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タグ:政治学


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天皇陛下 「生前退位」のご意向
【産経ニュース】2016.7.13 20:07

天皇陛下が、天皇の位を生前に皇太子さまに譲る「生前退位」の意向を宮内庁関係者に伝えられていることが13日、分かった。数年内に退位する考えで、宮内庁は、天皇陛下ご自身が国民に向けて考えを伝えられる方向で調整を進めている。

天皇陛下は82歳になられる。ご健康面では、平成23年に気管支肺炎のため入院し、翌24年には心臓のバイパス手術を受けられている。
ここ数年の天皇皇后両陛下の精力的な活動は本当に頭が下がる。東日本大震災、熊本地震、神戸淡路大震災の被災者の皆様への慰問、そして戦没者のみなさんへの慰霊の旅、そして数えきれない公務の数々。2020年の東京オリンピックまで是非とも在位していただきたいのだが、82歳のご高齢を考えれば、退位をしていただいて、ごゆっくりさせてあげたい。私は生前退位をご希望される陛下のご意志を実現させてあげたいと思います。

ところで、いったい誰がこの重大な情報をこの時期にリークしたのか?
少なくとも陛下や宮内庁関係者ではない。

この情報に乗じて、陛下のご意向は、安倍政権の「憲法改正」を防止するためだという頓珍漢な説も飛び出している。憲法改正よりも皇室典範改正の方が優先されるため?2018年の衆院任期満了までに憲法改正発議ができなくなるという見解のようだ。

陛下が自らリークするはずもなく、宮内庁も、根回しが済んでいない状況でリークするわけもない。考えられるのは、陛下のご意志を漏れ聞く宮内庁詰の護憲系のマスコミ記者ではないか?陛下の体調を心配してではない、憲法改正阻止の嫌がらせだろう。・・・その後政府関係者からとのことだが、尚更改憲阻止ではなく、皇室典範の改正をする為に、改憲を発議するのではないかと思う。

「憲法第一条 (天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。)」「憲法第二条(第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。)」とあるので、皇位継承のルールを変えるには皇室典範を改正する為、憲法1条2条と併せて皇室典範の改正をするとなれば、憲法改正の発議の大義名分が立つ!

陛下のお体を考えれば日本国民が憲法改正に票を投じるというシナリオだろう。
思考が止まっている護憲派には出来ない戦略だ、天皇陛下のご意志を尊重しつつ、憲法改正は遂に動き出したと思う。

数年内とのご意志は、2020年東京オリンピックの歳、陛下は86歳、東京でオリンピックが開催されるということは、全世界の各国元首や来賓が来日し、天皇としての仕事は急激に増える為、とても接待役ををこなしきれないと、ご自身で感じてのことであろう。

陛下のご年齢を鑑みれば、皇室典範の改正が迫っているので、憲法改正について足早に議論を進めていくいい口実になる。

仮に憲法改正を先に発議したならば、安保法制を制定しただけで戦争法案などと言い出す馬鹿共が、戦争憲法とでも言いだしてまた国会周辺で、数万人が日本国民の総意だと勘違いして大騒ぎするであろう。

現在の国際情勢を鑑みれば、悠長に憲法改正議論などしている暇など無い。早期に憲法改正を決着させるる妙案ではないか!なんて安倍総理とそのブレーン達は頭がいいのだろう!感心してしまう。

このニュースが出ると宮内庁が否定していた

天皇陛下「退位」意向宮内庁は否定
【毎日新聞】2016年7月13日 23時39分

宮内庁の山本信一郎次長は13日、天皇陛下が生前退位の意向を示されたことについて「そのような事実は一切ない」と否定した。皇室典範の改正に陛下が何らかの言及をしたことがあるかどうかについては「お立場上、陛下は制度について話されることは差し控えてこられた。これからもそれは変わらない」と述べた。【山田奈緒】
ところが単に山本次長に知らされていなかっただけだったのだ・・・・

<生前退位意向>5月から検討加速 宮内庁幹部ら5人
 【毎日新聞】7月14日(木)15時0分配信

明治時代以降初となる天皇の「生前退位」に関し、天皇陛下のご意向を受け、宮内庁の一部の幹部が水面下で検討を進めていたことが分かった。今年5月半ばから会合を重ねて検討が本格化。首相官邸にも連絡してすり合わせてきた。こうした動きは内々に進められてきたが、天皇制に関する転換点であることを踏まえ、今後、公表のタイミングを計り、広く国民の理解を図る考えだ。

 宮内庁関係者によると、検討を進めていたのは、風岡典之長官ら「オモテ」と呼ばれる同庁の官庁機構トップ2人と、「オク」と呼ばれ、陛下の私的活動も支える侍従職のトップ2人。皇室制度に詳しいOB1人が加わり、皇室制度の重要事項について検討。「4+1」会合とも呼ばれている。

 陛下は7年前から、皇太子さま、秋篠宮さまと3人でお会いする機会を月1回程度設けてきた。この中で、今後の皇室に関する話題も出ることがあったという。

 「4+1」会合はそれを受けて開かれることもあり、5月半ばから、早朝に会合を行うなど活動が加速。生前退位に伴う手続きの検討とみられ、午前8時過ぎに同庁長官室に集まることもあった。頻繁に会合を重ね、皇室典範の改正や新法、元号の問題、退位後の呼称なども検討。結果を首相官邸の杉田和博官房副長官とすり合わせ、方向性が定まったことについては両陛下に河相周夫侍従長らが報告してきた。

 最近では、両陛下が静養のため神奈川県の葉山御用邸に出発した今月11日の前日にも報告しており、風岡長官は参院選の最中にも官邸に足を運んでいた。【大久保和夫、高島博之】
なんと哀れな山本次長・・・・・

ところで、生前退位となれば、平成の次の元号が変わることになる。天皇陛下が退位されて皇太子さまが新たな天皇として即位されるタイミングで平成から次の元号に変わることになる。次の元号となるが、慶応、明治、大正、昭和、平成のアルファベットの略K・M・T・H以外になる。ABCDEFG、IJ,L,NOPQR,UVWXYZで始まる言葉となる。

一説には、ネットで未来人と称する人達が予言した「安始」「安久」が次の年号になると書き込んでいる。その可能性もあるような気がします。



まあ、当らずしも遠からず、四書五経にある二文字が新年号となるが、AはAnswerのAだから・・・・よくA        などと使用するから用ないかもしれない。



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会社の帰りに「九条を守れ」のプラカードを持った、デモに参加したであろう70代の老夫婦を駅のホームで見かけた。当ブログの左翼投稿者のように徹底的に言い負かして、人格否定までしてやりたい衝動に駆られたのだが、さすがに思いとどまった。

おそらく、国会前で安保法案反対と叫ぶ老人達(そのほとんどは実際の戦場など経験していない戦後教育=東京裁判史観に最も強く洗脳された世代)は、どんなに論理的に説明したとしても無駄であろう。彼らにとって「憲法九条」は神典として信仰の対象にしている、憲法九条は彼らにとっての宗教だから、中国が戦後秩序を覆し、沖縄を獲りに来ているといった国際情勢が理解できないのか?と説得しても意味がない。論理で責めても、信仰であって是非を考えることをしないのだから、共産党のアジ演説に野次を飛ばす私でも老人虐めは思い留まりました。

先日原宿の勉強会で防衛大学のS教授が、終戦直後はマスコミからアカデミズム、
世論は今の基準でいえば極左だった。あれだけ鬼畜米英と叫んでいたマスコミや世論が終戦を境にGHQの洗脳前から終戦のショックもあったのだろうが、あまりの変わり身の早さは日本人の特性なのか?ということをおっしゃっておりました。
例えば、昭和21年 5月、皇居前広場 で25万人を集めた食料メーデーでにおける、「朕はタラフク食ってるぞ」のプラカードなど、枚挙がいとわない。

S教授の調べでは、あれだけ本土決戦を叫んでいた帝国陸軍軍人が誰一人、本土において占領軍に切り込み攻撃をした者がいなかったというのだことを指摘されていた。もちろん占守島の戦いや、樺太の戦いなど終戦直後民間人を守る為に抵抗した軍、インドネシアなどその後のアジア各国の独立戦争に参加した兵士はいたのだが、本土を占領した米英軍に対し、イラクやアフガニスタンで行われているような自爆テロは皆無なのである。

私は、私は日本帝国陸海軍が軍規に忠実でったこと、天皇陛下の玉音放送の力が絶大であった為であろうが、日本の将棋のルールの特性や戦国時代の戦(いくさ)のルールからして、負けたら相手側に付き持ち駒になるのが日本の戦のルールが日本の伝統ではなかろうかという仮説をS教授にぶつけてみた。私の意見に同調していただいた。

1959年皇后美智子妃殿下が皇室に嫁ぐ際、皇室からの使者が正田家に非公式の打診をしたが、正田家側は、再三固辞した。天皇家に対し、ある心配を吐露したと言う。皇室の仕来りで虐められるからだろうと言うこともあったが、「革命が起きた時、
美智子の命(身の上)はどうなるのでしょう?」という点であったと言う。1959年キューバ革命が起きるなど日本も世界は革命前夜の空気が流れていたと言う。

ところが、戦後リベラルと自称する左翼達は革命はおろか、ただ、反対論を言い続け、代替え案を提案実行したり何一つ社会をよく変えることは無かった。ただただ
社会の秩序を乱し、古き良き日本を否定するだけで、何一つ日本の役に立つことなど無かった。その為日本は徐々に世論の軸が左から右へっていったのである。安倍政権は右翼でもなんでもなく、世論の軸が中庸へ戻ったにすぎないと私は思っている。

ということもあり、本書が目に留まり読んでみました。

 本書は戦後の歴史をたどりつつ、歴史を変えることのできなかったリベラルな知識人の挫折の原因をさぐる「敗者の戦後史」である(「はじめに」より)。

 全面講和から安保反対、反原発運動に至るまで、日本の左翼は理想主義的なスローガンに終始し、保守陣営への対案を示してこなかった。2014年の朝日新聞の大誤報は、そんな「戦後リベラル」たちの終焉を示していたと言えるだろう。

 戦後70年を経たいま、「革新」という幻想はこれからどこへ行くのか。「敗者の戦後史」から逆照射すれば、未来の日本への道筋が見えてくる。

 日本を「普通の国」へと変える論点がわかる、刺激的な論考!

 本書の構成は

 第1章 朝日新聞の挫折
 第2章 「平和主義」のユートピア
 第3章 メディアが日本を戦争に巻き込んだ
 第4章 メディアがつくった原発の恐怖
 第5章 労働者の地獄への道は善意で舗装されている
 第6章 進歩的文化人の劣化
 第7章 「オール野党」になった政治
 第8章 戦後リベラルの栄光と挫折
 第9章 左翼はなぜ敗北したのか 

 では、内容の一部をご紹介します。
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左翼はなぜ敗北したのか
  
 終戦直後の日本の知識人は、ほとんど左翼と同義といってもよいが、当時のアカデミズムの中心だった知識人の意見がまったく政治を変えることができず、既得権の擁護と対米追従しか政策のなかった自民党が戦後の歴史をつくったのはなぜだろうか。

 その最大の原因は、自民党が英米の保守党とは違って、良くも悪くもイデオロギーをもたないからだろう。それは特定の政治的主張のもとにあつまる結社というよりは、地元の面倒を見る政治家とその個人後援会の集合体であり、野党はこれに対抗できる集票基盤をもたない。

 この状況は、戦後70年たっても変わらないので、「平和憲法を守れ」とか「非武装中立」のような理念を対置しても、ほとんどの国民は関心をもたない。彼らの生活を改善する具体的な対案を左翼は出せなかったのだ。


◆全共闘運動というバブル

 学生運動は60年安保の敗北で勢いを失ったが、60年代後半の世界的なベトナム反戦運動と結びついて、学生運動が盛り上がった。それが各大学でできた全共闘(全学共闘会議)だが、これは全学連のような全国組織をもつわけではなく、自然発生的にできたノンセクト・ラディカルの集団だった。

 それは一種のバブルだったが、規模は世界的だった。フランスでは革命運動が政権を追い詰め、アメリカでも極左のマクガバンが大統領候補になった。当時は頭の悪い学生でも「反帝反スタ」とかいえば格好よく見えたので、「おれ意識高い」と見せるために、デモに行ったのだ。

 ノンセクト・ラディカルは、思想的にはマルクス主義とはいえない。当時、社会主義国の実態は学生にも知られるようになり、それが「地上の楽園」ではないことはわかっていた。60年安保のころは、それを「スターリニズム」と批判していたのだが、反スターリニズムを自称する党派も似たようなものだった。

 だから党派をきらう学生の集まった全共闘は、アナーキズムに近かった。それを支えたのは、ベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)に始まった反戦運動の現状否定的な情熱だったが、全共闘が掲げた闘争の目的は学費値上げ反対といったプチブル的な要求ばかりで、何が実現すれば闘争に勝利したことになるのか、彼らにもわからなかった。

 ただ街頭デモで機動隊と闘うことには、スポーツのような快感があった。最盛期には、日比谷公会堂を埋め尽くす数千人の群衆が集まり、これだけいれば何かできるのではないかという気分もあった。しかし肝心の何をするのかが、はっきりしなかった。当初は「大学解体」というのが辛うじて全共闘運動の統一スローガンだったが、これも具体的に何をするのかは不明だった。

 60年安保のときと違うのは、貧しさがモチベーションになっていなかったことだ。それは当時もっとも熱心に読まれたマルクスのテキストが『経済学・哲学草稿』だったことでもわかる。ここで彼が論じたのは、労働者の疎外だった。それは世界的にマルクスの初期の文献が発掘されて研究が進んだという面もあったが、もっと大きいのは『資本論』でマルクスが予言した労働者の窮乏化という現象が起こらなかったことだ。

 戦後しばらくは日本も発展途上国に近い状況にあり、飢えと貧困を克服することが何よりも切実な欲求だった。資本主義は、限られた富を資本家が独占するシステムとして憎まれ、社会主義は「無政府主義的な」資本主義に代わって計画的に経済を運営することによってすべての人々を豊かにする経済システムだと考えられた。

 しかし60年代後半までには、そういう幻想も消えていた。労働者が不満をもったのは賃金ではなく、工場の単純労働で「疎外」されているという気分だった。これはヘーゲルやマルクスの「本質の対象化」という意味のEntfremdungとは違うのだが、世界的にそういうロマンティックな意味で使われるようになった。

 この時期にスターになったのがマルクーゼやハーバーマスなどのフランクフルト学派で、マルクーゼは資本主義を「寛容的抑圧」の体制と規定し、それに反逆する学生を支援した。彼らも既存の社会主義は批判しており、具体的な未来像を描いていたわけではないが、「資本主義も社会主義も人間疎外だ」という時代の気分には合致していた。

 しかしアナーキズムは、その定義によって組織として持続することがむずかしい。全共闘の中でも中核や革マルなどの党派が分派活動をやり、それに反発するノンセクトが離反して、1969年にピークを記録した全共闘運動は、5年もたたないうちに消滅した。

 私が大学に入ったのは、この学生運動の衰退期だった。キャンパスで白昼に殺人事件が起こり、犯行声明まで出ているのに、警察は家宅捜索もしなかった。公安は、明らかに極左が内ゲバで自滅するのを放置したのだ。彼らのねらい通り、内ゲバの激化とともに極左勢力は急速に衰退した。

◆公害反対運動の心情倫理

 70年代以降は、連合赤軍のように少数の極左が出る一方で、大部分の学生は戦線を離脱し、「ノンポリ」化が進んだ。そういう中で、新左翼のよりどころは公害反対運動になった。公害は資本主義のもたらす必然的な悪であり、公害病患者はプロレタリアートに代わって左翼のアイコンになった。

 しかし新左翼の運動そのものは世界的に退潮期に入ったので、運動の主役はマルクス主義者というよりはエコロジストだった。彼らの思想的な背景はさまざまだが、反企業的な面は新左翼を継承していた。

 中西準子は、日本の反公害運動の草分けだ。宇井純の弟子で、高木仁三郎などと同じ第二世代である。70年代の反公害運動は、今よりはるかに困難だった。そもそも公害というのがよく知られていないうえに、情報が出てこない。役所も企業をかばい、民放も新聞もスポンサーに遠慮してほとんど伝えなかった。

 参議院議員までつとめた共産党員の子として生まれ、マルクス主義の影響を受けた中西は、東大の助手時代に反公害運動に身を投じ、その結果として23年間、助手を続ける。しかし反対だけでは何も変わらないと気づき、流域下水道に代わって小規模な「いい下水道」を提案する。これが藤沢市などに採用されて、日本の下水道は大きく変わった。

 しかし小規模な下水道でも、ごく微量の発癌物質は残る。それをどうしようか思い悩んでいるとき、中西は1987年にアメリカの議会図書館で「発癌リスクの許容度」のデータを見てショックを受ける。それまでの「安全管理」は、死者をゼロにすることが目的で、一定の死亡率を許容することはありえなかったが、これを機に彼女は「リスク」という概念を日本で広めようとする。

 しかし反対派は彼女を「体制側に転向した裏切り者」と批判し、離れていった。彼女はその後、横浜国立大学や産業技術総合研究所で、日本で初めて「リスク」と名のついた研究組織をつくり、さまざまなリスクを定量的に調査する。チェルノブイリ事故の現場も調査し、最大のリスクは強制退去による生活破壊だったことを知る。

 流域下水道は環境に悪いばかりでなく、きれいな水と汚水を混ぜて処理するので効率が悪く、流域全体をつなぐインフラに莫大なコストがかかる。汚水だけを個別に処理する中西の方式のほうがコストが安いので、全国の市町村が彼女の提案を受け入れ、小規模下水道が普及した。工場も「下水」に混ぜて流すのではなく「汚水」として管理するため、環境基準を守るようになった。

 純粋な「汚染ゼロ」の心情倫理を主張した人々は何も変えられなかったが、汚染のリスクを最小化した中西は日本の下水道を変え、環境を改善したのだ。運動の目的が政府や大企業を糾弾してストレスを解消することならゼロリスクを叫んで原発を止めるのが気持ちいいだろうが、その代わりに石炭火力を焚いたら環境汚染は悪化する。

 行政も企業も環境汚染を最小限にしたいとは思っているが、「リスクをゼロにしろ」といわれても、ビジネスをやめるわけには行かない。結果的には絶対反対の運動は無視され、社会を変えることはできないのだ。

《PHP新書『戦後リベラルの終焉』第9章より》


◇池田信夫(いけだ・のぶお)
〔株〕アゴラ研究所所長、SBI大学院大学客員教授、学術博士(慶應義塾大学)
1978年東京大学経済学部を卒業後、NHKに入社。報道番組の制作に携わり、1993年に退社。1997年慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科博士課程を中退。国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現職。日本を代表するブロガーとして積極的な言論活動を展開している。著書に『資本主義の正体』(PHP研究所)、『原発「危険神話」の崩壊』(PHP新書)、『朝日新聞 世紀の大誤報』(アスペクト)、『日本人のためのピケティ入門』(東洋経済新報)他多数

 全面講和から安保反対、反原発運動、そして今の国会前安保法案反対デモに至るまで、日本の左翼は理想主義的なスローガンに終始し、保守陣営への対案を示してこなかった。

戦争直後の国際状況であれば、憲法九条も日本の選択肢として、けっして荒唐無稽ではなかったかもしれない。しかしながら、吉田内閣以降、与党も野党も政治家は選挙区や業界に対し結果に責任を負わないで美辞麗句を並び立ていい顔をして、不人気なことを役所や官僚にやらせる仕組みになってしまったのである。

そんな国民に迎合する国会議員が憲法を改正できるわけがなく、日本はオール野党の無責任な国として、安全保障をはじめとする国家の根幹にかかわる重要なことを政治家も国民も真剣に向き合ってこなかったのだ。

日本の保守主義とは何だったのか?
p66-69
憲法を改正することは悪くないが、それは今でもそれほど大きな問題なのだろうか。終戦直後に日本が絶対平和主義の憲法をつくったのは「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の押しつけ」ではない。「第二次夫戦が最終戦争で、枢軸国がなくなればもう戦争は起こらない」というのが、丸山眞男から石原莞爾に至る幅広い日本人の認識で、憲法改正のときも第九条にはほとんどにべ対がなかった。

 しかし一九四八年ごろから冷戦が始まり、日本でもレッドパージなどの「逆コース」で、岸信介などの戦犯容疑者が公職に復帰する。これに反対する「護憲勢力」が左翼の中心となり、吉田茂はこれを利用して軽武装で軍事費を節約した。彼は平和主義者ではなく、憲法第九条は日本を警戒するアメリカやアジア諸国に対する「間近な政治的効果に重きを置いたもの」たった、とのちに回想している。

 しかし結果的には、この吉田ドクトリンが、戦後の日本の方向を決めてしまった。そのコアにあったのは、米ソが連合国として戦ったポツダム体制だった。ここでは日本を徹底的に無力化するために軍帽を奪い、共産党や労働組合を育成して民主化することが最優先の課題だった。これが安倍首相の敵視する「戦後レジーム」だ。

 冷戦が始まるとポツダム体制は崩れ、日本はアメリカの同盟国になったが、それでも自民党は政権党でありながら憲法改正をめざす「異端」で、野党は憲法を守る「正統」だというねじれた関係が、ずっと続いてきた。一貫して少数だった野党が憲法を守ることができたのは、朝日新聞に代表される護憲勢力の力が大きい。

 一九五〇年ごろに寿命が終わっていた体制を吉田が延命し、自民党内のハト派や「全面講和」を求める左翼が守り、絶対平和主義が日本の国是になってしまった。日本は実質的にはアメリカと一体で核武装したが、国内的には「戦争放棄」の建て前を崩さなかった。だから戦後七十年たって、戦後レジームの柱だった朝日新聞が崩壊する影響は小さくない。

 ポツダム体制も冷戦も終わったあと、世界経済では先進国と新興国の対立が深まっている。特に政治的にもプレゼンスを増す中国をどう扱うかが厄介な問題だ。かつて支配者と被支配者の立場にあり、冷戦では同盟国に準ずる位置にいた韓国がどっち側に入るかは意外に重要だが、慰安婦騒動では儒教ブロックの愚民国家であることを証明した。

 安倍首相が「戦争をしたがっている」とか「ヒトラーだ」という類の話があるが、良くも悪くも彼にはヒトラーのような信念も指導力もない。憲法改正は、今では政治的スローガンとしてもほとんど意味がない。

 自民党は「保守主義」の党だといわれるが、彼らが体系的な保守主義の教典をもっているわけではない。右派の論壇誌を読んでも、慰安婦問題と南京事件と靖国神社の話が繰り返さ九ているだけで、憲法改正以外に積極的な政策はほとんど書かれていない。自民党の保守とは英米的なconservativeではなく、単なる現状維持なのだ。

 その保守は国家権力を必要とするものではなく、近世までの日本人は狭い村のなかで掟を守って生活してきた。近代以降、「大きな社会」に統合されるなかで、日本は君主制を輸入し、昔からいた天皇をそこにすえた。しかしそれは西洋的な君主とはまったく違う空虚な記号だから、天皇家である必要さえない。

 戦後の保守勢力は「憲法改正」という無内容なスローガンを中心にすえ、野党は「憲法を守れ」という以外の政策をもたないことで自民党の長期政権を支えてきた。自民党の長期政権を支えた最大の味方は、無能な野党だったのである。

反原発運動や朝日新聞を痛快にぶった切り池田信夫節が炸裂する本書であるが、
変節漢「清水幾太郎」、「大江健三郎」「内田樹」「孫崎享」「白井聡」「小熊英二」も痛快にぶった切っている。

清水幾太郎の覇権と忘却
p128-130 
集団的自衛権をめぐる騒動は、六〇年安保に似ている。当時も安保条約なんてほとんどの人は知らず、新聞が「アメリカの戦争に巻き込まれる」という不安をあおって騒ぎを作り出したのだ。最初は一部の学生・知識人にとどまっていた運動が、一九六〇年六月の国会通過の数力月前から、急に盛り上がった。そのきっかけが、全学連主流派(ブント)の国会突入だった。

 清本幾太郎は、六〇年安保の主人公だった。今では忘れられた人物だが、当時は「今こそ国会へ」というアジテーションを発表し、全学連を支援する声明を出した。このときの騒動をのちに振り返って、清水は「何をやりたかったのか自分でもわからない」といっている。

 戦中は読売新聞の論説委員として戦争に協力し、戦後はマルクス主義に近い立場をとった清水が、六〇年安保で「進歩的知識人」のまとめ役になったのは、共産党の人気が落ちたからだ。どの時代でも、彼はつねにド役として脚光を浴びていたいという欲望から逃れられなかった。

 しかし六〇年安保が不発に終わったあと、彼は論壇の主役をはずれ、進歩派は古本隆明のように極左に流れるか、丸山眞男のようにに書斎に撤退してしまう。しかし撤退すべき本業をもたない清水は、つねに注目を浴びようと「右旋回」を始める。彼は『諸君!』の常連になり、一九八〇年に発表した『日本よ国家たれ――核の選択』で大反響を呼ぶ。

  清水の軌跡は、朝日新聞に重なる。戦時中は軍国主義だった朝日は、戦後は絶対平和主義に転向する。六〇年安保のときも、清水と同じように「安保粂約は憲法違反だ」とか「強行採決は民主主義の破壊だ」という論陣を張ったが、条約の内容にはふれなかった。それは旧安保を日本にとって有利に改正するものだったからだ。

  そして清水が『日本よ国家たれ――核の選択』を書いたころ、朝日新聞は原発推進の論陣を張る。これも動機は同じだ。「革新陣営」の賞味期限が切れ、「現実派」のほうが受けるようになったからだ。このころは石油危機の衝撃もあり、大江健三郎まで含む多くの人々が「原子力の平和利用」に希望を見出していた。

  もし清水が生きていたら、今ごろ「原発ゼロ」の論陣を張っていることは確実だ。その動機は、原発推進から大転換を遂げた朝日新聞と同じだ。それが格好いいからである。原発が本当に危険かどうかとか、エネルギー供給がどうなるかには興味がない。彼の生き方は徹底したマーケティングだった。中身が正しいかどうかより、その入れ物が売れるかどうかが彼の関心事であり、つねに新しい包装紙を求め続けたのだ。

 大江健三郎という病
p131-134
  大江健三郎と鎌田慧が二〇一五年の三月十日に記者会見し、「日本の政治家には事故に対する反省や再出発という意思がまったくない」と批判した。大江八十歳、鎌田七十六歳。自分たちが科学的根拠のない放射能の恐怖をあおった反省もなしに開き直る進歩的文化人も、この二人の老人しかいなくなったようだ。

  大江は、終戦直後に愛媛県の農村で聞いた新憲法の感動をいまだにもち続けている「大きな子供」である。彼は、沖縄の慶良間守備隊長だった赤松嘉次元大尉の遺族から、名誉毀損訴訟を起こされた『沖縄ノート』で、次のように記す。

新聞は、慶良間諸島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶亡れる男[赤松元大尉]が、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。[中略]かれは二十五年ぶりの屠殺者と生者残りの犠壮者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にどっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想までもいたちえたであろう。(『沖縄ノート』P208-211)

 といった独特の悪文で、たった一つの新聞記事をもとにして、赤松大尉を(ナチの戦犯として処刑された)アイヒマンにたとえて罵倒する妄想が八ページにわたって延々と続く。この事実関係は、一九七三年に曽野綾千加現地調査を行なって書いた『ある神話の背景』でくつがえされた。赤松大尉は住民に「自決するな」と命じていたことが生存者の証言で明らかにされ、軍が自決を命じたと申告したのは遺族年金をもらうための嘘だったという「詫び証文」まで出てきたのだ。

 にもかかわらず、大江と岩波書店は、それから三十年以上もこの本を重版してきた。彼らの人権感覚は、どうなっているのだろうか。訴訟に対しても、彼らは「軍が命令を出したかどうかは本質的な問題ではない」などと逃げ回っている。これは慰安婦について事実関係が反証されたら「強制連行は本質的な問題ではない」と論点をすり替える朝日新聞と同じだ。

 一審の大阪地裁は「軍の命令があったと証拠上は断定できないが、関与はあった」という理由で原告の申し立てを退けた。これは「ノーベル賞作家」に配慮した問題のすり替えである。原告は赤松大尉が集団自決を命令したかどうかを問うているのであって、軍の関ソの有無を争ってはいない。軍の関与なしに手榴弾を人手することは不可能である。

 二審判決も事実関係を曖昧にし、命令があったかどうかはわからないが大江が命令を「真実と信じる相当の理由加あった」という理由で、出版を差し止めるほどの事由はないとして控訴を棄却した(最高裁で確定)。確かに出版差し止めというのは、民主主義国では軽々に認めてはならないが、原告が差し止め訴訟を起こしたのは、大江側か記述の修正をしなかったからだ。

 裁判を通じて明らかになったのは、赤松大尉は住民を「屠殺」するどころか、集団自決を思いとどまるよう伝えていたということだった。裁判では思わぬ事実も出てきた。大江を支援する先頭に立っていた金城重明牧師(元沖縄キリスト教短大学長)が、渡嘉敷島でゴボウ剣で数十人を刺殺したことを法廷で認めたのだ。こうした集団的な狂気が、どうして生まれたのかを追究するのが作家の仕事だろう。

 戦争は軍部が暴走して起こしたもので、国民は無垢な被害者だという大江の幼稚な歴史観は、軍はすべて悪だという「平和憲法」的な思い込みでしかない。集団自決をもたらしたのは軍ではなく、人々を駆り立てる空気だったのだ。旗を振って戦勝を祝ったのは国民であり、それを積極的に煽動したのは新聞だった。彼らは戦後も解散させられることなく、責任を軍に押しつけてみずからの戦争犯罪に口をぬぐってきたのだ。

壊れゆく内田樹
p134-137
 かつて進歩的文化人の総本山だった東大法学部の影加薄くなってから、マイナーな大学教授か代役をつとめるようになった。その代表が、内田樹(神戸女学院大学名誉教授)だろう。

彼の文章には特徴がある。「グローバリズム」やら「国民国家」とやらについて批判的に語ることと、初歩的な誤りがたくさんあることだ。たとえば、ブログで彼はこう書く。

グローバル化に即応した「歴史の古今換え」が進行している。「慰安婦問」や「南京事件」について日本を免罪しようとする「自虐史観論者」たちの語る歴史がそれである。
 彼らが「慰安婦制度に軍部は関与していない」とか「南京事件などというものは存在しなかった」ということをかまびすしく言い立てるのはヽその主張が国際的に認知される見通しがあるからではない。全く逆である。

 この短い文章に、大きな間違いが三つもある。

第一に自虐史観とは「自国の歴史の負の部分をことさら強調する歴史観」を保守派の人々が批判するときに使う言葉であり、内田はその意味を真逆に取り違えている。

 第二に「慰安婦制度に軍部は関与していない」などと主張する人は、どこにもいない。政府見解でも、軍が慰安所の設置などに関与したことは認めている。たぶん内田は、関与と強制運行の区別もつかないのだろう。

 第三に「南京事件は存在しなかった」と主張している人もいない。南京で軍民の殺害事件があったことは歴史的事実である。問題はその規模を中国が「三〇万人」というのは、当時の南京市の人口が二五万人だったことから考えてもありえない、という人々がいるだけだ。

 「壊れゆく日本という国」という記事では、彼は「『国民国家としての日本』が解体過程に入った」というのだが、その国民国家を壊しているのは「グローバル企業」だといい、トヨタを槍玉に挙げる。

  トヨタ自動車は先般、国内生産三〇〇万台という。これまで死守してきたラインを放棄せざるを得ないと報じられた。国内の雇用を確保し、地元経済を潤し、国庫に法人税を納めるということを優先していると、コスト面で国際競争に勝てないからであろう。「中略」
  わが国の大企業は軒並み「グローバル企業化」したか、しつつある。いずれすべての企業がグローバル化するだろう。繰り返し言うが、株式会社のロジックどしてその選択は合理的である。だが、企業のグローバル化を国民国家の政府が国民を犠牲にしてまで支援するというのは筋目が違うだろう。

 この「政府が国民を犠牲にしてまで支援する」というのは、彼によれば大飯原発の再稼働のことらしいが、トヨタに電力を供給しているのは中部電力だから大飯とは無関係だ。経産省の試算によれば、原発停止によって三年半で一〇兆円以上の国富が失われた。内田はグローバル企業は「原発を再稼働させて製造コストを外部化」し、国民に負担させているのだというが、これは逆だ。

 彼はトヨタの納税額を調べたことがあるだろうか。トヨタは二〇一四年三月には七六七八億円の法人税を払った。これは日本企業のトップであり、国税収入の一.五パーセントにのぼる。むしろ投資家からは、トヨタが義理堅く国内で納税し、グローバル化か足りないことが批判されているのだ。カネは印税のように降ってくるのではなく――グローバルだろうとなかろうと――企業で働いている人々が稼いでいるのだ。



日本はアメリカの属国か
p137-140
 古賀茂明と並んで左派の元官僚としてテレビによく登場するのが、孫崎享である。彼は元外交官だが、「アメリカ陰謀論者」として知られる。ベストセラーになった『戦後史の正体』は「戦後の日本の外交・経済政策はすべてアメリカの陰謀で決まり、それに逆らった首相はすべて失脚した」という陰謀史観である。
                    
 対米従属に徹した吉田茂が長期政権を維持した一方、GHQに抵抗した片山哲や芦田均などの政権は短命に終わったいしかしこれは占領時代なのだから、ある意味では当然だ。安保条約の本当の目的は、条約そのものより同時に締結された日米行政協定(現在の地位協定)にあったという。

 これは日本国内の基地を米軍が自由に使用でき、日本が撤退を求めても撤退しなくてよいこと、米兵の裁判は米軍が行なうことなどを定めた協定で、その米軍の権益を守るのが安保条約だった。最初の条約は米車の駐留を認める一方で日本を防衛する義務のない不平等条約だったが、それを改正したのが一九六〇年の新安保条約である。

 ここまではいいのだが、安保を改正した「自主独立派」の岸信介が反政府デモで退陣したのはアメリカの陰謀だという。これは残念ながら、岸がCIAから多額の資金援助を受けた工作員だったという事実と矛盾する。

 ロッキード事件が日中国交を進めた田中角栄を倒すアメリカの陰謀だったという話も、逆にCIAの失敗だったことがCIA文書で明らかにされている。CIAが日本の政権をあやつろうとしたことは事実だが、彼らは孫崎が信じているほど全知全能ではないのだ。

 それ以降の話に至っては支離滅裂な憶測ばかりで、特に孫崎が経済政策を理解していないのは重症だ。TPP(環太平洋パートナー協定)もアメリカの陰謀だというが、私か討論会で「陰謀をめぐらしている具体的な根拠を示せ」といったら孫崎は何も答えられなかった。

 彼は鳩山由紀夫元首相の「東アジア共同体研究所」の理事だが、中国の脅威か増すなかで、そんな共同体が実現する可能性はゼロである。地位協定があるかぎり日本が属国だということは事実だが、日米同盟を破棄して、今の憲法で十分な防衛力が構築できるのか。

 サンフランシスコ体制で植えつけられた平和ボケのおかけで、日本では左翼も右翼も戦争にリアリティをもてない。残念ながら、今の日本がアメリカから独立することは困難で危険である。そこには空想的平和主義か明治ナショナリズムかという感情的な対立しかないからだ。

 白井聡の『永続敗戦論』は、団塊世代の被害妄想が団塊ジュニアの世代まで「遺伝」していることを示している。全体の論旨は目新しいものではなく、『戦後史の正体』と同じ被害妄想史観である。実質的な占領統治が続いているというのは多くの人の歴史認識であり、他ならぬ安倍首相がそれをもっとも強く意識している。彼のいう「戦後レジーム」は、白井のいう『永続続敗戦状態」とほぼ同じだ。

 それは白井や孫崎には屈辱だろうが、多くの日本人はアメリカの核の傘にただ乗りして平和と繁栄を享受してきたいむしろ問題は、この平和加いつまで維持できるのかということだ。白井は安倍首相を始めとする右派が憲法を改正しようとしてアメリカとの対立が深まるというが、これは逆だ゜アメリカは極東の軍事的負担を軽減するために、集団的自衛権や軍事力強化で日本に自立を求めているのだ。

 ただ日米同盟が終わるリスクが大きいという白井の予想は正しい。そのとき彼は日本が憲法を改正して、また対米戦争をやるという妄想を抱いているようだが、これも逆だ。今最大のリスクは北朝鮮の政権崩壊であり、そのとき起こりうる「第二次朝鮮戦争」に対して、日本はほとんど準備ができていない。彼はこういう「有事」のリスクにまっかにく関心をもたないで「アジアヘの侵略責任」を語っている。


まあ、左翼の論客は・・・クズだということだ・・・

SEALDSはどうせ数年内に内ゲバをはじめるだろうし、反安倍を叫んでいたホームの老夫婦は死んでも**は治らないだろう。


我々保守派は、憲法改正だけがスローガンではなく、日本と世界の未来に対し、我々はいかに振る舞うべきか、考えようではないか!

戦前の保守派が目指した、大アジア主義の復活は単に地理が近いだけで、華夷秩序から抜け出せない支那や朝鮮半島と日本は運命を共にするべきではない。

日本の自主独立も
>サンフランシスコ体制で植えつけられた平和ボケのおかけで、日本では左翼も右翼も戦争にリアリティをもてない。残念ながら、今の日本がアメリカから独立することは困難で危険である。そこには空想的平和主義か明治ナショナリズムかという感情的な対立しかないからだ。

今のところ困難である。

だが、米国はあくまでも国益を重視し日本を利用しようとするわけであり、日本もその米国を利用しなければならない。そのエゴが合致するような対等な日米同盟が当面目指すべき国体であろう。

親米ポチ的な、親米保守ではない保守、それを消極的親米保守と私は呼ぶ。
保守は何を守るのか?けっして現状維持ではなく、日本的な価値観(時代と共に遷ろうのだが・・・)日本的な美徳とされるもの、世界に尊敬される日本を守る。

けっして守旧派ではなく、つねに改革する保守、いわばプログレッシブ進歩的な保守、プログレッシブ保守である!






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 NHKの籾井勝人(もみい・かつと)会長が25日の就任会見で、慰安婦問題について、「当時の戦争地域には大体つきものだったと思う」「(問題は)日韓基本条約で国際的に解決している。蒸し返されるのはおかしい」などと語ったことで、メディアなどから非難されている。

私はそもそも、日本軍が強制連行して売春婦にしたとか、性奴隷にしたとかは完全な事実無根、濡れ衣であり、日韓基本条約で解決した、しないといった問題ではないと思う。籾井氏の「戦争地域には、大体つきものだった」との発言も基本的に正しく、私は「良く言った」「偏向報道が目立ったNHKにやっと真っ当な会長が現れた」と評価したい。

先の戦争当時は、公娼制度は合法で、慰安婦は日本兵の数十倍もの高給を得ていた。これは、大戦中の1944年、米軍が慰安婦から聞き取り調査した報告書(ワシントンの国立公文書館保管)でも明らかである。

籾井氏は「コメントを控えたい」と避けようとしていたが、反日メディアが巧妙に仕掛けた罠にはまり、個人の見解として発言していた。「会長としてであれば発言は取り消す」と言っていたが、私は発言を取り消さずに、堂々と主張を貫くべきだったと思う。

反日メディアや反日勢力は、このことで会長辞職を求めているが、NHK改革のためにも、日本のためにも絶対に辞めてはならない。

東京都知事選(2月9日投開票)でも、メディアには疑問を感じる。

各社の情勢調査では、舛添要一元厚労相(65)がリードし、細川護煕元首相(76)が続き、元日弁連会長の宇都宮健児氏(67)と、元航空幕僚長の田母神俊雄氏(65)が追う展開と報じている。

ただ、こうした調査は固定電話を対象にしているため、回答者は一戸建てに住み、福祉に関心が高い高齢者が多く、本当の世論を反映していないのではないか。現に、回答者に若者が多いとされるネット調査では、田母神氏が断トツの支持を得ている。

現在、映画『永遠の0』が大ヒットしている。私も観たが、上映終了後、会場が明るくなると、多くの若者が涙を流していた。スタンディングオベーションが起きた映画館もあるという。「愛する人を守る」「国を守る」ことへの若者の意識は変わってきた。

若者の未来を支える経済政策も、都知事選の争点だ。

2013年の貿易収支は、過去最大となる11兆4745億円の赤字となった。原発停止による液化天然ガス(LNG)などエネルギー関連の輸入が膨らんだことが大きい。日本経済を復活させるためにも原発再稼働は待ったなしだが、田母神氏以外の有力候補者はすべて「脱原発」である。

細川氏に至っては「脱原発」に加えて、「脱成長」まで訴えていたが、正気なのか。若者から雇用を奪うつもりなのか。

都知事選では、日本の国益に沿った真っ当な政策を掲げ、2020年東京五輪を立派にやり遂げられる人物を選ぶべきだ。私は、安倍晋三政権と政策で一致し、治安や大規模災害に対処する能力のある田母神氏しかいないと思っている。


【慰安婦問題】
慰安婦は、今のモラルでは悪い。僕はいいと言っているのではない。しかし、そのときの現実としてあった。この2つを分けないと分かりづらい。個人的見解だが、韓国だけではなく、戦争地域に僕はあったと思う。ほかの地域になかったという証拠はない。ドイツにもフランスにも、ヨーロッパにはどこでもあっただろう。この問題は、韓国が日本だけが強制連行したように主張するから話がややこしい。それは日韓基本条約で国際的には解決している。それを蒸し返されるのはおかしい。
NHK籾井会長が正論を語る

戦時慰安婦についてNHKの籾井勝人(もみい・かつと)新会長が、当時は他の戦争地域にもあったとし、韓国の日本非難を「日韓基本条約で解決している。なぜ蒸し返すのか」と正論を言った。そのことに関して、国内外の反日勢力が問題化させ、NHK会長を失脚を図ったというのが今回の構図ではないだろうか?

三井物産で鉱山権益買収などを手がけた籾井氏は、NHK会長に就任するにあたり、国際放送充実させ尖閣、竹島の問題を諸外国に理解してもらうためNHKの改革を早急に手を付けようと考えている。就任を要請したNHK経営員や安倍総理もNHK改革に期待している。
籾井新会長は右翼勢力でもなんでもない普通の考えの持ち主である。普通のビジネスマンの感覚だ。

普通の感覚の籾井新会長就任に危機感を抱いた反日勢力は、韓国が執拗に日本を貶める為に従軍慰安婦問題を捏造しているこの時期に、NHKが真実を暴露させることを阻止する為、明らかに失脚させようと図っている

記者会見の動画を観れば真実が明らかだ。あまりに酷い、意図的に揚げ足をとって問題化させNHK新会長籾井勝人会長を辞職に追い込もうとする意図が見え見えの会見である。質問したのは毎日新聞の臺(ダイ)宏士記者。就任会見で慰安婦問題の意見を述べよとの記者の執拗な要求に対し、「あのーコメントを控えてもダメですか」?と回答した。そのあと、朝日新聞赤田康知記者のようである。

籾井新NHK会長から問題発言を無理やり引き出した、朝日新聞が「NHK、問われる政治との距離 歴史認識・原発問題」とかなんとか、「さんご礁破壊KY事件」と朝日の体質はなんらかわっていない。
 25年前に靖国神社問題を作り、20年前には慰安婦問題に火をつけたのはほかならぬ朝日新聞であり、元々自分ででっち上げた事件を新NHK会長に質問して更に問題をこじらせようとする卑劣な行為は、許されるものではない。非難されるべきは、こういった他国の工作員記者による反日行為だ。
今回の記者会見は、朝日、毎日、読売、共同通信ら反日記者単独の謀りごととは思えない。反日勢力が共謀して、保守派のNHK会長を追い落とすことを共謀していると思う。執拗に失言を引き出そうとした記者会見は、誰の目からしても異常だ。
 新会長は性悪の記者相手に性善説で対応してしまったのが命取りだ。 その策略にまんまと引っかかってしまった。この記者が外国勢力から金銭を受け取っていないか公安当局は徹底的にマークしてもらいたい。
 


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p128-131 
日本語ローマ字化で国家解体

http://www.uniqlo.jp/uniqlock/swf/blog_small.swf?user_id=Bo4uxIuSX6BfwXZCもう一つ、文字政策も戦後システムの重要な一面です。戦前日本には常用漢字表がありましたが、戦後は当用漢字表になり、一丸八一年に再び常用漢字にもどりました。当用漢字というのは、当座用いる漢字という意味で、その前提にあったのは、日本語を最終的にはローマ字表記にするという考え方です。

日本語ローマ字化の中心になったのは東京大学の言語学教室です。戦後、日本の言語学は音韻論を主として発達しましたが、その中心になったのが服部四郎教授の言語学教室で、驚くべきことに紀要もほとんどローマ字表記でした。音韻論が中心になったのはなぜかというと、ローマ字化すると、分かち書きしなければならない。漢字仮名交りなら「これは鉛筆です」と分かち書きしないでいいけれども、ローマ字だと、korehaで切るのかko-re-haと切るのか、決めなければならない。それを音韻論で決めていこうというのです。

当用漢字は、直ぐに全部をローマ字表記にすると混乱するから「当用漢字」として定めたもので、だから字数もきびしく制限されたわけです。
本当に日本語のローマ字表記化か成功していたら、どうなっていたのでしょう。実は、いまの日本語の漢字仮名交り表記があるために、私たちには文字による情報の人手が非常にしやすくなっているのです。視覚的な把握力に優れたシステムだから、ものすごく速い時間で情報を頭に入れることができる。もしローマ字表記だったら、視覚による情報の把握度が格段に落ちることは間違いありません。

それなのになぜ漢字制限とかロ-マ字化をしようとしたのかというと、「日本人は漢字仮名交りという悪魔の文字システムを使っている。まっとうな文明国には読めないような文字を使っているから世界に反逆する思想を待ったのだ」という考えがあったのです。これは私か勝手に言っているのではなくて、言語学者の鈴木孝夫氏と田中克彦氏が『対論言語学が輝いていた時代』(岩波書店、二〇〇八年)という対談本の中で語っていることです。

「アメリカの言語学が、まったく新しい学問として日本に登場できたのは、アメリカの占領政策と深い関係があるのです。その占領政策は何かというと、日本語をローマ字書きにして、国語イデオロギーを解体しようとしたことです」「それで漢字をやめさせようという考えがあった。日本語は分かち書きしない言語だから、まず、どこに単語の切れ目があるかを知らなければならない。服部さんはこれをずいぶんやりましたよね。(略)その前提としての『音韻論と正書法』は、日本語をいかにしたらローマ字で音素表記ができるかという問題を扱っている。服部さんは結果としてアメリカの占領政策と一致する形で、方法も内容も日本にもってきた」(田中氏)。

「アメリカ軍が日本を支配するときに、とにかく日本人の書いているものが読めなければ、悪いことを言っているのかいいことを言っているのか、コントロールが利かない。だから、ほんとうはフィリピンみたいに英語を使わせれば、占領はいちばん簡単だけれど、日本語廃止論というのはあまりに現実ばなれしている。じゃ、せめて文字だけは悪魔の文字をやめてもらって、ローマ字にすれば、アメリカ人が少しは楽になる、という政策があった」(鈴木氏)。非常に説得力かおる話だと思います。こういった文化的なところから敵を切り崩していくのが、帝国主義の一番深いやり方なのです。

国家と文字システムについて、たとえばロシア語では、一九一七年のロシア革命後、三つの文字を排除しました。そのために、特殊な訓練を受けないと革命前のロシア語が読めなくなってしまった。ボリシェビキ政権、ソ連政権は、革命前の知的遺産のうち、国民にしらしめたほうがいいと思うものだけを選んで新しい文字表記で出すことにしたわけです。

中国の簡体字改革にも同じ意味があります。敗戦後の日本でもそれと似たことが起きていたのです。戦前との連続性が断たれようとしたわけです。
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韓国が“従軍慰安婦”の証拠だと提示した証拠の中に戦前の新聞広告ががあった。見ると、そこには「募集」という漢字がくっきり書かれている。 慰安所で働く売春婦は「強制徴集された」と主張された韓国が国を挙げて主張していてこの体たらく。爆笑しつつ、漢字を読めなくなった国民を哀れに思った。 


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韓国人達は歴史を忘れたというより漢字を忘れ、歴史も知らずサッカー東アジア・カップ男子日韓戦での韓国応援団の反日パフォーマンス問題で、FIFAより執行猶予中の身で“罪”を犯しながら、それを相手のせいにし、そっちの方が重罪だと声高に叫ぶ独善的な姿勢には、まったくうんざりだ。こういった歴史を知らず歴史を妄想する韓国人を生んだのは漢字を排除しハングル表記にし、漢文で書かれた自国の歴史を読めなくなった影響が多分にあると思う。日本も漢字を廃止しローマ字書きにしていたら隣の民族のように白痴になっていたかもしれません。

p196-198
AVを撮られてインジヤ(隠者)となった女の子の話を書いている。そこだけゴシック活字で異質な章にしているのですが、私か去年その本を梨本さんから寄贈されたときは意図がわからなかった。実は、人は人を実験材料にしてはいけない、それをやるとアウシュビッツや七三一部隊と同じような構造で、大人の世界の悪を知らない未熟な女の子をアダルトビデオに勧誘することは、魂を殺す作業に荷担することになると言っていたのです。

非常に説得力があると思いました。アダルトビデオで働いて傷つき、トラウマを抱えて一生働けなくなった女性たちが数千人単位にもなっている。実はこういう異常な事態が日本社会を弱くしているのです。

梨本さんは、自らの作品を通じて「これでいいのだろうか」と説得するというプリミティブなやり方で対抗しようとしている。こういう地道な努力が、社会を強化するのです。

同胞意識をもち、かつ民族に縛られない

新・帝国主義の時代において国家機能が強化されようとしていることはここまで述べてきました。国家と同時に社会も強化される必要があります。そのためにはどうすればよいか。

そこでまず回復しないといけないのは、人間の隣には人開かいるという、同胞意識です。日本に生まれてきている人に、一人も無意味な人はいない。そういう相互関連の中で生きているという皮膚感覚を持てるかどうかが大切で、現在の閉塞状況を一人ひとりが生きのびるためには、自分のネットワークをつくることが重要です。

そして国家は悪いものだけれど、だからこそ大切にする。こういうことは弁証法的な関係になるものです。政治家に対しても、信頼できないからこそ、きちんと対応するというふうにしなければならない。そういう逆説によっていろいろなものを繋いでいくことです。

この場合、日本で生まれたということが大事なのです。世界市民では難しい。人間は抽象的な存在ではないのですから、具体的な場所を離れてはありえない。そこで一人の人間が、たとえば大阪人というアイデンティティと、関西人というアイデンティティと、日本人というアイデンティティと、それぞれ密度が違ういろいろな複合域を持っているわけです。

その中で気を付けなければいけないのが、民族というアイデンティティで、これは学術的には二百数十年の歴史しかない概念だと知ることです。しかし、それがあたかも原始から永遠に続くもののように見えている。その二重性を認識しておくのが大事です。民族という概念は、いまもっとも流行っている「宗教」であって、しかし渦中にいるとそのことが見えなくなりがちです。

われわれは通常、さまざまな概念を巡って演技をしているのですけれども、ときには舞台の上で本気になって命まで投げ出す人間もいる。それをさせるのが「民族」という概念なのだと知っておくべきです。

ただし同胞の「絆」と言っても、これも抽象的な話にしていては駄目で、仕事や勉強などで具体的に助け合わなければいけない。「真理は具体的」なのですから、働いて飯を食って行く中で仲間を見つけることです。

p205-207
読書人階級を再生せよ

そこで私か必要を強く感じるのが、階級としてのインテリゲンチャの重要性です。かつての論壇、文壇は階級だったわけです。編集者も階級だった。その中では独特の言葉が通用して、独特のルールがあった。ギルド的な、技術者集団の中間団体です。国家でもなければ個人でもなく、私的な利益ばかりを追求するわけでもない。自分たちの持っている情報は、学会などの形で社会に還元する。

時代の圧力に対抗するにはこういう中間団体を強化するしか道はない。なんでもオープンにしてフラット化すればよい、というものではありません。

新書を読むような人はやはり読書人階級に属しているのです。ものごとの理屈とか意味を知りたいという欲望が強い人たちで、他の人たちと少し違うわけです。読書が人間の習慣になったのは新しい現象で、日本で読書の広がりが出てきたのは円本が出版された昭和の初め頃からでしょうから、まだ八十年くらいのものではないですか。円本が出るまでは、本は異常に高かった。いずれにせよ、現代でも日常的に読書する人間は特殊な階級に属しているという自己意識を持つ必要があると思います。

読書人口は、私の皮膚感覚ではどの国でも総人口の五パーセント程度だから、日本では五、六百万人ではないでしょうか。その人たちは学歴とか職業とか社会的地位に関係なく、共通の言語を持っている。そしてその人たちによって、世の中は変わって行くと思うのです。

それができなければ、資本主義の論理にやられてしまう。資本はマルクス経済学から見るとある意味では簡単で、社会の外部的なものです。商品交換という、本来共同体と共同体の間で行われていたことが、共同体の内部に浸透してきたわけです。そして共同体内を徹底的に変えてしまって、人間の存在そのものを破壊するシステムになってしまった。これが資本主義です。この現実をマルクスは百五十年前に明らかにしています。

しかし資本主義に対して即自的に反発するナチス経済学や皇道経済学のようなもの現下のTPP亡国論などはいけません。あるいは、経済学的ロマン主義と呼ぶべきかもしれませんが、この人たちは現代の魔術師です。ルーマニアで二〇一一年末、魔女が逮捕されるという事件がありましたが、あれと同じで、信じるとは救われるということで、予言をしたり、呪ったりする。経済学にはこうした魔術がしのびこんできやすいのです。

だから私たちは、知的に鍛えておかなければならないのです。
経済学は科学だといっても、もともと近代の科学は魔術の発想から始まった。科学は、技法を習得した人が手続き通りにやれば、誰でも同じ結果になるわけです。実は呪いも、丑の刻参りは丑の刻にしきたりに従って五寸釘を打てば必ず呪いをかけられるわけで、近代科学の発想と同じです。

キリスト教がなぜ魔術(=近代科学)を禁止したかといえば、神様は気まぐれで、私はありとあらゆるものだと言って突然怒り出したりするのであって、理屈で測れるものではないからです。したがって人間が神について考えるのではなくて、神の言うことを虚心坦懐に聞くことが重要になります。その転換が」九一八年の『ロマ書』で神学者カール・パルトが言った神の再発見です。近代的な知性の限界をどう捉えるかという問題です。

宗教学ではなく神学が大切なのです。宗教学というのは宗教を観察の対象として見るむので、むしろ無神論、唯物論の系譜ですが、対して教学や神学は宗教に対して主体的なコミットメントをするもので、いまはこちらが必要です。
本は日々読むべきだと思うのです。空気を吸い、ご飯を食べるのと同じぐらい脳にとって大切なメインテナンスだと思うのです。

私は何度も死にたくなるよな挫折感を味わったと思っています。しかし、日々の読書によって何度救われたかわかりません。ある種読書は私にとっての宗教かもしれません。生きていくのに必要な人間の叡智は読書からだと私は確信しています。

その1 その2 その3 その4 その5
 
 





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p126-128
日米安保という「国体」

戦後日本のシステムは、どういうものだったのでしょうか。

私は、戦前の「近代の超克」の裏返しだと見ています。大東亜戦争は、日本ではイデオロギー的には「近代の超克」をかけた思想戦だと考えられた。近代をつくったヨーロッパを思想的に乗り越えるのだ、ヨーロッパ的な近代を乗り越えるのだというイデオロギーがあった。それを裏返していうと、あの戦争に負けたのだから、近代に敗北したのだと日本人はとらえたわけです。

ではその後で出て来たものは何かというと、まずは合理主義。非合理な精神主義が日本をおかしくしたのだから、合理主義に転換しなければならない。それから、生命至上主義。命よりも国家が大切だというようなイデオロギー教育を徹底的に行なったから日本人はああいう無謀な戦いをしたというわけです。

次に個人主義。国家や組織というものの全体が重要であって個人は押さえつけないといけない、という発想があの無謀な戦争を起こしたのだから、そこを変えなければならない。この三つの主義が絡まり合って戦後目本の在り方が基本的に決まっていったわけです。

この、合理主義、生命至上主義、個人主義の三本立てで行くとなると、力の変素がほとんどありません。しかし国家本来は、絶対的に「力」によって成り立っています。

では実際には力の要素がどうなっているのかというと、日米安保条約です。一九四五年、連合軍が日本を占領したときに出した神道指令の中で、日本軍国主義イデオロギーを構成した書物として、文部省が編集し昭和十二年から配布した『国体の本義』を禁止しました。ところが一九四九年、ハーバード大学出版局からこの本の英訳が出ています。その英語の序文では、これが日本人の考え方の根本にあるものだとして、アメリカの日本専門家に読ませたのです。日本では禁止されたため忘れられており、二〇〇九年末に私か産経新聞出版から『日本国家の神髄』という題で全文復刻を含む解説書を出版しました。

日本を占領し『国体の本義』を禁止したアメリカが、日米安保という「力」を提供した。日本に国体というものがあるとするならば、国体の一部に日米安保条約が注入されたわけです。

だから日本の保守派は、親米保守になってしまった。アメリカとの関係を崩すことに、保守陣営は形而上的な恐れをもっている。それは戦後システムの中で、「力」の部分で安保条約という細い線に頼り、それによって日本の国体がぎりぎりで維持されている状況だからです。
http://www.uniqlo.jp/uniqlock/swf/blog_small.swf?user_id=Bo4uxIuSX6BfwXZC
私は消極的親米保守を標ぼうしています。
米国が行った犯罪的行為を知り許した上で、米国と同盟すべきだと考えています。

日米安保体制は現在日本において基礎的な政治の原則である「国体」となっていると考えるべきではないだろうか。日本の保守本流が、憲法改正に賛成し安全保障条約を護る理由が日米安保が国体であるからだという佐藤優氏の慧眼に感服した

p131-136
天皇のビデオメッセージと首相公選制

しかし、いかに断絶されようとも、その奥には国家の生き残り本能というものがある。それが露呈したのが、二〇一一年の三月十一日、東日本大震災のときでした。

力の要素は日米安保条約に全部預けておいて、それ以外は合理主義的な計算と、生命至上主義と、個人の生活が一番大事だという個人主義でやっていけばいいという現行のシステムでは、日本の国家は生き残れないということが明白になった。あの津波の被害からの緊急避難と、福島第一原発の事故処理に当たって、日本国家の根本である「国体」が、静かな形で動き出したのです。

それが三月十六日の天皇陛下のビデオメッセージです。
「自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々、諸外国から救援のために来日した人々、国内の様々な救援組織に属する人々が、余震の続く危険な状況の中で、日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います」 と天皇陛下は語られました。

ここで自衛隊、警察、消防、海上保安庁の名前を具体的に出したことの意味は大きい。これらの職に就いている人は、国家そのものです。国際基準でいうと、無限責任を負う。職務遂行のために命を捨てることもあるべき人だちなのだと想起させて、この危機から抜け出すためには、命を捨てる気構えが必要なのです、と天皇陛下は訴えられたわけです。

これはいままでの基準で考えれば、明らかに国政に関する権能に属するわけで、憲法規範から逸脱しています。しかし、誰もそのことに違和感を覚えないし、異議申し立てもしませんでした。そしてその状況に関して、現職の川島裕侍従長が「天皇皇后両陛下の祈り」「天皇皇后両陛下 被災地訪問の祈り」という謎解きを二回にわたって雑誌『文語春秋』(二〇一一年五月号、八月号)に書いた。これも異例なことで、日本国家の生き残りの動きの一つなのです。

これは天皇の絶対権力を強め、天皇陛下を中心とする形で国家が生き残っていこうとする動きですが、もう一つ、逆方向ですが、国家機能の強化を担う動きがあります。

首相公選制です。国民から直接公選された首相が、国民から信任を得て独裁的な権力を揮わないと日本国家は生き残れないとする考えです。橋下徹氏の「大阪維新の会」の維新八策にも首相公選が掲げられています。首相公選は天皇の存在と矛盾するともいわれますが、橋下氏は「いや、天皇制と矛盾しない」と言うだけで詳しい説明はありません。いまのところ場当たり的な対応で、天皇陛下との関係を深く考えていないように見えます。

(略)

方向の共和制的動き、両方出て来ている。新しい帝国主義の時代に日本という国家が身悶えしているのだと思います。

しかし私はやはり、首相が国民の直接選挙で選ばれるとなると、権力と権威をともに備え、天皇陛下の権威に抵触することになるのではないかという危惧を拭えません。橋下氏自身もこの問題は微妙だと思っているから、民主党の政治家と会ったときに、天皇は日本の元首であると明言しました。しかし、元首という言葉を使ってしまうのもまた軽率たといわねばならないのです。元首とはあくまで憲法上の規定です。憲法上の規定を天皇が存立する根拠にしてしまうと、神秘性、超越性を失ってしまう。実念論的ではありません。

私は「日本は神の国」でいいと思っています。
そして元首とは外国に向かって国家を代表する機能を持つ存在です。憲法九条の改正とも絡みますが、万が一戦争が起きた場合、宣戦布告と和平の告知をするのは元首です。戦争に勝てばいいけれども、負けたときには確実に戦争責任を問われることになります。そのとき皇統はどうなるのか。たとえ敗戦でも国体を護持しなければいけないというのが先の大戦での教訓だとするならば、国際法的な責任を問われる地位に天皇を置くのが適切なのかどうかという問題になります。しかし橋下氏の思考はそこまで及んでいないのではないか。

自民党の憲法改正案も天皇を元首と位置づけましたが、保守派の城内実衆院議員(郵政民営化反対で離党し落選をへて自民党に復帰)が激しく反対しました。彼は元外交官ですから、天皇は国の象徴であったほうが、元首であるより超越的でいいのだという、国際政治のリアル・ポリティークを知っているのです。そもそも、天皇を象徴とする現行憲法の一条から八条までは、皇室典範の部分を除いては、非常によくできていると思います。皇室典範は皇室の中の、皇統譜に出ている人たちの中の自律事項にして、法体系から外してしまうべきです。そうすれば、皇位継承の問題はすべて解決します。女性宮家の問題も、本来皇室の中で考えることであって、われわれ臣民が云々するべきではないのです。

天皇陛下は日本には絶対必要です。天皇陛下がおられないと、日本は崩壊してしまう。だから、無理に天皇を排除しようとすると、共産党の指導者が宮本天皇とか不破天皇と呼ばれるような、疑似的な天皇が出て来てしまう。権威が権力の源泉であって、絶大な権限を持つけれども、全く責任を持たないという特異点としての存在が、日本という共同体には必ず生まれるのです。

だから皇室の問題はタブーにするべきです。タブーのない社会は悪い社会です。皇室は聖域なのです。聖なるものと俗なるものは区別しなければならない。そのほうが強い日本ができる。マスコミで話題になっている雅子妃の動向などには私は全く関心かおりません。

皇室が大衆社会のなかであれこれ語られて消費の対象になるとき、知識人の一人として、言論人の一人として、語らないという形で関与することも重要だと思う。旧約聖書の「伝道の書(コヘレトの言葉)」にあるように、ものごとには語るときと沈黙するときがある。皇室に関しては、沈黙するときだと私は思います。
首相公選制は、皇室の権威を危うくする可能性が秘められていることに気が付かなかった・・・・ 今後当blogにおいては日本は首相公選制を導入すべきではないという意見に変更しようと思います。




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p44-49
「敵」をつくりだす国家

大胆に整理して言ってしまうと、中国はいまネーションービルディング(民族形成)をしているということだと思います。これまでの中華帝国の「漢人」とは異なる、中華人民共和国の「中国人」という民族が生まれてきている。これは中国に特殊な現象ではなく、近代化、産業化と民族形成は必ず八ツケージになるものなのです。そこに、極めて成熟した、あるいは老成したナショナリズムをもつ日本が対峙させられてしまっている。

ネーション・ビルディングには、「敵」のイメージが必要になります。中国は、日本を敵のイメージとして利用しているのです。これは日本にとって迷惑なことです。たとえば中ソ対立当時も以後も、ロシアを敵のイメージにする可能性が相当ありました。ところがロシアはうまくそれを回避し、ロシア以外のところへ行くように誘導したのです。

それからアメリカが敵にされる可能性も十分ありました。一九九九年にユーゴスラビアの中国大使館をNATO(主力は米)軍機が誤爆した事件の直後は、中国全土で反米デモが広がり、アメリカ領事館襲撃までありました。ところがこれも収まった。
初動段階のナショナリズムだから、どこを敵のイメージにするかは操作可能だったのです。

いまになって思うと、日本はこの段階で無策無能でした。
自分たちは悪いことをしていないのだからと油断して、あえて対策を講じなかった。そのために敵のイメージが日本に固定されてしまったのです。だから、歴史教科書の問題が解決したと思ったら靖国問題が出て来るし、靖国が終ったと思ったら尖閣問題が出て来るし、尖閣が終ったと思ったらまた南京大虐殺が出て来るしで、きりがない。この現象は`、中国のネーションービルディングが終るまで、つまり敵のイメージに依存しないでも中国人だという感覚が十分つくれるようになるまで、続きます。

ちなみに日本で、核武装論とかTPP反対とか歴史修正主義とか、真珠湾攻撃はアメリカの陰謀であったとかいう議論が出て来るのも、ねじれた形の反米主義、アメリカを敵のイメージにしようとする潜在的な動きです。

ただ日本の場合、前の戦争で壊滅的な打撃を受けたので、アメリカと戦うと国家と民族の存亡の危機を招くという危惧が徹底的に刷り込まれているから、抑制が働くのです。しかし裏返して言うと、それだけ肌に寵っているから圧力も増大するわけで、もしも日本全体を統合するほど強大な敵のイメージが必要だとしたら反米をもってくるのがいいということにもなります。

反韓国などではイメージとして弱い。その程度のナショナリズムではエリート層を動かせません。ナショナリズムは民衆の運動ではないのです。エリート層、とくに文化エリートの運動で、それがパワーエリートに波及するかどうかがカギになります。

中国の反日ナショナリズムはいま、パワーエリートのところまで達しています。その下支えになっているのは、識字率の向上だと思います。文字を読むことによって、「われわれ中国人」という意識が共有されるようになっている。文字を通じた形での支配が強くなっています。二十年前までは自分の名前は書けても新聞や雑誌を読むことは困難な農民層が圧倒的多数だった。一九九〇年以降、中国で反日が広がった背景に、実質識字率の著しい向上があると思うのです。

さらに根本的に捉えると、産業化か進んだということです。工場のマニュアルが読めないと作業ができないし、基本的な算数の訓練も、産業化に不可欠なのです。歴史的に見れば、世界で起きていることは、ほとんどヨーロッパで起きたことの反復で、産業化も中国に特殊な事情ではありません。しかし人口的、地域的に規模が非常に大きいし、インドと比べても中国は外に向かう傾向が強い。インドには独自の世界観があるので拡張志向にならないのですけれど、中国はその意味でヨーロッパに近い。世俗的であり、実利を追う文化です。

中国は新しい帝国になれるのか

それではこの中国のネーションービルディングがうまくできるのかというと、たぶんできない。しようとしても、まずウイグルとチベットが離反する。状況によっては回族、イスラム地域も統合が難しい。内モンゴルは、ほとんど中国に同化しているけれども、歴史の記憶が出て来るとどうなるかわかりません。

毛沢東は中国が抱える民族問題に気づいていました。資源は少数民族地域にあるが、人口は漢族の地域に集中している、とはっきり言っています。中国は漢人が「中国人」になったことによって、国民統合に失敗した国家なのです。中国全体を包むような、すなわちウイグル人やチベット人も含めた新中国を建設し、新しい中国人をつくる――このネーションービルディングに失敗しています。それは共産党の中国になる以前の、中華民国をつくるときからの課題であり、失敗なのです。

中国は、ネーションができていない、プレモダンな国でした。それが、モダンな世界が限界に達したところに周回遅れで、いや二周遅れで来たものだから、あたかもポストモダンに対応できるように見えたわけです。先進国の知識人は、文化大革命をポストモダンとしてとらえ、近代的なネーションーステートを超える新しい人開か生まれているのだと考えた。中国人自身も自分たちが世界の先端を行っていると思ったでしょう。しかし、それは大いなる誤解でした。

ソ連のスターリン体制もポストモダンを目指しました。民族を超克した新しいソビエト人が出現する、ソビエト国家は形態において民族的で、本質において社会主義的であるというテーゼをスターリンが唱え、それをスースロフ(ブレジネフ時代のソ連共産党イデオロギー担当書記)が現実の政策に適用しました。全く意味をなさないようなテーゼですが、ソビエト人という、民族を超えるアイデンティティが生まれるのだからポストモダン国家であり、ネーションーステートを超えているのだと主張したのです。(略)しかし実際のソ連は、前章で述べたように帝政ロシアとの連続性が強いプレモダンな帝国でした。

中国もプレモダンだと思います。中国人自身も、このまま敵のイメージを操作することによってネーション・ビルディングを進めると、国内的に軋轢を強めることはわかっているはずです。たとえばウイグルとの民族紛争はウルムチだけで起きるわけではなく、広東省詔関市の工場でも起きている。そこではウイグル人の寮と漢人の寮は別になっていて、襲撃事件が起きて、死亡事故まで発生しています。

では中国は帝国をつくっていけるのか。帝国をつくるには、多様な民族を統合するための神話が必要になるのですが、その神話が見えない。いまのところネーションービルディング神話でやっている。しかしそれではいずれ限界がきます。民族問題や格差問題で、国内で流血が起きる。経済発展に支障をきたすような社会的な混乱や緊張が生じる。

そこで中国は分裂するのか、あるいはあの広大な領域を維持するだけの新しい神話をつくりだせるのか、この先果たして共産党が変容するのか、共産党を捨てて新しいシステムが立つのか、その見通しが全然立だないのです。国家戦略であるとか、国家体制のありかたに関して、中国のエリート層は恐ろしく鈍感で、基準に達していないように見えます。
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中国と韓国の、対日姿勢の横暴さが日々増してきている。中国も韓国も事実上の「日本敵視政策」を国策の基本に据えているのだから、日本にとっては迷惑以外の何者でもないのである。日本の国家的ストーカーである。
このblogでは何度も書いているが、福沢諭吉が清国と朝鮮を「亜細亜東方の悪友」と名付け、この両国との関係を断つよう勧めた「脱亜論」は百数十年前に書かれたのだが、今読んでも、この提言は正しいと思う。
 日本は今後、支那と朝鮮と一定の距離をおき、両国を除外した国際戦略を駆使すべきと思う。インド、インドネシア、ベトナム、タイ、フィリピン、ミャンマー、モンゴル、それらの国々は親日国家であり、中国の膨張を食い止めなければならないという日本と共通した危機感もある。日本は今後、こういった「亜細亜の親日国」と連携すればよいと思う。
TPPは、中国と韓国を抜きにした経済連携協定であり、TPP参加諸国と連携することは、日本にとっての将来の経済的繁栄の保証となるだけでなく、中国からの脅威を防ぐための安全保障上の意味が大きい。米・露・欧の3極との関係強化し、TPPによる太平洋共栄圏の構築をきちんと展開していけば、日本は安泰なのである。そうなれば中国や韓国と国交断絶しても何一つ問題ないのである。
中国や韓国と関係断絶しても、あるいはこの2つの反日国家と武力による全面対決する局面になったとしても、日本の安全と繁栄がきちんと保証されるような国際関係を作り上げていくことが、今後の日本が進めていくべき外交戦略となると思います。
p122-124
日本は核武装すべきか

いまや帝国主義の生き残りには、核保有の問題が絡まってきているわけです。では日本はどうなのか。

私は「日本の核武装、是か非か」と聞かれたときは、「非」と答えることにしています。
しかし、現実は日本の核武装に関しては、ある種の与件があって、それ次第で、賛成反対にかかわりなく進んで行くことでしょう。与件の変化があると、たとえば中東でイランが核を保有する、サウジアラビアも持つ、となると、日本の核保有もいい悪いとは別に、時間の問題になります。核保有は、日本外交の現実の日程に入っているのです。二十年先まで考えると、核保有をするか、あるいはアメリカの核の傘を日本の中に及ばせる、つまり非核三原則の逆で国内に必ず核を持ち込ませるという形でコミットメントさせるか。安全保障の論理からすると、何らかの形で核の担保が必要になってきます。

ただしその際、世界の核不拡散体制を崩す最初の旗を振る必要はないという感覚が私にはあります。だから聞かれたときは「非」と答えているのです。不拡散体制が崩れたとき、日本がきっかけになったからだといわれたら、その国際的な風圧はとてもきびしくなる。

本当に現実的に日本の核保有を避けるシナリオを考えるのだったら、いま経済制成をイランに対して強化して、まずイランに核保有を断念させることです。

本来、核なんかに依存しないほうがいいのは間違いありません。日本が独自に核を持って安全保障を担保する政治的なコストは、非常に高いと思います。対米にしろ、対中国にしろ、風圧が強まる。それから東南アジア諸国の風圧も全然違ってくる。
しかしやむを得ず持つことになる状況というのは、客観的にありえますし、その可能性は低くない。しかし、そうなる前に先頭を切ってやるべき話ではないと思うのです。勇ましくではなく、国家として生き延びるためやむを得ず核武装します、という形をとるべきというのが私の考えです。それは広島・長崎の被爆感情とは別の、国際政治のリアリズムから言えることです。

外交においては、詰めたほうがいいことと曖昧にしておいたほうがいいこととがある。しかし往々にして日本人には、物事を曖昧にしておけない性質があります。非核三原則の、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」もそうです。そもそも「持ち込ませず」までいわなくても、非核二原則でいいのです。それから、武器禁輸三原則も、佐藤政権時代の、共産圏、国連決議で禁止された国、紛争当事国には輸出しないというだけでよかった。三木首相時代に追加した、それ以外の地域にも武器輸出を自粛するなどという原則は不要でした。曖昧にしておけばよかったのです。「曖昧な日本人」などといわれますが、真面目すぎるのか、国際政治のリアリズムがわかっていないのか、必要以上に詰め過ぎるところがあります。
私の日本の核武装に対する考えと佐藤優氏の考え方は同じである。
稚拙な核武装論には反対である。日本はCSM非核弾道ミサイルを配備すればよいのである。

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p25-27
 もともと「帝国」というのは、ネーションーステート(国民国家)の枠に収まらないものです。ネーションーステートは平等な国民によって形成される均質な政治空間を作り出します。それに対して帝国とは、均質的な政治空間だけで支配されているのではない国家です。国家の中でいろいろな空間に密度の差があって、熱力学でいうと、耐エントロピー構造を持つものが必ず含まれている。エントロピーは蒸気が部屋中に広がって部屋のどこでも温度を一定にするように、拡散する物質の属性を指しますが、それを抑えるのが耐エントロピーで、他と区別される特殊なものを維持する。

社会でいえば、底辺か上層部を占有するような集団を作り出して、凸凹な状態にする。 逆にいえば、完全にフラットな国は、帝国にはなれない。異質なもの、外部を含んでいるのが帝国です。

新・帝国主義に向けて比較的早い切り替えをしたのがヨーロとハ、EUです。ネーションーステートという政治的な枠組みは維持するけれども、ユーロという通貨統合をおこなって、一体化した経済圏を作り出すことによって帝国を構成した。帝国というのは、異質な人々の間で、われわれは身内なのだと言うことができるシンボルを持っているということです。そのシンボルが可視化されたのがユーロという通貨なのです。だから、ユーロがないと、たぶんヨーロッパはバラバラになります。

日本は帝国となりうるのか

では日本はフラットなのかというと、そうではない。やはり帝国なのです。なぜなら沖縄があるからです。日本はネーションーステート(国民国家)のように見えているのだけれど、沖縄という地域をうまく統合できていない。今上天皇は沖縄への思いが強く、琉歌を詠み、さまざまな勉強もしておられます。おそらくそれは、沖縄がその歴史をふりかえれば外部領域だとわかっておられるからです。

天皇は国王ではなく皇帝です。その証拠に戦前の日本は大日本帝国を名乗っていました。
皇帝は国家という領域を超える範囲をもっていますから、本来ネーションーステートとは馴染みにくいものです。

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なるほど、沖縄があるからこそ日本は未だに帝国であるということに気が付かなかった!補足すれば在日が存在することもある意味では日本が未だに帝国である証拠かもしれません。


p31-34
TPPで日本はどうすべきか

新・帝国主義の時代の基本は、戦争相手ではない国どうして、文化が比較的共通するところが集まって棲み分けしていくことです。EUや、ロシアの提唱するユーラシア同盟がそれです。

では、われわれ日本はどこへ行くのか。東アジア共同体で、中国と一緒になって共栄圏をつくるのか、あるいはTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)でアメリカと一緒にアジア・太平洋国家として生きるのか、あるいは孤立主義、一国帝国主義でやっていくのか。その問題がつきつけられているわけです。いまや帝国内と外側を分けるという形で各国は生き残りを図ろうとしています。

近年、急浮上したTPPが典型です。TPP問題は誰の身内になるのかが問われていると考えるべきです。TPPは自由貿易原理主義だから反対という論は、事の本質がわかっていません。逆に賛成派は、TPP反対は保護主義だと主張しますが、これも自由貿易主義のドグマにとらわれている。新・帝国主義の時代においては、TPPはむしろ保護主義だからいいのです。

現在、アメリカは金融緩和によってドル安誘導をおこなっています。為替ダンピングをおこなっているのですから、たしかに反対派がいうようにいまのままの枠組みで日本がTPPに参加すれば、対米貿易で不利になる。アメリカに対しては相当、損をしてしまう。しかし、農業にしても医療にしても金融にしても、政治力を発揮して、日本の国益を反映させる交渉をきちんとおこなえば、相当巻き返せると思います。いずれにせよ、これは交渉術の問題です。

それよりも注視しなければいけないのは、TPP加盟国と外側との関係です。単刀直入にいえば、TPPは新・帝国主義の時代において、アメリカと日本が提携して中国との間に壁をつくる「枠組み」として浮上してきたのです。当初、シンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの環太平洋地域の小国四力国でスタートしたTPPに、アメリカが加わり、日本もまた加盟するといった事態が生じたのは、新・帝国主義下の「生き残りゲーム」の必然と言えます。軍拡をつづけ東アジアの覇権を握ろうとする中国を安全保障面でおさえると同時に、経済的に中国との間に壁をつくる。われわれはTPP内で日本人雇用を生み出していかなければなりません。そうしなければ、中国との賃金格差がなくなるまで日本国内の格差がひろがっていくことになるのは先に述べた通りです。

しかしTPP内部でも、たとえばアメリカから、あるいば中南米から、あるいはオーストラリアから人目が大はに流人してくる心配はないのか。
恐らくそれはないと思います。なぜなら、言語と距離のバリアがあるからです。単純労働をするのにも、コンビニで働くのにも、あるいは宅配業者で働くのにも、日本語を読めないといけない。しかし日本語が複雑な漢字と仮名を両方使っている状況の下では、そう簡単に身に付けることはできない。したがって、TPPの内側から労働力が入ってくるのには限界がある。しかし中国は距離も近いし、文字のバリアが低い分だけ大量流人が可能になってしまいますから、ここには壁をつくる必要があるわけです。

いま、日本は分れ道に差し掛かっているのです。TPP加入か、それとも、あえて中国、韓国と提携して東アジア共同体を構成し、経済的にアメリカとの間、ヨーロッパとの間に壁をつくっていくのか。すなわち、アメリカに軸足をおいて二十一世紀の日本の生き残りを図るのか、あるいは中国に軸足をおいて生き残るのか。

二十年後の世界を考えると、おそらくアメリカと中国が相当に接近することは避けられないでしょう。アメリカと中国が二大国になって、国際関係を動かしていく。その事態に備えて日本の基礎体力を強化するために、いまはアメリカと一緒にTPPを動かしていくべきだと私は考えます。そうでないと中国という「混沌の帝国」に日本はあっという間に呑み込まれてしまいます。
TPP加入の賛否は保守主義者の中でも親米保守と反米保守主義者の間で意見が分かれる問題です。

佐藤氏のTPPに対する考え方は私が当blogにて主張していることとほぼ同じである。
TPP反対を唱える人たちは現在の新帝国主義社会と言う現実が見えていないのであろう。新帝国主義の現実では社員の給料が増えず、若者の就活が厳しくなり派遣社員の数が増え格差が拡大するだろう。

これは、新自由主義者がアメリカ陰謀で格差を拡大したのではなく、世界がフラット化した結果なのである。

p42-43
何に怒っているのかわからない巨竜・中国

新・帝国主義時代に入った世界情勢のなかで、日本にとって一番注意しなければいけない国は、言うまでもなく中国です。

いま深刻な問題は、中国が急速に世界帝国として形成されようとしているかに見えるのに、何を目的とした世界帝国なのかわからないことだと思いますo何らかの既成のパターンにはまる法則性があるのならまだしも、中国人自身もよくわからないし、観察者もわからないという状態になっている。たとえばアメリカだったら、自由と民主主義のためにとか、ドルの覇権を維持するためにとか、比較的わかりやすい。しかし中国の目的はわからない。それにもかかわらず彼らはゲームのルールを急速に変更しようとしています。日本との間でも、尖閣問題、TPPをめぐる議論、知的所有権の問題、あるいは北京大使館の移転問題にしても、一事が万事、国際社会のルールを受け入れない。

巨大な竜が突然目覚めて、尻尾を振り回しながら怒って暴れているのに、何に対して怒っているのかわからない。そういう不安定な、急速に台頭しつつある超大国が隣にあるということです。

結局、日本は中国の亜周辺なのです。亜周辺については柄谷行人氏がこう規定しています。「亜周辺は、周辺部の外にあるが、圏外ではない。つまり、亜周辺は、周辺のように中核の文明と直接していないが、疎遠なほどに離れてはいない。また、”海洋的”(maritime)な社会は、亜周辺の条件を満たしやすい。それは、帝国の中核と海上交易によってつながっているが、陸続きでないために直接の侵入を免れ、独自の世界を形成できたからである」「それは文明(文字・技術その他)を受け入れるにもかかわらず、中核に存在する、官僚制のような集権的制度を根本的に拒否したのである」(『世界史の構造』岩波書店、二〇一〇年)。

インドネシアやフィリピンなら「圏外」といえるほど中国から離れていますが、日本は放っておくと中国に引っ張られて、アイデンティティが崩れていく。完全に引っ張られはしないが、完全に離れることもできない。動きながら、均衡を保っていないといけないという関係にありますoしかも相手がはっきりしたゲームのルールで動いているのなら調整もしやすいけれど、相手自身、どこに行くのかわからないのだから難しい。日本と中国の間で演劇をやっているような感じです。いろいろなプレイヤーがいて、誰がシナリオライターで誰が主演で誰が観客なのかよくわからない。
中国では今、『旧体制と大革命』アレクシス・ド・トクビルという19世紀のフランス歴史家が書いた本がベストセラーという。その内容は、フランス大革命の特徴や原因に対する考察である。この本を推薦したのは共産党政治局常務委員の王岐山氏である。
今の中国とフランス革命前のフランスが類似しているというのである。当時のフランス貴族たちが特権にしがみつき、庶民の苦しみにまったく無関心で自分たちの独占的な利益の維持だけに汲々としていた。「社会的不平等」を深刻化させて大革命の発生を招いた。
 同じように、今の中国では貧富の格差が拡大して社会的不公平が広がり、階層間の対立が激化している。このような状況下では、「民衆の不平不満が増大して社会が動乱の境地に陥る危険が十分にある」というのである。
共産党幹部は、下からの反乱と革命による「亡国」を恐れているのである。共産党は規律検査委員会を作り腐敗撲滅運動をお顔なっている。しかし「上から」の撲滅運動の推進で共産党幹部の腐敗が根本的に抑止されるようなことはまずないと思う。腐敗の温床はそもそも共産党の敷く一党独裁の政治体制そのものであるから、いわば「旧体制」にメスを入れない限り、腐敗の蔓延は永遠に止まらない。
遅かれ早かれ中国に「大革命」が起きるのは時間の問題であり、日本は中国の混乱に巻き込まれるべきではないのである。

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佐藤優氏は典型的な量産型の売れっ子執筆家である。沢山の本が佐藤優氏の執筆で量産されており全て読破したわけではない。佐藤優氏の本の中でも知的好奇心をそそる一冊である。


裏表紙
下がる賃金、厳しい就活、ひろがる格差。あなたの仕事がつらいのは、世界がすでに「新・帝国主義」時代に入っているからだ。食うか食われるかのゲームのルールを見極め、それを打ち破る武器としての「物語」を手に入れよ。日本とあなたが生き延びる道がわかる「国家論」決定版。
P7
日本を取り巻く国際環境も、危険がいっぱいな状態だ。国際社会のゲームのルールが、十九世紀末から二十世紀の帝国主義に類似したものになっている。もっとも、古典的帝国主義のような、植民地分割をめぐる帝国主義国間の戦争は起きにくい。それだから、新・帝国主義の時代と呼ぶことにしたい。旧来の帝国主義も、新・帝国主義も「食うか、食われるか」の弱肉強食を原理とする。帝国主義国は、相手国の利益について考えず、まず、自国の利益だけを最大限に主張する。そして、相手国が怯み、国際社会も沈黙すると、帝国主義国は平然と自国の権益を拡大する。相手国が必死になって抵抗し、国際社会からも 「ちょっとやりすぎじゃないか」と顰蹙を買うと、帝国主義国は国際協調に転じる。これは帝国主義国が心を入れ替えたからではない。やりすぎると諸外国の反発を買い、結果として自国が損をするという状況を冷静に計算して、妥協するのである。新・帝国主義の時代には、情報収集、収集した情報の精査と分析などとともに、これらの情報をもとに、いかに自国の国益を増大するような「物語」を構築できるかという、ストーリ-テラーとしての能力が必要とされる。

 一般的に「新帝国主義」という言葉は15世紀から19世紀初頭にかけてのヨーロッパ諸国(英仏蘭西葡)による植民地化獲得競争の「帝国主義」に対して、19世紀から20世紀初頭にかけての従来の英仏蘭西葡に加え新興ヨーロッパ諸国(ドイツ・イタリア・ベルギー)にアメリカ合衆国、日本などによる植民地拡大を「新帝国主義」と定義されています。

佐藤氏の言う「新帝国主義」は正確には「新々帝国主義」もしくは「NEO帝国主義」という植民地獲得競争とは異なる国家が生き残るための概念をさしていると思います。
 佐藤氏は神学部出身だけに「神、愛、家族、民族、国家」から生まれてくる21世紀を生き残る為に必要な叡智をインテリジェンスと定義している。それは人間を含む動物が生き残るために必要となる情報や知恵をしています。私は保守主義者なので日本列島という地理的国土・日本人という縄文時代から混血し続けた日本人と自覚している民族、明治以降近代国家としての日本が生き残る為にどうしたらよいか?
このblogにおいても常に考えています。
p12-13
東京大学のサバイバル

いま、東京大学が九月入学制に変えようという動きを進めています。これは、東京大学の当事者がどれくらい意識しているかは別として、教育を新・帝国主義の現代に適応させようとする動きなのです。

これまでの日本の教育システムは、非常に特殊でした。端的に述べると後進国型の教育システムをとっていました。後進国というのは、なるべく早く外国語のわかる外交官を育て上げて外交交渉をしないといけない。また、なるべく早く税務署長をつくって国の税収を上げないといけない。そのために国家はどうするか。記憶力のいい若者を集めてくるのです。そして促成栽培で、事の本質を理解しなくてもいいからともかく暗記させる。暗記したことを再現できる官僚を養成する。明治以来、東京大学を頂点とする日本の教育システムは、そういう後進国型の詰め込み式で、それは戦後になっても変わっていません。その結果、いま日本の官僚が恐ろしく低学歴になっている。

低学歴というと奇異に聞こえるかもしれませんが、こういうことです。たとえば、国際会議に出て来る各国官僚の局長クラスで、PhD(博士号)やMA(修士号)を持っていない人はまずいない。ところが日本は、局長でもMAを持っていないどころか、大学を卒業していない人もいる。特に外務省の場合は、東京大学を三年で中退し、国家公務員I種試験(いわゆるキャリア試験)に合格して官庁に入るのがエリートということになっているのですから。大学入試の十八歳か十九歳の時点でどれだけ記憶力がいいか、その記憶を再現する能力があるかを問うて選別し、あとは企業や官庁に入れてから育てるという発想です。そのために企業や官庁は教育にすごく投資してきた。

ところが、グローバルな形での資本主義化か進みつつある中で、その余裕がなくなってきたのです。もはや企業も官庁も、教育はしない。入る前に自分で力を付けて来いといって、国際スタンダードで見て力のある者を採用することになる。国家公務員試験も、民間の入社試験も、そういうふうに変わってくると思います。東大が推進しようとしている秋入学はその一つの現れです。いろいろな大学で九月入学制にしたり、在学年限をフレックスにしたり、ということが起きるでしょう。
それは、現今の就活システムとか、終身雇用システムが崩れていく一つの流れであり、あられもない資本ド義のグローバリゼーション=帝国主義化のなかで、大学や企業が身悶えしているのです。

最近我が社の新人の高学歴ぶりには呆れかえっている。東大・一ツ橋、早慶は掃いてすてるほどいる。我が課の新人君は従業員数十名いるベンチャー企業を立ち上げたが会社を譲って我が社に入社してきた・・・だが我が社の支店営業においては学歴はまるで関係ない、その個人が持つ資質がすべてだ。

佐藤氏の言うPhD(博士号)やMA(修士号)も関係ないと思う。例えば東大工学部スタンフォードのPhD(博士号)を持っている鳩山由紀夫は世界的な馬鹿にしか見えない。いや世界一の馬鹿だと思う。やはり東工大を出た菅直人も馬鹿で無責任にしか見えない。私は明治大学商学部を卒業した。明治大学の偏差値は東大の足元にもおよばない。だが、逞しいバイタリティや個性を持った学友先輩後輩が非常に多かった。偏差値競争には負けたけれど質実剛健、自由な校風には面白い魅力的な人間が多く集まっていたと思う。おそらく現在もそうなのだろう、最近我が母校の評価が高まってきているが、佐藤氏のいう新帝国主義の時代に求められるのは東大的な人間ではなく、明治大学的な逞しいバイタリティや個性を持った人間が重要な時代となったのだと思います。(すいません勝手に母校愛を告白してしまいました。

学歴など何の意味もない。日々読書をして勉強をし続けなければどんなに学歴が高くとも日々馬鹿になると私は思う。ネットだけで本を読まない人間はネットと同じぐらい(当ブログの読者を除いて)薄っぺらいのだ。

P14
なぜあなたの給料は上がらないのか

今後、就職活動はますます厳しく、難しくなるでしょう。就職できたとしても、給料はいまのレベルの横這いにとどまるか、もしくは減っていってしまう。一方で金持ちの人たちは前より貧乏になるわけではなく、むしろさらに金持ちになる。社会の真ん中より少し下くらいの層で、どんどん格差が広がっていく。

それは労働の内容が、日本人でも中国人でも韓国人でも、あるいはタイ人でも、誰でもできるものになっているからです。世界中でヒトーモノーカネの移動が自由化して、中国の労働力と日本の労働力が簡単に交換できるようになった。そのために日本国内では産業の空洞化が起こり、格差が広がっていきますが、別の観点からすると、中国の労働者と日本の労働者の賃金格差は、かつてなく縮まっているのです。日本で工場が閉鎖され失業者が出ることは、中国やタイやベトナムなどで何倍かの労働者が雇われることを意味します。

つまり、いまの不況や雇用の問題は、日本人の賃金が中国人の賃金と同じまでに下がらないと解決しないことになります。たとえば大学卒の初任給が四万円くらいに下がって初めて解決するということです。
秋葉原通り魔事件に思う。フラット化した世界
トーマス・フリードマンのフラット化する世界上下を読んだことがある人間ならだれでもこの単純な事実を知っているだろう。

P20-21
国家には、密度、暴力性が強まる時期と、それが希薄になる時期がある。振り子のように振幅があるのです。冷戦崩壊以降、グローバル化か進むなかで、国家の介入が薄まったのは事実です。しかし、だからといって、よく言われるように世界がフラット化して、資本の論理だけでやっていけるのかというと、そうはならない。再び国家の機能強化への逆転が生じてくることになる。

いまは再び振り子が国家の機能強化の方向に振れようとしています。先進国はみなそうです。リーマンショック後のアメリカの対応もそうですし、債務危機に対するユーロ加盟国の対処の仕方もそうです。

そういう世界の状況への対応の一つとして、日本でも東京大学が九月入学へ動くということが起きているのだと思います。そのようにしなければ国民の知的な潜在力を日本国家がもはや吸収できないのだという集合的な意志が働いている。当事者がどこまで意識しているかは別として、国家というのは、国家自身の生き残りを考え、そのためには何でもするものです。

ドイツやロシアに「魚は頭から腐る」という諺がありますが、国のエリート層がおかしくなると、国全体がおかしくなってきます。それを裏返せば、エリート層をしっかりさせることによって、国家全体の再建がなされてくる。東京大学は、知的エリートを集めている機関として、無意識のうちにその危機を感じているのです。国家の生存本能が、東京大学の人たちを動かしているといってよいでしょう。
レーニンの規定した19世紀末~20世紀前半までの帝国主義とは違い21世紀の現在、帝国主義大国間では植民地争奪をめぐる戦争に至るということはない。

しかし、遅れてきた帝国主義の中国を見ればわかるように、新帝国主義であろうと帝国主義とは国家のエゴ(国家の生存本能)を剥き出しに相手国の立場など考えずに、自国の利益を最大限に主張することである。

 アメリカもロシアも帝国主義がよくわかっている。一方、中国は、どこまでわかっているか怪しい。中国は見るからに帝国主義国として振る舞っていますが、やり方が非常に稚拙で、国際社会においても少しやり過ぎだとみなされた場合には、国際協調に転ずることもありうる、ということがわかっていない。ゴリ押しすると結果として世界中で顰蹙を買い中国は孤立化しはじめた。中国に従うのは2000年来の属国である南朝鮮ぐらいだろう。

ちなみに日本という国のは、帝国主義のゲームのルールがよくわかっていない。
帝国主義とは力の均衡ゲームでもあるのに、憲法九条のせいで自ら国際秩序を作れるだけのパワーを持っているにもかかわらず行使していない。故に戦後国家間のゲームに負け続けているように思える。しかしながら主体的に動かなかった結果、思わぬ成果が上がり今日の日本が存在しているようにも思う。


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p158-161

二〇〇八年のリーマンショック以降の世界金融危機でも、格付け機関の意見はまったくあてにならないことがわかったっアメリカで格付け機関の幹部たちが「自分たちに責任はない」と逃げ回るシーンをテレビで見たのは、一般の国民の記憶にも残っているだろう。

サブプライムローンのような非常にリスキーなデリバティブ商品が売れたのは、大手格付け会社が高い評価を与えていたからである。投資家は人手格付け会社の「トリプルA」を信頼してサブプライムローンなどの不動産証券化商品と関連デリバティブ商品を買い続けた。

こうした金融商品が実態以上に高い評価になった裏には、格付け会社の性格かおる。格付け会社は一般の民同企業でヽ収益源は金融機関などからの手数料である。格付け会社は、証券の発行体や証券化商品を組成するインペストメントーバンクに格付け付与者として指定され、報酬を得ている。 つまり、客は金融商品の売り手だ。

商売を優先すれば、当然ながら客の要望に応えることになる。 たとえ危ない商品でも、手心を加えるだろう。こういう構造的な問題を抱えている格付け会社がヽ厳密な分析に基づいて格付けをしているとは、とても思えない。

存在しない国情を格付けした格付け会社

私の国債課時代の経験でも、いい加減な事件があったっ国債格付けは債券発行ごとに行われるのだが、資金調達不要になって休債した国債が格付けされ、世界に配信された。要するに、格付け会社は何も見ないで格付けしているのだ。
私か指摘して初めてその醜態が明らかになり、さすがに、そのときはアメリカの本社からお偉方がわざわざ日本まで謝罪に来た。 ついでなので、国債の格付けをするときには予算書を読んでいるのかと質問すると、「読んでいない」。これできちんとした財務分析が行えるわけがない。

二〇一一年の格下げのリリースを読んでも、綿密な調査・分析に基づいているとは思えなかった。たとえばS&Pのリリースには、『日本の政府債務比率は……』取も高いレンジにある」という記述があった。これは政府資産を考慮しないグロス債務比率であり、バランスシートの片側しか見ないという意味で不十分だ。

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先述した通り、バランスシートで見れば、政府負債は1000兆円でも、政府資産が六〇〇兆~七〇〇兆円もある。日本の政府資産比率は先進国で最も高く、その大半は民営化などで売却可能なものが多い。しかも、その多くのものは役人の天下りのために存在している。

とくに日本政府が抱える約五〇〇兆円の金融資産のうち約三〇〇兆円を占める「現金・預金」「有価証券」、特殊法人への「貸付金」「出資金」などは、すぐに国民の手に戻すことができる(図表5「日本政府の貸借対照表」の太字で示した部分)。
また、一般政府財政赤字の対GDP比率が高止まりしているという記述もある。日本の場合この比率は、一般政府で見ると多くの国・地方の特別会計が除かれてしまうので、国・地方の財政状況を見るためには不十分な指標だ。このような指標で政府の財政状況を論じるのでは特別会計のいわゆる「霞が関埋蔵金」などは当然、考慮外だろう。


p212-217
「役人天国」の資金となる五〇〇兆円

経営難に陥っている会社は、従業員の賃金カットやリストラを考える前に、保有している資産を切り売りする。民間なら、当たり前の話である。ならば政府は増税の前に政府資産の売却をする  これまた当然の道筋だろう。

事実、日本と同じく財政難に陥っているイギリスでは、空母をネットオークションにかけるという案まで浮上している。

日本政府は六〇〇兆~七〇〇兆円にもLる膨大な資産を保有しているのだから、処分できるものは処分すべきだろう。とくに六〇〇兆~七〇〇兆円のうち五〇〇兆円を占める金融資産(現金・預金や有価証券のほか、特殊法人などへの貸付金や出資金、および年金積立金管理運用独立行政法人への預託金など)は、年金見合い資産一二一兆円を除けば、原則として売却できる。

しかも、この五〇〇兆円は、官僚の天下り先への資金提供なので、売却によって天下り法人も原則廃止できる。

ところが、日本では政府資産の切り売りの話はなかなか出てこない。
日本の中央官庁の一つの特色は、業界の規制に関わるセクションが多い代わりに、消費者の利益を守る仕事は少なく、携わっている人間も非常に少ないという点てある。規制と許認可権によって、業界に権限を行使しているため、民間も天下りを受け入れる。

しかし、役人天国の源になっているのは、規制だけではない。六〇〇兆~七〇〇兆円という膨大な保有資産の威力がある。

膨大な資産を保有するとは、裏返せば政府の外郭団体が非常に大きいということを意味している。多くの外郭団体や特殊法人に資金を融資しているから、結果的に資産が巨額になる。そして、融資の見返りとして天下りポストを拡大しているのだ。

この意図で霞が関がつくった特殊法人や独立行政法人は、実に約四五〇〇。そこに二万五〇〇〇人が天下りし、国費が一二兆円も注ぎ込まれている。この数字を見れば、日本の公務員の数が少ないというのもまやかしだということがわかる。

これら法人が何らかの役割を果たしているのなら、まだ救われるが、先述のGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)のように業務は民間に丸投げのところが多く、中間搾取するだけの存在になっている。要は、官僚OBを養うための組織でしかない。
霞が関が大きな権限を握り行使できる仕組みかおるからこそ、官僚たちが「役人天国」を謳歌できるという構造になっているというわけだ。

したがって、役人大国を解消するためにも、資産のスリム化か必要で、小泉改革ではその一環として郵政の民営化を行い、あまたある独立行政法人なども民営化する方針を決めた。

民営化すれば、無駄なカネを注ぎ込む必要もなくなるし、政府の保有する株を売って、そのカネを国民のために使える。

だが、当然ながら、霞が関はパワーの源泉である資産の売却を何とか阻止しようとする。
たとえば財務省は、財政関係のパンフレットに、「我が国政府の金融資産の多くは将来の社会保障給付を賄う積立金であり、すぐに取り崩して債務の償還や利払いの財源とすることができない」と予防線を張っている。

バランスシートが苦手な学者やマスコミは、この財務省の言い分を鵜呑みにし、そのまま発言する人が多いが、これが真っ赤な嘘であるのは、バランスシートをチェックすればわかる。
金融資産五〇〇兆円の内訳を見ると、貸付全一五五兆円、有価証券九二兆円、出資金五八兆円、運用寄託金一二一兆円など。財務省の取り崩せないとする年金の積立金は一二一兆円で、資産の二割程度に過ぎない。財務省の「多くが積立金」という表現は詐欺的であることがわかるだろう一六〇ページの図表5参照)。


固定資産を除く三〇〇兆円くらいは容易に売れるはずだ。

官による小泉改革へのネガティブキャンベーン

小泉改革の「民でできることは民で」は、裏返せば政府資産のスリム化を目的としていたわけだが、小泉政権が退陣後、霞が関の凄まじい巻き返しが始まった。それに先立ち、霞が関かマスコミを使って展開したのが、小泉改革に対するネガティブキャンペーンである。

財務省と経産省が互いにバーターで斡旋するケースも考えられるので、所管が違っても役人同士の斡旋は禁じた。しかし、国会議員である大臣の斡旋には触れていない……。

国会議員は公務員ではあるが、特別職だ。法技術的な観点もあって、あえて公務員法の対象にしなかった。それ以前に、まさか省庁のトップである人臣が率先して斡旋するなどというケースは考えられなかったのである。

部下がやれば罪になることは、上司がやっても当然、罪になる。役人に範を垂れるべき立場にある大臣が、よもや官僚OBの斡旋という違法行為に手を染めるなどとは、想定しなかった。

しかしそれを、亀井氏は、処罰の対象でないからとやった。役人は役人で、人事に関する事務はやったが、大臣の指示に従ったのだから公務員法には抵触しないといい、結局、前代未聞の大臣の斡旋は誰も処罰されることなく終わった。

言い換えれば、財務省は亀井大臣を主役にして、改正国家公務員法の穴を突いたのだ。

自民党から自分を追放した小泉憎しで、郵政国有化に執念を燃やす亀井大臣の下、郵政事業の四分割も見直され、郵政株の売却も見送られ、実質、国有化に逆戻りした。まさに財務省のシナリオ通りである。

郵政ファミリーは巨人な利権集団である。郵政関連企業は約二〇〇社もあり、霞が関の役人が多数、天下つている。一社当たり二、三人だから、五〇〇~六〇〇人が天下っている計算になる。

大口利権の剥奪を阻止した霞が関の官僚たちは、快哉を叫んだに違いない。

小泉改革の理念は間違ってはいなかったが、だが問題なのは小泉純一郎の個人的資質に問題があったと思う。小泉改革の失敗は派遣雇用法の失敗もさることながら、理念なき小泉純一郎のポピュリスト的性格が小泉改革を不完全な改革として災いした。不完全な制度改革は制度を壊しただけで世の中を壊すだけの騒動になってしまったのだと私は思う。

























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日本というわれわれの祖国が、今非常に心許ない状態に陥っています。大変危機的な状況にあるのです。一見この国は「まだもっている」かのように見えますが、そのように見えているだけで、今、静かに、あるいは音を立てて崩れています。

ニーチェの言葉 9
自分の行為は世界に響いている

自分のどんな行為も、他の行為や考え、決断などの誘因になっている、もしくは、大きな影響を与えている。その行為がまったく何にも影響を及ぼしていないことはない。
 自分の行為によっていったん起きた事柄は、いつもなんらかの仕方で次に起きる事柄としっかりと結びついているのだ。遠い過去の昔の人々の行為でさえ、現在の事柄と強く弱く関連している。
 すべての行為や運動は不死性なのだ。そして、どんな人間のどんな小さな行為も不死だと言えるのだ。つまり、実はわたしたちは、永遠に生き続けているのだ。
『人間的な、あまりに人間的な』

 このニーチェの言葉にあるように、このブログに私が書き込むことは小さい事だけれど、私が国を憂い正しい方向に導かんと欲する行為はやがて大きな大河になると信じています。

われわれは、この今にも崩れんとする日本の立て直しに、どのような形で関かっていくべきなのでしょうか?日本の再生の鍵を握るいちばん大切な問題はなんなのでしょうか?

今回の東日本大震災と福島第一原発の事故のことに限らず、民主党政権になっ
てから、日本は常に危機にさらされているような状況です。

菅直人は尖閣諸島沖中国漁船不法行動問題では法治主義を破壊し、国際的日本の立場を貶めたばかりか、3.11では天災を人災にしてしまった。政府主導にこだわり初動での迅速な行政の対応を妨げ、震災直後の混乱、救援物資が届かないなど、阪神淡路の村山元史上最低総理を下回る行動に出た。

いま冷静に見て3月12日の総理の原発視察は誰がどう考えても無駄であり現場の混乱を助長して3月14日の水素爆発を誘発させたとしか思えない。

沖縄の普天間基地の問題での鳩山由紀夫は、基地問題の根幹も日米同盟の意義すらも知らず日本の安全の根幹に関わる日米同盟を破綻の危機に曝しルーピー鳩山と言われ世界の恥さらしとなった。

小沢一郎当時幹事長は、大訪中団を組んで中国を訪れ、「自分は中国の野戦軍司令官だ」などと発言してまるで日本が「中国の属国」になったかのようなイメージを世界に植えつけた。国賊以外形容し難いうえ、事実はどうであろうと政治家しかしていないのに不当な蓄財をしている事実は動かし難い事実であるのに、無罪を主張し未だに政界の留まり国会議員を続けている。小沢は民主党から冷遇されているにもかかわらず民主党を割って出ることすら拒んでいる。無能である。

野田にいたっては、震災復興をすべきこの時期に財務省の言いなりになり財政再建をしようとする。この民主党政権を一刻も早く終らせなくてはならない。

私は自民党政権の復活は望んでいません。自民党政権は保守政党でもなんでもないのです。三木武夫や河野洋平など売国奴のリベラル派も在籍した単なる利権集団にすぎませんでした。まして未だ公明党などと連携しているようでは党として終ったも同然だ。

一時小沢の新生党ー新進党ー保守党に真の保守政党の誕生を期待しましたが、小沢は政局を弄ぶだけの政治ゴロにすぎずとても保守政治家ではなかった。一瞬でも小沢を国士と期待した我々が馬鹿だった。今の小沢は愛国保守層を裏切ったばかりか、中国の走狗に成り下がっている。

小沢は最後のご奉公としてせめて民主党を飛び出し民主党を分裂させ民主党政権にトドメを刺して欲しいものだが未だに動かない。理由は小沢が愛国者ではなく単なる政治ゴロだからである。

だが、消費税問題で民主党崩壊も秒読みとなった。我々が出来る事はは来るべき政権再編で真の愛国保守派の候補に一票を投ずることだ。
真の愛国保守の候補であれば憲法問題に言及しているであろう。

憲法問題で第九条も大切であるがその1において第十三条「生命、自由、財産の保護という、国民の基本的人権を守ること」 が憲法の要であるか確認していただいたと思うが、自民党・民主党の政治家や財務省はじめ官僚達はその第十三条をないがしろにしているのである。

今日日本が衰退国家となった直接の引き金はバブル経済で地価が高騰し住宅が買えないと目先のことしか考えない庶民の声をマスコミが取り上げ、土井たか子はじめ左翼が地価を下げろと叫んだことに端を発する。

もとを糺せば疲弊した米国経済を救済するため1985年NYのプラザホテルで円高誘導を行う会議が開かれプラザ合意ができたことによる当時1ドル=220~240円であった円が120円まで急騰!急激な円高を抑える為金利を下げバブル発生を許した事だ。

地価を下げる為に1990年3月、時の大蔵大臣橋本龍太郎と大蔵省、三重野日銀総裁は土地の総量規制という地価下落政策を行った。地価はあれよあれよと下落し日本全国に不良債権の山を築いた。日本人の総資産を1300兆円吹き飛ばした。これは第二次世界大戦で失った日本の当時の総資産金額を換算し直した額より大きい。
マーケット(自由市場)のメカニズムによって決まる土地の価格を、大蔵官僚達は統制できると考えた、その経済無知にも驚くべきものがあるが、何より重要なのは「国民の財産を守る」という感覚が彼らに欠如しているということである。

 官僚たちは地価が上がり、国民の資産が増えるのはけしからんと思った。総量規制は日本経済を破壊しただけではない。私有財産への干渉は、紛れもない民主主義の否定である。日本国憲法への挑戦である。

 この感覚こそ、恐るべきデモクラシーの蹂躙である。悪質な人権侵害である。
 私有財産の権利について、日本国憲法は次のように定めている。

  日本国憲法第二十九条 「財産権は、これを侵してはならない」。

「侵してはならない」と命じられている対象は国民ではない。憲法の第一の目的は、国家を縛ることにある。つまり、財産権を侵してはならないのは国家権力であり、具体的に言えば、政治家や官僚に対する禁止命令であるのだ。

これが憲法第十三条違反である事は言うまでもない。

さらに、日本国政府は拉致被害者の存在を知りながら長年救出してこなかった、これは憲法違反である。武力で取り返すのが憲法違反なら、放置しておくのも憲法違反である。

北朝鮮に特殊部隊を送り被害者を救出するのも真剣に検討すべきでもあるのに過去は人道援助と称し援助をしてきた。北朝鮮と国交を結び資金を提供しようなどと言うことは一切してはならない。過去そのようなことを言った政治家は金丸信や小泉純一郎はじめ皆憲法違反だ。政治家・官僚を裁判にかけ憲法違反者として処罰すべきであろう。

天下りして不要な特殊法人を無限ににつくり退職金を国家から搾取した公務員も憲法第十三条違反濃厚である。

内閣や官僚の憲法違反は枚挙に暇がない。

日本国憲法第六十五条行政権は内閣に属する。

憲法に明示してあるとおり国家主権の一部である行政権は内閣のものであって官僚のものではない。今回の消費税増税は官僚が内閣に命じて立法させようとしている。これは明らかに憲法違反としか思えない。

日本国憲法の欠陥として、国民が憲法違反を犯した官僚・政治家を厳罰に処分する機能を有していない。現憲法は死んでいるのだ。

TPP議論で反対論者が官僚に対する不審から自由貿易に反対してしまう理由も、
原発議論で、反原発側の論理もすべて官僚に対するチェック機能を現憲法が有していない不信感がその根底にあるからだと思う。













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2012年日本は滅亡の淵に立たされている。

民主党に限らず自民党公明党といった政治家。また政治家に限らず東京裁判史観・戦後教育の悪弊で洗脳され続けている多くの日本人、官僚、マスコミ・自由報道協会に代表される一部浅薄な知識市民・・・・その全てが日本を滅亡の危機に追いやっているのである。

長く続いた自民党政治は東京裁判史観に基づいた現日本国憲法そのものであった、そして現民主党政権は矛盾した日本国憲法を改正しようともせず問題を解決しようとしている。

そもそも憲法とは生命、自由、財産の保護という国民の基本的人権を守る事を使命とする。
 
憲法問題とは左翼の憲法学者が言う憲法第九条の解釈で井戸端会議に付き合うことではない。国民の基本的人権をいかに守りいかに日本人を幸福にする問題のことだ。

日本が21世紀国家として生き残る設計図を引くにあたり憲法を見直すことせずに議論をすること自体おかしなことだ。国家の基本である憲法を改正いや議論もせず制度を改革しようというのであるから、かつての自民党政権が行った橋本改革・小泉改革が失敗し、現民主党政権が行おうとする改革が失敗するであろうことは火を見るよりも明らかである。
 
私は今消費税を増税することにに反対である、今のタイミングで消費税を増税することは日本と言う国を崩壊しかねない最悪のタイミングである。

しかも消費税増税のプロセスが、民意を問うことなく官僚主導で無能な政権の派閥争いと言うまったく民主主義とは無縁なプロセスで決定されている。
国会議員定数は50%OFF!公務員給与も30%OFF~公務員の共済組合年金と国民年金を統合にしない限り消費税増税は反対だ!

日本は民主主義ではなく官僚独裁国家となってしまったのか?これは現憲法が機能していないことを証明している。現憲法は米国が二度と日本が米国に報復戦争を起こさせない為に作った憲法であり、日本人の魂を抜く為に作られたものである。その結果が官僚独裁による弊害である。

官僚は無能ではなく有能であり、一般の衆愚な民衆や無能な政治家では制御できるものではない。バブル崩壊後度重なる改革への試みがことごとく失敗し続けるのはその根本である現憲法を不磨の大典として改正しようとしない日本人の責任である。

秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。 

イメージ 2なぜか? ここにシュレーディンガーの予言が重なる。一九四四年、シェーンハイマーの死後三年して出版されたシュレーディンガーの『生命とは何か』で、彼は、先に記したように、すべての物理現象に押し寄せるエントロピー(乱雑さ)増大の法則に抗して、秩序を維持しうることが生命の特質であることを指摘した。しかしその特質を実現する生命固有のメカニズムを示すことはできなかった。
エントロピー増大の法則は容赦なく生体を構成する成分にも降りかかる。高分子は酸化され分断される。集合体は離散し、反応は乱れる。タンパク質は損傷をうけ変性する。しかし、もし、やがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、このような乱雑さが蓄積する速度よりも早く、常に再構築を行うことができれば、結果的にその仕組みは、増大するエントロピーを系の外部に捨てていることになる。
つまり、エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ。
以上は福岡伸一/著「生物と無生物のあいだ」のp166~167の一節である。

不磨の大典として現憲法を改正しないのはエントロピーの増大に対して何も行動を起さないのと同じである。現憲法を改正し、日本に官僚独裁ではない国民一人ひとりに国民としての権利と義務の自覚を覚醒させるべく動かなくては日本という国は消滅してしまう恐れがあるとわたしは思う。

日本国憲法の問題点について2002年に集英社インターナショナルより出版された小室直樹先生の「日本国憲法の問題点」をテキストに考察していきたい。

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p18-20
今の日本では、民主主義も資本主義も機能していない!
憲法の精神は踏みにじられ、泥にまみれている!

 
もっとはっきり言えば、憲法がすでに死にかけているからである。この状態を放置したままでは、どんな努力をしても意味がない。癌の痛みに苦しむ患者に、シップを貼るようなものだ。
翻ってみれば、サッチャーのイギリスは衰えたりといえども、憲法は生きていた。民主主義も資本主義の精神も根太から腐ってはいなかったのである。つまり、イギリスにはまだ回復の余地があった。サッチャー女史も腕の振るいようがあった。
これに対して日本は?
憲法の柱たる民主主義がきちんと作動していないのだから、議会も行政府も裁判所もまともにその役目を果たしているはずがない。かりに、かの「鉄の女」サッチャー女史が日本国の総理大臣になったとしても、民主主義不在ではリーダーシップの振るいようもない。
 
また、日本は資本主義がまともに作動していないから、たとえケインズ大先生か蘇ったとしても、この不況を打開することは不可能である。ケインズ経済学も、もちろん古典派経済学も資本主義を前提にして作られているからである(拙著『資牛王義のための革新』日経BP社、同『日本人のための経済原論』『小室直樹の資本主義原論』ともに東洋経済新報社)。
 
かくのごとく、憲法が機能しなくなれば、すべてはうまく行かなくなる。どんなことをしようとも状況はどんどん悪化し、岫後には滅びの淵に至る。今まさに日本は滅びの淵へと一歩ずつ近づきつつあるのである。
 
 日本の病根は憲法にある。
 
憲法が機能していないことこそが元凶なのである。
読者はまず、そのことを肝に銘じるべきであろう。憲法で最も重要な条文はどれか デモクラシーは過程であって、完成された状態を言うのではない。
ここが憲法を理解するための急所である。
ところが、日本人にはどうしても、ここのところが腑に落ちていないらしい!
これでは憲法が死ぬのも当然の話ではないか。
 
かつて丸山眞男教授(政治学者)は、日本の「民主主義」を一瞥して、そこでは民主主義は日々に作られるものではなくて、既存の「状態」(丸山醍男『日本の思想』岩波新書 二八九ページ)とされていることに注目している。
 
日本人の民主主義誤解は、まさにここに濫觴(らんしょう:みなもと)を発する(拙著『痛快!憲法学』二七一ぺージ)。
 
民主主義も憲法も、それを日々育てる努力をしなければ、たちまちに息絶えてしまう。そこのところが分からないから、日本では憲法も死にかけ、民主主義も死にかけているのである。
シュレティンガーの猫で知られる量子力学の巨人であるシュレティンガー博士が生命とは何かを考察した秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。」とこの憲法問題が重なってならない。

民主主義も憲法も、それを日々育てる努力をしなければ、たちまちに息絶えてしまうのであるから、憲法の見直しもしない日本人の怠慢自業自得であることを我々は自覚しなければならないのである。
p20-23
戦後日本で行なわれてきた憲法論議の、まったく以て奇妙なところは、護憲派、改憲派を問わず「日本国憲法といえば第九条」というスタンスをとり続けてきたことにある。憲法問題といえば、明けても暮れても戦争放棄を定めた第九条の話ばかり。

したがって多くの国民も「なんとなく」、日本国憲法の急所は第九条であると思いこむようになった。第九条のことさえ知っていれば、憲法のことが分かっているような気がしてきた。
 
だが、憲法本来の役割からすれば、第九条の規定など枝葉末節もいいところ。
そもそも憲法とは生命、自由、財産の保護という、国民の基本的人権を守ることを最大の使命とする。

しかるに、第九条の規定はいかに。
国家が戦争を放棄しようとしまいと、軍備を持とうと持つまいと、そんなことは基本的人権とは直接、何の関係もない。戦争を放棄すれば民主主義の世の中になるわけではないし、その逆もありえない。
 
そのことは今なお戦争を放棄せず、巨大な軍隊を抱えているアメリカの例を待ち出すまでもないであろう。
したがって憲法第九条は、憲法の急所でも何でもないわけだ。
ちなみに、読者のために付け加えておけば、日本の「憲法屋」、「デモクラ屋」たちが誇る第九条の戦争放棄規定は日本独自のものでもなければ、日本国憲法が世界に先駆けて作ったものでもない。

憲法学者西修博士の調査によれば「国際遂行の手段としての戦争放棄」という規定は、一九二八年に締結された不戦条約で述べられた思想であり、一九三一年にはスペイン憲法に戦争放棄条項が加えられている。また世界の現行憲法の中で、何らかの平和条項を持っているものは一二四ヶ国にも上ると言う(西修「日本国憲法を考える」文春新書)。
つまり、「日本国憲法が世界で唯一の平和憲法である」というのは、まったくのデマゴーグであって、何の実体もない。このことは憲法を考える上での”常識”として知っておくべきことであろう。

十三条こそ、憲法の急所

では、第九条でないとしたら、「憲法の急所」は第何条か。
はてさて、日本国憲法で他に重要な条文があっただろうか……おそらく多くの読者は首をひねるであろう。

憲法と聞いて、第九条くらいしか思い浮かばない!
悲しむべきかな、これが日本の民主主義教育の実態である。
戦後日本の教育界は、「民主主義を守れ」とか何とか立派なことを言いながら、自分たち自身の「労働者としての権利」を守るのに汲々として、子どもたちに憲法の急所さえ教えるのを怠ってきた。だからこそ、読者もピンと来ない。教えられていないのだから、当然のことである。

日本の憲法が病膏肓に入ってしまった(やまいこうこうに入る:不治の病になる)原因の一つは、まさに教育にある。国民に正しい民主主義教育を行なってこなければ、憲法が瀕死状態になるのは当然すぎるほど当然のことである。
では、日本国憲法で、何か何でもこれだけは守らなければならない、これが有効でなくなったら憲法の存在意義なんて雲散霧消してしまうという条文はどれか。これぞ民主主義の精華と言うべき条文は?
 
それは憲法第十三条である。
 
おそらく憲法第十三条と聞いて「ああ、あれか」とすぐに思い出せる人は皆無だろう。今の日本では憲法第十三条の存在感はあまりに薄い。いや、それどころか、この条文はすでに死んでしまっていると言ってもよい。
憲法の急所がすでに死んでいる!これでは日本が滅びの淵に立だされているのも、当然のことではないか。さて、その憲法第十三条とは何か。

日本国憲法第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法第十三条はアメリカ独立宣言の思想=民主主義思想の原理そのものである。

すべての人間は平等に造られている!
そして、すべての人間は生命、自由、幸福追求の権利を持っている!
その権利は何人たりとも奪われることがあってはならない!

これこそ、まさしくデモクラシーのエッセンスであり、近代民主主義憲法の生命線である。
勘違いしないで欲しい憲法第十三条 を改正するのではなく、第十三条 の精神でもう一度日本国憲法を見直さなくてはいけないのである。

反米主義者達はこの第十三条 ですら米国の日本支配の象徴という妄想と考えている。東京裁判史観から抜け出していない反米保守も親米保守も左翼も戦後教育の申し子である。自分自身は消極的親米保守と自分の思想を定義している。
私の思想は東京裁判史観から覚醒した保守思想であるが、日米同盟抜きに日本の独立は保てないと考える真の保守思想である。私のこの思想を広く啓蒙していきたい。

私の思想は小室直樹先生の存在なくしてたどり着かなかった。小室先生はけっして単純な反米思想や陰謀論思想など持ってはいない。

小室先生の弟子を名乗り類稀なる小室学に泥を塗り続ける国賊・副島隆彦は小室学の継承者と勘違いされては困る。

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TPPに関して保守層の意見は真っ二つに分裂している。特に日米関係や日中関係、規制緩和・構造改革・郵政民営化についても意見が分かれるようになった。

以前は朝日新聞や世界の主張するリベラル側のトンデモ意見に保守派は一丸となって攻撃したが、3.11原発事故風評被害問題などは保守裂してリベラル側と協調し、単純な保守リベラルの二元論的論争ではない複雑な議論がされるようになってきた。そもそも保守とは?保守主義とは何かを考え直す為、本書を読んでみた。
TPP論争もどちらが正しいとも言い難いが、反対派の諸君もヒステリーを抑える為にも是非本書を読んでみたまえ。推薦します!

保守主義の父 エドマンド・バーク「フランス革命についての省察」

p29-31
「本書は保守主義政治哲学の聖典であると同時に、およそイギリスというものの土性骨を教えてくれるものという意味でも、はなはだ興味深い」とも述べる。
(略)
西部邁著『思想の英雄たち』(文蕪春秋)は、序章に次ぐ冒頭でパークを「保守的自由主義の源流」と取り上げ、「今の日本においてこそ省察されるべきものとなるというべきであろう」と結ぶ。

保守思想の核心とは
パークの膨大な主著を一言で紹介するのは、容易でないが、中滓信彦著『イギリス保守~義の政治経済学レミネルヴァ書房)は、端的に「『省察にの主張の核心をなすのは『時効』の思想である」と述べる。

普通の日本語で「時効」と聞くと、時間の経過で消滅する権利や、刑事法卜の公訴時効などを連想するが、パークの時効は、それとは正反対の、日本で言えば、民法上の取得時効のごとき概念を意味する。

正確に論じるなら、時効の思想はパークの独創ではない。事実『省察』は、フランスのドマの「時効の教説」を「彼らの国の最も偉大な法律家の一人」の説として敷衍する。とはいえ、世界の歴史に刻まれた名前は、ドマではなくパークである。時効の思想を世に広めた功績はバークに与えられるべきであろう。パークは演説した。

〈われわれが国王や貴族の優越的権利を理論的に裏づける原理として、一体次のような立前以外に何か主張されると言うのか?・ わが国の憲法は時効的憲法である。つまりその唯一の権威はそれが時代を越えて長年月継続してきた、という点に尽きる憲法なのである。(中略)
時効こそは単に私有財産ばかりでなくこの財産保全の手段である統治に関しても、それが有するあらゆる権限の中で最も強固な権利である〉(「下院代表の状態を調整する委員会についての演説」)

右演説を収めた『論集』は訳注で「時効にもとづくこの保守主義の主張は、この短い演説の中で最もよく引用されるのみならず、彼の晩年のフランス革命攻撃の理念の最も雄弁な論拠として極めて有名である」と注記する。巻末でも「彼の論説の最も核心的な時効の論理」云々と「解説」を加える。『論集』編訳者の中野好之ら専門家が指摘したとおり、時効の思想はパークの、つまり保守思想の核心をなす。
パーク演説を借りれば、天皇および皇族の権威は、わが皇室が時代を越えて、連綿と継続してきたという点に尽きる。他方で、わが国の憲法は時効的憲法ではない。それどころか、戦後の「当用憲法」(福田恒存)に過ぎない。

 p34-35
旧来の伝統という羅針盤
なぜ、保守思想は伝統を重視するのか。その答えも、父祖パークに求めよう。「先祖の敬愛を通じて自分自身への敬愛を教え込まれる」ことを重視する『省察』はこう述べる。

旧来の社会通念や生活規則が除去されるならば、その場合の損失はけだし計り知れぬものがあろう。我々は、その瞬間から自らの行動を律する羅針盤を持たなくなって、自分が目指す港の所在さえも分明には識別できなくなるだろう)上144

だからこそ、先祖から子孫へ伝統を継承する。政治とは本来、先祖や子孫との共同作業なのである。
p40-44
《完全な民主主義はこの世で最も厚顔無恥な代物であり、そして最も厚顔故に、最も恐れ知らずなものである)上172

だが、即断してはならない。パークは、理想的な民主主義が「宗教なしには絶対的に不可能と思われる」とも断った。デモクラシーを全否定したわけではない。以下のように危惧したのである。

(民主主義のもとでは市民の多数派が少数派に対し、必ずや最も残忍な圧制を揮う恐れがあり、そしてこの少数派への圧制は、やがて一層多くの人数にまで拡大されて、およそ単独の杖の支配下で考えうるよりも格段に激烈な憤怒の念で行使されるであろう、と確信する。民衆によるかかる迫害に際して個々の受難者は、他のどんな状況にもまして、悲惨極まる条件に置かれる)上227

 民主主義への深い懐疑

事実、フランス革命は血に染まり、革命後のフランスは、右のごとき惨状を呈した。「民主主義」への懐疑は、次章で取り上げるトクヴィルの名著にも受け継がれた。

バー・クの保守思想は、平等ないし水平化を求める多数派にも警鐘を鳴らす。
〈敢えて言うならば、水平化を試みる人間は決して平等を生み出さない。市民の多様な階層から成り立つ社会では、必ずや一部の人々が高い地位を占めるはずであり、従って、水平化する人間は事物の自然的秩序を改変し歪曲するだけである 上92 彼らは何かを必ず破壊せねばならず、さもないと自分の生きがいを実感できない)上107

実際、フランス革命はそうなった。後に、軍事独裁政権すら生んだ。古今東西普遍な人間性に着目したパークはこうも省察した。

(最も浅薄な知性、最も粗暴な腕力もこの仕事を充分にこなせる。憤怒と狂乱は、慎慮と熟考先見性が百年かけて築き上げるものを、ものの半時間で引き倒すだろう。古い体制の誤謬と欠陥は、目に映り手で触れられる。それらを指摘するのには、大した能力は要らない》下64

《保存しながら同時に改革することは、これとは全く別種の事柄である。古い体制の有用な部分が保存され、新しく付加された部分が既存の部分へ適合される時にこそ、強靭な精神力、着実で忍耐強い注意力、比較し結合する多面的な能力、そして便法をも豊かに考え出す知性の秘策が発動されるべきである)下65

事実、王と王妃は斬首され、フランス王制は終わりを告げた。王制に、誤謬や欠陥もあったであろう。しかし、フランスで「知性の秘策」が発動されることはなかった。伝統の誤謬や欠陥を指摘するのに大した能力は要らない。残念ながら、現代日本にも「浅薄な知性」が跳梁跋扈している。

 保守のための改革
パークが語った保守とは、一切の変更を拒否する頑迷固陋な姿勢ではない。以下のとおり「保存しながら同時に改革すること」は肯定する。こうも書いた。

《何らかの変更の手段を欠く国家は、自己の保存のための手段を持たない。かかる手段がなければ、それは自分が最も入念に保存を念願する、憲法の肝心要の部分を喪失する危険さえ惹き起すだろう》上45(私は変更を必ずしも排除しない。だが、変更を加える場合にも、それは保存のために行なわれるべきである)下199

これが、パークの有名な、保守のための改革論である。保守のための変革は、決して急進的であってはならない。バークは「サー・ハーキュリズーラングリッシヘの手紙」にこう書いた。

 〈われわれは誰しも変化の大法則に服従しなければならない。これは自然の最も強力な法則であり、多分それの保存の手段であろう。それゆえにわれわれ人間の叡智に実行できることは、この変化を目に見えない形で穏やかに進行させる配慮である〉(『論集』所収)

われわれ日本人は特に、皇室典範の改定に関する議論で、右の姿勢を忘れてはなるまい。
『省察』は「全編への結語」として、こうも書いた。

《私は我が祖先の手本に見習いたい。私は、補修を加える場合にも可能な限り旧来の建物の型に似せて行ないたい)《安んじてブリテン憲法の強固な基盤を踏みしめることで、フランスの気球乗りの絶望的飛行への追随を試みるよりも、せいぜいそれを嘆称するだけで満足しよう》下200

わが国の政治家と主権者が忘れてならない視点ではないだろうか。流行りの「政治主導」であれ、何であれ、日本の強固な基盤を踏みしめる姿勢を失えば、肝心要の部分を喪失する危険さえ惹き起す。

保守はプログレッシブに改革し続けるから伝統を保存する事ができるるのだ。
TPPは日本を破壊するといって交渉しないのは固陋頑迷な守旧派にすぎない。

さっそくTPPの交渉で米国がパンチを繰り出してきたが、負けずに打ち返せばいい。
米国や欧米の基準ではちゃんとパンチを打ち返す者は、打ち返さない者より信頼されるものだ!

TPP交渉で日本も堂々と打ち返しそして信頼を醸成すればいい。


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戦前の日本の外交は、陸海軍、国粋主義者、朝鮮独立テロリスト、米、英、ソ連、ドイツ、フランス、中共・国民党・・・そういった曲者達と、満州や大陸権益といった難題の前で、様々な駆け引きや苦闘していた。本書はリアルに解明している。著者井上教授はかなり意欲的に書いている。

例えば、松岡全権代表がリットン調査団の満州問題報告で国際連盟を脱会する経緯は私にとって目から鱗だ。松岡は脱会に最後の最後まで反対していたのだ。
p84-86
国際連盟総会が対日非難の報告と勧告案を可決しても、日本はこの決定を無視すれば足りる。
問題は起きない。ところがさらに日本の現地車が軍事作戦を始めると、国際連盟はこれを日本による新たな対中国武力攻撃と解釈して、第一六条に基づく制裁行動に出る。ここに日本にとって最大の危機が訪れる。同書の見通しの的確さはこの指摘にあった。

ジュネーヴでは松岡ら日本代表団も同様の見通しの下で、脱退回避に努めていた。ところが東京の外務省本省が消極的な姿勢になっていく。松岡は反問した。「第四項に移る場合、既に脱退の方針を御決定相成居るものと解し……差支無きや」。内田(康哉)外相は指示する。「最悪の場合、政府に於て脱退の決意を有することは申す迄もなき義なり」。松岡は私信に記した。「日本政府の御意向小生には頓と了解出来不申」。

「失敗した。失敗した。失敗した」

東京の外務省本省は悲観論に包まれていた。「一方には熱河問題もあることだし……いま三項によってあれこれしてみたところで無駄な話だ」。現地車の熱河作戦(万里の長城に近接する満州国の領土内にある熱河地方への侵攻作戦)の実行が時間の問題になっていた。

外務省は国際連盟規約解釈のプロ中のプロである。熱河作戦の国際的なインパクトが何を日本にもたらすか、知らないはずはなかった。内田外相らは考えた。このままだと規約第一五条第四項による決着へと向かう。そこに熱河作戦が始まればどうなるか。さきの小冊子があらかじめ注意を喚起していたように、第一六条の適用のおそれが出てくる。そうなる前に、日本から率先して脱退してしまえばよい。内田は指示しか。国際連盟臨時総会が対日非難勧告を採択するならば、脱退の意思表示として、議場から引き揚げる。

国際連盟臨時総会は、二月二四目、規約第一五条第四項に基づく対日非難勧告案の採択に進。

他方で極東からの急迫を伝える情報がもたらされた。熱河作戦の開始である。こうなると」刻も早く脱退しなくてはならなかった。

松岡ら日本代表団は、どうすべきか態度を決めかねていた。陸軍が派遣した要員のある者は「知らぬ顔の半兵衛を決め込めばよい」と言った。対日非難勧告が出ても、反対の意思表示をしたのち、国際連盟内に居残ればよい。そのような考えだった。外務省が派遣した外交官の方が脱退に傾いていた。本省と同じ認識である。意見が分かれるなかで、松岡はどちらとも意思表示ができず悩んでおり、迷っていた。


松岡は意を決した。本国政府に対する抗議の意味を込めて打電する。「事茲に至りたる以上、何~遅疑すら処無く断然脱退の処置を執るに非ずんば、徒に外間の嘲笑を招くに過ぎずと確信す。

東京の本省ははこれを抗議と受け取ることなく、渡りに船とばかりに脱退を指示する。内田外相訓令は用意周到だった。「反対投票に当りては単純なる引揚に非ることを示す趣旨の適当の声明をなすことと到度考なり」。松岡らが総会議場から引き揚げても、それは勧告に反対の態度を示しかにすぎず、脱退の意思表示ではない。

これと相前後して熱河作戦が起きればどうなるか。国際連盟側は勧告に不服なため、新たな戦争を開始したと解釈する。そうなれば対日経済制裁の最悪のシナリオとなる。このような事態に立ち至ることを避けるためには、脱退の意思表示として総会議場から退場しなくてはならなかった。

松岡は「堂々と」退場する。これは松岡のパフォーマンスではない。本省の指示どおりの行動だ
った。単に引き揚げるだけでは、「閉会に伴う当然の引揚と同一視」されるおそれがあった。脱退
の意思表示として引き揚げなくてはならない。この本省の指示に従って、松岡はやむなく、決別の
演説ののち、「堂々と」議場後方の出目へと向かった。引き揚げる際に松岡は独り言を繰り返しか。
「失敗した。失敗した。失敗した」。

欧州諸国との新しい外交関係の模索
p87
その後のジュネーヴ情勢
国際連盟のジュネーヴの総会議場から退場した松岡は、帰国後、ラジオをとおして国民に直接、訴えた。「私は徒らに彼等の認識不足を叫ぶことは出来ない。そういうことをいつまでもいっている人は、自分かヨーロッパの特殊事情の認識を欠いているのであります」。脱退の「立役者」として英雄となったはずの松岡が国民に求めたのは、欧州の複雑な事情に対する理解だった。

松岡は言う。欧州は「欧州人戦争の直前の不安な状態、及び危険な状態より、更に甚だしい状態」に陥っている。その上うな危機的な状況のなかで、「小国」にとって国際連盟は自国の安全保障の生入叩線」である。「小国」を非難するのは当たらない。欧州情勢を理解することが重要である、松岡はそう強調した。

これはに松岡の個人的な考えではない。外務省の基本的な立場と同じである。外務省亜細亜局第一課は、松岡へが総会議場から退場した翌日(二月二五目)付で報告書をまとめている。同報告書の脱退に至る経緯の説明は冷静で正確である。「今次聯盟の大勢を作れる小国側の態度は格別日本を憎悪し、支那を愛好すと云うに非ず」。事実、そうだったことは、すでにみたとおりである。
(略)

脱退後の欧州外交基軸
p90-94
 日本の欧州外交の基軸は、国際連盟脱退通告後も対英仏協調に変わりがなかった。イギリスとは翌年(一九三四年)にかけて不可侵協定構想が具体化する。日仏間でも両国は外交関係の部分的な修復を試みる。エリオ外相は、日中紛争をめぐる国際連盟におけるフランスの立場をあらためて説明した。「決して日本を目途としたるものに非ず。欧州に於て他日同様の事件発生を防止せんが為聯盟規約の完全なる適用を主張したるに過ぎず」。エリオは付け加えた。「日仏間の国交は依然親善関係を持続せんことを希望する」。

日仏外交関係の修復は二つの方向から進む。一つは満州国をめぐる経済協調の模索として始まる。もう一つは、対独警戒心を共通項とした、対ソ関係の改善による両国の間接的な接近である。

日本はこの年の秋、ソ連=満州国間の北満(東支)鉄道買収交渉の仲介国となって、満州国をめぐる対ソ外交関係の緊張緩和を図る。

ていた。松島(肇)駐伊大使は観測した。「独伊間特殊の交情関係に拘らず独蘇衝突の際伊国が中立を守るべきことを明にすることに依り独逸『ナチス』の蘇聯邦に対する無謀の暴挙を牽制するの効果ある」。
欧州情勢は複雑だった。この年(一九三三年)の秋にはイタリアが伊ソ不可侵条約案を提起し

このような状況のなかで、ドイツが国際連盟から脱退する。永井は日本がドイツと十把ひとからげにされたくはなかった。東京の本省が「日独黙約」説を打ち消し、ドイツの脱退によっても「日本の聯盟に対する態度に何等変更無きを声明」しかことを了解しながらも、永井はドイツに対する警戒を怠らなかった。

ファシズム国家への警戒
ナチスードイツに対する警戒は日本国内でも同様だった。欧米関係の外事警察は「最も当面的にして且重要性を有する」事項として、「軍事国情調査の防止取締」や「コミンテルンの赤化工作の防しに」などと並んで、「ナチス支部」の「活動に留意」することを挙げている。「其の趨く処を察知して川内に於ける安寧の維持に努むる」ことが目的だった。

~日本のナチス支部は一九三三(昭和八)年に、東京、横浜、神戸、大阪、九州に設けられる。
ズムはドイツ国民の政治的自覚より産れたるものとは思えない」。それでも政権を奪取できたのは、「彼ヒットラー一流の宣伝」によるとする。
党員数は合計で約二二〇名だった。これらをまとめる「全日本支部」は二年後に創設される。しかし具体的活動を開始せず、名目上京浜支部及阪神支部等を統轄するに過ぎざる実情」だった

その結果、どうなったか。同論考はナチズムを非難する。「ナチスはナチスの政敵を虐殺し、ドイツ文化の源泉たる学者を殺し、幾多の文献を焼却して愛国心を以ってナチスの専売と宣伝し、既に五百有余の法令を頻発してヒットラー一流の政治工作を実行しつつある」。

なぜドイツ国民はヒトラーを選んだのか。「大戦以来悲惨の極にあって藁をも掴む悲境のドン底にあるドイツ国民が、一時的方便として彼にドイツ及ドイツ国民の運命を托したまでである」。

同論考は繰り返す。「全ドイツ国民の心からなるナチスとは受取れない」。

ヒトラーに対する警戒は大戦百戦への警戒だった。欧州には「ドイツが又大戦争を始めやしないかと云う危惧」があるという。同論考はヒトラーの責任を追及する。「一九一四年から一九一八年に至る人我当時と同程度位にドイツをして諸外国に不評ならしめた其の責任はヒットラー政府である」。

二のようなヒトラーのドイツと日本が同じ「ファシズム」国家であるはずはなかった。しかももう一つの「ファシズム」国家イタリアの動向は、日独との利害対立を顕在化させかねなかった。

日本の国際連盟脱退に続いてドイツも脱退した。しかしイタリアは脱退しなかった。杉村(陽大川 但伊大使は以下のように観測した。「徒らに脱退して国際協力の埓外に孤立するよりも仏と結びて聯盟内に勢力を張る方有利なるべく:::伊は容易に脱退せざるものなり」。

p102-103
国際連盟脱退によって、日本は国際社会の孤児となった。この強固な歴史理解に対して、本章は別の見方を示した。国際連盟脱退をめぐって、日本と欧州諸国との相互理解が進む。

それでも脱退したのは、〈協調のための脱退〉と呼ぶべき歴史の逆説が働いたからである。

日本国内ではほばすべての主要な政治勢力が脱退に反対だった。ジュネーヴ情勢の緊迫化のなかで、脱退論を唱えるようになるのは、国際協調派の外交官である。彼らは考えた。満州事変の拡大にともなう対外危機(国際連盟やアメリカによる対日経済制裁)を回避し、自ら進んで脱退することで、満州事変を国際連盟の審議の対象から外す。そうすれば、国際連盟の枠外で欧米諸国との外交関係の部分的な修復が可能になる。

事実、国際連盟脱退通告後、状況は予想どおりに進展する。対外危機は沈静化に向かう。

日本は新しい地域国際機構の構想をとおして、欧州諸国と外交関係の再設定を試みるようになる。



執筆中





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p198-204
拡大抑止カは「信用と能カ」

 
春原:さて、一般に「核の傘(Nuc1earUmbrella)」と一言われているものは、正式には英語で「ExtendedDeterrence=拡大抑止力」と言いますよね。現在もオバマ大統領に「核なき世界」の実現に向けてアドバイスを送っているウイリアム・ペリー元国防長官とこの問題について議論した際、ペリー氏は「よく誤解されているが、拡大抑止力とはただ単に核兵器だけを意味するものではない」と言っています。

アーミテージ:拡大抑止力には(在日米軍も含む)米軍の前方展開戦力も含まれます。

ナイ:その通りです。そして、拡大抑止力とは「信用と能力」から成り立っています。つまり、いくら能力だけがあっても、それに見合う信用性がなけれぱ抑止力は拡大しません。たとえぱ、一九八○年、あるいは七九年のソ連によるアフガニスタン侵攻の前、当時のアフガン政府に米国が「もしもソ連が侵攻してきたら、あなた方を守るために核兵器も使用します」と一言ったところで、あまり意味はなかったでしょう。
 
我々にはそうする能力はありましたが、まったく当てにならない(口約束だ)からです。「信用」というものは、あなたがそこにどれぐらいの思い入れや利害を感じているのか、ということと密接に結びついています。
 
そして、経済的な関係や文化・社会的な交流などから、そうした「思い入れ」はどんどん大きくなっていくのです。だから、拡大抑止力を(核兵器などの)能力だけで語るのは間違っています。我々が日本に対して持っている「思い入れ」と組み合わさることによって、その信頼度は増し、拡大抑止力の効果を最大限に発揮するのです。

春原:核戦力だけではなく、経済力やその他、多くの要因が絡み合って形成されているのが「拡大抑止力」というものですね。

アーミテージ:私とジョー・ナイはそれを「スマート・パワー」と呼んでいます。

春原:「スマート・パワー」も拡大抑止力を構成する要素の一つという意味ですね。

アーミテージ:もちろん、そうです。ハード・パワーの概念はご存じでしょうが、人々に自分が望むものを押し付ける方法(軍事力など)のことを指します。それに対して、ソフト・パワーは人々を(自分の望む方向に)説得する方法です。スマート・パワーとはその二つの要素を組み合わせたものです。つまり、部分的には軍事力であり、核兵器であり、通常兵器であり、経済力であり……。

春原:文化的なものも合めてですね。
 
アーミテージ:ええ、文化は大きいですよ!こう言うと、日本の人はいつも「一体全体、どうしてそんなことが言えるんですか」と言いますが、たとえぱソウルから東京への文化発信を見て下さい。韓流ドラマ(SopeOperas)があるではないですか。日本のポップ・グループは韓国でもとても有名ですよ。ポップ・カルチャー、現代文化が人々の概念、受け止め方を変える力はとても大きいのです。それも立派な抑止力なんですよ!
 
春原:一方で、米国内では「いつか、日本も核武装するのではないか」という嫌疑の声が消えません。実際、オバマ大統領に「核なき世界」の実現に向けたシナリオをアドバイスしている四賢人、つまりウイリアム・ペリー元国防長官、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、サム・ナン元上院議員、そしてジョージ・シュルツ元国務長官のうち、シュルツ氏を除く全員が一度は「日本核武装論」を口にし、警戒心を露わにしています。
 
ナイ:私自身は日本が核武装を望んでいるとは思っていません。もちろん、何人かの特定できる人たちはそう願っているのでしょうが、それが主たる動機になるとも思いません。もちろん、日本には科学技術力もあり、望めぱすぐにでも核武装できるでしょう。だから、日本についてはビルマ(ミャンマー)のように能力がないからしないのではなく、望んでいないから(核武装を)していないのです。
 
ここで浮かんでくるのは「なぜ、日本はそう考えているのか」ということです。恐らく、その理由の背景には(広島.長騎での被爆など)多くの歴史があり、かつ米国の核戦力による保証があるのだと思います。もし、米国が再び、孤立主義に陥り、アジア太平洋地域からハワイぐらいにまで撤収するようなことになれぱ、日本の意見も変わるかもしれません。なぜなら、(米国の核の傘がなくなり)何の防御もないまま、日本は中国や北朝鮮による核の威嚇にさらされなければならないからです。まあ、そのようなことは起こらないとは思いますが・…:。
 
春原:実際には北朝鮮が「核保有」を宣言し、中国人民解放軍は核戦力の近代化を進め、ロシアもプーチン首相の下、かつての中央集権体制へと逆戻りしつつある。我々はあらゆる事態を想定して、抑止力を高めておく必要がありますね。
 
ナイ:全く同感です。だからこそ、米国の「核の傘」の信用力を維持することがとても重要なのです。ここで繰り返したいのですが、米国の「拡大抑止力」について信用を高めているのは、核兵器の数ではなく、日本に駐留する米軍の存在なのです。それこそが最も大きな日本への信用材料となっているのです。
 
沖縄海兵隊は核抑止カの「人質」
 
春原:話がだんだん佳境に入ってきました。そこでお聞きしたいのは今、ナイ教授が言われた「核の傘」、あるいは「拡大抑止力」と呼ぱれる政策の信用力・信頼性の問題です。歴代米政権は一貫して「日本への『核の傘』に問題はない」と公言していますが、一方で中国の核戦力近代化や北朝鮮の核開発問題など新しい現実に十分、対応しているのかという不安が残るのも偽らざる本音なのですが……。
 
アーミテージ:だから、そこで重要なのが沖縄に駐留する米海兵隊の存在と核抑止力の関係なのです。

春原:それは普天間基地をはじめ、沖縄に駐留する米海兵隊が日本にとっては実質的な「人質」となっていて、それをもって「核の傘」の信頼性を担保しているという考え方ですね。
 
ナイ:冷戦時代のベルリンを想像してみてください。人々は皆、「ベルリンのために米国はニューヨークを犠牲にはしない」と言っていました。ちょうど、「東京のためにロサンゼルスを犠牲にはしないだろう」と言うように。しかし、過去四十年間、我々が言ってきたのは、「我々はベルリンを守る。そして、ベルリンに駐留している米国の部隊がその防衛を担保して
いる」ということです。
 
春原:しかも当時、ベルリンに駐留していた米軍は小規模なものでしたよね。
 
ナイ:とても小さいものです。せいぜい、一個大隊、数千人程度でしょう。そもそも彼らは元来、ベルリン防衛のためにいたわけではないのです。ですから、ロシア人たちが彼らを追い出そうと思えばいつでもできました。ただ、実際にはロシア人が米兵を殺りくした場合、米国は必ずそれに対して報復したことでしょう。ロシア人もそれをわかっていて、だから我々は効果的にソ連を抑止することができたのです。ドイツにおいても核の抑止力を強めたのは、ベルリンに中距離核弾道ミサイルを配備することではなく、米軍をそこに維持しておくことだったのです。今日、そのロジックは日本にも当てはまります。
 
春原:その「ロジック」とは沖縄に駐留する米海兵隊のことを意味しているのですね。
 
ナイ:ええ、沖縄の海兵隊はその好例です。もちろん、青森県の三沢基地や横須賀基地なども含まれます。これらの基地、米軍兵力はいずれも日本にとって、米国の核の抑止力を最も強く担保してくれるものなのです。
 
アーミテージ:私はそれを「人質」とは言いませんよ。もし、米海兵隊に所属する我が国の青年、婦女子たちが日本防衛のために命を落とすようなことがあったとすれぱ、それは我々の核抑止力の信頼性を増すことになるでしょう。もし、通常兵器の戦闘によって彼らが命を落とすようなことになるのなら、我々は迷うことなく「核の傘」を日本の空の上に広げ、日本全土と彼ら(米海兵隊員)を守ります。私が言わんとしたのは、そういう色々なニュアンスのこもったメッセージであり、単純に「人質」というわけではありません。
 
春原:極めて高度な政治的メッセージですね。
 
アーミテージ:その通りです。
 
春原:にもかかわらず、鳩山・民主党政権は当初、沖縄米軍.普天問基地の移設先として「国外」を主張していました。まあ、後に鳩山由紀夫前首相は「抑止力の意味がわかった」と述べていたので、少し考えを変えたのかもしれませんが…。
 
ナイ:日本の政治家やジャーナリストはその点をもう少し日本の世論に伝えた方が望ましいですね。つまり、沖縄に駐留する米軍は基本的に「人質」の役割も兼ねているのです。
 
春原:その論点を米太平洋軍司令部の将官たちに指摘すると、彼らは嫌な顔をしますが…。
 
ナイ:もちろん、彼らはそうは考えたくはないからです。しかし、「米兵たちをそこに置いておく効果は何か」と問えぱ、それは「核抑止力の保証だ」ということにもなるのです。
 
春原:オバマ政権でアジア政策を担当するカート・キャンベル国務次官補は二〇一〇年春から日本の外務・防衛当局と「核の傘」に関する初の政府問公式協議を始めました。それも信用力をあげるための一環でしょうね。
 
ナイ:そうした対話の場を持つことは良いですね。我々も拡大抑止力がしっかりと機能することを示すため、様々な方法でこの問題についてもっと日本側と意見を交換すべきだと思います。日本は非核三原則を堅持しながら、米国による「核の傘」についても自信を深める必要があります。実際、日本がロシアや中国、北朝鮮によって脅される場合、米国が日本防衛に真剣に取り組むということを確信してもらいたいですね。

3.11後日本人が核を原子力を含めて拒絶する傾向が深まった。
この事実は、日本の核保有議論や、反米保守議論、さらには憲法改正議論が難しくなったことを意味します。
 
村上春樹氏が原子力平和利用を含め全ての核に反対すると宣言したように、原子力発電所も全廃したいと考える日本人が増えたのだから日本の核兵器の保有など、非現実的になってしまったと考えるべきです。
 
もし、日本が核を保有すると決めるなら、それは中国や朝鮮から日本に核が打ち込まれ、米国が反撃しなかった場合になるでしょう。
 
そう考えると、反米かつ非核宣言する人達は、中国や朝鮮から核による脅しや攻撃を受けやすくなることを考慮しなくてはなりません。実際に中国や朝鮮からの核による威嚇をされたなら、将来日本が核を保有すると決意させることになるのです。
 
反米かつ非核宣言する人達は自分達こそ日本の核保有の遠因になるということに気がついていないと私は思います。
 
ただし、国防的視点からすれば、攻撃目標としての日本の原子力発電所は危険極まりないもので、その視点からすれば全廃すべきなのかもしれませんが、現状では必要不可欠です。
 
仮に原発を全廃して今度は中東で戦争が発生して石油や天然ガスが入ってこなかったら日本は3.11直後の状態で済まなくなります。
 
原子力発電所や国防については感情論ではなく、冷徹な国益を考えた政策が必要であると私は考える次第です。

 『「日米同盟vs.中国・北朝鮮」アーミテージ・ナイ緊急提言 リチャード・L・アーミテージ ジョセフ・S・ナイJr 春原剛/著(文藝春秋)』を読む 
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(4)「血も家も」
p173~174
イデオロギーが成立する戦国時代が終了して江戸幕府が成立すると、時代の趨勢は、動乱から安定へと変化していきます。武士たちは貴族の世界を模倣するように儀礼の世界を作り上げ、毎年くり返される年中行事に明け暮れるようになります。伝統や先例が重んじられ、世襲を根本の原理とする社会が形成される。過去の時代と決定的に異なるのは、罪を犯したならば司直の手により罰せられるようになったこと。それゆえに犯罪は減少して、曲がりなりにも平和な毎日が到来したことです。
興味深い数字があります。一六〇〇年にはおよそ一千万人だった日本の人口は、江戸時代になると値は急激な仲びを示し、一七〇〇年には二千五百万人に膨れあがりました。十七世紀に人口爆発が起こっているのです。国力と人口は密接な連関を示す。それは現代の世界を見ても明らかでしょう。遠くない将来、多くの国民を抱える中国とインドが特別な発言力を行使し始めるだろう、とは衆目の一致する観測です。
そうとすれば、江戸時代は中世に倍する国力を有していた、と大まかに捉えることができるかもしれません。人々は江戸幕府が提示した理念を受け容れ、だから祉会生活は安定し、人口が急速に増える。その理念とは、武士・村落民・都市民(士・農・工・商という言い方は、以前のものになっているようです)の身分の固定と、世襲に他なりません。
農民に生まれたら農民になるほかない。大工などの子として都市部に生まれたら、職人になるか商家に奉公するか。支配社会層である武士にしても、出世は干難の業で、たいていは父親の人生をなぞるだけ。そうした毎日は確かにうっとうしいものだったでしょうが、そこには少なくとも平和があった。自由をあきらめる代わりに、今までにはない安全を獲得する。江戸時代の人々は、そうした選択をしたのだと思います。
(1)明治維新はやはり特異である
p186~190
これまで述べてきたように、日本の社会は平安時代から一干年の間、世襲に童きを置いて歩んできました。これだけ長時間にわたる強固な価値観なのですから、内発的な事件や指向性の変動では、それを改変することはおそらく難しかったでしょう。
ところが江戸時代末、突如として黒船がやってきた。帝国主義列強の脅威が眼前に迫ったのです。この外圧に晒されて、日本は初めて変わる決意をする。それも、独りよがりな改革ではなく、他者[諸外国の視点に立った変化を遂げていく。それが明治維新です。
明治維新の意義については、それこそ様々な研究があり、言及がなされています。中には、いや改革とはいうけれど、日本はちっとも変わっていない、との極論まであります。
ここでは、これまでに見てきた「世襲と才能」の観点から考えてみたい。すると、やはり明治維新は、日本史上で最大の変革であるといわざるを得ない。
 
明治政府は、初めて官僚によって運営されました。高官たちは下級武士の出身者がほとんどで、才能を根拠として登用されています。そこには世襲の論理がないのです。全国の大名は身分を剥奪され、家格は否定され、士・農・工・商の別もなくなりました。才能を磨くことによって、立身出世が可能な世の中になったのです。
 
明治の元勲たちの動向を見ていると、子どものために財産は残しても、政治的な依怙贔屓をしていないのに意外の感を受けます。大久保利通の子や伊藤博文の子ですら大臣になっていません。長州閥の領袖として悪名高いあの山県有朋も、跡取り(甥を養子に迎えています)の将来に便宜を図るような振る舞いはしていません。「子孫の為に美田を買わず」は西郷隆盛のことばですが、元勲たちはそれに倣っているのです。
 
富国強兵、文明開化。それを成し遂げなければ日本は植民地になってしまうかもしれない。国を挙げての取り組みが為されます。その手段として、世襲は否定され、才能の重視が実現するのです。
 
けれども、やはり日本社会は長いあいだ世襲で動いてきている。支配者層=官僚組織は才能を拠り所にするけれども、そのありようはすぐには民衆の理解を得られない。ここに、「官と民」の対立の萌芽が生まれてしまいます。また、この対立は「都市部と農村部」の対立にすぐにも転化する可能性を秘めている。
そこで明治政府は天皇を前而に押し出したのではないでしょうか。伝統、古き良き日本、そして世襲を一身に体現する

天皇を、です。天皇を中心とする国家作りを掲げることにより、「天皇(原理は世襲)-官(原理は才能)一民(原理は世襲)」とすることにより、一才能の官と世襲の民」の対立の図式は避けられるのです。

加えて明治政府は、刻苦勉励して才能を磨けぱ、民はいつでも官の仲間人りができる、というモデルを作って見せました。学校を建て、教育の実践に努力を傾注したのです。天皇の擁立、官と氏とを結ぶルートの形成。これにより、社会の安定が図られました。
 
ただ、ここで「天皇-官」にも微妙な問題が生まれました。
というのは、君主とそれを支える官僚組織、という構図はそれこそ世界の至る所にあったわけで、日本のアイデンティテイを確立するのに寄与してくれません。そこで注目されたのが、『古事記』などの日本の古典を重視し、研究していた国学です。江戸時代後期に盛んになった国学の主張を取り入れ、天照大神から血縁で連綿とつながる比類のない天皇家。その「万世一系」の天皇家を戴く、他国に例のない日本が強調されることになったのです。
 
国学の考え方は、日本のすがたを見つめる知識人に広く浸透していました。島崎藤村は「夜明け前」の主人公、青山半蔵を、古代以来の天皇を敬慕する人として活写しています。ここでは、時に極端な主張をする人なので例として不適切かもしれませんが、吉田松陰の論を紹介します。安政の大獄で刑死した思想家(もともとは兵学者)・教育者で、明治の元勲に多大な影響を与えました。
 
「日本では天下は天皇一人の天下である(後述する『呂氏春秋』に対応することば)・もし暴虐の天皇が出現しても、その方を討つようなことは、中国にはあっても、日本にあってはならない。全国の民は皇居の前にひれ伏して天皇の改心を祈るだけで、怒った天皇が民を片端から殺し始めたら、最後の一人までただ祈りっづけるのだ」(『丙辰幽室文稿』)
 
徳のない天皇は討伐して良し、とする中国流の「易姑革命」はまちがっている。ですから天皇はおのずと「万世一系」となります。われわれ臣民は無条件に、「万世一系」の天皇に命をさしださねばならない!うーん、すごい理屈もあったものです。
(4)世襲と才能の現在
p202~206
太平洋戦争に敗れた後、天皇は元首から象徴になりました。私はこの変貌により、日本社会における天皇の位置はより確固たるものになったのではないかと思っています。というのは、これまで述べてきたように、天皇や将軍、組織のトップが実権力を振るわないのが、日本の伝統的なあり方だったからです。
世襲を体現しながら、現実的な権力とは別次元にいる。そうした象徴天皇制は、驚くほど高い国民の支持を受けています。問題はやはり「万世一系」でしょう。男女平等がこれだけ根付いた状況で一夫多妻を認めよ、というのは乱暴な話ですから、皇室は常に後継者問題に頭を悩ませることになります。男性天皇とか男系天皇に固執すればより一層、解決は困難になっていくでしょう。
これはあくまでも私の考えにすぎませんが、本書で書いてきたことと関連して、
①万世一系は明治維新において強調された概念であること。
②日本は世界の中で、すでにきちんと座を占めている。つまり、もう無理やりにアイデンティティを強調する必要がないこと。
それに加えて、
③さすがに天照大神や神武天皇の物語は歴史事実ではなく、神話であると多くの人が認識していること。
も考慮した時に、もはや「万世一系」にこだわる必要はないように思いますが、どうでしょうか。むろん、そうした論議は専門の方々にお任せしますけれども。
我が身により切実に関わりのある、深刻な課題は、世襲と才能の連関です。明治維新のときはのように「天皇と官と民」でしたが、戦後は天皇がここから後退し、政治家が登場してくる。「政治家と官と民」です。日本の歴史ではあまり明瞭に区分されなかった政治家と官僚とが、やっと並び立つのです。ところが日本人はあくまでも世襲に弱いらしく、この政治家がどんどん世襲されていく。二代つづく国会議員は当たり前、三世や四世までいる。しかも中には地方自治体の市会議員・県会議員も世襲で、その上に国会議員が乗る、というように、がちがちの権力構造ができているところまである。これではほとんど、江戸時代の藩の権力と変わるところがありません。
でもそれでも世襲批判はそれほど熱を帯びない。ジャーナリズムが記事にしてもそれが盛り上がりをみせない。日本人はよほど、世襲に寛容とみえます。世襲の原理がDNAに組み込まれているのでしょうか。
たしかに「はじめに」で記したように、才能だけに依拠していては、一人の勝者を生みだすために、九人の敗者が犠牲になることになりかねません。あるいは、競争が激化すれば、九人が九十九人になる事態もあり得るのかもしれない。歴史を参照すると、そうした厳しい競争は、日本人には向いていないといえるでしょう。
日本の歴史では、こんなにはっきりと才能の結集を呼びかけた人物はいませんでした。
せいぜい織田信長が、それに近いことをやっているくらいです。日本社会は古くから、才能の用い方に習熟していない。だから第一章で見たように年功序列があったり、世襲があつたり。絶えず争いつづけるぎすぎすした人問関係ではなく、まったりとしたコミュニティを指向するのでしょう。
ただし、前近代ならばそれでも構わないのかもしれませんが、いまは何しろ「グローバリゼーシヨン」の時代です。絶えず世界の動向に気を配り、世界と競争していかねばならない。そのときに世襲だけでは、とても太刀打ちできないのではないか。これも「はじめに」で記したように、世襲で発言力を得た政治家が、しきりに公務員を叩いて票を獲得しようとしていますが、せっかく明治維新が作りだした官僚機構をつぶしてしまって良いのでしょうか。とてももったいない気が、私にはするのですが。
世襲議員と中央官庁の上級公務員=官僚と。その限りで話をすれば、世襲議員には私たちはなれません。天運です。でも努力して勉強すれば、官僚にはなれるのです。ならなかったのは、もつぱら私たちの側に理由があるのです。父祖譲りの地盤を受け継いで選挙を勝つて、「民主的」だと称する世襲議員と、子どもの頃から一生懸命勉強して・何度もの試験をくぐり抜け、職場でも鍛えられてきた官僚と。世界とやり合う戦力としてどちらを信用するか、と問われれば、ぼくは文句なしに官僚の能力の方を支持しますけれども。でもそれは少数派ですね。
私は保守思想を自認していますが、消極的親米保守主義者です。
戦後日本は、宗主国米国によって内政を統制され国家としての矜持を忘れ去られてきました。

しかしながら、今後100年中国に対処するには米国との強調は必要だと私は思っています。ネットには擬似保守主義者からである反米左翼まで雑多な意見が出回っています。そのなかに、皇室を中心とした日本を批判したり、天皇は万世一系ではないから皇室をなくせとの意見を書いているブロガーがいる。

私は、日本のネット世論に中共の影を見てしまう。中共の国益は日米離反であり、皇室を無くす事はもっとも効果的な日本の破壊である。

安易な反米と皇室批判は中共の工作員によるネット世論誘導を疑うべきではないだろうか?
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