Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ

政治経済軍事外交、書評に自然科学・哲学・聖地巡礼・田園都市ライフ、脳の外部記憶媒体としてこのブログを利用しています。2020/11/30以前はGoogle検索でキーワードを入れると常に上位にありましたが、日本のトランプ大統領デモを紹介した記事が米国でバズって以降検索アルゴリズムから排除され検索ヒットされにくい状態です。是非ブックマークをお願いします。このブログをご訪問していただいた方の知識や感性として共有できれば幸せに思います。

タグ:絵画

オランダ博物館所蔵の作者不詳の絵画が北斎の肉筆洋画であると研究発表される その1ライデン国立民族学博物館・シーボルト だけではブログの画像容量を超えてしまい北斎(北斎工房)の肉筆西洋画を網羅することができませんでしたので、その2としてフランス国立図書館蔵を中心とした北斎(北斎工房)の肉筆西洋画を紹介します。

フランスと日本 日本風俗図絵より (デ・ステューレル・コレクション)
江戸時代の古き良き日本の風景や日常が、リアルに感じ取ることができます。
凄いコレクションです。








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雨中の漁   


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海女 







以上 ブログの容量の関係で、その1に掲載した作品は載せることが出来ませんでしたので、タイトルの方をクリックしていただければ、フランスと日本 日本風俗図絵の画像とリンクしてあります。

一昨年、大規模な北斎展が東京国立博物館で開かれた。そこには多くの里帰り作品も出ていた。ものすごい混雑だったが、前期・後期の2度観にいって北斎の全貌を知ったと思っていた。

ところが、それはまったくの誤りであることが、今回の東京江戸博物館の北斎展でわかった。

 出島に滞在したオランダ人たちが、北斎の肉筆風俗画を入手し、祖国に持ち帰っていたのである。

 これらの風俗画は、現在、オランダ国立民族学博物館とフランス国立図書館に所蔵されており、今回これらが初めて同時に里帰りしたので、今まで知らなかった北斎を知ることになったのである。

 展覧会は、第一部「北斎とシーボルト」と第二部「多彩な北斎の芸術世界」の2部構成。第二部は「今まで知っていた北斎」、第一部が「今まで知らなかった北斎」である。

 確かに第一部の肉筆画は今まで観てきた北斎の絵とはかなりの距離がある。画題は人間中心である。色鮮やかである。一部の絵では、遠くのものが小さく描かれており、しっかりとした水平遠近法がとられている。

 「本当にこれが北斎か?」と一瞬思うが、会場には北斎の類似作品が並列に展示されており、だんだん「やはりこれも北斎なんだ」と自分にいいきかせるようになってくる。

 図録の冒頭の論考「葛飾北斎とシーボルトの出会い」を読んでその思いをいっそう強めた。この論文の著者は、今回の展覧会の学術協力者となっているオランダ国立民族学博物館のマッティー・フォラー氏 Dr Mathi Forrerである。まとめると次のようである。

1.出島のオランダ商館長ブロムホフと書記官フィッセル: 二人とも日本の文物のコレクションを行っていたが、1822年の江戸参府の際、北斎に絵画作成を依頼し、オランダ製の紙を提供した。

2.その頃の北斎: 1822年に一人の娘を失い、年長の娘の離婚などもあって、絵の制作状況はスランプ状態であった。この依頼品の作成は1824年暮ごろから始まったと考えられる(今回の絵の一つ《節気の商家》の大福帳にこの年号が描き込まれているため)。

3.次のオランダ商館長デ・ステューレルと商館医シーボルト: 4年後の1826年に北斎より依頼の絵を受け取っている。二人はこれを欧州に持ち帰り、現在パリとライデンに保存されている。

4.シーボルト・コレクション: 15点すべてがオランダ紙に描かれ、現在「ライデン国立民俗学博物館」に保管されている。これらにはすべて西洋画の影響がある。一部には魚屋北渓が描いたと思われるものもあるが、ほとんどは北斎本人によって描かれたものとされている。欧州人の依頼だったので、自分にも洋風画は描けるといった北斎の気概が感じられる。

5.デ・ステューレル・コレクション: 25点がフランス国立図書館に寄贈されているが、1点を除いた24点は和紙に描かれている。パリのものでは、肖像画↓のような一部の例外を除けば、西洋の影響が観られない。これらパリ作品の下絵が、今回大英博物館から出展されているが、これらは魚屋北渓が描いたもののようだとのこと。

6.後期北斎作品への影響: 欧州注文作品に出ているイメージはその後数多く使われており、北斎の大発展の契機となったのではあるまいか。

所蔵の経緯や、文献、4年ごとに江戸を訪れる商館長の慣習などから、多くは1822年に発注、1826年に受け取ったものとみられている。

日本の風俗を欧州に伝えるために依頼されたのだろう。北斎は当時60代。「北斎漫画」などで名声を得ていたが、北斎の代表作「冨嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」(1836年)製作前である。

 
本人の手によるものも、弟子の魚屋北渓とあるが、その1でも述べたが、西洋絵画では中世から続く徒弟制度が依然として続けられていた為、例えばレンブラント筆とされる大作の絵画の多くはレンブラント工房の製作、であるように、北斎工房製の絵画はやはり北斎の絵として判断していいかもしれません。

 
その1で引用させてもらった神谷浩・名古屋市美術館学芸課長は「「俺たちだって、あんたたちみたいな写実的な絵が描けるんだよ」という対抗意識から、西洋画の特筆である陰影を作品に施したのかもしれません。」と言っておりました。ただ、西洋画を西洋画家から学んだのではなく、西欧近代絵画に挑んだが陰影の西洋表現への全体的理解は不十分だったかもしねい。その1の驟雨(しゅうう)(夕立)などはちょっと過剰に感じる。

 だが、
比類なきデッサン力を誇った北斎もしくは北斎工房が描いたこの絵画に描かれた人間は生き生きと描かれ、さすが北斎であり、その後の冨嶽三十六景などに大きく影響を与えた仕事だったと思う。



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隅田川両岸景色図巻 の吾妻橋付近(東京都墨田区提供))

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隅田川両岸景色図  三囲神社(右奥)と牛嶋神社付近(東京都墨田区提供)


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葛飾北斎が江戸の日本橋を描いた水彩画=ライデン国立民族学博物館提供
オランダのライデン国立民族学博物館所蔵で、長年作者不明とされてきた6点の絵が江戸時代後期の浮世絵師、葛飾北斎(1760~1849年)の作品である可能性の高いことが22日、分かった。西欧の水彩画の技法を使った異色の作品で、当時交流があったとされるドイツ人医師、シーボルトらの影響を受け、描いたとみられる。

 長崎市で開かれた「国際シーボルトコレクション会議」で、同博物館シニア研究員のマティ・フォラー氏が報告した。6点のうち5点は和紙に江戸の街並みを描いた風景画で、残る1点は版画。これも江戸の風景が描かれている。

 同博物館はシーボルトが日本からオランダに持ち帰った絵画などのコレクションを所蔵。2年前、シーボルト直筆のコレクションの目録が見つかり、フォラー氏が照会したところ、今回の6点に関し、「北斎がわれわれ(欧州)のスタイルを使って描いたもの」との記述があった。絵の特徴も細かく記されており、北斎作の可能性が高いとみている。(共同)

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葛飾北斎が描いた水彩画。江戸の品川周辺とみられる=ライデン国立民族学博物館提供
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葛飾北斎が描いた水彩画。江戸の赤羽橋周辺とみられる=ライデン国立民族学博物館提供
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葛飾北斎が描いた水彩画。江戸の両国橋とみられる=ライデン国立民族学博物館提供
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葛飾北斎が描いた水彩画=ライデン国立民族学博物館提供
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葛飾北斎が描いた石版画。江戸の永代橋とみられる=ライデン国立民族学博物館提供
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葛飾北斎が江戸の日本橋を描いた水彩画=ライデン国立民族学博物館提供
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江戸時代の出島を描いた絵、これは?・・・・http://www.webkohbo.com/info3/nagasaki/nagasaki3.html

北斎の肉筆画と判明 「作者不明」西欧の水彩画風の6枚
【YahooNews】西日本新聞10月22日(土)10時10分配信

長崎のオランダ商館で働いていたシーボルトは1826年に江戸に上った際、北斎らと面会したことが分かっている。同博物館には、この6枚とは別に、北斎の肉筆画と認められた11枚が伝わっている。
調べてみたら11枚どころではなく、もっと沢山の北斎肉筆画が海外に流失しておりました。

シーボルトと北斎はなんと交流があり、沢山の肉筆絵画を注文していたと言うのです。
ただし、娘の応為であるとか弟子の魚屋北渓などが画いた北斎工房の作品が混ざっている。
しかしながら、西洋絵画では中世から続く徒弟制度が依然として続けられていた為、例えばレンブラント筆とされる大作の絵画の多くはレンブラント工房の製作、であるように、北斎工房製の絵画はやはり北斎の絵として判断していいかもしれません。
 1999年、アメリカの「ライフ誌」が行ったアンケート調査「この1000年でもっとも偉大な業績を残した世界の100人」で、日本人で唯一選ばれた江戸の浮世絵師・葛飾北斎(1760-1849)。印象派などヨーロッパの近代絵画に大いに影響を与えたことが知られる彼は、実は、長崎出島の医官シーボルトとも交流があった!? 現在、江戸東京博物館では、北斎の芸術を一望しながら、彼と出島の外国人たちとの交流も紹介する「北斎―ヨーロッパを魅了した江戸の浮世絵師」が開催中だ(2008年1月27日まで開催)。この北斎とオランダ人との交流の謎を、展覧会の代表者である名古屋市美術館学芸課長の神谷浩氏に聞いた。

 (2008年2月9日~3月23日に名古屋市美術館に巡回、4月5日からは山口県立萩美術館・浦上記念館に巡回する)

展覧会は2部構成


 この展覧会は、オランダ国立民族学博物館のキュレーターであるマティ・フォラーさんが「北斎と長崎出島のオランダ人との交流を紹介したい」と提案したことから始まりました。

 というのは、彼の職場であるライデンのオランダ国立民族学博物館とパリのフランス国立図書館に、北斎が描いたという不思議な絵があったんです。これが今回ご紹介している作品群で、ライデンの方が長崎出島の医官だったシーボルトが民族資料として持ち帰った15点、パリの方が出島の商館長(カピタン)を務めた後、フランスに移住したヨハン・ヴィレム・デ・ステュルレルが持ち帰った25点。北斎画というにはその出来にかなりばらつきがあるので、研究者たちは、この中のどれが北斎の絵で、どれが弟子の絵なんだろうか、なんて首をひねっていたんですが、それをフォラーさんが、とりあえず作者の推定まで一生懸命やってくれたんです。

 そこで、この研究の成果をぜひ日本で紹介したい、ということになりまして、まず第一部で、彼の研究に基づいた展示を行い、第二部で、有名な《冨嶽三十六景》や、新発見の《四季耕作図屏風》などを含めて、北斎の芸術を一望できる展示にした、というのが今回の展覧会の構成です。

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北斎 《四季耕作図屏風》 文化年間(1804-18)中期 紙本著色 107×292センチ 個人蔵

北斎とシーボルト

 展覧会の第一部では、北斎とシーボルトの交流に焦点を当てています。しかし、北斎とシーボルトの接点を物語るような決定的な記録は、残念ながら出てきていません。ただ、いろんな状況証拠から、どう考えても2人は出会っていただろう、と思わざるを得ないんですね。

 例えば、当時、長崎出島のカピタンは、4年に1度の江戸参府が義務付けられていました。北斎も1700年代後半、まだシーボルトが来日する前に、すでに『東遊(あづまあそび)』という狂歌絵本の中で、出島の外国人たちが江戸で定宿としていた「長崎屋」の様子を描いているのですが、ちょうどこの頃、彼は出島のカピタンとトラブルを起こしているんです。

 『古画備考(こがびこう)』(1845年から50年にわたって編集される)という本に書かれている記事には、この頃、北斎はカピタンと彼に同行してきた医者に、日本人の男女の一生、つまり生まれた時からお葬式までの様子を2巻1セットの巻物を2セット描きました。出来上がった絵を彼らの宿に持参すると、カピタンは約束通り150金を支払ったのですが、医者の方は「自分は貧乏だから75金にしてくれ」と値切ってくる。そこで、北斎は、「金がないなら、ないと最初に言ってくれれば、絵の具を安くするとかいくらでもコスト削減の手立てがあったのに」と怒ってね、医師には絵を渡さずに帰ってしまった。すると、奥さんから「なんで75金でOKしなかったのよ」と叱られた、という記事なんですね。

 つまり、北斎は、長崎出島のカピタンのために絵を描いていたことが分かる。そして、もしかしたら、この医師はシーボルトかも知れないんです。シーボルトと北斎が出会っていたとしたら、彼らを引き会わせたのは、おそらく1800年代の初めごろに「出島出入絵師」となっていた川原慶賀(1786-1860以降)だったろう、ということも推測できるんです。

 この人は、シーボルトの資料収集のために、日本の植物や風俗を描いた人で、文政9(1826)年の江戸参府の時にも、彼はシーボルトとともに江戸に来ています。第一部で紹介している北斎の風俗画も、おそらくこの時に同じ絵描きの慶賀がシーボルトを北斎先生に紹介したことで生まれた、と考えると大変自然なんですね。

北斎と北斎工房

 それにしても、カピタンたちは、数多くいた江戸の絵師たちの中で、なぜ北斎に江戸の生活の記録を描かせたのか? シーボルトの「お抱え絵師」であった川原慶賀の存在は無視できないとは言え、これは僕も一番知りたいナゾの1つです。

 もちろん、彼らが北斎を選んだことは大正解でした。よく言われるように狩野派の絵師は、お手本通りに描くことしかやっていなかったわけですから、生きている人間を生きているように描くという点では、北斎は群を抜いていた。その頃に出回っていた画工の見立番付などを見ても、北斎は最上位の「横綱」になったり、それを通り越して「行司」になったり、と、非常に評価が高いんです。江戸でトップの絵描きで、何でも描けて、しかも流派に属さない一匹オオカミ的な存在だった、というところで、外国人たちも頼みやすかったのかもしれません。

 さて、今回、第一部の風俗画は、「北斎工房」の作ということでご紹介しています。「工房」というと、アトリエの中に先生がいて、弟子がいて、分業制で制作しているような西洋の工房を思い浮かべる人が多いと思うんですが、北斎の場合、そこまで厳密ではなかったと思う。まあ、彼は引っ越し魔でしたし、家の中も散らかし放題でぐちゃぐちゃだった、という記録もありますから、彼の家が西洋的な意味での「工房」だったとは思えません。

 たぶん、北斎が受けてきた仕事を、どんなふうに描くか、というところぐらいは皆で相談したとしても、あとは適当に割り振った絵を弟子たちが描いたのではないでしょうか? その時に、北斎が中心に描いたり、娘の応為(おうい)がかかわっていたり、ということで、自然といろんなタイプが出てきたのでしょう。ただ、北斎が確認して「よっしゃ」とOKのハンコを押した時点で、これらは立派な「北斎ブランド」となるわけです。このあたりのニュアンスが伝わりくいようで、「弟子が描いたのなら偽物では?」と聞かれることがあるんですが、これは、北斎がプロデュースした一種のブランド商品、と考えていただければいいかと思います。

「燃える男」北斎の陰影法

 西洋画の技法にも大変興味を持っていた北斎は、自分で油絵の具を作ったこともあるようで、最晩年に出版した『画本彩色通』という本の中で、彼は、油絵の具の作り方を丁寧に説明しています。カピタンたちに発注された風俗画も、絵の具は日本の顔料を使っているんですが(シーボルトのコレクションに関しては、紙はオランダ製)、西洋の絵画をまねて陰影法を採用するなど、従来とは明らかに違った技法で絵を描いていますね。

 実は、当時の日本において、絵に陰影を付けるということはとんでもないことなんです。でも、北斎は「燃える男」なので(笑)、「俺たちだって、あんたたちみたいな写実的な絵が描けるんだよ」という対抗意識から、西洋画の特筆である陰影を作品に施したのかもしれません。

 面白いことに、シーボルトが日本にいた文政年間、北斎は目立った活動をしていません。つまり、この時期は年表に記述が少ない部分なんです。ところが、今回詳しく調べてみると、不毛の時期と思われていた時こそ、この展覧会でスポットの当たる時期だった。それで、マティ・フォラーさんなどは、この時期、北斎は娘の応為が離婚したり、彼自身の老齢(当時60代)がこたえたり、いろんな意味でどん底だった。だから、出島の外国人のために仕事をすることで、次のステップを踏むことができたのではないか、と言っています。

 しかし、僕はその逆で、むしろ北斎は、この時期、出島の外国人たちの仕事に没頭していたのではないかと思っている。立証はできないですけどね。でも、先にも言ったように、北斎はカピタン相手に150金という画料をとっていた。これが「両」とすると大変です。当時、文人画などは、絵の具料込みで10両ぐらいで描かれていた例を思うと破格ですよね。江戸時代後半の貨幣価値を現在の貨幣価値に換算すると、おそらく1両が数万円だったと思いますから、150両といえば数百万円。シーボルトの仕事も量は多いし相当な金額をもらっているはずなので、ほかの仕事をしなくても経済的には全く問題なかったと思われます。それに北斎って、酒も女性もバクチにも興味なさそうだし、一体何にお金を使ったのかと思うんですが、使ったとしたら、おそらく絵の具に相当つぎ込んでいる。今回出品されている作品も、僕の同僚が「何これ。本当に日本の絵の具なの?」と驚いたぐらい、発色のよい、高級な絵の具を使用していました。

 文政11(1828)年、「シーボルト事件」とともに、シーボルトが日本を去った後、北斎は《冨嶽三十六景》、非常に出来の良い『北斎漫画』12編といよいよ傑作を連発してくのですが、これはシーボルトたちの仕事が北斎に様々なインスピレーションをもたらしたとともに、この仕事に没頭するために、いろんな仕事を中断していた、とも考えられるのではないかと思います。

第二部の見どころ

 第二部でまず、見ていただきたいのは『北斎漫画』です。ライデンから借用したこの本の初編から10編までは、文政9(1826)年の江戸参府の折にシーボルトが江戸で購入して、そのまま博物館に入ったもので、「シーボルトと、マティ・フォラーさんの指紋しかついていないんじゃないか」という冗談が出るくらいにピカピカなんです。本の入っていた袋まで大事にとってあるので、こういったものを見るのも面白いと思います。

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北斎 《美人夏姿図》 文化年間(1804-18)中期 絹本著色 85.5×29.4センチ 個人蔵(後期展示)

 また、北斎と言うと、どうしても「赤富士」や「波」が描かれた《冨嶽三十六景》を思い浮かべる人が多いと思うのですが、彼が力を入れたのは、むしろ《冨嶽百景》の方だったと僕は思っている。これは北斎が70代半ばに出版した版本なんですが、構図も素晴しいし、彫り師も、北斎が選んだ当時最高の人を使い、跋文(ばつぶん)では、自分の人生を回顧して、「俺はまだ頑張るぞ」とさらなる決意表明までしています。墨一色の本であるにもかかわらず、状態のいいものを見ると、モノクロームってこんなに表情が豊かなのか、と改めて感心できると思います。

 それから、今回出ている肉筆画に関しては、僕ははっきり言って自慢しますよ。特に今回は新発見の《四季耕作図屏風》や、約30年ぶりに公開される《生首図》、そして《松下群雀図屏風》など、あまり手垢(てあか)の付いていない作品を紹介することができました。その中でも、僕の一番のお気に入りは、東京では後期(2008年1月2日~27日)に展示される《美人夏姿図》。壮年期の北斎が描いた美人画なんですが、ピンクの襟とか、衣が透けている感じが素晴らしくて、どうすればこういう風に描けるのか本当に不思議です。まさに神業というか……。この美人は僕の恋人といっていいぐらいの作品です。

 今回展示室の出口の近くに「悪玉」の面をつけた人間が踊る『踊独稽古』をパネル展示しています。閉館近くなって周りに人が少なくなると、実際にこれを見て踊りだす人がいるんですよね(笑)。試しに踊りたくなってしまうほど、北斎の絵は、骨格がきちんと描けていて、デッサンがしっかりしているんです。

 僕は、北斎に会いに来たのが、シーボルトでなくゴッホだったら、絶対に「素描を描いてください」と言ったと思っている。後世の話ですが、ゴッホは北斎のデッサン力を、大変評価していました。確かに北斎は、眼と手の神経が直結しているのではないか、と思うほど優れたデッサン力の持ち主でした。それに加えて、北斎のコンポジション(構図)とイマジネーションの力も素晴らしい。そして、彼が描いた絵の「量」も考えなければならないと思います。「質より量」というのではなく、北斎は、描き続けるうちに、画力がどんどん上がっていった画家でした。そういった彼の芸術的な特質を、じっくりと考えながら見ていただければ、と思います。
さて、北斎の肉筆洋画発見とのニュースで、海外に流失した北斎の肉筆絵画を検索してみたところ、非常に沢山の画像を発見することができました。

その多くは私が知る北斎の浮世絵や肉筆画と異なり、同時代の印象派画家に影響を与えるだけのことはあって、驚き感動しました。北斎の絵を見たシーボルト達は西洋画家から学んだことが無い極東の端の島国の老画家が生き生きと描く西洋画に唯々驚いたと思います。そして、美しい生の日本そのものを、天然色で本国に伝えたかったのだと思います。



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       年始回り



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    武家 

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     町屋の娘







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            武士と従者 



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本を読みつつJ-WAVEを聴いていると歌川 国芳の浮世絵にスカイツリーが描いてあるとの話。そんな馬鹿な・・・早速ググルとヒット!おいおいこれは・・・・スカイツリーではないか! 
  
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歌川国芳の「東都三ツ股の図」。天保2(1831)年ごろの作とされ、隅田川にシジミ取りの舟が浮かび、手前には舟底をいぶす2人の職人が描かれている。絵の左奥は対岸の江戸・深川辺りで、他の建物を圧するような細長い構造物が二つ見える。左側の低い方は当時存在した火の見櫓(やぐら)とされ、その右の巨大な組み立て式の塔は実在しなかったという
 
私は前より国芳のファンでこの絵も確か見たことがあった。最初に観た時には当然スカイツリーなどまったく影も形もなかった頃で・・・・東京タワーと異なるシルエット送電用鉄塔は単独ではないので・・・デフォルメしすぎたちょっと高めの相撲櫓かと思っていた。だが、2011年の今この浮世絵を見れば・・・形といい位置といいスカイツリーに見える。浮世絵に痕跡が残るオーパーツであろうか・・・
 
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歌川国芳ははただものではないとは思っていたが、ひょっとすると彼は時空を越えた透視能力者(リモートヴューワー)だったのかもしれませんね。あの奇抜な発想、そして今も古くはない新しいセンス。歌川 国芳を知ると皆さんもきっと国芳ファンになると思います。

歌川国芳:江戸・天保年間の浮世絵に「スカイツリー」?

◇幕末の浮世絵師・没後150年展で展示
江戸の浮世絵にスカイツリー?--。川崎市川崎区の砂子の里資料館が7日から開く「幕末浮世絵界の奇才 歌川国芳 没後150年展」(前期)に展示される作品が、話題になっている。
 作品は「東都三ツ股の図」。天保2(1831)年ごろの作とされ、隅田川にシジミ取りの舟が浮かび、手前には舟底をいぶす2人の職人が描かれ「立ち上る煙と空の雲が綾(あや)なし、独特の雰囲気を醸している」(同館)。絵の左奥は対岸の江戸・深川辺りで、他の建物を圧するような細長い構造物が二つ見える。左側の低い方は当時存在した火の見櫓(やぐら)とされ、その右の巨大な組み立て式の塔は実在しなかったという。
 歌川国芳(1798~1861年)は葛飾北斎、歌川広重らと同時代に活躍し、奇想、破天荒な作風の絵師として知られる。江の島を描いた作などはおどろおどろしくもあり、北斎などの写実性とは趣を異にする。武者絵や美人画、化け物なども得意とした国芳だけに同館の斎藤文夫館長は「当時は江戸城より高い建物は建てられない決まりがあった。江戸の街を見下ろしており、東京スカイツリーを予想したような恐るべき独創性に驚く」と話している。
 建物は井戸掘りの櫓と見られるが「深川界隈(かいわい)であんな大きな塔を建て井戸を掘ることは考えられない」と斎藤館長。また、展示される「東都御厩川岸之図」にある貸し傘に書かれた「千八百六十一番」は、国芳の西暦没年と同じ数字で「国芳だけに偶然とは思えぬ」とも。
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まったく同じ位置ではないが・・・
そう遠くない位置だ! 
江戸時代浮世絵文化の最後に異彩として輝いた歌川国芳、同時代に活動した葛飾北斎歌川広重らの人気絵師に比べ、知名度や評価は必ずしも高いとは言えなかったが近年 「幕末の奇想の絵師」として再評価されはじめてきた。 
 
私は大学のサークル時代(美術研究会)で浮世絵好きの後輩の女子に影響され国芳を知るようになった。80年代当時の人気雑誌ビックリハウスだったか宝島でこの↓の:『相馬の古内裏』 滝夜刃(滝夜叉)姫の操る妖怪がしゃどくろと戦う大宅太郎光圀を見て国芳のファンとなった。日本のホラー漫画の元祖みたいなものだ、すごい!
 
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http://akituya.gooside.com/yokomichi/kuniyoshi/al1m.jpg物を集めて何かを形作る、という手法は、西洋ではイタリアのアルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo,1527-93)※が有名です。「国芳がアルチンボルドの影響を受けた」とか「いやいや全く関係ないよ」とか、いろんな意見があるようですが、ホントのところはよく分かっていません
 
 
 
ジュゼッペ・アルチンボルド≪四季 春≫ 1573年
油彩・カンヴァス76×64cmルーブル美術館蔵
 
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 北斎が漫画の元祖なら国芳は漫画の家元かもしれません。
 
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この「流行たこくらべ」は21世紀の今でも通用する新しさがあると思いませんか? 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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4月から大阪をかわきりに過去最大級の国芳の回顧展が開催されるとの事です。今年12月には森アーツギャラリー(六本木ヒルズ) に巡回するとのこと。 
国芳ファンの私としては待ち遠しい!
 
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歌川国芳(寛政9[1797]-文久1[1861])は、画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広汎な魅力を持つ作品を多数生み出した絵師です。その作品は、浮世絵ファンのみならず、現代のデザイン関係者や若い世代の人々にも大いに注目されています。国際的にも高い評価を得ており、2009年にはロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで大英博物館所蔵品による「KUNIYOSHI」展が開催され、COOLな浮世絵として評判を呼び、この展観は2010年にはニューヨークでも開催されました。
国芳の魅力は、なんと言っても、その画想の自由さ、豊かさ、限りなく広がるイマジネーションの世界にあります。物語の夢と冒険とロマンの世界を具現化する手腕においては、国芳は他に並ぶ者のいない卓越した才能を示し、まさに、江戸のグラフィックデザイナーとも称すことができます。
2011年は国芳の没後150年にあたります。本展はこれを記念し、国芳の代表的な作品は勿論、これまでの展観では未紹介であった傑作、新発見の優品の数々を含む400余点を展観し、国芳の多様な画業をふりかえり、新たにその全貌を明らかにしようとするものです。今回の展覧会が国芳の魅力を堪能できる稀有で貴重な機会となることは疑えません。
 
 
 
 
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国立新美術館で「シュルレアリスム展」-国内最大規模で開催 【六本木経済新聞】

イメージ 5国立新美術館(港区六本木7)で2月9日、「シュルレアリスム展」が始まった。日本で開催されるシュルレアリスムの展覧会としては最大規模で、ポンピドゥーセンター所蔵の絵画、彫刻、写真、映画など約170点を5つの章に分けて展示する。

シュルレアリスム運動はアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」によって始まったとされるが、同展ではその前の「ダダ」の時代から、ブルトンの死までの約50年を5つの章に分け、それぞれの時代にどのようなテーマで

マン・レイ撮影「アンドレ・ブルトン」                  運動が展開されたかに焦点                               を当て作品を展示する。

展示作品は、マルセル・デュシャン、ジョアン・ミロ、ルネ・マグリット、ダリなどの著名作家のものに加えて、マッソンやブローネルといった日本ではこれまであまり紹介されてこなかった作家の作品を大きく取り上げ、シュルレアリスム運動の全体像を見取り図として描けるような構成になっている。

同展を監修したポンピドゥーセンター・パリ国立近代美術館のディディエ・オッタンジェ副館長は「芸術作品とは、そのまま眺めるためのものではなく、見るもの自身の精神を開かせて、見る人と世界との関係を変え、さらには世界そのものを変革しようするものであるというシュルレアリスムの意図を読み取ってほしい」と話す。

開催時間は10時~18時(金曜は20時まで、火曜休館)。入場料は大人1,500円ほか。オッタンジェ副館長の記念講演会(2月11日)、巖谷國士明治学院大学教授の講演会(3月12日)シュルレアリスム映画上映会(2月26日、4月9日)、親子向けイベント「しゅるれありすむを学ぼう」(4月2日)も開催予定。5月9日まで。
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 この「シュルレアリスム展」はどちらかというとマニア向けの展覧会であったかな。
ダリ、ミロ、キリコ、マックス・エルンスト、ルネ・マグリット、マンレイといったシュルレアリスムのビックネームは数点づつに限られ初めて見た画家が多数であった。
 
出展アーチスト一覧
アーウィン・ブルーメンフェルド、アーシル・ゴーキー、アルベルト・ジャコメッティ、
アンドレ・ブルトン、アンドレ・マッソン、イヴ・タンギー、
インジヒ・ハイスラー、ヴィクトル・ブローネル、ヴィフレド・ラム、
ウィルヘルム・フレッディ、エリ・ロタール、カミーユ・ゲーマンス、
クロード・カーアン、サルバドール・ダリ、シモン・アンタイ、
ジャクソン・ポロック、ジャック=アンドレ・ボワファール、ジャック・プレヴェール、
ジャン・アルプ、ジャン・ドゥゴテクス、ジョアン・ミロ、
ジョゼフ・コーネル、ジョセフ・シマジョル、ジョ・デ・キリコ、
ドラ・マール、ドロテア・タニング、パブロ・ピカソ、
ハンス・ベルメール、ブラッサイ、フランシス・ピカビア、
ヘルベルト・バイヤー、ポール・デルヴォー、マックス・エルンスト、
マックス・モリーズ、マッタ、マヌエル・アルバレス・ブラボ
マリー・トワイヤン、マルセル・ジャン、マルセル・デュシャン、
マン・レイ、ユディト・レーグル、ラウル・ユバック、
リュシアン・ロレル、ルイス・ブニュエル、ルネ・クレール、
ルネ・マグリット、ロバート・マザウェル
 
恥ずかしいが、知らないほうが多かった。
 
1924年、当時28歳の若き詩人アンドレ・ブルトンは、パリで「シュルレアリスム宣言」を発表した。シュルレアリスムは、人間の無意識の世界の探求する芸術である。
 
黒澤明監督の「夢」というなんともシュールな映画があったけれど
 
 
夢、幻想、神話、がメタファーとなって、日常的な現実を超えた新しい美と芸術、それに革命に触発され、現実の変革を実現しようと試みるものでした。シュルレアリスムは、たんに絵画に留まらず文学や絵画、映画、写真、オブジェ、広告、演劇など幅広く表現され、21世紀の我々に触発し続けている。 
 
 
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【THEハプスブルグ】
http://www.habsburgs.jp/index.html
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この曲はフランスを代表する作曲家ラヴェルの代表曲パリ音楽院在学中に作曲した初期を代表する傑作であり、ラヴェルの代表曲の1つと言える。ラヴェルがルーヴル美術館を訪れた時に、17世紀スペインの宮廷画家ディエゴ・ベラスケス(1599-1660)が描いた若い王女(マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ)の肖像画からインスピレーションを得て作曲したという。「亡き王女」という題名はフランス語でinfante défunteとなり、言葉の韻を踏む遊びから命名された。ラヴェルによるとこの題名は「亡くなった王女の葬送の哀歌」ではなく、「昔、スペインの宮廷で小さな王女が踊ったようなパヴァーヌ」だとしている。パヴァーヌとは16世紀のヨーロッパに普及した王侯貴族のための行列舞踏である。

しかしどこか静かな幽玄な空間を作り出すこの曲は永年フランス革命の露と消えたマリーアントワネットへの追悼曲だとばかり思い込み、勘違いしておりました。

亡き王女の為のパバーヌをYouTubeでどれにしようか聴き比べていたら、Fujiko Hemmingさんのピアノに惹かれてました。ラベルが王女マルガリータの絵から感じたのイメージとは解釈がことなるかもしれませんが、Fujiko Hemmingの亡き王女の為のパパーヌはなんと心に染み入るのだろう。ピアノ一台でどうしてこんなに幽玄な世界広がるのだろう。そう、墨一色で森羅万象を描く水墨画のような亡き王女の為のパバーヌだ。
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「明神の精」鈴木墨章 http://www001.upp.so-net.ne.jp/pf6/sub1-6.htm
THEハプスブルグには関係ない絵ではございますが、なんと水墨画です。


イメージ 3THEハプスブルグ展を29日日曜日家族で観てまいりました。
ベラスケスの白衣の王女マルガリータとオーストリア皇妃エリザベートが見たくて乃木坂の新国立美術館まで出かけていきました。そこで一句
『乃木坂へ、枯葉踏み行く、絵画展 』
もう一句
『亡き王女、銀杏並木に すまし顔』
駄毒狗
ウィーン美術史美術館とブダペスト国立西洋美術館のハプスブルグ家秘宝の絵画というので期待しすぎてしまった。16世紀の絵画が多かったせいもあるが、宗教画人物画ばかりで、風景や静物画がほとんど無かった。シェーンブルグ宮殿に飾ってあって初めて絵が栄えるような絵が多く、入り口チケット売り場が空いていたのが嘘のように人混みのなか鑑賞するのは辛かった。

ハプスブルグ家の肖像画は意外に少なく11歳の女帝マリア・テレジア アンドレアス・メラー・オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世・オーストリア皇妃エリザベート・・・・皇妃エリザベートは人ごみ越しにじっくりと鑑賞させていただきましたが、その美しさは絵画になってもなおその瞳に吸い込まれるような感覚にとらわれてしまいました。

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しかし、ハプスブルグ家は風景画は好まないと思える。宮廷内を描いた作品もあったがその主題は人の動き。ハプスブルグ家の関心は人とその心のうち、宗教画もその人の内面を表すための教訓であろう。

ハプスブルグ家は13世紀に勃興して20世紀初頭までヨーロッパに君臨した。巧みな結婚政策によって勢力を拡大し、神聖ローマ皇帝も数多く輩出した名門王家です。政略結婚であったが、その割には夫婦仲が円満で子宝に恵まれたケースが多く、多産は伝統とも言える。そのため現代でもハプスブルク家に関して、陰謀などの血生臭いイメージはあまり無い。

有名なハプスブルグ家の家訓
「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」

このTHEハプスブルグの展覧会に風景画が少ない。その理由を考えさせられました。ハプスブルグ家の賢さは絵画の選定にもあったのではなかろうか?もし、美しい外国の風景画が多くシェーンベルグ宮殿に飾ってあったのなら、美しい他国に対し領土的野心に燃え、戦争を引き起こしていった可能性がある。
意図的に風景画はコレクションしなかったのではなかろうか?ハプスブルク家の関心は人とその内面である宗教画なのであろう。
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Vilhelm Hammershøi 国立西洋美術館で開催中の「ヴィルヘルム・ハンマースホイ―静かなる詩情―」展を11月16日に行きました。
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                             パンフレット

もし、絵画に旬というものがあるとしたら、晩秋から初冬へ向かうこの季節、ヴィルヘルム・ハンマースホイの絵画を鑑賞するには最高の季節かもしれません。
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            「聖ペテロ教会」 1906年頃

ヴィルヘルム・ハンマースホイはデンマーク、コペンハーゲンの街と、妻イイダと自宅室内、若しくは無人の室内を描いた17世紀オランダ絵画の巨匠フェルメールの作品にたとえられ「北欧のフェルメール」と言う称号を頂いております。

9月に行きました、奇跡のフェルメール展もさることながら、このハンマースホイ展も素晴らしかった。観る者の感性を静かに揺さぶる作品には、100年の歳月をまるで感じさせませんでした。彼独得の静謐感は、フェルメールの作品とも異なると思います。
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           「ゲントフテ湖、天気雨(Gentoft Lake) 」1903年

ハンマースホイが学んだコペンハーゲンの美術アカデミーは、フェルメールなどの17世紀オランダ絵画の影響を受け継いでいました。そのため、フェルメール風の作品は、ハンマースホイを含めた同時代のデンマーク絵画の特徴なのかもしれません。
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            「縫い物をする少女」(Young Girl Sewing) 1887年 (ロンドン展のみ)

ハンマースホイの絵画の特徴として、ガランと生活感のないシンプルな室内。描かれた女性は妻イーダである場合が多いのだが、後ろ向きで、なお且つ黒いドレスで描かれている。
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                   「休息」 1905年 

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               「室内、ピアノと黒いドレスの女性、ストランゲーゼ30番地」1901年(ロンドン展のみ)

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              「室内、ストランゲーゼ30番地」 1901年

80年代日本のサブカルチャーの隆盛時DCブランドと呼ばれは、川久保玲(コム・デ・ギャルソン:COMME DES GARCONS)、山本耀司(ワイズ:Y's)、ヨージヤマモト(YOHJI YAMAMOTO)など、黒一色の服が流行した時代を思い出させます。黒一色のファッションのイーダはさしずめハウスマヌカン(ブティック店員をそう称しおりましたな・・死語)。
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                「若い女性の肖像、画家の妹アナ・ハンマースホイ」1885年

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                「ピアノを弾く女性ののいる室内、ストランゲーゼ30番地」1901年

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                      「背を向けた女性のいる室内」1904年

ハンマースホイの住居ストランゲーゼ30番地のアパートは、生活する室内空間でありながら、はっきりとした生活の物語を感じない室内画は、どこか美術館、モデルルーム、かつてDCブランドが入居したような近代的なビル空間に感じる空虚な空間に通じるものがあります。僅かに配された家具、陶器、椅子で、かすかに人の体温を感じさせ、空虚ではなく静謐な空間が表現されています。ハンマースホイが描いたその「空間」には、時代を超えた人のかすかな体温と呼吸を感じさせます。

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                「クレスチャンスボー宮殿、晩秋」1890-92年

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                   「クレスチャンスボー宮殿の眺め 」1907年

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                   「フレデリクスホルムの運河」1892年

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                   「クレスチャンスボー宮殿の礼拝堂」

私は仕事の関係で、冬は鉛色の雲が垂れ込め、雪に閉ざされた日本海側に近い小都市に3年ほど住んだことがあります。ハンマースホイが描かれた、北欧の都市空間の静けさは、雪に閉ざされたに地方の小都市で感じた感覚そのものです。アア!コペンハーゲンは日本海側にある街なんだ・・・と、バルト海と日本海が重なり、ハンマースホイの絵に軽いデジャヴューを感じてしまいました。
特に「クレスチャンスボー宮殿」を描いた3作には、建物の中に確実に中に人の気配が有るにもかかわらず、静寂が支配する冬の日本海側の雰囲気が伝わるような、物凄い作品だと思う。

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                  「白い部屋あるいは開いた扉」1905年

冬は昼過ぎまで霧に包まれ、陽光には敏感であったような気がします。100年前には降り積もる雪の日に、自宅室内で、クラシック音楽を聴くことは出来なかったかであろうが、なぜか、静寂な室内からは、ウィンダムヒルレーベルの環境音楽が聞こえてくるようです。

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          「居間に射す陽光Ⅲ」1903年

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                              「陽光習作」1906年

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          「陽光」1906年(ロンドン展のみ)

ハンマースホイの絵には、静かに絞った音楽のほかに聞こえるのはストーブの音。その静けさには語りつくせない幸せが詰まっているかのような説得力を感じさえしました。

時として、永遠にその静けさは続くのかと不安に感じ、都会の喧騒の中に身を置けたどれほど幸せであろうかと感じたことなど、経験したことがなければ、けして感じることもなかったかもしれません。


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                              「妻イーダの肖像」

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                              「妻イーダの肖像」

38歳にしては少し老けているかな、現代の日本の感覚であると60近くの女性にも見える。この絵を巡り妻イーダと一悶着あったであろうことは容易に想像できる。なるほど、これが最後の妻を正面から描いた作品というのがわかるような気がする。

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ハンマースホイと妻イーダとの距離がなんとなくわかる作品だと思います。
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金曜の午前中東京都美術館で開催中の「フェルメール展」へ出かけてまいりました。

http://www.tbs.co.jp/vermeer/jpn/delftstyle/index-j.html
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フェルメール全36作品中7点、ファブリティウス全作品12~15点中の5点もを堪能することができます。まだ、絵画に興味があってフェルメール展へ行かれてない方がいたら、是非行くべき奇跡の展覧会です。10年に一度休暇をとってでも平日に独りで観に行くべき展覧会があるとしたら、これかもしれません。

台風の余波の雨降る、平日の午前中なのでさぞやゆっくり観れるかと微かに期待したのでしたが・・・甘かった。上野公園に入るや東京都美術館を目指し人の流れ。後期高齢者を中心とした絵画ファンで、既に入場に10分待ちの看板。土日はいったいどのくらいの行列になるのだろう?

近年フェルメール巡礼なるフェルメール作品全鑑賞踏破の本なども出版され、日本でのフェルメール人気が盛り上がっていただけに、フェルメールに関する薀蓄はそれぞれ鑑賞される方は持っていそうでした。今回の展覧会には、フェルメールの絵画鑑賞絵画の鑑賞ポイントの解説ボードが併せて展示されていた。絵画の部分アップのパネル展示があり、そこに逸話がや解説の薀蓄が書いてあり、もう一度実物を見直すことができ、非常に贅沢な鑑賞方ができた。今まで簡単な解説はあっても、マニアックな視点を素人でも解りやすく解説してある展示方法は私が知る限り、初めてである。面白いことに絵画より解説ボードを見入る観客の方が多いようにも思えました。

特にディアナとニンフの現物を前に、修復前の絵画のパネルと見比べることが出来、ほんとに贅沢でした。
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<ディアナのニンフ達 >※ディアナはローマ神話の月の神でもあり樹の神でもある。
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<修正前のディアナのニンフ達> 私は、絵的にはこちらの方が好きです。月の女神だって、昼間は木陰でお休みしますよ。でも神話を描く絵画のお約束は、夜でなくてはいけないんでしょうね。

もう一つ、修正前の薄明かりの空と樹陰の絵は、なんとなくルネマグリットの夜の風景に雰囲気が似ていると思うのは私だけでしょうか?

話は逸れるが、TV東京系で放映している「なんでも鑑定団」は、もう10数年放映しているかと思いますが、恥ずかしながら私はあの番組以降、日本絵画の素晴らしさや、陶器骨董の面白さを感じるようになりました。

15.6年前フジTV系の「ワーズワースの庭で」と「ワーズワースの冒険」、近年はNHKの「道楽」を極める「美の壺」といった番組は、私に限らず日本人の文化的素養を高めることにだいぶ貢献したかもしれません。「日曜美術館」「美の巨人達」「だれでもピカソ」etc海外ではそういった番組が盛んに放送されているようには思えません。もしかすると、BBCあたりでは製作してそうですが、日本独特の番組のような気がします。そういった「道楽の極み」を楽しむTV番組が、フェルメール巡礼を生み出し、今日私が一挙7点もフェルメールを鑑賞することができた原動力なのかもしれません。

TV情報番組に底上げされた日本人の文化的素養の高さは、もしかしたら、世界的に日本が発信している「CoolJapan」文化の源かもしれません。

もう少しだけ、私のフェルメール展報告の雑談にお付き合いください。

今回のフェルメール展のポスターにもなった、「ワイングラスを持つ娘」ですが、解説ボードに、「酔って過剰にワインを勧める男性と、視線をそらし、作り笑いをして、我々に救いを求めている女性・・・」との解説だったと思うのですが、写真ではよく分かりにくいのですが、実物ではこの中年男の表情が、いやらしいほどわかった。彼の表情の下には、はち切れんばかりの欲望と魂胆、見え透いた行動が、自分が絵画の男と年恰好も同じことを棚にあげ、紳士ずらした人間の本性とその嫌悪感を見事に描いていると思った。若い女は女で、男を嫌悪する気持ち半分、欲望を軽く満たすことにより得られる代償を計算しているように私は見えました。

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<ワイングラスを持つ娘:中年男と娘の微妙な表情アップ>

それにしても、冷静に考えると、テーブルの男の無関心さ、ふてくされ加減、全くの他人か?そしてそのテーブルに離れ窓に向かって置いてある椅子に座る若い女性、昼間からワインで宴会?それともランチでワイン?よくよく見ると不思議な絵だ。

また、ワインの勧め方が毒薬か媚薬でも入っているように思えてしかたありません。
どうもこのオヤジ2時間ドラマの船越英二に見えてきた、「チャチャチャーン♪、チャチャチャーン♪」。

「リュートを調弦する女」この女性の発する雰囲気は「ひょっとするとこの女性はこの世のものではないのではないか?」などと思ってしまった。「昼間から幽霊がリュートを調弦する絵」そんなことを思うのは私だけかもしれない。この女性が窓辺の淡い光に溶けていく微妙なタッチが醸し出す雰囲気は、とても幽玄な感じがした。航海中の恋人を想い、誰かを待っているというよりは、彼女は生霊(生霊は見た事はない)のようにも思える。
ひょっとすると、この絵の女性の想いだけは彼の元へ行き、抜け殻が座っているのかも知れません。繊細なタッチに感心したのだが、ネットで調べたら単に大変コンディションの悪い作品とのことでした。でもそのコンディションが、神業のような繊細な絵に仕上げているのかもしれない。
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<リュートを調弦する女>

今回、フェルメールが残した2枚の風景画の一つ「小路」が観たかった。10分ほど列の後ろから見入ってしまいました。マウリッツハウス王立美術館展で見た、傑作「デルフトの眺望」にも劣らぬ世界を持っていました。小路の奥の女性が絵奥行きと、日常の物語りが感じ取れ、素晴らしかった。ああ、何故フェルメールはたった2枚しか風景画を描かなかったのか、残念でなりません。日本ではまだ浮世絵が浮世絵として確立する直前の時代、17世紀の庶民の街中の風景をリアルに残した西洋文明に心から敬意を示したい。
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<小路>

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<デルフトの眺望>※今回は出品されていません。

もう一枚、フェルメールとともに是非見たかった、レンブラントの弟子、カレル・ファブリティウスも現存作品が12~15点ほどしかないのに、5点(以前はファブリティウスに帰属も含め)も東京に来ている。その「歩哨」という作品。永年歩哨は寝ているとされてきましたが、最近銃の保守をしているという新説が出たとのこと。絵の実物をよく観察すると、私も銃保守作業説を押したい。
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<歩哨:カレル・ファブリティウス>

私が怠惰な歩哨なら、寝ているなら、後ろの壁にもたれるか、横に傾くだろう。
当時の銃はまだ火縄銃で、マスケット銃(撃針で強打することにより火薬を発火させる銃)が登場したのは18世紀初頭。火縄銃はとにかく手入れが大変とのこと、Googlで火縄銃・手入れで検索しますと、皆座って手入れをしています。しかも、歩哨の絵には、掃除するためのさく杖(カルカ)と火薬袋も書き込まれています。この歩哨は怠惰なのではなく、業務をこなしていると私は考えます。
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<楽器商のいるデルフトの眺望:カレル・ファブリティウス>

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<手紙を書く女と召使>日本初上陸

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<ヴァージナルの前に座る若い女>最近真作と判定された作品。思ったより小さかった。

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<マリアとマルタの家のキリスト>

相場のことは暫し忘れ、芸術の秋を堪能されたし!

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