Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ

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タグ:社会教育


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ルバング島における任務解除直後の小野田少尉 

世界に誇る日本人の一人小野田寛郎元少尉が天から与えられたこの世での任務を91年間務め、無事終了されてこの度帰還された。心より敬礼をさせて頂きます。
戦争が続いていると信じフィリピン・ルバング島に30年間任務を続けた元陸軍少尉で、ボランティアなどを養成する「小野田自然塾」理事長の小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんが16日午後4時29分、肺炎のため都内の病院で死去したことが17日、分かった。91歳だった。葬儀・告別式は親族のみで行う。後日、お別れの会を開く予定。

遺族らによると、体調を崩して6日から入院していたという。

大正11年、和歌山県亀川村(現海南市)で生まれ、昭和19年に諜報員などを養成する陸軍中野学校を卒業後、情報将校としてフィリピンへ派遣。20年の終戦後も任務解除の命令が届かず、ルバング島の密林にこもって戦闘を続け、49年3月に任務解除命令を受けて帰国した。

50年にはブラジルへ移住し、牧場を開業。平成元年には小野田自然塾を開設し、ルバング島での経験を基にキャンプ生活を通した野外活動などでボランティアの育成などに尽力した。近年は都内で生活し、国内各地で講演を行っていた。
よく、小野田さんは終戦を知らなかったと書かれていますが、小野田さんの言動を分析すると、日本が米国に敗戦となったことは理解していた。終戦を知らずにという表現は間違いだ。

小野田少尉は、帝国陸軍中野学校二俣川分校出身者だ。二俣川分校は日本が敗戦する前提で、戦後再び日本が反転反抗することに備えて日本およびアジア各地に残した諜報員(残地諜者)を養成する機関であった。日本の敗戦を前提で任務に赴いた小野田さんが終戦を知らないわけがない。
戦争が終わったと認知した後の戦闘行為は任務ではなくなってしまう恐れがある。それゆえ任務解除が必要だったのである。呼びかけに応じずジャングルから出てこなかった小野田少尉の判断は適切な判断であったと私は思います。

戦後解散した帝国陸軍の残務整理にあったった復員局の単純な怠慢ではなかったような気がします。復員局にいた帝国陸軍参謀達はもしかすると意図的に、残地諜者達に対し投降命令を出さなかったのかもしれないと、わたしは思っています。

小野田さんの戦いは終わった。91歳の生涯を貫いたのは「誇り」と「不撓不屈(ふとうふくつ)」だった。

イメージ 240年前のあの衝撃は、いまも鮮明に記憶している。ルバング島での初めての会見は、私たち報道陣への敬礼で始まった。質問にはひとり一人と正対し、よどみなく答えていった。手製の軍服は繕われ、ボタンもしっかりついていた。

毅然(きぜん)とした立ち振る舞いは何なのか。謎が解けたのは、28年後。再会した小野田さんは「大切なことは“らしさ”です。“らしさ”とは自分の役割が何であるかを把握し、責任を持って遂行すること」と話した。孤独な戦いを続けながら「日本人の誇り」に通じる“らしさ”を磨き、表現したものだった。

帰還後、小野田さんはブラジルへ渡り、成田空港よりも広い牧場経営に成功した。なぜ、そこまで戦い続けるのか。

「自然が好きなんですよ。その気になればどこでも食っていけますから」

あの牧場は、小野田さんの意地の証ではないか。「自分は戦争屋じゃない」との思いもあっただろう。

あの日と同じように、背筋を伸ばし、謙虚でつつましく歩み続けてきた小野田さん。風化しない生粋の人間を、また一人、失ってしまった。

(当時の取材キャップ・産経新聞元常務 山下幸秀)
この動画は、是非観てほしいと思います。

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元帝国陸軍残地諜者小野田寛郎氏がお亡くなりになった。

子供の頃、小野田さんのニュースを見て、凛々しく背筋を伸ばし、眼光鋭いが非常にいい顔をしていた小野田少尉に衝撃を覚えた。

小野田さんは最後の帝国陸軍軍人であっただけでなく、人間として尊敬できる偉人であったと思う。人間はいかに生きるべきか、生きる意味を教えてくれた偉大な哲学者でもあり、その生きざまは帝国陸軍中野学校の精神、「侍」そのものであった。

帝国陸軍中野学校の教育は「名誉や地位を求めず、日本の捨石となって朽ち果てること」を信条とした。日本軍一般の教育とは異なり、生きて虜囚の辱めを受けてもなお生き残り、二重スパイとなって敵を撹乱するなど、あくまでも任務を遂行すべきよう教育された。また、汚く卑怯ともいえる諜報活動を行うこととなるからこそ、「至誠」の心を強く持つよう教育された。小野田さんは「中野学校で、何がないからできないというのは自分の能力のなさを自白したようなものだと教えられました。サバイバルするためには、何がないからでは通らない。どんな手段を使ってでも何とかしなければいけない。何がないからできないとは、自分の不備不明の致すところと心得よというのは、いい教えだと思います。」と語っています。

戦後の東京裁判史観に汚染される前の純粋な日本人の価値観を保持していた小野田さんが語る一言一言は英霊の声そのものではなかったろうか?

小野田さんの座右の銘は「不撓不屈」だそうです。まさに小野田さんの生き様です。わたし(Ddog)は昭和38年生まれ現在50歳である。小野田さんがルバング島で命令解除を受け日本に帰国したのが52歳。小野田さんはそれから結婚し53歳でブラジルに渡ってジャングルを開拓し、零から牧場を興し成功した。小野田さんの生き様を改めて考えると、50を過ぎ、人間50年「もう若くはない」と、時々思うようになった自分が情けなく感じます。

小野田寛郎 語録

できない理由が分かればしめたもの、それを解決すればよいのだから。
 要は、やる気があるのかないのか、それが結果を変えてしまいます。

・悩むことなしに、自分にはやれるはずだと思って生きてください。 生きていくには 苦労はつきもの、それが当たり前という前提に立てば苦しくない。

・中野学校の教官は、誰も信用するな、ただ自分の判断だけを信用しろと教え ました。そう、自分の判断だけなんです、信用できるのは。

過去は捨てることはできない。現在は止めることができない。         しかし、未来は決めることができる。

・済んだことは済んだことで、愚痴を言っても始まらない。愚痴を言えば前に進む 力が減るだけでしょ。だから、愚痴を言うのは大嫌いなんです。愚痴や泣きごと を言う人も大嫌い。

・目的がはっきりしていると、いろいろ切り捨てられる。                「思い切り」というけど、目的があれば人間は思い切れるんです。

・危機なんてどうってことはない。ルパング島では毎日が危機だった。        負けたわけではないし、死んだわけでもない。危機は乗り越えればいい。

・貧しくたっていいじゃないか。乏しくたっていいじゃないか。卑しくなければ。

・できてもやってはいけないこと、できなそうでもやらなければいけないこと、     これで善悪が決まってしまう。

・よく「何でそんなに頑張ったのか」と聞かれるが、頑張ったのではなく、頑張らざ  るを得なかったのだ。皆がやっていることを、自分だけくじけたら笑われるから。

・遊んでいるように見える小鳥だって、天敵から逃げたり戦ったり、食べるために  必死で餌を探して営々と努力しながら生きてきているのです。人間も同じことだ  と思います。のほほんとしてはいれられないと思うのです。

・生きることは夢や希望や目的を持つこと。それらは教えられたり強制されたりし ても、湧くものではない。自分で創り出すしかない。甘えてはいけません。

・どうせ終わりが来るなら早く死んだ方が楽といって自決する気にもならなかった。 やってみなくちゃわからないんだから。

・戦いは相手次第。生き様は自分次第。

・豊かさは自分の心で感じるもの。不便さは何とでもなる。               最後は自分の五体で何とかなる。

・行動には必ず目的があるはずです。目的に合わないことを苦労してやっても   報われません。「何のために」「どうして」と自問することが大切です。

・自分では「どうすることもできない」と思っていることでも、本当は「どうにかしよう」 としていないだけではないか。

・コンパスは 方向を教えてくれるが、川や谷の避け方は教えてくれない。コンパス ばかり見ていると川や谷に落ちてしまう、自分で考えて判断しなければ。

・人間は一人では生きられない、ルパング島での一番の悲しみは 戦友を失った ことだった。魚は水の中でしか、人は人の中でしか生きられない。

・言っていることは親は分かっているのです。ただ 言われている子供は理解でき ないのです。やさしい言葉で、優しくゆっくり丁寧に感情的にならずに話してあげ てください。きっと分かってもらえますから。

強い人ほど優しい。強い人は余力があり、弱い人を助けたくなる。         誰でも「他人のために働きたい」とは思っている。それには強くならなければ。

・とにかく生きなきゃいけないし、勝たなきゃいけない。負けたら死ぬんですから。 小さいことで悩んで、そこで止まっていたら生きられない。              自分の中で目的がはっきりしていないと、そうなっちゃうんです。

・先のこと、毎日ことは自分で何とかしなくちゃいけない。                だって、自分以外は誰も何もしてくれないんですから。

・(ブラジルに移住して)最初はイライラすることもありました。たとえば、こちらの人 は時間を守らない。だから、二段構えで予定を立てるようにしていったんです。も し来なかったら何をすると予定を立てておけば、すっぽかされてもやることがあ  るから気にしないで待っていられる。町に行っても、相手が現れなかったら別の やることをやって戻ってくる。いつも副目的を持っていれば、相手に振り回されず に済むんです。

・少数精鋭なら、その人間たちに相当のことを任すことができるし、また、任せなく ちゃこんな仕事はできません。任されるほうにも責任が生まれるし、やりがいも  出てくるだろうし。自分のことは自分でやるのが基本ですけど、           他人に任せるということもできなくちゃだめですね。その両方がないと。      【ブラジルでの農業経営について】

・生きることは 夢や希望や目的を持つこと。これらは、教えられたり強制されたり して湧くものではない、自分で創り出すしかない。 甘えてはいけない。

・死というものを考えたうえで、毎日毎日を自分らしく力いっぱい生きていくと いうことで、自分が思っている以上の大きな力が出るものです。そうすれば、自分でも 納得できる生涯が送れるのではないでしょうか。

一つ一つの言葉には、30年間頑なに任務を遂行し、生き延びてきた小野田さんであるからこそ言える含蓄があり説得力があります。チョット会社が成功したからといって書いたベンチャー社長のビジネス書など児戯に等しく感じてしまいます。



帝国陸軍軍人がすべて小野田寛郎さんのような侍ばかりであったとは言い切れませんが、帝国陸海軍軍人の多くは皆さん立派な方が多かったと思います。

小野田さんも多くの人を戦闘行為のなかで殺害したようですが、軍務遂行の為であり、相手は軍人、鬼畜の殺人鬼ではありません。小野田さんはあくまでも終戦を知らず戦闘行為を続行していたにすぎませんでした。
殺人と戦争の区別がつかない護憲派の卑しい人間たちは理解できていない。帰還後の小野田さんに汚い言葉をかけた自称平和主義者たちは、未だに靖国神社の英霊に対して失礼な言葉を吐いている。命を捧げた英霊たちがいたからこそ、今日平和に暮していけるにもかかわらず、感謝もせず、その多くは脱原発とか騒いでいる人たちだ。正義を振り回している卑しい人たちを見ると私は許すことができません。





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ところで、なぜ玉砕で玉砕道なのか漢文の素養があるかたはご存知かもしれませんが、説明をしないと本書を読まれる前の方には到底理解できないと思います。

玉砕についてその出典について西郷隆盛の漢詩を用い説明した勝谷氏の「はじめに」をご一読すれば理解できるかと思います。素晴らしいのでコピペいたします。

p1-5
はじめに
勝谷誠彦

子孫の為に美田を買わず。
広く人口に膾炙(かいしゃ)したこの言葉は、西郷南洲翁の漢詩「偶成」の一節である。しかし、したり顔でこうした表現をよく使う大マスコミのナントカ委員の方々は、この最後の一行にいたる部分をご存じだろうか。たとえば、高校野球を主催なさっている、朝日新聞の立派な立派なナントカ委員の方々は。
全文を引く。
幾歴辛酸志始堅
丈夫玉砕恥甎全
我家遺法人知否
不爲兒孫買美田


読みくだす。
 
幾たびか辛酸を歴て志(こころざし)始めて堅し、
丈夫(じょうふ)玉砕すとも甎全(ぜんぜん)を恥づ。
我が家の遺法人知るや否や、
兒孫(じそん)の爲に美田を買はず。

私か中学生、高校生のころ、漢文の先生は朗々とこうした漢詩を読んでくださったものだ。あるいは、支那語の発音で再読し、韻の美しさを教えてくれた。私は、支那の文化に憧れ、長じてあんなひどい国だと知る破目になるとは想像もできなかった。
まだなんとなく人々の間には戦前の漢籍の教養が残っていて、私たちごとき生徒でも白文をかなり読みくだせたものである。

教育界が馬鹿に基準をあわせるようになって、漢文教育はすっかり廃れてしまった。それこそ馬鹿な話で、漢語的な文章が朝日新聞が言うところの「軍靴の足音が響く暗かった戦前」を思わせるからだという。

一方でその漢文を生み出した国家としての支那の靴は土下座して凪めるのだから奇妙な話である。

本書は「そういうおかしさ」を語ろうという試みだ。無理が通って道理がひっこみ、ホンネとタテマエが完全に乖離し、馬鹿と卑怯者ばかりが大通りの真ん中を歩いている。 そんなこの国のカタチをあぶり出そうというのである。          
案内役をつとめるのは、私と高校野球の監督として甲子園に10回も子供たちを連れていった野々村直通さんである。

漢というものは、無私に天下国家のことを思っていると、必ず出会いたい相手と遭遇できるものだと私は信じている。野々村さんと私とがそうであった。

出会いの経緯については本文に譲るが、ざくっと言うならば、野々村さんが「この国に増殖している、タテマエを振りかぎしてわめく卑怯者」に寄ってたかって言論の集団リンチを受けている時に、私はメディアの世界で徹底的に彼を擁護した。そんなあと、野々村さんの地元で講演会をした時に、彼はふらりと私の楽屋にあらわれたのであった。漢と漢の出会いとは、そういうものだ。

だが、この本を創ろうと私か決めるまでにはもう一幕があった。ある日、私か仕事場に行くと野々村さんからの郵便物が届いていた。ひらくと『祖国と青年』という小冊子が彼の手紙と一緒に入っている。野々村さんが書かれたその文章によって、私は彼が野球部員たちを、海軍の聖地・江田島に連れていっていることを知ったのだ。

心が震えた。私もまた江田島を訪ね、あるいはかの地の海上自衛隊の学校の卒業式に出席して、価値観が一つ大きく成長したものだからだ。同じような気持ちを待ち、しかもそれをまだ幼いといっていい子供たちに伝えている。この野々村さんの志をもっと世にひろめなくては、文章を紡ぐ人間としての私の義の一字は死ぬと痛感したのだ。

冒頭の南洲翁の詩に戻る。もうお気づきだろう。 「子孫の為に美田を買わず」の前に、翁は「丈夫玉砕すとも甎全を恥づ」と言っているのだ。甎全「甎」とは瓦のことである。瓦のごとく平凡に臆病にわが身を守る状態を指している。      
その前に「玉砕」の二文字がある。「砕」は「全」、すなわち全(まっと)うするの反対で、文字通り砕けちることだ゜そして砕けるのはこれまた瓦の対照的な存在である「玉」である。

瓦のごときどうでもいいものが臆病にも身の安全をはかるのに対して、高貴なる玉は義のために鮮やかに砕け散るにこれらの前提があって南洲翁は「子孫の為に美田を買わず」と結ぶのだ゜この結びだけでもいい教訓ではあるが、その前に死を賭した覚悟があることを多くの人は知らないのではないか。

もし、この一節もまた人口に膾炙(かいしゃ)していたならば、今の日本国は瓦のような人間ばかりにならなかったかも知れない。屋根に並ぶ瓦のごとき匿名性の陰にかくれて、惨めな人生を全うしようと汲々とするような奴らが、国家の中枢を乗っ取らなかったかも知れない。

たとえその身は砕けようとも、日本国のために日本民族のために殉じようという「玉」がもっとおおぜい生まれていたのではないだろうか。

ちなみに当時の知識人の常として、南洲翁は『北斉書』元景安伝の一節「大丈夫寧可玉砕何能瓦全」を踏まえている。実に玉砕という言葉はここに始まるのである。

言っていることは南洲翁と同じで簡単だ。
「立派な人間たるもの、玉と砕け散るべきだ、どうして瓦のように長らえることなどできよう」ということである。

甲子園出場九回という偉業をなし遂げたのちにくだんの馬鹿騒ぎに巻き込まれ、一度は監督を辞したあと、野々村さんは再びかの地の上を踏んだ。しかし、それをもって自らの義の到達点とし、身を引いた。これが野々村さんならではの玉砕ではなくて何であろう。

ペンを持つ身としてはるかに玉たる野々村さんの境地には及ばないが、せめて玻璃(はり)程度には砕け散ろうと、本書を編んだのである
p59-63
 「死」を学べば感謝を知る

野々村 中学校までの教育では、参考館にあるようなことには触れさせません。危険性があるとかなんとか言ってですね。そのくせ広島の原爆についての資料館で、ケロイドになった日本人のことばかりを見せる。それでアメリカはなんとひどいことをしたのかと教えるのならいいけれども、アメリカではなく、日本が悪かったと教えています。

そういう教育を受けた子供たちが、参考館で、一五歳くらいの少年が、明日は死んでいくっていうときに子犬をあやしながら笑っている様子を見れば、子供たちは衝撃を受けますよ。連れて行かなければいけないのです。

そこで子供たちが学ぶのは、死です。人間はどうせ死にます。では、どこで死ぬのか。参考館に遺書が納められている彼らは、それがわかっていました。死ぬ場所、死に方、死ぬ価値がわかっていた、考えていた。だから明日死んでいくのに笑えるんです。
老衰で死ぬのも、人を殺して死刑因になって死ぬのも死ですが、自分が、このたった一つの命を捨てて、自分の愛する家族が幸せになる。いい日本が来るっていうのなら、こんな命いつでも捨てますよと言って、彼らは死んでいっているのです。その死を、高校野球ごときは、覚悟していないのですよ。

勝谷 そうか、だから玉砕なのか。

野々村 そうなのです。だから、死を覚悟しなくても、少なくとも近づけと言い聞かせています。死ぬ気になったら、何でもできるだろかと発破をかけます。でも、お前たちは死なないのだからとそこまで言って、私はいつもこう続けるのですよ、「バッターボックスには命をかけて入れ、そうでなければ許さない」と。

ネクストバッターズサークルでぽーっとしている子がいたら、その子を呼んで、「お前、死ぬ気でバッターボックスに行けるのか。打てなかったら命を捨てる気持ちで行けよ。そうしたら打てるから」と言います。すると「死ぬ気で行きます」と言う。しかし、打てるボールをふぁあっと見逃して、ペンチに帰ってくるのです。

「お前、死ぬ気で行くって言ったよな」「はい」「死ぬ気で行くって言ったよな」「はい」「死ぬ気で行くって言ったよな」「はい」。
いい加減に行きましたって言うと怒られるから、死ぬ気で行きましたと言うのですよ。「けど、死んどらんやんか。お前、生きとるやないか」と私は言います。そこまで追い詰めるのです。

何か言いたいかというと、たかが高校野球では、死ぬ気で行ったところで失敗しても、生きているということです。ありかたいじゃないかと。しかし、死ぬ気で行った特攻隊はみんな死んだ。お前たちがなんぼ頑張ったってあの人たちには追いつけないんだということです。所詮はスポーツだということの、このありがたさ。だから、本当に死ぬくらいの野球をしなさい。それで甲子園へ行けないのだったら、それでいいじゃないかと。

勝谷 なるほど。靖国神社へ連れて行くこともありますか。遊就館を見ると、また子供たちは変わると思いますね。

野々村 あります。靖国神社へは三回連れて行っています。遊就館には花嫁人形がありますね。

勝谷 そうです、桜子さんという日本人形が展示されていますね。それは何かというと、若くして、独身のまま死んでいかなくてはならなかった息子のために、母親が、これがあなたのお嫁さんですよと、人形を捧げるんです。

野々村 当時の田舎のお母さんは、日本男児が男として生まれたのに女性を知らずに死んでいくことが、可哀想でならなかったのでしょう。一度か二度かは抱かせてあげたかったと。この気持ちは、私はものすごくよくわかります。

今の時代は性が溢れているけれども、当時はそうではありませんよね。それに、彼らは母親に宛てた遺書の中でも書いているのですよ。「私は女性関係はありません。要するに、もつれていません。それに借金もありません。だから死んでも親に迷惑をかけません」と。

それに対して、母親が応えているのですよ。せめて、天国にいるお前に、日本一の花嫁さんを送りますと。

勝谷 そういった話を伺うと、今の日本で、あの頃の軍隊の精鋭というか、特攻隊に精神的に一番近いのは、確かに高校球児かもしれないですね。目的に対して、ストイックに向かっていくというのはまさに彼らそのものです。だからこそ、江田島に親和性を感じたということ、それを教えられたことには非常に意義があると思いますね。

野々村 そこに、野球とベースボールの違いもあると思うのですよ。やっぱり野球は「野球道」なのですね。ベースボールとは全然違います。ベースボールというのは、アメリカ人のものです。彼らがこれまでの歴史で一番楽しかったのは開拓時代なので、その精神で、遠くへ飛ばしたら勝ちなのです。どんなにぶさいくな打ち方だろうが、遠くまで飛んで、フェンスを越えてホームランなら、最高の栄誉が与えられる。

そのベースボールが日本に入ってきて野球という名前がついてそこで新しく生まれたのが、犠打の精神なのですよ。送りバントが重宝されるのが日本の野球なのです。もう 一点欲しいときに送りバントをしたらヽアメリカでは大ブーイングです。ところが日本では、バントでつなぐ野球はものすごく褒められるのです。これは、民族性なのですね。
ペースボールと野球の違いは、犠打の精神です。身を挺して、自分は死んでもランナーを一人送るっ俺は死んでも仲間が得点をしてくれる。これは特攻の精神です。


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この市の教育委員長・長谷川という短慮な人間は教育の本質を考えず、はじめに「体罰は厳禁」であって、体罰は大阪府下の高校でも行われているのではないかと逆切れしている。長谷川の市教育委員会と自らの責任を回避するような言動・・・最低な人間だ!いい年をしているにもかかわらず人間として未熟としか言いようがない。

その程度の人物が教育の長をしているのだから、大坂の公共教育レベルがわかってしまう。今回の事件は特定教師の個人的資質でも現場の問題ではない。大阪全体の問題のような気がしてならない。

戦後教育は戦前日本が教育である美徳「武士道」の精神や「教育勅語」を否定している。その結果が日本人の劣化を招いたと私は感じるのです。

大阪の教育委員会の連中と教員に野々村先生から「武士道」の精神や「教育勅語」を徹底的に叩き込んでほしいものである。日の丸や君が代を否定する教員には是非「肉体の接触による愛の励まし」を受けさせたくなってしまう!

野々村先生のような「肉体の接触による愛の励まし」ができる先生が増えることが教育改革だと思う。

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このブログでは常に上から目線で世の中を視て文章を書いていると思う。ブログでの私は冷たい横柄な人間と思われているかもしれない。教育論についてはどうしても上から目線でなはないと書けそうもない。言い訳をしておくが、リアルな私は日々温厚な笑顔で人に接し、一般的なサラリーマンとして我慢に我慢を重ねている普通の中年男性です。ブログでの横柄な態度はその反動と思って欲しい。もちろん家庭では妻の尻にひかれています

今日は神武天皇が西暦BC600年の2月11日に即位して2672年となる記念日である。
無論、私も本当に2672年前に神武天皇が即位したとは思っていない。

しかし、西暦における紀元前を意味するB.C.=before Christ・・・キリストが生まれる前 キリストが生まれた年を紀元とするのだが、本当に西暦1年にキリストが生まれいるのかは正確ではないのだ。キリストが生まれてから30歳くらいまでのキリストの生涯は、事実上神話なのだ。その西暦は6世紀のローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスによって算出された暦であって、キリストの誕生日とされる12月25日も冬至の日にも近く太陽神を祭るミトラ教の祝日を利用したものだった。
そう、西暦AD1年から算出されたAD525年までの西暦は歴史的に存在していないのである。※ちなみに西暦の紀元後A.D=Anno Domini・・・キリストの年代と言う意味

国家の紀元を神武天皇の即位に求めることは、古代の『日本書紀』編纂以来、一般的な認識であった。これを暦法に応用した皇紀の使用は、江戸時代後期の1840年代から1860年代にかけて、藤田東湖など国学者が用いた事が始まりである。当時の国学者は、アヘン戦争が勃発した西暦1840年を「紀元2500年」というように呼んでいた。どの暦を用いるかは習慣の問題である。ゆえに、神武天皇即位紀元が非科学的だと主張する人達には非難する意味がない。

皇紀2672年と書くとネットウヨだとか右翼と非難する無知な人間が沢山存在する。これは日本では国民を育成する教育が行われていないのであるからである。そういった無知無学な人間が存在してしまうのは、東京裁判史観、現憲法下ではやむをえないのかもしれない。

今日、日本国家が衰亡し国家滅亡の危機にあるのは、国民を育成する教育を行っていない、特に国家のエリート達に愛国教育・国家に奉仕する精神を行われていない。日本の国家としての衰亡はいわば必然である。(※筑波大駒場高校など旧制高校の末裔高校ではその精神が残っているらしい)

断っておくが私の意見はエリートに対して皇国史観を押し付けるのではない、ましてや皇紀元年がBC600年と覚えさせるものではない。歴史教育と歴史研究は違うのである。

江戸時代の武士は論語と英雄伝によって教育され、それがやがて国難に臨んだ際明治維新に結実したのではないかと思う。この国難に際しはたして今日のエリート層はどれだけ立向えるかはなはだ疑問である。ちなみに官僚主導で高度を果した時期の官僚達は皆戦前の教育を受けて育った世代だ。

今日の近代国家は民族国家(ネーションステート)である。近代以前においては王国(レノム)は存在したがネーションステートは存在していなかった。王国においては領主・貴族・農民・市民商工業者・農奴といった様々な階層は存在していたが、貴族と農民はお互いに相手のことは仲間であるという意識はなく、ネーションステーツと違い国家としてバラバラであった。

欧州においては繰り返された戦争という競争でバラバラな国家は負け、ナポレオンのようにフランス革命にてフランスという民族国家が誕生した国、国民が結束した国が覇権を握り、ドイツ、イタリアのような小国が乱立していた国は取り残されたのである。

アメリカ合衆国においては建国の精神=民主主義を守る為に教育に重点がおかれた。最初の入植者達1000人がメイフラワー号に乗って1630年にアメリカ大陸に到着して僅か6年後の1636年にハーバード大学が建学されたのである。1000人のピューリタントの入植者のうち40~50人がケンブリッジやオックスフォードの出身でその他に宣教師や印刷工など当時のインテリが非常に多く含まれていたと言う。

最初のアメリカ入植者達がいかに教育の重要性を認識していたか窺うことができる。その後も欧州で没落していった高い教養を身に着けた下級貴族(ヨーマン/ジェントリー)達がアメリカ大陸へ次々と移住していったのである。

アメリカが独立戦争を世界最強の大英帝国軍と戦って勝利を収めたのは奇跡であった。大英帝国軍を、農民や市民の寄せ集め部隊が粗末な武器で戦い破ったことは天佑もあったかもしれないが、類稀なるワシントンの指導力によるところが大きかったのだ。英雄ワシントンを初代国王になるよう推戴した人達もいた。

もしワシントンが望めば国王とか独裁官になることは可能であったろう。だが、英雄ワシントンは辞退した。そして大統領も自ら2期を勤めたあと大統領も辞した。ワシントンが無欲の偉人であったせいもあるが、既に米国の教育水準が高かったことが独裁者を輩出することなく民主主義が守られた大きな要因であった。

独立当時の米国は私の尊敬する初代財務長官アレキサンダー・ハミルトンはじめトーマス・ジェファーソンなど多士済々の人物を輩出している。教育大国であったからこそデモクラシーが守られた。民主主義が守られたがゆえ米国は発展していった。その後の南米大陸と北米大陸の運命をみれば、教育は重要なのである。

では米国ではどのような教育をしているかというとアメリカ式の教育は国民の育成である。米国のTVや映画で小学生や中学生が国旗に忠誠を尽すシーンをよく見ると思うが、米国教育でもっとも優先されるのが、国家への忠誠である。読み書きそろばんより国を愛する教育である。そうしないと様々な民族の寄せ集めである米国はバラバラになってしまうのである。

アメリカの小学校では読み書きそろばんを教えるのではなく、愛国心とコミュニケーション能力を教え、その後社会に適合する人間を育てる教育を行うのである。

歴史教育には力点が置かれている。アメリカ人としての誇りを教え、アメリカに対する忠誠心を涵養するのだ。ピルグリムーファーザーズの入植から始まって、独立宣言、独立戦争、南北戦争……アメリカ民主主義の生い立ちを「これでもか、これでもか」というほどに教える。 現在の体制は、先人たちの血と汗によって築かれたものであることを教え、「アメリカ民主主義は命を賭けてでも守るべきものだ」ということを児童・生徒の脳髄に焼き付けるのである。 言うまでもないことだが、この場合、教えるのはもちろんアメリカ史の「光」の部分が中心である。

だがご承知のとおり、アメリカ史は輝かしい側面を持つ一方で、汚辱にまみれた一面も持つ。 西部開拓におけるアメリカ先住民への迫害、殺戮や奴隷制度の存在であるが、小学生のうちはあえて教えないのである。

自虐史観の詰め込み教育をする日本とは根本的に180度異なるのである。

第二次世界大戦後、日本はGHQの指導により教育改革が行われ、教育基本法が制定された。この旧教育基本法はアメリカ式の教育とはまったく対極にある酷い法律であった。リンクでよく読んでほしい。そこには子供達を「人間にする」「日本人にする」という概念がまるで書かれていない。日本の教育には「社会化」の機能がまるでない。戦後教育ほど非アメリカ的で民主主義に程遠い教育はなかったのである。

戦後日本で行なわれてきた教育とは、アメリカが押しつけた非アメリカ式教育である。民主主義的ではない。近代国家における教育ではない。ましてやアメリカ式教育でも何でもない。

本当にGHQが日本に民主主義国家を建設する為の法律であれば愛国心や道徳を否定するような教育はおこなわないはずだ。明治以来の日本が、短期間で極東の一小国から世界の「列強」の一員になることができたのは、ひとえにアメリカ式教育=愛国教育=日本人であることの誇りを教える近代的教育の力であった。 まこと、教育こそ国の基礎である。 アメリカが恐れたのは、まさにその戦前の教育が復活することだった。

 もし、戦後も戦前の日本のようにアメリカ式教育が行なわれ続けたら、どうなる?
 日本人に愛国心を与えたりしたら、かならずや敗戦国日本はアメリカに対して復讐戦をしかけてくるに違いない。そう恐れていたのである。

教育基本法とは日本を二度と米国に報復戦争をさせない為に仕掛けられた幾つか罠のひとつである。日本に生息する自称リベラル派というバカ達や日教組などはこの旧教育基本法を民主主義教育の鑑として金科玉条としてきた。

その歪な教育においてもっとも優秀な者が入学するのが東京大学である。そして官僚の大多数がこの東京大学出身である。

昭和20年12月から現東大の総長に居座った南原繁、こいつは教育基本法制定の委員会の委員長であり、その趣旨について南原は「(教育勅語は)なによりも、国家のためという考え方、国家のための教育、学問ということ、そういう見地から国民教育も国民の錬成ということが主要なる表面に出ておったわけですが、したがって戦後の新しいその時の委員会の着想は何よりも人間性の開発、人間自身、個人の人間性を開発すること、これは一番大きなねらいであって、つまり真理と正義を希求する人間と同時にそれによって作られた普遍的で国際的な文化を作り出すという、それを基礎にしてそういう人間が新しい日本の国家の、また社会を支える形成者になることが一番大きな眼目でありました。」と語っている。

尚且つ南原は、当時の吉田首相の単独講和論に対し全面講和論を掲げた、要するに対米講和だけでなく、支那やソ連、果ては朝鮮にまで講和条約を結べと、吉田首相に迫った肝入りの共産主義者であり、この全面講和論の論拠はコミンテルンとしてのスパイ活動そのものなのです。南原自体、長く欧州の留学経験もあり、戦前からコミンテェルンのスパイであるのは周知の事実であった。

南原の次の東大総長の矢内原忠雄は共産主義者でないものの、歪んだ信仰の持ち主だったようです。戦前、満州で列車に乗ってる時に匪賊に襲われ、矢内原が乗ってる車両だけ襲われなかった経緯で、神の臨済を信じるようになり、そして、神の恩恵を伝えるために「通信」なるオカルト的な読み物を発行したが、当然、戦前の国家では発禁処分となったのですが、その腹いせに最後の発刊で自分の理想を活かすために、先ず日本と言う国を葬って下さい、と言い切った。

そして戦後、南原の跡を継いで総長になってからは「皇室」の廃止にその精力を注ぎこんできた人物である。

官僚は自己紹介する際東大出身と言わず何期であると自己紹介するのである。
愛国心がない東大出の官僚に国を任せることなどできない理由は国家とは何か(愛国教育)を教育していないことであろう。


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イメージ 1山岸俊男(やまきしとしお)
一九四八年、愛知県名古屋市に生まれる。社会心理学者。一橋大学社会学部、同大学大学院を経て、一九八一年ワシントン大学社会学博士。北海道犬学大学院文学研究科教授、同犬学社会科学実蹟研究センター長。社会的ジレンマ、侶薫、社会的知性など.心と社会の関係について、認知科学、心理学、社会学、経済学などの多くの側面から、実験調査、コンピュータを通じて総合的に研究。二〇〇四年、紫綬褒章受賞。著書に『信頼の構造』(東京大学出版会)、『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)、『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』(集英社インターナショナル)などがある。
 
メアリー・C・ブリントン
ハーバード大学社会学部長兼ライシャワー日本研究所教授。シカゴ大学、コーネル大学を経て、二〇〇三年より現職。主な研究テーマは、ジェンダーの不平等、労働市場、教育、目本社会など。一九九〇年代に日本に長期間滞在し、日木の経済状況の変化が若者の雇用環境にもたらした影讐を研究。『失われた場を探してーロストジェネレーションの社会学』(NTT出版)が話題となる。
 
 
 
 
本書のテーマは、二ートやひきこもりに代表される若者の「リスク回避傾向」が、実は若者だけではなくて、日本社会全体を特徴づけているという点にある。
日本人に内向きな傾向が強まっているとか、日本人のリスク回避傾向が強いという点は、これまでにも多くの方々がすでに指摘している。
 
若者だけではなく日本人全体を特徴づけるこの「リスク回避傾向」の原因が、日本社会ではさまざまなリスクが大きすぎることにあるとしている点を指摘している。

常識的には、アメリカ社会のほうが日本社会よりもリスクが大きな社会だと思われているが、それはむしろ逆である
日本はセカンドチャンスが無い社会に近い。一度失敗するとリカバリーする社会的制度が無いが故にリスク回避傾向が高いと指摘している。 なるほどユニークな視点である。「セカンドチャンス」を認める労働市場の整備が日本には必要ではないかとまずは論じています。大いに同意します。
p46~48
山岸 最近、心理学でよく使われる言葉に、「プロモーション志向」と「プリベンション志向」があります。要するに、加点法的な考え方と、減点法的な考え方という違い。プロモーション志向の強い人は、何かを得ることに向かって行動する。プリベンション志向の強い人は、何かを失うことを避けるように行動する。
メアリー アメリカ人はプロモーション志向が強く、日本人はプリベンション志向が強いように思いますね。

山岸 そうです。プロモーション志向とプリベンション志向の文化差を調べた研究では、そうした違いが見られています。
ここでなぜこんな心理学の言葉を持ち出したかというと、ゲーム・プレイヤーというのは、まわりの人たちをうまく動かして何かを得ようとする人たちなので、ブロモーション志向が強く、同時にほかの人たちの行動を読みながら行動している人たちだということができます。
ゲーム・プレイヤーでない人たちというのは、プリベンション志向の強い人たちだと言ってよいでしょう。自分がめざす目的を達成するためにほかの人たちを動かすというよりは、まわりの人たちから嫌われたらやっていけないのではないかという不安から、他人から嫌われたり、社会関係を失わないことだけに気を取られてしまっている人たちです。プロモーション志向とプリベンション志向という言葉を、ほかの人たちとの関係の作り方にあてはめたのが、ゲーム.プレイヤーと、プレーをしようとしない人たちである「非プレイヤー」との違いなんだ。

メアリー だけど、日本人はお互いの気持ちを察するのが得意な繊細な心の持ち主で、アメリカ人はそうした繊細さに欠けるガサツな連中だと思われているんじゃないですか?

山岸 メアリーも言っていたけど、気持ちを察するとか気遣いをするということと、自分の考えや意図を相手に伝えるということは違うってことなんだ。気遣いというのは、相手の気持ちを害しないよう行動するということであって、そのことで自分が悪く思われないようにというプリベンションの行動。相手の行動を変えさせるという意味でのプ回モーシ ョンの行動ではない。
ゲーム・プレイヤーにとって重要なのは、プロモーションのためのコミュニケーションなんだよ。

メアリー確か、「ひきこもり」の話をしていたんだと思いますが。ひきこもりになるのはブリベンション志向の強い非プレイヤーだということですか?
 
山岸そうですね。ひきこもりは究極のプリベンションだから。ほかの人と会わなければ、イヤな目にあうことはありません。何も得られなくなってしまうけど、それよりもイヤな目にあうことを避けるほうに気を取られてしまっている。日本人は一般にプリベンション志向が強いけど、ひきこもりの若者は、そういう意味で究極の日本人。だから、ひきこもり対策は、実は、いまの日本人対策でもあるんだと思う。
 
メアリーひきこもっている若者に対して、「もっと積極的に生きるようにしたほうがいいですよ」と忠告しても、そんな忠告は役に立たないでしょ?そんな忠告をされたぐらいで積極的に生きることができるのなら、そもそもひきこもりになってはいないはずだから。
同じことが、日本人に対しても言えるんじゃないでしょうか?リストラされたら次がないと思って職場にしがみついて生きるよりも、自分を労働市場で売り込める実力をつけたほうがいいですよと忠告しても、それができれぼいいに決まってるけど、だけどそれができないから苦労してるんじゃないかと一言われてしまいますね。
新干年紀世代と失われた世代
p71~74
メアリー 新千年紀世代というのは、一九八○年以降に生まれた世代のことで、新千年紀(西暦二〇〇一年からの一〇〇〇年間)に入ってから大人になった初めての世代(二〇一〇年現在で一八~二九歳)だということで、こう呼ばれるようになったんです。アメリカを代表する世論調査会社「ピュー研究センター」が最近実施した調査(「新千年紀世代」二〇一〇年二月)で、この世代の考え方が、「X世代」(一九六五~八○年生まれ)、「ベビーブーマー世代」(一九四六~六四年生まれ、私の世代です)、そして「沈黙の世代」(一九二八~四五年生まれ)の考え方と比較されています。興味深い結果が出ているので、ここで紹介しておきましょう。
 
沈黙の世代というのは、大恐慌から第二次世界大戦にかけての時代に生まれた人たちで、あまり声高に自己主張することがなく、社会のためになる生き方を好ましいと思っている人たちです。
 
ベビーブーマー世代は、一部は日本の団塊世代に当たりますが、一九五〇年代のはじめにベビーブームが終わってしまった日本よりも長く続いています。
 
ベビーブームが終わってから生まれた人たちがX世代と呼ばれる人たちで、それに続くのが新千年紀世代です。日本の団塊ジュニア世代よりも、ちょうど一〇年ほど遅れて生まれた、アメリカ版の団塊ジュニアの世代だと一言ってもいいと思います。
 
まずびっくりするのは、若い世代の人たちが、自分が親になることをたいせつだと思っていることです。人生で何がたいせつだと思うかという質問に対して、新千年紀世代の五二パーセントが、人生で一番たいせつなことの一つとして「良い親になること」を選んでいるんですね。それに続くのが「良い結婚をすること」(三〇パーセント)なんです。こうした回答は、「助けを必要としている人たちに援助を与えること」(二一パーセント)、「家を手に入れること」(二〇バーセント)、「宗教的な生活を送ること」(一五パーセント)、「高給の仕事に就くこと」(一五パーセント)、「自由な時問を手に入れること」(九パーセント)、「有名になること」(一パーセント)よりもたいせつだと思われています。
 
私が自分の学生たちにたずねても、男子学生の場合でも女子学生の場合でも、結婚する気がないと答えた学生はほとんどいないし、子どもを作りたいとは思わないと答えた学生もほとんどいません。
 
新千年紀世代のもう一つの特徴は、移民に対して寛容だという点です。移民はアメリカを強くすると答えている人の比率は、三〇歳以上では四割ですが、新千年紀世代では六割に達しています。
 
もう一つの興味深い結果として、「アメリカでは、いろいろなことがうまく進行している」という意見に賛成する人の比率が、新千年紀世代の若者のほう(四一パーセント)が、三〇歳以上の人たち(二六パーセント)よりも高いということです。若者と三〇歳以上の人たちとの差はピュー研究センターが調査を始めた一九九〇年以降で一番大き<なっているんです。二〇〇八年の金融危機以来、就職状況がきわめて厳しくなっていることを考えると、そんなに多くの若者たちが「世の中はうまくいっている」と思っているのは、ちょっと驚きですね。
 
とくに、私が『失われた場を探して』の中でロストジェネレーションと呼んだ、希望を失っているように見える同世代の日本の若者たちとくらべると、この違いはとても印象的です。
自分探し
p74~76
山岸メアリーがロストジェネレーシヨンと呼んでいる日本の若者たちの特徴の一つに、「自分探し」があるんじゃないだろうか。「自分探し」というのは、自分はほんとうは何をしたいんだろう、どういった人問になりたいんだろう、どういった人問になって何をすれ ば幸せになれるんだろうといった、自分の個人的な「成功」を求めているんだと思う。

だけど、そうした「自分探し」はけっしてうまくいかないと思う。自分探しをする若者たちは、「ほんとうの自分」というものがあるはずだと思って、それを探そうとしているから。「ほんとうの自分」を見つけることさえできれば、何をしたいのかが分かるだろう、と。でも、そもそも「ほんとうの自分」がどこか心の奥底にあると考えること自体がおかしい。「ほんとうの自分」はそこに「ある」ものではなくて、「作る」ものなんだから。

ただ、日本には人々の行動を縛りつける社会的なコンストレイント(制約・狗束)、つまり世問のしがらみがたくさんあって、それがすごく強いから、自分がなりたい人間になる、自分がほんとうにしたいことをするためには、まず外部にあるコンストレイントから逃れないといけないという思いが強いのは理解できる。だから、そうしたコンストレイントを取り去った後に残ったものがほんとうの自分なんだという気持ちがあるんだと思う。
 
それが「自分探し」の意味ではないかな。
まわりからの期待にこたえる「私」がいて、それをいやだなあと思っている。そんな「私」は私じゃなくて、「ほんとうの私」がいるはずだ、「ほんとうの私」に向かって進んでいきたい、というのが「自分探し」なんだよね。
 
日本に昔からあった隠遁生活へのあこがれも、基本的には今の若者たちの自分探しと同じなんだと思う。世問のしがらみから自由になった生活こそが、「ほんとうの自分」に正直な自分なのだという思いですね。
 
一時期、日本のマスコミでは「自分探し」がかなりポジティブに語られてましたね。
「まわりからの期待のままに生きるのではなく、自分のやりたいことを自分で見つけて生きていくのがいいことだ」と。これは、日本の常識にそってマスコミが作った「ストーリー」だった。だけどこれは、新しい生き方のストーリーになることができなかった。「社会の価値とは違う自分の価値が欲しい」という想いが、自分を作るのではなく、どこかにある自分を見つける(探す)という言い方になってしまったので、おとぎ話の袋小路に入りこんでしまったから・・
『「ラーメン屋VSマクドナルド」 副題:エコノミストが読み解く日米の深層竹中正治 著 (新潮新書)』で日米文化の違いとして「希望を語る大統領vs危機を語る総理大臣」があげられています。アメリカ人は、相手のパフォーマンスを評価する場合、ポジティブな表現に気前がよく、ネガティブな表現は使わない。反対に日本は褒めないし、ネガティブな表現を気軽に使う。
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