Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ

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タグ:邦楽

銀魂OPとED勝手にベスト10!

待望のアニメ銀魂の第四期が始まりました!ライターは1963年生まれ、御歳50を超えて銀魂観ているのかって?いやいや、おもしろいものはおもしろい!それに銀魂のOPとEDのテーマ曲は37曲は、ロックなスピリットの曲ばかり!勝手に私な好きなOP/ED曲のベスト10を作ったアルヨ!
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アニメ銀魂はロック魂


銀魂は言わずと知れた SF時代劇の体裁をとった人情コメディストーリー人気アニメ第1期 が2006年~2010年に放送、第2期が2011年~2012年に放送、銀魂’延長戦 が2012年~2013年に放送され(第2期延長戦)、2015年4月8日より第3期 が2年ぶりに放送が始まりました。 単行本は2015年4月現在第58巻まで刊行、週刊少年ジャンプ連載中。
現在オープニングやエンディングの多くはソニー・ミュージックエンタテインメント系列出身のアーティストが担当しています。

ベスト10とはしましたが、順位はあまり重要ではありません。私のまったく個人的な趣味嗜好で並べただけです。

第10位 「バクチ・ダンサー」DOES


本当は10位というわけではなくもっと上位で良いのですが、銀魂といえばDOES、この記事のつかみの曲ですので迷わず「バクチ・ダンサー」
この曲はDOESの10作目のシングル。2010年4月21日にキューンレコードから発売されたアニメ映画『劇場版 銀魂 新訳紅桜篇』(2010年4月24日公開)のオープニング、テーマ。映画のために書き下ろされた。なお、DOES にとって『銀魂』のタイアップは今作で3度目であり、同バンド初の映画主題歌となった。また、テレビ東京系アニメ『よりぬき銀魂さん』オープニングテーマにも採用された。
タイトル中の「バクチ」は、「まっしぐら」といった意味の「驀地」からきている。元々は、賭博を意味する「博打」の方向で制作されたが、DOESの氏原が辞書を引いた際に「驀地」という言葉を知り、「驀地」の方が採用されることとなった 。
♪春風に磨かれて       ♪青空にあこがれて
♪燃えさかる薄ら紅      ♪舞い上がる薄ら紅
♪衝動の影にやられた     ♪生きるために生まれた
♪驀地ダンサー        ♪ 驀地 ダンサー



第9位 「桃源郷エイリアン」serial TV drama

第202~227回オープニングテーマ 

2011年6月15日  serial TV drama メジャー3枚目(通算6枚目)のシングルであり、解散したserial TV drama  のラストシングル。
楽曲としては、『銀魂』の世界観から「和」を意識しており、タイトルは、ヴォーカルの鴇崎の案により、ゲーム『平安京エイリアン』をもじっている。
♪シーソーゲームは 続いてくそうそう ぼくらも譲れない
真剣勝負に 病み付きでもうどうしたって やめられ ないやいや
運命論なんてぜんぜん関係ない一所懸命だ だ だ




第8位 「サクラミツツキSPYAIR

第257~265回オープニングテーマ


日本バンドSPYAIRの楽曲で、10枚目のシングル2013年3月13日Sony Music Associated Recordsからリリースされた
満月の晩、桜の花びらが舞い散っていて出来の良いPVです。一国傾城篇のOPテーマソング 吉原で暮らす老齢の花魁鈴蘭太夫をかつて吉原から連れ出すと約束したきり姿を消した男の捜索に端を発する物語で、終盤には幕府の内情や主人公坂田銀時の恩師吉田松陽の死に関わる過去が明らかになった銀魂の中でも人気があるシリアスなストーリー。 
ちなみに挿入歌にONE OK ROCK 「皆無」がある。OP/EDではないがとっても好きな曲だ。


第7位 「Pray」Tommy heavenly6

第1~24回オープニングテーマ

2006年7月6日発売「Pray」(プレイ)は、Tommy heavenly6の5枚目のシングル。 記念すべき銀魂の最初のOPテーマ。  Tommy heavenly6自身も原作のファンだと言う。本人は「Tommy heavenly6のダークな世界観の中では最もブライトサイド寄りで、暗さもあるけれどちゃんと光も見えててポップさもある曲」とインタビューで語っている。

第6位 「かさなる影」 Hearts Grow

第76~99回オープニングテーマ 
2008年1月23日発売 Hearts Growの4枚目(インディーズからの通算5枚目)のシングル。軽快な女性ボーカルのこの曲も上位につけて文句ない名曲だと思います。 Hearts Growとしてのアルバムには収録されておらず(本作リリースから2009年12月の活動休止までアルバムをリリースしていない)、タイトル曲「かさなる影」が『銀魂』主題歌集銀魂BEST』に収録されているのみである。

第5位 「遠い匂いYO-KING

第25~49回オープニングテーマ 

真心ブラザーズYO-KINGのソロ5枚目のシングル。2007年1月24日発売。 真心ブラザーズのYOKINGこと倉持陽一のポジティブ脱力感が主人公の銀さんのキャラにとってもマッチしている。
歌詞も「遠い匂い」そのもの良い古き良き時代のニューミュージックの匂いがする(笑) いい意味でです。

♪君の後ろ姿をぽくは見つめていたんだ
♪長く長く君の背中をぽくは頼りにしてたんだ
♪自分がいるところをいつも仮の場所だと
♪逃げて逃げて夢の世界へ君の声を抱きしめる

♪友と恋とピ目に出る純粋が
♪青い自意識をキリキリ痛めつける

♪ああぽくはこれから何をしよう
♪こんなぼくじや君に好かれるわけがないのさ

♪君はぼくにやさしくていつも本当にやさしくて
♪ずっとずっとぼくを見ててくれたね君の体温おぼえてる

♪テレビとSEXとロツクン・ロールが
♪頭の中でとぐろ巻いていた

♪ああどろり重い心引きずって
♪体だけは丈夫なので今日も笑っていよう

♪いいことも悪いことも受け入れられなくて
♪初めからないものを必死に探してた

♪ああボくはこれから何をしよう
♪こんなぼくじや君に好かれるわけがないのさ
♪ああどろり重い心引きずって
♪体だけは丈夫なので今日も笑っていよう

第4位 「雪のツバサ」redballoon

第25~37回エンディングテーマ 

2006年11月22日発売 redballoonデビューシングル
♪凍てつく夜立ち止まれず♪僕ら始まる熱を待ってる♪求めすぎて散切れる夢♪そんな欠片(かけら)で何が叶うの?♪キレイにすれ違う心♪夜明けも遠すぎる街で♪僕らは真冬の星より♪夢中で侈い♪胸に落ちた純白(しろ)い想いが♪溢れ出して僕を揺らして♪空が零した優しさだから♪雪は寄せ合った♪ツバサのように♪君の肩を包むよ♪「独りだけで居られない」と♪人は弱さを恋にするから♪微かに触れる唇に変えられるものはなくても♪何処かで凍えてる明日を♪引き寄せるように♪淡く積もる純白い想いを♪せめて君に伝えられたら♪何ができるの?その寂しさで♪雪は閉じられた♪ツバサのように♪ただぬくもり守って♪生まれたての願いを抱えてる♪震えるその手を暖めてあげよう♪灯した光見失わないように♪胸に落ちた純白い想いよ♪どぅか何も壊さぬまま♪空が零した優しさだから♪雪は寄せ合った♪ツバサのように♪君の肩を包むよ♪ただぬくもり守って♪君と僕を包んでゆく

第3位 「修羅」DOES

第50~62回エンディングテーマ 

「修羅」(しゅら)は、2007年5月16日にキューンレコードから発売されたDOESの4枚目のシングル。
♪街角は色めく♪少女らの縄張り♪寂しがりなおさげ♪旋風に揺れて♪耳障りな誘惑♪花椿の香り♪雲無しの午後には♪僕の修羅が騒ぐ♪焼け付く想いは憂い募らせる♪重なる面影を見つけては頂垂れている♪ー、だれか僕の♪二、火を消して♪三、飛ばしてくれ♪四、イエイ工♪駆け抜けた一撃♪エレキテルびりびり♪悩ましげなまつげ♪そこはかとなくだるい♪諭る思いは憂い募らせる♪あの日の思い出を薄めては大人びていく♪ー、だれか僕に♪二、火をつけて♪三、燃やしてくれ♪四、イエイ工
銀魂最高のエンディングテーマ DOESと銀魂は切っても切れない最高の組み合わせだとおもいませんか?


第2位 「銀色の空 」redballoon

第50~75回オープニングテーマ

redballoonの3枚目のシングル 「銀魂」とのタイアップは「雪のツバサ」に続いて、2回目となった。
♪銀色の空果てない♪降り続く熱のように♪短い季節駆けてく♪僕らを濡らして♪何も持たず行くから♪頼りない手のひらに♪惑ってしまうよ♪止んでしまった雨は♪この空に痛みさえ♪残さないで♪惹き合う力とぶつけ合う想い♪傷つけてでも抱き寄せた♪壊れそうな君に触れて♪視えない物信じてゆく♪もう何も怖れないよ♪吹き抜ける熱のように♪短く蒼く駆けてく♪僕らを揺らして♪「どぅせ流れてく日々…」♪俯(うつむ)き逃したのは何の夢?♪零れゆくようなきらめきが欲しい♪僕らは愛を知りながら♪辿り着けないか弱い光♪夜が明けるのを待ってる♪明日だけが消えない♪ただ途切れぬ約束♪君の瞳に灼きつけたい♪変わらぬ願いを♪銀色の空果てない♪降り続く熱のように♪短い季節駆けてく♪僕らを濡らして
この曲が2位もしくは3位でも文句はないであろう!


第1位 「曇天」DOES

第100~120回オープニングテーマ 


銀魂 曇天(100話~120話OP)
文句なく銀魂のNo1オープニングテーマだと私は思う、DOESの楽曲で、6枚目のシングル2008年6月18日Ki/oon Recordsから発売された。レコチョクが2011年に調査した『銀魂』の名曲ランキングでは、この曲が第1位に選ばれた。
♪鉛の空重く垂れ込み
♪真白に澱んだ太陽が砕けて
♪耳鳴りを尖らせる

♪ひゅるりひゅるり低いツバメが
♪8の字なぞってピルの谷を翔る
♪もうじきに夕立が来る

♪曇天の道を傘を忘れて
♪歩く彼女は雨に怯えてる
♪ので僕も弱虫ぶら下げて空を仰ぐ

♪あちらこちらあんよは上手
♪珈琲屋に寄って一休み極めたら
♪帰れない帰らない

♪曇天の道をぶらりぶらぶら
♪歩く二人は足軽のごとく
♪危険好きの誰かのふりをする小心物共
♪曇天の道を傘を忘れて

♪歩く彼女は雨に怯えてる
♪ので僕も弱虫ぶら下げて空を仰ぐ
♪曇天の道を傘を忘れて♪歩く彼女は雨に怯えてる♪ので僕も弱虫ぶら下げて空を仰ぐ
曇天の雰囲気をアニメの物語の少し重い雰囲気と重ね上手く歌っている。最高にカッコいい1曲だ!

最後に(まとめなど)



アニメ銀魂恥ずかしながら帰ってまえりました! 完結編やったのに!イケシャーシャーと帰ってまえりました!
あんなこと忘れちゃったという良い子の皆さん心配ありません!俺たちもあ~んな過去やこ~んな過去は無かったことにして始めるんで、
よろしくあねがいしやす。

最後に第3期のOPとED

ねごと - DESTINY [Official Music Video]



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サザンオールスターズ - ピースとハイライト 「SUPER SUMMER LIVE 2013 "灼熱のマンピー!! G★スポット解禁!!" 胸熱完全版」【期間限定公開】

ついにサザンが謝罪に追い込まれた。昨年大みそかの年越しライブで紫綬褒章をポケットから取り出すなどのパフォーマンスが物議を醸したことをめぐり、15日、所属事務所のアミューズと連名で謝罪文を発表したサザンの桑田佳祐(58)。10年ぶりの新アルバム発売や全国ツアーを控え、いち早く事態の収束を図った形だが、いったい何があったのか。

関係者によると、昨年大みそかに横浜アリーナで行われた年越しライブで、桑田は紫綬褒章の受章を報告する際、ポケットから取り出したうえ、オークションに掛けるようなパフォーマンスで笑いを取った。ファンと一緒に受章を喜ぼうとする桑田流の表現方法だが、WOWOWで生中継されたことから、ネットでのバッシングが拡大。11日にはアミューズの本社前で右翼系団体が抗議を行い、一部マスコミで報道される騒ぎに。

コメントでは「感謝の表現方法に十分な配慮が足りず、ジョークを織り込み、紫綬褒章の取り扱いにも不備があった」と釈明、「不快な思いをされた方もいらっしゃいました。深く反省するとともに、謹んでおわび申し上げます」と平謝りだ。

NHK紅白歌合戦にちょびひげで登場したことについても、観客に楽しんでもらおうという意図で「他意は全くございません」と説明。一連のライブの内容は「特定の団体や思想等に賛同、反対、あるいは貶めるなどといった意図は全くございません」としている。

サザンは元日、3月に10年ぶりとなる新アルバムを発売し、全国ツアーに出ることを発表。さらにNHKの放送90年イメージソングのタイアップがつくなど、本格的に動き始めた矢先だった。

アミューズは、1977年に設立。78年デビューのサザンが当初から屋台骨として支えてきた。現在は福山雅治(45)やPerfume、BABYMETALといった歌手や、女優の吉高由里子(26)らも活躍しているが、やはりサザンの存在は大きい。

東証1部上場の同社の株価は昨年5月に1589円の安値をつけたが、6月にサザンが年越しライブの実施やシングル発売、新アルバムの制作を発表したことを受けて上昇基調に転じた。さらに全国ツアー決定などを受け、今月6日には3675円と上場来高値を更新した。しかし、桑田への抗議も影響したのか、その後は軟調で16日も一時約2%下落した。

「アミューズが速やかに幕引きを図ったのは、こうした株価の動向や、今後の活動への影響を配慮したから。さらにこのまま騒ぎが尾を引くと、NHKなどにまでクレームがいきかねない」と芸能関係者は指摘する。

芸能評論家の肥留間正明氏は「賢明な対応。桑田の評価が低くなるわけではないが、いつまでも引きずっているわけにはいかない。桑田ほど影響力のある人なら、メディアでのパフォーマンスは慎重にすべきだが、少し息苦しい世の中になってきた感じだ」と話す。

サザンがおとなしくなってしまってはつまらないのだが。


サザン年越しライブでの桑田の発言 
「陛下のお出ましでございます。出ました、白いんです」
「お元気ですか、みたいな。朝からご苦労様でございます」(天皇陛下のモノマネをする)

「以前、よくこういう話してたんです。酔っ払うとこういう話するでしょ、男同士かっこつけて」
「国からなんかもらったどうすんだ?冗談じゃないよ、こちとらロックだよって」

「宮内庁から封筒が来て、ここにサインすればあの賞をもらえますって」
「俺はいつもロックって言ってたんだからさ、ちょっとボールペン持ってきてくれる。こんなもんかな」(サインする身振り)

「みんなに見てもらおうと持ってきたんだけど」(勲章をポケットから出して掲げる)
「みなさんのおかげで」

「じゃあまず5000円から。欲しい人」
「8800円。はい、やめなさい、そういうの」
「じゃあ感謝の気持ちを歌にしてみました。聴いて下さい、ラブユー褒章」(持ち曲の替え歌を歌う)

「8000円から」

 サザンオールスターズ・桑田佳祐の、年越しライブのパフォーマンスが波紋を広げている。

桑田はステージ上で、昨年11月に受章した紫綬褒章をジーンズの後ろポケットから無造作に取り出し、客席にアピール。MCでは、伝達式での天皇陛下の様子をモノマネしたという。さらに「ピースとハイライト」歌唱中には、ステージ後方に「×印」がつけられた日本国旗や「中國領土 釣魚島」と書かれた旗の映像が流れた。

それらはたちまちネット上に拡散され、大炎上。桑田は「反日家」の烙印を押され、ついには右翼系団体が所属事務所アミューズ(東京・渋谷区)の前で抗議活動を行うまでに至った。

13日付の東京スポーツでは、抗議運動を主宰した「牢人新聞社」主幹・渡邊昇氏の
我々は表現・言論の自由を潰そうとしているわけではない。ただ、日本人としてやっていいことと悪いことがある。今回の桑田のパフォーマンスは天皇陛下に対する侮辱、国家の尊厳を踏みにじる行為だ日本固有の領土である尖閣諸島を『中国領土』とした映像は国益を無視するもので、断じて見過ごすことはできないという主張が掲載されている。

現場を取材したマスコミ関係者によると「アミューズの社員も、偵察のため現場にいた。現時点で会社として声明を出す予定はないそうだが、反響の大きさを鑑み、過激なパフォーマンスはしばらく控えるよう、桑田さんにお願いする可能性はある」という。

一方で、このところの桑田の変化を指摘する声も上がっている。

「これまでも過激な言動が話題になることはあったが、国家間の問題や民族的な話には決して触れなかった。ターニングポイントは、やはり2010年に食道がんを患ったこと。あそこで桑田さんの死生観が変わったように思う。被災地復興などに尽力する一方、時の政権には批判的なスタンスを明確に出すようになった」(音楽関係者)

事実、昨年大みそかのNHK『紅白歌合戦』で桑田は、なぜかチョビヒゲ姿で出演。ネット上では安倍晋三首相をナチスドイツの独裁者ヒトラーになぞらえたのではないか? と議論を呼んでいる。

「紅白前の先月28日には、安倍首相夫妻が見守る中で『爆笑アイランド』という曲の一節を『衆院解散なんてむちゃを言う』に変更。客席にいた安倍夫妻をのけぞらせた」(同)

大病を患ったことで、この国に対する危機感が一層強くなったようだ。

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昨年末に行われたNHK紅白歌合戦でヒトラーのようなチョビ髭をつけた演出とサザンオールスターズの年越ライブでの反日的画像を流した件で、 桑田佳祐が所属事務所のアミューズを通じ謝罪文を発表した。全文は以下の通り。 
いつもサザンオールスターズを応援いただき、誠にありがとうございます。 

この度、2014年12月に横浜アリーナにて行われた、サザンオールスターズ年越ライブ2014 「ひつじだよ!全員集合!」の一部内容について、お詫びとご説明を申し上げます。 

このライブに関しましては、メンバー、スタッフ一同一丸となって、お客様に満足していただける最高のエンタテインメントを作り上げるべく、全力を尽くしてまいりました。

そして、その中に、世の中に起きている様々な問題を憂慮し、平和を願う純粋な気持ちを込めました。 

また昨年秋、桑田佳祐が、紫綬褒章を賜るという栄誉に浴することができましたことから、ファンの方々に多数お集まりいただけるライブの場をお借りして、紫綬褒章をお披露目させていただき、いつも応援して下さっている皆様への感謝の気持ちをお伝えする場面も作らせていただきました。 

その際、感謝の表現方法に充分な配慮が足りず、ジョークを織り込み、紫綬褒章の取り扱いにも不備があった為、不快な思いをされた方もいらっしゃいました。

深く反省すると共に、ここに謹んでお詫び申し上げます。 

また、紅白歌合戦に出演させて頂いた折のつけ髭は、お客様に楽しんで頂ければという意図であり、他意は全くございません。 

また、一昨年のライブで演出の為に使用されたデモなどのニュース映像の内容は、 緊張が高まる世界の現状を憂い、平和を希望する意図で使用したものです。 

以上、ライブの内容に関しまして、特定の団体や思想等に賛同、反対、あるいは貶めるなどといった意図は全くございません。毎回、最高のライブを作るよう全力を尽くしておりますが、時として内容や運営に不備もあるかと思います。 

すべてのお客様にご満足いただき、楽しんでいただけるエンタテインメントを目指して、 今後もメンバー、スタッフ一同、たゆまぬ努力をして参る所存です。 

今後ともサザンオールスターズを何卒よろしくお願い申し上げます。 
【HD】紅白歌合戦 サザンオールスターズ ピースとハイライト 東京VICTORY 2014年12月31日


私が中学3年生の1978年(昭和53年)だったと思う、キャンディーズが普通の女の子に戻った年、ぎんざNOWに常識破りの若手バンドが登場した。

今でも鮮烈に覚えている、短パン姿でスタジオ狭しと動き回りながら唄い、歌詞がよく聴き取れなかったが訳の分からないが乗りのいい音楽、勝手にシンドバッドを歌うサザンオールスターズ桑田佳祐であった。日本語ロックの一大革命を目撃した気持ちになった。

歌謡曲、演歌、フォークソングしか登場しない日本のテレビで衝撃的な日本語のロック(はっぴーえんどという偉大な日本語ロックの創造主の存在を当時まだ知らなかった。)を体験した田舎の中学生は、以後40年弱サザンオールスターズの一ファンであった。この”であった。”はed過去形であり、ing現在進行形ではない。サザンは今日隆盛するJpopの嚆矢であり、日本の音楽界において多大なる影響を与えた功労者ではあるが、今はサザンオールスターズをリスペクトする気持ちが一気に失せてしまった。

この気持ちは今までサザンオールスターズに思い入れがある50代以下の世代の人間の多くが同じ思いではないかと思う。サザンに対し好意的に思っていたの人でも、天皇陛下を侮辱する行為は絶対に許されないのである。

2012年当時の韓国の李明博大統領が、占領中の竹島に上陸したうえ、韓国忠清北道で開かれた大学教授らとのワークショップで天皇陛下の訪韓に関して、「(日本の植民地支配からの)独立運動をして亡くなった方々を訪ねて心から謝罪するならば来なさいと言った」と発言した。

この発言は、超えてはいけない一線を越えた発言であった。多数派の日本人の心の深いところにある天皇陛下への畏敬への念がある。概して穏健な日本人は普段は愛国心のスイッチは切られているが、天皇陛下への不敬な発言にこのスイッチが、入ったのだ!日本人は自分自身と、民族(日本と天皇陛下)の尊厳のために、強い意思が作動し始めた。

韓流ブームは終息し、日本の空気が一気に嫌韓へと傾いた。3.11以後、ご高齢にもかかわらず、被災地を自ら訪問し、直接被災した国民を励まし続ける姿、さらに心臓のバイパス手術を受けられからも、被災した国民を励まし続ける陛下に、心が動かされない日本人はいません。その陛下に謝罪させようと言う横暴な発言に怒りを感じなかった日本人はいないはずです。

今回のサザンオールスターズ桑田佳祐の行為は李明博の二の舞である。紫綬褒章は、天皇陛下から授与されるものであり、天皇陛下から紫綬褒章をありがたく受け取ったならば、その扱いに敬意を示すのは受賞者の当然の義務です。

日本の天皇家は古来より権力と分離した権威であり、日本と言う国そのものであり、キリスト教徒のローマ法王とも違うが、日本列島に住む部族と天や神を繋ぐ日本人の魂の司祭者なのである。陛下を侮辱することは日本そのものを侮辱することになるのである。

古来若者は常に上の世代から受けている抑うつをひっくり返そう煮えたぎるエネルギーを持っている。それをひっくり返そうという若者の音楽であったロックバンドは反体制で、アナーキー(無政府主義者)と相場が決まっている。まだ20代の若造であるなら無知な若者の若気の至りで済まされるが、59歳の桑田佳祐は大人であるはずである。音楽は良くても、その作品を作った人間性に疑問を持ってしまう。もうそうなっては、桑田の音楽に共感性が働かなってしまうのは当然である。

ロックンロールは黒人のブルース歌手だったチャックベリーが創始者とされているが、60年代ビートルズ、ストーンズといった白人ロッカーが登場し活躍し始めた。ベトナム戦争反戦平和フラワームーブメントの時代の流れに乗りロックは自分達の手で自由を勝ち取り、世界を変えていこうという人種を超えた一種の思想が出来上がった。
ロックの象徴する抑うつからの解放としての”自由”は今日においても実は重要な概念である。今ある状況を常に疑うこと。本当のあり方を求め続けること。騙されないこと。不正な社会的抑うつに対して素直に怒りを表明すること。常に限界を突破しようと試みること。そういう生き方考え方がつまりは本当の「自由」でありロック魂かもしれません。特にビートルズに象徴されるのは、自分達の世界を、自己実現という形で具体化し、大人達の世代から抑うつされた状態から 自由を実現したいという思想なのです。そこがロックの魂であり、ロックの意図するところの自由なのです。
だが、ここでいう自由というのは、FreedomではなくLibertyなのです。要は放任ではなく尊厳としての自由なわけです。桑田がロックを気取って反体制を未だに気取っての演出であるなら、FreedomとLibertyの区別もできない頭が悪いバカヤロウである。
ビートルズは1965年10月に大英帝国彰勲章 (Members of the Order of British Empire: MBE)を英国王室から送られています。受勲の理由は国家に対する、外貨獲得などによる多大な経済的貢献です。ビートルズの受勲が発表されたところ、戦争の武勲で勲章をもらった元軍人達の中で勲章を返上するという騒動が起こったりしましたが、その時にジョンレノンは、「僕らの叙勲に不満がある人は、戦争で人を殺して勲章をもらったんだろう。でも僕達は人を楽しませてもらうんだから、僕達のほうがもらう資格はあると思うよ。」と、ユーモアのある発言をしたが、若者であるが故許される範囲である。しかし分別が付き始めたジョンレノンはそのMBE勲章を1969年11月26日王室に返還した。
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日本でも、気骨がある反体制派作家や文化人は紫綬褒章や文化勲章を辞退している。理由はそれぞれだが城山三郎や吉川英治、唐十郎など名だたる人たちがいる。
ただし、文化勲章を辞退した大江健三郎は気骨がある文化人ではなくノーベル賞ならホイホイ貰う単なる反日主義者である。  .               ※この写真の大江は単なる馬鹿にしか見えません。→
一方ポールマッカートニーはその後 受賞者としての責任を果たしている。70代のポールマッカートニーはSirとしての品格を備え振る舞っている。大人のロッカーは20代の不満や抑うつを理解できる人間である。若い時のように上の世代への反発をするのではなく、下の世代の不満や鬱憤を理解し昇華させることができる。若者の気持ちを汲み取る役目を担ったり、ロックをアートに昇華することこそ真の大人のロッカーではないだろうか。70歳にもなってダラシナイ生活を送る内田裕也はタダのガキであって、真の大人のロッカーではない。それゆえ彼の”ロックンロール”は喜劇であり愚者にしか見えない理由である。
桑田佳祐は”ロッカー”なのかと問われれば、彼は紫綬褒章を貰っておきながら、不敬な言動をする中途半端なアナーキストだと思う。 反体制を気取るならそもそも紫綬褒章を受け取ってはいけない。 天皇陛下から紫綬褒章をありがたく受け取ったならば、その扱いに敬意を示すのは受賞者の当然の義務である。受け取ったなりの品格を示せないのであれば、人間として失格であり、その受賞理由である音楽界への貢献も価値を下げるものである。

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「幸せな結末」などのヒット曲で知られ、実験精神あふれる音作りで日本のポピュラー音楽界に大きな足跡を残した、ミュージシャンでプロデューサーの大瀧詠一(おおたき・えいいち)さん=本名・大瀧栄一=が30日、東京都内の病院で亡くなった。65歳だった。
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 警視庁や所属レコード会社によると、30日夕方、瑞穂町内の自宅で果物を食べていたところ、突然倒れ、家族が119番通報した。病院に搬送されたが、解離性動脈瘤(りゅう)で亡くなったという。通夜、葬儀の日程は未定。

岩手県出身。1970年、細野晴臣さんや松本隆さんらとのロックバンド「はっぴいえんど」でデビュー。ロックを日本語で歌う当時としては画期的なスタイルが話題を呼んだ。

72年の解散後は、ソロとして活動。当時ミュージシャンとしては珍しかったCMソングの制作に力を入れたほか、74年には自身のレーベル「Niagara」を設立。山下達郎さんや大貫妙子さんらのバンド「シュガー・ベイブ」のプロデュースも手がけた。

古今の大衆音楽のエッセンスを踏まえつつ、徹底した音作りと親しみやすいメロディーを志向し、80年代以降、アルバム「ア・ロング・バケーション」「イーチ・タイム」を世に送ったほか、ドラマの主題歌になった「幸せな結末」(97年)はミリオンセラーとなった。ほかに、松田聖子さんの「風立ちぬ」(81年)、森進一さんの「冬のリヴィエラ」(82年)、小林旭さんの「熱き心に」(85年)などの作曲も手がけた。

メディアへの露出は少なかったが、75年から83年まで続いた番組「ゴー!ゴー!ナイアガラ」でDJを務めたほか、ラジオにはたびたび出演していた。

“プロに愛されたプロ”急逝 日本語ロックの先駆者
msn産経 2013.12.31 18:54 

 「今や当たり前のように存在している日本語ロックや日本のポップスを確立した先駆者だった」。音楽評論家の富沢一誠さんがそう語る大滝詠一さんの死は、年の瀬のファンと業界に大きな衝撃を与えた。

その歩みは先見性に満ちていた。伝説のロックバンド「はっぴいえんど」解散後は、自主レーベル「ナイアガラ」を設立。バンド「シュガー・ベイブ」をプロデュースし、所属していた山下達郎さんや大貫妙子さんを世に送り出した。

 昭和56年のアルバム「ア・ロング・バケイション」は流通し始めたばかりのCDの普及を牽引(けんいん)。CM音楽にポップスの要素を持ち込んだのも大滝さんの功績とされ、作曲家としても森進一さんの「冬のリヴィエラ」など数々のヒット曲を生んだ。
平成9年のドラマ主題歌「幸せな結末」は大ヒット。15年の「恋するふたり」以降、表舞台での活動は少なかったが、「自分の作った曲は最後まで面倒をみたい」と普段から語り、最近は昭和59年のアルバム「イーチ・タイム」のリマスター盤を3月発売に向けて制作していたという。

洋邦楽への豊富な知識を持ち、自宅をスタジオに改造するなど徹底した凝り性で「趣味趣味音楽(ミュージック)」と自称したこともある。近年も有名歌手らがCDやライブで楽曲をカバーし、「日本の音楽界にとって水戸黄門の印籠のような存在だった」と富沢さん。プロに愛されたプロの、突然の訃報だった。

詠一という巨大なアーティストが年末唐突に逝ってしまった。
詠一といえば、日本語ロックの元祖はっぴーえんどの作曲とボーカリストである。作詞は松本隆氏 大瀧=松本の楽曲はレノン=マッカートニーに匹敵するかもしれません。 
日本語ロックだけでやなくCMソングの制作や、歌手やアイドルへの楽曲提供の先駆けとして日本のロック/ポップ史を語るうえで外すことができない存在です。
私も、カラオケでは年末必ずさらばシベリア鉄道を歌う。気がつくと「熱き心に」など大瀧ソングを歌っている。大瀧詠一の曲は歌っていて気持ちがいい・・・
2009年忌野清志郎・加藤和彦が亡くなって衝撃を受けた以来の日本ロックシーンの損失だ・・・自分が年を取るからかもしれないが・・・大好きなアーチストが次々伝説になってしまうのは寂しい気持ちです。
印税で悠々自適の晩年、あまり苦しまずに旅立ったのは、正に「はっぴいえんど」=「幸せな結末」だったのかもしれません。それにしても65歳はまだまだ若過ぎるはっぴいえんどです。
大瀧詠一氏には、さらばシベリア鉄道ではないが、「さらば大瀧詠一」と書かせてください。
大瀧詠一さんが関わった主な作品
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松本隆(上段左)、鈴木茂(上段右)、大滝詠一(下段左)、細野晴臣(下段右)、
はっぴいえんどの1971年11月20日にリリースされたセカンド・アルバム♪
はっぴーえんどは1969年に細野晴臣(ベース)、大滝詠一(ボーカル&ギター)、鈴木茂(ギター)、松本隆(ドラム)の4人で結成され、70年、アルバム「はっぴいえんど」でデビューする♪
当時は、日本語でロックを歌うことはどうか?と論争が行なわれていた時代、日本ロックを代表するグループとなった♪
「風をあつめて」「はいからはくち」「夏なんです」といった代表曲が多い♪
演奏、歌、作詞、曲と完成度が高い作品だ♪
後の大滝詠一のナイヤガラ、ティン・パン・アレーの流れが見えている気がする♪
大滝詠一と、細野春臣の音楽性の違いが見えているアルバムだとも思った♪

1972年 大瀧詠一大瀧詠一
1975年 シュガー・ベイブ『SONGS』
1976年 吉田美奈子「夢で逢えたら」
1980年 太田裕美「さらばシベリア鉄道
さらばシベリア鉄道

作詞:松本隆
作曲:大瀧詠一                                                
哀しみの裏側に何があるの?
涙さえも氷りつく白い氷原
誰でも心に冬を
かくしてると言うけど
あなた以上冷ややかな人はいない
君の手紙読み終えて切手を見た
スタンプにはロシア語の小さな文字
独りで決めた別れを
責める言葉捜して
不意に北の空を追う

伝えておくれ
十二月の旅人よ
いつ…いつまでも待っていると

この線路の向こうに何があるの?
雪に迷うトナカイの哀しい瞳
答えを出さない人に
連いてゆくのに疲れて
行き先さえ無い明日に飛び乗ったの
ぼくは照れて 愛という言葉が言えず
君は近視まなざしを読みとれない
疑うことを覚えて
人は生きてゆくなら
不意に愛の意味を知る

※伝えておくれ
十二月の旅人よ
いつ…いつまでも待っていると※
(※くり返し)

1981年 大瀧詠一『ア・ロング・バケーション』
大瀧詠一「君は天然色」
      松田聖子『風立ちぬ』
      ナイアガラ・トライアングル「A面で恋をして」
1982年 森進一「冬のリヴィエラ」
金沢明子「イエロー・サブマリン音頭」
1983年 薬師丸ひろ子「探偵物語」
1983年 ラッツ&スター「Tシャツに口紅」
1984年 大瀧詠一『EACH TIME』
1985年 小林旭「熱き心に」
1997年 大瀧詠一「幸せな結末」
2003年 大瀧詠一「恋するふたり」
日本語ロックは、はっぴいえんどが、創ったといっても過言ではない。はっぴいえんどは細野晴臣と松本隆のプロジェクトだった。大瀧詠一は当初日本語ロックに懐疑的で反対だったと言う。詳しくは大瀧詠一論参考


はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』(通称「ゆでめん1970年リリース)を代表するチューンは、大滝詠一作曲の「十二月の雨の日」であり、この曲における大滝詠一の歌唱と鈴木茂の演奏がはっぴいえんどを世に知らしめた。
ボーカリスト・大滝詠一ははっぴいえんどの顔だったし、松本隆とともにスポークスマン的な役割を演じたことも多い。だが、それは、はっぴいえんどというバンドの一員としての行動にすぎず、バンドの舵はあくまでも細野晴臣と松本隆によって握られていたのである。もちろん、大滝詠一自身は、そのこと自体に不満を抱いていたわけではない。むしろ、積極的にはっぴいえんどの一員として行動していたといっていい。

歌詞(言葉)の面では圧倒的に松本隆が主役だった。このことは『風街ろまん』(一
九七一年リリース)でいっそうはっきりした。直接的には渡辺武信(詩人)の影響下にあったものの、松本隆の言葉はたんなる「詞」にとどまることを拒んで、東京という都市のポップを構築するための武器に仕立て上げられた。松本隆の情熱に導かれるようにして、大滝詠一も細野晴臣も鈴木茂も、全力で「風」と「街」の世界を描いたのである。このアルバムに注がれた各メンバーのエネルギーは尋常なものではなく、そのおかげではっぴいえんどはバンドとしてのアイデンティティを失い、やがて解散にいたったほどである(はっぴいえんどの実質的な活動は、一九七二年いっぱいで終わる)。 
 
 松本隆によるこうした「言葉のプロデュース」は、その後も尾を引くことになる。
たとえば、大滝詠一が最初のソロ・アルバム『大瀧詠一』をリリースしたのは一九七二年で、まだはっぴいえんどとしての活動も並行して行われていた時期だ。音としては「はっぴいえんどの大滝詠一」から「ナイアガラの大滝詠一」に向かう過渡期にあったが、歌詞の面ではやはり「はっぴいえんどの大滝詠一」という印象は拭いきれなかった。大滝自身が作詞した「あつさのせい」や「びんぼう」などには、独自のノヴェルティ・ソング指向がすでに強く現れてはいたが、松本隆が作詞した「それはぼくぢゃないよ」「乱れ髪」「水彩画の街」には、はっぴいえんどの「朝」や「空色のくれよん」に通ずるメランコリックな世界が展開し、聴き手はそこに松本隆(=はっぴいえんど)の都市論や恋愛論を読みとってしまうのであった。ノヴェルティ・ソング指向の端緒も、『風街ろまん』に収録された「颱風」にあることは事実だが、「颱風」が『風街ろまん』のなかで例外的に大滝詠一的だったのだ。言い換えると「颱風」ははっぴいえんど的ではなかったのである。 

           

おそらく大滝詠一自身が「はっぴいえんどの大滝詠一」の不自由さをいちばんよくわかっていたはずである。はっぴいえんど解散後に制作されたセカンド・ソロ・アルバム『ナイアガラ・ムーン』(一九七五年リリース)は、ニューオリンズ指向のロックンロールをベースとしたノヴェルティ・タイプの曲を中心に構成され、松本隆がはっぴいえんど時代に生みだした世界とはまったく異質の世界を切り開いた。松本隆の詞を排除することによって、大滝詠一は初期ナイアガラ・サウンドを確立することに成功したのであった。 
 
 このままいけばすべてが順調だったかもしれない。ところが、大滝詠一は、所属していたエレック・レコードの倒産、それに伴うシュガー・ベイブの解散、その後の日本コロムビアとの契約(年間のリリース数四枚)など、レーベル経営上の環境変化を経験せざるをえなかった。 
 
 一九七六年には『ナイアガラ・トライアングルVOL.1』と『GO!GO!NIAGARA』を発表、さらに吉田美奈子に名曲「夢で逢えたら」(大滝詠一作詞・作曲)を提供するなど、端からは精力的な仕事ぶりに見えたが、実際の仕事の重心はレーベル経営やプロデュースに置かれ、ソロ・ワークに割くことのできる時間は限られていた。それでも、『ナイアガラ・ムーン』のノベルティ路線は継承され、レーベル経営に忙殺されるかたわら『ナイアガラ・カレンダー』(一九七八年リリース)のような佳作も発表したが、もはや「ポップス万華鏡」的なアプローチだけでは、時代に正面から向き合うことはできなかった。 
 
 『ナイアガラ・ムーン』はたしかにノヴェルティ・タイプの作品ではあったが、同時に日本のポップス史に欠落した部分を埋める試みとしてのトータリティを備えており、その点で時代を先導するものであった。が、『ナイアガラ・ムーン』以降のソロ・アルバムを見ると、たしかに形式的にはコンセプチュアルではあったが、実質的には「ひとりオムニバス的な色合いが濃く、アルバムとしてのトータルなイメージを強く主張するものではなかった。だから、一部の熱烈なファンに訴えかけることはできても、新しい聴き手を獲得することはできなかったのだ。新しい聴き手を獲得するには、なによりも時代にフィットする「言葉」が必要だからだ。 
 
 大滝詠一は松本隆による「言葉の支配」から自由になることによって『ナイアガラ・ムーン』を生みだすことができた。だが、それは、メランコリックなバラード・メイカーという大滝詠一の持つもう一つの側面を切り捨てて初めてできたことだ。大滝詠一もバラードの詞を書くことはできる。しかし、その多くは、幾層にも重なるポップスという遺産を、歌詞という面から継承したものだった。もっと端的にいえば、過去における言葉のパターンを微調整しながら組み直すことで大滝詠一の詞は成り立っていた。時代に対する言葉のフィット感は二の次だったのだ。 
 
 第2期ナイアガラ(コロムビア時代)が幕を下ろし、しばしの充電期間後に発表されたのが『ロンバケ』であった。この間に大滝詠一にどのような心境の変化があったのかはよくわからないが、松本隆との共作を決意するまでは、かなりの逡巡があったに違いない。プロの作詞家として、すでに無数のヒット曲をものにしていた松本隆だが、大滝詠一にしてみれば松本隆との共同作業は危険をはらんでいた。なぜなら、松本隆による「言葉の支配」を経験していたからである。せっかく書いた楽曲が、大滝色ではなく松本色に染まってしまうおそれがある。 
 
 松本隆と真に訣別することが大滝詠一にとって最大の課題のひとつだったからこそ、大滝詠一は自分で詞を書くよう努めた。が、松本隆の世界から離れようとすればするほど、大滝詠一は言葉の世界を迷走せざるをえなかった。第2期ナイアガラが失敗した理由のひとつも、おそらくそのあたりにある。 
 
 『ロンバケ』の制作を控えて、大滝詠一には他に選択肢はなかった。自分の音へのフィット感と時代へのフィット感を両方満たす作詞家は他にはいない。悩み抜いた結論は、松本隆を「作詞家として起用する」ことだった。言い換えると、プロデューサーとしての大滝が、プロの作曲家として自分自身を、プロの作詞家として松本隆を起用し、プロのシンガーとしての自分自身に歌わせるという枠組みを作ることによって、大滝詠一と松本隆の関係ははじめてクールなものになる。過去というしがらみから自由になる。「はっぴいえんどの松本隆とはっぴいえんどの大滝詠一」ではない、新しい自律的な関係が生まれるのだ。 
 
 結果的に、松本隆との共同作業は大成功だった。全十曲中、大滝詠一作詞の「Pap‐Pi‐Doo‐Bi‐Doo‐Ba物語」を除く九曲を松本隆が手がけているが、そこにはもはや、「はっぴいえんど」というアンダーグラウンドなロック・バンドの残り香を嗅ぎ取ることは困難だ。「カナリア諸島にて」に代表されるようにリゾートという名の恋の舞台がさえちりばめられ、過去も未来もすっかり溶けあった刹那の世界が豊かに広がっている。 
 
 松本隆の言葉と大滝詠一の音は、対等かつ心地よい緊張関係を保ちながら絡み合って、普遍的なポップスのバイブレーションを創りだしているのである。これこそが、「日本のロック」ならぬ「日本のポップス」だといわんばかりの作品に仕上がっている。 
 
 こうして大滝詠一は、はっぴいえんどに最終的な決着をつけることができた。松本隆をプロの作詞家として呼び込むことによって、松本隆に決着をつけることができたのである。松本隆もおそらく似たような思いだったに違いない。「はっぴいえんど幻想」は、まさにこの時終止符を打たれたのであった。

  







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私はプログレッシブロックこそ音楽の究極の形ではないかと思ってきた。だが、進化は70年代でピークを迎え80年代でPop化してプログレは終った。70年代にやりつくされたのか?さほど進化していない。これは洋楽全般にも当てはまり、パンク以降、ラップが出現し、洋楽全般は70年代~80年代に輝いたロックの大御所を超えるバンドはほとんど出現していない。ところが今も進化を続け、世界中を魅了して止まないのは日本のJ-popだろう。世界中でクールジャパンともてはやされているが、J-popこそ今世界で一番進化しているプログレッシブな音楽なのかもしれない。

このGW中J-Waveでヘビーローテーション中のレキシのキラキラ武士嵌ります!


レキシ/きらきら武士

※あなたは武士 きらきら武士
きらきら武士 武士 武士

あなたが好き 無視 武士
きらきら武士 武士 武士※ 繰り返し



今日は朝から馬乗って あたしをここから連れ出して
もう城にはもどらないって 家臣には何もつげないで

手綱はギュッと 手綱はギュッと 強く握って
なかなかキュートな 刀と一緒に 武士in the sky

△あなたは武士 きらきら武士
きらきら武士 武士 武士

あたしだけに 光って武士
きらきら武士 武士 武士△ 繰り返し2

ちょっとまだマゲ結うの待ってって
言うの待っていて 早三年
ちょっとだけマゲ結っていい?って
言うけど You まだ早いって

兜はギュッと 兜はギュッと 深くかぶって
そこそこキュートな あたしと一緒に 武士in the sky



迫る身を押して 寝返り注意して
国取りは忘れて 武士今何回目?

あなたに会いたくて 物のフリをして
時々上をみて 時々下のステップ

あなたは武士 きらきら武士
きらきら武士 武士 武士

あなたが好き 無視 武士
めがねが欲しい ブーツィー 武士

メロディとこの深~い?歌詞の乖離・・・まさにCoolJapan
外人さんにはきらきら武士♪がkiller killer pussy!と聞こえるそうです(笑)
それにしても、このレキシは日本でしかありえない音楽だと思いませんか?



「狩りから稲作へ」歌詞より一部

縄文土器 弥生土器
どっちが好き? どっちもドキ

どんぐりひろって食べてた あの頃の夕日赤かった
貝は食べ捨て貝塚 海沿い移動するいつしか
見つけたら逃さぬナウマンゾウ  どこまでも追っていく 皆そう

貴方と此処にいたいから 私の想いはもう 揺れない
どこへもいかないで ずっとここにいて 私の願いは今日から 稲作中心
稲作中心 稲作中心
稲作中心 稲作中心

稲穂の実る時 あたしが好き? どっちもドキ
狩り終えてひとり帰る道の上 月の明かりも揺れている
君の未来へつながる稲作中心 狩りから稲作へ
君の未来へつながる稲作中心 ともに暮らそう 屋根の下 稲作定住
ともに暮らそう 屋根の下 稲作定住
ともに暮らそう 屋根の下 稲作定住
タカユカシキ ネズミガエシ
タカユカシキ ネズミガエシ
タカユカシキ ネズミガエシ
タカユカシキ ネズミガエシ
(くりかえし)

この縄文から弥生へのことを教科書的に意味不明な歌詞の内容・・・凄いと思いません?J-Popスゲー!!!・・・ちなみに曲は3分台から始ります。

外人さんにはきゃりーぱみゅぱみゅで十分でしょう。レディーガガが霞んで見える。


以前ブログ記事で紹介したこのPVはなんと日本人のバンドELLEGARDEN のSalamanderという曲です。洋物のハードロックを超えている。

ELLEGARDEN - Salamander 連続再生

解散してしまったのが惜しい・・・




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(略)

 日本に住んでもう4年くらいになるかな。ボクはね、昔から日本の音楽に興味があったんですけど、90年代の後半ぐらいからJ-POPにすごくはまったんですよ。メガデスのプロモーションで、だいたい年に2~3回くらいのペースで日本に来てたんですけど、その度に山ほどのJ-POPのCDを買って持ち帰ってたんですよ。で、聴けば聴くほど大好きになって、J-POPみたいな音楽をやりたくてしょうがなくなってきて、やりたければ住むしかないかなって思って、日本に住むことを決意したんです」

日本に住まれた理由はJ-POPだったんですか! ちなみにマーティさんのスラッシュな心を奮わせたJ-POPというのは?
「B'zとかZARDとかですね(キッパリ)」
び、B'zにZARDですか!!
「あとは浜崎あゆみとかglobeとか、まぁ王道系かな」

(略)。
「でもね、 J-POPってスゴいんだよ。それって日本人が一番知らないことだよ。J-POPの持つメロディーには、アメリカとかには絶対にない素晴らしい要素がたくさんあるし、楽曲の中のメリハリとかなんて超スゴいし、全てにおいて洋楽なんかにはない良さで溢れていますよ」
でも、日本の音楽シーンっていうのは海外の音楽の模倣というか、マネって言われてる部分もありますが?
「ありえなーい!! J-POPでアメリカとか海外の音楽に似たものはないですよ! そんなの一点もない(断言)」
しかしボクたち日本人からするとですね、たとえばHIP HOPっぽい曲なんかだと、やっぱり英語じゃないと合わないんじゃないかって。日本語でやっているのを聴くとなんか違和感があったりするんですよ。


「その考え自体がボクにとっては違和感そのものですね。日本のHIP HOPでオリコンなんかに入ってくるような曲は、だいたいが大サビにいくと完全にJ-POPの歌謡曲的なメロディーになるじゃないですか。ああいうニュアンスって日本のオリジナル。聴きやすくなるようにちゃんと調整してある。あの日本的なメリハリこそがJ-POPの醍醐味なんですよ。まぁ、たしかにラップとしてはめちゃくちゃ低カロリーラップではあるんだけど」
低カロリーラップ(笑)
「でもね、本場のギャングスタラップとかなんてリズムに乗せて喋ってるだけだし、アメリカ人のボクが聴いてもライムはスラングだらけで意味わかんないし、人種問題や人生的なメッセージが多いホンチャンのアメリカのラップとかとは比較するものじゃないし、できないですよ」
つまりラップとしての目的地がまったく違うということですか?
「そうそう、その通りです。だってさ、kat-tunだってラップしてるんだよ、それだけでももう別物でしょう(苦笑)」
アハハハハ! たしかにそうですね。
「もちろん、アメリカ人のラップファンはそういったのを聴いても『これは?』って思うと思うけど、日本だけじゃなくてさ、ドイツでもフランスでもみんな自分の母国語でラップしてる。だって、全部英語だと意味が伝わんないじゃん。だから違和感ってのはボク的にはあまりないですね」
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ではロックの世界ではどうですか? 全てとはいいませんが、やっぱりロックは洋楽じゃないとっていう考えは根深いです。
「でもさ、日本の演歌にだって歪んだツインリードギターがしっかり入ってるじゃん! 石川さゆりさんの『天城越え』なんてアイアン・メイデンばりのツインリードギターですよ」
マーティさんからすれば、天城越えはNWOBHM(ニューウェイブ・オブ・ブリティッシュヘヴィメタル)の重鎮、鋼鉄の処女アイアン・メイデンですか!!(笑)
「アイアン・メイデン以外の何ものでもないよ。ギターも歪んでるしね。で、そんな歪んだギターの音を日本じゃお婆ちゃんが聴くじゃん、お爺ちゃんも聴いてるじゃん。アメリカのお婆ちゃんとかお爺ちゃんなんて、歪んでるギターが入った曲なんて絶対に聴かないよ、ありえなーい!」 
まったく聴かないんですか?
「 聴かないよ。歪んでるギターなんて完全にNG、みんなゲロッちゃうよ。日本人ってさ、気づいてないかもしれないけど、幅広い年齢の人が歪んだロックテイストのギターに体が慣れてるよ。これはもうホントにアメリカ人からしたら不思議なことだよ。演歌もそうだし、アイドルのポップスにもゴリゴリに歪んだメタルギターが入ってるし」
アイドルの曲にもゴリゴリのメタルギターが入ってますか!
「ゴリゴリ入ってますよ。アイドルのポップスとかだけじゃなく、R&Bっぽい曲とかにも入ってるし、バラードのギターソロなんてまさにメタル。でも、海外はそんなギターが入ってるのはメタルとかハードロックな音楽だけですから。そういえばね、ちょっと前に鈴木亜美ちゃんとツアーしたんですけど、スタッフは全員ゴリゴリのメタラーだったなぁ(笑)」
鈴木亜美ちゃんもゴリゴリでしたか! そんな亜美ちゃんバンドのギタリストとして、マーティさんは念願の紅白歌合戦への出場(2005年)も見事果たしましたよね!
「はい、ありがとう(満面の笑みで)。ボクは紅白の大ファンですから、ホントに長年の夢でしたし、夢が叶ったなぁって。心の底から嬉しかったですね」

メガデスの中心人物だった方の夢が紅白出場だったというのもなんだか衝撃的なんですけど、そんなに紅白って魅力的ですか?
「魅力的ですよ! だってね、紅白って子どもからお婆ちゃんやお爺ちゃんまでが一緒になって見る歌番組でしょ、そんな音楽番組、アメリカには絶対にないよ。紅白は音楽的にホントに興奮する現象だよ! 」
(略)
サブちゃんと同じステージにマーティさんが立ったってのもとてつもなくスゴいことですよ。
「嬉しいですよね。日本人のアーティストでもなかなか出場することができないステージに、ボクみたいなわけのわからない日本語を喋る外国人が出場できたのは奇跡ですよね! 紅白最高!!」
(略)
歌詞という部分についてはどうですか?
「日本語のですよね? ある程度は詳しいんだけど、サウンドに比べたらそんなに詳しくはないんだよね。だって、歌詞って抽象的なものですから、逆に“いい歌詞”になるほど難しい。どちらかといえば、ボクはシンプルな日本語の歌詞が好きですね」
ちなみに好きな歌詞っていうのは?
「あややですね(即答)」
ま、松浦亜弥ですか!
「あややみたいにクレバーでキュートな歌詞は最高に超好きですね。ハートにキューンってきますよ」

(略)

ほとんどの国は自分の国の音楽しか聴かないけど、日本って国はホントに幅広くて、アメリカやイギリス、ヨーロッパなんてもちろんで、アフリカの音楽とかラテン語の音楽とかなんでも聴いてるでしょ。ボクはそのなんでもあり的な部分がJ-POPの素晴らしさを生んでいるひとつの要因だと思うし、そういった“なんでも受け入れる”ってスタンスが日本という国が持つ最大の魅力だと思いますよ」


でも、日本文化が持つ魅力って、案外日本人には見えずらかったりするんですよね。
「見えないなら教えてあげますよ。日本って国の魅力はですね、他の国から受けた影響の中からベストな部分を抽出して、そこから悪い部分を全て排除して、いい部分だけを根こそぎ取り出して、それを完全なオリジナルに仕上げるところですよ」
なるほど! でもそれってマーティさんのギターサウンドにも通じることなんじゃないですか? 
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演歌独特の歌い回しをギターで分析されたんですか?
「そうですね、周りのみんながヴァンヘイレンなんかを完コピしてる間に、ボクは美空ひばりさんや小林幸子さん、八代亜紀さんに都はるみさんという演歌界の大物の曲のヴォーカルラインを、一生懸命ギターで完コピして、都はるみさんの独特なヴィブラート、八代亜希さんのスキャット風な歌い回しと泣きのメロディー、小林幸子さんの強烈なこぶし。細かいテクニック、微妙な部分まで全部ギターで表現できるように努力して、自分のサウンドもバッチリ取り込みました。多分こんなことしてるギタリストなんていないと思うし、今ではそれが武器というか、オリジナルな秘密兵器になってますね」

(略)
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天城越え~雪の華 連続再生



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http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php
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私にとって加藤和彦さんは、幼稚園の頃に流行った「帰ってきた酔っ払い」以来のカリスマでした。

1963年生まれの私にとって加藤和彦はフォークルやミカバンドの加藤和彦でもあるが、加藤和彦with安井かずみの印象がつよい。

加藤和彦さんの生き方はフィッツジェラルドの小説「華麗なるギャッビー」の主人公ジェイ・ギャツビーを彷彿させ、その「かっこいい生き方」は、自分にとって憧れでした・・・

アメリカの大恐慌前狂乱の20年代、毎晩のように、上流階級の人間をおおぜい屋敷に招待しては派手なパーティを催していた謎の大富豪ギャツビーは、第一次世界大戦へ出征する際、別れた昔の恋人に会うために、ただそれだけのために8年間、死に物狂いで働いて、ついに億万長者になった。そしてついに億万長者に嫁いだ昔の恋人と再会を果した、ジェイ・ギャツビー・・・

彼の孤独と純愛のストリーは加藤和彦氏の人生にどこか通じるものがある。

【華麗なるギャッビーあらすじ】
http://ameblo.jp/kikuken/entry-10104480515.html

新聞報道や、Wikiなどには、「最近になって鬱病を患い、死の直前にはそれが悪化していたという。」と書かれていた。

鬱で自殺をするなんて・・・と思っていたが、本書を読んで確信した、欝だったのでははなく、それが加藤和彦氏の美学だったのだ。

加藤氏にとって富や名声なんて二の次であったろう、多くの人を感動させた彼の音楽は彼の人生そのものであった。その彼の人生と音楽をつむぎだす大切なパートナー安井かずみさんを失った喪失感は埋める事が出来なかったのか・・・

失った自分の魂の半分を一つにするため加藤和彦氏は旅たったのである。

北山修さんの追悼文によれば、加藤さんは、すべて雑事を済ました後、あらかじめ秋の晴れて良い日を選んで、計画的に旅立たれたという。なるほど、用意されていた遺書の文章は推敲を重ねた文章だ。

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                  葬儀場で配られた、個人宛でない加藤和彦氏の遺書


本書も2008年3月加藤氏から聞き手構成の松木直也に自分の本をつくらないかと声をかけてインタビューが始まったという。タイトル通り本書は加藤氏がファンに向けてのラストメッセージであります。


「人生という名の劇場」-加藤和彦の死をめぐって

きたやまおさむ(精神科医・作詞家)
葬儀も終わり、自死の悲報から一週間も経つと、少しずつ涙も枯れてきた。一人になるとすぐに悲しみがこみあげてくる状態だったが、今ではこれだけ人に衝撃を与えて、悲しませたのだから、あいつは「大ばかやろう」だったと大声で言いたい時も出てきた。

そして、これまでの追悼の場では言えなかった彼の死についての思いを、少し距離を置いて語っておきたい。

死んだ加藤は、人生を演劇だと考えていたと思う。実は去年、まさし-「人生という名の劇場」という曲を、作詞が私、作曲加藤で某グループのために作つた時、私の歌詞を見た瞬間にこれ僕らのことだと言っていた。というのも、彼には、舞台で演奏する音楽家であり聴衆に向かって微笑みかける出演者でありながら、同時に舞台の脇から、正面からその演技や演奏を厳しくチェックする演出家が棲みついていたのだ。

加藤のマルチな才能の二重性、多重性がいかんなく発揮された最初の例が「帰つて来たヨッパライ」の音作りで、私の自宅にあった家庭用テープレコーダーで録音した自分の歌声を、自分で早回転させ、その上に私たちのコーラスや神様の声をかぶせるという、多重録音のアイデアと演出によって「新しい音楽」は実現したのである。その上私たちは、作詞作曲し、演奏し、レコードを自主制作し、自らラジオ局に持ち込んでヒットさせるという、完壁な自作白演をや一てのけたのである。

加藤和彦は、作曲し演奏し歌い録音しながら編集する音楽家としてだげではなく、グルメでありながらの料理をするコック、モデルをやりながらのデザイナーであり、普通はあり得ない役割を両立させる天才だった。その結果、この格好いいミュージシャンによって生み出される作品は完成度の非常に高いものとなり、聴衆もそれを喜んだし、私も十分に楽しませてもらっ
た。

しかし、才能豊かな芸術家が陥りやすい不幸なのだが、すべて彼自身の中の批評家がうるさくチェックするので、客は喜んでも、ずっと加藤自身はなかなか十分な満足の得られない状態だったと思う。

そしてこの度は、人生という「作品」の最後においても、きちんと雑事をこなし、仕事を整理した上での計画的自死のようであり、その取り返しのつかない「自作自演」もまた加藤らしいし、精神科医として無念だが、その完壁さは聞いたことがないくらいだ。今、自問自答しても、それは食い止められなかったと思うし、私は未だに、愛すべき故人の演出する「加藤劇場」のシナリオの中にいるんじゃないかと思うくらいである。

彼の半生は日本の音楽シーン後に日本語ロックや今日のJ-popと呼ばれる日本の音楽シーンの黎明期に果した仕事は偉大だ。

p76~p81
――ミカ・バンドの黎明期ですね。

KK 初めて見た人たちは、どう反応していいか判らなかったんだろうね。それは受けとかじゃなくてさ、髪の毛はオレンジで、僕なんかその頃、スウェーデン製の木の靴、サボなんか履いていたときもあって、そういうのもまだ珍しかったからね。髪の毛もオレンジだし、そんな派手な衣装を着たバンドなんかまだ観たことないから、オーディエンスとの距離感はかなりのものがあったね。向こうはアイビー・ファッシヨンが多かったし、多少派手なのがいてもそんなの大したことなかったからさ。

それで、地方へ行くと、サディスティヅク・ミカ・バンドなのに、「加藤和彦とサディスティックニミカ・バンド」と、「加藤和彦と」が付くんだよ。

僕は、嫌だからやめて欲しいって言ったけど、ミカ・バンドだけじゃチケットが全然売れないっていう理由ですぐに却下。僕らを見る人たちはまだフォークルを引きずっていて、ファンが求めているのはフォークルの加藤で、音楽性もファヅションも音量なんかもすべてにギャップがあった。

この頃、はっぴいえんどの細野君(細野晴臣)がやっぱり新しい音楽をやり始めていて、まあ自分で言うのも変だけど、僕と細野君がいなかったら日本の音楽は10年ぐらい遅れていたと思うよ。

当時コンサートでよく顔を合わせていたのがガロで、彼らとは仲良かった。音楽の趣味はイギリスとアメリカで違うところがあったけど、体質としては同じ洋楽をべースにしているからね。そのへんから同じアルファレコード繋がりでムッシュ(かまやつひろし)ともよくイギリスの音楽の話をしていたかな。ムッシュも好きだったから。

つのださんが脱退して、小原礼さんと高橋幸宏さんが入りましたよね?

KK シングルを出してから、つのだ☆ひろが音楽性が違うということでやめると言い出して、そ
のへんですったもんだしているとき二人でスタジオのロビーかなんかで話をしていたら、なぜか泉谷(泉谷しげる)が近くで隠れて聞いていたっていう、あいつの方がな、ぜかよく覚えているんだよね。(笑)これは後から聞いたんだけどさ。

当時も、他の作曲なんかの依頼も多くて、僕は言われたら作る。今と同じだよね。自分の抽斗(ひきだし)はいっぱいあるけどね、どの抽斗もちゃんとやるっていう。

その頃、僕は拓郎(吉田拓郎)や泉谷の、今でいうプロデュースみたいなこともしていて、そのときにスタジオで小原(小原礼)と幸宏(高橋幸宏)に何度も会っていた。ファッションとかを見たらセンスって分かるじゃない。

幸宏はファッションの方にも進みたいと言っていたぐらいだから、お酒落でさすがにいろいろな音楽を知っていたし、小原はしっかりとした音楽的な考えを持っていてのめり込んでいくタイプかな。向こうも気になっていたんじゃないかな。彼らはガロのバックをやっていて何度も演奏を聴いていたし、それで誘ったんだよね。僕が25歳で、小原が21歳、幸宏はまだ武蔵美に通っていて20歳で、高中は19歳か。

それで、メンバーもフィックスし、ちゃんとしたアルバムも作りたくなった。そのときもバンドの仮想敵国はいなくて、でも、このままじゃ多分ロンドンの雰囲気は出ないだろうなって思って、みんなをーカ月ぐらいロンドンヘ遊びに連れて行ったんだよね。コンサートやレコーディング・スタジオヘ連れて行ったり、それこそスーパーへ行ってみんなで買い物して自炊したり、イギリスを肌で学ぶ合宿みたいなもんだよね。で、みんなすっかり染まった感じで帰ってきて、得たものも多かったよ。それで一気に1枚目のアルバム『サディスティック・ミカ・バンド』のレコーディングに取りかかった。

――ロンドンでは楽器なんかも買ったのですか?

KK それぞれが買い物していたけど、僕もギターやアンプを揃えているうちに、自分がステージで使いたいようなPA(音の拡声機材のオペレーシヨンシステム)がロンドンにはあっても、考えてみたら日本にはまだないということに気が付いてさ、それでPAのいろいろな機材を買えるだけ買って日本に送っちゃったわけね。このときのロンドンでフォークルの印税はほとんど使っちゃった(笑)。

                    (略)

――いよいよ本格的な活動が始まるわけですが、アルバム『サディスティック・ミカ・バンド、は当初日本で売れなかったけど、イギリスで話題になり逆輸入されたかたちで広がっていくんですよね?

KK アルバムが出来てから、僕と、ミカでそれを持ってまたロンドンヘ遊びに行っちゃったん
だよね。プロモーシヨンを兼ねてだけど、このときロンドン中の知り合いにレコードを渡して、そのなかでも特にレット・イット・ロックのマルコムにあげたら凄く気に入ってくれて、方々に聴かせたい奴がいるからって、そのときに持っていたうちの半分ぐらい渡したんだよ。

――そのときは何も動きはなかったのですか?

KK いいと言ってくれる人たちはいたけどね。それから、ロキシー・ミュージヅクを確か南の方のグラストンベリーに聴きに行って、それは当時から仲の良かったコンちゃん(今野雄二)と一緒に行ったと思う。コンちゃんはロキシーが結成した頃からよく知っていて、彼の紹介でブライアン・フェリーたちに会ったと思うんだ。

まだ彼らが売れる前の頃で、初めてステージを見たときは、全然違うところが来たなっていう感じで、下手だけど何かしら凄い世界だなって。ブライアン・イーノのシンセサィザー・デクスター・ロイドのドラム、それだけだよね。下手ウマとかじゃなくて下手(笑)。

格好も最初の頃はケバ派手で、イーノなんて羽根を付けたジャケットなんか着てミュージックシヨーみたいだった。それでロキシーのプロデュサーだったクリス・トーマスも当然紹介されて。それで彼にもレコードをあげたんだよね。

日本のロックの黎明期、かっこよすぎる・・・


TRDIで開発中の無人偵察機が墜落し、Yahoo!ニュースこのブログがリンクされておりました。アクセス件数が軽く1万件を突破してしまいました。

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加藤和彦さんが死んでしまった!

今年沢山の追悼文を書いたが、我が祖母が亡くなった以上に悲しくて悲しいくてやりきれない。

音楽家の加藤和彦さんが自殺か 軽井沢のホテルで首つる
http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009101701000305.html
 長野県警によると、同県軽井沢町のホテルで、男性が首をつって、死亡しているのが17日午前、見つかった。県警は、男性の身元を、宿泊していた音楽家の加藤和彦さん(62)と断定、自殺したとみて調べている。

 軽井沢署によると、ホテルから午前8時半ごろ、「客室にいるはずの男性と連絡が取れない」と通報があった。署員とホテル従業員が部屋に入り、死亡している加藤さんを見つけた。

 加藤さんは1968年、ザ・フォーク・クルセダーズとして「帰って来たヨッパライ」でデビューし大ヒット。その後、ロックバンド、サディスティック・ミカ・バンドを経て、ソロ活動や作曲家、プロデューサーとして活躍した。舞台や歌舞伎の音楽など、幅広い活動も展開した。



加藤和彦といえば、フォーククールセーダーズ、「帰ってきた酔っ払い」、発禁の「イムジン河」が話題となるが、「悲しくてやりきれない」、「あの素晴らしい愛をもう一度」はJpopの原点でもあり名曲中の名曲だ。




フォークル解散後、当時の妻・福井ミカをボーカルにフューチャーしたサディスティック・ミカ・バンドを結成。そのサウンドは、当時全盛のグラムロックが基調ではあるが、琉球音階を取り入れるなどワールド・ミュージックの導入などプログレ的手法は、プログレ的であり実験精神に溢れたもので加藤の先取の気質がよく顕われている。時代を二十年も先取りしていたといえる。特にサディスティック・ミカ・バンドは日本語ロックの黎明期、日本のバンドとして初めてイギリスツアーを敢行するも世界的に認知された初のバンドとして日本ロック史に燦然と輝くエポックメーキングになった。

ボーカルの福井ミカと離婚し、ミカバンドも解散。


安井かずみ/加藤和彦 キッチン&ベッド
(他にYouTubeで検索できなくてちょっと不満だが・・・やむをえない)

私が加藤和彦の名前を認識したのは1977年FMより流れてきた、キチン&ベッド なんと素晴らしいのだろうと思ったが、当時はフォーククールセーダーズの帰ってきた酔っ払いの加藤和彦氏だとは知らなかった。


その後、1977年、作詞家の安井かずみと再婚。公私ともにパートナーとなる。彼女が病に倒れる1990年代初頭まで「作詞・安井かずみ/作曲・加藤和彦」で、『パパ・ヘミングウェイ』(1979年)『うたかたのオペラ』(1980年)『ベル・エキセントリック』(1981年)』『あの頃のマリーローランサン』(1983年)『ヴェネツィア』(1984年)『マルタの鷹』(1987年)などのソロ作品は皆秀作です。フォークルやミカバンド時代より、世間的には地味ですが、私はプログレファンとして音楽家加藤和彦の才能がもっとも開花した時代だと思っています。ノスタルジックでモダン、なおかつ近未来志向も漂わせた退廃的、耽美的な音楽は、音楽というよりの芸術と呼ぶにふさわしい作品であった。

この時代のCDはほとんど持っています。



加藤和彦 - ハリーズ・バー [STEREO]

[http://www.youtube.com/watch?v=3XUdwKcRYy8 加藤和彦 - 首のないマドンナ]
あの頃、マリー・ローランサン/加藤和彦

安井かずみさんとのあの素晴らしい愛と仕事と生活は、彼女が病に倒れ、1994年天国良い所へ長い階段を登ってしまい、潰えてしまった。今度ばかりは神様が生き返らせてはくれなかった。



この名曲を加藤和彦氏は何度歌い返し、そのたびに妻安井かずみさんを思い出していたでしょう。
加藤和彦さんは、安井かずみさんを深く深く愛していたと思います。
そして愛妻の元へ旅立っていったのだと思うのであります。

思うのでありますといえば、最後にこの名曲も忘れてはなりません。


日本のポピュラー音楽Jpopの今日の発展は、加藤和彦氏がパイオニアとなって、切り開いていったといって過言ではないだろう。

日本のポピュラー音楽の至宝が消えてしまった。嗚呼2009年は何と言う年だろう!

加藤和彦さんに黙祷!
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