Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ(仮)

政治経済軍事外交、書評に自然科学・哲学・聖地巡礼・田園都市ライフ、脳の外部記憶媒体としてこのブログを利用しています。2020/11/30以前はGoogle検索でキーワードを入れると常に上位にありましたが、日本のトランプ大統領デモを紹介した記事が米国でバズって以降検索アルゴリズムから排除され検索ヒットされにくい状態です。是非ブックマークをお願いします。このブログをご訪問していただいた方の知識や感性として共有できれば幸せに思います。

タグ:祭りと伝統

聖地熊野がマイブームです。
先月に続き、弾丸熊野詣の第二弾をやってしまいました。
【第一弾】

今回は、玉置神社と天河神社メインで詣でました。

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行程約1,200km 約30時間 ガソリン約120ℓ 高速代14000円




今回は大学一年の娘も行きたいと言うので、連れて行きました。
出発は7月16日午前0時、横浜青葉インターに乗り、Go!West!

深夜の東名~第二東名は渋滞無縁の超快適!5速3000回転台で120~130Km/hのつもりが、第二東名にはいると、気がつくと150~160kmが自然にでてしまっています。「あぶない、減速、減速」・・・捕まったら大変です。それにしても第二東名は超快適です。

しかし、左側車線を120~130kmで走行していると、沖縄基地外のキチガイみたいに、煌々とライトを灯し推定180km以上で抜き去っていく独逸車は・・・「サーキットで走りやがれ!」まあ、ついスピードが出てしまうのが夜の第二東名高速です。

ノンストップで走り続けEXPASA御在所SAに午前3時前トイレ休憩で、最初の休憩、前回、ガソリンが空になって紀勢道で焦ったのを思いだしGSで給油しようと思ったのでしたが、まだタンクはおよそ半分ガソリンが残っているので、40km先の安濃SAで入れようと安濃SAへ。安濃SAに到着、すると安濃SAのエネオスはなんと24時間営業ではない!うそ~、ふざけるな!NEXCO中日本!

しかたがないので、三重県県庁所在地の津インターで降り24時間のGSを捜しました。・・・・ところが、Google情報の24時間営業はほとんど嘘!今回はタンクが空ではなかったが、尾鷲まで行くにはリスクが高く、1時間近く探して唯一大倉町の出光石油さんが営業しており、やっと給油できました。

そうこうしているうちに夜が明け、朝7時前、日本最古の花窟神社を娘に話したところ、興味を持ち参拝したいとのこと。まだ日が登りかけの神々しい花の窟を参拝。

午前8時前に熊野神社本宮へ到着。
今回は、最初に旧社地の中州「大斎原」から参拝することにしました。

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コスモ石油隣にある、「大斎原」参拝用の駐車場に車を停め、前回はくぐらなかった「大斎原」の鳥居より参拝。

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前回は判り難かったが、正真正銘新宮川の中州である。

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沈下橋であることから、
大斎原は洪水に度々見舞われることがうなづける。
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大斎原の下社中社は撮影不可とのことですので、手前の旧社地です。

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画面奥に点にしか見えませんが、日傘を差し、白いローブ・デコルテを着た妙齢のご婦人が座っておられました。何かの撮影かとも思ったのですが、周囲にスタッフも居る気配がなく、皇族のご婦人が着るようなローブ・デコルテを午前8時とは言え、26度を超えるの真夏日の中着られていて、とても不思議でした。・・・もしかしたら、熊野信仰の本地垂迹説における・・・・
第八殿子守宮鸕鶿草葺不合命聖観音

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聖観音様が、現れたのではないかと、勝手に解釈しました・・・・そう考えた方が得ですね(笑)。・・・・でも何のために?炎天下、おそらく趣味なのでしょう、一種のコスプレファンなのかもしれません。それにしてもとても清楚で美人なご婦人でした。








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写真を撮りたかったがあまりにも失礼なので、遠くからショットでご勘弁を・・・

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前回、ネットで調べれば「日本第一大鳥居建立の意義」がわかるかと思ったのですが、検索できなかったので、掲載します。

日本第一大鳥居建立の意義

人心が神と自然から離れつつある今日、当社の最も危惧するところは「命脈の護持」であり次の世代への日本の心(精神・魂)の復活を祈念することであります。

神代の時代、須佐之男命尊(家津御子大神)が大地の荒れ果てているのを嘆かれ、自ら木を御手植えになられて「木の国=紀の国」と名付けられました。

皇紀二六六一年を迎えた日本国にとって、大なる節目であることは無論の事この節目の始めに当たり「日本人の精神(心)の蘇り、日本経済の再生、熊野の山々より環境の大切さの再認識、国内は基より世界人類平和」を確固たる事を祈念し、今こそこの壮大なる熊野の山・川は申すまでもなく、大斎原を発信基地として熊野の大神の広大なる御神徳を得て、新たなる世紀が神と自然と人が共にある様、皇紀二六六一年、熊野の大神の御神徳が発揚かつ千木高く厳然として鎮まりますよう、熊野本宮大社・熊野信仰の原点となる大斎原に、日本最大の第一大鳥居を建立する運びとなった次第です。八咫烏を掲げた天下一大鳥居であります。竣工は、平成十二年五月十一同です。



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産田社

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今回は、本地垂迹説を改めて学習して、娘に講釈しながら参拝をした。勿論うるさがられた。

因みに私は5冊目の御朱印帳を熊野神社本宮で求めました。

本宮は、小一時間ほど滞在して、奥ノ院 玉置神社へむかいました。

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約25km 1時間ほどとカーナビに表示されたのですが、25kmで1時間・・・・相当な山道なのかと覚悟したのですが、168号はお金をかけて整備されていました。

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本来ならば一時間程度で到着するはずであったが、カーナビを信頼しきっていたせいで、右折の案内の音声が鳴らず、ダム湖を渡る橋を見落とし、だいぶ行き過ぎて、折立の集落を過ぎてしまいました。更にUターンしきれず、十津川道路のトンネルを進んでしまいました。山間で電波が途切れたのかカーナビが止まっていたからです。地図で見直しUターン。昔ながらの地図を併用した方が良いかもしれません。

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異次元のパワースポット玉置神社!中途半端な気持ちで行ってはいけない?
玉置神社は不思議な謂れがあり、神様に呼ばれないとたどり着けないと言われています。

呼ばれるとは「最近なんとなく気になっている」「行きたくなった」など今まで知らなかったり、知っていても興味がなかったのに急に気になりだす時です。

実際行こうとすればスルスルと引き寄せられるように何のトラブルもなくたどり着けるようです。 

反対に、ただの観光気分だったり、個人の欲望を祈願するために行こうとすると、たどり着けないと言います。

途中で事故に遭ったり、急な体調不良、仕事の都合がつかなくなったなど。
一番多く聞くのは「カーナビが壊れる」「落石で通行止め」というものです。

玉置神社の神様は厳しい神様で、邪心があると受け付けないと言われています。


私は、先月の熊野詣で、次回は玉置神社に是非行きたいと思い、行きたい思いが膨らんだので、一応呼ばれたのだと思います。邪心は・・・いっぱいかなぁ(笑)

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たどり着ける人にはどうやら2種類あるようなのです。

それは、

縁のある人は身を清め、心を正しくして生活しないと参拝を計画してもトラブルに見舞われ参拝できなくなるので、日頃から身を清め、精進しなければならない
縁のない人は山の獣と同等扱いにされ、問題なく参拝できる
という言い伝えです。

出来ればご縁があって神様に呼ばれたいですね。

そのほかにも

個人祈願は受け付けない
玉置山の悪口は御法度(恐ろしい罰があたる)
無用の立ち入りは御法度(敬虔な態度、心構えが要求される)
などがあり、玉置神社の神様の清廉潔癖さや、並々ならぬパワーを感じます。
わたしは・・・ 禽獣扱いで辿りついたのかぁ・・・・
まあ、Ddog(ダメ犬)ですから・・・・
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午前10時過ぎ、駐車場へ到着です。
標高1000m昔の人達は歩いて登られたかと思うと、感慨深い、それにしても、私達は、なんと安易に着てしまったのでしょう。

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さて、駐車場から本殿は、およそ1kmほど山道を歩きます。往きは20分帰りは15分といったところでしょう。
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駐車場の傍にある鳥居です。

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標高1,000m気温26度でしたが、湿度が有ったため、それほど爽快な高原の空気ではありませんでした。しかしならら、神域独特の空気が漂ってきます。

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この日はぴーかんの快晴、霧に覆われている日はさぞかし神秘的になるのでしょう。

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10分ほど歩くと参道は2つに分かれます。体の不自由な方は左へとなっていますが、左側は帰路歩きますので、右側の階段を降りて行くことをお勧めします。

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理由は、杉の巨木群と、その根元に生す苔が、見事だからです。

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このご神域には「もののけ姫」に出てくる「こだま」が居てもおかしくはなさそうです。

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なんと神々しい、なんだか参拝を祝福されているかのように感じました。
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社殿です。

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塗っていない(塗装が落ちた?)社殿が渋く感じました。

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神代杉 古木の朽ちた幹から若木が育っています。


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ご神体 玉石社 
玉置山山頂近くに露頭する玉石
※今回は参拝しませんでした。

11時過ぎ、玉置神社を後に、天川神社に向かいます。73km約2時間の道程です。

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問題は、阪本から始まる赤色に塗った県道53号線の20kmです。

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新車、運転の下手な方、バックを3~400mを厭わず出来ない方は通ってはいけません。車が2台すれ違うことができません。また、すれ違い用のスペースに平然と駐車をして渓流釣りをしている釣り人、渓流で遊ぶ家族連れ!が多数いました。いい加減にしろ!大迷惑です。

わたしは、四国・九州・京都の山奥を走り慣れていました。常に退避区間を意識して、車間距離を開け、いつでも前方車両の微妙な動きで、退避区間に車を寄せたり、即バックをするのですが、山道走行でのコツです。私の前を走っていた家族連れのバンが下手くそすぎて・・・少々ストレスでした。

「そこを突っ込んでどうする此方が譲る方がいいのでは?」・・・・初めての道でも、不思議と大凡のことは予測がつきます。
前の車両の分も考え、後方車両と併せた退避用の場所を開けておけば、前の車両がバックしても、すれ違うことができます。

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オートキャンプ場が多数あるのですが、オートキャンプ場に大型バスが2台・・・・
どうやって着たのだろうか?考えるだけで恐ろしい。絶対にすれ違えない場所は多数あって何回もバックを繰り返して走ったんだろうなぁ。

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13時すぎ、ようやく天河弁財天駐車場に到着。翌日17日はお祭りで、この駐車場が使えなかったとのこと、運が良かった。

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社務所

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社務所で御朱印をお願いして正面鳥居に回ります。

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お祭りで、幟旗が出ていて幸運でした。

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ちょうど日本がバブル景気だった1988年内田康夫による小説 天河伝説殺人事件で天河神社は一躍有名になった。

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天河復興音楽祭2012 「KNOB&雲龍」

私が訪れた7/16の夜宵宮祭りで、ヒーリング音楽の奉納があったようです。
この奉納舞台で聴くヒーリングミュージックは最高だろうなぁ・・・

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橿原神宮へ向かうことにしましたが、あまり有名ではありませんが、
旧社格官幣大社現神社本庁別表神社 と、由緒ある丹生川上神社下社は外すことはできません。
ちなみに、天河神社だけ参拝するのであれば、橿原からの国道169号線~309号線をお勧めします。道はほぼ整備され、快適です。
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309号線のトンネルに入らず、左側にうどんの看板丹生コミュニティ会館が見えたら左折すると日本最古の水の神様丹生川上神社下社が鎮座されていました。

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ご神馬が2頭飼われていました。

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人形を流す酒船石のような
神事用の巨石が置いてありました。穢れを流すのでしょう。

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ご神水はたいへんおいしいお水でした。

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境内に何やら立札が・・・
どうやら葉書の葉はこのモチノキ科の多羅葉のようです。
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神社前の渓流
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橿原神宮
建国の聖地・橿原、ここから日本という国が始まりました。

日本最古の正史ともされる7日本書紀』において、日本建国の地と記された橿原。
天照大神の血を引く神倭伊波礼毘古命(後の神武天皇)が、豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮から東に向かい、想像を絶する苦難を乗り越え、畝傍山の東南の麓に橿原宮を創建されました。

第一代天皇として即位されたのが紀元元年、今からおよそ2、600余年前のことです。日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、日本の原点ともいえるでしょう。

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御鎮座

橿原神宮は、神武天皇の御聖徳を永く後世に伝えたいという国民の願いから創建されました。

天照大神が天孫・瓊瓊杵尊に仰せになった「豊葦原の瑞穂国はわが子孫の君たるべき国なり」のお言葉通り、神武天皇が国内を統一なさり、畝傍山の東南・橿原の地に皇居を造られ、即位の礼を行われました。

明治時代に入り、天皇の御聖徳を永遠に尊び敬いたいという思いから、この地に神宮創建をという請願が、民間有志より出されました。明治天皇がこれを深くほめたたえ、元京都御所の賢所と神嘉殿を下げ渡され、明治23年4月2日、官幣大社・橿原神宮として御鎮座になりました。



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石上神宮

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石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、龍王山(りゅうおうざん)の西の麓、布留山(ふるやま・標高266メートル)の北西麓の高台に鎮座し、境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、神さびた自然の姿を今に残しています。北方には布留川が流れ、周辺は古墳密集地帯として知られています。

当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。
 
総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には「石上神宮」「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。
 
平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、現在の拝殿(国宝)は天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えています。
 
中世に入ると、興福寺の荘園拡大・守護権力の強大化により、布留川を挟み南北二郷からなる布留郷を中心とした氏人は、同寺とたびたび抗争しました。戦国時代に至り、織田尾張勢の乱入により社頭は破却され、壱千石と称した神領も没収され衰微していきました。しかし、氏人たちの力強い信仰に支えられて明治を迎え、神祇の国家管理が行われるに伴い、明治4年官幣大社に列し、同16年には神宮号復称が許されました。
 
当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地(きんそくち)を御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。明治7年菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、大正2年御本殿が造営されました。
 
禁足地は現在も「布留社」と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれ、昔の佇まいを残しています。


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17時になってしまいました。夕方以降神社は参拝しないのが通例・・・

奈良の日帰り温泉ゆららの湯押熊店で一風呂浴び、電気湯で疲れをとり、一寝入りして、夜11時すぎ、奈良を発ち、帰路につきました。疲れたら休息し、サービスエリアで休み休み、朝6時自宅に到着。昼12時まで爆睡しました。

なお蛇足ですが、三重県石油協会下記クレームを送っておきました。

インターネットにガソリンスタンドで24時間営業していると記載していても営業していません。あまりにも沢山のガソリンスタンドが間違った情報を出しています。

あまりのいい加減さに、クレームを申し上げたい。

6月に熊野詣で、紀州長島付近~尾鷲で早朝タンクが空でネットで24時間営業の情報を信じ、ことごとく閉っている嫌な思いをした。

昨日も早朝熊野詣に向かい、早めにガソリン給油と思い、安濃SAへ。

高速のSAは24時間と思い込んでいたが、安濃は閉っていた・・・※ネットには確かに22時に閉ると書いてあります。

しかたがないので、津インターで降り24h営業GSを探したら、ネット上24時間営業と書いてあってもやはりことごとく閉っておりました。ほとんどのネット情報は虚偽!わざわざ捜して行くと閉っている。1件や2件ではないので、怒りすら感じました。

JARO 公益社団法人 日本広告審査機構に告発しようとかと思うほどの酷さでした。

昨日はやっとのことで電話で親切に対応いただいた大倉町の出光さんで給油することができました。

親切にご対応いただいた出光さんに免じてJAROに文句は言いませんが、ネット記載情報についての実態を組合で調べ改善を要望します。

安農SAが24時間ではないのも問題です。何とかしてください!

津のGSで24時間営業が皆無というのも問題です。

地方創生、インバウンドが騒がれて久しい昨今、この実態は由々しき状態です。

厳しい経営実態と思いますので、24時間と書いてあって24時間ではないGSの24時間営業の復活は、難しいかもしれませんが、せめて正確な情報を載せるようご指導お願いします。



執筆中
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スピリチャル好きの愚妻が、さる霊能師の方から、熊野三山詣を勧められたそうで、「そうだ熊野に行こう」と言い出しました。 私も常々行きたいと思っておりましたので
昨日(2017年6月17日)、日帰りで横浜から熊野三山熊野大社本宮・新宮:熊野速玉神社/摂社:神倉神社熊野那智大社/別宮:飛瀧神社/那智山青岸渡寺)と日本最古の神社花窟神社、を車で巡ってまいりました。
日帰りでしたが、晴天にも恵まれ、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」のほんの一部でしたが、スピリチャルな聖地熊野を堪能することができました。

関東近郊でスピリチャル好きの皆様にとっては、高速も開通し日帰りで、気軽に行ける巡礼地として、是非ともお勧めしたいスピリチャル巡礼です。

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出発は、午前1時過ぎ、横浜青葉インターから、東名~第二東名~伊勢湾岸道~東名阪自動車道~伊勢自動車道~紀勢自動車道~尾鷲に午前5時過ぎに到着しました。深夜ETC割引0時~4時までの間に対象となる道路を走行)で7020円でした。

満タン(55ℓ)で出発しましたが、伊勢自動車道の最後のガソリンスタンドがあるサービスエリア安農を過ぎた時走行距離が390km超でした、次のGSは確か伊勢にあったので余裕と思いきや・・・紀勢自動車道は伊勢の手前で分岐し、紀勢自動車道にはなんと・・・GSがあるサービスエリアが無い!!!

なおかつ、途中集落も無く、出口もほとんどなく、計算上余裕とは思っていましたが、450km走行したところで給油ランプが点灯、紀伊長島の手前にあるnexco中日本の事務所で確認すると、紀伊長島出口にGSはあるが、24時間やっているか不明という。紀勢自動車道は片側一車線の対面通行、なおかつトンネルだらけ、終点の尾鷲まであと30kmほど・・。計算上走行可能だが、万が一を考えると、紀伊長島で一般道に出て、GSを探す方が、リスクヘッジとなる。片側一車線のトンネル内で立ち往生したらシャレにならん!・・・、ネット上ではGSは24時間とはなっていた為、一般道へ降りた。ところがである、出口付近GSは2店舗ともAM7~の営業で皆閉っていました。

ネットはあてにならないので、近くで洗車をしていた親切なトラックの運転手さんに聞くと、尾鷲になら24時間のGSは確かあったとのことで、途中には7:00~のGSは何か所もあるとのことで、不安になったら、そこで1時間ばかり待てばいいんじゃないか?とのアドバイスをいただきました。

一般道を尾鷲に、確かに何か所もGSはあるのですがことごとく閉っております。
尾鷲に着いて、GSを探すと、ネットで検索した24時間のGSは閉っておりました。
尾鷲市内を24時間GSを求めぐるぐる回っておりますと、時間は6:30過ぎ・・・
漸く国道沿いの1件の出光石油のGSが開店準備を始めてているところでした。
10分ほど前は無人だったのですが、老夫婦が鍵をあけているところでした。

満タンにすると・・・51ℓあと4ℓもあったかと思うと、焦らず、尾鷲に高速で行けばよかったと・・・まあ、結果論です。因みに、新宮に向かう途中尾鷲市内で国道沿いに24時間のGSはありました。

結論!熊野詣でに車で行かれる方は、必ず安農SAでガソリンを入れましょう!
必ず、EXPASA御在所SAで、ガソリンを入れましょう!
安濃SAも22時までしか開いていません!(7/18追記)

2017/7/17(月) 午後 4:29

ということで、午前8時過ぎ、熊野本宮大社に到着です。

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「日本第一霊験熊野大権現」 熊野は古来、日本人にとって特別な聖地であった。

 平安時代末期から鎌倉時代。飢饉が相次ぎ、度重なる戦乱で世は混沌とした。その際に上皇や貴族たちが競うように詣でたのが本宮、速玉、那智の熊野三山だった。

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都から熊野へは高野山や吉野を経由する幾つかのルートがありましたが、往復600km以上、当時は1か月もかかる長い旅程であった。

険しい道を幾日もかけて詣でたのは、参詣道での苦難が多ければ多いほど罪穢れが祓われ、来世での苦しみが減じられると信じられていたからだ。

現世と来世の安寧を求めて苦難の末に彼らが最初に詣でたのが熊野本宮大社だ。

鎌倉時代の建仁元年(1201)に後鳥羽上皇の熊野御幸に同行した歌人の藤原定家は、初めて熊野本宮大社に拝した感動を『後鳥羽院熊野御幸記』に「山川千里を過ぎて遂に遂に宝前に奉拝す。感涙禁じ難し」と書き残している。

室町時代には、武士や庶民の間にも熊野信仰が広まっていました。大勢の人が絶え間なく参拝に訪れる様子は「蟻の熊野詣」と例えられるほどでした。中世の熊野参詣の賑わいを表す言葉が今に伝わる。往時、多くの庶民も聖地熊野を目指した。熊野の神々が、〈浄不浄を問わず貴賤にかかわらず男女を問わず〉全ての人を受け入れると信じられたからだ。
 
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何を都人を熊野にかき立てたのか?深い山々や龍にも似た滝、大海原……末法思想が浸透した当時、人々は八咫烏が登場することで知られる神話の聖地としての熊野に、極楽浄土を重ね合わせたとも言われますが、要するに当時のUSJやTDLのような夢の国だったのかもしれません。
 
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熊野大社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えが八咫烏です。
日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、導きの神として篤い信仰があります。

八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味です。八咫烏は太陽の化身で三本の足があります。

この三本の足はそれぞれ天・地・人をあらわす、といわれています。
天とは天神地祇、すなわち神様のことです。地とは大地のことで我々の住む自然環境を指します。つまり太陽の下に神様と自然と人が血を分けた兄弟であるということを、二千年前に示されていたのです。

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八咫烏といえば、JFAのシンボルマークですが、大正10(1921)年に大日本蹴球(しゅうきゅう)協会として設立された日本サッカー協会がなんと昭和6年から、八咫烏を使用しています。

なぜ採用されたかは諸説ありますが、一つは和歌山出身で日本にサッカーを本格的に紹介した明治の指導者、中村覚之助の功績をたたえてとの説

蹴鞠名人の熊野詣
平安時代に蹴鞠は貴族社会で大流行し、中でも蹴鞠の名人と言われた藤原成道という貴族は、蹴鞠上達のために五十回以上も熊野詣をしています。また、藤原成道は日記の中で、熊野大神の御前で「うしろまり」の名技奉納を行ったことについても語っています。

熊野本宮大社の駐車場から、巨大な鳥居が見えます。

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いきなり神社に参拝するのではなく、まずは旧社地大斎原(おおゆのはら)と大鳥居
をくぐってからが作法だと家内は言っておりました。

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かつて、熊野本宮大社は熊野川、音無川、岩田川に挟まれた中洲に鎮座していました。

大斎原と呼ばれる旧社地で、神が降臨した地と伝えられる。明治22年の大水害まで、この地にあったが、明治24年に上四社が500mほど離れた現在地に遷座しました。

江戸時代までは橋がなかったので、参詣者は川を渡り、足を濡らさなければ境内に入れませんでした。全ての参詣者が自然に身を清める禊をしたそうです。
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熊野川・岩田川・音無川の、三つの川が合流する中州に鎮座していました。
熊野の神々は、中州のイチイの巨木の梢に三体の月の姿で降臨したとも伝えられているそうです。当時は能舞台などもあり、今の8倍の規模を誇っていました。
今、大斎原には中四社、下四社、境内摂末社の神々がおまつりされています。 

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現在の旧社地

明治22年の大洪水により、大斎原は大きな被害を受けましたが、その120年後の
平成23年9月、紀伊半島は平成23年台風第12号などにより再び大水害を受け、再び大斎原や宿坊である瑞鳳殿などに大きな被害を受けました。


これじゃ・・・大斎原に中社下社を再建することは諦めた方が良いかもしれない。

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旧社地から日本一の大鳥居(さ33.9m、横42m、鉄筋コンクリート造、平成12年完成)へ向かう参道

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とにかくでかい!大正10年(1921)、日本一の大鳥居として完成した靖国神社の大鳥居よりも一回り大きい!

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正面裏、からですが、正面からは全景は見えません。
愚妻の通う霊能師の方は大斎原⇒産田社⇒本宮大社の順でとのことでしたが、
公式HPでは逆でした。
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産田社にも挨拶し本殿に向かいます。

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まずは、参拝の順序を確認しましょう!

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本殿

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全国で一つ黒い八咫烏のポスト 

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衛星からも広大な新宮川の河原が確認できます。

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川は澄み、まさに清流

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新宮へ向かう途中、スイスのような渓谷が広がります。

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途中ジェットボート志古乗り場があり、ここが有名な瀞峡(どろきょう)かと勘違いしたが・・・

帰ってから調べたら・・・
違っていました

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この風景もスイスのようでなかなか、Goodでしたが・・・
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大願成就の折には是非ジェットボートで行ってみたいと思いました。

新宮へ向かう途中、摂社神倉神社へ
実は、当初予定になかったのですが、本宮へ行く途中、山の頂に神社が見え何だか魅かれるものがあり、本宮から新宮速玉大社に向かう途中、世界遺産・神倉神社の看板、家内に「呼ばれている」と言おうとしたら、家内の方から、行きたいと言い出しました。何の前知識もなく、着いたのが神倉神社でした。

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本殿へ向かう石段前に、登山用の杖?はぁ?なぜ?もしかして・・・・

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確かに山の上だが、あまりに急な階段!全国のスピリチャルな神社仏閣を回りましたが、四国石鎚山の鎖で登る参道並みの急階段は見たことがない!

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登りだすとスキー場の上級者コース以上の急こう配!しかも階段の体をなしていない!もうちょっと急勾配なら今流行のボルダリングじゃないか!
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登ること十数分、写真でみるより階段は急こう配です。

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途中で、火の神社、中ノ地蔵堂、本殿手前祠(参詣の際お参り必須)をお参りしたあと、本殿に到着。ふり返ると太平洋と新宮市街が見えます。
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この神社は、何度も見たことがある!巨石(ゴトビキ岩)をご神体とする神社だ!
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石段は538段だそうで、源頼朝が寄進したものとのこと。石段を登り詰めると、宙に浮いたような巨岩が視界に飛び込んでくる。『日本書紀』で神武天皇が登った天磐盾とされる磐座で、ゴトビキ岩と呼ばれる神倉神社の御神体だ。巨岩と巨岩の間には洞があり神聖な空間として祀られている。

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頂上で、気さくな観光ガイドの栗林確(つよし)さんがいろいろと教えてもらったり、写真を撮っていただきました。新宮の言葉は関西弁に近い、紀州はやはり畿内なのだと思いました。

栗林さんが居なければ神倉神社の本当のパワースポットに辿りつけなかった。
ゴトビキ岩の右側の岩の窪みが神様がいらっしゃるところらしい。
気のせいか、私は多少霊感らしきものを感じると思い込んでいるせいか、私には、神様の顔がいくつか見えるような気がします。

手前の黒髪は幽霊じゃなく愚妻の頭です(笑)

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物凄いパワーを感じます、なんだか不死身な体になったような錯覚になりました。
一説には、この巨石は人工だと、雑誌ムーには書いてあった・・・本当かも?(笑)


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帰りはもっと急に感じました、それにしても石段は頼朝の寄進と書いてありましたが、驚くべき手間と労力がかかっています。

帰りも10分ほど掛りましたが、火祭りの際は氏子2000人が集団で早い人は1分30秒で駆け降りるのだそうだ!アンビリーバボー!

新宮である速玉大社

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入り口にある曼荼羅は必見です。本宮から熊野速玉大社へは、かつては熊野川を舟で下って向かった。この間約40kmは「川の参詣道」と呼ばれ、世界遺産にも登録されています。

熊野三山にはもとは別々の信仰形態があったのではないかと考ええられています。
神仏習合が進む中、本宮が来世の救済を叶える極楽浄土、新宮(速玉)が過去世の罪悪を祓う浄瑠璃浄土、那智が現世利益を授ける補陀落浄土(曼荼羅画面左下、竜宮?)という三山一体の信仰形態に発展したと考えられています。

過去と来世とをつなぐ熊野川では、瀞峡観光とは別に、現在も舟下りを体験することができます。約16㎞を90分で川船で下るツアーがあるそうです。

曼荼羅には白蛇で表現されていますが、終着の権現川原の手前、大蛇が千穂ヶ峯の山塊を巻き込むように流れが蛇行する。峯の東南端の神倉山上に鎮座するのは、熊野速玉大社の元宮、神倉神社も火祭りが描かれていますが・・・。
気になるのが・・・天孫が下りたつ姿が描かれ、コトビキ岩ピラミッド説が飛び出してもおかしくはない。 

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新宮市街地を望む千穂ヶ峯の東麓、熊野川の畔から徒歩約5分の地に鎮座。もとは千穂ヶ峯の神倉山に祀られていたとされ、神倉山の元宮(神倉神社)に対して新宮と称される。摂社神倉神社の御燈祭や熊野川の御船島を早船で競う船渡御神事などで名高い。

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ちなみに速玉大社は特に参拝順はなく、左から順でOKだそうです。

古来多くの人々を魅了した熊野三山参詣の最後の目的地となったのが、熊野那智大社である。私達も熊野三山最後に訪れたのは、熊野那智大社でした。

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車で行く場合、お土産屋さんの駐車場が500円で停められますと表示がでていますが、奥のお土産屋さんは無料です。
しかしながら、お土産を既に買ってしまった私はタダで止めてもお土産を買ってしまいそうだったので、山頂の神社駐車場(800円)↓に停めました。

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ちなみに那智山青岸渡寺のお寺も規制道路進入料(駐車料金)も800円です。

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那智は滝を神聖視した行場であったため、神社として確立したのは本宮、速玉よりも遅い。現在は那智の大滝は熊野那智大社別宮・飛瀧神社の御神体。現在も原初のままの姿を留めている。
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わたくしも、1本護摩木を求め護摩壇にくべたところ早速発火、本願成就もしやすいのかもしれません。
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那智大社は商売上手、境内のクスノキ(樟)の巨木の下に、300円を献納を勧める台がある。

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平重盛(1138~79)の手植えと伝えられ、伝承樹齢は800年余の那智大社のクスノキ(樟) 那智滝が御神体であるように、この巨木にも神が宿っているとされ、「樟霊社」と名付けられている。

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樟の根幹部に、人が通り抜けられるほどの空洞ができている。

 願い事と氏名を記入した護摩木を奉持して空洞を抜け、空洞の出口で初穂料とともに護摩木を納める「胎内くぐり」が、樟霊社に願掛けする際の作法のようだ。

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空洞の階段を登って外へ、一種の死と再生の擬似体験である。胎内巡りとは輪廻転生の思想かもしれません。
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平安時代の姫御前の衣装を着て参拝されるご婦人を発見!
那智大社や大門坂では平安時代の姫御前の衣装をレンタルできるとのこと。

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ご本人達もそうだが、我々もタイムトリップしたようだ。

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西国三十三所 第一番 青岸渡寺 

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お水を頂いてまいりました。水源は那智大滝 清浄なる延命水だそうだ。
ちなみにここのお水でご飯を炊かせていただきました。

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滝と三重塔の絵は熊野を代表する風景だ。

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那智山中の数多の滝のうち、修験の行場とされた48の滝を総称して那智滝と呼ぶのだそうだが、那智の滝といえば落差133mの一の滝だろう。

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ちなみに三重の塔は鉄筋コンクリートの展望台でした・・・
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滝壺がある飛瀧神社へ抜ける道、古の熊野古道である。

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先ほどの姫ごぜ、観光客に囲まれて写真を撮られていました。
奥ゆかしい衣裳を着て、御簾から覗いたご尊顔はメチャクチャ美人に見えました。

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この世の異界であった熊野。魂の浄化を求め人々が足を踏み入れた辺境の地は、今も自然のさなかに神秘的な光景を覗かせる聖地であるはずだが、私は姫ごぜに心を奪われ、煩悩の塊となってしまった(笑)
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白い飛沫をまといながら垂直を成す大滝は、さながら天に昇る龍。
間近に拝して、飛沫を浴びると、心が洗われる思いがする。

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300円を払うと、気持滝壺近くまで行くことができます。空梅雨のせいで、那智川の水量は少なく、飛沫は飛んできませんでした。
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神話の時代から崇められた大滝の飛沫が心を洗う

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この大滝を見た古代の人々が、紀伊山地の深山幽谷に突如として現れるその姿に「神」を見出したのも不思議ではない。

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映画もののけ姫に出てくるしし神が住む太古の森のようだ。

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私には竜神が見えます・・・


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下った熊野古道を山頂まで車を取に山頂の駐車場へ一人戻ります。
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写真を撮る暇がありませんでしたが、山頂でふたたび、姫ごぜ衣裳のご婦人と遭遇しました。写真を撮ってなかったのが悔やまれます。
衣裳のせいもあったかもしれませんが私のハートドストライクのメチャクチャ美人でした!例えるなら、未来少年コナンのヒロイン”ラナ”に似ていました。

この衣裳を着て1月旅行できますか?と聞きましたところ、院生のような口調で、おそらく牛車で着たのではないかとのこと?私が後鳥羽上皇ですら輿でしたから、牛車はなかったでしょうと、反論、平安期の治安女性だけでの旅は可能であったのかなどとお話してたところ、レンタルは時間制のようで、相方のご婦人に促され、涙ながらにさようなら~ 君の名は

最後に訪れた聖地は日本最古の神社花の窟神社、伊邪那美尊を葬ったとされる場所に建てられたとされる。『日本書紀』(神代巻上)一書には、伊弉冉尊は軻遇突智(火の神)の出産時に陰部を焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬され、以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったと記されている。当社名も「花を供えて祀った岩屋」ということによるものである
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転勤で四国と九州の支店に在籍していた時、別府には何度か遊びに行ったことがある。山の上にある遊園地が普通の遊園地であると聞いて多少がっかりしたことがある。

「どうせなら、箱根小涌園のような温泉SPAリゾートだったら楽しいのにな」と思ったのは私だけではないだろう。

しかし、まさか4日で100万アクセスするとは思わず、公約してしまう市長さんは・・・
焦っているようだが、

良かったではないか!世界的温泉リゾートに進化できる、世紀の大チャンスではないか!

どうも大ぼらだったようだが、嘘から出た誠、ラクテンチ側も、腹をくくって別府市役所と心中すればいいではないか!一地方の寂れた遊園地でいれば20年30年後存続は難しいだろう。

本気でやるべきだ!実現すれば間違いなく世界中から観光客がやって来るだろう!
TDLやUSJと並ぶ観光施設になるかもしません。

ここで出来ませんとケッチャナヨの手抜き張りぼてをしてしまう民族と、ピンチをチャンスに変える民族の差が出るだろう。

予想外で慌ててしまっているようだが、資金はクラウドファンディングで世界に募れば良いんじゃないか❗私も出資したい❗

トランプホテルグループや孫正義にでも出資を打診してみても悪くはないだろう。乗ってくるだろう。

だが、完璧を求めるならオリエンタルランドや星野リゾート、USJと組んでみても良いだろう。
組む相手さえ間違えなければ、世界に誇れるリゾートが誕生するに違いない。

だけど、水着着用エリアとネイキッドエリアの区別はあった方が良いかもしれませんでした。


【追記】2017.4.12
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人が入れる温泉として世界一の湧出量を誇る大分県別府市では、2016年11月に“遊べる温泉都市構想”の取り組み第一弾として公開した『湯~園地』計画公約ムービーの実現に際して、実施概要・完成予想図を発表。

『湯~園地』計画は、温泉と遊園地を融合させ、温泉につかりながら楽しめるアミューズメント施設『湯~園地』を描きYouTubeでの再生回数が100万回を達成した場合、実際に別府市内で計画を実行するという、世界初の“再生数連動型公約ムービー”として、昨年11月21日に公開。 予想をはるかに超える大きな反響となり公開4日目で100万再生を達成。現在ではすでに300万再生を突破。

【動画】100万再生で本当にやります!別府市・湯~園地計画! “1 Million Views Make it a Reality!” Beppu City Spamusement Park Project!(YouTube)
https://youtu.be/UbMmhQYoAsM



100万再生達成以降、別府市では計画の実現にむけて特別チームを結成。クラウドファンディング等を通じての支援募集やアトラクション計画の策定等を行い、この度実現にむけて寄せられた支援金が3000万円を突破したことを受け正式に実施概要が決定! 

7月の開園にむけ、本日4月12日より『湯~園地』公式サイトが開設。“湯~園券”ならぬ入園チケットの発売を開始。『湯~園地』の決定したアトラクションをご紹介いたします。

決定済6アトラクションはこれだ!

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・TOWA TEI SelectBGM
人気DJであるTOWA TEIさんがセレクトしたBGMが園内に流れます。        
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・架け橋かけ湯
更衣室からアトラクションをつなぐ架け橋には、かけ湯を設置予定。衛生面も安全。長さ約150M!

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・温泉ミストアストロファイター
周囲をぐるりと囲んだバーから温泉が噴射し、なんと空中で温泉を楽しみながら遊べます。

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・温泉スライダー
別府市内でも開催したことのある人気アトラクション。全長100Mのコースを温泉につかりながらライド温!

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・特製ブレンド温泉
プールエリアに温泉を入れ、 大浴場に。 豊富な種類を生かした湯~園地特製ブレンド湯の温泉です。

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・温泉メリーゴーランド
アトラクションにもお湯を入れて温泉につかりながら楽しむことが出来ます。

新規決定2アトラクションはこれだ!

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・湯~列車
動画にも登場した射的場をスペシャル仕様にアップデート! キッズエリアにて温泉をふんだんに使用した温泉アトラクション列車、その名も “湯~列車” を準備。特性温泉鉄砲を持って乗車しキッズエリアをクルージング。様々なターゲットに温泉をぶっかけて楽しもう! 別府ならではの豪華景品も取り揃えています。

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・別府屈指の人工知能OUによる、 あひるの徒競走的中パフォーマンス
ラクテンチ内の名物あひるの競争エリアを解放。 足湯に浸かりながらご高齢の方にもゆっくり楽しんでいただけます。 さらに!人工知能AIならぬ ”OU(オーユー)” による予想サービスを導入。

4月12日より公式サイトオープン、 入園チケットの販売を開始

『湯~園地』公式サイト
http://www.gokuraku-jigoku-beppu.com/yuenchiplan                                                                                                            

■計画実現にむけたコメント 別府市長 長野 恭紘(ながの やすひろ)さん
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みなさま、 このたびは『湯~園地』計画に多くのご意見とご支援を頂き誠にありがとうございます。 予想をはるかに超える反響で、 瞬く間に100万再生を達成してしまった昨年11月。
達成直後は“やった”といううれしさと“やってしまった感”とが入り混じる想いでございましたが公約としてかかげたからにはやるしかないと、 昨年末より特別チームを編成させて頂き、 日々計画の実行にむけて色々な協議を重ねて参りました。 多くの方のご支援により、 本日完成予想図の発表にこぎつけたことを本当にうれしくおもっております。 実現するからには思いっきり楽しんでいただけるものにしたいと考えておりますので、 どうか宜しくお願いいたします。 」
■『湯~園地』実施概要

・開演日時 :2017年7月29日(土)~31日(月) の3日間
・開演場所 :別府市「ラクテンチ」内 ・住所:大分県別府市流川通り18丁目
・入園料 :8,000円~( 大人1名、 小学生以下1名)・入園券類総数:各日限定3000名
・アトラクション :全8アトラクション(決定済の下記6アトラクション+新規決定の2アトラクション)
『湯~園地』は2017年7月29日~7月31日の3日間、 公約ムービーの撮影場所でもある別府市内の遊園地『ラクテンチ』にて実行となります。 実現内容の策定にあたっては、クラウドファンディングサイトCAMPFIRE等を通じて入園チケット等を特典とした支援者募集を行い、 集まった支援金に基いてアトラクションの内容等を検討するという方式をとりました。
2017年2月10日~4月10日の2ヶ月間に同サイトを通じて集まった支援金は総額33,966,585円を達成。そのほか実現にむけて、 別府市に直接の寄付金等も寄せられました。 この結果、本プロジェクトにご賛同いただいた人気DJ TOWA TEIさんのセレクトBGMを含む全8アトラクションの実施が決定しました。


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 戦後七十年という大きな節目を過ぎ、二年後には、平成三十年を迎えます。

 私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。

 本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。

 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

 そのような中、何年か前のことになりますが、二度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。

 私が天皇の位についてから、ほぼ二十八年、この間(かん)私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ二ヶ月にわたって続き、その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

 始めにも述べましたように、憲法の下(もと)、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。

 国民の理解を得られることを、切に願っています。
天皇陛下のお言葉を拝聴し、日本国民であることに幸せだと思った。
>天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。
このお言葉を聞くと神戸淡路大震災や、東日本大震災の発生した直後、被災した方々をひざを折って慰問されて回った陛下のお姿が目に浮かびます。
>これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。
国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々へのご配慮。これほど一人一人の国民に寄り添い思う君主が他の国に存在したのだろうか。わたしは本当に日本に生まれてよかったと思った。
参議院選挙直後、突如NHKが陛下の生前退位をリークした。
憲法改正反対を旗印に戦い大敗した野合連合は、陛下が憲法改正反対の意思表示だと騒いだが、この陛下のビデオを観ても依然そうおもうのであろうか?
陛下は、象徴天皇として極力政治に対し影響を及ぼさないよう細心の注意を払っていることが伝わる。天皇制反対と叫ぶ共産党、共産党と連携した民進党や、その他泡沫野党議員に対してすら国民に対する分け隔てのない慈愛を持たれている。
このビデオを見て陛下が、政治的意図を持っていると主張することがなんと愚かしいかと思ってしまった。
今上天皇陛下「生前退位」のご意向 2016/7/13(水) の記事で書いた、ことも、陛下のお心から比べ、なんと自分が小さいことか思い知ってしまう。
 常に国民を思い寄り添い、祈り、そして、全国の人々の姿を励まし続けた陛下。
我々日本国民は、天皇陛下のお気持ちに応えるべく、生前退位を、与野党関係なく、国民一体となって早急に取り組むべきだと強く感じます。
日本のご皇室を未来永劫千代に八千代に弥栄いやさかさせることが、日本国民の責務であると思います。
《徳間書店『世界が憧れる天皇のいる日本』より》                     
 「国の誇り」は世界のどの国にもあるものである。

 たとえば近代中国は、悠久な五千年の歴史や人口が多いこと、さらには地大物博(土地が広くて何でもあること)などを小学生の頃から教え、それを国自慢にしてきた。

 近年よく話題になっているのは、韓国ハングル世代のウリナラ(我が国)自慢である。漢字もサッカーも、人類の文化、文明、文物はたいてい韓国起源と主張し、朴槿恵大統領まで、「韓国人は優れた創造DNAをもつ」などと自慢している。

 もちろん西欧においても、大航海時代以後に文明的優位を確立してから、非西洋諸民族への植民地化は宗主国の使命であり、文明化や人道人権を伝えたとしている。現在でも自由、民主、人権などは普遍的価値として、欧米ではそれらを世界に広めたと誇りにしている。

 戦後日本は、国に誇りをもつよりも貶める自虐史観が流行った。戦前はすべて否定され、「愛国」は危険な思想とまで見られてきた。だから「日本の誇りを取り戻す」ということは国を思う人々にとっては、むしろ宿願だろう。

 だが、日本は「万邦無比」の誇りをもっている。それは「万世一系の天皇」をいただいているということである。そしてこれは世界唯一のものであり、世界の憧れでもあるのだ。

日本は平安時代や江戸時代に数百年にわたる平和社会が続いた。また、戦後日本も70年近くにわたり平和を維持している。しかも、江戸時代から現在まで、来日した外国人が一様に認めるように、治安が良く、親切で、世界一安全な国である。世界中それほど安定して安全な社会があるだろうか。これも「万邦無比」であろう。

 この平和な社会は、全人類にとって貴重な文化財産でもある。では、こうした「万邦無比」の平和と安定、そして安全な社会は、いったいどう生まれたのだろうか。それは「万世一系」が象徴するように、超越的な「天皇」の存在があってこそ、その社会を育んだのである。天皇を中心として国民がまとまり、平和が維持されてきたのである。そうでなければ、「万世一系」自体が不可能である。中華の王朝交替時に見られた反乱や虐殺の歴史を見れば、それは明らかであろう。

 日本人にとっても、人類史にとっても「万世一系」の超越的な天皇の存在が、いかに貴重で「万邦無比」あり、未来の人類にとっても福音であるかということを明らかにするのが、本書を世に問う動機の一つである。

本書は主に四つの論題にしぼり、四章に分けて天皇をとりあげている。その主な主眼は次の通りである。

(1)まず外国からの天皇観を紹介した。古代から近現代まで、そして東洋人、西洋人から天皇はどう見られ、どう語られてきたかを述べた。もちろんその中には誤解や曲解も含まれている。

(2)他国では不可能だった「万世一系」が、なぜ日本では可能だったのか。そして、それが日本にどのような作用を及ぼしたのか。ことに明治維新以後にアジアでもっとも早く近代化し、世界の大国にまでなれた理由を、天皇の存在から読み解いていく。

(3)天皇と他国の元首とはどこが異なっているのか。中華帝国の皇帝との違いを中心に、他国の国王や法王などのあり方の差異から、皇統が連綿と続いてきた理由を探る。

(4)天皇と日本人の関係について。歴史的に見ても、天皇は日本人にとって「無私」としての公的で超越的な存在である。その一方で、日本人と天皇のつながりは、他国の国家元首と国民の関係に比べて、極めて強い。なぜ天皇は日本人にとって特別な存在なのか、その秘密を探る。

 日本が海外から誤解されていることは多々ある。たとえば、戦後に民主主義が広まったというのも、その一つである。民主主義にとって必要不可欠な条件は、少なくとも二つある。一つは徳治(人治)社会ではなく法治社会であり、民衆に遵法精神があるということである。日本人の遵法精神については、すでに開国維新以前に確立されていた。そのことは、江戸時代に来日した西洋人の見聞録などにも書かれている(詳しくは拙著『日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか』〈徳間書店〉を参照されたい)。

 もう一つは多様性の是認である。日本は世界一「何でもある国」である。江戸時代は朱子学だけでなく陽明学、蘭学、国学、そして神道も仏教もダイナミックに競っていた。天皇という超越的存在の下で万人平等の社会であったため、それが可能だったのだ。

 フランスの民主主義は国王から奪ったものだが、日本の民主主義は四民平等、万民平等という社会のしくみから生まれたものである。

 神代の神議から今日に至るまで、日本の民主主義は日本文化の歴史の申し子そのものであることは、本書でも改めて指摘したい。

 本書は日本人が書いた天皇論とはやや趣を異とし、台湾で生まれ育ち、その後、日本で半世紀を暮らしてきた筆者が、第三者の目から天皇と日本人について分析したものである。日本の素晴らしさや底力について考えるための一助になれば幸いである。
アインシュタインが断言!「天皇」が世界の盟主になる日が来る 
(略)                                                                                                 1922年、日本を訪問したアルバート・アインシュタインは、早稲田大学の大隈講堂で行った講演で次のように語っている。
 「近代日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。この驚異的な発展には、他の国と異なる何ものかがなくてはならない。果たせるかな、この国の三千年の歴史がそれであった。この長い歴史を通じて一系の天皇をいただいていることが、今日の日本をあらしめたのである」

 さらにこう続けた。
 「世界の未来は進むだけ進み、その間、いくどか争いは繰り返され、最後は闘いに疲れる時が来る。その時、人類はまことの平和を求め、世界的な盟主をあげなければならない。世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた、最も古く、また尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まり、アジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない」(『新世紀の宝庫・日本』名越二荒之助著。アインシュタインの発言については、田中智學の『日本とは如何なる國ぞ』〈1928年〉、雑誌『改造』〈1922年12月号〉などに多く出ている)

 アインシュタインよりも約6年早く、1916年に日本を訪れたフランスの哲学者、神学者で高名な詩人だったポール・リシャール博士は、日本に魅せられ、その後4年間日本に滞在した。そのとき詠んだ「日本の児等に」と題する詩に、日本の7つの栄誉と使命をあげている。その6番目と7番目を紹介しよう。

 (6)建国以来一系の天皇を永遠に奉戴(ほうたい)する唯一の民よ。貴国は万国に対し、人がなお天の子であり、天を永遠の君主とする一つの帝国を建設すべきことを教えるために生まれてきた。

 (7)万国に優って統一性のある民よ。貴国は未来の統一に貢献するために生まれ来た戦士として人類の平和を促すために生まれてきた。アインシュタインの思いと似ている。

 1919年、第一次大戦後のパリ講和会議で日本は人種の平等を国際連盟の規約に入れるように提案した。これは国際会議における世界で初めての人種差別撤廃の提言であった。それはアメリカのウィルソン大統領の反対で潰えたが、その後、日本は有色人種にとって希望の星となった。そしてそれは、アメリカの黒人たちも同様だった。

 アメリカの黒人史の専門家で、ハンプトン大学や神田外語大学の助教授も務めたレジナルド・カーニー氏は、著書『20世紀の日本人』(五月書房)で、当時のアメリカの黒人たちの親日感情について記述している。

 当時、黒人差別を撤廃するために汎アフリカン運動を組織していたアメリカのW・E・B・デュボイス博士もその一人で、1937(昭和12)年に満洲と日本を訪れ、「日本人ほど知的で礼儀正しく、清潔好きで、時間を守り、善悪の判断をする国民はいない」と知り、「神道とは善悪を見きわめて行動する教義であり、それを人格化したのが天皇である」と述べたという(『世界に開かれた昭和の戦争記念館』展転社)。

 カーニー氏は、著書の中で、「日米戦争を喜んだのは中国人やインド人、フィリピン人などだけではなく、アメリカ黒人も同じように喜んだのである。黒人の中には、この戦争は『人種戦争』だと公言し、日本はアジアを白人から解放する英雄であるというものすら出てきた。白人優位の神話を根底から覆した日本人。そんな日本人と戦うくらいなら、監獄に行った方がましだ。こんな考えが黒人の間を駆けめぐっていた」とも記している。

天皇という超越的存在の下の同胞意識


 明治維新だけがなぜ成功したのかについては、維新から100年以上が経った今もなお、魅力と興味を誘う政治改革の研究テーマの1つである。

 近現代、ことに西力東来後の列強の時代になって、「維新」(あるいは変法ともいわれる)をめざしたのは、決して日本だけではなかった。たとえば日本の隣国を見ても清末の戊戌(ぼじゅつ)維新、朝鮮にも同時代に甲申(こうしん)政変があったが、すべて失敗した。戦後、イランのパーレビ国王の維新(白色革命)も失敗に終わった。

 なぜ日本だけが成功したのかについて、渡部昇一(わたなべしょういち)氏は、「それは神話の時代以来連綿と続いている天皇という超伝統的な要素が、まず先端をきって近代化したためである」と指摘している。

 易姓革命の国、中国で改革維新が唯一成功したのは中華帝国よりはるか昔、戦国時代の秦の商鞅(しょうおう)変法のみだった。これ以外には、歴代王朝の変法は戊戌維新だけでなく、宋(そう)の王安石(おうあんせき)変法をはじめ成功したものはない。血を流す「革命」しかなかった。フランス革命もロシア革命も血の粛清を避けられなかったのである。功臣や同志に対する血の粛清がなければ、革命政権は安定しない。

 隣邦の韓国(朝鮮)の易姓革命を見ても、前王朝、あるいは前大統領に対する血の粛清は凄(すさ)まじいものである。たとえば、現在の朴槿恵(パククネ)大統領は、政敵を暗殺した安重根(あんじゅうこん)を民族の英雄として、大々的に造神運動を進めているが、韓国人によるジェノサイドはほぼ民族の特徴ともなっている。明末の明人大虐殺をはじめ朴正熙(パクチョンヒ)時代の南ベトナム解放民族戦線大虐殺、近代でも金玉均(きんぎょくきん)や独立運動指導者の金九(キムグ)や呂運亨(ヨウニョン)などもことごとく政敵に暗殺しつくされ、朴槿恵大統領の両親朴正熙大統領夫妻も暗殺された。

 なぜ日本だけが自国民に対するジェノサイドを避けられたのだろうか。そこにも超越的な存在としての天皇の存在と日本人が持つ同胞意識に理由がある。

 たいていの社会はないもの、欲しいものを「そうである」「そうすべきである」と強調する。それがごく一般的な常識といえる。しかしあることとあるべきことを区別できる人はそれほど多くはない。

 中華の国は仁義道徳を強調し、ことに孝は万徳の本だと強調する。それはそうすべきである(当為(ダンウェイ))という願望にすぎない。中国や韓国は家族を大事にする国だとよくいわれているが、実際には親子兄弟姉妹の殺し合い、いがみ合いはほかのどの国よりも激しい。李(り)朝の例を見ても、李成桂(りせいけい)が高麗朝から政権を奪ってから、諸子たちは殺し合い、第一次王子の乱から第二次王子の乱へと王位をめぐる殺し合いが繰り広げられた。それは近現代には朋党(ほうとう)の争いへと引き継がれ、朝鮮半島の社会のしくみ、歴史の掟(おきて)として今日に至り、南北対峙(たいじ)が続いている。同胞意識が欠如しているだけでなく、祖国から離れても、アメリカの大学で韓国人学生による銃乱射事件が続出し、不特定多数の人間に対する恨(ハン)は消えない。

 なぜ韓国人は政敵に対してだけでなく、無差別に、誰に対しても恨をもつのだろうか。日中韓の文化比較はきわめて示唆的(しさてき)である。

以下略




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靖國神社参拝問題とは、戦後日本の矛盾である。
 
国家のために命を捧げた人を慰霊する行為は極めて当たり前のことであり、国に命を投げ出した人たちを英雄として、丁重に祀らなければ、誰が国家のために命を懸けようと思うものか。
 
愛する家族と祖国の未来を守るために命を棒げた人、それが靖國神社の英霊である。日本人として英霊に感謝するのは当たり前のことである。
 
国難に際して、国家の命令で命を懸けて、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々に、時の首相が感謝をしない国は普通の国であろうか?
 
靖國神社参拝問題の結論は、明快だ。時の首相は靖國神社に内閣総理大臣として参拝すべきである。しかし、この問題の本質はけして単純ではない。
 
靖國神社参拝問題で解決すべき問題は4つだ。
①A級戦犯と合祀の是非/昭和天皇の靖國神社参拝中止問題を考える。
②中韓両国の執拗な内政干渉に対し国家として毅然とした態度を取れるか?
③政教分離と、習慣と宗教の違い。
④新たな国立追悼施設建設問題
 
靖國神社問題を論じていくつもりだが、唐突だが、愛国行進曲を聴いた事がありますか?右翼の活動車(宣伝カー)以外で聴いた事がない方は意外に多いと思う。
 
愛国行進曲
 
 

1番
見よ東海の空明けて
旭日(きょくじつ)高く輝けば
天地の精気溌溂(せいきはつらつ)と
希望は踊る大八洲(おおやしま)
おお晴朗の朝雲に
聳(そび)ゆる富士の姿こそ
金甌(きんおう)無欠揺るぎなき
わが日本の誇りなれ

2番
起て一系の大君(おおきみ)を
光と永久に頂きて
臣民我等皆共に
御稜威(みいつ)に副はむ大使命
往け八紘(はっこう)を宇(いえ)となし
四海の人を導きて
正しき平和打ち立てむ
理想は花と咲き薫(かお)る

3番
今幾度か我が上に
試練の嵐哮(あらしたけ)るとも
断乎と守れその正義
進まむ道は一つのみ
嗚呼悠遠(ああゆうえん)の神代より
轟く歩調受け継ぎて
大行進の行く彼方
皇国(こうこく)常に栄えあれ
 
もし、この歌詞に対して、違和感を覚えたのであれば、未だ東京裁判史観に呪縛されているかたではないでしょうか?
 
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この曲が発表された昭和12年、日本は7月 盧溝橋事件通州事件8月大山事件第二次上海事変 日中戦争へ巻き込まれていったのである。この歌詞には当時の日本側の主張、正義の理由が盛り込まれています。当時の皇軍をはじめ一般市民の多くは、この日本の正義を自然なものと感じていたはずです。これを日本の侵略戦争であると未だに思われている方は、東京裁判史観を鵜呑みにして、事実を知ろうとしない不勉強な人間である。
 
 
上海事変当時、上海はフランス租界、日英米の共同租界、上海特別市の三行政区域に分かれていた。自国民を守るため、米軍2800人、英国軍2600人、日本海軍陸戦隊2500人、仏軍2050人、伊軍770人がいた 盧溝橋事件にしても、・第二次上海事変のきっかけとなった大山事件にしても中国共産党や国民党軍が日本を中国内戦へ巻き込む為に起したものである。日本軍の軍事行動は侵略ではなく大義ある行動であったのだ。
 
東京裁判によって、自国民を保護する行為まで侵略戦争であると断定され、東京裁判史観から解脱できない愚かな日本人は、偏った歴史認識の呪縛に囚われている。
 
靖國神社参拝問題とは、戦後GHQが日本を二度と米国に刃向かうような気概を持たせない為に行った、東京裁判史観の呪縛から融けている人間と、未だにその呪縛から融けていない日本人の価値観の相違と私は思っています。
 
しかし、保守派を自認する私にとって靖國神社参拝問題を複雑にしている問題がある。昭和天皇陛下が1975年11月を最後に、靖國神社の参拝を中止してたまま崩御されたことだ。
 
1975年の三木武夫首相の参拝以来、政府要人の参拝が「公人としてか、私人としてか」をメデイアの側が問うために、参拝そのものを遠慮しているのであろうと推測しされてきた。
 
元侍従長の徳川義寛氏が1997年に著した、『侍従長の遺言――昭和天皇との50年』において、1978年秋に明らかになった「A級戦犯合祀」に対して陛下が不快の念をもっているためではないか、との推測が公になった
靖国神社の合祀者名簿は、いつもは十月に(靖国)神社が出して来たものを陛下のお手元に上げることになっていたんですが、昭和五十三(一九七八)年は遅れて十一月に出して来た。「A級戦犯の十四人を合祀した」と言う。私は「一般にもわかって問題になるのではないか」と文句を言ったが、先方は「遺族にしか知らせない」「外には公にしませんから」と言っていた。やはりなにかやましいところがあったのでしょう。

昭和六十二年八月十五日御製

この年のこの日にもまた靖国の
みやしろのことにうれひはふかし


合祀がおかしいとも、それでごたつくのがおかしいとも、どちらともとれるようなものにしていただいた。
徳川氏によれぱ、昭和天皇のA級戦犯合祀への不満がそれとなく靖国神社側には伝えられていたということだし、それが1975年十一月以後に靖国神社に足をはこばない理由だったと明確に示したことにもなった。

昭和天皇はその存命中には決して参拝には行かなかったとの意味はあまりにも大きい。
 
2006年7月、『日本経済新聞』が富田朝彦元宮内庁長官のメモ(いわゆる富田メモ)の内容を報じた。
 
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前にもあったが どうしたのだろう
中曽根の靖国参拝もあったが
藤尾(文相)の発言。
=奥野は藤尾と違うと思うがバランス感覚の事と思う、単純な復古ではないとも。

私は或る時に、A級が合祀され
その上 松岡、白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々と
松平は平和に強い考えがあったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していない
それが私の心だ
この富田メモについて、憲法学者の百地章日本大学教授は、「公の発言ではなく非公式のメモをA級戦犯分祀論に結びつけるのは、天皇の政治利用になりかねない」と、この報道以降取り沙汰されたA級戦犯分祀論に対し懸念を示した。
ジャーナリストの櫻井よしこ氏は、「メモの内容には天皇の真意が反映されているかどうか不明」とメモの解釈に懐疑的な意見を述べた。
 
いわゆる富田メモ該当部分だけ紙が貼り付けてあることに不自然さを感じてならない。周囲の紙と比べ比較的新しく、本当に昭和天皇が言ったかどうか分からないのではないかと私は思う『私あれ以来参拝していないそれが私の心だ』も、本当に陛下が言ったのか、証明するものではない。
 
昭和天皇はいわゆる「戦犯」をどうお思いになっていらしたのだろうか。
 
『木戸幸一日記』
八月二十九日:『戦争責任者を聯合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだろうか』

十二月十日:『侍従長より戦争犯罪容疑者となりたる今日或は御遠慮申上ぐるにはあらずやと言上せしに、聖上は米国より見れ泄閉堺人ならんも我国にとりては功労者なり、若し遠慮する様なれば料理を届け遣せとの御誰ありしとの話を承り、感激。』
『昭和天皇独白録』
『元来東条と云ふ人物は、話せばよく判る、それが圧制家の様に評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝らなかつたこと・又憲兵を余りに使ひ過ぎた。(中略)東条は一生懸命仕事をやるし、平素云つてゐることも思慮周密で中々良い処があつた。(中略)私は東条に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない。只真相を明かにして置き度いから、之丈云つて置く』
 
『日本の息吹』二〇〇五年九月号岡崎久彦
敗戦の年の9月11日の閣議は、「戦犯」の裁判は日本の手ですることをGHQに要求することを決定したが、これに対して天皇ご自身から異議が出された。

天皇は「昨日まで朕の信頼した臣僚を朕の名において処刑することはできない」と仰せられた。このときは重光外相が「米側と交渉して成功する見込みはないが、日本が主権国家であることを主張するためです」と奏上してご了承を得ている。その後の公職追放の決定に際しても天皇は、今まで国のために忠実に働いた人々のその後の生活がどうなるかを憂慮されている。
 
昭和天皇の言動、歴史的経緯を考えると、東条英機元首相に対し昭和天皇は信頼していたことは間違いない。ただ、富田メモにあるように日独伊三国同盟を推進した、松岡洋右元外相・白鳥敏夫元駐伊大使、メモにはなく靖國神社に合祀されていない大島浩ドイツ陸軍武官に対しては、彼らが現役時代より不快感を抱いていた。
 
昭和天皇にとって「A級戦犯」を含めて全ての日本国民は戦時中、共に国のために尽くした人々であり、その御霊を靖国神社に祀るに際し、「A級戦犯」のみ反対されることなど想像もできないし、遂に公式には発言されなかったのである。
 
昭和天皇が靖國神社へ参拝しなくなった理由は、陛下ご自身の行動が政治的な判断に影響を及さないよう戦後配慮しつづけた陛下の意思と思われる。
 
私は陛下が参拝をお止めになった理由は合祀よりも1975年11月21日陛下の靖国参拝後に、三木首相が昭和天皇の靖國神社参拝に対して「あれは純粋に私人としていかれたんだ」と発言した方がその政治的理由は大きい。
 
国会で社会党の追求で自らの8月15日参拝は「私的参拝」であったと発言し、自らが私的参拝なら、陛下も私的参拝であると不遜にも発言したことが大きいのではないか?
 
もし、陛下が、1978年10月に行われた「A級戦犯」合祀に反対の立場で参拝をしなかったのなら、合祀直前に最後の参拝をして、その他260万余柱の英霊に最後の敬意を払うであろう。最後の参拝から合祀まで時間的余裕があったことを考えると、三木首相の「私的参拝」発言により、陛下が参拝できなくなってしまったと考えるべきです。
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その後、今上天皇が参拝されていない理由は、明確に三木首相の「私的参拝」
発言と、1975年の11月20日の内閣委員会で、社会党が翌日に予定されていた昭和天皇の靖國神社御親拝を事前に問題とする質問を行ったことに対する政府答弁である。
 
社会党の質問に対し吉国法制局長官は、「天皇の公式参拝は、直ちに憲法二十条第三項違反とまで言えなくとも重大な問題となる」と答弁した。昭和天皇は予定通り11月21日に御親拝になったが、天皇陛下の場合、いささかでも物議を醸す行動は許されないので、その年以降今日まで参拝されていないというのが実情である。
 
つづく
 

 
<余談>
白鳥敏夫元駐伊大使を調べていたら、興亜思想というHPに白鳥敏夫と外務省皇道派 と云う記事の中に面白い発見をした。
日米開戦を経て、彼はその主張を次のようにエスカレートさせた。
 「今度の戦争は本質に於ては日本の八紘一宇の御皇謨とユダヤの金権世界制覇の野望との正面衝突であり、それは邪神エホバの天照大神に対する叛逆であると共に、エホバを戴くユダヤ及びフリーメーソン一味のすめらみことの地上修理固成の天業に対する叛逆行為である」
(「東西戦局の大観」『盟邦評論』1944年7月号)
 
http://www.uniqlo.jp/uniqlock/swf/blog_small.swf?user_id=Bo4uxIuSX6BfwXZC現代の日本でも、副島隆彦やベンジャミンフルフォードなどの売文家の馬鹿共が盛んに宣伝しているユダヤ陰謀説と同じ事を言っているのである。
副島と白鳥の共通点は、ヨーロッパにおける反ユダヤ思想を中途半端に理解して、日本に応用し自らの野望の道具として利用している点である。両方とも頭は悪くはないのだろうが、日本を誤った方向に導く愚か者である。
 
 
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本日8月17日Ddogは日本国民として、また、天皇陛下の一臣民として、靖國神社へ参拝してまいりました。
 
売国党が与党として初めて迎える15日の終戦記念日であったが、菅内閣の全閣僚が靖國神社に参拝はなかった。10日の閣議後会見で、参拝しない理由に「近隣諸国の感情」などを挙げた閣僚もいるが、総理大臣が英霊に対し経緯を払わず、日本国民・及び英霊に対しては配慮しないのか!もっとも千葉景子や菅直人に拝まれても英霊達は嬉しくはないであろう。まともな歴史教育をうけていない周辺諸国民に対して配慮したとのことだ。日本の総理なら周辺諸国民のことより、まず、自国民のことを配慮すべきだろう。
 
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菅首相や仙谷が靖國の参拝しないのは勝手だが、他の閣僚の行動まで縛ってしまうのは、行き過ぎである。 昭和28年8月の国会で、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で採択された。これを受け、政府は関係各国の同意を得て、死刑を免れたA級戦犯とBC級戦犯を釈放した。これをもって日本には戦犯はいなくなったのである。それを無かった事のように振舞う売国奴達に私は憎悪を感じる。
 
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戊辰戦争以降日清・日露と先の大戦で、我々の為に命を捧(ささ)げた人たちに対し哀悼の意を表すことは当たり前なのである。そして、死者に対する敬意を表す為に、神社を祀るのは日本人として宗教というより太古よりの伝統、慣習に近い性格であると思うのであります。
 
釈徹宗 著 「不干斎ハビアン」p220~221
 
http://www.shinchosha.co.jp/images/book_l/603628.jpg柳田國男は、「死者を祖霊になるまで祀る」ところにこ日本教宗教民族の基盤があるとしてこれを「先祖教」と呼んでいる。確かに日本宗教文化において「先祖教」は看過できない構成要素である。

柳田による「先祖教」の特徴は以下のようなものである(先祖の話1990年)
 

1.先祖は祭るべきものであり、自分たちが祭らねば、だれも祭る者がいない霊を指す。

2.死者は身近に留まっており、決まった時節には還ってくる。これは仏教でさえなかなか崩せ「い日本の死後観念であり、今日もなお根強い。

3.死者はある年限を過ぎると「御先祖さま」「祖霊」となる。通例三十三年・稀には四十九年や五十年に最後の法事蕎むことで祖霊となる。この形態は古信仰と仏教と・双方からの譲歩によって出来上がったのではないか。

4.近年は、死者の「個人性」が強くなり、祖霊というすばらしい装置が粗略になっている(柳田は、仏教が霊の個人化に大きく寄与し、祖霊との融合を阻んだことを批判している。
 
柳田も言及しているが、「あらみたま(荒御魂、新御魂)」が祀られることにより「にぎみたま(和御魂)」になり、そして(祖霊)となるというプロセス。これは、北方モンゴロイドと南方モンゴイドとの混成した、日本宗教文化の死生観だと思われる。(荒御魂はフィリピンやミクロネシアあたりの信仰、和御魂はモンゴルやシベリアやバイカル湖あたり、祖霊は華南地方あたりの信仰ではないかという説がある)。人が死ねば身体は要素ごとに分解されてしまうが、魂は残る。死んだ当初は荒御魂(新御魂、魂がまだエネルギッシュな状態)、その後これを祀ることで和御魂(穏やかで柔和な魂)となる。和御魂を三十三年から五十年かけて祀り続けることで、ついに は「祖霊」となる。祖霊になれば、大きな生命体と一体であるから、もはや個は解体される。まさに日本特有の「生命のストーリ」である。この物語が根強いために、仏教の輪廻観もそれほど土着化していない。この生命観は、日本宗教文化を考察する際には欠かせないものである。
 
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今の政府に、靖國神社参拝問題で、中国と韓国に対し意見を述べるなど期待もしていないし、余計な談話は残してほしくはない。
 
現政府は、未だに東京裁判史観の呪縛から開放されておらず、『「植民地支配と侵略」によって諸国民に多大の損害と苦痛を与えたことを認め、謝罪を表明する』などという村山談話は東京裁判史観による歴史観であって歴史を歪曲するものであり。
英霊たちを冒涜するにもほどがる談話だと思います。
 
私が仮に総理大臣となったなら、真っ先に中国・韓国に謝罪します。村山談話・河野談話・菅談話は日本人の総意でないにもかかわらず発表してしまい申し訳ございませんでした。国際社会のルールに反して誠に申し訳ないが、取り消しさせていただきす。過去の政権の談話を取り消すことを謝罪します。
 
そもそも大東亜戦争は侵略戦争であったのか?すくなくとも自衛の為に起こした、大義ある戦いであったと私は思う。石油が輸入できなくなったとしたら、現代から比べれば比較にならないほど石油を消費していなかった当時ですら国家の存亡にかかわる事態であり、米英蘭に対し宣戦布告をおこなったのは、侵略戦争ではなく自衛戦争である。
 
私が知る限りでは当時の大新聞や世論が開戦を叫ぶなか軍幹部政府・天皇陛下は開戦に皆反対で、開戦を回避するべく努力が行われたが、なんとしても日本に開戦の火蓋を切らせたい米国・英国・中国国民党・ソ連の思惑によって、開戦へと押し流されていったのである。
 
一度東京裁判史観で教育を受けた日本人にとって、東京裁判史観の呪縛から開放されるには、現代史論理的に理解し、論理的に東京裁判史鑑を否定できるだけの知識を持たない限り、その呪縛から容易に解脱することは難しい。
 
無知であったり、意図的に東京裁判史観を擁護する人間が多数いるようでは、国益を擁護し、国民生活の向上につながるような自主憲法改正が不可能である。自主憲法を制定しない限り、半永久的に米国の属国の地位に甘え、自民党三木武夫政権以降~現民主党政権の菅総理のように、周辺諸国の要求と国民の要望を比べた場合、周辺諸を優先してしまう情けない状態になる。
 
自主憲法を制定し、日本人の権益を擁護するよう改め国家の百年の大計を計画しない限り、このまま日本は衰亡してしまうのではないかと、深く危惧しております。
 
護憲派の人間から投稿をうけたが、かれらはおそらく善意の人間であろうが、2010年の世界情勢分析が中学受験小学生以下の認識である。彼らが有名私立中学を受験したならば、社会科は不合格である。2010年:世界第二位の経済大国となる可能性がある中国は、日本の権益を侵犯し、その急激かつ過剰な軍事力増強は東アジアのパワーバランスを破壊しようとしている。日本は、防衛費の削減が続き、とても軍事大国化する余地が無い。日本が軍国大国化すると真剣に憂慮している彼らの認識は、洗脳を受けたオウム真理教の信者に似ている。日本軍事大国化阻止宗教のカルトである。
 
彼らは現状を正しく把握できず、その呪縛は死ぬまで解けない可能性が高い。偏った知識や認識を克服することは限りなく難しい。彼らの現状把握能力や、現状分析力能力は廃人とかわらず、誠に気の毒である。
 
この靖國神社参拝問題の解決なくしては、東京裁判史観の克服と、自主憲法制定は難しい。
 
私も早速昨晩18日から日靖國神社問題関係書籍を5~6冊読書中でございます。
改めて今晩か明日靖國神社論を書かせていただく予定です。
 
そのなかで、まずは皆さんにどうしてもご紹介したい逸話があります。
 
日中国交回復後社会党の佐々木更三が毛沢東主席に「中国国民に多大な損害をもたらして申し訳ない」と言ったところ、毛沢東は「何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました。皇軍の力なくして我々が権力を権力を奪うことは不可能だったでしょう」と感謝の意を表したそうです。
 
歴史とはそのときと場所、解釈する人間によって、様々に解釈されます。
毛沢東のこの発言は、意外ではなく、当然の発言とは重いますが、改めて書籍でそういった事実を発見すると、新鮮な驚きを覚えます。
 
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