主張に私は違和感を感じることもありますが、ジャーナリストとしての彼女の視点を私はとても尊敬しています。
 
彼女が本書で取り上げたのは、「郵便不正事件」で無罪となった村木厚子さんと、アフガニスタンの軍閥に人質にされ解放された常岡浩介さんです。
 
二人とも拘束された極限状況の中を生きて、ともすれば絶望に陥りがちな状況を長く経験したにもかかわらず希望をもって生き続ける勇気について紹介しています。
 
 
 
このお二人は特別な人というのではなく、印象は二人とも物腰の低い極普通の人だといことです。でもお二人とも元気で、江川紹子さんは極限でも絶望しない生き方を分析されていましたが、物凄く秀逸です。ですが、これをコピペすると薄い本なので著作権違反にになってしまいそうですので・・・要約します。
 
楽しみをみつける

まず一つは、どういう状況でも楽しみをみつけるということです。

たとえば、村木さんの場合、逮捕、起訴されました。他の人、つまり検察の調書を言うなりに認めた人は、起訴されるとどんどん保釈になるわけですよ。拘置所にずっと留め置かれて、いつ出られるかわからない。検察庁だけでなく、裁判所もなかなか保釈を認めなかったのです。そういう意味では、裁判所は責任があると思わなければいけないと思うんですが。
 
さて、いつ出られるかわからないというときに、彼女がやったことは、まず、体を壊さないこと、これを目標にしたというんですね。また彼女は本を読むことがとても好きなので、こういうときでもないと、なかなかじっくり本を読めないから、長編ものでもじっくり読もうと思った。
拘置所にいる間に一五〇冊くらい本を読んだらしいのです。
 
そして拘置所ではラジオが入るのだそうです。ニュースだけではなくて、いろんな番組があって、夜は大阪の拘置所なので、野球の阪神戦の中継がある。村木さんは、それまで野球にそれほど興味はなかったのに、聞いているとだんだんルールがわかってきた。で阪神戦ばかりやっているので、阪神ファンになりましたと言っていました。いつ出られるかわからないという拘置所のなかでも、自分のいまある環境のなかで何か楽しみをみつけるというのは、すごいなあと思いました。

常岡さんは自分を拘束している人たちと話をして、あるとき、魚がたくさん釣れたことがあったらしいのです。早く処理しなければいけないということで、常岡さんが魚なら日本人に任せろ、と言ってたくさん魚をさばいてあげたそうです。あるいは、ムスリム圏の人たちは、トイレで紙を使わずに水で流すことが多いらしいのですが、その人たちは水をつかわずに土でこすったりしていた。そういうのっておもしろいですねと、ニコニコしながら、文化のちがいをみつけておもしろがっているというところもありました。そういう究極の環境でも、常岡さんは楽しみをみつけるすごい人だなと思いました。

無理に勝とうとしない

二つ目は、無理に勝とうとしないことです。相手がいることですけれども、勝とうとしない。でも自分の原則は曲げずに、あとは柔軟に対応するということです。
村木さんは検察官の取り調べをうけているときに、弁護士から「ここは検察官の土俵だ」と言われるわけです。だったら私に勝てるわけなんかないじゃない、ということで次に何をやるかというと、勝てないんだったら、せめて負けないようにしようと思ったんだそうです。
負けないことってどういうことかというと、心にもないこと、自分の経験していないことを言わないこと、それだけは原則として曲げない。
だけど相手を説得するということはもうできないだろうということで、聞かれたことには精いっぱい答えるけれども、一生懸命説得して相手の気持ちを変えようということは最初からしないと思ったんだそうです。負けないということだけをしようとしました、と彼女はおっしゃっていました。自分の原則は曲げない、それを守りつつ検事にはきちんと話したそうです。

常岡さんは、相手を説得しようもないわけです。ですから、相手となるべく会話をするなかで、日本はムスリムの国を侵略したことはないよ、という話だけはしていたそうです。とにかくじっくり待とうということで柔軟に対応していました。

これを読んで、先の二人に通じるところがあり、無理に相手に勝とうとしない、でもゆずれないところがある、というのが勇気をもつひとつの源かなと思いました。

強いプロ意識

三つ目に二人に共通しているのは、非常に強いプロ意識があったということです。自分の仕事に対する、意識、誇りをもっていた。
たとえば、常岡さんは、拘束されたときにカメラも財布もぜんぶとられてしまったそうです。
それからメモ帳もペンも。結局ぜんぶ返ってこなかったそうですが、とにかくメモさえとれない状況だったのに、そのわりには、何日に何があったと、とてもよく覚えています。細かく言うんです。
どうして覚えているんですかと聞くと、今日は何日だ、ということを毎日見張りの人と話して、それから何をやったと、一日目からぜんぶ反すうしながらいたというんです。頭のなかに書いているメモ帳を常に読みあげているという状況です。常岡さんはその記憶をもとにいま文章を書いているそうなので、何が書かれているか、とても楽しみにしているわけです。

彼女(村木さん)は労働省で仕事を始めた人なのです。拘置所に入っても(刑務官の)労働条件のことを考えているなんて、ああこの人はプロだなと思いました。
そういう意味では、仕事に誇りをもってやってきたということが支えになったのだろうと思います。

自分を見る客観的な視点を見失わない

四つ目は、自分を見る客観的な視点を見失わないということです。冷静さというものも、失わないでいる。現状はどういう状況にあるのかということを、常に冷めた目で確認している。
たとえば、村木さんは逮捕されて、検事から「あなたは確実に起訴されます」と言われます。

そうすると、起訴されて裁判なんかやりたくないと思うけれども、やりたくないと考えてもあまり意味はないだろう、それではそういうことを念頭において物事を考えていこうとします。
客観的に、余計な希望を考えないようにしようという、あるいは、こんなことさえなければ……となくなったもののことを考えていまの不幸を思っても意味があるのか、と思い、とりあえず、いまの状況にどう対処すればよいのかということを考える。彼女はどうして、そういうふうに考えられるようになったかというと、共働きで、子どもが二人いたことによるそうです。
ところが、村木さんは上の子どもがまだ小さいときに急に海外出張を命じられ、子どもを保育ママさんに、一カ月近く預けて海外出張に行ったそうです。だから、どうしようどうしようと思うことはたくさんあったけれども、考えているのではなく、とりあえず、いまできることに集中して考えるという癖がついたのだろうとおっしゃっていました。

考えてもしかたのないことはとりあえず置いておいて、いまできることは何なのか、いまあるものは何なのかということを考える。

逮捕されて、彼女は自分の地位を失いました。そのなかで家族との絆を再確認したり、自分はいままで漫然と生きてきたけれども、自分のことを信じてくれる人がこんなにたくさんいるということに気づいたりする。失ったものを嘆くのではなく、いまあるものを大切にしたということが、彼女を冷静なままに保っていったのだと思います。

常岡さんも冷静さを失わないで、自分の置かれた状況を考えて、次にどうするかということを考えたそうです。

彼自身もイスラム教徒なので、身代金をとることに失敗したときに殺されなかったことから、その後は殺されるということは別の理由が出てこないかぎりないだろうということを分析して、これからのことを考えていたということです。

ラマダンが終わるとお祝いをするんです。その楽しいときに、「常岡を粒致したのは、金をとるのが目的だったのに、金を取るのに失敗して、もうお荷物だ。こういう不景気の元凶みたいなやつを抱え込んでお祭りに入るのは、不愉快だ」と考えると思うので、そのときが解放のチャンスだと思ったそうです。

常に自分を客観的にみて状況を冷静に判断するなかで、どうすれば解放されるか、いうことを考えることができたのだろうと思いました。
何を目標にして生きていけばいいのかと

人間関係をつくっていく力

五つ目に、コミュニケーションをとる力が大きかったと思います。コミュニケーションをとる力というと、最近は、言いすぎだという人もいますが、私がいま一言っているのは、プレゼンテーションで自分をよく見せようといっているわけではなく、人間関係をつくっていく力ということです。

常岡さんは、自分を拘束した人といろいろと話をしているようです。

常岡さんが、これ(拘束していた司令官の携帯電話)を使ってインターネットができるんだというと、そのインターネットをやってみろと言われたので、電話会社に連絡をとってインターネットをつなげるようにした。
村木さんは、拘置所というすごく制約の多いところではありますが、これは自分のふつうの生活とは違うと割り切って、拘置所の看守の人たちとも会話をしながら、あたえられたなかで快適にしていたそうです。

人と人との関係をつくっていくことが、なにか勇気を持ち続けることにつながるのかなと思います。
  
本書は3.11前に岩波から出版された本です。普通は岩波出版と言うだけで私は本を手に取りませんが、香山リカさんと江川紹子さんの共著ということで読んでみた。彼女達はどちらかといえば政治思想的には私と意見は違います。
 
しかしながら、心が折れた時、彼女達の優しさが感じる書籍を読むと心が癒され元気になります。3.11以後お二人の共著は心に沁みるのであります。
 
最後に、本書で紹介されていましたが四〇年以上前の強盗殺人事件(布川事件)で免罪となった桜井昌司さんが獄中で書いた「空」という詩があまりに素晴らしかったので紹介します。

空は

足もとから始まっている

そう思えたとき

いつも見上げていた

希望やしあわせが

自分の隣にあるのも気付いた

空は

空は足もとから広がる
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13日木曜日 お台場のガンダムを見に行った。
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ガンダムが大地に立って!!30周年サンライズも粋な企画を立てたものだ。

1979年私は高校2年のことだった。アニメといえば宇宙戦艦ヤマトが一大ムーブメントとなって、アニメは小学生が見るものだという概念が消えてはいたが、当時巨大ロボットアニメはについて子供向けと思っていた。

当時学園祭実行委員会の実行会議で1年生の2人が、ガンダムは凄い、学園祭でもどうのこうのと力説し始めた。ロボットアニメなどガキ(小中学生を指している)が見るものだ!と反論したが、リアルなのでとにかく見て下さいと言われ16話セイラ出撃あたりから見始めたと思う。
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ガンダムの世界観には、人間が繰り返してきた歴史的普遍性や、当時最新のテクノロジーやSF理論、物理学・機械工学・政治・軍事・組織論なども絡ませ現実的機械工学っぽいリアリティのあるメカデザイン・設定や戦闘描写がなされ私は、そのままガンダムの虜となってしまった。

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主人公であるアムロの設定がちょうど自分と同年代、性への憧れも最も激しかった時、自分もちょっぴり年上のマチルダ中尉や、俺の空に登場するのような女性教師川村先生や御前一十三(みさき ひとみ)のような 女性に憧れ、アニメでは性的なシーンこそ無かったがフラウ・ボゥやララァ、セイラさん美女に囲まれ、アムロがものすごく羨ましかった。
なお、小説版ではアムロはセイラさんと男女の関係で画かれています。

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当時ちょっと憧れた年上だった人達はもう50に届こうという年頃、ちょうどアムロの母親の年頃なのだろうか?
自分はまだまだ当時のままの少年のような心を保ち続けているつもりだが、一つだけ違うとしたら好みの女性のストライクゾーンがだいぶ高めまでストライクになったことかもしれません。(笑)

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お台場のガンダムを見て当時のリビドー(性的欲求)を思い起こさせたのは私ぐらいなものであろうか?

フロイトは、人間の精神には二つの根本的な本能が存在すると考えていました。
リビドー・・生の本能/生の欲望(エロス:性、もしくは結びつける欲望でもある)

デストルド・・死の本能/死の欲望(攻撃、破壊、分解の欲望でもある)
この二つの本能が生物にはあらかじめ存在し、このせめぎあいの中で人は生きていると考えているわけです。

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デストルドと呼ばれる死の欲望とは、、死にたいという欲動ではなく、かつての状態に戻りたい、できるだけ早期の状態に帰りたいという胎内回帰欲動のことの裏返しではないかと思うのです。

胎内回帰欲動は、突き詰めると生命体にとってのもっとも古い状態、生命体が生まれる以前の状態=死であろうことから、死の欲動とも呼ばれるわけです。

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なぜ男たちはガンダムや、戦闘機は軍艦戦車、銃器刀剣ナイフなど攻撃と破壊をもたらす武器に憧れるのか?これは胎内回帰願望の変形であるデストルド[死の欲望(攻撃、破壊、分解の欲望でもある)]そのものである。男は子宮を持っていない分、胎内回帰に憧れるのである。

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http://www.weblio.jp/content/%E3%83%87%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BC
「死の欲動」概念を展開する前のフロイトは、「愛する者の死を願う」といった両価的感情を伴う殺害願望から自殺を説明しようとした。つまり「攻撃性(Aggression)」の内向という解釈であるが、この時点では説自体は「生の欲動」の従属的位置にとどまる。一方彼の「破壊性(Destruktion)」という言葉も混乱を招きやすかった。

フロイトが最初に「死の欲動」という語を用いたのは1920年に著した『快楽原則の彼岸』であり、人間の精神生活にある無意識的な自己破壊的・自己処罰的傾向に注目した。この時期に彼の考え方は「快楽が生」から「死の欲動との闘いが生」へと大きく転換したとされる。彼は神経症における強迫観念、第一次世界大戦帰還兵の心的外傷のフラッシュバック現象、少女の「いる・いない」遊び観察で見られた不快なはずの母の不在の反復などから、従来の持論であった快感原則からは説明できない心理を見出した。
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自我が抵抗しがたい衝動である。 

衝動の存在に通常自我は気付きにくく、無言の内に支配される。快楽原則に従わず反復そのものを目的とし、エネルギーが尽きるまで繰り返される。それは強大なエネルギーで日常的なものではなく、自我はその前に無力である。 

最も蒼古的(原初的)な欲動である。 

死の欲動は個体発生上、最も古い欲動とされた。退行の究極点であり生命発生以前の原初への回帰を目的とする。それは生死や存在非存在の区別もなく明示的言語で表現するのは困難なので「死」というメタファーでフロイトは命名した。ただし人間の「死」のイメージとは関係なく非生命に向かうという意味でしかない。欲動はこの地点から巨大な破壊エネルギーを手に入れる。 

「悪魔的」な生命の破壊衝動である。 

自己と他者の区別無く反復強迫的に無意味に生命破壊を目指す。また「生の欲動」に先立つ。フロイトは死の欲動をエロスによって容易に懐柔されることはないと考えた。憎しみのような攻撃的衝動はエロスの一属性としても理解し得るが、愛と憎しみを超えたところに破壊衝動を想定した。
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マジンガーZによって確立された巨大ロボットアニメというジャンルは実に普遍的人間の心理を織り込んだ、実に奥深い哲学が心理学が隠されているものである。
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ガンダムにおいて萌芽したロボットアニメの哲学性「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年)が受け継ぎ見事に開花させたのである。最近のことだが、CS放送で深夜”天元突破グレンラガン”(2007年)というロボットアニメを見た、これがエヴァンゲリオンをも越えるインテリロボットアニメだったのである。テーマは「進化と宇宙での象徴である螺旋」である。

作品名の「天元」とは、万物生育の根源という意味があり、また囲碁の用語では碁盤の中央(中心)を指す。劇中のキーワードにも螺旋、ドリル、回転等、中央・中心に関連するものが多く見られ、中央突破、王道路線を念頭に置いた作品で、私が見た最終話とその直前の数話は、基礎的哲学の知識や、宇宙論、進化論の知識が無くてはとてもストリーについていけない作品だった。

大多数の視聴者は、いったいどの程度哲学や自然科学を理解しているのか疑問すら起きるインテリも度肝を抜かれる深い作品へとロボットアニメは進化しているのである。

【天元突破グレンラガン】
http://www.weblio.jp/content/%E5%A4%A9%E5%85%83%E7%AA%81%E7%A0%B4%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%AC%E3%83%B3
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話がそれだしたので、お台場ガンダムへ戻します。
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お台場には熱狂的なアニメファンの外人達も詰め掛けてきていた。30代の白人男性に話しかけたところ、このためにわざわざカリフォルニアから日本へやって来たというのだ。とにかく日本はガンダムの1/1モデルなんか作り上げてグレートだそうだ。

私も日本に生まれ育ち、日本語で漫画やアニメを体験する事ができ、彼ら外国人のオタクに比べ幸せすぎるかもしれません。

ちょっとその白人男性にガンダムのハリウッドでのリメイク版の噂はどうか?と尋ねたらNo!・・と絶叫していた。

ゴジラにしてもドラゴンボールにしても大失敗、2003年5月20日、カンヌ国際映画祭にて米国での新世紀エヴァンゲリオン実写映画製作が発表されたがその後も聞いていない。
ガンダムやエヴァンゲリオンはハリウッドリメイクしてほしくない。日本でリメイクしてほしい。
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2007年のTRDI(防衛省技術本部)主催の防衛技術展示会は異常に盛り上がったのはご存知であろうか、こともあろうに、自衛隊は「先進個人装備システム」を「ガンダム」と名づけているのだ!

もともと、Wikiによればタイトルを決める時に、仮題は『ガンボーイ』であったそうだ。チャールズ・ブロンソンがTV-CMで流行語にした「う~ん、マンダム」のイメージから「フリーダム」のダムとかけて『ガンダム』という名前が生み出された造語である。

韓国において「ガンダム」の商標登録出願が当初「ガンダムはロボットの普通名詞である」というありえない暴論で拒絶される事件があった。最終的には商標を認められてはいるが、ガンダムは普通名詞化している。

自衛隊のガンダムは普通名詞なのか!
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/8187754.html

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それにしても、今にも動き出しそうな(首は左右上下に動きます)躍動感あるリアルな1/1モデルであった。そのリアルさには素直に感動した。
200万人を突破したと発表しているが、夜8時前の時間帯であったが大江戸花火大会の人ごみとさほど差がないほどの混雑ぶりである。人気は期間限定のせいかもしれないが、が8月いっぱいの展示はもったいなさ過ぎる。

お台場の自由の女神を撤去して恒久的にガンダムを展示してほしいものだ。
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