コクリコ坂からをはじめて観た・・・あまりに画もストリーも素晴らしくて録画をしてもう2度も観てしまった!世間の宮崎吾郎評は間違っているような気がする。
宮崎吾郎は宮崎駿の息子であるが、駿ではない。吾郎作品を悪く言う人がいるが、私はこの作品は傑作だと思う。確かに同じ青春恋愛アニメ「耳をすませば」は大傑作ではあるが、それに劣らないくらい傑作だと思う。
私が生まれた昭和38年の物語、横浜を舞台とした高校生の青春恋愛物語。
出生の秘密を縦糸に、戦後から高度経済成長期を背景として描き、経済大国へ向かった東京オリンピック前の生き生きと活力にあふれる懐かしい日本が舞台が織り込まれている。生きるのがのが難しく、みんなが下を向いている今、上を向いていたあの頃を思い出させる秀作だと思います。


カルチェラタンは、そこに部室を持つ文化部のヲタクの住人が好き放題に使い、無秩序に荒れ果てていた。
昭和38年、当時は翌年の東京オリンピックに備え、古い建物を次々に壊し、新しい近代ビルに建て直すのが当たり前の、高度成長時代の日本であった。


自分も明治の古い洋館に住むヒロイン
”メル”こと”松崎海”は、妹の松崎空が、抗議事件で一躍ヒーローとなった風間俊のサインが欲しいというので、カルチェラタンを訪れることになった。
カルチェラタンが気に入ったメルは、駿に大掃除をすることを提案する。



大掃除を機に惹かれあう二人・・・・いやいや筆者(Ddog)から見れば、駿は初めからメルを口説きたくてしかたがなかったと思う。週刊カルチェラタンに詩を書いたり、毎日メルが昼ご飯を食べるであろうテーブルの前に飛びこむなど、色気ついた男子高校生なら、その位の計画は平気で企てる。
週刊カルチェラタンの詩は、確かに吉野君が言うように、大海に投げ入れたボトルだった。が、見事メルの心に届いた!愛の奇跡の始まりだ!
少女よ 君は旗をあげる
なぜ
朝風に想いをたくして
よびかける彼方
気まぐれなカラスたちを相手に
少女よ今日も紅と白も
紺に囲まれた色の
旗は翻る
―――― 風 ――――

この場面ななど恋する高校生男子の基本行動だ、好きな女子の家の前を自転車でわざわざ通っていた・・・・
その甲斐あって、徐々に憑かれ合うふたりに、ある試練が襲いかかる。
Studio Ghibli - La colline aux coquelicots (Kokuriko Zaka Kara) - Bande annonce JAP [VO|SD]


突然態度が変わった駿に対し雨の中待っていた”メル”が切りだす
「嫌いになったのなら、はっきりそう言って」
何も言わず、一枚の写真を胸ポケットから取り出す”駿”。
その写真は、メル(海)が駿を自宅に招いた時に見せた父親の写真と同じ写真であった。
「え」!驚くメル
駿が語りだす「澤村雄一郎、俺の本当の親父」
メル「え?」
駿「まるで安っぽいメロドラマだ」
メル「どういうこと」
駿「俺たちは兄妹ってことだ」
メル「どうすればいいの?」
駿「どうしようもないさ、知らん顔するしか・・・・今まで通り、ただの友達だ」
一瞬抱き寄せる素振りをみせて別れる駿
メル「あっ!」
そして走り去る駿・・・
何度見ても心打たれ、些細な動き表情に、二人の心情がアニメなのに、生身の名優が演じるよりも私には二人の心の葛藤を感じさせ、伝わるものがあった!
自分たちは兄妹かもしれない。
それでも、ふたりは現実から逃げずにまっすぐに進んだ。

『コクリコ坂から』の「コクリコ」はフランス語で「ヒナゲシ」の意味、劇中で父親の写真の脇の花瓶になにげなく挿してあった。
ここに原作者が言いたかった「コクリコ」の花言葉「思いやり」「いたわり」が生きてくる。
江戸時代、近松門左衛門であれば、まちがいなく心中ものとなっていたろう。
原作は1980年の少女マンガ、昭和50年代出生の秘密にあ関わるTVドラマ山口百恵の赤いシリーズがヒットしていたせいもあったが、原作では、ハッピーエンドにはならず、兄妹決定であった。バブルが始まる1980年代初頭、出生の秘密では少々古臭くなっていたせいもあり、話が行き詰ってしままい、平凡な少女漫画として忘れ去られていた。

10年ほど前、一時的に人気があったとされる韓流ドラマであれば、安っぽいメロドラマでも受け入れられていたかもしれえないが、2011年のこの作品は兄妹ではないと確認できて、
ハッピーエンドとなり、本当に良かったと思う。
公開された2011年、民主党政権下、際限のない不況が続き、世の中は閉塞感が高まり、追い打ちを掛けるような東日本大震災・福島原発事故。
下を向く俯いた時代に、オリンピックを前にした誰でも上を向いたあの時代、明るい未来を信じている時代を描くのだから、ハッピーエンドにしなくてどうする?
宮崎駿、吾郎親子は前作のゲド戦記で不評だった掟破りの原作無視のストリー変更を再びやってのけた!

結果は大成功だったと私は思う。
右の画像は、原作漫画で、そこにはカルチェラタンなど登場しないそうだ!
原作者と漫画家が洗練できなかったストリーを見事に傑作な手直しをした宮崎駿・宮崎吾郎親子は今回は勝負に勝った!
まるで、最近人気のTV番組プレバト!!で、駄作の俳句をちょっと手直ししただけで、名句に変えてしまう
夏井いつき先生を彷彿します。

・・・正確にはプレバトの夏井先生の手直しがコクリコ坂の手直しをした宮崎駿親子を彷彿させるのか・・・
1980年頃『なかよし』に連載され不発に終った作品である(その意味で「耳をすませば」に似ている)。高校生の純愛・出生の秘密ものであるが、明らかに70年の経験を引きずる原作者(男性である)の存在を感じさせ、学園紛争と大衆蔑視が敷き込まれている。少女マンガの制約を知りつつ挑戦したともいえるだろう。
結果的に失敗作に終った最大の理由は、少女マンガが構造的に社会や風景、時間と空間を築かずに、心象風景の描写に終始するからである。
少女マンガは映画になり得るか。その課題が後に「耳をすませば」の企画となった。「コクリコ坂から」も映画化可能の目途が立ったが、時代的制約で断念した。学園闘争が風化しつつも記憶に遺っていた時代には、いかにも時代おくれの感が強かったからだ。
今はちがう。学園闘争はノスタルジーの中に溶け込んでいる。ちょっと昔の物語として作ることができる。
「コクリコ坂から」は、人を恋(こ)うる心を初々しく描くものである。少女も少年達も純潔にまっすぐでなければならぬ。異性への憧れと尊敬を失ってはならない。出生の秘密にもたじろがず自分達の力で切りぬけねばならない。それをてらわずに描きたい。
「となりのトトロ」は、1988年に1953年を想定して作られた。TVのない時代である。今日からは57年前の世界となる。
「コクリコ坂から」は、1963年頃、オリンピックの前の年としたい。47年前の横浜が舞台となる。団塊の世代が現代っ子と呼ばれ始めた時代、その世代よりちょっと上の高校生達が主人公である。首都高はまだないが、交通地獄が叫ばれ道も電車もひしめき、公害で海や川は汚れた。1963年は東京都内からカワセミが姿を消し、学級の中で共通するアダ名が消えた時期でもある。貧乏だが希望だけがあった。
新しい時代の幕明けであり、何かが失われようとしている時代でもある。とはいえ、映画は時代を描くのではない。
女系家族の長女である主人公の海(うみ)は高校二年、父を海で亡くし仕事を持つ母親をたすけて、下宿人もふくめ6人の大世帯の面倒を見ている。対する少年達は新聞部の部長と生徒会の会長。ふたりは世間と大人に対して油断ならない身がまえをしている。ちょっと不良っぽくふるまい、海に素直なアプローチなんぞしない。硬派なのである。
原作は、かけマージャンの後始末とか、生徒手帖が担保とか、雑誌の枠ギリギリに話を現代っぽくしようとしているが、そんな無理は映画ですることはない。筋は変更可能である。学園紛争についても、火つけ役になってしまった自分達の責任を各々がはっきりケジメをつける。熱狂して暴走することはしない。何故なら彼等には、各々他人には言わない目標があり、その事において真摯だからである。
少年達が遠くを見つめているように、海もまた帰らぬ父を待って遠い水平線を見つめている。
横浜港を見下ろす丘の上の、古い屋敷の庭に毎日信号旗をあげつづけている海。 「U・W」旗――(安全な航行を祈る)である。
丘の下をよく通るタグボートのマストに返礼の旗があがる。忙しい一日が始まる朝の日課のようになっている。
ある朝、タグボートからちがう信号が上る。
「UWMER」そして返礼のペナント一旒(いちりゅう)。誰か自分の名前を知っている人が、あのタグボートに乗っている。MERはメール、フランス語で海のことである。海はおどろくが、たちまち朝の家事の大さわぎにまき込まれていく。
父の操るタグボートに便乗していた少年は、海が毎日、信号旗をあげていることを知っていた。
(ちょっとダブりますが)
舞台は、いまは姿を消した三島型の貨物船や、漁船、はしけ、ひき船が往来する海を見下ろす丘の上、まだ開発の手はのびていない。祖父の代まで病院だった建物に、和間の居住部分がくっついている。
学校も一考を要する。無機的なコンクリート校舎が既にいくらでもあった時代だが、絵を描くにはつまらない。登校路は、まだ舗装されていない道も残り、オート三輪やらひっかしいだトラックが砂埃(すなぼこり)をあげている。
が、ひとたび町へおりると、工事だらけの道路はひしめく車で渋滞し、木製の電柱やら無秩序な看板がひしめき、工場地帯のエントツからは盛大に黒煙、白煙、赤やらみどり(本当だった)の煙が吐き出されている。
大公害時代の幕がきっておとされ、一方で細民窟が存在する猛烈な経済成長期にある。横浜の一隅を舞台にすることで下界の有様がふたりの直面する世間となる。その世界を俊と海が道行をする。そこが最後のクライマックスだ。
出生の秘密については、いかにもマンネリな安直なモチーフなので慎重なとりあつかいが必要である。いかにして秘密を知ったか、その時ふたりはどう反応するか。
ふたりはまっすぐに進む。心中もしない、恋もあきらめない。真実を知ろうと、ふたりは自分の脚でたしかめに行く。
簡単ではない。そして戦争と戦後の混乱期の中で、ふたりの親達がどう出会い、愛し生きたかを知っていくのだ。昔の船乗り仲間や、特攻隊の戦友達も力になってくれるだろう。彼等は最大の敬意をふたりに払うだろう。
終章でふたりは父達の旧友の(俊の養父でもある)タグボートで帰途につく。海はその時はじめて、海の上から自分の住む古い洋館と、ひるがえる旗を見る。待ちつづけていた父と共に今こそ帰るのだ。そのかたわらにりりしい少年が立っている。
原作のエピソードを見ると、連載の初回と二回目位が一番生彩がある。その後の展開は、原作者にもマンガ家にも手にあまったようだ。
マンガ的に展開する必要はない。あちこちに散りばめられたコミック風のオチも切りすてる。時間の流れ、空間の描写にリアリティーを(クソていねいという意味ではない)。脇役の人々を、ギャグの為の配置にしてはいけない。
少年達にいかにもいそうな存在感がほしい。二枚目じゃなくていい。原作の生徒会会長なんか“ど”がつくマンネリだ。↓
少女の学校友達にも存在感を。ひきたて役にしてはいけない。海の祖母も母も、下宿人達も、それぞれクセはあるが共感できる人々にしたい。
観客が、自分にもそんな青春があったような気がして来たり、自分もそう生きたいとひかれるような映画になるといいと思う。
宮崎駿から宮崎吾朗へのリレー
今回、宮崎駿が作った<シナリオ>を宮崎吾朗監督が<絵コンテ>に起こしていった。出来上がった<絵コンテ>と<シナリオ>を比較すると変化があった。鈴木プロデューサーは「宮さんの作ったシナリオを、吾朗くんが"現実的なもの"にした」と言う。
大きな変化があったのは、海と俊の雨の帰宅シーン。「嫌いになったのならはっきりそう言って」「澤村雄一郎 俺の本当の親父」「えっ?」「まるで安っぽいメロドラマだ」「どういうこと……?」「俺たちは兄妹ってことだ……」「……どうすればいいの?」。この一連、脚本では「……」が書かれ、ふたりの会話に「間」「余韻」があった。しかし、吾朗監督は、余韻をカット。会話をテンポアップさせ、ふたりの気持ちをストレートにぶつけ合わせた。そのことにより、観客にふたりの会話がよりリアルなものとして届けられることになった。
ヒロイン・海のキャラクターについても宮崎駿と宮崎吾朗では、捉え方が少し違った。今回、宣伝ポスターを描いたのは宮崎駿。本編では出てこないストライプのエプロン姿の海をファンタジックに描いている。一方、吾朗監督は、「普通にいそうな女の子」として海を映画の中で演技づけしている。
さらに、絵コンテの段階で吾朗監督が追加したセリフがいくつかある。中でも印象的なのが、古い歴史ある校内の建物を壊すか保存するかについて生徒たちが討論するシーンの俊のセリフ。
「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!?」「人が生きて死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか!?」「新しいものばかりに飛びついて歴史を顧みない君たちに未来などあるか!!」。吾朗監督がこの映画を作るにあたって「過去の中から、未来が生まれる」という思いを強くしたことが、このセリフに表れている。
宮崎駿から宮崎吾朗へ受け渡された「コクリコ坂から」は、新たなジブリ作品の誕生といえる。
親子二世代にわたる青春を描く
「コクリコ坂から」は、青春映画であり、歴史ドラマでもある重層的な作品である。太平洋戦争が終わって18年、日本は焼け跡から奇跡の復活を遂げた。
そして、高度経済成長の只中、復活の象徴として、日本は東京オリンピックの開催を目前に控えていた。人々は古いものはすべて壊し、新しいものだけが素晴らしいと信じていた。煙突から吐き出される煤煙。道路にひしめく車の土埃。人々でごった返す街。工事や建物の解体作業の騒音。しかし、それでも海は青く、緑は輝き、空は広く、世界は希望に満ちてキラキラと輝いていた。貧しいけれど、みんなが上を向いて歩こうとしていた時代を生きた海と俊たちの青春。
そして、主人公たちの出生の秘密に焦点を当てていくことで、両親たちの戦争や戦後の青春まで遡ってゆく。混乱の中で、親を亡くした子を自分の子として育てる。そんなことが当たり前だった時代。自分と他人の境界線が曖昧で、いろんなことに寛容だった時代の青春—。
<高度成長期>と<戦争と戦後の混乱期>、親子二世代の青春を描くことで、自分たちの歴史がこうやって続いてきたというテーマが浮き彫りになってくる。観客に「自分たちがどういう時代に生きているのか—。」を問う映画になっている。
設定は“海の見える坂道”と“歴史ある古い建物”
主人公の海が暮らす家、そして海と俊が通う高校、ともに海の見える坂の上に建つ。坂を上る時、その目の前には青い空が、振り返れば海が見える。坂の向こう、そして広がる海の向こうに「希望」や「未来」を感じることができ、想像するだけで心が沸き立つ設定である。
そして物語の重要な舞台となる古いけれど思い出のつまった歴史ある2つ建物の設定は宮崎駿が作り上げた。1つは、海の自宅である「コクリコ荘」。もともとは病院だったところを自宅兼下宿屋として、海が切り盛りしている。1階には食堂があり、そこで海の家族と下宿人たちで食卓を囲む。離れがあり、そこに海の祖母が暮らしている。古いけれど、手入れが行き届いている。そして庭にはたくさんのコクリコ(ひなげし)の花が咲いている。海が祈りを込めて揚げる信号旗のための旗竿もある。
もう1つは、高校にある壊すか保存するかの議論の対象となる文化部部室が集まる擬洋風の建物、通称「カルチェラタン」。埃まみれだけれど、使っている男子学生たちの愛情が詰まった、素敵な魔窟。海と妹の空が初めてカルチェラタンに足を踏み入れるシーンは、まるで不思議の国に迷い込んだアリスのように見える。
そして面白いのが、「コクリコ荘」は女性の巣で、「カルチェラタン」は男の巣として描かれている点である。「コクリコ荘」は海の弟・陸を除いて全員が女性。女性の下宿人たちは、研修医に画家の卵、ビジネスガール(当時のOL)。きちんと家事をこなす海も含め、自立する女性たちが生き生きと描かれる。対して「カルチェラタン」に登場するのは、考古学研究会、天文部、哲学研究会、化学研究会、無線部、現代詩研究会、弁論部、新聞部、数学部の男子学生たち。好きなことに熱中する愛すべき変人たち。「コクリコ荘」「カルチェラタン」どちらも、魅力的な住人で溢れている。
ちなみに舞台となる港が見える町とは、横浜。コクリコ荘があるのは、神奈川近代文学館のあたりのイメージ。さらに山下公園、ホテルニューグランド、マリンタワー、氷川丸、桜木町駅などが出てくるのも、見どころである。
参考にしたのは日活の青春映画
1963年は宮崎吾朗監督が生まれる前の時代。ということで吾朗監督は、その時代に制作された日活の青春映画を参考にしたという。 その中でも特に参考にしたのが、吉永小百合主演で世に送り出された「赤い蕾と白い花」(1962)、「青い山脈」(1963)、「雨の中に消えて」(1963)、「美しい暦」(1963)。主人公たちの言葉には裏がない。そして話すテンポが速い。
自分の思いを躊躇なく伝える。そういった当時の日本人の話し方、コミュニケーションの仕方が「コクリコ坂から」に反映された。海や俊、そして他の登場人物たちもみんな、自分の気持ちをストレートに伝え、ストレートに相手の言葉を解釈する。自分の気持ちからも、相手の辛い言葉からも決して逃げない。自分の本当の気持ちをごまかさず伝える力、相手の気持ちをそのまま受け止める強さ、これは本来日本人が持っていたものなのではないだろうか。「コクリコ坂から」の登場人物たちは、そんな正直なコミュニケーション方法を忘れてしまおうとしている私たちに勇気を与え、人と人がつながることの素晴らしさを再認識させてくれるはずだ。
新ヒロイン長澤まさみとジブリ2作目の岡田准一
主人公の16才の少女・海を演じるのは、長澤まさみ。過去にゲーム「ニノ国 漆黒の魔導士」(2010)でのアフレコ経験はあるが、アニメーション長編映画でのアフレコは初挑戦。17才の少年・俊を演じるのは、岡田准一。「ゲド戦記」に続き再び、宮崎吾朗監督とタッグを組む。長澤・岡田のふたりは、今回が初共演となる。アフレコに際して、鈴木プロデューサーがふたりに贈った言葉がある。長澤には「無愛想」、岡田には「無器用」。その言葉を受け取った長澤は人に媚びない凛とした強い女の子として海を演じ、岡田は硬派で無鉄砲だけれども優しい男の子として俊を作り上げていった。
ふたりの脇を固めるキャスト陣として、竹下景子、石田ゆり子、柊瑠美、風吹ジュン、内藤剛志、香川照之、といったスタジオジブリ作品常連組から、ジブリ作品初参加となる風間俊介や大森南朋まで実力派が顔を揃えた。
そして、今回主題歌を歌う手嶌葵が海のクラスメートの悠子、「崖の上のポニョ」の主題歌を歌った藤岡藤巻の藤巻氏が徳丸ビル受付の男性、宮崎吾朗監督自らが世界史の先生の声で参加し、さらに作品を盛り上げている。
歌と音楽に溢れた映画
「コクリコ坂から」は、主題歌「さよならの夏〜コクリコ坂から〜」の他に、挿入歌の「上を向いて歩こう」、「朝ごはんの歌」、「初恋の頃」、「白い花の咲く頃」、「紺色のうねりが」、「赤い河の谷間」、そして武部聡志のジャジーでポップな音楽と、歌と音楽に溢れた映画である。
宮崎駿は主題歌に森山良子の「さよならの夏」を推薦した。吾朗監督のアイデアでこの曲を手嶌葵が歌うと映画のイメージにぴたりとはまった。さらに、作詞家・万里村ゆき子に依頼し、新たに2番の歌詞を書き下ろしてもらい、より映画とリンクした主題歌「さよならの夏〜コクリコ坂から〜」が誕生した。
挿入歌は映画が描く時代に、世界的に大ヒットした坂本九の「上を向いて歩こう」。1961年に誕生したこの曲は、1963年にアメリカで「SUKIYAKI」として発売され、ビルボード誌で1位を獲得するという快挙を成し遂げ、これまでのセールスは全世界で1000万枚以上という驚異的な数字を達成している。映画本編の中で、テレビから"歌"が流れてくるシーンがあり、1963年当時青春時代を過ごした鈴木敏夫プロデューサーの推薦でこの曲を使うことに。今回、オリジナルの「上を向いて歩こう」は本編中で2回使用されるが、既成曲を本編中に2回使用するのは、ジブリ作品では異例のこと。伝説の曲「上を向いて歩こう」誕生50年目という節目の年に、ジブリ映画の中で"歌う九ちゃん"が蘇ることになった。
朝ごはんのシーンに流れる「朝ごはんの歌」と海と俊の心が近づくシーンに流れる「初恋の頃」は、作詞が宮崎吾朗と谷山浩子、作曲が谷山浩子、編曲が武部聡志、そして手嶌葵が歌う。手嶌のピュアな歌声が本編を美しく彩る。手嶌も参加している合唱曲「紺色のうねりが」は宮沢賢治の詩「生徒諸君に寄せる」に触発を受けて1番の歌詞を宮崎駿、2番の歌詞を宮崎吾朗が作詞。「赤い河の谷間」は宮崎駿が高校の頃、合唱で歌った曲で、吾朗監督が新たに訳詞をあてた。「白い花の咲く頃」の冒頭は、水沼役の風間俊介が独唱している。

でも、ジブリでなければ、禁断の愛を貫くテーマでアナザーストリーも観て見たかったような気がする。戦争と戦後の混乱期の中で、親たちがどう出会い、愛し、生きたかを知っていく。そして、禁断の愛を貫くストリーも観てみたい気になった。
「私、風間さんが好き!血が繋がっていても、例え兄妹でも、風間さんが好き!」「俺も、お前が好きだ!!」

なんという純愛なのか!この映画最大の萌えシーンだった。私はこの子らより何倍も恋愛経験をしたけれど、これほどの至誠の愛を持ったことが無い。勿論血が繋がった従妹や、まして妹にに恋愛感情など持つことなどありえないのだが、原作通り実の兄妹の至誠の愛のストリーをジブリアニメで観てみたい気もした。
筆者が勝手に妄想するアナザーストリーでは・・・・
人間の業とは、実の娘も騙すかもしれない。港港に女有の船乗りに呆れかえり、実は死別ではなく離婚していた母親、昔馴染みの風間の父親と組んで嫡子を押し付けていたとか。実は父親はフィリピンで別な家庭を作り、飲んだくれの最低な親父だったなんて、ストリー展開・・・・最後は駿に捨てられ・・・絶望するメル
やはり、そんな話はやはりジブリでは観たくは無いなぁ・・・
この映画で沢山の印象的な名言や言葉があった。
名言は、駿の演説

「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!?」「人が生きて死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか!?」「新しいものばかりに飛びついて歴史を顧みない君たちに未来などあるか!!」。
水沼生徒会長「ぼらんてぃーあの皆さん、カルチェラタンへようこそ。」「この文化財と言うべきカルチェラタンの保存の為に手を貸していただいて、本当にありがとう。」
「男どもは危険な作業を率先してこいなすべし」かかれ・・
別なシーンだが、仲が険悪になった後、駿が男子生徒に向かって、「残すか捨てるか悩んだら、燃やせとの水沼殿のお達しだ!」と言った。この言葉の意味は深い。悩んだら青春を燃やせと映画には出てこなかったが、裏で水沼が駿にアドバイスをしていたようなシーンが浮かび、市電の前の告白の伏線なのだ。
Aoi Teshima - Escape [Esukeepu] 水沼生徒会長「閣下、二人は人生における一大事が発生し、エスケープしました」
徳丸理事長「いいなぁ青春だなぁ!」
Sukiyaki - 上を向いて歩こう (Kyū Sakamoto, 坂本 九)
さよならの夏 森山良子 1976

DJみそしるとMCごはんさんの元ネタ、いや源流はこれか!・・・・ちなみに女子栄養大学の卒業研究として 、「DJみそしるとMCごはん -くいしんぼうHIPHOPー」を発表したのは、2012年3月・・・パクリとはいいません。インスパイアーされて突き詰めた結果売れたのであって、DJみそしるMCごはんさんの勝ちである。
高校時代は田舎の進学校だったせいか・・・まったくもてませんでした・・・
今から比べれば純粋だった高校生時代、駿君とメルのような恋をしたかったなぁ






50を過ぎたおじさんでも、胸キュンで、恋っていいなぁって感じてしまった。
いかん、ヤフーの広告を危うくクリックしそうになった。(笑)

そこで、生徒会長の水沼が、
「いい大人っているんだな」・・て、
俊「まだわからないよ」
メル「でもよかった」
何時の時代でもそうだが、特にあの時代の大人は若い人のエネルギーを
インキュベートしていたような気がする。活力がある社会とは、そういう時代のことかもしれないとふと思った。
その理事長を大掃除が済んだ清涼荘=カルチェラタンに歓迎する合唱がこの映画の挿入歌の中で最も印象的だった・・・
紺色のうねりが
のみつくす日が来ても
水平線に君は没するなかれ
われらは山岳の峰々となり
未来から吹く風に頭をあげよ
紺色のうねりが
のみつくす日が来ても
水平線に君は没するなかれ
透明な宇宙の
風と光を受けて
広い世界に正しい時代をつくれ
われらはたゆまなく進みつづけん
未来から吹く風にセイルをあげよ
紺色のうねりが
のみつくす日が来ても
水平線に君は没するなかれ

最初の一部を抜粋
中等学校生徒諸君岩手県出身の宮澤賢治はおそらく三陸津波の記憶があるのだろう。
諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか
それは一つの送られた光線であり
決せられた南の風である
(略)
むしろ諸君よ
更にあらたな正しい時代をつくれ
諸君よ
紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか
じつに諸君は此の地平線に於ける
あらゆる形の山嶽でなければならぬ
(略)
「紺色のうねりが のみつくす日が来ても」というのは字義的には津波のことで、比喩的には若者が立ち向かう困難を指している。
ところが、大津波は比喩ではなく本当に来てしまった。7月に公開したコクリコ坂から、紺色のうねりがの製作はどう考えても2011年3.11の東日本大震災以前に製作されていただろう。宮崎監督は、別な世界を観ることが出来る能力があるのではないか?と言われていますが、2008年公開の崖の上のぽにょといい、この作品を製作したのは・・・偶然だったのだろうか?
あと挿入歌で生徒会長の水沼が先生の集会の監視の時間に合わせて歌い出した岡本 敦郎の昭和25年のヒット曲”白い花の咲くころ”ナイスな曲だと思った。

大奥様(メルの祖母)役の倍賞千恵子バージョンで