Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ

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タグ:起業


かつて世界を制した日本の電機産業が凋落の一途をたどる。
シャープや東芝が経営危機に陥り、一部の事業が「国有化」されようとしている。
一方、有望なベンチャー企業には誰も手を差し伸べない。この国はどこへ行くのか。

 電機産業の「国有化」が進んでいる。経営危機にあえぐシャープは主力の液晶事業を切り離し、「日の丸液晶会社」のジャパンディスプレイ(JDI)と統合する方向で詰めの交渉を続けている。

JDIの筆頭株主は同社に2000億円を出資している産業革新機構。政府が出資する「国策ファンド」であり、「経済産業省の別動隊」とも呼ばれる。

 「日本の半導体、液晶産業の競争力が低下しだのは、韓国や台湾の官民一体となった攻勢に民間だけでは抗しきれなかったから」。経産省が液晶再編を主導する背景にはこんな思いがある。

 企業に直接金を出せない経産省は、本来、ベンチャー育成のために作られた革新機構を使って電機業界に公的資金を注入し続ける。半導体のルネサスエレクトロニクス。 JDIとソニー、パナソニックの有機EL事業を統合したJOLED。東芝が買収したスマートメーターのランディス・ギアなど。

 革新機構はこれまで電機大手の再編・M&A(合併・買収)に総額約4000億円を投じている汀我々は民間ファンド」と主張するが、資金のもとをただせば税金。革新機構による電機産業への資金注入は「国有化」にほかならない。

「今度はお上が守ってくれる」


 2011年にJDIを作る時、経産省はシャープにも合流を促した。シャープが入ればJDIは名実ともに液晶の日本代表になり、日本航空の再建の時のように「国が一方の企業に加担した」という批判は避けられるからだ。

 だがシャープは経産省の誘いを断った。「液晶で世界最強のシャープが、何で負け組と一緒になる必要がある」。当時、会長の町田勝彦はうそぶいた。

 この頃からシャープの業績は坂道を転がるようにして落ちていくのだが、町田は官の軍門に下ることを潔しとしなかった。 2012年にはアップルのスマートフォン「iPhone」などを受託生産している台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業と提携し、大型液晶パネルの新鋭工場、堺工場の半分をホンハイ会長の郭台銘(デリー・ゴー)に売った。

 この時、町田と郭は、ホンハイがシャープ本体に出資することでも合意していた。町田はこんな話をしている。
 「格下だと思っていたホンハイの工場を見せられた時、シャープはもうとっくに抜かれとる、と悟った。しかしシャープの社員は自分たちが上だと信じ込んでいる」「漁師さんの話だと、イワシは弱いから水槽に入れても運ぶ途中でみんな死んでしまう。そこにアンコウを1匹放り込むと、食われまいと必死に逃げるから、店に着くまで生きとるそうや。ホンハイの出資は劇薬だが、ぼんやりしたシャープの社員がこれで目を覚ましてくれたらええ」

 しかし2012年に町田が会長を退くと、残ったイワシたちはホンハイとの提携を全力で拒んだ。「(他社の知財を尊重しない)あんな盗っ人企業と組めるはずがない」。町田の後の会長になった片山幹雄はホンハイを毛嫌いし、役員陣も総じて反ホンハイだった。デリー・ゴーをカノレロス・コーンに見立て、シャープを日産自動車のようによみがえらせる町田の構想は、変化を恐れるサラリーマン集団によって阻止された。

 だがホンハイ撃退で一致団結したサラリーマン集団にも、シャープ再建のアイデアはなかった。座して待つうちに資金は底を突き、片山の後、社長になった奥田隆司や高橋興三の仕事は、主力行のみずほ銀行と三菱東京UFJ銀行、経産省への支援要請になった。

 高橋は持ち時間を使い果たした。

2016年3月末には借入金など5100億円の返済期限が来るが、銀行に借り換えを頼める状況ではない。最大の資産かつ重荷でもある液晶事業の売却以外に道はない。 買い手がJDIになるか革新機構になるか。それはたいした問題ではない。どちらに転んでも国が大株主になり「国有化」されることに変わりない。

 最近、シャープを辞めた中堅社員によると、問もなく「解体」が始まるシャ
-プ社内は不思議な安堵感に包まれているという。「今度はお上が守ってくれるらしい」 自力再建が絶望的になった2015年4~6月期決算の後も社内は「なんかうちの会社は大変そうだねえ」という無気力な笑いに包まれていた。

 むしろ社員の関心は10月にスタートしたカンパニー制にある。自分はどのカンパニーでどのポジションに就くか。サラリーマンとして、うまく立ち回ることに必死なのだ。

ベンチャーに冷たい革新機構                                                                                「罪悪感より、むしろ達成感を感じました」。不正会計の発覚をきっかけに、経営危機に追い込まれた東芝。上司に「チャレンジ」を強要されて数字を改ざんした中間管理職は、本誌にこう語った。「会社のためなら不正もやむなし」
という心理が透ける。

 革新機構はそんな東芝にも手を差し伸べてきた。 JDIへの出資で液晶事業のリストラを支援し、スマートメーターを作るランディス・ギアの買収にも出資した。「東芝が瀬戸際に追い込まれたら原発機器事業も『国有化』するのではないか」と市場関係者は読む。

 ベンチャー育成のために生まれたはずの革新機構は実質的に「電機救済機構」であり、ベンチャーには冷たい。

「俺たちはマサチューセッツエ科大学(MIT)にもカーネギーメロン大学にもスタンフォード大学にも負けない」。彼らには「日本の未来を担っている」という自負かあった。2012年に東京大学の助教を辞めてロボット開発のベンチャー、シャフトを立ち上げた中西雄飛と浦田順一。起業家の加藤崇は2人のロボットヘの情熱に魅せられてCFO(最高財務責任者)を引き受けた。

  2013年の春、加藤は東京・霞が関の経産省を訪れた。開発を次のステップに進める資金支援を受けるためだ。自信はあった。

だが応対に出た課長はこう言った。「介護・福祉のロボットなら補助の枠があるんだが、君たちのようなタイプには枠がないんだよ」

  介護ロボットのように足元の市場はないが、10年先に必ず必要になる技術だ。そう言って加藤が食い下がると、課長はボソッとつぶやいた。
  「そんなにやりたいんなら、アメリカでやればいい…」 帰り道、加藤は怒りが収まらなかっ た。「俺たちは日本がアメリカに負けないように、退路を断ってベンチャーをやっている。それをアメリカでやれだと。官僚のくせに何を言ってるんだ」。

次の週、いちるの望みを託して東京・丸の内の革新機構を訪ねた。応対に出
、た専務執行役員は不機嫌だった。

「言っておくが、我々は民間のファンドだ。リターンを出さなくちゃならない。ヒト型ロボットに出す金はない」最初から取り付く島がなく、専務の説教は1時間に及んだ。

「本省(経産省)は、ちゃんとロボット産業のフィジビリティースタディーをやっている。ヒト型には市場1生がないというリポートもある」

シャフトが開発を継続するために頼んだ出資額は3億円である。だが2兆円の投資枠を持つ革新機構は歯牙にもかけなかった。

 世界が2足歩行ヒト型ロボットの必要性を痛感したのは2011年3月である。
水素爆発を起こした東京電力福島第1原発の冷却作業は一刻を争った。だが高い放射線に阻まれて人間は近付けない。誰もが同じことを考えた。「ロボットはどうした」。多くの大企業がロボットを開発していたが、実地に耐える技術はなかった。

 「俺たちのロボットが完成していれば…」ヘリコプターで上空から散水をする絶望的なテレビ映像を見ながら中西と浦田は歯がみした。2人が開発していたロボット「S1」は、歩行中に前後左右から蹴飛ばしても転ばない。がれきの山をスイスイと登っていく。その高い重心制御技術は、後に世界のロボット技術者から「ウラタ・レッグ」と呼ばれる。実地に耐えるロボットの開発を目指す2人は加藤に資
金調達を頼みシャフトを立ち上げた。

 米国と韓国は、この頃から2足歩行ロボットヘの投資を一気に拡大する。
だが日本では、開発予算が削られた。VC(ベンチャーキャピタノレ)など金融
機関の反応も鈍かった。

 「日本では無理かもしれない」 思いつめた加藤は、中西と浦田に開発を続けさせるため、1人でシリコンバレーに飛ぶ。程なく複数の投資家から「話を聞きたい」というオファーが舞い込んだ。米グーグル(現アノレファベット)もその中の一社だった。

 2013年6月、3人は東京・お台場のオフィスでグーグルとの2度目の電話会議に臨んでいた。電話の向こうで話しているのが誰だかよく分からなかったが、どうやら相手はシャフトの技術を気に入っている様子で「一度、実物を見たい」という。もちろんウェルカムである。来日は7月18日に決まった。                                                                  グーグル副社長は3時間で決断                                                                                  視察チームのリストに見覚えのある名前があった。アンディ・ノレービン。 世界で最も普及しているスマートフォンのOS(基本ソフト)である「アンドロイド」を開発し、その会社をグーグルに売って同社の技術部門担当副社長に収まった大物である。そのルービンは中西と浦田が実機を動かすと、顔を真っ赤にして興奮した。

 にの関節はなぜこう動く? この機構の仕組みは?」。約3時間、思う存分、
質問したノレービンは「少し話をしよう」と3人を会議室に誘った。
 「君らのロボットは素晴らしい。グーグルが出資するのは難しいことではない。この程度の投資ならこの場で、私か決められる。だが、足りない技術もあるからグーグルの傘下に入って、他の優秀なエンジニアたちと組む手もある。君たち次第だ。金額を決めてくれ。                                   

SCHAFT : DARPA Robotics Challenge 8 Tasks + Special Walking                           
私はこれから30分、外でコーヒーを飲んでくる」
 3人は開いた□が塞がらなかった。
 「おい今、投資するって言ったよな」
 「言った。で、どうする」
 「売ってもいいんじゃないか」
 加藤は慌ててパソコンをたたき、将来性を含め、フェアと思える金額をは
じき出した。コーヒーブレークから戻ったノレービンはその数字を見て言った。
 「OK、検討可能な金額だ。あとは彼女と話を進めてくれ」
 ノレービンについてきた女性の役員がにっこりほほ笑んだ。それから目が回
るほどの忙しさで4ヵ月が過ぎ、ついに会社の売却が決まった。

 その年の終わり、米国防総省の国防高等研究計画局(DARPA)が主催するヒト型ロボットの競技会で、米航空宇宙局(NASA)やMITのチームを抑え、シャフトはぶっちぎりの1位に輝いた。

 今、中西と浦田はグーグル・ロボティクスの一員として、日本で働いている。直属のボスはグーグル創業者のラリー・ペイジである。会社を売却して億万長者になった浦田がある日、ポツリと漏らした。

 「俺、税金を払いたくない」 巨額の所得税を払わなければならないが、浦田はカネが惜しいわけではなかった。加藤が代弁する。
 「一番助けてほしい時に、日本は僕らを見捨てた。認めてくれたのはアメリカでした。なのになぜ、日本に税金を納めなくてはならないのか。ましてや、その税金が僕らを全面否定した産業革新機構を通じて、経営に失敗した大企業の救済に投じられる…。やるせないですよ」

 結局、浦田は何の節税対策もせず、額面通り所得税を納めた。そのカネは、日
本との手切れ金だったのかもしれない。

 パナソニックに買収され10万人いた社員のうち9万人強が離散した三洋電機。元会長の野中ともよは、経営危機の中で自分たちの権益を守るために奔走していたサラリーマン集団を指してこう言った。

 「沈みゆくタイタニック号の甲板で一生懸命デッキチェアを並べる人々」
 「国が助けてくれる」と安心しているシャープの社員や、不正会計に手を染めた東芝の社員も同じである。大切なのは巨大な組織の中で、自分の居場所を確保することであり、組織そのものがどこへ向かっているかには関心がない。窮地に陥っても、サラリーマン共同体の発想から抜け出せないでいる。「悔しかったら、頑張りなさい」 自分の城を守る気概を失った巨大企業に国の手が伸びる。官僚たちは「だらしない民間の代わりに自分たちが日本経済を立て直す」と思っているのかもしれないが、とんだ勘違いだ。

 1960年代から70年代の英国では鉄鋼、運輸、自動車産業などが次々と国有化された。管理職は経営改善の意欲を失い、労働者はストライキに明け暮れた6運転手のストでゴミ収集車が動かずロンドンの街にゴミがあふれた。給食が配送できないので学校も休校になり、灯油が配達されず市民は寒さに凍えた。「英国病」だ。

 反転の動きが始まったのはサッチャー政権が誕生した79年。サッチャーは国営企業を片っ端から民営化し、強すぎた労働組合を抑え込み、ヴァージングループのリチャード・ブランソンのような起業家の背中を押した。だが、一度活力を失った社会が息を吹き返すには途方もない時間がかかる。フレア政権が「英国病克服宣言」を出したのは、20年以上後の2001年のことだった。

 2期目の首相就任演説でサッチャーは国民にこう語りかけている。 「英国政府はもはや、みなさんの面倒を見ることができません。どうか自分の足で立ってください」

 サラリーマン資本主義に侵された今の日本にサッチャーがいたら、業績不振を政府や景気のせいにして思考を停止しているサラリーマンに向かって得意のセワフを言うだろう。 「悔しかったら、頑張りなさい」


この記事を読んで、私は背筋が寒くなり、かすかな希望も打ち砕かれそうな気分になった。シャープ、東芝・・・ドイツ名門企業VW 世界的な企業もイノベーションに成功しなければあっという間に倒産の危機に立たされるのが今の世界経済の現実である。

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東大ベンチャーがグーグルの手に 
突きつけられた日本の成長課題

【第911回】 2014年1月17日 週刊ダイヤモンド編集部


身長約1.5メートル、ブロックの散乱したでこぼこ道を悠々と歩き、手すりのない2メートルを超えるはしごも自在に登っていく。

 東京大学発のベンチャー企業が開発した二足歩行のロボット――。「蹴っても倒れない」という技術は、開発者の浦田順一氏にちなみ「ウラタ・レッグ」と世界の研究者に称賛されているほどだ。

 この企業の名は「SCHAFT(シャフト)」。実は、2013年末に開かれた、米国防総省国防高等研究計画局(DARPA)主催の災害救助ロボットコンテストで、米航空宇宙局(NASA)など強豪15チームを抑えてトップに輝いた、知る人ぞ知る世界的な注目企業なのである。

 11年末から、東大助教であった中西雄飛氏と浦田氏がヒト型ロボットの商業化に向け、ベンチャーの設立を検討。12年4月にDARPAのコンテスト開催が発表されたことを受け、まずはそのロボット開発に向けて、12年5月にシャフトを設立したのだ。

 そのシャフトがいきなりコンテストに優勝したことで日本の技術力の高さを見せつけた反面、大きな課題も浮き彫りになった。実は、米検索大手グーグルがすでにシャフトを買収していたのだ。

 ロボットの開発には、試作機でも数千万円単位の費用がかかることもあり、シャフトにとって資金調達が悩みの種となっていた。技術では絶対的な自信があり、日本のベンチャーキャピタル(VC)や国の関係機関などに投資や融資を説いて歩いたものの、徒労に終わっていたのだ。

 資金調達を担当した共同創業者の加藤崇氏は、「『おもしろい技術だね』とは言ってくれるが、市場が立ち上がっておらず、引き受けては見つからなかった」と振り返る。

 結局、当時、加藤氏自身が関わっていた投資ファンドから大部分の資金を調達。ACCESS共同創業者の鎌田富久氏の出資を受けて、ようやく試作機の完成にこぎつけた。

 その後も、DARPAの開発資金を得て開発を進めながら、商業化に向けて資金調達の交渉を続けていた。

そんな中、たどり着いた先がグーグルのVCであった。ロボットの事業化を目指す、グーグル本体につながり、あっと言う間に買収へとつながっていったのだ。

 グーグルに決めたのも「軍事転用しないことに加え、ハイテクにかける思いが強い。何よりも市場をつくれる力がある」(加藤氏)ということだった。

 かくして、日本で相手にされなかった、最先端のロボットベンチャーをグーグルが手中に収めた。加藤氏は、「本当は日本で資金調達したかった」と言うが、ここにはグーグルのおひざ元である、米西海岸のシリコンバレーには日本が逆立ちしてもかなわない現実がある。

 日本のみならず世界トップレベルの研究者たちが、資金面での心配なく研究に打ち込むためシリコンバレーに磁石のように吸い寄せられるという現実である。

ベンチャー育成の装置

「シリコンバレーの中心地で家を買おうとすると、1億円からしかないと不動産屋に言われる。インド人や中国人がどんどん買っているようだ」(サンノゼ在住日本人)

 今、シリコンバレーは、好景気に沸いている。

 フェイスブックやツイッター、リンクトインなど新興のIT企業が上場を果たし、企業価値1000億円を超えるIT企業は、両手で数えられないくらい生まれている。

 フェイスブックやグーグルなどの敷地の移転・拡張や、シリコンバレー中心地のパロアルト、マウンテンビュー周辺の住宅需要も増しており、賃料も、売買代金も高騰しているのだ。米フォーブス誌の米高級住宅地ランキングでもシリコンバレーがトップ1、2を占めているほどである。

 さらに、インドや中国など世界からソフトウェアエンジニアが集まり、アップル、ツイッター、フェイスブックなどの主要企業の平均給与が年1200万円に及んでいる(グラスドア・ドットコム調べ)。

 なぜ、シリコンバレーでは次々と世界に通用する企業が生まれるのだろうか。

 まず、起業における考え方が日本とは違う。シリコンバレーでは、最もかっこいい職業が「起業家」であると言われる。とりわけ、中心地のスタンフォード大学では、成績優秀者が卒業後にベンチャー企業を設立するのは、至って自然な選択だ。

 その若者たちを、エンジェル投資家と呼ばれる、過去に経営を成功させ財をなした人々が支援している。単なる資金援助に限らず、ビジネスプランの策定や、人材確保も手助けしてくれるのである。

 かつて、サン・マイクロシステムズの共同創業者が、まだ会社も設立していなかったグーグルの創業者らに、10万ドルの小切手を手渡したという話も有名だ。このような投資家が、そこかしこにいるのである。

 市場のないような新たなサービスへの投資こそ、通常の組織で合意を得にくい。そこでエンジェル投資家の出番である。投資家としての彼らの柔軟な思考が起業のハードルをぐっと下げている。

 加えて、VCも活発に動いている。米国の金融緩和により余ったカネが、VCに流入していることもあり、立ち上がったばかりのベンチャーに、少額投資することが流行っている。

 中には、200万円程度の資金を与え、経営やサービスの基礎固めを3カ月間程度でみっちりと教え込む、いわば「合宿」を実施するVCもある。

 代表格のYコンビネーターは、2005年以降、630社を超えるベンチャー企業に投資し、オンラインストレージサービスのドロップボックスの誕生などにつながった。

 シリコンバレーのVC事情に詳しい、SV Frontier代表の鈴木陽三氏は、「3カ月間であれば、ビザなしで滞在できる国も少なくないため、世界中から集まる応募を厳選してシリコンバレーに滞在させて、短期集中で一人前の起業家に鍛え上げている。他の起業家や有力な投資家と出会い、デモと呼ばれる発表会でメディアに出て、資金を得て旅立っていく『登竜門』となっている」と話す。

 つまり、人材育成と資金提供、メディアを通じたマーケティングの仕組みが、ベンチャー企業を設立する「入り口」の段階できちんと整備されているのである。

「出口」は9割が売却

 もっとも、さらに重要なのは、シリコンバレーには、投資家が株式公開や転売などにより、資金を回収する「出口」が担保されていることである。

 CBインサイツのレポートによれば、シリコンバレーの「出口」の案件は、毎年150前後あり、その9割が他企業による買収(M&A)という。上場する場合はわずか1割であり、これが日本と決定的に違う。

 日本の場合は、ベンチャーに投資しても、上場益以外ではなかなか資金を回収できない。その点、シリコンバレーでは、活発な企業買収により、出口のあてが見込まれているのである。

 こうして、09年以降、シリコンバレーではVCによる投資案件が約3300件、計315億ドル(3.1兆円)を超える資金が投じられたと言う(同レポート)。

 その最右翼とも言うべきが、グーグルであり、VCを通じて、ベンチャー企業の出資や、本体による買収を進め、その先端技術を自社サービスに取り込んできたのである。

 シリコンバレーに20年以上在住し、年間1000社超のベンチャー企業の動向を見ている校條(めんじょう)浩氏は、「1万社近くのベンチャー企業がいろいろなサービスを起こしている。中国や韓国はそこから何を学べるのかと必死になっている中で、日本はこの10年間、シリコンバレーから何も学んでいない」と指摘する。

話を戻せば、シャフトが買収された理由も、これでわかるだろう。

 今、日本の政府も成長戦略を唱え、ベンチャー支援を柱の一つと据えているが、結局どんなに「入り口」を整備しても、「出口」となるM&Aが活発にならなければ、どん詰まりになってしまうのである。

 東大発ベンチャーがグーグルに買われた意味は、とても重い。

 (「週刊ダイヤモンド」編集部 小島健志)

日本には投資銀行が無い、そのかわり総合商社がある。いやあった?
日本のベンチャーキャピタルも・・・・あまり機能しているようには思えない。

ホンダ、ソニー、キラ星のごとく登場した日本のベンチャー企業はもはや登場しないのか・・・

幾つか注目している企業はあってもシリコンバレーのように育っていない。
アベノミクスもこの点に注力すべきなのかもしれない。

執筆中

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最近在日の方とのからみがいくつかある。

【その一】
昨日はたいへんであった。私のリアルなお仕事は某大手金融機関の支店勤務である。4月より本部から某支店となったが、6月に新規開拓した会社がある。足しげく通い新規開拓した会社である。

そこはいわゆる在日の方が経営されている会社だが、常務さんと節税対策の事業保険を10月決算直前の9月に契約することで合意をいただき準備をしていた。

その事業保険は外資系保険の全額損金算入可能なタイプで設計書ではライバル会社を退けて6月中に契約を頂こうとしました。ところが在日の顧問税理士が業績が上昇中なので決算直前まで様子を見て節税する金額を確定し9月に契約したほうがいいと助言があり正式契約を保留していた。・・・・正論である。

一昨日帰り間際アンビリーバボーな事態、日本人の仁義や義理では理解できないことに遭った。なんとその在日の顧問税理士が私が提案をパクリ節税対策の事業保険をその外資系保険会社との代理店契約を結んで自分の事務所を通じてお客様の会社でやってほしいと言ってきたというのである。

昨日朝から支店長と伴にその会社に行ったのだが・・・顧問税理士とは社長の代より永年の付き合いである為、手数料数百万円が社長の決裁で簡単にひっくり返されてしまったのである・・・・・常務も流石に悪いと思ってわたくしには平謝りだが・・・・・私はこの怒りをブログにぶつけるしかないのである!・・・・義理もビジネスマナーも通じないのか!・・・・(怒)

一応善後策として隠し玉の節税提案があるので抵抗を試みるが・・・・強欲な在日税理士には適(かな)わない。(泣)  在日の狭い世界では在日同士の義理が優先されるのだろう!(泣)

【その二】
先々週金曜 私と気の合うお客様の某社長と某社長を引き合わせ三人で横浜ケントスという70's80's専門のライブハウスで飲めや踊れやと楽しみました。そのライブハウスで知り合った妙齢のネイリスト姉妹と友人の6人でライブハウスで意気投合して楽しく飲めました。

先週その妹が誕生日とかで、焼肉屋さんで誕生日会を開きましたが・・・その姉妹は在日のご婦人でした。生まれも育ちも日本で生まれ育っている彼女達の考え方は普通の我々となんら開きもなく、考え方もいっしょです・・・・他愛もない会話、家族への愚痴・・・日本人でも気が合わない方と話すよりずっと楽しい。
>
・・・・でも流石に時期が時期だけに日韓関係、李明博と竹島の話題には触れませんでした。

私もこのブログで散々韓国や中国に対し悪口を書いてはいますが、リアルな社会での人間関係は人間同士の付き合いですので国籍とはあまり関係有りません。



京都支店時代、私には強面の元在日のお客さんがいた。

お客様ではあったが、妙に気が合い昼間事務室で茶をのみ、一緒に飲みにも行った。マチ金兼パチンコホールを経営されていたが、様々な裏話を教えてもらった。マルハンの社長の話だとか在日の方の本音だとか・・・

彼は
もちろん帰化していた。日本で生まれ育ったので、日本人以上に日本人的な
義理人情に厚い社長だった。私が朝鮮人を非難する場合こういった方は非難の対象ではない。


【私は偉い】
自分のブログなので、自己愛な出来事を書きます。
私はよく公共の場所でのマナー違反な行為に関し積極的に声をかけ子供を注意します。一番多いのが電車内での携帯プレーヤーからの音漏れで、そのうちいつか刺し殺されるでしょう。
昨日地下鉄車内で飲み終わったチュ-ハイの空き缶を座席足元に置いた会社員がいた。席の隣なので注意しようと思ったが降りる際自分で持って降りることも考えられそのまま読書を続けていた。隣の席のサラリーマンが降りたが、私は読書に集中していた為、持って降りるよう声をかけそびれてしまった。私はその残された缶を潰し、自分が降りる際持って降り、空き缶入れに入れました。

えらいっしょ!




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『人類を幸せにする日本 井沢元彦/著(祥伝社)』を読む 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ステレオを携帯にしたウォークマン――39
ウォークマンは私(Ddog)が高校3年の時(1979年)に発売された。どうしても欲しくて1980年1月のお年玉と前年バイトをして残した貯金をつぎ込んで入手した。これは私にとってではなく人類の音楽視聴の歴史において、音楽のパーソナル化はエジソンのレコード発明の次の革命であった・・・! 
 
 
このようにポータブルなマシーンを常に身につけ、必要な時に利用するライフスタイルつまり携帯文化は、扇子や折り畳み傘、腕時計、トランジスタラジオなどにも見られますが、子どもたちに限って言えば、なんと言っても携帯型テレビゲーム機です。
1980年に任天堂からゲーム&ウォッチが発売され、国内外で4000万台が売れる爆発的なヒットになりました。続いて、1989年には同じ任天堂から力ートリッジ型のゲー ムボーイが発売され、携帯ゲーム機でさまざまなソフトが楽しめるようになりました。子どもたちは携帯ゲームに熱狂し、どこに行く時も手放さなくなりました。新しい人気ソフトの発売日には、店頭に長蛇の列ができるようになったのです。
 
このようにポータブルなマシーンを常に身につけ、必要な時に利用するライフスタイルつまり携帯文化は、扇子や折り畳み傘、腕時計、トランジスタラジオなどにも見られますが、子どもたちに限って言えば、なんと言っても携帯型テレビゲーム機です。
1980年に任天堂からゲーム&ウォッチが発売され、国内外で4000万台が売れる爆発的なヒットになりました。続いて、1989年には同じ任天堂から力ートリッジ型のゲームボーイが発売され、携帯ゲーム機でさまざまなソフトが楽しめるようになりました。子どもたちは携帯ゲームに熱狂し、どこに行く時も手放さなくなりました。新しい人気ソフトの発売日には、店頭に長蛇の列ができるようになったのです。
 
死亡率が限りなくゼロの新幹線――44
1964年10月1日東京と新大阪を結ぶ夢の超特急新幹線が開業した。日本人の足としてなくてはならないものとなり、現在は8路線営業距離は3000Kmとなった。
 
新幹線の成功は1981年フランスのTGVを運転を開始したのを皮切りにドイツICE台湾新幹線、中国のナンチャって自称国産新幹線など世界各国で高速鉄道網が導入するきっかけとなった。
 
新幹線はその安全性と乗客1人あたりの二酸化炭素排出量が飛行機の十分の一と極めて環境負荷の少ない特性から、今世紀初頭、温暖化問題と新興国経済のテイクオフは突如世界中に鉄道インフラ整備のブームを巻き起こした。
 
 
日本の携帯文化を支えた乾電池――49
(略)
電池自体は1800年にイタリアの物理学者だったアレッサンドロ・ボルタによって発明されました。
(略)
世界で初めてマンガン乾電池を発明したのが、屋井先蔵という日本人です。
越後長岡藩(現在の新潟県長岡市)の武士の子として生まれましたが、明治維新後、時計店で丁稚奉公しながら勉学に励み、永久自動機械の発明を志しました。東京で高等工業学校(現在の東京工業大学)への進学を目指したのですが、二度失敗してしまいます。

そして、玩具メーカーで職工としてアルバイトしながら電気時計の開発に取り組み、1891年に当時の農商務省特許局から特許を取得しています。
ところが、電気時計を動かすために使ったルクランシェ電池の使い勝手があまりに悪かったため、屋井は電気時計を開発するかたわら、もっと手軽に扱える電池の開発にも取り組みました。試行錯誤の末に、電解液をぺースト状にしたり陽極の炭素棒をパラフィン処理したりすることで、液漏れや液の凍結を防ぐ方法を編み出し、この新しい電池に「乾電池」と命名しました。

屋井は1892年に乾電池の特許を申請し、翌93年にアメリカのシカゴで開催された万国博覧会に出品しています。大森房吉博士が作った地震計の電源として公開され、世界から注目を集めました。このため、屋井はすでに立ち上げていた屋井乾電池合資会社で乾電池の製 造販売を始めましたが、1894年に勃発した日清戦争で、日本軍が使う通信機や懐中電灯などの電源として使われ、一躍有名になりました。屋井はその後も乾電池の改良を重ねて製品を世に出し、「乾電池王」と呼ばれたのです。
(略)
 
胃カメラを入れて病巣を撮る――54
 
 
イメージ 2太陽から降り注ぐエネルギーは1平方メートル当たり約1キロワットと計算されている。太陽光発電(太陽電池)はそのエネルギーから電気を作っているのだが、電気への変換効率は20%程度。残りの80%以上は捨てている。実にもったいない。
 ところが日本の最先端研究で太陽光を100%利用できる可能性が出てきた。危うく研究予算を打ち切られるところだったスーパーコンピューターがそんな太陽電池の設計をやってのけたのだ。
 大気や海洋の変化の大規模なシミュレーションに使う超高速スパコン「地球シミュレータ」。これを扱う高度情報科学技術研究機構(RIST)の手島正吾主任研究員らは、原子の特性値から物質の構造や電気特性などを求める「第1原理計算」という手法を使い、太陽光をすべて電気に変換する太陽電池の構造を求める研究に取り組んでいる。
 さすがに高速計算だけあって、その成果は1年で出始めた。「地球のどこにでも豊富にある炭素だけで作ることができる」と手島主任研究員は言う。それを実現するのは「マッカイ結晶」。英ロンドン大学の結晶学者、アラン・マッカイ名誉教授が数学的に推定し、1991年に英科学誌ネイチャーに発表した。まだ誰も合成に成功していない幻の物質だ。
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マッカイ結晶は炭素原子で構成する実在の球状分子「フラーレン」から作れる可能性がある。フラーレンを立体的に積み重ねて全方位から圧縮すると計算上はお互いが結合してマッカイ結晶になる。フラーレンは炭素原子の数によってC78、C76、C74、C70、C60など様々な種類が見付かっている。原子数が減少するほどフラーレンは縮小し、それで構成するマッカイ結晶は高密度になる。
 手島主任研究員らは、フラーレンが縮小するほど太陽電池の電気特性値である「バンドギャップ」が小さくなるとの計算結果を得た。バンドギャップが小さくなると、反比例して電気に変換できる光の波長が長くなる。これまでシリコン太陽電池を素通りしたり跳ね返っていたりした可視光より長い波長の赤外線光も利用できる可能性がでてきた。
 シリコン太陽電池の下にマッカイ結晶を敷けば、エネルギー変換効率は格段に上がるはずだ。しかし手島主任研究員はその先にある「オール炭素太陽電池」の実現を目指している。太陽光に当たる側から、紫外光、可視光、赤外光に対応したマッカイ結晶を配置する。こうすると「アンコウのつるし切り」のように太陽光をすべて食べ尽くすことができる。なお積層順を反対にすると長波長側から光を外に逃がすので効果はない。「積層の順番を間違えないように」(手島主任研究員)
 ここまではスパコンで求めた。あとは実際にマッカイ結晶を合成することになる。RIST自体は超高速計算の専門機関だが、ナノ炭素研究所(長野県上田市)の大沢映二社長(豊橋技術科学大学名誉教授)や名古屋大学の篠原久典教授、信州大学の遠藤守信教授など著名な炭素物質研究者をメンバーとする研究会組織を持ち、計算結果を物質合成につなぐ仕組みがある。
 マッカイ結晶はまだ計算上の物質だが、合成研究者と連携することで、太陽光を丸ごと電気に変える太陽電池は近い将来に日本で開発されるかもしれない。炭素だけで作れれば、資源が少ないと嘆く日本も困らない。それどころか日本の資源で世界制覇できる製品が誕生することになる。
 (科学技術部記者 黒川卓)
誰でも撮影できるカメラの開発――62
日本は、カメラ文化に対しても多大な貢献をしてきた
レンズ付フィルム 【写るんです
そして【デジタルカメラ
1975年12月、イーストマン・コダックの開発担当者Steve Sassonが世界初のデジタルカメラを発明する。画像サイズは100×100の10000ピクセル
静止画をデジタルで記録するいわゆる「デジタルカメラ」の前に、アナログ記録を行う「電子スチルビデオカメラ」という製品群が存在した。これは、ソニーが1981年に試作し後に製品化した「マビカ」 キヤノンのRC-701(1986年発売)など。
画像をデジタル方式で記録する初めての一般向けカメラは1988年に富士写真フイルムから発売された「FUJIX DS-1P」電源が無くても記録保持が出来るフラッシュメモリを初採用したのは1993年富士写真フイルムから発売された「FUJIX DS-200F」 
1994年発表1995年3月発売のカシオ計算機初のデジタルカメラ「QV-10」では、外部記録装置無しで96枚撮影が出来、当時のWindows95ブームで一般家庭に普及し始めたPCに別売キットを使って画像を取り込む事が出来る上、本体定価65,000円を実現して好評となり、これを境にデジタルカメラの存在と利便性が一般に認知された。

世界に広がったカラオケ文化――67
 
これは説明不要だろう。
『カラオケ化する世界』ロンドン大学研究員ジョウ・シュン、フランチェスカ・タロッコ/著
「歌に対する人類の夢を具現化した機械・カラオケは、その誕生から30年を経ずして全世界に普及した。世のさまざまな文化流行を見ても、これほど短期間に、これほど広範囲の普及るいを見たものは他に類を見ない」
 
1999年 「20世紀で最も影響力のあったアジアの20人」として世界的に有名な週刊誌「TIME」に掲載。2004年にはイグ・ノーベル賞を受賞

すべての女性が真珠を持てるようになった――71
1893年ミキモトの創業者 御木本幸吉は、世界で初めて真珠の養殖に成功しました。
のちに世界から「真珠王―The Pearl King」と呼ばれた御木本幸吉。
彼は度重なる困難を家族や協力者とともに乗り越え、エジソンさえ驚嘆した真珠養殖の成功者として、明治当初からグローバルな視点で日本の宝飾史の扉を果敢に切り開いてきた先駆者として、 妥協を許さず美しいものだけを追い求めたスペシャリストとしてその一生を貫きました。
 
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