
朝の8時過ぎから会社を休み本日は病院へ出掛け検査三昧であった。待合室で待つ間、一気に読んでしまった。本書を読みながら周りを見回すと、待合室は老人だらけ、カンベイ氏(双日総合研究所:溜池通信管理人の著者 吉崎 達彦)には申し訳ないが、この本の主張である殖産遊民興業は・・・確かにそうかもしれないが、それでも老人が金を使うのはギャンブルとかツーリズムじゃなくて、医療費と健康食品なんだよね・・・って、ちょっと批判的に思ってしまった。
もくじ
第1章 いつの間にか先頭を走っていた日本 7本書のタイトルである、”気づいたら先頭に立っていた日本経済”ではあるが、グローバルな経済学の話は第一章のみで、二章から遊民=富裕層老人にいかに金を使わせ、デフレを脱却するかという具体的アイデアの本である。
経済の中心が「パンよりサーカス」に
長期停滞時代の勝ち組は日本である
アベノミクスは世界のお手本?
第2章 ツーリズムを「大産業」に育てよ 45
インバウンドをどう活かすか
JR九州は遊民経済学の優等生
フェイスブックが旅の道連れに
第3章 地方には無限の可能性が眠っている 71
富山出身者が見た金沢の強み
水木しげると出雲大社
「司馬遼太郎」が上げた四国の価値
「フロンティア」でなくなった北海道の生きる道
第4章 おもちゃとゲームとお葬式 110
「遊民経済学」を先取りしているおもちゃ業界
ゲーム産業は「搾取される小作人」?
サービス業化する「お葬式」
ソニーとディズニー
第5章 ギャンブラーは経済の救世主 151
ギャンブルとバブルと金融不安
産業としての競馬の可能性
日本版カジノ法案の本当のところ
第6章 それでも私は「二郎」に通う 179
ラーメンはなぜ快楽なのか
台湾で選挙見物を楽しむ
夏は福島競馬に通う理由
第7章 第2の人生こそ本物の人生だ 209
ピケティ、金持ち父さん、漱有
どうすれば高齢者はカネを使うのか
「第2の人生の達人」伊能忠敬
「50代のお父さん」になった日本経済
あとがき 246
失われた10年の原因にはバブル崩壊、ソロス氏が大立回りをした1992年のポンド危機、1997年のアジア通貨危機などがあり大手金融機関の不良債権処理の先送りによる度重なる破綻は市場に大きなショックを与え、企業が採用を削減したことから、世代人口の多い1970年代生まれは深刻な就職難に直面、就職氷河期と呼ばれる時代が続いた。また、不況が長引くとデフレが発生し、賃金は下がり続け、非正規雇用が増加した。
デフレによって、コスパの良いユニクロや100円均一、食べ放題などバブル以前にはなかった真新しいサービス・販売方法が確立され、不況⇒賃金低下/リストラ⇒需要減⇒物価安⇒業績悪化⇒賃金低下のデフレスパイラルに陥ってしまった。
その後一時回復しかけたが、リーマンショックなど世界的不況に襲われ、失われた20年=長期停滞時代と呼ばれるに至った。この長期停滞経済は、日本固有の現象ではなくいまや世界的な現象となっている。
長期停滞時代の勝ち組は日本である
p17-25米外交専門誌の『フォーリン・アフェアーズ』誌最新号(2016年3/4月号)が長期停滞論の特集をやっている。この雑誌、ジョージ・ケナンの『X論文』からサミュエル・ハンティントンの『文明の衝突』論文まで、以前から時代を画するような論考を掲載することで知られている。
今回もちょっと気が利いていて、特集テーマが“The World Is Flat.”という。この表題、今から10年前にニューヨークタイムズ紙の売れっ子記者であるトマス・フリードマンが書いた本の題名と同じである。フリードマンの著書は、日本では『フラット化する世界』という書名で日本経済新聞社から出版されている。ひとことで言ってしまえば、グローバル化とIT革命を礼賛するような内容であった。ほれ、インドのバンガロールには、英語のコールセンターがいっぱいできましたよ、ぼやぼやしちゃいられませんよ、みたいなことが書いてあった。あれを読んで、「日本はまだ言語の壁があってよかった」と思った人は少なくなかったのではないかと思う。
ところが『フォーリン・アフェアーズ』誌の“The World Is Flat.”は、「世界がペシャンコになった」とでも訳するのがお似合いだろう。英語のFlat(たいらな)には、「パンクした」という意味もあるからだ。つまり世界経済は、どこもかしこも大変なことになってしまった。「あそこはうらやましい」と言えるような存在が見当たらなくなって久しい。
2006年当時、『フラット化する世界』に対する批判として、「ビジネスクラスから見たグローバル化論」という指摘があった。トーマス・フリードマンはニューヨークタイムズ紙の花形記者であるから、きっといいホテルに泊まって、ビジネスクラス以上のフライトで世界を駆け回っているのであろう。でも、そんなことで、本当の世界経済の姿が見えるもんですかね、という嫌味である。
10年後の今になって考えてみれば、確かにあの本は楽観的過ぎた。相次ぐテロ事件、難民問題の発生、過激なイスラム思想の浸透、主権を取り返せ、という声の高まりとイギリスのEU(欧州連合)離脱、そしてアメリカにおけるドナルド・トランプ現象……。
グローバル化やTIT時代の「負の側面」を「これでもか」と見せつけられるような口々が続いている。仮に2006年に格安ホテルとLCCで世界を、特にイスラム圏を重点的に回るジヤーナリストがいたら、『フラット化する世界』とはまったく違う、より悲観的な世界経済の未来像が描けたかもしれない。
世界経済の雰囲気全体も、10年前とは一変している。2006年当時は米国では住宅バブルがまだ健在であったし、中国は資源爆食型の経済成長を続けていた。そして日本経済も、輸出主導型の「いざなみ景気」の最終局面にあった。世界貿易量は毎年のように2桁増を記録していたし、石油価格はIバレル60ドル台でまだ上昇途にににあった。
ところが10年後の今日、世界経済はすっかり沈滞ムードにある。とにかく2008年のりーマンショック後の国際金融危機の痛手が大きかっと。そこから中国が4兆元の財政出動を行い、一種の「新興国バブル」を起こすことで世界経済はかろうじて回復してきた。FRB(米連邦準備制度理事会)がデフレ回避に向けて数次にわたる量的緩和政策に訴え、低利の資金が新興国に流人したという背景もあった。しかるに今では中国経済が減速しつつあり、ましてやブラジルやロシアは息も絶え絶えといったところである。
アメリカ経済はいちおう好調ということになっている。失業率はピーク時の2桁から5%以下にまで改善した。とはいえ国民が満足しているかというと、とてもそんな風には見えない。量的緩和政策からの出口は簡単ではなさそうだ。米大統領選挙を見る限り、これまで溜め込んできた不満がばとばしっている感がある。
ヨーロッパ経済はようやく立ち直りつつある。が、そこヘパリやブリュッセルヘの度重なるテロ攻撃である。さらに愛想を尽かしたイギリスが国民投票でEU離脱を決めてしまった。そんな中で、ギリシヤの財政問題も片付いてはいない。むしろ当面はイタリアの銀行の不良債権問題が焦点となっている。どこまで続くぬかるみぞ。
中国などの新興国経済にはかつてのような勢いがない。中国はまだ「減速」などと言っていられるが、ブラジルやロシアの経済はインフレも伴って惨價たるものだ。一世を風扉したBRICs経済でも、今では元気がいいのはインドくらいである。これを商社業界などでは、「BRICsは死んだが、愛(I)だけが残った」と呼んでいる。
かくして世界中どこを見渡しても不機嫌になっている。これを称して「長期停滞論」と呼んでいるわけだ。『フォーリンーアフェアしス』誌に巻頭論文を寄稿したローレンス・サマーズ教授(ハーバード大学)によれば、これは世界的な過剰貯蓄、過少投資の結果であるという。
貯蓄が過剰になる理由はよくわかる。先進国はとこでも高齢化が進んでいて、高齢者が資産を持っている゜それらの多くは安全資産に滞留してしまう。真面目な話、余生か短い人たちに、あんまりリスクを取らせるわけにはいかないだろう。
それから所得格差が拡大して金持ちの資産が急増していることも、貯蓄増加の一因であるだろう。 一人の人が持つ100億円と、100人の人が持つ1億円では、当然後者のおカネの方が使われやすいっ大金持ちは得てして忙し過ぎるので、おカネを使う暇がなかったりするのである。
過少投資になるのはなぜか。ひとことで言えば、フロンティアが枯渇したからであろう゜今世紀に入って、すぐに起きたのがハイテクバブルの崩壊であった。次にアメリカの住宅バブルがサブプライム問題となって炎上した。2008年のりIマンショック後は中国を中心とする新興国バブルで息をつないできたが、今ではそれさえも怪しくなって、2014年夏からは石油価格の暴落が始まった。つまりニューエコノミーもオールドエコノミーもダメ、先進国も新興国も失速して、いよいよ見込みのある投資先がなくなった、ということになる。
サマ-ズ論文には、「ニューエコノミーは投資を減らす」との指摘もある。言われてみればその通りで、ネット上でほとんどの用事が済むようになると、有形資産に投資する必要がなくなってくる。
アマゾンは書店を不要にし、フェイスブックは「久しぶりにお目にかかって一杯」を省略し、Airbnb、すなわち日本でいう「民泊」は、ホテル建設の需要を減らす。ウーバーという自動車のシェアサービスは、使っていないクルマを活用してくれるわけだが、結果として新車が売れなくなってしまう。ヴァーチャルな経済が発展すると、得てしてリアルな経済を代替してくれてしまうのだっそれもお安く。
しかも技術の進歩はむちゃくちゃ早いから、下手に箱モノを作ったりしていると後で陳腐化したり、コストが掛かったりして泣きを見るかもしれないっかくして貯蓄は増えるのに投資が増えない。結果は低成長、低インフレ、低金利である。「日本式の経済停滞は既に他人事ではない」とサマ-ズ教授はのたまう。
そこで解決策をどうするか。マイナス金利などの金融政策ではもはやどうにもならない。サマ-ズ氏の処方箋は財政政策の発動である。世界経済の需要を管理する必要があって、足りなかったら政府が補うしかない。財政赤字が拡大しても、未来の世代には低利の長期国債という資産が残るからいいじゃないか、というのである。
さて、それでは本当に財政政策で世界経済の夜は明けるのか、そこは何とも疑わしいと筆者は考えている。民間投資が足りない時に、政府部門が一時的に公共投資を増やして対応するのは経済政策の常道である。が、財政出動だけで今の構造的な「過剰貯蓄、過少投資」を解消できるとは考えにくい。それは財政赤字を増やしてしまうし、投資そのものも非効率であるし、持続可能でもあるまい。だいたいおカネの使い方というものは、政府よりも民間の方がよく知っているものだ。
マネーはつまるところ、なるべく無理のない形で使ってもらう必要がある。無茶で無謀な公共投資は、あとあと緑でもないことにつながる。日本国内だけでも、その手の例は嫌というほどある。「長期停滞論」がでてきたということは、いよいよ経済政策のアイデアが枯渇してきた、ということなのかもしれない。
「長期停滞論」特集には、ほかにも面白い論文が載っている。投資家のザチャリー・カラペルという名前は初耳だが、『フォーリンーアフェアーズ』誌はときどきこういう「抜擢」をやってくれる。題名は、『停滞を愛せよ~成長は万能ならず。日本に尋ねよ』である。
いわく、世の中が長期停滞に見えるのは、政治家やエコノミストがあいかわらずGDP(国内総生産)中心で世の中を見ているからだ。しかしこの間に、世界的に生活に不可欠な財やサービスの価格が低下している。つまり賃金レベルが停滞しても、生活レベルを維持するか、向上させることができる。デフレと低需要は成長を抑之込むかもしれないが、それが必ずしも繁栄を損なうとは限らない。その何よりの証拠が日本経済だ。
日本は長らく世界経済の反面教師と見なされてきた。それでも世界有数の豊かで安定した国である。平均寿命は長く、犯罪率は低い。医療と教育も優れている。所得格差は他国と同様に拡大しているが、多くの人の生活レベルが悪化したわけでもない。公的債務が金融崩壊を引き起こしたわけでもない。
おいおい、よしとくれよ、と言いたくなるところだが、「長期停滞の世界経済における勝ち組は日本である」という見方は、意外性があってちょっと面白い。低成長で、マイナス金利で、少子・高齢化で、ちっとも明るいとは思えない日本経済だが、今のところ物価は安く、メシは旨く、公的サービスもちゃんとしている。移民や宗教やテロといったややこしい問題もとりあえずは対岸の火事である。なにより国政選挙をやれば毎度キチンと与党が勝つ、という点が今どきの先進国においては稀有の安定度と言える。
アメリカ経済は人口が増えている。それは確かに結構な話だが、移民が増えるということはいろいろ社会の負担が増える。米国の失業率は確かに改善しているが、それではなぜドナルド・トランプが大統領に当選したか説明できない。アメリカ国民が溜め込んできた不満がほとんど爆発している感がある。とりあえず、ウォルマートの店員として働き口が有っても、それでは満足できないのである。
ドイツの繁栄の為にEUがあることがバレバレになってきて、そこへ難民の増加に加えて、テロ攻撃である。イギリスが国民投票でEU(欧州連合)脱退を決め、一時はブリックスが通過して慌てたが、最近英国世論は離脱容認派が増えつつある。ギリシャの財政問題も片付いてはいない。ヨーロッパ経済はどこまで続くぬかるみぞ・・・。
中国などの新興国経済にはかつてのような勢いがない。中国は表向き統計発表上6.5%成長となっているがまともなエコノミストは「中国はマイナス成長」だと思っている。ブラジルやロシアの経済はインフレも伴って惨憺たるものだ。一世を風靡したBRICs経済でも、今では元気がいいのはインドくらいである。これを商社の人達は「愛(I)だけが残った」というのだそうだ(笑)。でも、愛だけではご飯が食べられない。
かくして世界経済全体が日本が最初に突入した「長期停滞」に突入しているのである。ローレンス・サマーズ教授によれば、これは過剰貯蓄、過少投資の結果であるという。
貯蓄が過剰になる理由はよくわかる。先進国はどこでも高齢化が進んでいて、高齢者が資産を持っている。それらの多くは安全資産に滞留してしまう。所得格差が拡大して金持ちの資産が急増していることも、貯蓄増加の一因であろう。今更バブルを起こせないのである。
さらに、社会が成熟してくると、プライスレスな「お金に換算できない価値」に人々は情熱をかけるようになってくる。それは、GDPに換算できないものである。
日本は確かにバブル崩壊後、GDP上成長はしていないが、「お金に換算できない価値」は確実に増え、世界から尊敬され羨望される社会を形成している。
そして、どん底だった民主党政権の日本を復活させたのが安倍首相でありアベノミクスであって、アベノミクスは世界のお手本?かと、カンベイ氏は問いかける。
アベノミクスには色々な側面と範囲が有って、人々はその人の価値観から成功か失敗か見方が分かれ、成功か失敗かという議論がなされている。
P37
積極的な金融政策と財政政策の組み合わせ、ということになると、「4年たっても2%という物価安定目標は達成されていない。だから失敗だ」と断じるべきか。それとも「4年も続いていること自体が成功であるし、そもそも失敗していたら速やかに忘れ去られているはず」と見るべきだろうか。
カンベイ氏は英国の高級誌『エコノミスト』が取り上げたアペノミクスに対する特集記事を紹介している。

表題2013年”Is it a bird? Is it a plane? No...It's Japan!”
(鳥か?飛行機か?日本だ!)
副題2013年”Abenomics,nationalism and the challenge to China”
(アベノミクス、ナショナリズム、中国への挑戦)
表題2016年“Abenomics―― What it can teach the world”
(アベノミクスが世界に教えられること)
副題2016年“Overhyped underappreciated”
(誇張され過ぎだが、過小評価されている)
P37-44
これまで何回かカバーストーリーで取り上げているのだが、典型的なのが2013年春と2016年夏の号である。
2013年春にアペノミクスが始まったばかりの頃は冷やかし半分で、スーパーマンに扮した安倍首相を表紙に使っている。その上で、「ナショナリストの安倍は、明治時代のスローガン『富国強兵』の通り、豊かな日本だけが中国に対抗できると考えている。
アペノミクスは経済政策であるとともに国家安全保障政策である」などと評していた。
その上で、「安倍は厳しい国内改革を実現できるのか、そして経済だけに専念できるのか(中国に不要な喧嘩を売るのではないか)」と少々、上から目線で疑問を呈している。
これに対し、2016年夏の号では日の丸に安倍首相、その後ろを飛ぶ3本の矢、と
いう真面目な絵柄を掲げ、「アペノミクスが世界に教えられること」と題している。このタイミングで取り上げるのだから、てっきり悪口を言うのかと思ったら、逆にアペノミクスを持ち上げている。「安倍首相は誇張しがちだけれども、今のアペノミクスヘの評価は低過ぎる」と結論付けている。はて面妖な。
2013年にアペノミクスが始まったばかりの頃は茶化して、2016年に皆が疑い始めた頃になって持ち上げている。この3年間で何か変わったかと言えば、もともとは「日本に特有の現象」だと思われていた低成長、低インフレ、低金利が、いよいよ先進国経済全体の現象になってしまい、日本経済が欧米にとって「貴重な先行事例」になったからであろう。つまり「アペノミクスが成功してくれないと、俺たち欧米経済も困る!」と思い始めたのではないか。
実際のところ、「緩和的な金融政策」は欧米でもできないことはないが、「拡張的な財政政策」を実行できるのは日本くらいである。米国では議会が反対するし、欧州ではEU内がまとまらない(特にドイツの反対を押さえられない)。両者を組み合わせるという経済実験は、簡単そうに見えて実はそうではない。「長期停滞論」を唱えるサマ-ズ教授が、「主要経済国は協調してインフラ投資を」といくら呼びかけても、アメリカ政府自体がおいそれとは動けない。そしてまた、財政状況が悪い日本の方が公共投資に積極的、というのは皮肉な図式と言える。
ゆえに欧米各国から見れば、「アペノミクスが成功して、日本経済がデフレから脱出してくれれば大いに結構。後から自分たちが真似することができる。仮に日本が失敗したとしても、それは自分たちには関係ない話だ」ということになる。いや、勝手なものですな。
そこで日本としてはどうするのか。やはり財政政策を成功させなければなるまい。つまり使ったお金がちゃんと生きるようにする、ということで、これは言うは易く行うは難い。考えてみれば、日本は過去に「景気刺激策としての」公共事業をたくさんやってきた。その結果がどうであったかと言えば、あまり高い点数はつけられないだろう。維持費のかかる箱モノや、交通量の少ない高速道路や、津波の際に役に立だない防潮堤などが作られてきたのではなかったか。
せっかく税金を投じるからには、ちゃんとその後で民間投資を誘発するようなものであるべきだろう。財政支出は永遠に続けることはできない。政府のおカネが終わったらそれでおしまい、では困る。それではデフレに逆戻りになってしまうだろう。テーマを絞った公共投資でなければならない。それはどんなものであるべきか。
2016年5月19日、筆者は自由民主党の日本経済再生本部(本部長一稲田朋美政調会長=当時)の有識者ヒアリングに呼ばれた。余計なことだが、自民党本部で行われる朝食会にはひそかな楽しみがある。朝飯、特にコメが旨いのである。たぶん農水族のメンツが懸っているからであろう。その日はG7伊勢志摩サミットの直前で、「国際協調はどうあるべきか」がテーマであった。
そこで筆者はひとしきり「長期停滞論」を紹介し、「政府が財政出動すべきテーマ」として、①アジアのインフラ投資、②ツーリズム(観光産業)への投資の2点を挙げた。
前者は海外の話で、おカネは需要が強くてリターンが高そうなところに投入すべき、という当たり前の話である。後者は国内で、ツーリズムという産業を育てることを国策として考えるべきであり、そこに税金を傾斜配分すべき、というものである。
「観光立国」と言われ始めて既に久しいので、それ自体は珍しい提言ではないと思う。ただし普通のツーリズム投資といっても、道路や鉄道、ホテルといったものはちゃんと民間の資金が流れる。誰が見たって儲かる事業には、かならず手を出す人は居るものだし、おカネを出してくれる人だって見つかるのである。国費を使うからには、放っておいたらおカネが流れないところ、例えば文化財の保護という形で使ってはどうか、と言ってみた。
おそらく「古い城を修復するプロジェクト」といった形では、いわゆる「乗数効果」
は期待しにくい。古いお城が、ある日突然、おカネを生んでくれるようになるわけではないからだ。しかし立派になった文化財を見に来てくれる人が増えるのであれば、これは立派な成長戦略ということになる。「あそこはいいぞ」という評判は、それこそGDPなどにはカウントされないが、地域のブランド価値を高めてくれるはずである。
このアイデアは意外と好評であった。それというのも国会議員の先生方は、皆さん地元にひとつか2つ、「立派な観光資源であるはずなのに、あまり他所から客が来てくれないし、地元もありがたみを感じていない」文化財をお持ちであるからのようだった。
それでは宝の持ち腐れというものである。高速道路網が全国ほとんどできてしまい、いまさら工業団地を作るのもピント外れという今の日本では、ツーリズム投資こそが最も効率の良い投資ということになるのではないだろうか。
本書の問題意識を改めてまとめておこう。
今の日本経済は必要性の経済学から一歩抜け出して、遊民経済学へと踏み出すべき段階にある。そこで一番わかりやすいテーマがツーリズムであろう。幸いなことに、観光客は世界的に増えつつある。それは「インバウンド」(外国人訪問客数)の増加という形で、わが国にとっても現実のものとなりつつある。
現在のアベノミクスは確かに途半ばであろう。金融も財政も大胆に使って、それでなおデフレから脱却できない恐れがあるとしたら、それは「こういう方向で日本経済を発展させていく」というテーマ性、もしくは物語性に欠けているからではないかと思う。
2016年8月に閣議決定された2次補正予算においては、「訪日外国人客が利用する大型クルしス船に対応した港湾などインフラの整備などに1兆4056億円」が盛り込まれた。これなどは、まさしくツーリズム投資であり、景気対策としての「ツボ」だと思う。ただし惜しむらくは、「1000本の針」と呼ばれかねない細かな事業である。
もっと骨太なストーリーを描けないだろうか。それは「がっては安くて良い製品を作ることに長けていた日本経済が、遊びを軸とするサービス産業中心の経済に生まれ変わる」という大胆な絵柄である。成熟した自由主義経済であり、世界有数の金融資産を持ち、世界でもっとも高齢化した人口を持つ日本こそが、遊民経済学の時代の先頭ランナーとなる資格を有している。
と、こんな風に大きく訴えれば、デフレからの脱却も見えてくるのではないだろうか。
英エコノミスト誌の記事は次のように結んでいる。
「ある意味で(アベノこヘラスの)誇張は必要であった。日本の停滞は自己実現的な予言の結果であった。だとしたら、アペノミクスは皆が十分に実現を信じたときこそ、成功することになる。これこそ日本の経済実験が、世界に伝えられる究極の教訓となる。それは目標は高く、ということだ」
夏目漱石は、「こころ」や「それから」といった作品の中で描いた、高等教育を受けながら、時代の風潮を受けきれず、仕事にもつかずにぶらぶらして暮らしている人たちを、「高等遊民」と呼んだが、今の富裕層の老人達はまさに21世紀の高等遊民なのかもしれない。
特集:遊民経済学の時代?
【溜池通信】July 25, 2014 双日総合研究所 吉崎達彦
このところ日本経済において、「ツーリズム」が占める地位が高まっています。成長戦略としての「観光立国」は誰もが認めるところでしょうが、モノづくりならぬ「思い出作り」の観光ビジネスは、従来の発想が通用しない面が多々あります。
しかし割り切って考えてみると、今は経済活動全体が変質しているのかもしれません。
消費者が「生活に必要なもの」を求める機会はじょじょに減り、むしろ「感動できるもの」を求めることが多くなっている。いわば「遊び」の観点が重要になっている。
こういうときは、既存の発想の体系を一度投げ捨ててないと、「今風の経済」は見えてこないのではないか。ということで、以下は少々大胆な「試論」です。
●鳥取と島根~「遷宮」が地方経済を救う
仕事柄、地方に出張する機会をよく頂戴する。今月は、山陰中央新報紙の政経懇話会の講師として、鳥取県米子市と島根県松江市を訪れた。筆者にとっては、地方経済の現場を観察する絶好の機会である。
よく「一票の格差」問題などで引き合いに出される両県は、鳥取の人口が 57.5 万人、島根の人口が 69.8 万人である。つまり鳥取は杉並区(55.7 万人)なみ、島根は足立区(68.8万人)なみの人口に過ぎない。ただし山陰両県を昔の区分(令制国)で見ると、東から順に「伯耆」「因幡」「出雲」「石見」となり、さらに「隠岐諸島」をも含んでいる(竹島も!)。単に広いだけでなく、文化的にも多様な地域を包摂していると言える。
過疎の人口減少県である山陰地方は、今後の日本経済を考えるヒントを提供してくれそうだ。さて、どんなことが起きているのだろう。
ここでは地元の『山陰経済ウィークリー』誌 7 月 15 日号が、「大遷宮特需」を特集していることをご紹介したい。
昨年は伊勢神宮が 20 年に 1 度、出雲大社が 60 年に 1 度という、非常にめずらしい「ダブル遷宮」の年であった。伊勢神宮には史上最高の 1420 万人が訪れたが、出雲大社も 804万人が訪れ、例年の 250 万人程度を大きく上回った。普段は西日本からの参拝客が中心の出雲大社であるが、昨年は東京からの女性客が目立ったという。さすがは「縁結び」の神様というべきか。
お陰で島根県内の宿泊、運輸、食品工業などで好決算が相次いだ。日本銀行松江支店の試算によると、県内の経済波及効果は 344 億円で、県内成長率を 1%押し上げたとのこと。
県内の玉造温泉はもとより、鳥取県の皆生温泉にも好影響が及んでいたという。
ツーリズム(観光産業)の底力を思い知らせるような話であるが、それというのも島根県の人口が少なく、観光客受け入れのキャパシティも小さいからこそ、経済効果が大きく感じられることになる。早い話、東京ディズニーランドの年間 3129 万人(2013 年)の入園者数が、首都圏にいかなる経済効果をもたらしているかといえば、話が大き過ぎて見えなくなってしまう。が、地方経済の活性化という観点でいえば、観光客は少なくても確実なプラスをもたらしてくれるのである。
同様な例を挙げるならば、鳥取県の境港は近年、日本有数の漁港というよりも、「水木しげるロード」で有名である。こちらは 2010 年のピーク時(NHK の朝の連続テレビ小説が『ゲゲゲの女房』だった年)には、年間 370 万人が訪れたという。実に県の人口の 6 倍以上、地元境港市の人口の 100 倍以上である。これだけの訪問客があれば、シャッター通りも復活してくるし、「何か面白い仕事を試してみよう」と外からやってくる人もいる。
さらには商店街が、「観光地価格」のメリットを享受することができる。
思うに、「急激な人口減少」はもちろん経済にとっては痛手であるけれども、「少ない人口」で安定してくれれば、それから先の問題は意外と少ないのではないか。先般、日本創生会議(増田寛也座長)が、「2040 年までに全国の 896 自治体の半分が消滅する」という衝撃的な報告を行った。あれは「若い女性に見離された自治体は滅びる」という指摘に値打ちがあるのであって、字面通り自治体の消滅を恐れるのは過剰反応ではないかと思う。
地方都市の人口構成は既に高齢化がかなり進んでおり、今後も無制限に続くわけではない。今後はむしろ大都市圏の高齢化が本番を迎える。特に団塊世代が後期高齢者になったときに、首都圏の自治体における医療・介護の負担は相当に深刻なものになりそうだ。
もちろん、観光旅行が一過性のブームに終わってしまっては困るのだが、出雲神社にせよ水木しげるロードにせよ、他所にはない「オンリーワン」の観光商品である。特に境港市は、ありきたりな「漁業による街づくり」ではなく、「妖怪による街づくり」を目指したことがロングセラーの秘訣となった。「ナンバーワン」を目指す努力はいつか誰かに抜かれてしまうが、「オンリーワン」はそもそも誰も追いかけてこない。地方都市は弱者であるからこそ、この手のリスクを取ることができるとも言えるだろう。
●道後温泉~なにが人気になるかわからない
他方、有名な観光地だからといって安閑としてはいられない。その点で面白かったのが、5 月 22 日に愛媛日経懇話会の際に訪れた松山市道後温泉の事例である。
おそらく国内の温泉地の中でも、道後温泉ほど条件的に恵まれたところは少ないだろう。
1. 知名度:「聖徳太子が入った」と伝えられるほどに歴史が古い。
2. アクセス:松山空港から市内までクルマで 20 分。道後温泉まで市電で 15 分程度。
3. 話題性:夏目漱石『坊ちゃん』の舞台として知られ、その後も道後温泉本館が宮崎アニメ『千と千尋の神隠し』のモデルになり、さらに NHK ドラマ『坂の上の雲』で松山市が注目を集めるなど、話題が尽きない。
いわば「鉄板」の観光地なのだが、いつまでも過去の人気には頼っていられない。それというのも、道後温泉本館は国の重要文化財で、最近では近代化産業遺産にも指定されているが、今年で120周年を迎える。大還暦を機に間もなく大改修を行うことになっている。
街のシンボルが使えない間、集客をどうするかが課題になっていた。
そこで道後温泉では、温泉とアートを組み合わせたイベント「道後オンセナート」を開催中である。何か所か見学させてもらったのだが、いちばん驚いたのは宝荘ホテルだった。
国際的アーチストの草間彌生氏が内装した部屋が、海外の雑誌が取材に来るほどの反響となっている。内外の現代美術ファンがやって来るので、一泊 7 万 8000 円もする客室の稼働率は 6 割もあるとの説明であった。
○宝荘ホテル×草間彌生(5 月 22 日、筆者撮影 http://www.takaraso.co.jp/ )
昔はヒット商品と言えば、見た瞬間に誰でも「ああ、これは売れるだろう」と分かったものである。最近は、「なぜこれが売れるのかサッパリ分からない」ものが多くなっている。ちなみに宝荘ホテルの社長さんは、「私は分かりませんから、全部草間さんにお任せします」と最初から言っていた由である。
こうしてみると、「どうやったら観光客を増やせるか」はそう簡単な課題ではない。「モノづくり」では直線的で地道な努力が効果を発揮するが、「感動を売る商売」には「逆転の発想」的なセンスが必要になる。「他所でうまく行ったこと」の真似をすればいいのではなく、「他所がまだやっていない面白いこと」をやらなければならない。
最近は成長戦略としての「観光立国」の議論が盛んだが、観光客を増やす努力においては、「成功のひな型」がどこかにあると錯覚してはならない。観光業における他人の成功例とは、もはや使えなくなってしまった古い手口に過ぎないのである。
●観光立国~なぜ人は旅に出るのか
かねてからの筆者の持論として、わが国では産業としてのツーリズムが過小評価されてきた。普通の国では、観光産業は GDP や雇用の 10%程度を占めるが、日本のそれは 5~6%にとどまっている。いわば「使っていない筋肉」のようなものであり、裏を返せばビジネスとしての伸び代は大きいはずである。
都市と地方の格差を縮小する、という政策課題を考える上でも、ツーリズムの有効性は明らかである。都市部のマネーを地方に再分配するために、かつて「米価」が使われた時代があった。都市住民が国際価格よりも高いコメを買うことで、「国土の均衡ある発展」
を図ったのである。あるいは「公共事業」によって、全国各地にランドマーク的な「箱モノ」が乱立した時期もあった。これらの施策には、どうしてもさまざまな弊害が付随する。
それに比べれば、ツーリズムは「人の移動を盛んにする」ことで、より健全な形でマネーの還流を加速し、地方経済を活性化することができる。
さらに外部環境も改善している。たまたま今週は、今年上半期の外国人訪問客数が史上最高の 626 万人に達したことが報じられた。前年同期比 26.4%増というから、昨年の好調さが持続しているようだ。①円安の定着や、②東南アジア向けのビザの発効要件の緩和、③LCC の普及などの効果が浸透しているのであろう。日本を訪れるリピーターも、着実に育ってきているのではないだろうか。
小泉政権が「ビジットジャパン・キャンペーン」を始めた 2003 年には、同じ上半期の訪問客数は 229 万人に過ぎなかった。おそらくこの 10 年ほどで、「世界を旅する」人口が飛躍的に増えているのであろう。
近年の新興国における経済発展は、特にアジアで分厚い中間層を勃興させつつある。航空会社の数も増えて、ネットワークも充実しつつある。それと同時に、「世界遺産」なるものが注目を集めるようになってきた。さらに言えば、スマホで撮影した観光地の写真を、SNS を通して友人たちに見せる、という新習慣も広がっている。いろんな意味で、ツーリズムは国際的に急成長しているのである。
ところが、国内の観光業者の意識はたぶんに古い時代を引きずったままである。
「奈良の大仏商法」という言葉がある。奈良には大仏があるから、放っておいても修学旅行が来てくれる。ところが修学旅行ほど、旅客業をスポイルするものはない。何しろ、大勢を狭い部屋に泊めて、お仕着せの料理を出して、去年と同じサービスで良くて、なおかつクレーム処理は学校の先生がやってくれるのである。こんな楽な商売をやっていたら、サービス業としての競争力がつくはずがない。
必然的にフリーのお客は、奈良は昼に通過して、夜は京都や大阪で宿泊することになる。
「義務で来てくれる」客が居るものだから、「遊びで来てくれる」客の気持ちが分からなくなってしまうのである。
●遊びビジネスの時代と「長期停滞論」
今日のビジネスを考える上で、最も重要なのがこの「遊び心」を読み解くことであろう。
「……しなければならない」と考えている消費者のニーズは、比較的容易に把握することができる。ところが、「何か面白いことがあればいいのに……」と思っている消費者は、どうしたらカネを使ってくれるのかが分からない。非必需品を売るときは、必需品を売るとき以上に知恵が必要になる。そして利益率は、得てして必需品よりも非必需品の方が高いのである。
最近になって誕生するネット関連の新しいビジネスには、遊びに関するものが目立つ。
フェイスブックは「社交」を商売にしてしまったし、スマホという道具が定着したことで無料ゲームの配給会社が数多く誕生し、最近では「面白いニュース」を勝手に拾い集めてくれるキュレーションメディアも誕生しつつある。
これらはすべて、生活する上で必要欠くべからざる存在ではない。強いて言えば、平凡な日常をちょっとだけ楽しくしてくれる商品やサービス群である。ゆえに料金を取るわけにはいかないので、収益は広告モデルが多くなる。が、とにかく人々の生活を変えつつあることは間違いない。
語弊を恐れずに言ってしまうと、今日の消費者は良く言えば「思い出作り」、悪く言えば「暇つぶし」のためにおカネと関心を払うようになっている。逆に「生活の上で必要欠くべからざるもの」に対する支出は、以前とそれほど変わっていない。となれば、ビジネスは当然、前者の開拓を目指すべきであろう。
ここで、「どうすれば遊び関連ビジネスを成功させられるか」という知恵は筆者にはない(あったとしても、こんなところではもちろん公表しない)。逆に関心があるのは、「日々の生活の糧を追い求める時代につくられた経済学は、これからの時代にどこまで通用するのか?」である。
昨今、景気回復途上の米国で話題になっているのが「長期停滞論(secular stagnation)」である。以下はその代表的論者であるローレンス・サマーズ御大の主張である。
* リーマンショック後の米国経済の低成長は、需要不足が顕在化したから。そしてリーマンショック以前のバブル期においても、超過需要は発生しなかった。
* その原因としては、「生産性の鈍化」「格差の拡大(富裕層は消費性向が低い)」「金融危機後のリスク回避傾向」「技術革新」などが考えられる。
* そこで考えられるのは、①サプライサイド政策(構造改革)、②金融緩和、③需要創造政策の 3 点である。①は時間がかかるし、②はバブルの危険がある。長期停滞を回避するには③が必要だ。
* 大規模な雇用の創造が喫緊の課題である。かつてのグラッドストーンやビスマルクのように、政府の役割の大変化が必要である。
米財務長官も務めた大経済学者に対し、こう言っては失礼かもしれないが、「分かっちゃいないな」である。これぞ「必需品を売る」時代の経済学の典型的な発想ではないか。
「遊び」を主要なニーズとする時代に、どうやって政府が需要を喚起できるのか。「遊び」に対する思いは、人それぞれに違っている。それらを一緒くたにして、「大規模な雇用の創造」に結び付けられるとはとても思えない。
かかるケインジアン的な発想は、筆者にはまるで「修学旅行が大勢来てくれた時代を懐かしがっている旅館の繰り言」のように思えてしまう。おそらく新興国経済であれば、まだまだ有効な思考なのかもしれない。が、これからの先進国経済を考える上では、早々に捨て去った方が良いのではないだろうか。
●「遊民経済学」へのはるかなる道
必要性ではなく、「遊び心」を主な需要とする経済を読み解くには、いわば「遊民経済学」的な発想が必要になるだろう。もちろんそんなものは現時点では存在しない。「ミネルヴァのふくろうは夕暮れに飛び立つ」というくらいだから、たぶん「遊民ビジネス」がいくつも花開くようになった後になって、ようやく理論化されるのではないか。
ところで社会学の世界では、「遊び」をテーマにした古典的名著が 2 つある。ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』と、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』である。最近になって知ったのだが、カジノ・ビジネスの世界ではこの 2 つの本が活用されている。つまりラスベガスにおいて、原始的なカジノが広い意味の総合エンタテイメント産業に育つ過程において、「遊びとは何か」が事細かに検討されているのである。だとしたら経済学はともかくとして、「遊民経営学」は既に産声を上げているのかもしれない。
遊民経済復興安のなかで是非ともと思ったのが、食堂車の復活である。
p54-55国鉄がJRになり、ブルートレインがなくなり、いろんな路線が廃線となった中で、
食堂車もほとんど姿を消したっ軽食を提供するビュッフエくらいはまだ残っているけれども、古きよき旅の習慣は失われていった。どうせ新幹線には長時間は乗らないんだし、お弁当は種類がいっぱいあるんだし、車両を増やすとそれだけコストもかかるし、食堂用の従業員確保も手間である。それに、自出席代わりに一杯のコーヒーで粘るような客もいるしねえ、ということで合理的な経営判断なのであろう。
その一方で、この国が本気で「観光立国」を目指すのであれば、そろそろJRは食堂車の復活を真面目に考えるべきなんじゃないか、という気がしている。
とにかく日本という国は、弁当や軽食が異常に発達している。そのこと自体はもちろん結構なことである。実際に筆者なども、電話も来客もない新幹線車内はとっても仕事がはかどるオフィス空間だと思っていて、食事にはさほど時間をかけないのが常である。
とはいうものの、外国大観先客の身になってみたら、今の新幹線、特に東海道新幹線はちょっとビジネス仕様に過ぎるような気がする。冷たいご飯とお茶を好まない中国人観光客は、物足りない思いがしているのではないだろうか。
最後の部分は診察が終わって、最後の部分は病院のカフェテリアで読み終わった。
最終章の伊能忠敬の人生を読み、少し考えてしまった。
「第二の人生」の手本とされている伊能忠敬が50歳になってからのライフワークとして『大日本沿海輿地全図』を作成した彼の生き方を、通説とは違う突っ込んだ形で紹介している。
彼の名を遺した『大日本沿海輿地全図』の測量に出掛けたのは55歳、当時の55歳はここにいる70代の老人と同じくらいの年齢感覚であったであろうし、実年齢でも私とさほど差がない・・・私も第二の人生を何に懸けるか悩みどころである。
伊能忠敬は隠居した時に資産が3万両あったという、現在に換算すると30億円~50億円に相当すると言う。(p234) まあ・・・ということで、自分が伊能忠敬になろうなどとは思ってはいない。伊能忠敬のようなリッチな隠居になるにはまず億萬長者にならなくてはならないようだ。
日本経済の活性化は元気な老人をいかに躍らせるかである・・・カンベイこと吉崎 達彦氏の老人の高等遊民化案は、医療費と健康食品にしか金を使わない老人達を躍らせる為の提案をしているかもしれません。