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タグ:経済学


日本のサービス産業、労働生産性は米国の5割
【マイナビニュース】2016/12/13

公益財団法人 日本生産性本部は12月12日、「日米産業別労働生産性水準比較」を発表した。滝澤美帆・東洋大学准教授を座長とする「日米産業別労働生産性水準比較研究ワーキンググループ」を立ち上げ、類似データを利用しながら経済産業省「通商白書2013年版」と同様の手法で最新年次による比較を行ったもの。
  
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「日米の産業別生産性(1時間あたり付加価値)」と付加価値シェア(2010年~2012年)

 
産業別にみた日本の労働生産性水準(2010~2012年平均)は、化学(143.2%)や機械(109.6%)で米国を上回り、輸送機械(92.7%)でも遜色ない。一方、サービス産業をみると、運輸(44.3%)や卸売・小売業(38.4%)、飲食宿泊(34.0%)などの主要分野で格差が依然として大きい。

90年代後半(1998~2000年平均)と比較すると、製造業では日米格差が3.2%ポイント縮小しており、特に化学(+36.7%p)や建設業(+18.2%p)、食品製造業(+10.1%p)などで大幅に改善。一方、サービス産業では大きな変化はなかった(0.9%p格差が拡大)。飲食・宿泊(+2.5%p)で若干差が縮小したものの、卸売・小売(-6.3%p)や運輸業(-3.6%p)などで格差が拡大している。

リーマン・ショック前(2005~2007年平均)と比較しても、日米格差は製造業(+6.0%p)で縮小する一方、サービス産業(-1.8%p)で拡大している。飲食・宿泊(+3.2%p)で改善したものの、運輸(-0.2%p)や卸売・小売(-3.3%p)、物品賃貸・事業サービス(-4.5%p)などで日米格差が拡大したことが影響した。

  
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産業別にみた日本の労働生産性水準(2010~2012年平均)は、製造業で米国の7割、サービス産業で5割だった。日米格差は、1990年代後半と比較すると製造業で3.2%ポイント縮小したものの、サービス産業では0.9%p拡大している。リーマン・ショック前と比較しても、製造業では日米格差が6.0%p縮小しているのに対し、サービス産業では1.8%p拡大。サービス産業の労働生産性水準は、1990年代後半から米国の5割程度にとどまる状況が続いている。


※本記事は掲載時点の情報であり、最新のものとは異なる場合があります。予めご了承ください。
日本人は勤勉で真面目に努力に努力を重ねている。世界的に見ても、日本の労働者の教育レベル、勤勉さ、そして忍耐強さのレベルは世界一といっても過言ではないだろう。日本の優秀な労働力は日本の経済を大きく支えてきた。

だが、バブル崩壊後、次々に日本は改革を受け入れ贅肉を削ぎ、制度を変え、痛みを伴う改革が続いた。対策として、女性の社会進出の為男女雇用機会均等法、そのために保育園の整備だ、待機児童のゼロを目指しましょう。その結果今年のユーキャン流行語大賞の一つが「日本死ね」に・・・、正規雇用が減って、非正規雇用が増え、ホワイトカラーエグゼンプションによる残業カット。

にもかかわらず、労働生産性が低い。そこで、また日本の労働生産性えお改善すべく賃金も下げ「もっと頑張る」、そして改革を試みる。でもずっと低迷したままだ。これはミステリーとしか言いようがなく、理由に困り、「そもそも日本は民族として劣っているのだ!」。という日本人を侮辱する暴言がまかり通っている。これは絶対に違う!

最近ネットを覗くと世界一優秀な労働者だと世界中がからされていると思うのだが、日本のパラドックスとでもいうべき不思議な現象である。人的資源のポテンシャルが高い以上、問題は人的質ではなくて、へたをすれば労働生産性の概念が間違っているのではないか?それとも何が悪いのだろうか?

はっきり言って、いつまで頑張ればいいのかわからない。日本人はもうこれ以上どうがんばれと?もう限界である。頑張っているのに労働生産性の低い日本のパラドックスの原因がどこにあるかをちょっと考えてみる。

労働生産性のことで英国人で日本企業の社長であるデービッド・アトキンソン氏が、
まだ日本人は頑張り足りないと言うのである・・・・え~???日本病ですか???

「1人あたり」は最低な日本経済の悲しい現実
日本の生産性は、先進国でいちばん低い

【東洋経済】2016年12月9日デービッド・アトキンソン :小西美術工藝社社長

日本は「成熟国家」などではない。まだまだ「伸びしろ」にあふれている。
著書『新・観光立国論』で観光行政に、『国宝消滅』で文化財行政に多大な影響を与えてきた「イギリス人アナリスト」にして、創立300年余りの国宝・重要文化財の補修を手掛ける小西美術工藝社社長であるデービッド・アトキンソン氏。
彼が「アナリスト人生30年間の集大成」として、日本経済を蝕む「日本病」の正体を分析し、「処方箋」を明らかにした新刊『新・所得倍増論』が刊行された。そのポイントを解説してもらう。


さまざまなジャンルの世界ランキングで高位置にいるが


「日本人は『○○の分野で世界第○位』という話が大好きだ」

これは初めて日本に来てから31年、私が日本の皆さんに対して抱いてきた率直な感想です。

私はバブル直前の1985年、日本にやってきました。そのころ日本はすでに「世界第2位の経済大国」で、国中に自信がみなぎっているのを感じました。いまは中国に抜かれて第3位になっていますが、それでも世界には190以上の国がある中での第3位ですから、たいへんすばらしいことだと思います。それ以外にも、輸出額、製造業生産額、ノーベル賞受賞数など、さまざまなジャンルの世界ランキングで、日本は高い地位を占めています。

これらは、まさに「一流国家」というにふさわしい実績でしょう。そんなすばらしい実績を達成した日本人が、「自分の国は第○位だ」という話を喜ぶのは、ある意味で当然だと思います。

ですが、不思議なこともあります。日本ではなぜか、欧州では当たり前の「1人あたりで見て、世界第○位」という話はほとんど聞かれません。「全体で見て第○位」という話ばかりなのです。

「全体で」「1人あたりで」、どちらで見るべきかはケースによって違いますが、国民1人ひとりの「豊かさ」や、個々人がどれだけ「潜在能力」を発揮しているかを見るには、「1人あたりで」のほうが適切なのは明らかです。同じ100億円の利益を上げている会社でも、従業員100人の会社と1000人の会社では、それぞれの社員の「豊かさ」や「潜在能力の発揮度合い」は10倍も違うという、きわめて当たり前の話です。

「1人あたり」で見ると、違った景色が見えてくる

では、日本の実績を「1人あたり」の数値で見直すと、どんな風景が見えてくるでしょうか。きっと、驚かれることと思います。

・日本は「GDP世界第3位」の経済大国である
 → 1人あたりGDPは先進国最下位(世界第27位)
・日本は「輸出額世界第4位」の輸出大国である
 → 1人あたり輸出額は世界第44位
・日本は「製造業生産額世界第2位」のものづくり大国である
 → 1人あたり製造業生産額はG7平均以下
・日本は「研究開発費世界第3位」の科学技術大国である
 → 1人あたり研究開発費は世界第10位
・日本は「ノーベル賞受賞者数世界第7位」の文化大国である
 → 1人あたりノーベル賞受賞者数は世界第39位
・日本は「夏季五輪メダル獲得数世界第11位」のスポーツ大国である
 → 1人あたりメダル獲得数は世界第50位

注:生産性は世界銀行(2015年)、輸出額・製造業生産額はCIA(2015年)、研究開発費は国連(2015年)、ノーベル賞はWorld Atlas(2016年)、夏季五輪メダルはIOC(リオオリンピックまで)のデータをもとに筆者算出

 
まだまだありますが、これくらいにしておきましょう。これだけでも、日本の「全体で見ると高いランキングにいるが、1人あたりで見るとその順位が大きく下がる国」という特徴が浮き彫りになるはずです。これは、単純に日本の人口が多いからです。先進国で1億人以上の人口を抱えている国は、米国と日本しかないのです。

誤解しないでください。私は、「日本人は大したことのない人たちだ」などと言いたくて、これらの事実をご紹介したわけではありません。むしろ長年、日本人の皆さんと働いてきて、日本人の能力の高さに心からの敬意を抱いています。これは私の単なる感覚ではなく、国連の調査でも、日本は「労働者の質」が世界一高い国であることが明らかになっています。

能力が高いのに結果が良くない。これは、「潜在能力」が活かされていないことを示しています。逆に言えば、日本にはまだまだ「伸びしろ」があるということです。

なぜ、イギリス人がこんなことを書くのか

1979年、私がまだ中学生だった頃、サッチャー首相がテレビのインタビューでこのような内容のことを語りました。

「みんながなにも反発せずに、しかたがないと言いながら、この国が衰退していくのを見るのは悔しい! 産業革命、民主主義、帝国時代などで輝いたこの国が世界からバカにされるのは悔しい!」

当時、戦争が終わってから、イギリスは経済のさまざまな分野でイタリア、フランス、ドイツや日本に大きく抜かれました。イギリスには過去の栄光以外になにもない、あとは沈んでいくだけだ、などと厳しい意見も聞かれ、世界からは「イギリス病」などと呼ばれ、衰退していく国家の見本のように語られていました。

あの時代、まさか今のイギリスのように「欧州第2位」の経済に復活できるとは、ほとんどのイギリス人をはじめ、世界の誰も思っていませんでした。それほどサッチャー首相が断行した改革はすごかったのです。

これは、別にイギリス人のお国自慢ではありません。かつて「イギリス病」と言われ、世界から「衰退していく先進国」の代表だと思われたイギリスでも、「やらなくてはいけないことをやる」という改革を断行したことで、よみがえることができたという歴史的事実を知っていただきたいのです。

サッチャー首相の言葉と同様に、みなさんにぜひ問いかけたいことがあります。

皆さんが学校でこんなに熱心に勉強して、塾にも通って、就職してからも毎日長い時間を会社で過ごし、有給休暇もほとんど消化せず、一所懸命働いているのに、「生産性は世界第27位」と言われて、悔しくないですか。労働者1人、1時間あたりで計算すると、イタリアやスペインすら下回ります。「先進国最下位」の生産性と言われて、悔しくないですか。

「ものづくり大国」を名乗りながら、1人あたり輸出額は世界第44位と言われて、悔しくないですか。

こんなにも教育水準が高い国で、世界の科学技術を牽引するだけの潜在能力がありながら、1人あたりのノーベル賞受賞数が世界で第29位というのは、悔しくないですか。

私は、悔しいです。

「失われた20年」を経て、日本は経済成長をしないのが当たり前になりつつあります。かつてイギリスがそう呼ばれたように、「日本病」などと言われ、衰退していく先進国の代表のようにとらえられてしまうおそれもあります。実際、海外では、日本のことを研究する際には、経済政策の失敗例として扱われることが多いと聞きます。私がオックスフォードで日本について学んだときは、戦後の日本経済がいかに成功したかということが主たるテーマでしたので、非常に残念な変化です。

だからこそ余計に、今の日本経済はごく一部の企業を除いて、「やるべきことをやっていない」という現状が我慢できません。日本人の「潜在能力」が活かされていないことが悔しくてたまりません。

GDP770兆円、平均年収1000万円も十分可能

初めて日本にやってきてから、もう31年の月日が流れています。人生の半分以上を過ごしてきたこの国について今、私が思っていることはこの一言に尽きます。

日本はこの程度の国ではない。

私は、日本を「この程度」にとどめているのは、「世界ランキングが高い」という意識に問題があるのではないかと思っています。世界ランキングでの評価が高いから日本はすごい。世界ランキングが高いということは、日本人の潜在能力がいかんなく発揮されているからだと思い込んでいる方が多いのではないでしょうか。1人あたりのデータを見ずに、世界ランキングが高いということだけを見て、日本の実績は諸外国より上だと信じ込んでいる人が多いのではないでしょうか。

これは、恐ろしい勘違いです。

1億人を超える人口大国・日本の世界ランキングが高いのは当たり前のことです。「1人あたり」で測れば、日本の潜在能力が発揮できていないことは明白です。まだ日本は成長の伸びしろがあるにもかかわらず、この「勘違い」によって、成長が阻まれているのです。

日本の実績を「この程度」に押しとどめている原因を特定し、改革を実行すれば、日本は必ずや、劇的な復活を果たせるはずです。この「劇的な復活」とは、GDP770兆円(今の約1.5倍)、平均年収1000万円(今の約2倍)というレベルです。日本の「潜在能力」を考えれば、そのくらいはまったく不可能ではありません。

まずは、日本が潜在能力を発揮できていない「日本病」とも言うべき病に陥っていることを、しっかりと認識してください。すべてはそこから始まります。
英国の人口は約6000万人日本の人口の半分だ。人口が多いから日本は一人あたりに直すと大したことがないと言うが・・・
イメージから言わせてもらうが、英国貴族がどれだけ優秀でも、ほんの一握りであり大半の国民のレベルは日本より低そうに思えるのだが・・・

・日本は「GDP世界第3位」の経済大国である 
→ 1人あたりGDPは先進国最下位(世界第27位)
⇒反論
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「一人当たりの名目GDP(USドル)の推移(1980~2014年)(アメリカ, 日本, ドイツ, フランス, イギリス, イタリア)」 『世界経済のネタ帳』

欠点は為替レートの変動に影響されすぎること。その国の潜在的な経済力(生産力)はゆっくりとした変化で、為替レートほど急激には変化しない。

為替を調整して購買力平価による比較。ビッグマック指数と同じ
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「人当たりの購買力平価GDP(USドル)の推移(1980~2014年)(アメリカ, 日本, ドイツ, フランス, イギリス, イタリア)」 『世界経済のネタ帳』

購買力平価による比較すると依然としてアメリカには大差を付けられているけれど、ドイツとの差は縮まってる。日本はアメリカほどではないにせよドイツやフランスなどと同程度には持続的に成長している。

・日本は「輸出額世界第4位」の輸出大国である
 → 1人あたり輸出額は世界第44位
反論⇒日本企業は世界各国に工場を建設して現地生産に構造変換した

・日本は「製造業生産額世界第2位」のものづくり大国である
 → 1人あたり製造業生産額はG7平均以下
反論⇒日本は製造業からサービス業に構造変換したが、匠や名工は依然国内に残っている。ものつくり大国だ。

・日本は「研究開発費世界第3位」の科学技術大国である
 → 1人あたり研究開発費は世界第10位
・反論⇒一人あたりに直してもいいが、以下の事実から卑下する必要がない。
トムソン・ロイターの「Top100 グローバル・イノベーター2015」に40社の日本企業が選出されたことを紹介。この数は米国企業の35社を抜いて世界トップである。

 世界経済フォーラムが15年に発表した2015年版「世界競争力報告」の日本の順位は6位である、また同じく世界経済フォーラムによる科学技術イノベーションランキングでも14年時点で日本が4位である。

・日本は「ノーベル賞受賞者数世界第7位」の文化大国である
 → 1人あたりノーベル賞受賞者数は世界第39位

 1949年から2015年までに24人の日本人がノーベル賞を受賞しているがバブル崩壊後1994年から2015年においては17人の日本人が物理、化学、生物、医療などの基礎科学の領域でノーベル賞を獲得している。 一人当たりの受賞者に何の意味がある?

・日本は「夏季五輪メダル獲得数世界第11位」のスポーツ大国である
 → 1人あたりメダル獲得数は世界第50位
へー!だから?

と、反論を書いていたら、デービッド・アトキンソン氏を強力にサポートする記事発見

だから日本経済の生産性は「めっちゃ低い」 
【ITmedia】窪田順生 2016年12月13日 08時00分 更新

日本の1人の当たりのGDPが低い。「生産性が低い。もっと高めよう」といった話をすると、「日本人はチームプレーが得意なので1人当たりのGDPなど意味がない」といった反論も。なぜ科学的根拠のない意見が飛んでくるのか。その背景には、戦前からある「戦争学」が影響していて……。

先日、M-1グランプリを見ていたら審査員のオール巨人さんがこんなことをおっしゃっていた。

「海外のテレビや映画を見ても、日本のお笑いは世界でもトップレベル。今日は世界一の漫才を決めるといっても過言ではない」

確かに、海外のコメディアンのギャグとかを見ても、「なにがおもしろいの?」と感じるのは珍しくない。ただ、「笑い」というものはその国の文化、歴史、社会背景にも深く関わる。もしこの発言を、さまざまな国の「笑い」に関わる人々がご覧になったら、かなり異論が飛び出すのではないだろうか。

断っておくが、お笑い界のレジェンドの発言にイチャモンをつけたいわけではない。個人的には日本のお笑いは大好きだし、日本人として自国の「笑い」は他国にひけをとらないほどレベルが高いと信じたい。

ただ、海外から「日本のお笑いは世界一」という客観的な評価を受けたわけでもなく、ましてや世界各国にどれだけ日本の笑いが浸透しているのかというような指標があるわけでもないにもかかわらず、その産業を長く牽引されてきたような方の口からいともたやすく「世界一」という言葉がでてしまう現象が、ある人物が指摘している「日本病」の特徴とあまりにもピタッとハマり過ぎていて非常に興味深いということを申し上げたいのだ。

その人物とは、このコラムで何度か紹介してきた小西美術工藝社社長のデービッド・アトキンソン氏である(関連記事)。

日本経済の成長を阻害している「日本病」


新著『新・所得倍増論』(東洋経済新報社)で、アトキンソン氏は30年におよぶアナリスト人生の集大成として、豊富なデータをもとに日本経済が長く停滞している原因を分析し、「GDP1.5倍」「平均年収2倍」を実現できる道を示している。

そこで注目すべきは、日本経済の成長を阻害している、「日本病」について考察をされている点だ。

それは一言で言ってしまうと、客観的な事実に目を向けることなく、自分たちに都合のいい「願望」のような評価に引きずられてしまうという「病」である。

例えば、近ごろよく「生産性」の話になるのでご存じの方も多いが、日本の1人当たりGDPは世界で27位と、先進国の中で最も低い生産性となっている。しかも、アトキンソン氏によると、労働者ベースでみるとスペインやイタリアよりも低く、米国50州で最も生産性の低いミシシッピ州にわずかに勝る程度だという。

だが、このように客観的なデータを提示されても日本人の多くはこの現実を受け入れようとしない。受け入れないどころか、「そもそも日本人はチームプレーが得意なので1人当たりのGDPなど意味がない」とか「日本人には生産性などという指標でははかれない力がある」という科学的根拠のない反論をしてくることの方が圧倒的に多い。

なぜか。アトキンソン氏は我々日本人の頭の中に刷り込まれている「世界第2位の経済大国」が深く関係しているのではないかと考察している。

『世界ランキングが高いということは、日本人の潜在能力がいかんなく発揮されていると思い込んでいる方が多いのではないでしょうか。1人あたりのデータを見ずに、世界ランキングが高いということだけを見て、日本の実績は諸外国より上だと信じ込んでいる人が多いのではないでしょうか。これは、恐ろしい勘違いです。1億人の人口大国・日本の世界ランキングが高いのは当たり前のことです』(P64 第1章 日本はほとんど潜在能力を発揮できていない)

要するに、日本の生産性がここまで低いのは、「焼け野原から世界第2位の経済大国まで成長した日本をその辺の国と一緒にするんじゃないよ」という「勘違い」が社会全体にまん延しているからだというのだ。

これは非常にハラオチした。

日本人は「全体」と「個」の話をゴチャマゼにしてしまうことが多い。例えば、日本代表選手が金メダルをとると、実況は「見たか、日本の底力」みたいなことを平気で言う。その選手個人が成し遂げた偉業であるにもかかわらず、なぜか日本人全員がスゴいみたいな「勘違い」をするのだ。最近よくテレビ番組で見かける「日本の××は世界一」というのにも同じ問題が散見される。

支離滅裂な論理展開が当たり前に

「世界第2位の経済大国」というのはGDPという「経済の大きさ」の指標である。GDPは人口×生産性なので、中国経済が台頭してくる以前、先進国の中で米国の次に人口の多い日本が、2位というポジションについたのは当然といえば当然の結果である。しかし、「日本のGDPが世界第2位にまでなったのはなぜ?」という問いかけをされても、「人口が爆発的に増えたからでしょ」と答える人は少ない。「世界一の技術力があったから」とか「日本人は世界一の勤勉だから」とか答える方が圧倒的に多いのではないだろうか。

確かに、日本には技術力の高い企業がある。しかし、そうではない企業もそれ以上に多く存在している。日本人労働者は真面目だというが、怠け者だって少なくない。そういう「個」の事情が、「全体」に対する評価に引きずられる形ですべて帳消しにされる。つまり、ひと握りの日本人・日本企業が優れているという話が、「世界第2位の経済大国」というフィルターを通すと、いつの間にやら「日本全体が優れている」という話にすり替わってしまっているのだ。

では、いったいなぜ日本ではこういう支離滅裂な論理展開が当たり前になってしまったのか。

アトキンソン氏は、戦前の「戦争学」の影響ではないかと考えている。 

『経済の大きさ、GDPランキングを重視するのは、完全に軍事や国防の視点です。(中略)近代の日本もそうでした。とにかく欧米の軍事力に追いつき、それを追い抜かすことが最大の目的でした。このような戦争学における「追いつき追い越せ」という思考が、戦後もそのまま「経済」という血の流れない戦争に適応され、現在にいたるまで思想の主流となっている可能性は否めません』(P79、第2章「追いつき追い越せ幻想」にとらわれてしまった日本経済)

これはまったく同感である。

電通の女性社員が自殺した事件を受けて、この連載でもパワハラ・加重労働というものが、実は日本の大企業の多くが、戦前のシステムや思想をそのまま引き継いでいることに端を発している問題だと指摘をしたが、実は経済だけではなく、日本社会全体が「戦後レジーム」どころではなく、「戦時レジーム」から脱却できていないのだ(関連記事)。

そのようなことを書くと、「そうだ! だから安保法制で自由に戦争ができる国にしたんだ!」といきり立つ方もおられるが、残念ながら今回はそういう軍靴の音が聞こえる的なお話ではない。

日本が戦争に敗れて、マッカーサー率いるGHQがやって来たのを境にガラッと日本社会が変わったと思っている人も多いかもしれないが、実はそうではない。

『戦時体制は、実は半分しか解体されなかった。軍隊は即、武装解除されたが、行政機構は一部の組織改変、幹部の公職追放はあったものの、ほぼ戦前のまま残った。(中略)官僚機構は戦前の「富国強兵」から「強兵」を外して「富国」の経済戦争に国民を動員し続けたといえる』(毎日新聞 1997年4月26日)

戦時中に発明された「下に責任とリスクを押し付けるシステム」

これは役所だけの話ではなく、政治も経済も同様だ。吉田茂や鳩山一郎など戦中の指導者層がそのまま戦後もリーダーになれたように、基本的な「プレイヤー」はほぼ変わっていない。メンツが変わらないのだから、システムや思想が変わっていくわけがない。

なぜIT全盛のこの時代に、人間が朝から晩まで馬車馬のように働からされ、組織に絶対服従の姿勢を見せなくてはいけないのかというと、日本企業文化に骨の髄まで「戦争」が染み付いているからだ。「戦争」と同様に「経済の大きさ」がなにをおいても優先されるので、「1人あたり」の働き方や生産性は軽んじられる。むしろ、それらの犠牲の上に「経済の大きさ」が成り立つという思考に、企業や業界全体に毒されてしまっているのだ。

アトキンソン氏は『新・所得倍増論』の中で、日本が成長を取り戻すには、政府が経営者に「時価総額向上」のためにあらゆるプレッシャーをかけていくべきだと提言しているが、これも戦時体制を引きずっている日本社会にとっては、非常に有効な手段だと思う。

電通の女性社員自殺問題、ユニクロの「ブラック職場」問題、そして近年多い不正会計など日本企業の不祥事をご覧になっていただくと、ある共通点が浮かび上がる。

それは、いわゆる「日本型資本主義」というものが、「下」に責任とリスクを押し付け、「上」が延命をはかっていくシステムになっていることだ。

例えば、マンションの杭打ち問題など分かりやすい。杭打ち不正は「下」である旭化成子会社が責任をとらされ、「上」である発注元の三井不動産はまるで被害者のような顔をしていた。下請け業者の人たちはクビになったりしたが、三井不動産の経営者が責任をとって辞めました、なんて話は一切聞かない。

なぜこういうことになってしまうのかというと、実はこれも戦時体制の影響だ。

「下に責任とリスクを押し付けるシステム」と決別できる

ご存じのように、先の大戦ではすさまじい数の日本兵が亡くなっており、その数は100万人をゆうに超える。しかし、その無謀とも言える作戦を立案し、指揮していた指導者層は、一定期間の公職追放や、「戦犯」のそしりを受けた以外、先ほども述べたように戦後の日本社会でしれっと新しい人生を謳歌している。

こういう戦時中の指導者層がつくりだした「日本型資本主義」はバブル崩壊を経て、「失われた20年」で完全に敗北をした。しかし、1億人以上という人口と、過去の遺産でなんとなくまだそれが露呈しない状態が続いているだけなのだ。

日本が先進国の中で唯一、経済成長をしていないのがその証左である。

アトキンソン氏の提言どおり、「上」にプレッシャーをかけて、時価総額向上を達成できない経営者をどんどんクビを刎(は)ねていけば、日本型資本主義という病におかされた経営者がどんどん駆逐される。社員や下請けという「下」に責任を押し付けて延命をはかるようなブラック経営者も当然あぶりだされていく。つまり、戦時中の「下に責任とリスクを押し付けるシステム」と決別することになるので、「1人当たり」の生産性もあがっていくのだ。

日本の生産性が先進国で最下位ということを前向きに考えれば、日本は先進国というポジションでありながらまだまだ成長ができる余地があるということだ。

マスコミには「日本はスゴい」「日本は世界一」という自画自賛的な論調が溢れているが、実は最も必要なのは、「日本はまだ先進国になりきれていない」という「謙虚さ」を説くことではないのか。
いまだに、世界第二位の経済大国だった日本を引きづり謙虚さが無くなっている?
戦時中に発明された「下に責任とリスクを押し付けるシステム」
これは・・・・あるかもしれないな・・・・だが、根本原因ではないような気がする。

日本の労働生産性が低い理由がどうも納得出来ない。米国の5割だと?
バブル崩壊から四半世紀、リストラやありとあらゆる無駄を削ぎ落としたら日本社会が、未だに非効率社会だと思えない。我々が、日本は世界一の国だと思い込んでいるから本当に生産性が低いのかどうにもこうにも全く納得出来ない。

労働生産性の計算方法

労働生産性は、以下の計算式で求めることができます。

労働生産性(千円/人)=付加価値(≒限界利益(粗利益))/社員の平均人数

※ここで取り上げている「社員の平均人数」とは、期首と期末の社員の平均人数とします。
国別で労働生産性を比較するのははどうかと言えば・・・
「日本生産性本部」によると、
「労働生産性を国際的に比較するにあたっては、付加価値をベースとする 方式が一般的であり、労働生産性を
 労働生産性  =  GDP / 就業者数
(※GDPは購買力平価(PPP)により換算されたもの)
として計測を行っている。」
日本生産性本部 労働生産性の国際比較PDFより http://www.jpc-net.jp/annual_trend/annual_trend2015_3.pdf
ということで「 労働生産性  =  GDP(購買力平価換算) / 就業者数」です。


なぜ労働生産性が重視されるか?


ではなぜ労働生産性、そしてそれが低いことが問題になるのでしょうか?
それは、生活水準に直結するからではないでしょうか。「労働生産性が低い」と言われると、私なんかはつい、よく考えずに暗黙の前提で、生産性が低いのは悪いことだ!と思い込んでしまうのですが、結局、労働生産性が低いと、GDPが低くなる。なので、労働生産性が低いことがしばしば問題視されるのでしょう。
つまり、
労働生産性  =  GDP / 就業者数
(※GDPは購買力平価(PPP)により換算されたもの)
なので、
↓ 
GDP  =  労働生産性 * 就業者数
(※GDPは購買力平価(PPP)により換算されたもの)
まあ一応こうなります。労働生産性が低いとGDPが低くなりますよね。生産性が高く、同じ生産量を短時間で実現できれば、より多くの消費ができます。生産性の上昇は我々の生活を裕福にします。ではGDPが低いことは問題なのでしょうか?当然生活水準に直結しますから、それは大きな問題だと思います。
GDPとは国内総生産の略です。マンキュー先生の経済学のテキストによると、
国内総生産(GDP)は、一定期間において、一国内で生産されるすべての最終的な財やサービスの市場価値である。
N・グレゴリー・マンキュー「マンキュー経済学Ⅱ マクロ編 (第3版)」p.139
と定義されています。ものすごく簡単にいうと、GDP=その国の経済の大きさ、になるかと思います。GDPの大きさは、その国の豊かさや生活水準をダイレクトに反映するということですね。
ちなみに、2014年の各国の購買力平価GDPは、
日本     4631
アメリカ 17419
中国       18030
イギリス     2524
ドイツ        3689
(10億米ドル)
(総務省統計局 世界の統計 2016 第3章 国民経済計算より http://www.stat.go.jp/data/sekai/pdf/0116.pdf#page=59
と言う感じになっています。アメリカはダントツですね。中国もとても成長しています(数値の信ぴょう性の問題も指摘されていますが)。とはいえ、単純にこのGDPの大きさだけで、一国の経済の良し悪しが全てわかるわけでもありません。様々なデータを参考にしながら経済学者は経済を見ています。例えば、GDPをその国の人口で割った、「一人当たりGDP」などの指標もよく使われます。

OECDが出している労働生産性は、購買力平価換算のGDPを就業者数で割っているから。
「 労働生産性  =  GDP(購買力平価換算) / 就業者数」
となる。

だが、一人当たりのGDPランキングは、購買力平価換算していないGDPを、全人口で割っているから、一人当たりのGDPと労働生産性は結構違う。

1年間に生み出された付加価値である「GDP(国内総生産)」を購買力平価でならして、単純に「就業者」と自己申告している人の数でと割っているに過ぎない。

「就業者」として国が把握している数字だが、失業率が低い国と高い国では失業率に低い国の労働生産性は落ちるに決まっている。対して割られる側のGDPは家計支出は勿論、政府支出、輸入、利子だって含まれてるわけだからなんというか、割と「適当な指標値」なわけです。

政府が財政政策をして支出を増やしてGDPを押し上げれば、労働生産性があがるわけですから、労働生産性の低いと言うことは、国の政府支出が低すぎるからとも言える。

執筆中

土日に書き足します。




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 日銀が金融政策の枠組みを「量」から「金利」へ修正したのは、「現実路線」への転換といえる。1~2年で市場に出回る国債が枯渇する恐れがある中、円高が進んだ場合などに備えて金融機関の収益をできるだけ悪化させずにマイナス金利を深掘りできる態勢を整えた。だが、年80兆円の国債購入量を減らした場合、緩和の縮小と受けとられる恐れもある。

 現在、日銀は発行額の3分の1超の国債を買い占めている。日銀は今回の枠組み修正で、将来的に緩和手段が手詰まりとなるリスクを未然に防ぐことにした。

 さらに「総括的な検証」ではマイナス金利の悪影響も詳しく解説。国債の大量購入とマイナス金利の組み合わせで長い期間の国債利回りが予想を超えて低下してしまい、国債で資金を運用する金融機関の収益が悪化して金融仲介機能を低下させる恐れがあると指摘した。

 日銀には今回、「量」へのこだわりを捨て去ることで、長い期間の国債の買い入れ量を減らして金利を調整し、こうした「副作用」を少なくする狙いもある。

 しかし、市場からは「量的緩和の限界を公に認められず、枠組み変更でごまかした苦肉の策」(証券系エコノミスト)との厳しい見方も出ている。今後も日銀の国債保有残高は増え続けるものの、日銀幹部は、新たに買い入れる国債を年80兆円から少しずつ減らす可能性を認める。

 日銀の黒田東彦総裁は21日の記者会見で、枠組みの修正は「テーパリング(緩和縮小)ではない」と強調した。だが、国債買い入れ量が減れば、市場は緩和縮小とみなし、金利が急変動する懸念は否めない。

 一方、消費者物価指数は5カ月連続で前年割れし、2%の物価目標達成が見通せなくなっているにもかかわらず、日銀は今回、追加緩和カードを温存した。

 米国の利上げや英国の欧州連合(EU)離脱交渉など世界経済の先行きが見えにくくなる中、過度な円高が進んだ場合に備えて次回以降に選択肢を残す道を選んだ形だ。(藤原章裕)
日銀は異次元緩和の「総括的な検証」を行い、9月21日に発表した。
2013年春に、2年で物価を2%上昇を目標に掲げ、異次元金融緩和政策を始めた。大量の国債を購入しても、マイナス金利の導入しても、円安になった分輸入物価が上昇しても物価上昇率も経済成長率も賃金も低迷したままである。

物価を2%上昇するには円安による輸入物価上昇では話になりません。個人消費と設備投資が必要です。個人消費を伸ばすには給料が増え景気をよくする必要があるのですが、企業は設備投資もせず内部留保に走るだけでは日銀の物価上昇は達成できるわけもない。

企業が投資を増やすためには、国が財政投資を行う必要があるが、国は逆に緊縮財政で支出を絞っているのだから、当初のアベノミクスではなくアベコベミックスになってしまっている。

今回の日銀の新政策は・・・
(1)マイナス金利の深堀は、今回は行なわない。
(2)長期金利(10年国債金利)がほぼ0%で推移し続けるよう、長期国債の売買を行なってコントロールする。
(3)株式ETFの買い入れについて、TOPIX型の買い入れ比率を高める(日経平均型は買い入れ比率が低くなる)。

記者会見で黒田日銀総裁は、金融緩和をさらに強化したと説明しても、マイナス金利を止めると言うことは、実質的にテーパリングである。日銀はいったい何を目指しているのか、それどころか何を決めたのかが、正直私にはよくわらかない。

最近、当ブログで金融証券ネタが少なくなってきた。
正直、金融・証券・経済に対する興味が無くなったのではないが、もどかしいのだ。

予想通り、マイナス金利はやるべきではなかった。マイナス金利によって金融機関の収益が悪化し、年金や保険運用を圧迫し、GPIFも運用に失敗だと言われてしまっている。私は間違いではないと思うのだが、目先評価損を出せば素人さん達にそう言われてしまうのも事実である。マイナス金利の国債を漫然と保有し続ける方が無責任だと思う。

Business Journal 2016.04.20

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2016/8/10(水) 午前 4:46 
予想通りの劇薬であったと思う、日本は貸出金利がもともと低く、引き下げ余地が乏しかった。内需も弱いマイナス金利が実体経済に効果をもたらすことはなかった。
金融政策で、デフレは脱却できないことはもはやわかりきったことになっている。

マイナス金利は愚策だった、意味が無いとまでは、言わないが、マイナス金利で円安を狙ったのなら失敗と云わざるを得ない。

デフレがいつまでたっても脱却できないのはアベノミクスが真のアベノミクスになっていないからだ!日本のような経済が成熟した国の成長を考える時は、需要不足をどう解消すべきなのだが、2013年アベノミクスは大型補正予算を組み政府支出という需要を創出して劇的に変化した。

日本では経済循環における需要の注入と漏出を考える必要がある。注入には投資(設備投資や住宅投資など)、政府支出(公共投資を含む)、年金給付、輸出などがある。一方、漏出には貯蓄、税金、社会保険料、輸入などがある。

需要でも注入が漏出より大きければ経済は拡大し、反対に注入が漏出より小さければ経済は停滞に向かって均衡する(マイナス成長)。

13年度のアベノミクスの一年目は、真水で10.5兆円の補正予算に見られるように経済循環において需要の注入が大きかった。また異次元の金融緩和など(金融緩和だけでなく経常収支の赤字)による円安の経済効果もある程度あった。円安の効果としては輸出増・輸入減、株価上昇による所得効果による消費増が考えられる。

14年度のアベノミクスの2年目から一転して財政は緊縮型に大転換した。

補正予算は前年度から5兆円も減額された。これは注入の大幅減少である。また消費税率が5%から8%に引上げられ、8兆円の所得(購買力)が消費者から国・地方自治体に移転した。この8兆円は経済循環からの漏出になる。したがって14年度は注入が5兆円減り、漏出が8兆円増えた。

14年度中に大型の第二次補正予算を組むこともなくなく15年度もそのような気配は全くなかった。これではアベノミクスが頓挫するのも当たり前である。

安倍政権も財政再建派の罠に堕ち、消費税増税を行ってしまったからだ。
消費税増税を行う必要などないどころか、消費税増税は日本のデフレ脱却を妨げる要因である。

デフレを脱却したいのであれば消費税引き下げ、消費税減税である。


9日の東京市場は、欧米市場でのドル安・株安を引き継いでリスクオフ心理が強まり、日経平均は前日比900円超下落。ドル/円は一時、114.20円と2014年11月以来の安値を記録した。そして長期債のマイナス金利はスイスに次いで2例目。

これは、日銀が敢えて導入したマイナス金利が導入したことにより達成させたい円安株高と意図したことと真逆の結果になってしまっている。

マイナス金利だから115円で踏みとどまっているという可能性もなきにしも非ずだが、マイナス金利という劇薬を飲み込んでしまったからには誰も経験したことがない未踏の領域に踏み込んでしまったのだから、我々の想定外の副作用が次々に起きるであろう。

長期金利がマイナスとは、お金の借り手が利息をもらえるという異常事態に突入する。年金や保険などの運用で一段の環境悪化が避けられない状況となってきた。

金利低下で利ザヤが縮小し銀行収益を悪化させるという、マイナス金利政策の負の側面に焦点が当たり、金融株売りにつながっている。投資家がリスク回避姿勢を強め、質への逃避としての円買いが強まっていることも日本株を押し下げている。一般的に株価が急落すれば割安感が意識されるが、足元で通期予想の下方修正が相次ぎ、下値不安は高まる一方だが。回帰トレンドでは明日16000円を割れれば一旦底かもしれない。

ドル/円が一時、心理的節目の115円を割り込んだ。政治的な国際協調があれば安心感も広がるが、今月はG20が中国で開かれる。市場が荒れた場合には協調して対応するなどといった、各国の強い決意が市場に伝わるような声明や要人発言が出やすいのだが、開催は2月後半中国だ、スケジュール的にまだ間がある。   
目先、10日のイエレンFRB議長の議会証言が注目だが、この状況では米国の追加利上げに対して慎重なメッセージを出すしかないだろう。株価が反転しても、米金利は上昇せず、ドルが125円の方向に戻していくのは難しいのではないか?
日本は貸出金利がもともと低く、引き下げ余地が乏しかった。内需も弱いマイナス金利が実体経済に効果をもたらすことはないだろう。円安を狙ってのマイナス金利と思うが、現状まだわからないが、マイナス金利で円高に振れているのだから、日銀の意図とは違う方向に向いているわけなので、マイナス金利は愚策のような気がする。

むしろ、マイナス金利になれば郵貯銀行や金融機関の経営がおかしくなり破綻する可能性とか、マイナス金利による負の効果の方が気になる。

何よりもゼロ金利にもどそうとしたら金融引き締めになってしまうのだ。

私は、マイナス金利の発表を知った瞬間このマイナス金利は直観としてこれは悪手だ!違うだろう!切り札を切るのが早すぎる!目先マーケットは底打ちして自力反発できる、このタイミングではなく、中国経済がもっと悲惨な状況で日本に悪影響が出た時に切るべき札だと・・・・思った。一時600円近く上がったマーケットに強く違和感を感じた。

単純に考えれば、マーケットにプラスだろう。マイナス金利は円安⇒企業業績上昇⇒株高。マイナス金利で国債などで運用している銀行資金が、国債投資から企業融資が増え設備投資、住宅投資が増え景気が上向く。消費者もマイナス金利下では明日まで貯蓄して資産が目減りするより、今すぐ支出しようとするため消費を押し上げるはず。

そんな単純な話ではないことは、小学生ではないのだから誰も信用しない。
第一、銀行は融資したくとも、企業の資金需要があるわけではないのだから、そう簡単に企業融資が増えるわけがない。また、国債利回りと足並みをそろえて投資や年金基金の収益率が低下するため、消費者は不十分な年金を補うため、通常よりも貯蓄を増やさざるを得なくなる可能性がある。高齢化が急速に進む日本において、消費はさらに減り、結果として景気は一段と減速、ソブリン債需要が高まり、中銀による国債買い入れ・紙幣増刷が増え、利息がほとんどつかない証券の需要は一段と増す。悪循環に陥る可能性が高いのではないか!

マイナス金利は、円を調達通貨として他の通貨で運用する円キャリートレードが増えるので円安要因ではあが、現在の世界の金融市場環境は中国経済の崩壊が顕著で明らかにリスクオフ局面だ!この局面で、いくら低金利の通貨であっても、それを売ろうという動きは続きにくい。中国経済崩壊のリスクオフ局面では金利が低くても安全資産の国債を買う動きが助長されるので、マイナス金利の効果はかなり限定的と思う。

以上の私の文章箇所を抜き出したのだが、予想通り円安にならないどころか円高にになる愚策だった。日銀がやっていることは間違いだとは言い切れないが、マーケットは容易に制御できるもいのではない。
永井靖敏大和証券 チーフエコノミスト
[東京 23日] - 日銀は21日、長期金利操作(イールドカーブ・コントロール)と金融緩和の継続期間明確化(オーバーシュート型コミットメント)を柱とした「新しい枠組み」(長短金利操作付き量的・質的金融緩和)を発表した。

会合後の記者会見で黒田東彦日銀総裁は、金融緩和をさらに強化したと説明。同日、米連邦準備理事会(FRB)は連邦公開市場委員会(FOMC)で現状維持を決定し、イエレンFRB議長は記者会見で年内1回の利上げが適切と強調した。

まず、FOMCについては、利上げの可能性を指摘するエコノミストもいたが、あくまでも少数派で、市場の関心は声明文や記者会見に集まっていた。声明文では、「フェデラルファンド(FF)金利引き上げの根拠は強まった」と、利上げに向けて一段と踏み込んだ表現を使っている。同じ表現が8月下旬の米ジャクソンホール会議での講演で用いられていたことから、「サプライズ」とまでは言えないが、イエレン議長のペースで議論が行われた様子が読み取れる。

つまり、声明文は年内利上げを示唆する内容だと筆者は見ている。「世界の経済金融動向を引き続き注意深く監視する」とした記述が残った点は気掛かりだが、「年内利上げの障害」とまでは言えないだろう。

今回は3人のメンバーが利上げを求めて反対票を投じた。3人が反対票を投じたのは、2014年12月以来のこと。2016年末のドットチャート(FOMC参加者が考えるFFレートの適正値)を見ても、6月時点から下方修正されたが、「年内利上げなし」は17人中3人に過ぎない。

<10年債利回り以外の変動幅が拡大する恐れ>

一方、日銀については、追加緩和や枠組み変更の有無について、直前まで見方が分かれる中、「総括的な検証」と同時に、「新しい枠組み」が発表された。黒田総裁は、金融緩和を強化したと説明している。

1つめの柱の「イールドカーブ・コントロール」は、過度なイールドカーブのフラット化を避けることを狙い導入した。「総括的な検証」の中でも、金利の各ゾーンが経済・物価に与える影響を実証分析し、中短期ゾーンの効果が長期ゾーンよりも大きかったとしている(ただし、構造変化で、長期ゾーンの効果は過去に比べると高まっている可能性についても指摘している)。

加えて、過度なフラット化は、金融機能の持続性に対する不安をもたらし、マインド面などを通じて経済活動に悪影響を及ぼす恐れもあるとまとめている。

声明文で、「イールドカーブ・コントロールを、新たな枠組みの中心に据える」とした一方、(長期国債の)「買入れ額については、概ね現状程度の買入れペース」と記載している点が、「新しい枠組み」を分かり難くしている。

確かに、「長期金利」と「量」の両にらみの政策運営を実施することは、不可能ではない。長期国債が一種類しかない世界なら、金利水準と買い入れ額を同時に決定することはできないが、実際には様々な年限が存在する。また、操作の出発点は「10年物国債金利が概ね現状程度(ゼロ%程度)」と現在の水準であり、目標としている水準に幅を持たせている。

だが、不可能ではないとしても、今後イールドカーブをにらみながら、金融政策決定会合で「量」を調整することになるため、問題含みの感は否めない。枠組みの中心は「イールドカーブ・コントロール」としているため、超長期金利が「趣旨」に反する水準まで低下(あるいは上昇)すれば、「量」を調整する必要があるが、その「趣旨」を読み取るのが極めて難しいからである。

金融政策決定会合前の調整の思惑浮上や、予想外の調整を受け、ボラティリティーが高まる恐れがある。10年債利回りについては、日銀の新たな政策運営目標に加わったことで、安定的に推移しようが、その分、他のゾーンの変動幅が拡大する可能性がありそうだ。

なお、「新しい枠組み」では、日銀は、マネタリーベース残高の拡大方針を継続することにコミットしており、長短金利は「操作を行う」だけで、「物価安定の目標」の達成前の引き上げも想定した形式になっている。

ゼロ%という10年債利回りの操作目標水準には、「現状程度」という根拠しかない。理屈の上では、期待インフレ率の上昇により実質金利が低下することで、長短金利の操作目標が過度に緩和的になった場合、「新しい枠組み」を維持したまま、金融政策決定会合で引き上げることができる。

ただし、現実問題として、「物価安定の目標」を「できるだけ早期に実現する」としていること、期待インフレ率を正確に計測することができないことなどから、達成前の引き上げは困難と筆者は考えている。

こうしたリスクが想定されるなか、両にらみの政策運営が採用された背景には、これまでの政策運営を正当化する狙いや、量的緩和の有効性を主張するボードメンバーへの配慮があったと思われる。「総括的な検証」を受け、「量」の政策運営目標を完全に廃止し、「長期金利」に切り替えると、「日銀の量的金融緩和政策は失敗した」という印象を与える。

失敗の印象は、期待に働きかける効果を弱めるため、日銀としては、政策運営の無謬性を強調し続ける必要がある。また、「新しい枠組み」に対して、ボードメンバーの中から多くの反対票が出ると、政策運営の持続性に対する疑念が高まる。

<将来の修正余地がある分、政策効果も小さい>

「新しい枠組み」の2つめの柱の、「オーバーシュート型コミットメント」については、声明文に「消費者物価指数(除く生鮮食品)の前年比上昇率の実績値が安定的に2%を超えるまで」と、金融緩和の継続期間について具体的な条件を明示した。従来は「物価安定の目標を達成するまで」と、曖昧な表現にとどめていた。

黒田総裁は「両者(2つの柱)が相まって緩和を強化した」と説明しているが、筆者は強化されていない(物価上昇にはつながらない)と考えている。まず、「イールドカーブ・コントロール」は、現状のイールドカーブを基準にしている。スティープ化するリスクを抑えることはできたが、「過度なフラット化は望ましくない」というメッセージを市場に出したことで、フラット化する可能性も低下した。

「オーバーシュート型コミットメント」についても、「物価安定の目標」の達成が近づき、市場が金融緩和解除を織り込みつつある局面では、プラスの影響を期待できるが、現時点では全くといっていいほど織り込んでいない。金融緩和解除が見通せない状況で、解除条件を明示しても、人々の行動に影響を与えない。

これまで日銀が金融緩和解除の条件を曖昧にしてきた背景には、出口の波乱を弱めるためだと筆者は考えていた。すでに極めて積極的な金融緩和を実施しているため、ある程度の波乱は避けられないが、物価上昇後、長期金利の水準に何らかのキャップを付けることで、長期金利の急上昇が景気失速を招き、物価下落につながるというシナリオ回避に注力すると予想していた。

「新しい枠組み」のままだと、金融緩和解除までは10年債利回りは現状のゼロ%程度に釘付けされ、コミットメント終了後、急上昇することになりそうだ。当然のことながら、その前に、「さらに新しい枠組み」が作られると思われる。「新しい枠組み」は、将来の修正余地がある分、政策効果も小さいと見た方がよさそうだ。

*永井靖敏氏は、大和証券金融市場調査部のチーフエコノミスト。山一証券経済研究所、日本経済研究センター、大和総研、財務省で経済、市場動向を分析。1986年東京大学教養学部卒。2012年10月より現職。
今回の日銀の決定が追加緩和であって、カネ余りによる国内株高(余剰資金が株式市場に流入)や円安(余剰資金が外貨建て資産に流入)、あるいは景気回復(経済全体が金余りになる)を一段と推し進める、ことにはなりそうもない。

金利については、長期金利はマイナスからゼロへするということは、金利の上昇ですし、資産の買い入れ額を増やすわけでもないので量的緩和でもない。追加緩和というより、実質テーパリング=金融引き締めのように見えるのは私だけではないだろう。
[東京 23日 ロイター] - 日米中銀会合の2大イベントを通過し、ドル/円JPY=EBSに下落圧力がかかっている。日銀は金融政策の新たな枠組みを導入したが、金融緩和余地は大きくないと市場は受け止めている。米連邦公開市場委員会(FOMC)も利上げを見送り、先行きの金利予想を引き下げた。

1ドル100円割れはいったん回避されたものの、心理的節目をめぐる攻防は続きそうだ。

<日銀新スキーム効果に疑問>

日銀が金融政策の新たなスキームを発表した後、ドル/円は、いったんショートカバーが先行し102.79円に上昇した。しかし、持久力に乏しく、21日の市場では、100.30円まで下押し、22日は100.10円と大台割れ寸前までに軟化した。

市場では、今回導入した日銀の新スキームにおいても、追加的な金融緩和は容易ではないとの見方が多い。マイナス金利の深掘りが今後の追加緩和の手段となりそうだが、「先行する欧州中央銀行(ECB)の議論を見ても、金融機関の収益への影響の観点からも、金利の下げ余地は大きくない」と、あおぞら銀行の市場商品部部長、諸我晃氏は指摘している。

ECBのマイナス金利は現在0.4%。日銀はマイナス0.1%であり、ECBの水準まで深堀りするにしても余地は0.3%ポイントしかない。

さらに日銀がマイナス金利を深堀りした場合、そのままなら長期金利も低下する可能性が大きいが、今回決めたように長期金利をゼロ%付近に固定しようとするなら国債購入の量を縮小せざるを得なくなるかもしれない。「事実上のテーパリングと受け止められて嫌気されれば、円買いが強まるおそれもある」(国内金融機関)という。

<米側にも円高リスク材料>

日本が休日だった22日午後、財務省と金融庁、日銀が3者会合を開き、出席した浅川雅嗣財務官が「仮に投機的な動きが続くなら、必要な対応を取らざるを得ない」と発言。為替介入も辞さない姿勢を示したことが伝わると何とか1ドル100円の大台割れは回避された。足元は、欧米株高を受けたリスク選好の円売りにも救われ、100円後半まで値を戻している。

国際的に非難を浴びるかもしれない実弾の為替介入は難しいとの見方が市場でも多いが、「株安や円高が急激に進行すれば、日銀が追加緩和するかもしれない」(邦銀)との警戒感もくすぶる。ドル/円で90─95円、株価1万5000円となれば警戒水位との見立ても聞かれる。

イベントを通過したことで、ドル/円のインプライド・ボラティリティ(予想変動率)は低下しており、「一気にドル安方向に突っ込んでいく様子ではない」(りそな銀行のクライアントマネージャー、武富龍太氏)とみられている。

ただ、米側のドル高・円安材料も大きく後退している。21日の米連邦公開市場委員会(FOMC)では、利上げを見送り、先行きの金利見通しも引き下げられた。金利先物が織り込む12月利上げの見方は依然50%超だが、長期的な米金利の「天井」が低くなる中では、12月に利上げが実施されたとしても、先行きの利上げに期待がつながらなければ、ドル高・円安方向の力は弱いかもしれない。

さらに米国には大統領選挙という円高材料になりかねないリスクイベントが控える。

三菱UFJモルガン・スタンレー証券のチーフ為替ストラテジスト、植野大作氏は「クリントン候補とトランプ候補の支持率が逆転するようなら、あらためて100円割れのリスクがある」と指摘する。26日(日本時間27日午前)の第1回テレビ討論会に注目が集まりそうだ。

(平田紀之 編集:石田仁志)
毎年金融証券関係者には恐怖のオクトーバーサプライズの季節がやって来る。
今年は何だろう?

円がこれだけやっても90円台に突入するのはサプライズにはならない・・・
トランプ大統領誕生も恐ろしいが11月。

このニュースを根拠にドイツ銀行の破綻が噂されています。

確実視されるアメリカの利上げを受け、為替は円安に振れ株価も上昇の動きを見せるなど、ようやく日本にとって好ましい流れとなった観もありますが、「ドル高が欧州の金融危機を招く」と指摘するのはメルマガ『国際戦略コラム有料版』の著者・津田慶治さん。津田さんはその論拠を記した上で、迫り来る欧州金融危機は日本にとって対岸の火事ではないと警鐘を鳴らしています。

欧州金融危機の足音
米国は景気が回復して、利上げの方向であるが、一方、欧州では銀行が破綻する可能性が出てきた。ドイツ最大のドイツ銀行とイタリア3位の銀行モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナと同国1位のウニクレーディト、バンカ・カリージェである。今後、どうなるのであろうか? その検討。

米利上げが確実
イエレンFRB議長とフィッシャーFEB副議長の8月26日の講演会とその後のコメントで、9月利上げの可能性が増したと市場は見て、1ドル=103円まで円安になったが、9月2日の雇用統計は、予想に比べて低かった。しかし、年内の利上げは確実で、9月の可能性もあるということで、1ドル=104円になっている。

米国の景気は上昇しているが、金融緩和を世界で行ったために、歴史的長期金利の低下が進行している。このことで、日本を除く世界は株高になっている。このままにすると、バブルが起きると米国のFRBは心配になり、利上げを志向している。しかし、どうもこれだけではないようである。これは後で説明する。

これにより、円安になり、日本だけは今まで円高に向かい株安のままに放置されたことで、PERが低く他の市場に比べて割安になっている。よって、日本の株価は1万7,500円程度まで上昇する可能性がある。というように、ここまでであれば、日本バンザイであるが、しかし、ドル高になることで問題が出てくる。それは欧州の金融危機である。

9月2日ドイツ銀行のジョン・クライアン最高経営責任者(CEO)は、同行立て直しを1からやり直す。昨年に新戦略を発表したものの、同行の時価総額は半分以下に減ってしまったので、追加の支店の閉鎖や投資を減らすというが、ドイツ銀がコメルツ銀との合併を検討したが、共倒れになると拒否されたようである。それほど、ドイツ銀行は危機的な状態になっているようである。

欧州金融危機
このコラムでも何遍もドイツ銀行が登場したので、覚えていると思うが、世界最大のデリバティブ扱い量であり、石油価格の下落、英国のEU離脱でデリバティブで大損、ソロスの空売りなど、ドイツ銀行の破綻を読んで、ヘッジフォンドは動いている。

最大量の企業倒産保険であるCDSの引受け手であり、このドイツ銀行が破綻すると、CDSも無効になり、他の企業や銀行も連鎖倒産になる可能性が高い。しかし、誰が倒産するか、事前にはわからない。

このため、ドイツ銀行が倒産すると、世界の金融機関は資金が凍結し、流動性不安になる。どの銀行が倒産するか見えないからである。リーマンショックと同じようになる。一番大きな影響を受けるのは、欧州の金融機関であり、イタリアの1位、3位のモンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナとウニクレーディト、バンカ・カリージェであり、現時点でも不良債権が多く、不安定であり、この両行が倒産して、続いて多くの欧州の銀行が破綻する可能性がある。

世界大恐慌がドイツから発生する可能性が高いということになる。

ECBのマイナス金利の深掘りで、ドイツでも預金者から手数料を取る方向になり金庫が売れ始めて、預金を引き出しているようだ。このように銀行から預金がなくなり、銀行安定化のための預金準備率を維持するために、貸出や投資を削る必要があり、銀行の経営を圧迫することになる。

このため、ECBのマイナス金利深掘りが欧州銀行を不安定にしている。

欧州の継続する金融危機
欧州は、なぜ、ギリシャ危機から危機が続いているかというと、景気対策として、財政出動ができない。対GDP比3%以内の財政赤字しか認めないために、財政出動ができないので、一度、景気が悪くなると、通貨調整機能もなく、景気回復が絶望的になり、若者は職を得るためにドイツなどに移民する必要が出てくることになる。

英国はホンドを維持したので、通貨調節機構が働き、EU離脱選挙後、それ以前より景気が良くなっている。ホンドの大幅下落でそうなっている。

EU圏では、ドイツが支配するECBが金利を決めるので、金融政策を自国の事情では変更できない。このため、マイナス金利などというユーロ安にする政策を継続することになる。輸出には有利であるが、輸入には不利である。また、弱い国に対する補助金がないので、この差を埋めることもできない。日本国内を見ると、地方交付税があり、地方の基礎的な環境を維持できているが、これがない。

このような環境であり、EUは脆弱な連合になり、弱小国の経済が回復しないで、度々、金融危機になるのである。反対に、ドイツはバブル状況になる。

このような脆弱な連合で、ECBドラギ総裁はマイナス金利を深掘りして、金融機関を痛めつけて、特にドイツ銀行の立て直しをできなくしているようである。

なぜ、欧州は危機にならなかったのか
危機が継続する環境であったが、危機がなぜ、起きていないのかというと、1つがドイツが危機になると、ギリシャ危機のように追加的に資金を入れていた。2つには、移民を入れて需要を高めていた。3つにマイナス金利でユーロ安にして、貿易量を拡大した。

しかし、この条件が変化する。1については、ドイツが先に金融危機になる。2については、テロ多発で移民を入れなくなったことで、需要拡大はなくなる。3については、マイナス金利の負の面が出て、銀行倒産が起きる。それと銀行倒産時の安全性を担保できる英シティがEUではなくなる。

米国が立ち直った理由
ユーロ圏や日本と違い、なぜ、米国は立ち直ったのかという疑問が出ると思うが、移民が多く生産人口が増加している。ドルが基軸通貨であり、ドルでのビジネスが多く、安定的である。特にドル・リンク地域・国が多いので、為替リスクが少ない。自国市場が大きく、為替で輸入を止めることで市場を取り戻せる。経済が不調であれば、簡単にドル安にできる。基軸通貨国の特権があるので、このようなことができる。そして、米国は、景気回復になってきた。

今後の予測
欧州の金融危機は、ドル高になるので資金がドルに向かう事になる。預金する手数料を取る銀行から、金利が高い米国の銀行に預金を移すはずであり、銀行経営はEUでは難しくなる。

欧州の経済が大きく崩れると、中国の輸出先でもあり、中国経済も崩壊する可能性が出てくる。米国と日本は中国の国際法無視で、厳しく貿易面でも対応するので、輸出量を増やせない。

日本は、米国の景気上昇で、円安になり経済は復活することになるが、中国と欧州経済の動向により、その影響も受ける可能性があるし、米国も影響を受けることになる。

米FRBは、欧州や中国の景気下落時、自国景気も下がると見て、その時に金利の操作ができるように、政策ツールを増やしておくことを今から準備をしてるようにも見えるのである。

とすると、日本の投資家や企業も、円安になり株価は上昇するが、その後、欧州の動向を見る必要がありそうである。

さあ、どうなりますか?

『国際戦略コラム有料版』より一部抜粋 著者/津田慶治
確実視されるアメリカの利上との書き出しからして、曲りや(相場下手)の文章である。直近記事を書いていなかったので、証拠を残していないが、9月利上げは無いと思っていた。利上げは大統領選挙直前である11月もない。やったとしても12月にやるかどうか微妙だろう。


今回は米国の利上げが無く、引き金は引かれなかったが、ドイツ銀行がヤバイことだけは間違いないようだ。ちょtっと怖いものを見たい方は、↓のリンクへ
以上 煽動記事満載のMONY VOICEの記事ですから話半分で読まないと相場を読み間違えますが・・・今回はどうもちょっと気になります。

中国と関係を深めるドイツが今後ますます苦境に立つことは間違いないであろう。
 日銀の黒田東彦(はるひこ)総裁は講演で、マイナス金利の深掘りや量的緩和拡大の可能性について言及した。サプライズ重視から市場との対話重視への路線変更との指摘もあるが、9月の総括的検証を踏まえて、金融政策は変わるのだろうか。

 筆者は、黒田総裁は天の邪鬼(あまのじゃく)だと指摘していた。それは、セオリーからやるべき手段とタイミングがわかっているときにはあえてやらず、意表を突くように政策を打ち出してきたからだ。それは、やるべき時にやらないで、じらす戦法でもあった。

 このやり方は、しばしば優秀な官僚が好む手だ。意表を突く政策を打ち出しアイデアマンとしての力量を見せて尊敬を集めつつ、当たり前の政策のときにはわざとタイミングをずらして相手が恩義を感じるようにする。民間の優秀なビジネスマンでもやりそうなことだ。

 学者は基本的にそういう対応はしない。理論に基づく議論であり、外部からの予測可能性を高める。例えば、有名なテーラー・ルールでは、インフレーションや国内総生産(GDP)といった経済変数に従って政策金利が決まる。具体的には、実際のインフレ率とインフレ目標との乖離(かいり)、実際の実質GDPと潜在GDPの乖離(GDPギャップ)によって、中央銀行が政策金利を決める。

 背景には、望ましい金融政策についての理論がある。こうしたルールに基づき金融政策を行うのが、学者からみた金融政策である。実際のインフレ率や実質GDPは誰にも分かるので、このルールを知っていれば、中央銀行の金融政策は9割方読めることになる。

 オークンの法則によると、実質GDPと失業率の間には負の相関がある(GDPが増えると失業率が下がる)ので、テーラー・ルールは、インフレ率と失業率から望ましい政策金利を導き出すともいえる。さらに、失業率とインフレ率の間で負の相関があることを示したフィリップス曲線を使えば、失業率(またはインフレ率)から金融政策を予測することもできる。

 こうした学者からのアプローチは、マスコミが言う「市場との対話」とは異なるものだ。外部から観測可能な客観的データがあれば、中央銀行の行動を予測できるからだ。

 マスコミや市場関係者が、「中央銀行と市場の対話が必要だ」と言うときには、中央銀行と市場関係者の間で意見交換をすべきだという意味であることが多い。そうした話は、金融政策のフレームワークではまずない。市場関係者はすなわち金融機関関係者であるが、金融政策は失業、GDPなどのマクロ経済に影響を与えるものであって、個々の金融機関の経営問題を考慮する必要はないからだ。

 金融機関としては事前に金融政策を知りたいという要望はあるだろうが、こうした意味で、日銀が市場との対話を重視することは本来あり得ない。

 9月の総括的検証を踏まえて、日銀がどう変わるかといえば、サプライズ重視から、サプライズなしの、じらし戦術になるだけではないだろうか。 (元内閣参事官・嘉悦大教授、高橋洋一)

注目されていた日本銀行の「総括的な検証」と、金融政策の「新しい枠組」が発表された。おおむね予想された通り「2%のインフレ目標」を無期延期し、マネタリーベース(現金供給)という指標を実質的に取り下げる方針転換である。

 ただこの発表は難解な「日銀文学」で書かれており、行間を読まないと意味が分からない。普通のビジネスマンが理解するのは容易ではないと思われるので、ここではその内容をやさしく解説し、それが何を意味するのかを考えてみよう。

黒田総裁の失敗を認めた「総括的な検証」

 まず「総括的な検証」を読んでみよう。これは黒田総裁が就任してから3年半たって初めての総括だが、内容は常識的なものだ。ここでは「2%の『物価安定の目標』は実現できていない」と率直に認め、その原因を次の3つに求めている。

・原油価格の下落
・消費税率引き上げ後の需要の弱さ、
・新興国経済の減速と国際金融市場の不安定な動き

 この説明には無理がある。黒田総裁が最初に狙ったようにマネタリーベースの激増によるフォワード・ルッキングな(将来を見越した)期待形成が実現すれば、こういう要因は無関係だ。国民がみんな「2年後に物価が2%上昇する」と期待していれば、目先のブレは影響しないからだ。

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予想物価上昇率の動向(出所:日銀)

 実際には上の図のように、マネタリーベースの拡大はまったくきかず、予想物価上昇率はずるずると下がって来た。この原因は2013年後半から、円安(ドル高)による輸入インフレが起こったからだ。

 つまり人々の予想は、インフレ率の実績に連動してバックワード・ルッキングに決まるのだ。日銀総裁が何%といったかなんてほとんどの人は知らないので、それをもとにして投資する経営者はいない。

 したがって日銀は「マネタリーベースについては、長期的な増加にコミットする」、つまり短期的な追加緩和はしない。注目されたテーパリング(国債買い入れの減額)については、黒田総裁が記者会見で「将来必要な額はその時々の経済によって上下すると思う」と認めたように、年80兆円という国債の買い入れ額は減るだろう。

 要するに、インフレ目標もマネタリーベース拡大も国債買い入れも失敗した、というほぼ全面的な敗北宣言だ。これは(私も含めて)多くの経済学者が指摘してきたことであり、3年半たってから失敗を認めたのは遅きに失したとはいえ、日本では珍しい。

支離滅裂な「新しい枠組」

 ところがこれを踏まえたはずの「新しい枠組」は分かりにくい。その2つの柱は「イールドカーブ・コントロール」と「オーバーシュート型コミットメント」だが、両方とも意味不明だ。

 まずイールドカーブ・コントロールとは「日本銀行が指定する利回りによる国債買入れ」によって長期金利の利回りをゼロに固定するというものだが、9月20日現在の10年物国債の名目金利はマイナス0.07%だ。

 つまり長期金利ゼロというのはゼロ以下に下がらないようにするのだから、金融引き締めになる。これは金融政策としては理解できないが、日銀のマイナス金利政策で収益に大きな影響が出ている銀行業界への配慮だろう。

「オーバーシュート」に至っては、まったくナンセンスだ。「総括的な検証」でフォーワード・ルッキングな期待形成が不可能だと認めたのに、2%を「2%を超えるまで」と変えても不可能が可能になるはずがない。

 このように「総括的な検証」が客観的事実を認めているのに「新しい枠組」が支離滅裂なのは、データを検証した日銀の事務方と枠組を決めた黒田総裁との間に意見の対立があったことをうかがわせる。

「日本橋」で何が起こっているのか

 では日銀で何が起こっているのだろうか。黒田総裁になって日銀の事務方もリフレ派になったと誤解する向きもあるが、企画局の主流派は白川前総裁の時代とほとんど変わらないので、彼らは面従腹背だ。

 マネタリーベースの拡大で物価が上がると信じている幹部はいない。それが不可能であることは、福井総裁の時代に確認ずみだからである。以下は想像だが、彼らの会話はこんな感じだったのではないか。

日銀企画局の幹部(以下「日銀」) 総裁、総括的な検証によると、インフレ目標も量的緩和もマイナス金利も失敗だったという結論が出ました。
黒田 それは困るな。1つぐらいうまく行ったものはないのか。
日銀 円安はききましたが、これはマネタリーベースと無関係です。為替にきいたのは実質金利の低下ですが、これは実体経済がよくないからです。
黒田 それじゃかっこ悪いから、「金利コントロールに切り替える」ということにしよう。これならFRB(米連邦準備制度理事会)と同じだろ?
日銀 いや、あれは短期金利です。うちはもうマイナスにコントロールしてますよ。
黒田 じゃ長期金利もコントロールすればいいじゃないか。
日銀 それじゃ昔の規制金利の時代に戻ってしまいます。国家社会主義ですよ。
黒田 うるさいな。アベノミクスは国家社会主義なんだよ。


 そんなわけで矛盾だらけの文書が発表されたわけだが、ともかくも撤退に舵を切ったのはいいことだ。日本の官僚機構には、帝国陸軍の昔から「進むを知って退くを知らず」という伝統があるので、今回のように官僚機構みずから方向転換するのは珍しい。

 これは日銀が霞が関ではなく、日本橋にあることも影響していると思われる。霞が関では、ある省の決定が他省庁に影響する場合は合議(あいぎ)と呼ばれる各省折衝で関係各省すべての合意を得ないと閣議決定できないが、日銀は合議に入っていない。

 このため白川前総裁が安倍首相のバッシングを受けたときも霞が関は守ってくれなかったが、日銀の独立性は高い。黒田総裁としては不本意だったと思うが、彼が決めれば「Uターン」して玉砕を避けることができるのだ。

 しかし難しいのは、これからの退却戦だ。330兆円以上に積み上がった国債を日銀が売ることは不可能なので、安倍政権が財政を健全化し、金利の急上昇(国債の暴落)を防ぐことが大事だ。これからは政府と日銀の「総力戦」になる。








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第4章においてGDP600兆円という目標は正しいのかと著者はアベノミクスを批判をしていないが評価していない。

いまの日本の経済は、少子高齢化の人口動態の実勢をみればアベノミクスが掲げる二%成長するのはとてっもなく難しい。そもそもGDPは人口動態に大きく左右される指標である。

アベノミクスのもう一つの難点は1200兆円の借金を財政再建しようということだ。
1200兆円の借金を年間6兆赤字を減らしても焼け石に水である。

ここからはDdogの意見であって本書とは異なる。これから人口が減る時期に借金を返そうとするということは、無駄な努力で国民を不幸にするだけで意味が無い。
人口動態が増加に向かうようになってから、はじめて財政再建にとりかかるべきだと思う。

新規政府投資を例えば3人目の新生児を産んだ夫婦に1000万円を与えるなど、教育投資にもっと補助金を出すべきだ。小泉の例えた米百俵ではないが、社会人にも学習機会を与え日本の知的レベルをさらに上げ科学技術水準を引き上げ、人口動態が増加に向かうようになってから、はじめて財政再建にとりかかるべきだと思う。

GDP六〇〇兆円は見事なキャッチフレーズ
これまでGDPに入れたなかった研究開発費を加えることができる。
P158-159
 どこの国もこれで、研究開発支出分だけGDPが大きくなる。アメリカやフランスはすでに、この改訂したベースで新GDPの数字を発表し、その際、過去に遡って統計を改訂している。
 日本のGDP統計が新しいベースに改訂されるのは二〇一六年七~九月の確報発表からだが、その時点でGDPの金額に研究開発支出が上乗せされる。改計時のGDP上乗せ分は、約三%という報道がある。

 だがそれ以外に、政府は政府投資による研究開発費を増やし、官民合わせた国全体の研究開発支出のGDP比を四%に引き上げることを決めている。これは安倍政権のGDP目標達成にとっては、好都合な統計改訂と政府支出増加といえるだろう。

 日本の研究開発支出は、二〇一一年にGDP比三・六七%たった。研究開発の大部分は民間企業が行なっているので、研究開発投資総額に占める政府による投資の比率は二割(二九・五%)。政府による研究開発投資額の対GDP比率は〇・七三%に過ぎなかった。政府は二〇一六年以降、政府による研究開発投資を増やし、政府による研究開発投資のGDP比を1%に引き上げることを決めた。

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 日本の研究開発支出は、二〇一五年時点では官民八日わせて約一一〇兆円、GDPの約四%だ。アペノミクスニ期目の出発点である二〇一五年の名目GDPは、統計改訂後、五二〇兆円になる。五二〇兆円を毎年三%成長させていくと、図表4-4の右側の数字のように、二〇二〇年にはGDPが五九九兆七〇〇〇億円で、安倍首相が唱える六〇〇兆円とほぼ同じになる。

 しかし、計算上はそうみえても、五二〇兆円を五年間で六〇〇兆円に増やすのは依然として、至難の業だ。五年間で八〇兆円増額することが必要になるが、それには毎年、平均してGDPを一六兆円増やさなければならない。IMFの推計では〇・五九%しか成長しなかった二〇一五年中のGDP増加額は、コー兆二〇〇〇億円たった。先に述べたように、日本の潜在成長率は〇・五%程度という見方をする経済学者が多い。二〇一五年の〇・五九%成長は、日本経済の実勢をほぼ反映する数字であり、二〇一五年だけがとくに不況で成長率が低かったわけでもない。

 もともと達成できるはずがなかった成長率目標をやめ、六〇〇兆円という切りのいい数字に切り替えたのは、見事なキャッチフレーズづくりといえるだろう。しかし安倍首相が「強い経済」の象徴として重視する六〇〇兆円経済の実現がほんとうにできるかといえば、困難といわざるをえないのだ。

安倍晋三首相がアベノミクス「新3本の矢」の目標の一つに「国内総生産(GDP)600兆円」を掲げた。2020年ごろまでに今から100兆円も上積みできるとの意気込みに、懐疑的な声も出たが、意外と実現は遠くないかもしれない。からくりは内閣府が16年末に予定するGDPの推計方法の見直しだ。                 
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経済規模を示すGDPは国連の「国民経済計算(SNA)」を基準に推計する。国連は08年、その基準を見直した。すでに米国、欧州連合(EU)、オーストラリアなどは新基準に移行した。

 13年に新基準に対応した米国では、02~12年のGDPが3.0~3.6%増えた。日本も新基準の導入で「3%半ば前後」(内閣府)のGDPの増加が見込める。15年度の名目GDPの見込みは現行基準で504兆円。新基準では約20兆円かさ上げされる可能性がある。

 GDPの押し上げに影響が大きいのは研究開発費の算入だ。現在は付加価値を生まない「経費」として扱い、GDPの計算時には除外してきた。

 例えば自動車メーカーが国内で生産・販売したハイブリッド車は最終製品としてGDPに含めるが、車に搭載する小型エンジンの開発費はGDPから除いてきた。新基準では付加価値を生む「投資」と見なし、GDPに加算する。

 「名目3%で成長していけば十分到達可能だ」。安倍首相は9月末にこう語った。確かに新基準を使えば目標への道筋は見えやすくなる。

 内閣府によると、現行基準なら3%の名目成長率が続いても名目GDPが600兆円を超すのは21年度(616兆円)。新基準で15年度のGDPを20兆円上積みすれば、20年度に615兆円を上回る。GDPの水準は基礎統計の精度にも左右される。麻生太郎財務相は16日の経済財政諮問会議で一部指標は調査サンプルの偏りで実態以上に悪いと指摘し、基礎統計の精度向上を提案した。

 GDPのかさ上げは政府の財政健全化計画にも影響する。財政赤字の額が同じでもGDPに対する比率は下がるからだ。

 政策経費を税収でまかなえるかを示す国と地方の基礎的財政収支は15年度にGDP比3%の赤字を見込む。政府はこれを18年度に1%に縮める方針だ。新基準で名目3%の成長が続く前提で試算すると、18年度の赤字比率は1.6%と現行基準より0.1ポイント下がる。

 手品のような話だが、これで目標達成と安心するのは早い。前提となる名目3%成長の想定は非現実的だとの批判がエコノミストに多い。日銀によると日本の潜在成長率は0%台前半から半ば。BNPパリバ証券の河野龍太郎氏は「労働力不足を補う移民受け入れ拡大など抜本的な成長戦略がないと高成長は実現しない」と見る。

 成長が加速しなければ、税収の大きな伸びも見込めない。第一生命経済研究所の星野卓也氏は「新基準に切り替えても、20年度までに基礎的財政収支を黒字にする最終目標の達成はなお遠い」と指摘。「歳出削減が不可欠なことは変わらない」と強調する。(川手伊織、藤川衛)


私は安倍政権は民主党政権よりはるかに頑張っていると思う。
例えば政府が行っている出生率の引き上げ政策である。子育て支援と教育再生は機能している、出生率は、2015年は1.46に上昇した。 
p162 
子育て支援策は、結婚・出産・子育ての各段階に応じて切れ目のない総合的な支援を行なうことになっており、幼児教育無償化拡大、一人親家庭の支援などとともに、三世代同居・近居の促進」という政策が掲げられている。

祖父母が近くに住んでいて、就学中の孫の面倒をみてくれれば、若夫婦はより長い時間を就労に割けるので、子育てと就労がしやすくなる。それが出生率向上につながる、という考え方だ。

 教育再生策については、奨学金拡充などで、家庭の経済事情が苦しくても希望する教育を受けられるようにすることを主眼にしている。

 こうした政策はそれなりの成果を上げると思われるが、安倍内閣の政策は出生率引き上げに必要な、重要な二つのポイントを見逃しているように思われる。それは広い住居の提供公的教育の拡充である。
我が家は、子供は一人である、SAPIXに通わせ、中学からは大学までエスカレーターで行ける女子高だ。だが年間授業料100万円その他に通学や修学旅行だなんだかんだで、とても二人子供がいたら同じことをしてあげられない。

授業料がタダの公立高校から東大にでも入ってくれれば親孝行なのだが、私の血を引く娘に高望みはできない。(笑)


執筆中

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日本は、GNPの3位ではるが日本が不幸だと肯定したがる人達がいる。ロハス系の人たちに多いのだが、そこで使われる根拠が世界幸福度ランキングである。
世界幸福度ランキング2015では53位だった。下のグラフでは一番下。

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確かに日本は世界一幸せとは言わないが、いくらなんでも53位だというこの世界ランキングも疑問に思う。

私以外にも当然幸福度ランキングを疑問に思う人もいる。
国連版「幸福度」は、「キャントリルの梯子の質問(the Cantril ladder question)」によって回答者の「主観的幸福度(subjective happiness)」を測定し、国ごとにその平均を算出したものです。また、「キャントリルの梯子の質問」は、「ありうる最悪の人生」を梯子の0段目、「ありうる最高の人生」を梯子の10段目としたときに、「現在」自分が何段目にいるのかを回答してもらうための質問なのです。

国連版「幸福度」が複数のパラメーターから算出されているものと勘違いしてしまう人が多いのは、報告書の中で、(1)経済水準(一人当たりGDP)、(2)社会的支援、(3)健康寿命、(4)人生選択の自由、(5)寛容さ、(6)腐敗認知度の6つのパラメーターを説明変数として回帰分析を行っているためでしょう。

6つのパラメーターから「幸福度」を算出したのではなく、アンケート結果から各国の「幸福度」を算出した上で、6つのパラメーターを説明変数として用いた数式によって、その「幸福度」をどうにか推計しようとしたわけです。

また、報告書では、「キャントリルの梯子の質問」に対する回答の標準偏差を「幸福度の平等さ」と定義し、比較しています。標準偏差は、データの散らばりを表す統計指標です。

そのパラメーターを調べていくと、国際統計格付センターの資料で、日本のどこが悪いのか分析した表がある。

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この表を見て思うのだが、日本は確かに老人が多い。その為に幸福度ランキングの足を引っ張っているようだ。老人が多いことがそんなに不幸なのか?交通事故に占める自転車の割合が多いことが不幸なのか・・・・自転車が単に世界的に見ても最も普及しているから多くなるのは必然だが、自転車が多いことは不幸なのか?
日本は幸せではない叫ぶ人たちが使う、世界幸福度ランキングは、けっして客観的な指標でもないことがわかる。

真面目な日本人は悲観的に考えやすく、危機感をバネに国を発展させてきた国であるので、自己採点で幸せか否かをヒアリングで順位づけすれば、世界幸福度ランキングの下位に低迷するのは当然の結果なのかもしれない。

そこで、超GDP指標も一つの物差しに使ってみるのも悪くない。


超GDPの指標とは?
P50-51
 GDPによる生産高の統計よりも、個人の暮らしを強調すべきである、「暮らしの質」の計測は伝統的なGDP計算に取って代わるものではなく、政策討論を豊かにするために行なうべきもの、などだ。

 また「暮らしの質」を測る単一の指数をつくることにも『スティグリッツ報告』は否定的である。「暮らしの質」に関する諸指標はそれぞれ別の分野を対象にしているので、GDP統計のように金額の合計を出して、一つの数字指標にすることなど不可能だからだ。
 では、そこで述べられた「暮らしの質」とはいったい何か。それは、

 ①個人的な満足度 主観的な「暮らしの質」
 ②人が果している諸機能と、諸機能を果たせる能力(客観的な「暮らしの質」)
 ③経済的な幸福度の公正な割り当て(fair allocation)


 という三つの分野で計測される。①の個人的な満足度は、文字通り、個人の感じ方に属する部分が多い。人によって何に幸福を感じるかは異なるので、このテーマに『スティグリッツ報告』は深入りしていない。「さらに統計資料の整備が望まれる」と述べるに留めている。
一方、②の客観的な「暮らしの質」の分析には最も力を入れ、それを八分野に分けて論じている。以下、それぞれの分野について、順を追ってみていこう。
  客観的な「暮らしの質」を八分野に分けて論じる
「暮らしの質」8分野
 1. 健康 健康の重要な指標は、平均寿命と罹病率である。
 2. 教育 教育がもたらす利益は多様で大きい
 3..個人的諸活動 ①賃金労働の時間と質、②無報酬の家庭内労働、③通勤時    間、④余暇時間、⑤住宅状況、の五つの分野である。
 4.政治への発言と統治
  GDPの成長率だけは高くても、言論・結社の自由がなく、ウェブでのデー・夕検   索さえ制限している国があることを念頭に置きながらこの報告を書いている。
  たとえば2015年7月、中国政府は人権派弁護士や活動家を100人超、いっせい   に拘束した。その年の九月に予定されていた習近平国家主席の訪米に備え、   アメリカを刺激するような言動をしかねない人物を捕らえ、おとなしくさせておく   ためだったと報道されている。
  こうした人権蹂躙事件はGDP統計には表れないが、国民の幸福度を大きく減   退させる。
 5. 社会的なつながり  ①主として国民の知的水準向上、②属する集団内の信   頼関係の高まり、この二要因で生じる経済発展を、経済学では「全要素生産性   の向上」と呼ぶ。
 6. 環境条件
 7. 個人の身の安全
  福利厚生増大のためにはヽまず個人の安全を確保することが重要な政策課題  だ。
 8. 経済的な不安定
  失業するという恐れもまた「慕らしの質」を低下させる重要な要素となる。
 
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 新統計が教えてくれる日本経済の凄まじい実力
p65-71
 ここからは具体的な新統計の四資本の中身と、その指標を当てはめたときにみえてくる日本のほんとうの実力を紹介していこう。ちなみにこの新統計は、生産高合計を計算する古いGDP統計とはいちおう別のものだが、図表2-2のように、四資本のうち、生産した資本と天然資本が生産活動に直接関わっているので、図の右半分にあるGDPの世界とも、矢印のようにつながっている。

 ①人的資本

 人が生産活動に従事するためには、その人が与えられた課題を理解し、それに基づいて必要な肉体労働や頭脳労働ができる能力を備えていることが前提になる。こうした能力は幼少時から大人になるまでに行なわれた、人的資本への投資の成果である。

 経済活動は、ただ労働者の数だけ集めればできるというものではない。
 長年、政府や家族、あるいは本人による人的資本への投資が行なわれた結果として、一人の労働力が成り立っているのだ。人的資本への投資が経済活動の出発点である。そして、人的資本への投資の最たるものが、『スティグリッツ報告』でも強調された「教育」だ。

 ダスグプターチームは、教育年数と教育を受けた人の数、並びに卒業後、就労しながら受けた訓練年数に基づいて、この人的資本を算出している。一国の人的資本残高を式で示すと、以下のようになる。

 人的資本=(教育年数十訓練年数)×教育を受けた人の数×平均賃金の現在価値

 日本の高校卒業率は九〇%を超えており、大学、短大、高専などの卒業率は合計五六%である。 

一方、EUは二〇一一〇年までに大卒率をいまの三〇%から四〇%に引き上げることを、成長率に代わる目標としている。アメリカの大学進学率は五一%だが、大学人学者のなかで卒業できた大の比率は五三%だから、正式な四年大卒率は二七%ほどだ。アメリカの大学は一年間に取得すべき単位がとれていないと留年はなく、ただちにその年で退学となる。このため、入学者の半分くらいしか卒業できない。

 国連新統計で日本の一人当たり人的資本は三コー四億ドルと、二位のアメリカ(二九一四億ドル)より約四%高い水準で、世界一位である。学力の実態はともかく(この点については第5章で論じよう)、修学年数でみるかぎり、日本の教育水準は高いといえるだろう。

 ②生産した資本

 人的資本投資の結果、成立した労働力が生産設備を使って生産活動を行なう。この生産設備も、これまでに行なわれた設備に対する投資の成果であり、国連新統計でいう「生産した資本」の残存額である。これまでに生産された資本の残存高が大きく、その質が高いと、労働者(人的資本の体現者)は、大量に高品質の生産を行なうことができる。

 日本企業は一九五七年以来、五十年近くにわたってGDP比約一五%という、先進国では最も高い水準の設備投資を続けてきた。政府もかなり最近までGDP比七%という高水準の公共事業を行なってきた。生産した資本(企業設備や道路港湾などの資本設備)の残存価格が、国連の新統計では、一人当たり一一八二ドルと世界最高の水準を示しているのも頷ずける。

 ③社会関係資本

 社会関係資本は、先にも述べた「ソーシヤル・キャピタル」と呼ばれる資本である。それは人と人とのつながりであり、信頼関係である。

 天涯孤独、誰ともつながりをもたないで、社会に有益な仕事をしている人などいない。人となんらかのつながりがあって初めて、人間は働くことに目標をもち、仕事にやりがいを見出せる。社会関係資本の最小単位はもちろん、家族である。家族の信頼と愛情のもとで人は生まれ、成長し、労働力として形成される。家族の次に学校、職場、あるいは所属する非営利組織、趣味の団体、町内会、宗教団体などが、人を支える社会関係資本である。

 『スティグリッツ報告』ではこれをつながり(コネクテッドネス)と呼んで重視している。

人と人とのつながりが強いか弱いかは個人の生産性を左右するし、治安や社会の安定性とも関連する。したがって、国全体の生産活動を良好な状態で維持するためには、社会関係資本を高くし、高水準を維持していyくことが不可欠になる。

 そうはいっても、社会関係資本を数値化する標準的な統計はまだできていない。カナダやイギリスなど、国勢調査の際に国民のあいだの信頼度や主観的な幸福度を聞くことから始めている国もある。先にも述べたように、四資本のうち、これは国連のレポートに数値として反映されていない唯一の資本である。

 ④天然資本

 日本では天然資本というよりも天然資源という言葉がよく使われる。天然資源も天然資本も基本的には同じものだが、国連新統計は四資本が経済を発展させていると考え、他の三資本(人的資本=ヒューマン・キャピタル、生産した資本=プロデュースド・キャピタル、社会関係資本~ソーシャル・キャピタル)と同様、天然資本(ナチュラル・キャピタル)という言葉を使っている。このため、日本語では馴染みが薄いが、本書では天然資本という言葉を使おう。

 日本で天然資本というと、石油や鉄鉱石などの地下資源を思い浮かべる人が多いだろう。

国連新統計では、それらの資源のほかに、生産に役立つように人が手を加えた自然も「天然資本」として扱っている。したがって、水田、牧草地、将来木材として出荷することを目標に植林した森林なども天然資本に入る。

 このため、日本の天然資本総額は、一九九〇年の五五一六億ドルから二〇〇八年には六一七四億六三〇〇万ドルと増加している。二〇〇八年における日本の天然資本総額が、サウジアラビアの二兆七〇〇五億ドル、あるいはロシアの六兆八五六五億ドルよりはるかに少ないことは事実だが、植林や農地造成を行なっているので、日本の天然資本総額が減少しつづけているわけではない。天然資本総額が増えることは、将来の経済発展の持続力が高まることを意味している。

 逆に、もっている天然資本の水準は高いものの、石油や天然ガスを掘って、減少した天然資本の補填をしていないベネズエラ、クウェートなどの国々は、毎年、経済発展の持続可能度を弱める経済活動をしていることになる。日本を含むほとんどの先進国は熱心に植林をしているので、森林資源が増え、天然資本の残高が増加中だ。その意味では日本は、ただ資源がないだけの「もたざる国」ではなく、発展の持続可能度を毎年高めている国といえるだろう。

 国連の委託を受けたダスグプタ・チームは以上のような概念で統計を作成し、一人当たりの総合的な豊かさを国ごとに計算し、一人当たりの総合的な豊かさの順位づけを行なった(図表2-3)。この数字は一人当たりの数字なので、前章で挙げたGDPによる国別ランキングと比較すると、その違いが如実に理解できるだろう。
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 ドライスデール教授が驚愕した日本の「社会関係資本」
p76-82
 こうした国連新統計の特殊な性格によって、二〇一四年版では日本の持続可能な発展力が低めに出てしまった。同時に、日本で起きている変化が、日本の人的資本残高に対する低評価を招いている側面もある。

 日本では、就業者数が一九九七年の六五五七万人をピークに減少傾向にある。さらに驚くべきことに、賃金もこの二十年間で、増えるどころか、一%減っているのだ。要するに、長期のデフレで賃金が低下し、人口が減っている日本の人的資本力の伸びは低く計算されるしかない。高水準だった人的資本の残高を食いつぶして経済活動を維持している日本の姿が、二〇一四年の新統計には表れた。数字を挙げれば、日本の場合、先の①(教育年数の伸び率)は、二十年間で一五%、②(平均教育水準に達した人数の伸び率)は、同期間で七%、③二人の労働者が生涯を通じて受け取る賃金の現在価値)は、マイナス一〇%であった。

 しかし、これだけで「日本はダメだ」と悲観してしまうのは大間違いである。日本の一人当たりの総合的な豊かさ(三資本の資産残高)はこの二十年間(一九九〇~二○一〇年)で確実に伸びている。金額では、三六一二億三四〇〇万ドルが四三二二億三六〇〇万ドルヘと、約二〇%も増加しているのだ。

 図表2-6のように、二十年間で二〇%の一人当たり資産残高増加という日本の業績は、GDPの伸び率よりもはるかに高い。同じ二十年間で一人当たり名目GDPはわずか三・五%しか増えていない。一人当たり実質GDPでも二十年間の伸び率はフハ・五%である。戦後の高等教育と長期雇用で蓄積してきた人的資本の水準が高いので、毎年のGDP成長率に期待はできなくとも、経済発展を持続する力が強いのだ。

 さらに重要なことは、日本の社会関係資本の水準である。先にも述べたように二〇一四年版でも、新統計は社会関係資本の統計をつくっていない。

 社会関係資本は、人と人との信頼関係の高さ、協調行動がとられる度合、投票率、治安、教育、健康、人々が抱く幸福感など、多くの指標から判断する。ウェブ上でみると、すでにイギリス、フランス、イタリア、カナダ、オーストラリアが、自国の社会関係資本の水準を発表しており、グーグルで検索すると、「ソーシャル・キャピタル」に関連する項目は、一三一万件にも上る。

このように社会関係資本の計測は進み、議論も深まっているが、計測方法や国民に聞く設問は各国ごとにまちまちで、国際比較可能な状態にはまだない。日本では内閣府経済社会研究所が社会関係資本に関する調査報告書を出しているが、体系的な統計シリーズを出すには至っていない。

 しかし将来、国連が社会関係資本に関する報告書を出せば、日本は社会関係資本の水準でも世界一位ではないか、と思うことがある。オーストラリア国立大学のピーター・ドライスデール教授(経済学)は、日本とアジア経済に造詣が深く、毎週「東アジアフォーラム」という題の、各国の識者から集めた三ページほどの論文集をネット上で公開している。ドライスデール教授は東日本大震災のあと、「東京での個人的なお話」と題し、次のような文章をそこに載せた。

二〇一一年四月、私は日本へ、IMFの関係でそうとう過密なスケジュールが組まれた調査旅行に行った。日本中のあちこちを飛び回った。ある夕方、東京に戻るため東急東横線に乗り、中目黒で地下鉄日比谷線に急いで乗り換えた途端、いま向かい側のプラットフォームから出発しつつある電車の網棚の上に、私のコンピュータ(それはわが命だった。充分なバックアップをとっていないあらゆるファイルがそこに入っていた。それに、パソコンの横ポケットには財布まで入れてあった!)を忘れてしまったことに気がついた。

私は忘れ物をしたことを(忘れ物をした電車とは別の会社の別の路線の駅である)六本木駅で駅長に伝えた。駅長は私の名前と連絡先を書き取り、「何かみつけられたら電話をする」といった。二時間後、電話がかかってきた。その間、電車は東京へ行ったあと横浜へ戻っていたが、私のコンピュータは完全に無傷で返ってきた。「横浜へすぐとりに来るか、あるいは翌朝ならあなたのもとへ届けられる」とのことだった。

ほかにもドライスデール教授は、都内のタクシー運転手が道を間違えたので、正規ルートを走った場合よりも高い料金がメーターに出てしまったときのことを書いている。タクシーにはGPSがついていなかった。運転手は「道を知っているべきなのに知らなかったから私か悪い」といって、ドライスデール教授かいくらお願いしても、一円も受け取ろうとはしなかった、というのだ。

 こうした経験についてドライスデール教授は「東京以外のニューヨークやメルボルンでこんなことが想像できるだろうか。私はこんな話をもっとできるが、いまそのうちの二つを話しただけだ」と書いている。「皆さん、これが(震災からの復興に取り組む一筆者注)日本の社会関係資本なのだ」(ドライスデール氏の原語はsocial infrastructure)。これこそが、日本の社会関係資本に関する彼の結論である。

 こうした社会関係資本の水準が国連統計に正しく反映されれば、日本は人的資本や生産した資本だけではなく、社会関係資本の水準でも、きわめて高い数値が出せるにちがいない。

  指標を変えるだけで、目の前には違う景色が広がる

 こうした結果をみるほどに、いかに私たちがGDPという観念に意識せずに囚われているか、指標を変えるだけで、目の前には新しい景色が広がることをあらためて、理解できるだろう。国連報告書の共著者であるアナンサ・ドゥライアッパ氏は、二〇一二年の第一回報告書発表以降、GDP偏重を改善する動きがあるとはいえ、まだ不十分であると、二〇一四年版の報告書で次のように指摘している。

先進国でも途上国でも依然GDPが政策の企画、実施および評価において支配的役割を果たしている。しかしGDPでは経済成長が持続可能なのか、総合的な発展なのかがわからない。いま成長を引き起こしている諸活動は五年先も、五十年先も続けられるのか、わかりえない。

 フランスの経済学者トマーピケティが著し、世界的な反響を巻き起こした『21世紀の資本』(みすず書房)が明らかにしたように、資本から生まれる利益額の伸び率が経済成長率より高いかぎり、貧富の格差は拡大しっづける。格差が無限に拡大すると、極端な需要不足で経済システムは崩壊する。しかしGDP統計では経済成長が「多くの人々を犠牲にして、ごく少数の人々を豊かにするかたちで起きているのかがわからない」とそこでドゥライアッパ氏は述べるのだ。

 つまり、GDPでは個人の幸福度だけではなく、国全体の経済成長の持続可能度も測れないのである。

高い「人的資本」の水準、企業の設備投資や公共投資に支えられた高い「生産した資本」の残高、森林と農地を中心とした比較的高い「天然資本」の存在。最新の報告書では統計の取り方が変更されたが、人的資本、生産した資本、天然資本の残高でみる豊かさでは、日本は依然、実質世界一位であるといえなくない。それに「社会関係資本」の水準が加味されれば、なおのことだろう。

 こうした強みを自覚し、日本は三資本の残高をさらに増やしていかねばならない。そして同時に刮目しなければならないのは、世界各国はすでにGDPという数字を掲げつつ、明らかに「人々を幸せにする経済」の実現へと、舵を切りつつあるのである。
確かに目から鱗が落ちる話である。

GDPという概念はで、その国の豊かさを計れない。世界幸福ランキングも怪しい・・・
超GDP指標を新たな指標として国家戦略の指針とするのも悪くは無い。



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【今回取り上げる書籍】
『資本主義に希望はある―――私たちが直視すべき14の課題』(ダイヤモンド社/フィリップ・コトラー)

山本一郎です。マーケットに依存した人生を送っています。

ところで、最近「とっつきやすくてわかりやすい洋書の翻訳」はとても流行しているようで、『HARD THINGS』や『WORK RULES!』などはその典型と思います。面白いですからね、読んでて。

一方で、専門家が唸るような本も定期的に出ており、一時期流行したピケティ本だけでなく、『異文化理解力』や『企業としての国家』といった、一般の読者が身近な生活に役立てようにもかなり努力の要るレベルの教養系良本もちらほら見るようになりました。

今回取り上げるのは、『資本主義に希望はある』であります。いわゆる「フィリップ・コトラー」本であり、もともとこの人の言うことはそれなりに難解なので、その母流にある彼の著書をある程度読みこなせないと、この本もなかなかすんなり理解することはむつかしいでしょう。

同時期に刊行された『希望の資本論―――私たちは資本主義の限界にどう向き合うか』(朝日新聞出版/池上彰、佐藤優)と比べ読みするよりは、むしろ経営学の古典に類する『小倉昌男 経営学』(日経BP社/小倉昌男)のような、市場とかかわりを持つ経営の視点や、組織を環境にどう適合させるのかといった方面の話に親和性のある内容になっているのが本書です。

社会の働きがより合理的になるために


で、本書では14の課題となっていますけれども、具体的にどういう課題であり、どうすれば立ち向かえるのか、解決の道筋が見えるのかといった部分はそれほど明確には書き記されていません。価値を規定するマーケティングは資本主義の根底を成す概念なんだよ、と言われ、そのマーケティングへのかかわりをさまざまなパラメータや概念に置換して分析していく手法と解説は圧巻なのですが、例えば市場の失敗をカバーするために社会的費用を誰がどう負担するのかというのは、資本主義を担うマーケティングをいくら突き詰めても結論の出ようのないことです。

うまくいったモデルは合理的であるがゆえに拡大していく一方、劣後となり敗れ去った側の処理を資本主義に委ねたときにどうなるかや、所得格差、教育の機会といった、資本主義で本来扱うことのできない社会的諸問題に対してどのように適切な方法でアプローチしていくのか思案しなければならない時代に差し掛かりました。それは政治の機能の重要さという面だけでなく、人々と向き合う社会の働きが、より合理的になるためには政治そのものもマーケティングを必要とするというぐるぐる感があるわけで。

際どいことを言えば、私たちが「問題だ」「解決しなければ」と思っている貧困問題も、その広さと深さは相当なものであり、直接のコミットで解決できる貧困はごくわずかである以上、なんらかの「広い貧困問題といえども、ここは優先順位を上げて解決を図っていこう」とするべき貧困内のマーケティング競争が発生するということでもあります。資本主義による弊害の解決において、その資本主義を構成しているマーケティングの手法を合理的に活用しないと資本主義に希望がなくなってしまうという実に逆説的な話に至るわけです。

資本主義の欠落部分を埋めていく


実際のところ、この本を見ていくなかで後ろのほうは、むしろマーケティングとして情報を伝えられた側の「幸福」についての記述が奥深いので、ぜひお目通しをと思うわけです。これはもう人間の摂理というか本質にかかわる部分であって、社会に幸福を増やす仕組みとして資本主義が適切であって、うまく作用し合理的に進めていければ多くの富を増やすことができる。一方で、その社会に従属している面々の幸福が達成できなければ社会全体の維持が不能になってしまうので、いかに社会の構成員が真心をもって資本主義の欠落部分を埋めていくのかを考えなければなりません。

今までは市場の失敗や、成長のための成長、市場のオーバーシュートといったさまざまな現象面を個別に見てきたのが資本主義の失敗論であって、もう少し本書のように俯瞰的に見たとき、実は市場に参加している人たちだけではなく、社会をハンドリングしている側に大きな課題があって、何を優先順位として資本主義をドライブしていくのかよく考える必要があるという重大な示唆を得たのでありました。

ところで、この本がおもしろかったこともあって、koboで出張中流し読みしておったんですが、この本の訳は落ち着いていてとっても良くできているように感じました。言い回しや日本語的なわかりやすさで苦労されたところもあったんじゃないかと思いますが、うまく手ごろな感じでまとめられていて、巧さを感じた一冊でした。

この本については、単に「拝金主義もうあかんがな」という話ではなく、広く市場と政治、社会全体の課題をマーケティングという視座でしっかり見通すというテーマの本でして、秋の夜長に読まれるとおもしろいと思いますよ。併せてほかのコトラー本も手にとっていただけるとよろしいかと存じます。
(文=山本一郎)

欧州の難民問題、米国大統領選挙におけるトランプ旋風、日本のデフレ脱却がなかなかできない問題、先進国の資本主義は行き詰っているように見える。
しかし、我々は好むと好まざるを別として資本主義社会で暮らしている。

マーケティング論の大家フィリップ・コトラー博士は資本主義の欠点を14指摘し個別に分析、それをどう改善それぞれの解決策を提案し、資本主義を改善し、より多くの人にその恩恵を得られるようにしたいと本書が書かれた。

14の資本主義の欠点 
1.資本主義は、根強く残る貧困の解決策をまったく、またはほとんど示せない。
2.資本主義は、所得と資産の不平等を拡大させる。
3.資本主義は、何十億人もの労働者に生活賃金を支払うことができない。
4.資本主義は、自動化の進展に直面し、人間の仕事を十分に確保できなさそうである。
5.資本主義は、企業活動による社会的費用の一部しか彼らに負担させない。
6.資本主義は、規制がなければ環境および天然資源を搾取する。
7.資本主義は、景気循環を生み出し、経済を不安定にする。
8.資本主義は、個人主義と利己主義を重視するため、共同体と共有資源を犠牲にする。
9.資本主義は、消費者に多額の借金を促し、結果的に製造業主導型経済から金融主導型経済へとシフトさせる。
10.資本主義は、政治家と企業を一致団結させ、彼らの利益のために大多数の市民の経済的利益を犠牲にする。
11.資本主義は、長期的な投資計画よりも短期的な利益計画にくみする。
12.資本主義は、製品の品質や安全性、広告の真実性、反競争的な行為に対する規制を必要とする。
13.資本主義は、GDPの成長だけを重視しがちになる。
14.資本主義は、市場の方程式に社会的価値と幸福を持ち込む必要性がある。
こういった資本主義の欠点を解決しようという動きは、すでにいくつか試されている。
P29-30
西側のさらなる地盤沈下は避けられないと信じる人も一部にいるが、私はそうは思わない。世界の国々はそれぞれ国民の生活を改善できるであろうと楽観的に見ている。多くの企業や団体が、より力強い資本主義をつくり出そうとしている。消費者、労働者、市民のために、いまより役立ち、環境の破壊や軽視をせずにむしろ改善するような資本主義を――。
 一つの例として「意識の高い資本主義――コンシャス・キャピタリズム」(www.consciouscapitalismcom)と呼ばれる、資本主義者による改革の動きを取り上げよう。これには、ホールフーズ・マーケットやパネラーブレッド、ザ・コンテナ・ストアといった企業(いずれもひと味違う発想の経営で注目される)のCEOらも関与している。
 この運動は四つの信条を掲げる。

1.企業はただ利益のためだけでなく、みずからの事業に崇高なる目的を抱くべきである。
2.企業は投資家のみならず、繁栄を共有する利害共有者全員に利益をもたらそうと努めるべき  である。
3.企業のリーダーは、自社が共同体への責任を果たすと誓う必要かおる。
4.企業は信頼、本物であること、親身になること、透明性、誠実さ、学び、そしてエンパワメントに重い価値を置く社風を持たねばならない。


 これとは別に、ニューエコノミー・ムーブメント(NEM)」と呼ばれる動きもある。より多くのビジネスと資本を、一%ではなく残りの九九%の人々の手に委ねようという趣旨の運動だ。法人資本主義ではなく、労働者が企業を所有・経営するモデルを提唱している。運動のリーダーの一人、ガー・アルペロビッツは、協同組合型で所有・運営される組織の広がりについて次のように説明する。
実のところ、一倍三〇〇〇万人を超える米国人が、すでに一つもしくは複数の協同組合に所属している。
  そのなかでも、信用組合ぱ最も広く知られた協同組合の一形態だ。同様に、自治体が所有する公益企業も二〇〇〇社程度あり、その多くが環境面で主導的役割を果たしている。(中略)また、いまや1000万人を超える米国人が、一万一〇〇〇社前後ある従業員所有企業(ESOP企業)で働いている。


 NEMや「意識の高い資本主義」といった運動が形にしつつめるのは、市民による所有と参加を増やし、利害関係者により多くの利益をもたらすことを目指す、資本主義の新しいモデルだ。
より賢明で建設的な資本主義の姿を探っているのである。

 
コトラー博士はそれでは資本主義の一四の欠点について検討し一章につき一つの欠点を取り上げ、考えうるそれぞれの処方箋を本書は取り上げている。

序章
 資本主義の成功
 資本主義とは何か
 資本主義への批判
 資本主義の一四の欠点

第1章 貧困問題は未解決である
 何か貧困を生み出すのか
 貧困の解決策
 米国の貧困に関する補足
    
第2章 拡大する所得格差
 トマーピケティの登場
 所得はどのように配分されているのか
 不平等が生み出す危険
 巨大な所得格差を減らすための政策
 最低賃金を上げる
   課税システムの累進性を高める
 オフショアのタックスヘイブンを遮断する
 労働者への報酬に応じて最高幹部の報酬を制限する
 税の抜け穴を塞ぐ
 給付金制度の強化
 巨大な資産格差を減らすための政策

第3章 搾取される労働者
 労働組合を結成する
 最低賃金に関する問題
 いま、何が起きているのか
 最低賃金引き上げをめぐる意見の相違
 生活賃金を普及させるその他の手段
 仕事の満足度を上げる

第4章 機械が人間の仕事を奪っていく
 テクノロジーが仕事を奪う
 人は増え、仕事は減る
   オートメーションで最も損をするのは誰か
 経済成長は鈍化するか
 新しいスキルを身にっける
 起業家精神を育てる
 失業者を支援する

第5章 誰が社会的費用を払うのか
 社会的費用を負担しない企業
 公共財を保護する
 独占と参入障壁

第6章 環境破壊を防げるのか
 気候変動とエネルギーヘのニーズ
 活発化する環境保護運動
 環境意識に目覚めた企業
 今後もっきまとう環境問題
 世界は十分な食糧を生産できるのか

第7章 乱高下する市場
 景気循環のもたらす問題
 景気循環の四つのフェーズ
 景気収縮を引き起こす要因
 景気回復に役立つ要因
 高まる市場の波乱
 波乱を生み出す七大要因
    1.技術進歩と情報革命
    2.破壊的技術とイノベーション
    3.”その他”の台頭
    4.ハイパーコンベティション (過当競争)
    5.政府系ファンド
    6.環境問題
    7.顧客エンパワメント

第8章 利己心の是非
 個人主義と自立心の良い点
 コミュニティの良い点。
 企業の社会的責任という概念

第9章 借金で豊かになれるのか
 グレートーリセッションまで(~二〇〇八年)
 米国のグレートーリセッション(二〇〇八~二〇一一年)
 拡大する所得格差
 家計の借金
 米国経済システムの「金融化」
  いかに金融システムを規制するか

第10章 政治に歪められる経済
 ロビー活動とは何か
 ロビー活動の良し悪し
 選挙活動の資金拠出
 ロビー活動にまつわる諸問題の解決策
 賄賂と政治腐敗
 賄賂と政治腐敗の解決策
 政府規制と課税政策
 超富裕層の影響力
 超富裕層の影響カヘの対策

第11章 短期的利益を重視する弊害
 長期的投資に関する問題
 インフラの維持と改善

第12章 マーケティングの功と罪
 米国の食品は健康的か?
 銃について
 広告が欲望をつくり出す
 公共の製品・サービスの質が問われている


第13章 さらなる経済成長は必要なのか
 低成長グループ
 健全な消費グループ
 定常経済グループ
 消費偏重を変えるために
 未解決の二つの大問題
         1.仕事に関する問題
    2.持続可能性のための企業の取り組み

第14章 モノだけでなく幸福も生み出そう
  国民総幸福量
 物質主義と幸福度の関係
 物質主義ではない幸福を
    1.芸術や文化、または宗教と深く関わる
    2.他人を助け、世界を改善する
    3.より簡素に生きる
  気をつけて消費する
 所得不平等と幸福の関係

エピローグ   337
解説       340
原注       357
一方で 、政治学者イアン・ブレマー氏が率いるコンサルティング会社のユーラシア・グループは中国が進める国家資本主義が、我々の認識する先進国の資本主義より優れていて、中国の成長は減速しているが、中国の快進撃が頓挫することはないと、主張している。

リスク 3:中国の存在感
(略)
中国の成長は減速しており、より抜本的な経済改革を行う喫緊の必要性があることも確かだ。しかし、景気減速によって中国の快進撃が頓挫するのかと言えば、そんな気配はない。世界の他の経済に及ぼす北京の影響力は急速に拡大する一方である。その実力に対する自信を深めた習近平国家主席は、中国は自国の利益を守るために、旧来の様な「誤解された、かわいそうな若者」を演じるのはやめなければならない時が来ていることを認めた。

北京は今までのような、後からやってきて、出来上がったルールにただ乗りするような存在から、ルールを作る側の存在へと脱皮し、これまで以上に影響力を増すことになるだろう。
国有企業や国策を担う大型私有企業へのサポートを通じて、短期的な商業戦術に対し国からの積極的な支援が行われている。また、より長期的な戦略的動きも展開してくるだろう(例えば、米国が支持しているような「普遍的」標準に対抗して、中国標準を打ち出してくるなど)。これらも含め、中国は手持ちのあらゆるツールを駆使して、新たな地政学的緊張を生み出している。ロシアとのかつてないような蜜月関係を強調してみたり、欧州で友人を作ることにより大西洋同盟に気まずい緊張を持ち込んだり、アジア諸国との関係緊密化を図り、アジアの首脳らをワシントンと北京の間の板挟みに追い込んだり、というように。
(略)
中国が今までのような成長は望めないとわたしは思っている。中国の国家資本主義は様々な意味で行き詰っている。

日本はけっして中国の社会モデルを受け入れることはなく、中国の国家資本主義は悪夢である。つい4.5年前韓国を見習えと言う騒いでいた日経新聞や東洋経済など馬鹿者達がいたが、いまは口をつぐんでいる。イアンブレマーも中国に肩入れしすぎると自らの評判を落とすことになる。中国に肩入れしすぎたジム・ロジャースはもはや道化師にしか見えない。つい先日も2月に予言した3/10大暴落説は見事に外した。バフェット氏の福音、ジムロジャースの脅迫(警告)ウォーレンバフェット氏が毎年恒例の「株主への手紙」を2/27公表した手紙の中で米国経済は依然好調で希望が持てることを述べている。

私(Ddog)は、資本主義を改革することができると信じている。新しい流れであるコンシャス・キャピタリズムに資本主義の未来に希望を見出したいと思う。コトラー博士の処方箋の実践こそが未来への希望であると思う。

参照
コンシャス・カンパニー(意識の高い企業)とは、①主要ステークホルダー全員と同じ立場に立ち、全員の利益のために奉仕するという高い志に駆り立てられ、②自社の目的、関わる人々、そして地球に奉仕するために存在するという意識の高いリーダーを頂き、③そこで働くことが大きな喜びや達成感の源となるような活発で思いやりのある文化の根ざしている会社です。

コンシャス・キャピタリズムとは、あらゆるステークホルダーにとっての幸福と、金銭、知性、物質、環境、社会、文化、情緒、道徳、あるいは精神的な意味でのあらゆる種類の価値を同時に創り出すような、進化を続けるビジネスパラダイムのことです。別の言い方をすると、自社の存在目的、世界への影響、そしてさまざまな顧客層やステークホルダーをより意識した、ビジネスの考え方です。コンシャス・キャピタリズムには、「存在目的とコアバリュー」「ステークホルダーの統合」「コンシャス・リーダーシップ」「コンシャス・カルチャー/マネジメント」の4つの柱があります。

ジョン・マッキー氏は、書籍の中で、上記4つの柱を中心に、コンシャス・キャピタリズムについて、詳しく説明しています。そして、書籍の最後のほうで、新しい資本主義のあり方を示すいくつかの考え方とコンシャス・カンパニーの考え方を比較しています。その中で、CSV/シェアード・バリューについては、以下のように述べています。
「シェアード・バリュー・キャピタリズム(SVC)は、ビジネスと社会的利益をうまく一致させる現実的な方法だ。しかし、コンシャス・キャピタリズムに備わっていて、計り知れない力を与えてくれる目に見えないが重要な情緒的、精神的な動機づけを欠いている。今日の世界で求められているのは、根本的な意識の変革だろう。しかし、SVCは、小手先の調整に近い。SVCの成果を量る指標も不明確だ。」

コンシャス・キャピタリズムのような理念的な考え方は、非常に重要で、現在の社会に求められているものです。一方で、その実現のためには、リーダー人材の意識変革が必要で、すぐに広がるというものではありません。CSV/シェアード・バリューのほうは、社会価値と企業価値を両立させる具体的な方法を示しており、すべての企業ですぐに実践できるものです。しかし、具体的で現実的な方法を示しているために、「小手先の調整」と捉えられることもあるでしょう。また、戦略フレームワークを示しているがゆえに、「情緒的、精神的な動機づけを欠いている」と見られがちです。「指標の不明確さ」も良く指摘されるところです。

しかし、コンシャス・カンパニーのような考え方とCSV/シェアード・バリューとは対立するものではなく、両立できるものです。コンシャス・カンパニーであれば、CSV/シェアード・バリューを経営レベルで推進しやすいでしょう。また、コンシャス・カンパニーでは、情緒的、精神的な動機をドライバーとして、多くのCSV/シェアード・バリューが推進されるでしょう。CSV/シェアード・バリューの指標については、マクロの共通指標を設定することは難しいと思いますが、企業レベル、打ち手レベルでは、工夫次第でいくらでも設定できます。

コンシャス・カンパニーなどの様々な考え方も、CSV/シェアード・バリューも、より良い社会を創り出そう、新しい資本主義を創り出そうという共通の目的を持っています。それぞれの良いところを融合して、さらに進化していくことが必要でしょう。









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コラム:貿易赤字と訪日外国人数が語る「未来図」
ロイター】2014年 07月 25日 14:31 JST

田巻 一彦

[東京 25日 ロイター] - 2014年上半期の貿易赤字が過去最高の7兆5984億円になった。一方、同じ時期の訪日外国人数が過去最高の626万人にのぼった。この2つの数字から浮かび上がることは、国内製造業の空洞化とそれを埋めるヒントが外国人観光客にあるということだ。

国内観光を振興するだけでなく、購買傾向から「ヒット商品」を生み出すことが可能になり、それが新しい産業を生み出す力になると予想する。

<輸出不振に自動車の陰>

貿易赤字の急増には、原子力発電所の休止によるエネルギー輸入の増加だけでなく、輸出の低迷が大きな要因として存在する。

政府・日銀はいずれ輸出は回復するとの見通しを維持しているが、6月は前年比マイナス2.0%と落ち込んだ。東南アジア諸国(ASEAN)経済の減速などが影響しているようだが、詳細にみると別の姿も浮かんでくる。

例えば、対米自動車輸出は米自動車市場が活況にもかかわらず、減少傾向が続き、6月も前年比7.5%減となった。

この背景にあるのは、ホンダ(7267.T: 株価, ニュース, レポート)、マツダ(7261.T: 株価, ニュース, レポート)などのメキシコ工場が今年初めから本格稼働し、輸出拠点になっていることだ。野球に例えれば「四番打者」の自動車の国内生産能力の低下は、世界景気が回復しても、輸出が増えない可能性を強く示唆している。

かつての主軸・電機は、すでに輸出産業の座から滑り落ちており、輸出のエンジンは、外側からの見た目に比べ、かなり出力ダウンしているのが実態だ。

ここで市場の一部には、自動車メーカーなどは連結ベースで利益を出しているのであるから、貿易赤字を悲観することはない、との声も出ている。確かに株価から見れば、そういう結論になっても不思議ではないが、国内の雇用という面からみれば、生産設備の海外移転は、決して楽観できない点を含んでいる。

<訪日外国人からのプレゼント>

それでは、打つ手はないのか──。そこで注目すべきは、もう1つの今年上半期のデータである訪日外国人の増加ぶりだ。政府は2020年の東京オリンピックを1つの目標として、年間の訪日外国人数を昨年の1000万人から2倍の2000万人に引き上げようとしている。

外国人観光客の増加は、国内観光産業に関連する雇用を増加させ、関連する生産の引き上げに大きな影響を与える。

特に高齢化を背景にした人口減少に悩む地方経済にとって、美しい環境は貴重な観光資源になり、再活性化への大きなきっかけをつかむことになるだろう。

外国人観光客増加の効果は、実はそれだけにとどまらない。米国のビッグデータ活用などに詳しいエコノミストの斎藤満氏は、訪日外国人が国内で購入した物品の傾向を分析することで、新しいヒット商品を見つけ出すことができ、それをきっかけに新たなビジネスが生まれる可能性が高まると指摘する。

訪日外国人の購買データを集積できれば、個々の企業がわざわざ、NYやパリ、ロンドンなどにアンテナショップを作って、試験的なビジネスをする手間を省くことができる。

また、斎藤氏は「米国に比べて遅れているビッグデータ集積と解析システムの構築、そのデータをビジネスに活用するノウハウの大きな習得チャンスになる」と指摘する。

外国人への販売が伸びることは、見方によっては「輸出の増加」と捉えることもできる。また、日本で購入した高級な果物の人気が海外で広がれば、それを捉えて輸出増加の計画を展開することもできる。

訪日外国人の増加は、「一石何鳥」にもなり得る「宝の山」と言っても言い過ぎではないだろう。

経済のグローバル化と企業の多国籍化が急速に進んできたこの10年、国家や政府という概念とのズレが、かつてないほどに顕在化してきた。貿易赤字の増大と好業績の輸出企業の共存は、そのことを浮き彫りにした。

だが、国家の枠組みから簡単に離脱できない国民のベースでは、雇用の減少は大きな脅威だ。その穴を訪日外国人の増大をきっかけに埋める方向になれば、「暗い未来」ばかりを想定せず、「明るい将来」を展望するきっかけになると指摘したい。

●背景となるニュース

貿易収支、上半期の赤字が半期ベースで過去最大=財務省 [ID:nL4N0PZ02E]
最近街を歩けば沢山の外国人旅行者にを見かける。改札機の前で困ってたり、地図を広げている外人さんを見ると、時間があるときは声をかける。
その昔は英語でMay I help you? と聞けばよかったが、最近は非英語圏の人も多いので日本語でまずは声をかけています。結局、たどたどしい英語で会話するのだけれど、一応目的は達成できます。東南アジアの方々は一応日本語を理解する人が多いので英語で話しかけるより日本語の方がよさそうです。

ネットでも外国人による日本愛の記事を多く見るようになりました。


などなど、日本愛で溢れるサイトが大流行です。テレビでも和風総本家だとか、Youは何しに日本へ など、日本人の愛国心というよりは日本のことを日本人に理解させる番組もだいぶみかけます。バラエティ動画を視聴!バラ動画 


昨年日本にやってきた外国人の数1000万人を達成した。我が国の国際観光産業は、2020年のオリンピック誘致の成功もあって、日本最大の成長産業になっています。

1000万人の訪日外国人が達成できたのは円安傾向で、外国人にとっての相対的な観光コストが下がっていること、格安航空LCCの本格的なスタートにより、外国人にとっての日本への観光旅行コストが下がっていることが大きい。特に富裕層が増えつつある東南アジアからの観光客、そのなかでもタイやマレーシアは訪日のためのビザを免除したことで大きく伸びた

訪日客が1000万人になると、名目国内総生産(GDP)は2.6兆円増え、2012年比でGDPを0.1%分押し上げる見通しで、これは大きい。「サンリオピューランド」では、外国人観光客はなんと前年比5割増となって、発足以来、初めて営業黒字を計上した。
 
訪日外国人がよく訪ねるのが、東京から富士山に立ち寄り、京都や大阪へ向かう「ゴールデンルート」と呼ばれるコース。人気のある訪問地は東京、京都、大坂、北海道、沖縄、箱根、広島、長崎、奈良、名古屋、日光だという。私が住む横浜が入っていないのだが、横浜や神戸といった日本における異国情緒が楽しめる都市は外国人からすれば人気は高くはないのだろう。

1000万人を突破したとはゆえそれでも世界の観光立国とは比較にならない。国際観光客到着数によるとフランスは8000万人、米国7000万スペイン・中国は6000万人、イタリア・トルコ・ドイツ・イギリス・ロシア・タイ・・・・観光客が訪れる。日本はようやく27位である。

日本社会が海外から観光客を引き受ける体制が整っていない。レストランなどでも外国人客が来ると言葉が出来ないからといって立ち往生してしまう店員は少なくない。まったく外国語が話せなくても、臆することなく「これがお勧めです」と身振り手振りでコミュニケーションする中国の店とはだいぶ様子が異なっている。

政府は、2030年に訪日観光客3000万人を超えることを目標に据えている。また、オリンピックで多くの外国人観光客の来日が予測されることから受け入れ体制を整えなくてはならない。日本国内はWiFi環境が整っていない為早急な整備が必要だ。海外カードが使えるATMや通貨両替所の数など、「観光立国」実現のための日本側の受け入れ整備が急がれている。



観光客増の価値は、人口減少傾向にある日本にとって、非常に大きい。滞在人口が増えることは、国内消費が増えることそのものだ。だが、観光立国は、日本経済再生に資するだけではない。訪日外国人の数が増え、日本の文化・生活・食材などを体験してもらうことで日本のファンを増やし、日本のブランド力、世界における日本の存在感や発信力、ひいては外交力を高めるものだ。観光立国との連動におけるポイントは、「アジア」と「ローカライズ」だ。外国人観光客を増やすためには、近隣であり、成長の著しいアジア各国が最大の顧客となる。そういったターゲット国に対して、ドラマなどのテレビ番組、ゲーム・マンガ・アニメ、ファッション、日本食、デザイン、ハイテク製品などの日本関連コンテンツのローカライズ(字幕・吹き替え・現地規格への対応等)を進めることが日本ブランドの浸透を促す。ぜひとも、3000万人目標を早期に達成し、さらなる高みを目指したい。


 政府が行った訪日観光客へのアンケートでリピーターとなる理由のトップは「自然の景色」で、次いで「特別な興味の対象となる店や場所(IT グッズ、アニメ、コスプレ、その他)」である。このことは外国人観光客は都市部の特別な場所以外では都市部自体から離れた、ありふれた里山や自然の多くある場所にもっと行きたがっていることを示唆していると考えられる。豊かな自然や独自の文化、洗練された都市、世界から高く評価される和食など、潜在的な観光資源でいえば、日本は世界トップクラスの観光立国となる可能性を持っているはずだ。


日本には、各地域に魅力ある観光資源が多数存在する。しかし、外国人にとってなにが面白く、興味を引かれるかは、当の日本人にはなかなか分からない場合が多い。

外国人観光客にとって東京での最大の観光名所は築地だ。だが、こういう感覚は我々日本人には分からない。同様に京都の俵屋や吉兆は、外国人観光客からの人気が近年非常に高まっている。吉兆の外国人客は以前10%程度だったものが、最近は25%、4人に1人まで増えているという。

佐賀県神崎市白角折(おしとり)神社境内に樹齢1000年の楠の大木も、ドイツ人ブロガーがブログで取り上げて以来、ドイツ人観光客の観光名所になっている。

ニセコにオーストラリアからの観光客が激増していることは有名だが、この事例も、日本人目線では分からないニセコの良さをオーストラリア人が発見し、投資が始まったものだ。スキー場としての質や規模だけでなく、彼らにとっては、時差も少なく、温泉もあり、日本食も食べられることが魅力的な観光資源に映り、人気に拍車がかかったのだ。オーストラリアから観光客が来るようになると、地元も英語化など勝手に対応していく。地元にとっては、1泊だけで帰ってしまう日本人よりも、一週間宿泊する外国人のほうが上客だからだ。

こういった外国人観光客からの人気スポットは、口コミで広がってゆく。インターネット時代の今日、外国人観光客による口コミの効果は絶大だ。外国人観光客を増やすため、日本人が良いと思うものを一方通行で海外に発信するのではなく、外国人に日本の良さを発見してもらい、勝手に発信してもらうという発想が重要だ。

日本を訪れた外国人に、彼らの目線で、日本人は知らない日本の新たな魅力を発掘し、発信してもらう。日本人には当たり前でも、外国人にとっては、他人と一緒に入る温泉や、浴衣、旅館での部屋食、畳の上で寝ることなどが斬新であったりするわけだ。




1:アメヤ横丁(0:40~)2:明治神宮(1:18~)3:両国国技館(1:47~)4:新宿御苑(2:30~)5:銀座・有楽町(3:07~)6:東京都庁舎(3:44~)7:築地市場(4:14~)8:渋谷(5:36~)9:隅田川(6:06~)10:皇居(6:32~)11:上野公園・東京国立博物館(7:08~)12:東京スカイツリー(7:46~)13:原宿(8:02~)14:金龍山浅草寺(8:55~)15:江戸東京博物館(9:38~)16:洗練されたレストラン(10:22~)17:秋葉原電気街(11:01~)18:東京証券取引所(11:31~)19:六本木(11:59~)20:お台場(12:30~)21:代々木公園(13:16~)22:根津・谷中(13:59~)23:温泉(15:01~)24:高尾山(15:45~)25:東京での食事(16:39~)東京の魅力が詰まったこの映像に、外国人からは様々な反応が寄せられていました。
















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表紙裏
 本書は、渋沢栄一が唱えた合本主義の分析を通じて、二一世紀グローバル資本主義の新しい可能性を模索するものである。合本主義とは、「公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め、事業を推進させるという考え方」である。
資本主義は一つではなく多様なアプローチが存在する。一九世紀後半、日本の経済界をリードした渋沢が、いかにして、そしてなぜ〈企業は私益を得ることと公益の増進を同時に成し遂げられるのであり、また成し遂げるべきである〉という考えを抱いたのか。そして、渋沢が示した種々の解決手法の、今日の時代での意味を考える。

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日本の経済や社会の在り方を私(Ddog)が考えるにあたり、思想の基礎となっているのが、山本七平先生の「日本資本主義の精神」、小室直樹先生の「日本資本主義崩壊の論理」等一連の小室直樹著作集と、渋沢栄一翁の「論語と算盤」の影響をうけている。特に「論語と算盤」こそ、行き詰まった資本主義を打開する経済思想ではないかと、常々思っております。

世に「経済道徳合一主義」とされる思想であり、営利の追求も資本の蓄積も道義に合致するもので なければならないというのが渋沢の思想の核心であった。マックス・ウェーバーは欧州の資本主義 の精神の基底にプロテスタンティズムの規範性が横たわっていることを指摘したが、日本資本主義 の基底に儒教的価値が存在していることを体現しているのが渋沢栄一だといえます。このことは、山本七平氏も小室直樹先生も指摘しています。

東洋思想である儒教(論語)においては、経済活動を悪と見なして、経済活動と思想(儒教)を分離して考えていた。

儒教が社会を支配した19世紀末のシナや朝鮮に見られるように、経済活動は停滞し、儒教と経済活動は相容れない関係であった。

渋沢栄一の経済活動に規範性や倫理性を求める思想 は、それに先立つ江戸時代の石田梅岩海保青陵鈴木正三二宮尊徳などの経済思想にみられる「倹約・布施」「経国済民」「報徳」といった価値を継 承し共有していたからに他ならない。

現代日本においては「教養人」とされる人でも多少の洋の教養は身 に付けていても、論語をはじめ四書五経の教養を有している人は稀有である。論語の教養を失って以来、日本人 の規範が曖昧となり、道徳が揺らいでいる。

日本資本主義の精神において経済合理性を超え、人間としての誠実さこそが、資本の蓄積に繋がりが、経済の活性化をもたらす。

「合本主義」という表現で、渋沢は株式会社制度の重要性を訴え、東京株式取引所のような仕組 みを創設した。それは強欲である資本主義をいかに制御するかという現代資本主義の嵌まった隘路を切り抜ける有力な指針となろう。


はじめに ⅴ-ⅶ
本書は、渋沢栄一が唱えた合本主義の分析を通じて、二I世紀グロしバル資本主義の新しい可能性を模索するものである。合本主義とは、「公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め、事業を推進させるという考え方」と定義した。

それでは、読者の理解を助けるために、本書の内容を簡単に紹介したい。

第1章(島田昌和)は、まず会社の役職、資産、株式保有率など実証的なデータに基づき、経済界での渋沢栄一の客観的な位置づけを行う。次に西洋の株式会社制度を合本組織として日本に導入した渋沢のモデルを、三井や三菱などの閉鎖的な財閥型モデルと比較した。渋沢の最大の功績は、多くの資金と人材が出入り可能な市場型経済モデル、つまり参入退出が自由なオープンマーケットモデルを形成したことと結論づけた。

第2章(田中一弘)では、渋沢の思想の基盤である『論語と算盤』、すなわち道徳経済合一説について再考する。アダムースミスの『国富論』の思想的基盤である『道徳情操論』と比較すると、渋沢の考えの特色がより明確になる。スミスは、正義に適ったやり方で商売する限り、自己利益の追求を第一にして行動しても、「神の見えざる手」により需給のバランスが取れるという競争市場のメカニズムを明らかにした。しかし渋沢は、公益を第一と考え、自己利益を第一には図らないことが重要であった。このような道理に基づく事業のやり方が、合本主義にほかならなかった。
フリデンツン教授が前述したように、「公」と「民」の関係はいかにあるべきかは、古今東西で注目を浴びてきた大変興味深いが、なかなか結論を出すことの難しい、手ごわいテーマでもある。

渋沢の事例を世界史的な広い視点からに分析しているのが、第3章(パトリックーフリデンソン)である。
次に渋沢の思想と行動は、一九世紀の日本、つまり近世と近代にまたがる日本経済史の中でどのようにとらえればよいのであろうか。

第4章(宮本又郎)では、渋沢の合本主義を「顔の見える資本主義」として捉え、渋沢が果たした歴史的な役割を、株式会社の急速な普及と財界人として日本の経済界を育成、リードしていったことと評価している。
それでは、渋沢の商業道徳観のユニークさとは何か。同時代の内外の人々は渋沢の考え方をどのように見ていたのか。また渋沢はそれに対してどのように対応したのであろうか。

第5章(ジャネットーハンター)は、海外、特にイギリスの日本の商業活動に対する厳しい批判について、同時代の日英両国メディア(新聞記事)を詳細に分析しながら、渋沢の商業道徳の特徴を描き出した。

第6章(木村昌人)では、こうした海外からの批判に対して、渋沢がどのように対応したかについて分析した。渋沢のユニークさは海外からの批判に対して、経済を超えたグローバル社会の潮流を見据えた積極的な内外での活動により、商業道徳の改善に尽力したことを指摘した。

第7章(ジェフリー・ジョーンズ)は、企業家の責任はどうあるべきかとの視点から、一九世紀以降、今日に至るまでの各国の企業や企業家の例を取りトげ、渋沢栄一の合本主義の特色を浮き彫りにしている。その中で、合本主義が「論語」というキリスト教やイスラム教と比較して宗教色の薄い、世俗的な倫理に基づいていることに注目し、今日の資本主義世界は、合本主義を受け入れやすいのではないかと指摘している。

第8章(橘川武郎)は、リーマンショック以来の資本主義の危機的状況を抜け出し、新しいグローバル資本主義を構築するために、渋沢の合本主義研究がどのような意味を持っているかについて論じ、本書全体のまとめの役割を果たしている。ロナルドードーアの「金融資本主義」を引用し、いわゆるアングロサクソン型の資本主義と日独型のそれとを比較しながら問題点を明らかにし、その解決策としての合本主義の可能性を論じた。
第1章 渋沢栄一による合本主義           島田昌和

第2章 道徳経済合一説               田中一弘

第3章 官民の関係と境界      パトリック・フリデンソン

第4章 「見える手」による資本主義         宮本又郎

第5章 公正な手段で富を得る      ジャネット・ハンター

第6章 グローバル社会における渋沢栄一の商業道徳観 木村昌人

第7章 世界的視野における合本主義  ジェフリー・ジョーンズ

第8章 資本主義観の再構築と渋沢栄一の合本主義   橘川武



 

執筆中
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怪しくなったアベノミクスの行方 【経済コラムマガジン】14.3.31

一体何を根拠にV字回復

デフレ経済克服を旗印にしてきたアベノミクスの行方が怪しくなっている。これについて本誌は13/11/25(第775号)「アベノミクスの行方」や14/1/20(第781号)「窮地に立つリフレ派」で取上げた。このままでは現実の経済も、ほぼ筆者が予想した通りの動き、つまりかなり低迷する(ゼロ成長かマイナス成長)ものと見られる。

悲観的な筆者の見方の根拠は、消費税増税と補正予算減額によって新年度から緊縮財政に転換することである。ただ筆者の予想より上ブレする要素がたしかにある。13年度予算(補正予算も含め)の消化が良くないので、その執行が14年度にズレ込むことが考えられる。しかしこの金額がさほど大きくはないとしたなら、景気失墜は避けられない状況である。


「だから第三の矢である「民間投資を喚起する成長戦略」を急ぐが必要」といった陳腐なセリフがよく聞かれる。しかし安倍政権が発足して既に1年半も経つが、いまだ第三の矢の実態が見えない。筆者は「民間投資を喚起する成長戦略なんて幻想」という結論を出し、早く別のステップに移るべきと考えてきた。

筆者が別のステップと考えるのは、確実に内需を大きく拡大する財政政策である。具体的には、教育・研究予算の大幅増額や公的年金の国費投入による年金改革などである。これについては後日本誌で取り上げる。とにかく筆者は、アベノミクスの第二の矢、つまり「機動的な財政政策」の改変を主張したい。


ややもすれば「機動的な財政政策」と言えば、人々は公共事業のような単発的で臨時的な財政支出をイメージする。これを補正予算で実行するとなれば、どうしても今回のように補正予算が対前年度比で大幅に減額にされているにもかかわらず、「新年度も5.5兆円の景気対策としての補正予算が組まれているから大丈夫」といった誤解を与えやすい。

しかし補正予算同士を比べれば、新年度は5兆円程度の減額である。補正予算の減額はマイナスの乗数効果を生むことになる。そしてこれと消費税増税が経済成長の下振れ要因となる。しかしこれらのマイナス効果を相殺して余り有る効果を生むのが「さらなる金融緩和と第三の矢である成長戦略である」と言った夢物語のような話がいまだに横行している。安倍政権は少なくとも今の「成長戦略」といった怪しい話から早く決別し、方向転換をすべきである。

筆者が打出そうという財政支出を伴う諸政策は、継続性のあるものである。つまり補正予算に相応しいものではなく、本予算に組入れるべきものである。しかし筆者が提案しようと思っているような政策はほとんど議論にもなっていない。これに対して「いや来年度の本予算はこれまでの最高額」という声があるが、わずかに増えたのは消費税増税への手当てがあったからである。


ほとんどの経済研究機関とエコノミストは、4~6月の経済の落込みを予測している(これは筆者を含め誰もが思っていること)。ところが彼等のほとんど全員が、それ以降の日本経済のV字回復を予想している。しかし、一体、彼等は何を根拠にV字回復を予想しているのかさっぱり分からない。財政が緊縮型に転換し、今後、円安効果も一巡するのに日本経済がどうして急回復すると言うのだろうか。

またさらなる金融緩和に期待している者がいるかもしれない。おそらく次のさらなる金融緩和は実施されるであろう。しかし筆者は、これに反応するのは株式市場だけと思っている。一時的に為替も多少円安に振れ、株価も上昇すると見ている。しかしそこが円安と株価の天井になる可能性があると筆者は見ている。日銀が次の金融緩和に躊躇しているのも、これを警戒しているからではと筆者は勘ぐっている。だいたい財政政策を伴わない金融緩和なんて効果は知れている。

V字回復を予想するエコノミスト達は、これまでも予想を度々外してきた。ただ彼等は予想を外すと、過去の自分達の発言を知らない顔をして無視する。また彼等は言い訳だけには長けていると筆者は昔から思って来た。もし中国のバブル崩壊があれば、これなんかも言い訳に使われそうだと注目している。


経済対策は本予算で

日本経済のV字回復を予想するエコノミスト達は、成長戦略の議論に上がっている「戦略特区」「20万人の移民政策」「カジノ解禁」「女性の活用」などの効果を、まさかと思うが本気で期待しているのかもしれない。これらの他にも成長戦略として「所得税の最高額を2億円にする」という驚くようなアイディアまで飛出していると聞く。これは所得税を安くすることによって、大きく稼ぐ投資家や投機家を日本に呼込もうという発想が基になっている。このように思いつき政策のパレードが成長戦略である(要するに財政支出を伴わないものなら何でも良い)。

筆者は、何度も繰返すが「移民政策」を除き(移民政策は一旦実行されると取り返しがつかない)、出ている成長戦略とやらはどんどん実行すれば良いと考える。これらを実行しても経済成長に繋がらないことを確認して、このような主張をしている学者やエコノミストには退場してもらうのが一番手っ取り早いと考える。これによって日本からはうっとおしい経済学者やエコノミストの大半は消えることになる。また日経新聞の論説委員はほとんどいなくなる。とにかく彼等は14/2/17(第785号)「経済戦略会議から15年」で述べたように、15年間も同じこと(要するに構造改革)を唱えて生活をしてきたのである。


またV字回復を予想するエコノミスト達は、増税派、あるいは財政再建派の顔色を見ながら経済予測を行っているとも言える。消費税の8%から10%への増税は、今年末の経済状勢を見てということになっている。これには7~9月のGDP成長率が使われる。つまり日本経済がこの時期にV字回復しなければ、次の消費税増税はおぼつかないことになる。したがって彼等は高めの経済成長を予想し、財務当局にゴマを擦っているとも考えられるのである。

このように日本の経済学者やエコノミストは、日本の経済ではなく自分達の経済(生活)を見ながら経済予測を行っていると筆者は思っている。しかし政治家はリアリズムに徹すべきである。本来なら安倍政権も次の政策を模索する段階にある。


筆者は、4月頃からの経済の落込みがほぼ常識になっているのだから、安倍政権は予算措置を伴う次の経済対策に取組むものと本誌で言ってきた。しかし4月になるというのにその動きが見られない。たしかに新年度の予算が成立したばかりなのに、節操がないという批難が起りそうである。どうもこのような話が出てくるのは、筆者の予想よりもっと先になりそうである。

そして対策となれば、補正予算ということになり、しかもかなりの大型の補正予算が必要になると筆者は踏んでいる。いつ頃、安倍政権がこれに踏み出すのか注目されるところである。しかし今の様子では、7~9月期に効果を上げるには既に遅過ぎることはたしかである。


ただ筆者は、前段で述べたように補正予算ばかりに頼る今日のような経済対策には反対である。教育や年金などといった重要政策に継続的に予算を配分することを考えると、これらは本予算で対処すべきと考える。国土強靱化政策についてもしかりである。政策を真面目に考えるならこのような結論になるであろう。

これまでも、景気が急落すると補正予算で対処し、少し経済が上向くと緊縮財政に戻るといったパターンが繰返されてきた。筆者は、この繰返しから脱却する必要があるずっと言ってきた。せっかく衆参のねじれ解消し安倍政権という本格政権が発足したのだか、今こそ年金改革などの大型政策に取組むべきである。

ひょっとするとV字回復を予想するエコノミスト達は、4~6月の景気後退に対して政府が補正予算による経済対策を行うことを暗黙に織り込んでいるとも考えられる。筆者に言わせれば、そうでなければこのような間抜けな経済予測は絶対にできないのである。とにかくこのような低レベルの経済の有識者といわれる者が日本に溢れていては、デフレ経済からの脱却なんてとても無理である。

景気の下降に備え、先行きどうなるかわからない将来不安の中で、「今、お金を使ってしまったらミジメになるかもしれない」と思っているから日本人は貯金に手を付けない。消費税率8%ショックで景気は一気に下降することになるであろう。

日本は世界で最も高齢化が進み、その高齢世代が個人金融資産の大半を握っている。その世代の心理を理解して、お金を使いたくなるような政策を提示できればいいのだが・・・・アベノミクスを消費税を上げたい財務省のおもちゃにさせてはならない。

財務省は公共工事などの予算を9月末までに6割以上執行するよう、各省庁に指示している。景気の落ち込みを防ぐのが表向きの理由だが、麻生財務相は「7~9月期に(景気の上向きを示す)数字が出るような結果にしたい」と本音を隠さない。

7~9月期の「数字」は、安倍首相が来年10月からの消費税率追加引き上げを判断する際の目安となる。公共事業に集中発注で夏ごろの景気が勢いづけば、財務省の思惑通り、安倍晋三首相は来年10月からの消費税率10%実施を年末までに決定することになる。

 まず、4月以降の経済だが、家計消費は増税前の駆け込み需要の反動減を経て、7月以降回復するかどうか疑わしい。 春闘による賃上げ率は全産業平均で1%に遠く及ばない。消費税増税に伴う物価上昇を含めた予想インフレ率3%以上を大きく下回るし、株価の鈍化ないし、消費増税後の経済下振れで雇用環境が悪化すると、消費者マインドはさらに悪化する可能性がある。

消費者心理が弱くなった局面で、生活に直結した物価の上昇は景気を減速させる。中国のバブル崩壊懸念など海外にも不安材料は多い。今回、大型補正を合わせた15カ月予算ベースでみると、来年度の公共事業予算は今年度を3兆円程度も下回る緊縮だ。前倒し、集中発注というカンフル注射での景況はしょせん、回復しない。

やはり、アベノミクスを成功させるには消費税の10%への増税はしてはいけない。



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政府・与党は、大企業が取引先の接待などに使う交際費の一部を税務上の損金(経費)として認め、非課税とする制度の概要を固めた。
経費扱いできる交際費を支出額の50%まで認め、上限額は設けない。交際費の経費算入を一部認められている中小企業が大企業と同じ制度を選べるようにすることも検討する。企業が交際費を使いやすくし、来年4月の消費税増税による景気の落ち込みを防ぐ。〉
新制度は、交際費の経費扱いが認められていない資本金1億円超の大企業が対象となる。交際費を年間1億円使えば、5000万円まで経費と認められる。
その分、法人税の課税対象額が少なくなり、企業にとっては減税になる。経費処理できる交際費は、原則として飲食接待費に限る方向で検討する。来年4月から2~3年間の時限措置として実施する方針だ。
(2013年12月8日03時01分  読売新聞)
政府・与党が、大企業向けに交際費の一部を税務上の損金(経費)として扱えるようにするのは、経済対策として切り札の一つとなる。

内部留保として滞留している大企業の資金を飲食代を中心に大企業にお金をもっと使ってもらえば、来年4月の消費税増税による消費の落ち込みを防ぐどころかカバーして余りある!経済が好循環のきっかけとなると思う。

 大企業にとっては節税できるメリットは大きく、経済への波及効果が期待される。
交際費について、一部であっても税務上の損金として扱えるようになれば、大企業はその分だけ課税対象となる所得を少なくし、節税できる。大企業は節税できた分を接待などに使えば、飲食店などのもうけとなり、さらなる消費拡大につながると期待される。
 国税庁の推計によると、企業の交際費の支出額(2011年度)は、資本金1000万円以下の中小企業は1社あたり平均約66万円に対し、資本金10億円超の大企業は約7725万円にのぼる。大企業ほど交際費を使う額が大きく、特例の拡大による効果は大きいと思う。
 

■「2日新甫は荒れる」状況に

先週(12/2-6)の日経平均は下落。名実ともに師走相場入りとなった先週は、相場格言通り「2日新甫は荒れる」状況になった。週前半は小動きが続き、3日には年初来高値(終値ベース)を更新した。しかし、好調な経済指標の発表が相次ぐ米国では、米連邦準備制度理事会(FRB)が近く量的緩和縮小に動くとの懸念が再燃。NYダウは16000ドルの節目を割り込むと、この流れを受けてトヨタ<7203>など主要銘柄への利益確定が強まった。先物主導によるインデックス売りなどの影響から、日経平均は4、5日の2日間で500円を超える下落に。先物主導で乱高下が続くなど、今週に控えているメジャーSQ週並みの値動きの荒さだった。

一方、ソフトバンク<9984>が急動意をみせたほか、ネットやバイオ関連など中小型株への物色が活発となるなど、個人投資家の物色意欲は旺盛だった。もっとも、資金の逃げ足は速く、いったん値動きが止まると急速に値を下げるなど、全体地合いが調整入りとなるなか、腰の据わった資金は入りづらかったようだ。

■リバウンドを意識、米量的緩和縮小の見方に変化

今週(12/9-13)はリバウンドを意識した相場展開が期待されそうだ。6日に発表された11月の米雇用統計の結果を受けた米国市場の流れを引き継いでのスタートとなるが、非農業部門雇用者数が20万3千人増、失業率が7.0%へと低下し、予想を上回る改善となった。さらに、これまでは量的緩和縮小に動くとの懸念が世界市場の波乱要因だったが、6日の米国市場では、量的緩和縮小にも対応できる経済情勢が整いつつあるとの市場反応をみせている。17-18日に予定されている米連邦公開市場委員会(FOMC)で量的緩和縮小に踏み切るとの思惑が強まるなか、これを織り込む流れだろう。また、米連邦規制当局は今週、金融機関の自己資金による投機的取引を規制する「ボルカー・ルール」の強化案を承認する見通しだ。波乱要因となる可能性はあるが、足元では早期のボルカー・ルール適用決定が噂されていたほか、野村証券による欧州主要行の株価格付けの引き下げなども観測されるなか、ネガティブ・サプライズとはならないだろう。

■メジャーSQ後を意識し次第に中小型株物色へ

先週の日経平均は週半ば以降、メジャーSQ週並みの値動きの荒さだったが、13日に12月の先物・オプション特別清算指数算出(メジャーSQ)となる。既に先週の動きから早めにロールオーバーを進めているとの見方もされていたが、よりSQに絡んだ商いが中心になるようだと、物色は個人主体による中小型株や材料系の銘柄にシフトしやすい面もある。特にメジャーSQ通過後は、海外勢はクリスマス休暇入りとなるため、来週には一気に商いが細る可能性もある。政策などをテーマとした個別対応に向かいやすい。そのほか、今来週はIPO(新規上場)が多く予定されていることもあり、好パフォーマンスが続くようだと、中小型株相場が盛り上がりをみせそうだ。

■15000円処は割り込むことが許されない価格帯

なお、日経平均は一先ず15000円割れを回避した格好ではあるが、明確なボトム意識は強まっていない。さらに甘利経済再生相は自らの体調について「早期の舌がん」と明らかにしたほか、環太平洋経済連携協定(TPP)関係閣僚会合を欠席し、今週にも手術をする。3-4週間後には公務に復帰する見通しと報じられているが、日経平均の13000円、14800円の甘利越えをみせてきた株式市場にとってマイナス材料になりやすい。

甘利経済再生相は10月に、「株価は14800円の壁を突破できずに資産効果が止まっている」と発言し、その後甘利越えをみせた。また、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の基本ポートフォリオ見直しへの期待が根強いほか、日銀による追加緩和政策への思惑など、株価対策への期待は大きいだろう。メジャーSQ通過後は商いが細る可能性があるが、海外勢による利益確定なども一巡することで、押し目買いのタイミングとして意識される。アベノミクスへの期待から、15000-14800円辺りは割り込むことが許されない価格帯である。米国の量的緩和縮小への見方が変化をみせるなか、メジャーSQが波乱含みとなるようなら、戻りを意識した押し目買い好機のスタンスで望みたいところであろう。

《FA》
By Nicholas Wapshott

米国経済は停滞の海をさまよっているのだろうか。少なくともサマーズ元米財務長官はそう考えているようだ。サマーズ氏は先月開かれた国際通貨基金(IMF)の経済フォーラムで、米国の需要や成長力などが低迷している現状を「長期的停滞」と表現した。

「われわれは今後数年にわたって、どのように経済を動かしていくのか十分に考える必要があるだろう。現状ではゼロ金利が経済活動を慢性的かつ体系的に抑制しており、潜在能力を下回るレベルに経済を押しとどめている」と語った。

ただ、この現象は全く新しいものではない。2008年の金融危機以前にもグリーンスパン前FRB議長が続けた低金利政策は、住宅バブルこそ招いたものの、実体経済を回復させることはなかった。サマーズ氏は「大規模バブルでさえも、超過需要を生み出すには十分ではなかった」と批判的だ。

同氏は、こうした金融政策が現在の苦境を解決するための手段として不適切だと指摘。その理由として、完全雇用を達成する「自然利子率」がマイナスである可能性を挙げた。

各国の中央銀行は金利をゼロ以下に引き下げることはほぼできない。なぜならその場合、銀行に預けても利子が付くどころか、逆に「管理費」を引かれることになり、銀行に預金しようとしなくなるからだ。

量的緩和は目的の達成に有効だったかもしれないが、今となっては力不足の政策だ。さらに、量的緩和が繰り返されると市場がそれに依存するようになり、バーナンキFRB議長が緩和縮小(テーパリング)を示唆するたびに混乱することになる。

気を付けなければ日本のようになってしまう──サマーズ氏はこう警告しているように思える。日本は過去20年、成長力の低下が賃金の下落を誘い、それが需要低下を招き、さらに雇用の悪化を呼ぶという負のスパイラルに陥ったが、米国も同じ状況に直面する恐れがあるのだ。

日本の経済はかつて、世界的に見て「初心者レベル」だったが、1960年代には年10%の率で成長。ペースは鈍化したものの、1970年代も成長率は4%台を維持した。ところが、20世紀末までに日本は深刻な事態に陥った。成長には急ブレーキがかかり、資産バブルがはじけた。政府は大規模な公共事業への投資で景気を刺激しようとしたが、こうした政策はうまくいかなかった。

その後、規制緩和を進め、日本企業に根強く残る時代遅れの伝統にメスを入れようと「構造改革」にも着手した。さらに量的緩和も拡大したが、成果を挙げたものは何一つなかったように見える。成長は停滞し、デフレも深く浸透したままだった。インフレにもデメリットはあるが、新たな経済活動を抑制し、成長を阻害し、窮状を広めるデフレはそれよりはるかに悪い。2008年の金融危機は輪をかけて日本の状況を悪化させた。これまで日本の成長を支えてきた輸出は2009年に27%も下落し、抜本的な改革が必要な時期を迎えた。

昨年、日本では安倍晋三首相が「アベノミクス」として知られる先鋭的なプログラムを導入した。日銀は資金供給量(マネタリーベース)をわずか2年で2倍に引き上げる異次元緩和を実施し、円高に歯止めをかけることで輸出の競争力を高めた。金融政策に加え、安倍政権は積極的な財政出動や増税も打ち出した。これは前例のない試みであり、日本はIMFの支援や他国の影響なしで、谷底から脱け出す道を歩き始めた。

安倍首相が示した治療薬を服用してから1年、回復の小さな兆しがわずかに見え始めた。財務省が先月発表した10月貿易統計速報によると、日本の輸出は約3年ぶりの高い伸びとなった。特に、円が対ドルで14%下落したことが大きく寄与した。また、10月の全国消費者物価指数は食品とエネルギーを除いたコアコアCPIが5年ぶりにプラスに転じ、2%の物価目標に向かって歩みを進めている。さらに、生産も上昇基調にある。

ただ、明るい話題だけではない。賃金はなかなか上がらず、設備投資も十分とは言えない。しかし安倍首相は、世界経済が上向けば、日本も利益を得られるだけでなく世界に繁栄をもたらすことができると自信を見せる。ただ、これはあくまでも仮定の話だ。米経済がこのままの状態を続ければ、日本の成長へのスピードも加速させることはできない。

他の国もリーダーとしての米国の復活を切望している。人員整理や債務削減など、自分たちのことで手一杯の欧州は、米国が欧州を低迷から引き上げてくれるのを心待ちにしている。

サマーズ氏が先月警告したように、米国はもはや景気刺激策を実行できる立場にはない。経済に関する独善的な誤解や、政府による介入は無駄な行為だとする思い込みを持つ一部の議員らに妨げられ、オバマ政権は経済を加速させることができないでいる。自動的な予算の強制削減によって、成長を促進する対策が必要な時に借金の返済に追われている状態だ。

一部の議員らは、選んでくれた国民にどれだけ損害が出ようと、自分たちの目指す「小さな政府」の達成を望んでいる。だが、自らの利益を賢明に追求することが、知らず知らず自らを傷つけることもある。政府の関与を縮小すれば、米国は日本のようになりかねず、米国民は何十年にもわたって低成長にあえぐ可能性がある。

「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」という日本のことわざがある。危険を冒さなければ、大きな成果は挙げられないという意味だ。安倍首相は日本経済の低迷に終止符を打つため、勇気ある第一歩を踏み出した。米議会では共和党の少数派が鍵を握る状態にあるが、これが続く限り、われわれは日本が犯した過ちを繰り返すだけではなく、世界中を泥沼に引きずりこむことにもなる。

(2日 ロイター)


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<11月20日>(火)

フォーリンアフェアーズ誌に、久々に目が覚めるような論文が掲載されている。といっても、わずか6ページの巻頭エッセイなのだが、"Broken BRICs"という。「BRICsって、もう終わっちゃったよ。新興国が台頭して先進国と並び立つ時代が来る、なんてもう忘れた方がいいんじゃないの?」と言っている。この雑誌は、5年に1回くらいの割りで、「文明の衝突」とか「アジアの奇跡という神話」とか、時代を画するような論文を載せる。これもまた、いろんな意味で目からうろこの指摘だと思う。概ね、以下のようなことを言っている。

●エマージング市場の概念は実は新しく、1980年代半ば以降である。台湾、インド、韓国などが矢継ぎ早に外資に門戸を開放し、1994年まではブームが続いた。新興国市場は世界の証券市場の1%から8%にまで急増するが、1994年のメキシコ危機でブームは終焉する。そして2002年までは途上国のGDPシェアは下落する。中国だけが例外だった。エマージング市場、なんてことはほんの1か国で起きたに過ぎない。

●第2次ブームは2003年に始まった。新興国のGDPシェアは20%から34%に駆け上がった。2008年の国際金融危機の落ち込みは、2009年に大方盛り返したものの、そこからが低成長になっている。過去10年のような手軽なマネーと底抜けの楽観主義がなければ、新興国市場は今後は低迷する公算が高い。、

●BRICsという概念ほど混乱を招いたものはない。4か国に共通するものはほとんどない。ブラジルとロシアは資源国、インドは消費国だ。中国を除けば、互いの貿易の結びつきも少ない。2000年代が例外であっただけで、1950年代のベネズエラ、1960年代のパキスタン、1970年代のイラクのような成長は、いずれも長続きはしなった。最近流行の経済予測は、中国とインドが世界のGDPの半分を占めていた17世紀を振り返って、「アジアの世紀が来る」と言っているようなものだ。

●向こう10年、日米欧は低成長だろう。が、中国経済もまた3~4%に成長は鈍化する。農村部の過剰労働力が消える「ルイスの転換点」はもう近づいている。中国がアメリカを抜き去るという懸念は、かつての日本がそうであったように杞憂に終わるだろう。中国や他の先進国の成長が減速すれば、ブラジルなどの輸出主導型成長も止まる。今後、新興国市場が一斉に伸びるということはないだろう。

●新興国市場の成長がばらつき始めると、国際政治も変わることだろう。西側は自信を回復し、ブラジルやロシアは輝きを失う。中国の統制主義的、国有資本主義の成功も怪しくなるだろう。人口動態による配当という考え方も疑問を持たれる。かつてはアジアは日本を、バルトやバルカン諸国はEUを、そしてすべての国がアメリカを目標としたものだ。しかし2008年危機はこれらのモデルの信頼性を失わせた。(略)

●つくづくこの10年が異常であり、こんなことはもう起きないだろう。一人当たり所得2万~2.5万ドルの世界で、今後10年で伸びそうなのはチェコと韓国だけだ。1万~1.5万で期待できそうなのはトルコと、ひょっとしたらポーランドくらい。5000~1万ドルではタイがほぼ唯一の有望株で、あとはインドネシア、ナイジェリア、フィリピン、スリランカ、あとは東アフリカくらいか。先進国の水準に到達する国はほんの一握りであろう。


○言っていることは、実は常識的なことである。ただしその意味するところは重い。2003年に始まったBRICsブームは、ちょうど10年で終わったかもしれないのだ。そしてBRICsという言葉を発明したのはゴールドマンサックスであったが、この論文を書いたRuchir Sharmaは皮肉なことにモルガンスタンレーの人物である。はたして2013年は新興国ブーム終焉の年になるのか。(略)
私はおそらく日本で最初にBRICsは幻想にすぎないと主張していたと思う。

以下2008年10月の記事である。


④にてBRICs諸国に、はたして資本主義の『精神』が存在しているのであろうか?と論じた再度掲載する。



資本主義の『精神』とはドイツの社会学者マックス・ヴェーバーによって1904年~1905年に著された「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」において述べられた、資本主義経済の発展の鍵である。

プロテスタンティズムの倫理が、資本主義を興隆させたという話を知らずして、資本主義を語ることはできない。私も原書で読んだのではなく、岩波の文庫本を読み、それだけでは理解できず、山本七平「日本資本主義の精神」を読み、次に小室直樹の「日本資本主義崩壊の論理」を読み私は理解したつもりになっています。

資本主義とは近代社会が自由にどん欲な利益追求をもたらしたのではない。ヴェーバー曰く、「決して近代人だけが、欲深なわけではなく、利にさといのは人の常である」。どんな時代や国においても、みな限りない欲望(金銭欲)がある。

中国の最初の王朝は「殷」であるが、「商」とも呼ばれ、商売こそが中国の基礎であった。イスラム諸国も、シンドバットの時代から商売上手で、西欧諸国よりも、資本主義成立の条件は整っていたかもしれない。

どん欲さが資本主義を生むなら、いたるところで、資本主義が生まれたはずだろう。1900年当時も中国やインドの方が人口や資源に恵まれていた。にもかかわらずなぜ、当時イギリス・ドイツ・オランダ・ベルギー・北部フランス・アメリカなどのプロテスタントの国だけに資本主義が成立し、繁栄していたのであろうか?人口や資源だけで論じたのであれば、中国やインド、アラブ諸国は、西欧諸国より早く資本主義が成立していてもおかしくはなかった。なぜか?「資本主義の精神」が存在しなかったからである。

ヴェーバーが言う資本主義の精神とは、単なる利益追求や権力や名誉を得る為利益を貯めのものではない。
岩波文庫P342
プロテスタンティズムの世俗内的禁欲は、所有物の無頓着な享楽に全力をあげて反対し、消費を、とりわけ奢侈的な消費を圧殺した。その反面、この禁欲は心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放った。利潤の追求を合法化したばかりでなく、それをまさしく神の意志に添うものと考えて、そうした伝統主義の桎梏を破砕してしまったのだ。ピュウリタンをはじめとして、クエイカー派の偉大な護教者バークリーが明らかに証言しているように、肉の欲、外物への執着との戦いは、決して合理的営利との戦いではなく、所有物の非合理的使用に対する戦いなのだった。
資本主義の精神を構成する最も重要な要素は何か。

勤勉に働くのは実は人間の自然状態ではない。資本主義の精神その最も重要な一部分を一言でいえば、それは「勤勉の精神」である。それは、労働を神聖なる宗教的行動とする精神である。とは言っても、それは、全世界をその中に内包するほどの深遠なる意味を有する。労働こそ、いちばん大切な人間行動である。人間は、その人がなす労働によって評価されるべきものである。

また、資本主義の精神とは、利益追求あるいは具体的行動として経済合理性をコントロールする精神のことであり、野放しの貪欲な利益追求は資本主義ではない。

略奪や戦争によって利益を得る、相手を騙して利益を得る、奴隷を酷使して利益を得る。これらはけして資本主義とはいえないのである。単なる儲け主義であるならば、近代以前からずっと存在していたのである。

貪欲な利益追求の果てに金融危機に至ったウォール街は資本主義の精神と乖離していたと私は思ったのだが、小室直樹は、「日本資本主義崩壊の論理」において、
アメリカ病とは、資本主義の精神の欠如による経済の病気ではない。不足、未成熟によるものでもない。資本主義の精神は十分にあるのだが。いやあり余って、燗熟しすぎて腐熟し、腐臭を発しているような経済のことをいう。そのことによって発する経済的病気のことをいう。ソ連病が資本主義の精神の不熟に由る病気だと言えば、アメリカ病は資本主義の精神の腐熟に由る病気と言うべきか。まことに、対蹠的な病気ではある。
ウォール街は資本主義精神の過剰であったか・・・。
一度資本主義が成立すれば、資本主義の精神はご用済みであるとも小室先生は述べている。

ゴールドマンサックスのレポートにあるように、2050年にはBRICs経済が発展し、本当に中国が世界一の経済大国に本当になれるのであろうか?

毒入りギョーザに続き、毒入りインゲン、メラニン混入、次々と信じがたい事件が止むことがない中国に、マックス・ヴェーバーの言う 資本主義の「精神」など存在するとは思えない。

キリスト教国ではない日本にも資本主義の「精神」は存在しないという議論はここでは避けたいが、山本七平「日本資本主義の精神」に記してあるように、江戸時代の思想家鈴木正三の説いた「農業即仏業なり」「何の事業も即仏行なり」の労働の宗教行為化と、禁欲的精神による事業の再生産が資本の蓄積をもたらし、資本主義を成立させたのである。

中国は、日常的に相手を騙して利益を得る社会環境において、資本主義の精神は育まれるとは思えない。共産党の特権階級(貴族)が農村出身の「民工」という名の低賃金「奴隷」を酷使して利益を得る姿は前近代的である。チベットや南シナ海域の島々を略奪して利益を得る、姿は帝国主義ではあるが、資本主義的精神の欠片はまったく見あたらない。

ヴェーバー曰く「富を目的として追求することは邪悪の局地としながらも他方(天職である)職業労働の結果富を獲得するのは神の恩恵だ。この宗教思想からの経済的結論として、禁欲的節約強制による資本形成がなされるのである」資本形成こそ資本主義の要諦であり、拡大再生産し、発展し、成長するのである。

中国の富裕層は伝統的に富を蓄積はするが浪費し、資本主義的節制に程遠いイメージである。中国の庶民は高い貯蓄率にも表れているように奴隷労働の結果資本蓄積を行っているように見えるが、政府共産党の失政により、本当に中国の銀行にその資産が蓄えられているか疑問である。

ロシア。中国と同じく富裕層の資本主義精神の欠如は同類、庶民に至っては目的合理性の精神は見当たらず、石油・天然ガスによる開発独裁経済にすぎない。

カトリック系のラテンの国ブラジルは快楽主義ではあってもプロテスタント的禁欲主義には程遠い。同じくインド、カースト制を克服できない国に資本主義は根づくとは思えない。

アメリカという亡霊資本主義国の没落は、こういった資本主義の精神の欠如するBRICs諸国の拡大再生産は期待しない方が無難と考える。

経済を離陸させるにはその燃料となる新たなるマネーの存在が必要不可欠であるにもかかわらず、金融工学により創造されたデリバティブや、ヘッジファンドといったニューマネーは失墜し、今後BRICs諸国のテイクオフに必要なマネーという燃料が供給されていく保証は無い。

BRICs諸国に私の認識不足で資本主義精神が根付いていたならば亡霊資本主義国が没落しようと関係なく経済は離陸することはできよう。しかし、単に人口が多い、資源がある、成長率が高いことだけをBRICs発展の根拠とする門倉貴史の世界観は、非常に未熟としか言いようが無い。(略)

以上
2008年10月に私が書いた記事ではあるが・・どうだ!という気分でいっぱいである!



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「気概」損ねる人口減少

【経済教室】歴史と思想に学ぶ 猪木武徳 日経新聞2012.11.05 17面
人口の“量と質”は一国の経済水準を決める最も重要な要因である。先進工業国では人口の過半が労働力として生産活動に従事しているから、人口が潜在的な供給能力を決める第一ファクターである一方、人口は国内市場の規模を規定するため、国の有効需要を大きく左右する。人口の増加局面と減少局面の違いを経済学はどのように論じてきたのだろうか。

 経済学の分野で人口の話をする場合、まず取り上げられるべき人物はトーマス・ロバート・マルサスであろう。人口の増殖力は食糧の増加力を際限なく上回るため、人口は食物の水準以下に抑えられなければならないと論じた彼の 「人口の原理」は、当時の楽観的かつ急進的な進歩主義思想に対して向けられた論駁 (ろんばく)の書であった。

匿名で出版された初版(1798年)では、「人間の完全化と社会の無限の進歩」を唱えるウィリアム・ゴドウィンやニコラ・ド・コンドルセらに対して痛烈な批判を投げかけ、マルサスを当時の論壇の寵児(ちょうじ)とした。

  「人口の原理」は、ゴドウィンらとの論争の過程で版を重ねるたびに修正が加わり、様々な限定が付加されて論旨も複雑になった。後に、戦前の日本を含め、真のメッセージは何かに関する「マルサス論争」を生むことになる。ジョン・メイナード・ケインズは、初版の5万語から第5版の25万語まで膨れ上がった事情に対し「あとの版では(中略) 一般原理は社会学的歴史の先駆者による帰納的検証に圧倒され」 「青年の頃の、輝かしい才気と盛んな意気が消え火せている」 ( 「トーマス・ロバートーマルサス」大野忠男訳)と評した。

  ◎◎◎ ◎◎◎

需要の開拓が重要に  ケインズの懸念、日本でも

イメージ 1 その後、マルサスの人口原理に対して、資本主義体制批判の立場からカール・マルクスが展開した過剰人口論が経済学界で強い影響力を持つことになる。マルクスは、マルサスが供給面から人口過剰の問題を論じたことを徹底批判し、過剰人口は資本制生産様式に固有な現象であるとして、労働需要の面から論ずべきだと主張した。企業が機械の導入などによる省力化を進めることで失業者(産業予備軍)が生まれ、この労働力の過剰が賃金を低水準に保つ圧力になると論じたのである。

 マルサスの理論の社会的背景は現代とはかなり異なる。
そもそもマルサスの当初の論点は、貧困は神の人間創造の矛盾を示すのか、あるいは貧困はその人間が生み出した罪であるのか、というところにあった。それが人間の生存の前提としての食糧生産と人口の法則の対峙という図式に変わっていく。人口の増減を食糧生産(所得)の観点からのみ論ずる形に問題が置き換わるのである。

 だが現代では、子どもを持つか否かの選択は、所得だけに依存するわけではない。民主制の平等社会では、子どもに教育を受けさせ、立身出世への道を準備してやることが親の務めのひとつにっている。子どもを持ち、育てる費用は、マルサスの時代とは根本的に変わった。教育にかかる直接的な費用だけでなく、子どもを育てるために労働市場から退出したことによる逸失所得も大きい。従って、子どもの数は抑え、家計予算を他の目的に振り向けたかが合理的だという判断が支配的となる。

日本をはじめ世界の多くの国々で問題となっている少子化現象の背後には、こうした個人にとっての合理的な 「意図」と社会全体が生み出す「帰結」との間の齟齬(そご)が存在するのである。
 「少子化や人口減少など騒ぐような問題ではない、技術進歩が解決する」と主張する者もいる。しかしこの楽観論は理論的可能性を論じたものにすぎない。人口減少がもたらす社会の「気概」の問題を
軽視していると鋭く批判したのはケインズであった。

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 ケインズはベルサイユ講和会議を批判した「平和の経済的帰結」 (1919年)の第2章で、マルサス流の過剰人口論を展開したものの、世界経済が深刻な不況に陥った30年代に入ると人口減少の経済的な帰結を悲観的に論じるようになった。その見解は37年2月に英国の優生学協会の講演で展開された「人口減少のいくつかの経済的帰結」に要約されている。

 ケインズの論の進め方は簡単かつ具体的で説得力に富む。まず、我々の想像力は貧困で「将来は過去と似たものだ」と考えがちだが、必ずしもそうはならないと彼一流のシニカルなコメントを披露する。しかしそれでも人口動態に関しては、かなりの程度将来を見通すことができ、人口が増加の局面から減少へと転換する時期が早晩必ずやってくること、その結果、経済にいかなる影響が及ぶかは十分推論できると言うのだ。

 人は現在の状態に基づいて将来を予想するから、人口増加の局面では需要は常に想像以上に拡大し、社会にある種の楽観主義が行き渡る。資本供給に行き過ぎやミスがあっても、すぐに吸収される。それに対し、人口減少局面では需要は予想以下に低迷し、資本の過剰供給はなかなか是正されない。かくて悲観的な雰囲気が社会に充満する。

 資本需要は3つの要因に規定されることを忘れてはならないとケインズは言う。第一に人口、第二が生活水準、そして第三が資本技術である。第三の資本技術は、その生産の入り口から出口までにかかる「生産期間」を意味している。言い換えると、資本需要は、消費者の数、平均的な消費水準、平均の「生産期間」に依存すると要約できる。

 19世紀の資本投資は、交通や公共サービスなど人口要因にそれほど依存しない耐久性の高いものが多かった。ビクトリア朝の文化は、巨大な耐久物から成り立っていたとも言える。しかし30年代の発明は資本節約的なものが多くなり、人々の好みも変化が激しく、資本財がそうした消費者向けの生産に向かうようになった。その結果、技術進歩は 「生産期間」を短くするものが多くなるだけでなく、人々が裕福になると、消費の対象は生産期間の短い「サービス」に向けられるようになる。

 こう考えると、人口減少で消費者の数が減り、生産期間も短くなると、資本財への需要をかろうじて支えることができるのは、人々の消費水準の上昇だけになる。ケインズは、1860年と1913年の簡単な数値を示しながら、この期間の資本投資の約半分は人口の増加によるものであり、残り半分が高い生活水準を可能にする資本技術によってもたらされたと論じたのである。

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 この議論は何を含意するのか。ケインズは人口増加が貧困をもたらすとするマルサスの原理を必ずしも放棄したわけではない。人口の減少局面で繁栄を維持することがいかに困難かを指摘したのである。人口減少によって有効需要が低迷する結果、「失業の悪魔」 (devil U)が忍び込むというのだ。この「悪魔」はマルサスの「人口の悪魔」 (devil P)ごと同類だとケインズは言つ。「人口の悪魔」はいまや鎖でつながれたものの、人口の減少期には「失業の悪魔」が暴れ出す可能性があると警告するのである。

 ケインズはこの「悪魔」に対抗するには、所得の不平等を是正して消費を増やし、利子率を低くして生産期間が長くなるような投資を促す政策が必要だと説いた。さもないと、資本主義社会は労働など
の資源が使われないまま慢性的な不況に苦しむと考えたのだ。社会が再配分政策の方向に動かない限り、現行システムの下で自由と独立を謳歌することは困難になるというのがケインズの診断であった。

 このケインズの講演は、人口増加は資本需要と消費需要を拡大し、有効需要そのものを増加させることによって経済成長を生み出すと要約できよう。こうした人口と有効需要についての素朴な関係把握に対して、その後批判が加えられたことはいうまでもない。しかしケインズの推論が、事実の重要な一面を突いていることは間違いない。

 現下の日本の問題に照らすと、企業や投資家からすれば、人口減少で国内の有効需要が減っても、輸出で国外の市場をつかめばよいと論ずることはできる。「技術進歩かおる」 「労働力が減少しても、国際展開し海外の労働力に頼ればいい」という論理も成り立つ。

こうした議論は理論的には正しい。実際、内需の先細り懸念や円高を背景に、日本でもケインズが見ていた当時の英国と同じように海外投資が徐々に増え始めている。

 ただ、このままでは社会全体で進む「気概」の衰弱を避けるのは難しい。ケインズが唱えた公共事業による国内への投資誘導は難しいとしても、国内の投資や消費をどう掘り起こすか。金融緩和だけでは、たとえ企業が生き残ったとしても日本社会の活力は回復できないのである。
  (青山学院大学特任教授)


日本の人口論争
 戦前の日本では、人口論は経済学の主要な柱のひとつとみなされ、「理性による人間改革と生存権の確保」を標榜する社会主義者と、「私有財産制の下での結婚と家族」を前提とする反社会主義者との対立の構図が存在した。マルクス主義者、国家主義者、自由主義中間派などがマルサス論争にこぞつて参加し、過剰人口が海外移民などで解消できる限度を超えているとする立場と、 「国力強化」のための人口増加の必要を説く立場から、相互批判を展開した。

 日本の実体人口学の大成者・南亮三郎とその小樽高商時代の教え子・吉田秀夫との問で交わされた「人口の原理」をめぐる論争や緻密な原典研究も、当時の日本のマルサス研究の水準の高さを示すものである。
人口動態論は経済に留まらず国家戦略的に論ぜられるべき問題だ。
私のブログでも取り上げています。




いよいよ中国は日本のたどった道を歩みだす。人口オーナス期の到来と土地バブル崩壊、競争力の喪失=経済衰退を迎える。しかも愚かな事に大軍拡と役に立たないインフラ整備をしている。

中国は、毛沢東が支配した時代、イギリスを抜き去り世界第2位の大国となるべく大躍進政策を計画した、経済政策は失敗したが、人口は爆発的に増えてしまった。
その結果、1970年代中国は年に1700万人からの人口が増える人口爆発状態となってしまった。そして1979年鄧小平は4つの近代化を実現すべく、1980年党中央委員会と国務院が人口計画育成法、所謂一人っ子政策を始めた。

中国政府は、総人口のピークを15億人前後に抑え、その後、緩やかに減少していくように出生率を2・1以下に安定させるとしている。

中国の人ロオーナスが経済成長に与える悪影響は徐々に出始めている。国連や世界銀行の統計では、中国の人ロオーナス期を迎えるのは2015年とされ、2020年には中国は日本同様高齢化社会へ早くも突入するのだ。

日本では1950年~1970年が典型的な人ロボーナスの時代だった。これは高度成長の時代に当たる。人ロボーナス状態だったことが日本の高度成長を支えた大きな要因の1つだったのである。労働力の伸びが成長を支え、団塊の世代をはじめ、現役勤労者層が多かったため貯蓄率も高かった。さらには高齢者も少なく、そのための負担も小さかったため、手厚い年金制度を作ることもできた。

日本はアジア諸国に先駆け、1990年頃人口ボーナス期の終了1995年以降は人ロオーナスの時代⇒出生率の低下⇒少子化の進展⇒高齢社会への移行⇒労働力人口の滅少⇒総人口の減少という順序で人口が変化してきた。貯蓄率の低下、年金・医療などをめぐって勤労世代の負担が高まり、将来不安が増大してる。今日の日本の状況は人口動態から鑑みて必然性がある。今後は後続のアジアの国々でも同じことが、ほとんど同じ順番で起きる。

政府・官僚・国会議員をいくら無能と罵倒しても容易に解決できないのである。
日本は世界を救う国家・民族であるという使命と矜持を語るリーダーが必要だ。

★日本の人口動態



【アジア各国の人口ボーナス期と終了時一人当たりGDP】
イメージ 2

★中国の人口動態




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インフレの惨禍を忘れるな

国債引き受けは禁物
国民の富、強制的に政府へ

日経新聞2012.08.06 17面
歴史と思想を学ぶ 猪木武徳
成長する経済がインフレーション的な圧力を受けるのは歴史の示す通りだ。インフレは忍び足で進むもの、加速するものなど、速度や原因は様々だ。しかし所得と富の分配に大きな影響を及ぼすことには変わりない。20世紀に入り目立ち始めたハイパーインフレは、国家秩序を破壊するほどの激烈な力を持つ。それを阻止する対策にいまだ定説はない。

日本経済は往時ほど調子が良くないが、失業率は他の先進諸国に比して低く、消費者物価指数や国内企業物価指数も著しく低下したわけではない。しかし日本社会は「デフレ的な気分」に覆われている。
よく比較される1930年代初頭の昭和恐慌期は、失業者の増加だけでなく、当時の主要商品であったマユや生糸の価格が5割以上下落する真のデフレであった。これほど価格調整(下落)が作動した例はそう多くはない。

デフレ的な気分がまん延する現在の日本にインフレの恐れが行無かというと断言は難しい。無価値になる恐れのない金(ゴールド)の価格は上昇している。資産家の間では、高率のインフレヘの警戒から外貨預金や不動産購入への関心も高まっている。

◎◎◎ ◎◎◎

ハイパーインフレは歴史の教科潜の中だけの話ではない。現代でも70年代から90年代にかけて、ブラジルやアルゼンチンなどラテンアメリカ諸国で1000‰を超えるインフレが相次いだ。93~94年に発生したユーゴスラビアの
例も異常の一言誤に尽きる。アフリカのジンバブエの10の21乗%を越えるインフレも日本で報道され記憶に新しい。

一般にインフレは、政府が大量の紙幣を印刷して資金を調達し続けることによって発生する。見方を変えると、インフレの背景には減価していく通貨を持つ国民の犠牲において政府が利益を得るという構図かある。国民から政府への「富の強制移転」があり、税金(インフレ税)を課すのと同じ効果を生むのだ。    

インフレは年金など固定収入で生活する者や債権者に巨大な損失と苦痛を与え、その富と所得の再配分効果は実に大きい。だれしも増税は避けたい。だがそのために発行され続けた国債を中央銀行が引き受けると、通貨供給量の増加に歯止めがかからなくなり悪性インフレが発生する。国民の所得と富が政府に強制的に奪われ、増税よりもさらに悲惨な事態になるのだ。

経済的な選択は善と悪ではなく、悪と「少しましな悪」の間になることが多い。経済政策の意図と結果の間に、「善を欲して悪をなす」と「悪を欲して善をなす」という食い違いが生まれることは避けがたい。

◎◎◎ ◎◎◎

インフレの分配への影響を大きく分けると、国民と政府の分配をめぐる戦争と、家計部門と企業部門の分配という
2つの側面がある。インフレは進行の速度によって性質が異なり、経済を「短期的に刺激して、長期的にはまひさせる」という麻薬のような性質を見せる局面かある。

インフレが穏やかなら賃金が上がり、場合によっては失業率も下がるので、経済状況が好転したように見えることがある。だが駆け足のインフレが進み始めると人々は将来も物価が上昇していくと「予想」する。するとインフレはペースを速め、政策を引き締めに転ずると失業率の上昇などの痛みが表れるため阻止することが難しくなる、といった状況になりかねない。

賃金と物価の上昇は、インフレで損をするのは家計と企業のどちらなのかという問いも投げかける。企業が純負債者だとすれば、負債を減価した貨幣で返済するので利益は大きい。預金という形で資金を借りている銀行が最も大きな負債者だとすれば、銀行にとってインフレの恐怖は民間企業の非金融部門よりさらに小さいことになる。

インフレが加速すると自己実現的なメカニズムが作動する。「そう思うからそうなる」というサイクルである。かゆいので思わずかくが、かくとさらにかゆくなる、という悪循環にも似ている。実際、歴史的には貨幣供給量の増加率より物価上昇率の方が高いケースがほとんどだった。

逆説的ではあるが、国民が「貨幣を持ちたくない」と思い、貨幣需要が極端に低ドしているにもかかわらず、貨幣が不足しているかのごとき現象が社会を支配するのである。

紙幣印刷が過剰になり、そのためにインフレが悪性化してきているにもかかわらず、さらに印刷しないと追いつかないという奇妙な状況は、国民と政府の間の分配(課税)をめぐる戦争なのである。

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ハイパーインフレは戦争や革命といった国家権力にとっての非常事態を契機に発生することがある。巨額の政府支出が必要なのに国家の徴悦機能が極端に弱まり、財政支出の大部分が紙幣増発で賄われることになるからだ。国債を発行しても資本市場が機能していないため市中で消化されず、結局中央銀行が引き受け手となり、銀行券の増発という形で通貨量が膨張するのだ。

戦争の場合、多くの生産設 備が破壊され、国民経済の供給 給能力が低下しているでいろへ、終戦後、抑えられていた総需要の圧力が市場を襲うので、諸価格が上昇するのは当然だ。しかし「なぜ価格が上昇し続けるのかは、戦争だ けでは説明できない。

よく例として語られるナチスの 台頭の一因にもなった22~23年のドイツのインフレは戦後4年以上たってから発生している。ドイツが第1次世界大戦に敗れて領土の一部と多くのエ業資源を失うなか、フランスーベルギ-両軍は23年1月、賠償の現物支払い(10万本の電信柱)の停滞を理由にドイツ工業の中心地のひとつ、ルール地方を占領する。

、連合国側か要求した賠償額が不当・不公正で実行不可能なものであることはケインズが(平和の経済的帰結’19年)で激しく批判にいていた。

関税権が極度に制約されていたドイツは、賠償の前提となる大幅な輸出超過を生み出すことがますます困難になった。復興に必要な産業の基盤の根本を奪われたのである。

その半年後の23年6月までにドイツの貨幣供給量は大戦前に比べ2000倍に増加していたが、一般物価水準の上昇はすでに2万5000倍を超えていた。この変化を国内の卸売物価指数でみても、生計費指数でみても、ほぼ同じ数字になる。通貨マルクの対外的な購買力は14年時点で1ドル=4・2マルクであったが、23年11月には4・2兆マルクに跳ね上がっていた。この1兆分の1を超える下落は23年の後半に加速した。

ドイツのハイパーインフレを終焉(しゅうえん)させるには通貨改革という政治判断を必ガとした。23年11月、政府は全産業の保有資産を担保とした発行額に上限を設けたレンテン銀行券を、1レンテンマルク=一兆マルクの比率で回収に用いた。この政策によってインフレは終焉する。いわゆるレンテンマルクの奇跡である。

ただ「通貨改革」だけが功を奏したのではない。紙幣発行による赤字財政を停止し、国債を中火銀行が引き受けないという政府の決意が国民の間で信用されたからこそ、インフレは止まったのだ。

ドイツよりひどかったハンガリーの戦後インフレ(45年8月から46年7月)は、ソ連影響下の政冶が故意に作り出したという説が有力だ。

物価上昇が最も加速した46年7月には、1日で物価が平均3倍になった。通貨ペンゴと別に税と郵便のための通貨単位アンゴが導入されていたが、46年1月1日に1ペンゴ=1アドペンゴだったのが、同年7月には2×10の21乗ペンゴになった。ドイツでは価格が二倍になるのに23年10月で3・7日かかったが、ハンガリーは46年7月ではわずか15時間だったという。

ハンガリーはナチスドイツの同盟・衛星国として対ソ戦争に協力したため、戦後ソ連共産党の過酷な支配に屈せねばならなかった。ソ連占領下での45年末の「自由選挙」の後、ソ連政府が様々な混乱を引き起こそうと画策したことは十分推測できる。近年、歴史家の中には、このハイパーインフレはマルキストの専門家がハンガリーの中産階級と上流階級を崩壊させるために意図的に引き起こしたと論じる者が多い。

この説が正しいなら、「国家を破壊するにはその貨幣制度を破壊すればよい」というレーニンの言葉を地で行ったことになる。 貨幣の実質価値の安定性は統治への信頼のバロメーターである。貨幣は基本的には負債ぷであるから、債務者(政府)の返済能力(信用)が常に問題となる。インフレ(特にハイパーインフレ)は、統冶への信頼を損ね、デモクラシーを背負う健全で安定した中産階級の富を損ない、社会の不安定化を招きかねないという点でも、心して警戒しなければならないのである。

ドイツのインフレ退治の詳細についてはヒトラーの経済対策をご一読下さい。

『「ヒトラーの経済政策」副題:世界恐慌からの奇跡的な復興 武田知弘 著(祥伝社)』を読む。その1 その2  その3  その4  その5 

日銀がデフレの諸悪の元凶である議論は止む事はない。私は日銀がインフレに対する慎重な姿勢はある程度やむを得ないと思う。

だが、やがて日本の財政状況から鑑みるといずれ国債を日銀が現状より多く引き受けざらない状況になると思う。

つまり、日銀がデフレを引き起こしているのは来るべきインフレに備えているという考え方が成り立つ。しかしながら行き過ぎたデフレに対しもうそろそろ蛇口を緩めるべき時であろう。


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毎回日経新聞経済教室に寄稿される猪木武徳青山学院大学特任教授の記事歴史と思想に学ぶはわかりやすく月に一度楽しみにしている。
今回の中央銀行がなぜ独立性が必要なのかについては基本的なことなのだが、私自身曖昧に解釈していた。中央銀行の独立性が何故必要なのか是非皆様にも読んで欲しと思う記事でした。
【経済教室】
歴史と思想に学ぶ
金融政策は財政政策と比べ、現代のデモクラシー(民主制)国家において特別な位置を占める。物価安定のかじ取りをする中央銀行にはなぜ独立性が求められているのか、政策目標にどう優先順位を付けるのか、そもそもなぜ中央銀行が必要となったのか---。今回は中央銀行成立の歴史にふれつつ、民主制社会におけるその使命について考える。

中銀の行動に黄金律なし

「政治からの独立」は要
金融政策に過大な期待禁物
税制も予算案も、民主的に選ばれた議員によって立法府で審議され法律となる。他方、金融政策は日銀の政策委員会で審議されて決定・実施される。この政策委員会のメンバーは選挙で選ばれるわけではない。財務省と日銀が金融の専門的知織とすぐれた識見を持つ専門家を事実上選び、国会の承認を受けるのだ。

税や補助金は所得分配を直接変えるため、政治の動きに国民は強い関心を向ける。しかし、同じく所得分配に影響を与える金融政策は議会を経ずして決定・実施できるため、機動性は高いが、政策効果を見据えた分析は一般国民には近づき難い。

その効果がいつ、どの ような形で現れるかは専門家でも意見が分かれるときがある。
金利を下げても設備投資が十分増えるかどうかは他の要因にも依存するから正確に推測するのは難しい。金融緩和を進めて効果がないと思っていたら、突如インフレが勃発することもありうる。金融政策に「黄金律」があったとしても、それは健全な経済を実現する前提条件とはなっても、それだけで健全な経済が実現されるというわけではない。

従って政策担当者には「石橋をたたいて渡る」以上の慎重さと忍耐が要求される。目前の自己利益にのみ関心を持つ者は、慎重な当局を「勇気がない」とそしることがある。
しかし、軽々に判断しない勇気を求められるのが中央銀行の政策委員会なのだ。その中央銀行はそもそもなぜ存在するようになったのだろうか。

中央銀行にも、長い歴史の中から生まれ出たイングランド銀行、第1次世界大戦直前に創設された米国の連邦準備制度(FRS)、日本の日銀のように外国をモデルとして法制度を整えたケースなど、いくつかの類型がある。

イギリスの場合、1694年、当時最強を誇ったフランスの海軍に対抗するための軍事費調達を主目的としてイングランド銀行は設立されている。当初から政府に長期資金を貸し付ける公的な存在であったが、資本は民間から集めており、形の上では私営銀行だった。やがて銀行券を発行するようになるが、他にも民間の発券銀行は存在した。

ナポレオン戦争後に金融恐慌が頻発したことを受け、銀行券の発行量を、銀行が保有する金の量に比例させるべきか(通貨主義)、裁量に任せるべきか(銀行主義)という論争(この論争は現代でも衣を変えた形で続いている)に一応の決着をつけ、イングランド銀行の銀行券発行ルールを規定したのが「ビール銀行法(1844年)」であった。通貨主義の原則を具体化し、金本位制を定着させた法律である。ただその後もイングランド銀行が金融政策に責任を持つ特別な機関なのか、民間銀行の1つにすぎないのかについては、当のイングランド銀行内部でも定まった位置づけはなされなかった。

そのイングランド銀行に、最も包括的で歴史的な解釈を初めて与えたのは、英エコノミスト誌編集長、ウォルター・バジョット(1826~77)の「ロンバード街」 (73年)だった。バジョツトは若いころは自由経済論者であり、J・S・ミルの「経済学原理」 (48年)が公刊された時、22歳の若さで40ページを超す長文の賛辞と批判の交じった書評をものしている。ミルの「銀行主義」の影響もあったのか、彼は市場の調整機能をやみくもに信仰する空論家にはならなかった。特に通貨に関しては、レッセーフェール(自由放任)の原理を無条件に適用せず、金融システムは政府によって慎重に制御されるべきだと考えた。

「ロンバード街」で体系的に展開されたバジョットの中央銀行論は、2つの柱から成る。1つは、徐々に進化して生まれ出る制度という柱である。英国では多くの銀行が、預金の中から払い戻しに備えて積む準備金をより大きな銀行へ預けることによって、現金準備の「ピラミッド」のような形で信用制度が形成された歴史があった。その歴史が「制度」としてのイングランド銀行を作り上げたのである。イングランド銀行がこのピラミッド構造の中枢に位置するという制度的事実をバジョットは具体的に記述した。

いま1つの柱は、必要な流動性(現金)が十分供給されうると人々が知って初めて銀行恐慌は回避できるという人間心理である。そのためには「最後の貸し手」が存在しなければならない。J・M・ケインズはこの指摘こそが、心理学者バジョットの偉人な貢献であったとエコノミック・ジャーナル誌(1915年)でレビューしている。

「制度」と「心理」をベースに、バジョットは、自由主義経済が主流であった当時としてはいささか時代逆行的に、イングランド銀行は銀行業界の競争を勝ち抜いてきた単なる「同輩の中の第一位」ではなく、公的責任を位う「特別の銀行」だと主張した。実際、金融危機において、イングランド銀行は普通の民間銀行のようには行動しなかっただけでなく、危機的状況にある他行を、積極的ではないにしろ支援してきたのだ。

こうした事実を重視し、バジョットは、イングランド銀行は発券銀行であると同時に信用秩序の番人であり、「最後の貸し手」となる位置を公的に認めるべきだと主張した。そうした地位を確立するには、中央銀行として十分な準備金を保有し、金利を公的に操作することによって通貨の海外流出を防ぎ、常に貸し出しができる体制にあることが必要だ。危機に際してもルール通りの融資条件で、リスクに見合った(時には高い)金利で、自由な貸し付けを行うべきだと論じたのである。

現代の金融システムも、バジョツトの議論から学ぶことは依然として多い。短期金融市場が取引不全に陥らないように、中央銀行が民間金融機関に十分資金を供給することの重要性は、4年前のリーマン・ショック時の先進国の対応にも示されている。

バジョットは、恐慌時に中央銀行は積極的に融資すべきだと主張した。だが、これは不安の連鎖を断ち切るためであり、金融緩和の成長促進効果を期待したからではない。

「ゼロ金利」で投資意欲を剌激しようにも、デフレ気分が強く、インフレ期待(予測された物価上昇)がマイナスなら実質金利は低くならない。劣悪な投資への資金需要を膨らませる懸念もある。現代ではデフレ時の金融政策の成長促進効果が過大評価されてはいないだろうか。しかし金融政策が成長に対して強い威力を常に発揮すると信じ込んでいる人は、経済政策が行き詰まると、王子を叱れない教師が「王子の学友」を代わりにムチ打つように中央銀行の不作為を責めるのである。

金融政策の選択は必ず誰かの利害と衝突する。従って専門性と民主的手続きのジレンマ(矛盾)をどう調和させるべきかという問題は避けられない。ここから日銀の「独立性しの議論が生まれる。
だが独立性を高めるという場合、経済家、政治家、財務省からの独立だけではない。証券市場や為替市場の短期的な動きを盾にした各界からの圧力もあり、独立性の最大の根拠である長期的視野に立った運営という公的目標を見失う恐れもある。中央銀行の独立性が、リベラルーデモクラシーの国家の中で画餅に帰すリスクは常に存在する。

中央銀行は金融現象と政策意図のすべてを事前に明らかにすることはできない。デモクラシーにおける情報公開・透明性といっても、おのずと限界がある。イングランド銀行も、かつてその「秘密主義」を厳しく批判された。私営銀行としての長い歴史が秘密主義を払拭できなかったこともあろう。だが中央銀行としての「公的責任」ゆえの守秘義務もあったと考えられる。

こう考えていくと、中央銀行が批判にさらされやすい理由の一端が明らかになる。金融政策には物価安定だけでなく、経済成長や証券市場など複数の目標かおり、その政策手段も複数ある。目標価値の相克、分配をめぐる争いの対象となりやすいのだ。

名著「バジョット以後の中央銀行論」を書いたR・S・セイヤーズの言うように「中央銀行の行動に黄金律はない」。だからこそ、選んだ手段や目標により政策担当者の地位が左右されないような環境が必要なのである。この環境こそが、中央銀行が政治的な圧力から自由であるという意味の「独立性」であろう。  (青山学院大学特任教授)

日銀の「民主化」

 日銀の最高意思決定機関である政策委員会は、1949年にGHQ(連合国軍総司令部)による「戦後民主化」の一環として、日本銀行法一部改正によって誕生した。
 1882年に株式会社として設立された日銀は、第2次世界大戦中の1942年、日銀法制定で特殊法人となり、蔵相が銀行券の発行限度を決め、政府への無制限の無担保融資や国債の引き受けを規定、軍需融資の資金統制の金融機関として機能した。
 この政治と金融の一体化への反省から、戦後、政策委員会の設置〔銀内部に設けられてはいるか〕によって、政めからの独立性と政府の指示権を最小限にとどめるために一定の独立性が与えられた。日銀のガバナンス(統治)上の一大改革であった。
政治とは利害が対立する人間や地域グループ間の利害を調整する仕組みであると思う。特定の団体や階層からの圧力で成り立つ政治から中央銀行を独立させるということは、デモクラシー国家においては健全な経済を維持する上で必要不可欠であると思う。

バジョットは、恐慌時に中央銀行は積極的に融資すべきだと主張した。だが、これは不安の連鎖を断ち切るためであり、金融緩和の成長促進効果を期待したからではない。
必要な流動性(現金)が十分供給されうると人々が知って初めて銀行恐慌は回避できるという人間心理である。そのためには「最後の貸し手」が存在しなければならない。

ギリシャ危機に端を発した今回の危機は財政が国ごとに独立していて利害が対立しているにもかかわらず、極めて曖昧なまま無理やり通貨を統一してしまったことが危機の本質だと思う。これは構造的欠陥であって不安の連鎖を断ち切るには、ECBがギリシャやスペインに対し無制限に通貨を供給する姿勢を示さないことには危機が終息しないのではないかと思う。

ユーロは米国やアジアに対抗する欧州の答えであったが、ユーロが誕生するには時期尚早だったのかもしれない。


外国為替市場での為替相場にへの介入は、日銀の政策ではなく、財務省が管轄する政策である。日銀は外貨の売買を行うことはできるが、為替介入は国の事務の取り扱いをする者として行うことが日銀法第40条2項で定められている。

現行の法律下で行われる円売り介入の方法は、まず財務省が短期国債を発行して円資金を調達し、その調達した円を日銀を通じて外為市場で売却するかたちで行う。

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18日証券会社のオフィスはフェイスブック上場でお祭り騒ぎであった。
当ブログではFBについてネガティブで厳しい意見を書いてきた。

だが、1株38ドルで決まったIPO目先の株式として儲かるか否かはまた別の次元である。個別銘柄について批評を書くとリアルなDdogの勤務先のコンプライアンスに抵触する怖れがある為書きづらい。

2012年5月19日 12時34分 更新

フェイスブック上場、株価は42ドルに 【IBT】

世界最大のソーシャルネットワーキング・サービス(SNS)、フェイスブック(Facebook)は18日、米ナスダック市場に上場した。株式公開後、株価は42ドルまで上昇した。
この結果、フェイスブックの時価総額はおよそ1140億ドルに跳ね上がった。

フェイスブックの株式公開価格は17日、一株38ドルに設定され、その時価総額はおよそ1040億ドルと算出されていた。これは世界最大のパソコン会社ヒューレット・パッカード(HP)の約3倍で、ネット小売最大手の米アマゾン・ドット・コムと同等。日本企業ではトップのトヨタ自動車に次ぐ規模となる。

なお、トヨタ自動車の時価総額はおよそ1320億ドルだ。

フェイスブック株は、米東部時間18日の午前9時半、ナスダック市場で公開された。ザッカーバーグ最高経営責任者(CEO)はナスダック証券取引所には現れず、カリフォルニア州にあるフェイスブック本社で催された記念式典に参加したという。

ネット関連株のなかには、株式公開初日の取引で、2倍から3倍の価格に跳ね上がったものもある。1995年に上場したネットスケープ・コミュニケーションズは、公開価格が28ドルで、取引初日の最高値は約2.7倍の75ドル、終値は58.25ドルだった。

1996年に上場したヤフーは、株式公開価格が13ドル。取引開始後に一株24.50ドルとなり、初日の最高値は43ドル、終値は33ドルだった。
イメージ 1
思い出すのは2004年のGoogle上場である。当時はまだITバブル崩壊の記憶も消えやらぬ頃でPERが確か 120倍だったことをことを記憶している。
当時も祭りだったが、上場初日買い付け参加に躊躇したものであった。初日高値高値つかみになる可能性は十分にあった。だが結果は右のグラフである。

Googleにしても、Facebookの上場は米国経済の光の部分であり、「力」の象徴である。米国経済は、企業の新陳代謝がある健全な経済と言える。

本を書いて印税を稼ぐ物書きや、中国の工作員、陰謀論者が30年近くあと2.3年後にドルが紙屑になると騒ぎ続けてきた。宇野正美「ユダヤが解ると世界が見える」1986年や「かくてドルは紙くずとなる」HフィギーJr著、竹村健一訳(クレスト出版)1993年が出版がその嚆矢[こうし]である。) 

確かにドルは対円で下落したが、なかなか紙屑にならない理由がこのFacebookのような新興ビジネスが勃興し株式が上場する健全な経済の存在である。

通貨の問題は通貨経済・財政政治・軍事・外交・宗教・歴史といった多岐なるファクターが加わり単純な構図ではない。経済に接する現場の人間から言わせれば陰謀論者達の言うことは子供か馬鹿にしか見えない。笑えるのだが彼らは真実を知っているのは自分達だと言う。・・・陰謀論者達は所詮社会の底辺で鬱屈した人生をおくり、ルサンチマンが溜って、平和な社会が乱れることを願っている心悪しき生き物にすぎない。

Googleや、Facebookには大きな欠点がある。第二次産業や他の三次産業(サービス業)ほど雇用を生まない、むしろ社会の糊代の部分を削ぎ落としてしまっているので米国経済、今日の資本主義諸国において改善しない雇用問題など影の部分をもつのも事実だ。

日本経済においてはソニーやホンダ以来日本の屋台骨を支えるような企業が果たして生まれたか?京セラ・日本電産・リクルート・・・ユニクロ、ソフトバンク、楽天・・だがその後が育っているのだろうか?日本からなぜ世界を変えるようなGoogleや、Facebookが生まれないのかと考えてしまう。

堀江モンのライブドアが自滅したのは必然であったと思うが、ライブドア事件は日本における起業精神を少なからず破壊してしまった。

日々営業で新規開拓をしていて思うのだが、本部に行く6年前に営業をしていた頃と比べ雑居ビルに入っている雑多な企業が少なくなっている。空きオフィスが目立つ。例えオフィスが埋まっていても支店や営業所ばかりである。新しくオフィスが供給されたからと言っても、起業したばかりの企業はインテリジェントビルではなく、自宅マンションか雑居ビルの一室からビジネスを始るのが相場である。日本社会全体が起業することを躊躇させる空気に包まれているように感じる。

藤巻氏の円高諸悪の根源説はたしかにその通りだと思う。
 同品質のテレビを中国も日本もその昔、16万円と同じ価格で売っていたとしよう。ところが中国が、そのテレビを1万2700円へと12分の1に大幅値下げしたらどうなるだろう。どんなに日本の電機メーカーがデザインを工夫しても、販売員のサービスを向上させても16万円のままでは全く売れなくなるはずだ。輸出市場でも日本の国内市場でも中国製テレビが圧巻する。
何故円高なのか、藤巻氏は日銀や国は金融・財政政策で最大限努力しているが、日本が社会主義社会(小室直樹先生は1990年「社会主義大国日本の崩壊」を出版)であることにその原因を説明しているにすぎない。

紙面の関係なのかもしれないが少々説明不足なのか。もしくは、藤巻氏とDdogは認識が根本的に異なっているのかもしれない。

列島改造ブームと土地バブルというバブル経済を二回も経験した日本は、過剰貯蓄となり、過剰な貯蓄はデフレに陥ってしまいます。これまで先進国の中で唯一デフレ経済を続けてきた国である。このデフレ経済を克服するため、日本経済は外需に依存する構造であった。

古典派経済学では、この種の金融資産(貯蓄)が増えれば、金利が低下し投資が活発になり需要不足は起らないことになっている。また消費は無限であり、生産された物は全て消費されることになっている(セイの法則)。しかしいくら金利が低下しても一向に日本の投資が盛上がらないことは、誰でも知っていることである。つまり古典派経済学の理論なんて、現実の経済と無関係である。

ところが竹中など構造改革派は、これは日本が規制緩和や競争政策が進んでいないからと言ったプロパガンダで説明を試みた。だが、実態はリチャードクーが指摘する国内の需要不足という、バランスシート不況の方が正しいと私は思う。
土地融資の総量規制と、不良債権処理を楯にバブル崩壊時、銀行が突如貸し剥がしという暴挙を日本の銀行が行った。結果、企業は生き残りの為死に物狂いでリストラし借金を減らしたから投資が増えないのである。 

これをアホな小泉が「構造改革なくして成長なし」という一言で誤魔化してきたのである。この結果、失われた20年と言われる長期のデフレに日本は陥っていたのである。今世界は日本と同じデフレの罠に陥ろうとしている。

1990年48兆ドルだった世界金融資産は、マッキンゼーのレポートによれば2010年末で212兆ドル(1ドル80円で計算すると1京7000兆円)で、世界のGDPが2.6倍になったのに対して、世界の金融資産は4倍にもなっている。マネーサプライを名目GDPで割り返したものがマーシャルのKであるが、90年代日本のマーシャルのKは2.0程度で、その他の先進各国は0.5から1.0程度であった。今、米国はQEⅠ&ⅡそしてQEⅢを実施しようとしている。EU各国はギリシャ危機回避の為通貨の供給を増やし結果マーシャルのKもかなり大きくなっていて、日本の数値に近付いているものと思う。

過剰金融資産は余剰なマネーサプライである。余剰マネーサプライは、それを借りて需要を供給している「政府」という債務者がいる。

バランスシート不況論でいけばバブルの不良債権整理と、不足する需要を財政支出で埋めている政府である。余剰マネーサプライによる政府の債務は「経済破綻を回避する為の必要悪」もしくは「止むを得ない選択肢」なのだ。

世界中がバランスシート不況に陥ろうとしているなかで財政改革を行えば結果は恐ろしい。世界中のマネーが日本に逃げ込み円高となる必然である。だが、日本が今消費税を増税したら事態は悪化するだけだ。今やるべき最善策は、国債を日銀が引き受けさせることだと確信している。日銀が購入した国債が実質的に国の借金にならないことを当ブログの読者であれば理解していると思うが、藤巻氏は理解していないようだ。

藤巻氏は言う
日本の2011年末の名目国内総生産(GDP)は468兆円と1991年末の469兆円と変わらない。20年間も名目GDPが伸びていない。低迷している日本を抜いて中国が昨年、世界第2位のGDP大国になった。1.1の10乗は2.6だから10%成長を10年続ければGDPも2.6倍、20年も続ければ6.7倍になる。20年前に日本の8分の1のGDPしかなかった中国が長らく10%成長を続け、いとも簡単に日本を抜いたのはあたりまえだ。米国もこの20年間で名目GDPは2.5倍以上、オーストラリアもこの17年間で3.3倍と聞く。20年間、無成長の日本は、今後、他国にもどんどん抜かれていくだろう。

その通りである。

藤巻氏は以上のように成長戦略をしないから日本は抜かされると書いておいて、それでも財政再建をやるべきだという。自己矛盾ではないか?藤巻氏は自己矛盾に気がついていないのではないか?藤巻氏に限らず財政再建を主張する多くのエコノミストは同じような矛盾を気がついていないふりをしているか無視しているのではないだろうか?

では、日本はどうしたらいいのか?

民間に需要がないから、長期金利が1%になっても収益が見込めず民間は投資をしないか、あるいは減価償却の範囲の投資しか行わないのである。経済がこのような状態になった場合には、公的投資と公的消費で総需要を増やす他はない。そして総需要が増えれば、民間の投資もジワリと増えてくるはずである。

政府は眼に見える未来に夢のあるプロジェクトをぶちあげればよい。宇宙エレベーターメタンハイドレードや海洋資源の開発洋上風力発電計画原発処理にマントルまで到達する穴を掘る・・等、夢のある投資をすればよい。また、日本中の耐用年数が来た橋梁を架け替えるだけでも相当な需要が創出される。財源は日銀が国債を引き受ければよい。そして日本中のアホなアナリストが日本は破綻すると騒げば、少しは円高が止まるであろう。

JPモルガンの巨額損失はウォール街抵抗して施行できていない銀行の過剰な信用創造を規制する法案(ボルカー法)が施行されると思うが、FRBは既に巨額の過剰な信用創造によってできた不良資産を抱え、米国は日本と同じくデフレ経済に陥ることは必至である。

また、EUはギリシャ危機で更に財政再建緊縮財政を行っている。このままでいけば、スペイン・ポルトガル、イタリアどころではない、フランス、ドイツもデフレ経済でお陀仏である。

歴史的に見ても、バブル崩壊後に過剰貯蓄を伴ってデフレ経済に陥ると、各国とも為替の切下げ競争と保護主義に走る。そして最後は戦争である。第二次世界大戦にもその要素がある。まず軍事の需要がデフレ経済対策になる。そして戦争で互いの国の過剰生産設備を壊し合うことによってデフレが解消されるのである。

陰謀論者をさんざん罵倒しておいてなんなのだが・・・・世界でもっとも過剰生産設備 があるのは中国である。中国の過剰生産設備を破壊し、米国や欧州日本に生産設備を取り戻す歴史的動きが始っているように思えてならない。これは私の思い込みだが、歴史は経済的必然性に流れていくような気がしてならない。私の妄想で済めばいいのだが・・・

当ブログは個人的相場観を個人的に書いているものであり、勧誘行為とは一切関係ありません。相場等による損益の一切責任は負いません。

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4月27日、日銀が追加金融緩和を行った。私に言わせれば、これは景気が回復しないのでフラストレーションのたまった世間に、日銀がスケープゴートにされただけの話に過ぎない。日銀はすでに最大限の金融緩和を行っており責任を果たしている。かなり前からゼロ金利政策を採用しているのだ。昔の経済学の教科書によれば、中央銀行の金融緩和とは「金利を下げること」に尽きる。すでに金利をゼロまで下げてしまった以上、今回のような「準備預金残高を増やす」などの施策は、苦し紛れの悪あがきにすぎない。少なくとも経済学者の間では、「たしかに効果あり」との結論は出ていないはずだ。
米国でも共和党は「米連邦準備制度理事会(FRB)がこれまで進めてきた国債購入などの量的緩和は効果がない」として―段の金融緩和には反対していると聞く。日本でも、今後、さらなる量的緩和を行っても効果は期待できないであろう。

このように日銀はすでに最大限の金融政策を打っているし、財政も最大限出動している。それにもかかわらず日本の景気は低迷している。それも、半端な低迷ぶりではない、すさまじいほどの低迷ぶりだ。世間は、その低迷ぶりをはっきり理解していないから、枝葉末節的な景気回復論に振り回される。正しい処方箋は、正しい実態把握が必要だ、ということを福島原発事故で痛感したはずなのに、景気対策ではそれが生かされていない。

日本の2011年末の名目国内総生産(GDP)は468兆円と1991年末の469兆円と変わらない。20年間も名目GDPが伸びていない。低迷している日本を抜いて中国が昨年、世界第2位のGDP大国になった。1.1の10乗は2.6だから10%成長を10年続ければGDPも2.6倍、20年も続ければ6.7倍になる。20年前に日本の8分の1のGDPしかなかった中国が長らく10%成長を続け、いとも簡単に日本を抜いたのはあたりまえだ。米国もこの20年間で名目GDPは2.5倍以上、オーストラリアもこの17年間で3.3倍と聞く。20年間、無成長の日本は、今後、他国にもどんどん抜かれていくだろう。

GDPは伸びていないのに、国の累積赤字の方の伸びはすさまじく、この15年間で3倍近くに膨れ上がってしまった。財政状況は先進国中、ダントツに悪く危機的な状況だ。今は、世界の目が欧州に向かっているから大事になっていないだけだ。

■20年間GDPは変わらず株価は4分の1、情けなや

経済活動を反映する株価を見てみよう。日経平均は現在、1989年12月につけた史上最高値3万9150円の4分の1以下に落ち込んでしまった。一方、1989年末のNYダウは2753ドルであるから、米国株は5倍だ。しかも再度、史上最高値を狙っている。この20年間で日本の株価は4分の1、米国の株価は約5倍なのだ。ああ、日本株、情けなや、である。

個別企業を見ても、その沈滞ぶりがわかる。5月9日に発表されたトヨタの2012年3月の純利益は前期比31%減の2835億円だった。確かに東日本大震災やタイ洪水による生産減の影響があったとはいえ、昨年度でも約4100億円しかない。一方、米国では斜陽産業と言われる自動車産業であるが、それでもフォード・モーターは2011年12月期に純利益は202億ドル、約1兆6000億円もあげている。

トヨタは黒字だからまだよい。製造業の純利益は昨年度、軒並み赤字である。パナソニックが前期推定値より大幅に改善して、500億円の黒字になる見込みとたったの500億円で喜んでいるくらいだ。

日本勢が世界の8割のシェアを握っていたDRAM市場も、今や散々だ。エルピーダメモリが米半導体大手マイクロン・テクノロジーに買収されることがほぼ決まったそうで、国内メーカーが一社もなくなってしまった。DRAMの世界市場は今や日本勢のかわりに韓国勢が圧倒している。

(略)

利益低迷は製造業だけではない。4月12日に2012年2月期の連結決算を発表したイオンの純利益は前期比12%増の667億円となり、過去最高を更新したそうだ。製造業は駄目だが、サービス業は堅調だと誤解しないでいただきたい。米国のスーパーマーケットチェーン、ウォルマートの昨年の税引き前純利益は244億ドルで約2兆円もあるのだ。イオンの30倍である。

米国企業がすごいのではない。日本企業の最終利益が欧米や韓国の企業の10分の1から100分の1なのが問題なのだ。日本企業の利益低迷を世界経済低迷のせいにする人もいるが、他国企業も世界経済の影響を受けているはずだ。でも彼らは儲けている。日本企業はグローバルスタンダードでみると劣等生もいいところだ。「日本株は欧米株に出遅れているから、これから上昇余地がある」と主張する人もいるが、私はそうは思わない。出遅れたのは出遅れたわけがある。ダントツに儲かっていないのだ。

日本経済や日系企業のこの凋落(ちょうらく)ぶりを「古臭い看板方式のせい」「斬新な発想がないせい」「経営者に戦略がないせい」「リスクを取らないせい」「日本人が働かなくなったせい」と総括するのはあまりに能天気である。こんな理由で、他国とここまでの差がつくのだろうか。DRAM業界が完膚なきまでに韓国勢にやられるのだろうか。金融政策も財政政策も限界まで発動しているのにもかかわらず、だ。

■日本民族は世界で1、2の学力・知力を誇るが…

思いつく限りの最大限の努力や政策を打っても他国にこれほどの差をつけられてしまうのなら、日本民族はよほどの劣等民族で、DRAM業界をはじめとする経営者はボンクラもいいところとなる。もちろん、そんなことはない。私の見るところ、日本民族は世界で1、2を争うほど学力、知力とも高く、技術力も抜きんでていて、勤勉で道徳的、極めて優秀な民族だ。

ここまでついた他国との経済力格差を「観光業に力を入れる」「付加価値がつく産業を見つけ出す」「教育制度を変える」「補助金を増やす」などという生易しい対策で埋めることが出来るだろうか。出来るわけがない。

根本的なことが間違っているから、日本は、他国に比べ、これほどまでの遅れを取ってしまった。そこの修正がなければ日本の未来はない。その根本的な間違いとは為替のレベルに他ならない。だから私は「諸悪の根源は円高だ」と言っている。経済学では景気回復の手段として「金融政策」、「財政政策」、「為替政策」の3つをあげる。日本は為替政策を全く無視してきたどころか逆噴射させている。ここが大問題なのだ。

前回も述べたが、円高とは値上げ、円安とは値下げだ。ここが為替の基本のキである。どの会社の販売会議でも、売り上げを伸ばすための最重要決定項目は価格だろう。どんなによい製品を作ろうとも、2倍の値段差があれば競争相手に負ける。売れない。それはモノでもサービスでも労働力でも同じである。為替問題とは価格問題に他ならないのだ。

(略)

中国の人民元は1980年に1人民元約160円もした。1人民元買うのに160円も必要だった。今や1人民元12円70銭だ。13円弱で1人民元が買える。人民元は12分の1に下落したのだ。そうなれば価格は12分の1だ。今、例として述べた中国と日本のテレビの販売競争が実際に起きたのである。日本に替わり中国が世界の工場になったのは当たり前だ。米国がいくら元の切り上げ要求をしても、お茶を濁す程度にしか元の切り上げをしないのは、中国の政治家が日本の政治家と違って為替の重要性に気がついているからだ。

■韓国ウォンは円に対し13分の1に安くなった

1997年の通貨危機で、「あの国は終わった」「地獄を見た」とまで言われた韓国がここまで回復したのも、ひとえにウォン安のせいだ。ウォン安でモノもサービスも労働力も何分の1かに大幅値下げしたことになり、国際競争力が回復したせいだ。「企業が集約化を図ったからだ」と解説する専門家もいるが、そんなものはウォン安になっていなかったら、なんの意味も持たない。

(略)

今、新卒者の就職が難しくなり、政府もいろいろ予算をつけて対策を練っている。失業者対策でもハローワークに予算を振り向け、失業率低下への努力をしている。しかし、そのようなことをしても更なる円高が進めば、そんな努力も予算も全くの水の泡だ。日本人労働力もモノと同じで円高による値上げを続けてきたのだから、売れなくなるのは当たり前の話だ。中国人も日本人も依然同じ月給16万円だったとしよう。中国人労働者が、人民元が12分の1になったせいで月給1万2000円で雇えるようになれば、月給16万円の日本人を雇い続けない。

企業は安くなった外国人労働力を求め国内の工場を閉鎖して海外に進出する。空洞化である。空洞化になれば、工場周辺の商店街はシャッター通りとなる。日本人の仕事が大幅に減るのだから就職が難しくなり、失業者が増えるのは当たり前だ。この労働力の値上げ問題に手を付けない限り、どんな失業対策も枝葉末節だ、と私は思う。

(略)

■20年もGDPが低迷する国への投資はあり得ない

普通の資本主義国家で人々が合理的な行動をとる国ならば、成長著しい世界経済に目を向けず、20年間もGDPが低迷する国にひたすら投資を続けるなどありえない。リスクが同じなら、リターンの良い方に金が流れるのが市場原則で合理的な動きだからだ。

しかし日本にはその仕組みやシステムが欠如していた。日本が社会主義国家だからだ。ちなみに「日本が世界で最大の社会主義国家だ」というと日本人は、驚くが、これは日本に住んでいる多くの欧米人の共通認識だ。少なくとも私が米銀に勤務していた頃付き合っていた外国人の間ではそうだ。

「郵政の金融部門が長らく国営だった」ことなどは「日本が社会主義」である身近な例だ。世界最大の銀行で、日本の個人金融資産の17%も預かっているゆうちょ銀行が国営だったのだ。そんな国を社会主義国家と呼ばず、なんと呼ぶのだろう。小泉改革で民営化への道へ進みはじめたと思ったら、つい最近、郵政民営化法改正案が国会を通過し、又、逆戻りの気配だ。

(略)

そもそも小泉政権下で郵政民営化を進めたのは、郵貯で集めたお金の大半が、国債購入に充てられていたことを是正するためで、資本主義国家への方向転換のはずだった。要は、ゆうちょ銀行に代表される日本の社会主義体制が、流れるべき場所へのお金の流れをせき止め、財政赤字問題を深刻化させ円高を進めたのだと私は思っている。財政赤字問題と円高問題の根は一つなのだ。

「根本治療として社会主義国家から資本主義国家への脱皮、対処療法としては円安誘導が必要」と20年来、私が主張してきた理由はそこにある。

■仏とギリシャの選挙は大衆迎合化の結果

先日のギリシャとフランスの選挙で両国とも財政緊縮反対派が勝利したが、政治のポピュリズム(大衆迎合)化の結果だと思っている。ばらまきの方が緊縮財政より明らかに選挙受けする。我が日本は、「ばらまき、ばらまき」で両国より、よほど政治のポピュリズム(大衆迎合)化が進んでいると思うが、その上に、ヨーロッパと違って長期金利市場の警戒警報機能が働いていないのだから始末が悪い。ブレーキ役が全くいないのだから円と国債のバブルは膨れに膨れ上がって、今や大爆発寸前だ。残念ながらもう膿が溜まりすぎてしまって、時すでに遅し、だと私は思う。ソフトランディング的な政策が手遅れなら、個人は自分自身の責任でハードランディングに備えるしかない。

だからこそ保険の意味で、少しでも外貨建て資産を買って資産分散をすることが必要なのだ。外貨建て資産は日本の銀行や証券会社、外資系金融機関の日本の支店で買える。なにも難しいことはない。ならば、あとは行動を起こすか否かの問題だと私は思っている。ここまで国の累積赤字が溜まった以上、今、外貨建て資産を買うのは、火事に備えて火災保険を買うのと似ている。火事が起こらなくても、火災保険が無駄になったと怒る人はいないはずだ。

当ブログは個人的相場観を個人的に書いているものであり、勧誘行為とは一切関係ありません。相場等による損益の一切責任は負いません。


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