Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ

政治経済軍事外交、書評に自然科学・哲学・聖地巡礼・田園都市ライフ、脳の外部記憶媒体としてこのブログを利用しています。2020/11/30以前はGoogle検索でキーワードを入れると常に上位にありましたが、日本のトランプ大統領デモを紹介した記事が米国でバズって以降検索アルゴリズムから排除され検索ヒットされにくい状態です。是非ブックマークをお願いします。このブログをご訪問していただいた方の知識や感性として共有できれば幸せに思います。

タグ:映画レビュー

 
 
 
借りぐらしのアリエッティ ノーカット版 予告
 
 
今日借り暮らしのアリエッティを観てまいりました。秀作でした。
 
14歳の小人の少女・アリエッティは、東京の小金井(スタジオジブリがある街)あたりにある旧家の床下で、人間の生活品を借りながら、両親と密かに慎ましく暮らしていた。
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しかし、彼女らは人間に見られてはいけないという掟があった。
 
そんなある日、その屋敷に一週間後に心臓の手術を控えた少年・翔がやってきた。アリエッティは翔に自分の姿を見られてしまった。その少年の両親は離婚して外交官の母親は息子が大手術だというのに海外で仕事。一週間後の心臓の手術を独り大叔母の家で待つことになっていた。言い方が悪いがカツマーな母親による一種のネグレクトでもある。
 
イメージ 14イメージ 15翔の母親も、翔の祖母の妹にあたる大叔母(牧貞子)も、その父もお手伝いのハルさんも、薄々この屋敷に小人達が住んでいることを察していたが、あえて捜そうとはしなかった。だが、少年は、アリエッティの世界へ一歩踏み込んでしまったのだ。
 
アリエッティの落とした角砂糖を届けたり、外交官だった曽祖父が小人の為に英国より取り寄せたドールハウスをアリエッティの家に据えつけたり・・・
 
イメージ 16アリエッティ一家は引越しを決意する。そんな矢先、翔の残したバールからお手伝いさんのハルにアリエッティの家を発見され、母親のホミリーがハルさんに捕まってしまったのだ。アリエッティは翔に助けを求め、二人協力してアリエッティ母親ホミリーを助けることに成功する。その晩一家は引越しをするが、お別れをちゃんとしていなかったアリエッティは、翔に対し少し未練が残ってしまった。
 
家ネコのバルはそんなアリエッティと翔の心を察したのか、翔をアリエッティのところまで案内するのであった。けして実らない淡い恋心を抱いた二人に、最後のお別れの挨拶を朝日が昇る崖の上ですることができたのでした。
 
イメージ 3イメージ 4これは、原作のメアリー・ノートンファンタジー小説床下の小人たち』を1995年スタジオジブリの青春恋愛作品「耳をすませば」の世界で演じた作品だったのだ。なんとなく家ネコのバルは「耳をすませば」と「ネコの恩返し」に出てくるネコのムーンにそっくりだ。イメージ 5しかもエンディングも「耳をすませば」の感動的なエンディングのオマージュなのだ。イメージ 6
 
米林監督は、「耳すませば」を見て「青春を感じた」ことがジブリに入ろうと思ったきっかけとか・・・なるほど。
 
まだ観ていない方は観る前に一度、「耳すませば」を観てから観るともっと色々な点に気づくかもしれませんね。
 
イメージ 7イメージ 8もう一つ、本作品は秘密の花園へのオマージュでもある。翔がベットで読んでいた本がバーネットの秘密の花園であるが、秘密の花園に登場する少年は生来病弱でベッドから殆んど出たことが無く、両親に愛された記憶の無い少年・・・まるで翔そのものではないか・・・! 
 
 
ただ、盛りだくさんに詰め込んだせいか、上映時間94分はあっという間に過ぎ、短すぎるような印象を残してしまった。上映時間の短さはストリーを盛り上げるには些か影響してしまったかもしれない。また、翔の手術は成功したのか?新しい家はどんなところか?気になるままで終らせないで・・・・などと考えると、あと10分~20分欲しかったかもしれない。私はけして嫌いではないのですが、ゲド戦記も、もっと長編でやればあそこまでボロクソに言われずに済んだのに・・・。この作品も同じように批判する人が出るでしょう。
 
二人の淡い恋はロミオとジュリエットよりも難しい越えられない壁があり、その壁で苦悩する二人は観たくはなかった。上映時間が短いおかげで、二人の淡い恋はこれ以上進めなかったことに一観客としてほっとした点も否めない。
 
ネット上ではこの作品を軽薄に批判する人もいる。でもそういった人達は、宮崎駿の思想が巧みにお織り込まれたこの深い哲学性に気がつかないからだと思います。
 
イメージ 9宮崎駿の想いは失われ往く自然環境や、滅び行くものへの愛情に溢れているのです。この作品も「ナウシカ」や「もののけ姫」や「平成たぬき合戦ぽんぽこ」同様そういった人間と自然、異界の生き物との共存を考えさせられる作品でもあるのです。
 
異なる種族は出会ってはいけない。それぞれの世界で生きている方が幸せな場合もある。人間にある好奇心に潜む無邪気さは、社会の秩序をいつしか破壊することもある。
 
宮崎駿の偉いところは、元左翼崩れが主張する偽善的エコ思想とは一線を隔している。この作品でも、人間にある好奇心に潜む無邪気さは、無謬であるがゆえに社会の秩序を混乱に陥れ、いつしか伝統的な生活を破壊する警告ともとれる。
 
簡単に言うと、戦争反対=平和憲法を守れみたいな、無邪気な人間たちによって、日本の伝統的な暮しや価値観が破壊されているのだ!
 
滅び行くものとして、隣のトトロに出てきたような森もそうだが、日本にはこの牧家のような広大な敷地を持つ旧家が残りにくい法税制制度であることも、宮崎は考えているのだろうか?今回の物語の舞台の95%を占める和洋折衷の魅力的な古い館がなくなって行くことも、日本人が大切なものを次々失っていると警告していると感じるのです。この家のモデルは青森にある盛美園という旧家とのことです。
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小人の世界とは闇や影の世界の隠喩ではなかろうか?小人の居場所をなくしているとは、闇や影の部分を次々に暴きたてることが正義であるかのような暴挙に対する警告とも解釈できるのです。
 
イメージ 11スピリチャルな「座敷わらし」やツチノコのようなUMA(未確認静物)もある種闇でもある。確かに、そういった闇の生き物がいそいうな場所が次々と日本から消失しているが、私にはもっと別な大切な闇の世界の秩序を壊していることを気づくべきと感じました。日本人の多くはその喪失していく闇の大切さに気がついていない・・・
 
 
イメージ 12日本の闇や影で暮してきた人達とは、任侠と呼ばれる人達ではないのか?暴力団(任侠)を追い詰める事が正義なのか?任侠社会というものは、古くから日本の最底辺のセーフティネットでもあったことを皆忘れている。
 
暴対法以後、一部のマフィア化した組織は栄え、社会の底辺を支えていたような任侠の人達は困窮してしまい、最底辺でいきるのがやっとの人達をかえって困らせているように思えてならない。
 
暴力団追放の美名の下に、任侠の世界をこれ以上壊していいものか?私にはこの小人達は、もしかしたらある意味では社会の最下層で生きている人達ではないのか?・・・と思った。(少々飛躍しすぎたかな?)闇の世界をなくした世界は、光さえ失った世界でもあるのだ。
 
都会の片隅で起きた悲劇、育児放棄で失われた幼い命・・・闇の社会とともに社会の最下層の生きていく糧や人情を破壊した日本が払わなければならない代償は重い。
 
イメージ 19借り暮らしアリエッティの中でアリエッティの父ポッドは、「我々はなんとしても生き続けなくてはならない」(記憶なので少々違うかも)と、家族の大切さ、生きる大切さを、恥ずかしげも無く語っているが、声優”三浦友和”が語ると、やたらとカッコいい。宮崎駿が伝えたいことはまさにこのことだろう。
 
 
 
イメージ 20映画のエンディングはアリエッティの仲間の小人野生児スピラーが、アリエッティに好意を抱き、生命がこの後も続くことを示唆して終った。
 
 
 
 
 
 
 
            スピラー
【蛇足】この野生児スピラーは未来少年コナンに登場した野生児ジムシィに性格も風貌もどこか似ています。
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      ジムシィ
 
 
 
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3D映画 ティムバートン監督の「アリス・イン・ワンダーランド」を観てまいりました。
 
「続・不思議の国のアリス」の物語だが、ティムバートン監督とルイス・キャロルの世界が融合し、大人のファンタジーとして実に愉快、たいへん面白い時間を過ごせた。アバターは見損なっていたので、3Dの映画はディズニーランド以外では初体験だったが、キャプテンEOやミクロアドベンチャーのようにことさら3Dを強調するのではなく、当たり前のように3Dで物語が進み、「これから映画はすべて3Dとなるのだなぁ」と強く感じさせる映画であった。
 
ちなみに、2011年東京ディズニーランドに、総投資額約60億円のシアター型アトラクション「ミッキーのフィルハーマジック」を導入する。ディズニーの3D技術を用いてミッキーマウス、ドナルドダックといったキャラクターを、観客が手を伸ばせば触れられそうな近さに登場させるというが、3D映画が普及すると、折角60億円投資しても、陳腐なアトラクションに成り果てるかもしれませんね。
 
どことなく、同じディズニーのファンタジー映画の、ナルニア国物語 第1章:ライオンと魔女に何処となく雰囲気が似ているような・・・・気もしないではない。
 
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ただ、一つだけ気になったことがあった。物語の佳境が過ぎ、美しいし妹の白の女王が、醜い独裁者で姉の赤の女王に勝利した後、敗者である姉に対する仕打ちに強い違和感を感じてしまった。
 
虫も殺さない妹の白の女王が、カインコンプレックス (兄弟姉妹間の親の愛をめぐる葛藤 )からだろうか、赤の女王に対し、死より厳しい罰をあたえることだ。永遠に誰にも愛されず、口もきいてももらえない刑を処すというのだ・・・
 
独裁者で、多くの命を奪ってきた当然の罰であると何の疑問も持たずに処罰を下し、誰も同情しないのである。
 
かつて女王エリザベスが従兄妹のスコットランド女王メアリーを処刑した伝統であろうか?醜い容姿を持った姉に同情どころか死より恐ろしい罰を与えハッピーエンドなのだ・・・日本の物語では、敗者にも某かの救済があってしかるべきことなのに、トランプの騎士団にも「もうお前の言うことなんか聴いてやらないよ」とか、恋人面をしていた騎士にも最後に裏切られ・・・悪役のままで実に気の毒なのだ。
 
頭の大きな女王、いや魔女といえば、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」の、湯婆婆 (ゆばーば) と銭婆 (ぜにーば)を連想した。双子の仲の悪いフリークスの魔女の姉妹は、激しく 対立していても愛情はどこか通っていた。

ワンダーランドでは、醜女と美女の姉妹、醜女の姉は、両親にも疎んじられてきたと告白している。フリークスの姉が、「人々に愛されないのなら、恐怖を!」と叫びあのような狂気に走ったのは白の女王の美貌ゆえである事を少しは感てあげないと・・・・ちょっと救われない気分になった。
 
それとも、美しい容姿を持って心優しいように見える人達の裏側は実は残酷なのだと逆説的に告発しているのだろうか?
 
監督のティムバートン は、お蔵入りした彼の初期の作品フランケンウィニー(2011年公開予定)や、彼の出世作シザーハンズは、フリークス、醜い者へ深い愛情が溢れていたのに、なぜあのような終り方になったのか疑問でならない・・・
 
プロジューサーからの圧力なのか?それとも弱肉強食、ウィーナー・テイクス・オールの西洋社会いやアングロサクソンを逆説的に批判しているのだろうか?などと考えたが、私はある仮説にたどり着いた。
 
仮説というよりは嫌中保守主義者の偏執的妄想かもしれないが笑わず読んでください。
赤の女王=中国の隠喩
白の女王=白人社会(欧米)の隠喩
と、考えるとティムバートン監督の演出の疑問が氷解するのである。
 
本物語のエンディングは、赤の女王を破ったアリスは、退屈な男の求婚は蹴って、野望を胸に抱き、中国市場へ進出しようと香港に船出するところで終わりになるのである。
 
赤の女王(中国)の取り巻き達は、皆おべっか使いで、偽のフリークスであった。ジョニーディップのマッドハッターが、処刑から逃れアジった内容も意味深長だ。側近達が赤の女王(中国)に近づいているのは、利益を求めて仲良く振舞っているだけで、我侭な赤の女王(中国)なんか誰も信頼していないこと。皆で我侭な赤の女王を懲らしめようとメッセージを叫ぶのである。
 
皆立ち上がろうというメッセージを送っているのではないだろうか?
 
赤の女王(中国)はフリークスでずっと虐げられてきた。(=近世は日本や欧米の植民地として搾取されていた)頭が大きい(=人口過剰)だが、今は傍若無人に振舞っている。ドラゴン=龍=中国が敗れ去る時、誰も同情しないであろう。そして永遠に誰にも相手にされないというメッセージなのではないだろうか?
無敵だった赤の女王は最後は惨めに敗れ去る・・・・だからこの映画では誰も赤の女王に同情しようとしないのだ。
 
そして、正義のふりをしている白の女王(欧米)も実は偽善者にすぎないというメッセージならもすごく納得する。考えすぎだろうか?
 
蛇足ながら、そう考えると、アリスに求婚するつまらない男は鳩山に思えてくる(笑)
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http://www.ghibli.jp/ponyo/
あらすじ
崖の上の一軒家に住む5歳の少年・宗介は、ある日、クラゲに乗って家出したさかなの子・ポニョと出会う。
アタマをジャムの瓶に突っ込んで困っていたところを、宗介に助けてもらったのだ。
宗介のことを好きになるポニョ。 宗介もポニョを好きになる。 「ぼくが守ってあげるからね」
しかし、かつて人間を辞め、海の住人となった父・フジモトによって、ポニョは海の中へと連れ戻されてしまう。
人間になりたい!ポニョは、妹たちの力を借りて父の魔法を盗み出し、再び宗介のいる人間の世界を目指す。
危険な力を持つ生命の水がまき散らされた。
 海はふくれあがり、嵐が巻き起こり、妹たちは巨大な水魚に変身して、宗介のいる崖へ、大津波となって押し寄せる。
 海の世界の混乱は、宗介たちが暮らす町をまるごと飲み込み、海の中へと沈めてしまう。
http://www.ghibli.jp/ponyo/press/story/
崖の上に取り残された宗介とポニョは、宗介の母、「りさ」を捜しに行く小さな冒険へ出る。
宗介とぽにょは、母「りさ」の勤める「たんぽぽの家」(海の中)へたどり着く。
ぽにょの父「フジモト」と母「グランマンマーレ」は「ポニョ」を宗介に預けることにより、人間にすることを決意する。
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宗介
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宗介の母「りさ」 ちなみに彼女の運転はカリオストロの城のルパン三世を彷彿とさせる豪快な走りを見せる。
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元人間のマッドサイエンティスト「フジモト」ポニョの父でもある。
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ポニョの母であり、海なる母 「グランマンマーレ 」

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今日は遅ればせながら娘にせがまれ、宮崎監督「崖の上のポニョ」を観に行きました。賛否両論の映画ですが、私はたいへん楽しませていただきました。映画を見てなぜ賛否両論になるのか、そして、否定的意見が出るにもかかわらず、何故ヒットしているのか、映画を観ながら少し考察してみました。

この映画は、アンデルセンの人魚姫のお話をベースにしているとの前振りでしたが、ディズニー映画「リトルマーメード」をイメージして行った観客にとっては、「とても違和感があったのではないか?」と思いました。違和感があるがゆえにポニョには賛否両論があるのだと思います。

私が思うに「ポニョ」は、「宮崎版リトルマーメード」ではなく、アンデルセンの人魚姫のお話をベースに日本の人魚伝説を織り交ぜ宮崎監督が再構成したお話だと思います。それゆえ違和感を感じる観客が続出するのだろうと思います。「崖の上のポニョ」は「宮崎版八百比兵尼(ハッピャクビクニ)の伝説」ではないでしょうか?

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リトルマーメード の「アリエル」

八百比兵尼(ハッピャクビクニ)の伝説とは、全国各地に残る、日本の人魚伝説まつわる物語です。
【国際日本文化研究センター:怪異・妖怪伝承データベース】
http://www.nichibun.ac.jp/cgi-bin/YoukaiDB2/ksearch.cgi?Area=%E5%85%A8%E5%9B%BD&Name=%E4%BA%BA%E9%AD%9A
(怪異・妖怪伝承データベース製作委員長は、あの、文化人類学者小松和彦教授です。)

伝承は様々ですが、古来日本人は人魚を、妖怪の一種、その肉は不老長寿をもたらすものとされています。また、幾つかの伝承では、人魚を調理しているのを赤ん坊だと、誤認され目撃者は驚くという逸話も残されています。そして、その肉を食べた娘が長生きして、800歳(八百比兵尼)~1000歳(千年比兵尼)まで長生きをしたという伝説が、広く全国各地に伝承されています。

映画「陰陽師」のファーストシーンでは、平安京を造営しようとする桓武天皇が都の守り神として、小泉今日子 扮する「青音」を不老不死の巫女にする儀式であったと思います。不老不死と霊力を与える為に祭壇に祭った「人魚」の肉を小泉今日子 扮する「青音」が、桓武天皇より授けられるシーンのような記憶があります。(YouTubeを捜しましたが無いので記憶で申し訳ございません)小泉今日子 扮する「青音」は、野村萬斎扮する「陰陽師」を助ける重要な役回りでしたが、映画「陰陽師」を見た方なら、「青音」こそ不老不死の「八百比兵尼」かと思い出していただけるかと思います。
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映画陰陽師
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id234051/
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人魚 鳥山石燕『画図百鬼夜行』
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人魚図 江戸時代の瓦版 笹間良彦『図説・日本未確認生物事典』
http://lapis.blog.so-net.ne.jp/archive/c40374228-1
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ポニョ

映画で描かれていた人魚も、私の記憶では、美しくはないグロテスクに描かれていたと、記憶(おぼろげです)しています。古来日本では、人魚は妖怪画として、数多く描かれてきました。また、江戸時代、猿と魚をミイラにして縫い合わせ、「人魚のミイラ」として市中で出回った記録も残されています。今日でもその一部は伝承され、その幾つかが時々UMA(未確認生存動物)扱いで、雑誌ムーなどに掲載されたりしていますが、やはりグロテスクな物体で、リトルマーメードの「アリエル」とは似ても似つかないものです。

話は、「ポニョ」に戻しますが、「八百比兵尼伝説」がベースとすると、難解な宮崎童話「崖の上のポニョ」がなんとなく理解できます。

ぽにょの好きな食べ物がなぜ「ハム」なのか?これは「人魚の肉」の隠喩ではないでしょうか?
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そして、デイケアセンターのお年寄りは「八百比兵尼」の隠喩。
車椅子の老人達が、「ポニョ」と交わることで、自分の足で歩き、駆け出します。不老不死と若返り、これは「八百比兵尼」伝説そのものかもしれません。
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「ポニョ」の父親「フジモト」は、不老不死を目指す仙人。主人公「宗助」は人魚伝説に登場する、人魚=赤ん坊の隠喩。ストリーの途中で、海が盛り上がり避難してきた若夫婦が赤ん坊を抱きしめ、「ポニョ」と交流するシーンがあった。あまりストリーに意味も無く、なぜこの逸話をストリーに盛り込んだか疑問にも思えたが、このシーンに描かれている赤ん坊の隠喩も、これで納得する。
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洪水とポニョの魔法は妖怪としての人魚の霊力として考えると、「崖の上のポニョ」は宮崎駿版「八百比兵尼伝説」以外の何物でもないような気がします。
妖怪話は、我々日本人が持つ無意識のファンタジーの原点ではないでしょうか?日本人の無意識に根ざすファンタジーを宮崎監督は巧みにアンデルセンの人魚姫のストリーに組み込んだのだとと思います。公開後二ヶ月弱経過しても満員の映画館にはそんな秘密があるのかもしれません。

このブログを書くにあたり、人魚伝説で、画像を捜しにネットサーフィンをしていましたら、lapisさんのブログ<カイエ>を見つけました。
http://lapis.blog.so-net.ne.jp/archive/c40374228-1
なかなか面白ブログで、つい読みふけってしまいました。当然お気に入りに登録しました。

もう一つ気になること、宗介は母親を「リサ」父親を「耕一」と「パパ」「ママ」と言わず名前を呼ぶ。
一方ポニョは妖怪のせいもあるが、なぜか父親は「苗字」で「フジモト」は海のお母さんを「あの人」、ポニョの妹達を「お前達」と呼ぶ。この意味を考えたのだが・・・家族の不在と絆かなー?考えが纏まらなかったので、単なる習慣の違いであるということで、私は思考を停止しました。
どなたか面白い答えがあったら教えてください。
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終戦の日 銀座テアトルシネマで『敵こそ、我が友~戦犯クラウス・バルビーの3つの人生~』を観てまいりました。
戦争、平和、国家、個人、善と悪・・・様々なことを考えさせられる深いドキュメンタリー映画の傑作でした。


クラウス・バルビーは、元ナチス親衛隊中尉。独軍占領下のフランスでレジスタンス活動家やユダヤ人を死に追いやり、“リヨンの虐殺者”と呼ばれた。戦後はかつての敵国アメリカに利用され、米陸軍情報部(CIC)の工作員に。偽名でボリビアへ渡り、軍事政権誕生の立役者となった。だが1987年、リヨンで終身刑を宣告された。
 そんなバルビーの足跡を、さまざまな証言と貴重な映像でつづる。優しい父親の側面を語る実の娘、バルビーに父親と妹2人を殺された遺族、拷問の被害者、バルビーと米国との関係を分析する歴史家…証言者は50人にも及ぶ。
 バルビーがチェ・ゲバラの暗殺計画の立案者だったという意外な事実も明かされる。20年間封印されていたバルビー裁判の記録映像も使われている。
 「誰かが座って何かをしゃべる。照明はそこだけに当たっている。華美な要素は一切なく、見えるものより言われていることが重要なドキュメンタリーにしたかった」
 そう語るケヴィン・マクドナルドは、前作「ラストキング・オブ・スコットランド」でウガンダのアミン大統領を劇映画として描いた英国人監督だ。
 「これは、われわれのナチスへの妄執についての映画なんだ。われわれがいかにナチスを悪の権化として、自分たちとは全く違うと思いたがっているか。それでいながら国家としてのわれわれは、バルビーのような人物を利用してきた。道徳の境界線は、白黒はっきり分断できるものではないのです」
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/080727/tnr0807271029005-n1.htm

クラウス・バルビーの名は知らなかったが、フランスが南米で悪逆非道の限りを尽くした元ナチ戦犯を執念で捕らえ、裁判をしたことはニュースとして頭に残っていた。
この映画のレビューを見て、あの英雄チェゲバラも殺害し、しかも米陸軍情報部(CIC)は彼を雇い、バチカンが彼を南米へ脱出させたというではないか、数奇な彼の人生を映画を通し是非とも見ておこうと思った。

映画では、まずクラウス・バルビーの顔に目が行った。裁判でを受けた後の最晩年のインタビューではひ弱な一老人の姿であったが、おだやかな表情と何かを成し遂げてきた彼の目は、映画に登場する過去の写真やフィルムに残された彼の顔に輝く瞳と同じものであった。一貫して実にいい顔をしているのである。特にボリビアでボリビア海運(ボリビアは海なし国)を興した頃から、第四帝国を南米に築こうと奮闘していた頃~収監直前の顔は輝いていた。間違っても精神障害や人格障害ではない、有能な経営者や医師や弁護士のような全く普通の善良な市民の顔をしているのである。

東京裁判では戦勝国によりBC級戦犯が逮捕され処刑された。私の大叔父二人もこの中に含まれるのだが、処刑されたBC級戦犯の大叔父達の人生と、バルビーを重ね考えさせられる映画であった。

ナチやSSゲシュタポといえば同盟国であった日本ですら戦後、悪逆非道な悪の象徴としてステレオタイプでイメージされている。しかし実態はどうであったのか?バルビー自身よき父親でもあり、善良な国民にすぎなかったのではないか?その前半生は、与えられた仕事を効率的に熱心に打ち込んだだけではないのか?

私は、バルビーの裁判で、彼の弁護を買って出たベトナム系フランス人のジャック・ヴェルジェスの「きれる熱弁」にも感動した。映画では、ジャック・ヴェルジェスを、裁判で相手を論破するのに生きがいを感じる弁護士だと紹介しているが、偏見である。彼こそ東京裁判におけるパール判事と同じく、弁護士の王道を正しく行く弁護士の鏡である。バルビーが命令したと糾弾されたユダヤ人の孤児院のこどもたちを結果的に収容所に送ったのも、両親から引き離さないという”人道的理由”をつけたヴィシー政府、フランス国家の偽善的責任を問うためでもある。

仮に日本が戦争に勝ったとしよう、そしてワシントンあたりで戦勝国による裁判があったとしよう。そのときは原爆を落したB29「エノラゲイ号」の乗員や、東京大空襲を実行したB29の乗員達をBC級戦犯としてすべて処刑するようなものである。 日本のBC級戦犯や、バルビーは敗戦国側の兵士というだけで裁かれている。

家に帰るとNHKでは「果てしなき消耗戦証言記録レイテ決戦」を放送していた。
昭和19年秋フィリピン中央部レイテ島で、太平洋戦争の一大転換点となる決戦が行われた。戦いに投入されたのは日米両軍合わせて30万人以上。現地住民を含め10万もの命が奪われた。とりわけ日本軍は全兵力の97%にあたる8万人という大きな犠牲を払うことになる。その悲惨な戦場を生き抜いた人々が今回、重い口を開いた。

レイテ島を決戦の場とした日本軍は、アメリカ軍が弱体化しているという誤った戦況判断の下に、兵站を軽視した杜撰な作戦を立てていた。そのため一線で戦う兵士たちはアメリカ軍の圧倒的な火力にさらされ、弾薬や食糧の補給もないままに無念の死を遂げていく。間違いに気づいた後も日本軍は作戦を改めず、兵士たちは銃剣を手に敵陣地に突入する「斬り込み」という無謀な戦法を命じられるようになる。一方アメリカ軍も砲撃などを強め、そうした中で多数のレイテの住民が巻きこまれ、命を落としていった。

番組では、日米両軍の元兵士、現地のレイテ住民や対日ゲリラなど、生存者の証言を広範に収集。今もなお戦場の傷の癒えない日米比三国の人々の生々しい証言から、餓死や同士討ちまで起き、徒に多くの人命が失われた過酷なレイテ決戦の実態にせまる。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/080815.html

日本陸軍の戦闘実態を奇跡的に帰還した元日本兵と元米系の方々の証言をもとにドキュメンタリーを放送していた。証言されている元兵士の方々は90代の方々で、こういった証言はここ数年で最後になってしまうだろう。NHKの仕事はこういった点で貴重である。

そのなかで、元兵士の方が涙ながらに証言した記録が印象的だった。ある大隊長が米軍の猛攻で撤退を決断したが、命令違反を責められた。大隊長の上官が、もう一度大隊全員で死の切り込み突撃をするか、此の場で俺に射殺されるか選択を迫ったが、大隊長は部下をかばい一人で米軍へ突入していったというのである。もちろん大隊長は帰還しなかったが、その後その死をかけて庇ったはずの大隊には代理の大隊長が任じられ結果全員バンザイ突撃をさせられ、その多くが帰らぬ人となった。それが戦争だった・・・・。

バルビーと日本軍兵士、米兵、そしてガス室で逝った44人のユダヤ人孤児達・・・・戦争は負けたドイツ兵や日本軍が残虐で負けた側の兵士だけが悪いのか?今日暢気にブログを書いている私も、読んでいる貴方も、1940年代の彼らと同じ立場に立ったとしたならば、同じことをしていたはずだろう。私は倫理観があるので、命令を拒否してまでも、人の道を踏み外すことはないと、誰が断言できるであろうか?

バルビーの映画のなかで、チェ・ゲバラは演説していた「帝国主義というものは、人をナチのように残虐非道の戦士に変えてしまう、ベトナムでのアメリカ兵、アルジェのフランス軍士官や、ゴンゴのベルギー落下傘兵・・・」バルビーはゲバラを単なる夢想家であると馬鹿にしていた。レジスタンス活動家を殲滅した残虐非道な兵士であったバルビーの尺度からすればゲバラのレベルは、同じレジスタンスでも素人に近い直ぐに命を落したレジスタンスのレベルであたことを見抜いたか、そう感じたのであろう。

人間を鬼に変えるのは帝国主義でも、ファシズムでも共産主義でもない、悪なる集団が存在するのではなく、内なる個人の「善」それは義務感であり、愛情であり、正義であると思う。私はそう思う。もしバルビーが自分で行った行為に「悪」を感じていたならば、ああいた善良な市民の顔をできない。自分のなかの悪に耐えられなくなりその後の人生はけしてこのような映画になるような人生ではなく、場末の酒場で飲んだっくれているようなつまらない人生であったろう。

バルビーの人生がこのような映画になる人生となったきっかけは、彼がCIC米陸軍情報部に雇われたことにあるだろう。リヨンの屠殺者であったバルビーはドイツ共産主義者の情報も持っていた。戦後の共産主義の脅威から守る善意の為、米国は最も憎むべきゲシュタポであったはずのバルビー達の力を利用しようと考えた。元ゲシュタポの人脈は反共主義の信念は固く共産主義の浸透を防ぐには非常に利用価値が高いと考えたのであろう。

ところが、接触してみると悪魔であるはずのゲシュタポが人格者で有能な軍人であった。彼を知る元CICの老人達の証言は一致している。仕事を通じ皆彼を尊敬していた。だが、フランスにとってレジスタンスの英雄ジャンムーランを拷問の後屠殺したバルビーは許せなかった。彼の存在がレジスタンス運動に己の治世正当権であることを振りかざす新生フランスの政治家にとっては、己の正当性に関わることであった。フランスは米国にバルビーの引渡しを求めた。 バルビーが、単なる「リヨンのブッチャー」に過ぎない性格異常者であったのなら、米国は彼を引き渡してお役御免であったろう。CICはバチカンと結託して彼と彼の家族を南米に逃がしたのである。

最近佐藤優氏のインテリジェンス関係の本を読むと、頻繁に登場するバチカンの裏面の顔が見え隠れする。バチカンは反キリスト反宗教を掲げる共産主義の浸透を防ぐ為、ヒットラーとも結び、米英政府とも反共で繋がっている。ドイツ第四帝国を南米に築こうとした、バルビーとバチカンの繋がりを映画ではさらっと流しているが、単純に脱出幇助の役割だけではなかったはずである。

皮肉なことに、バルビーの戦犯としての価値はBC級戦犯相当であったものから、戦後の彼の活躍によってA級戦犯相当へ戦後格上げとなってしまったのかもしれない。終身刑で1992年獄死した彼の量刑は重かったのであろうか?軽かったのであろうか?私には裁けない。

人間は生存する本能の為に国家や正義、義務、愛などの概念を生み出してきた。愛、正義、義務の名の下に、悪と死と憎悪が生まれ、それらは拡大再生産されていくものである。

我々は、正義や愛、平和といったことを語る純真な主義者が無意識に撒き散らすものの正体が、実は悪や戦争、憎悪をもたらすことに気がつかなくてはならないと思う。此の映画はそのことを気づかせる映画であると思う。ゲシュタポもアルカイダもCIAもKGBもすべて正義という善意の塊なのである。

憲法9条を振りかざし世界遺産へなどと言う奴と護憲団体、反テロリスト戦争を実行する某政権や聖戦を叫ぶテロリスト、反日を叫ぶ特亜諸国のナショナリストすべて善意の塊である。善意であるが故にすべて危険なのである。渋谷の街で見かけるケータイを持った猿達の群れこそ平和の象徴であるのかもしれない・・・・
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昨日「ライラの冒険・黄金の羅針盤」を家族で観てまいりました。

「予想以上に面白かった!!」

子供にせがまれて、なんらストリーの予備知識もなく観たせいもあるが、しばし自分の心は主役のライラの歳である11・12歳になって映画の世界に入り込み、楽しみました。

「ロードオブザリング」の「ニュー・ライン・シネマ」の作品とあって、確かに美しい映像、鎧熊という人間の言葉を解す白熊映像エフェクトgood-jobでした。ストリー展開も三部作の一作目であることを了承して観れば非常に面白い展開でした。ただストリー展開の舞台の空間的移動が、オックスフォードのような学問の街→パラレルワールドのロンドン→北極へ向かう船→極北の玄関とおぼしき、最果ての街→北極の島の平原→宗教団体の秘密基地と、北へ北へと一方向にしか進んでいかないからかもしれませんが、物語の導入部分である起承転結の「起」のままエンディングになってしまった印象があります。「もう終わってしまったの?残念」という気持ちになってしまいました。(けしてネガティブな意味ではない)でも、どうせ観るなら1日かけて3部作全部が揃った時点でDVDを観たほうが精神衛生上快適かもしれません。「面白すぎて次が早く観たい!」

確かに三部作の「ロードオブザリング」の1.2作目のエンディングは本作同様、「To be continued.」の終わり方だった。同じ3部作でもカリビアンオブパイレーツの1作目は「To be continued.」ではなく、6.7話続くナルニア物語・ハリーポッターの1作目のエンディングは「To be continued.」ではなく、「End」で終わっているので、精神衛生上とても良かった。(パイレーツオブカリビアンの2作目の終わり方は「To be continued.」)そもそも「ロードオブザリング」の3作目の終わり方も「End」でなく、「To be continued.」の終わり方をしている。なるほど、「ニュー・ライン・シネマ」は最近「ロードオブザリング」の原作に無い4作目を作ろうとして揉めているらしいとのニュースがでてましたね。

ところで、「ライラの冒険・黄金の羅針盤」はキリスト教団体から、子供を無神論者、反キリスト教にしてしまう恐れがあると、キリスト教団体から非難されてるとのニュースがあることは知ってました。どこが該当する部分なのか気にして観てはいましたが、正直まったく理解できませんでした。

悪役のマジステリアムと呼ばれる教権が「カトリック」を連想させるのでしょう。でもパラレルワールドのウェストミンスター寺院らしき教会にモデルにされた、イギリス聖公会や、スコットランド教会などからは、本作が、宗教組織の教条主義や、宗教による抑圧に対する批判であり、キリスト教やその他の宗教そのものに対する批判ではないとの擁護があるようです。

気になるのでググッテみましたら、ライラの冒険は、異端であるグノーシス主義や、ミルトンの『失楽園』の大きな影響を受けているとのことです。物語の後半からその「神」や天国への反乱が主要なモチーフとなる。原罪は否定され、死者の世界は「天国」などではないこと。予定調和説・最期の審判への畏れを布教の教義とするカトリック側からすると看過できないのでしょう。アメリカの狂信的ファンダメンタリストなんかは耐えられない内容なのかもしれません。我々日本人にとっては理解しにくい批判です。

「二コールキッドマン」はとっても美しかった、でもよく悪役を演じる気になったものだと感心します。ハリウッドで「ヤッターマン」を実写化する時には是非「ドロンジョ」様役を演じてほしいものだ。

そして是非ニコールキットマンのドロンジョ様に「このスカポンタン!」と頭を小突かれたい・・・!。

【ライラの冒険】
http://daemon.gyao.jp/

【ダイモン】
http://www.goldencompassmovie.com/?&start=daemons

ちなみに私のダイモンは小ネズミのXanthiaでした。
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