三沢光晴 追悼 リングで倒れ死亡
ビデオは2代目タイガーマスクが試合中マスクを脱ぎ捨てた伝説の試合


三沢が死んだ…ノア試合中バックドロップで頭から落下、リングで昏倒
(2009年6月14日06時11分 スポーツ報知)
http://hochi.yomiuri.co.jp/battle/news/20090614-OHT1T00116.htm?from=related
三沢が、死んだ―。日本のプロレス界を代表するプロレスラー・三沢光晴さんが、帰らぬ人となる痛ましいリング事故が起きた。13日に広島市中区基町の県立総合体育館(広島グリーンアリーナ)で行われたプロレス団体「ノア」広島大会の試合中に頭部を強打し、心肺停止に陥った。市内病院の集中治療室に搬送されたが、処置のかいなく搬送先の広島大学病院で亡くなった。46歳の若さだった。

 試合は午後8時10分頃始まり、事故が起きたのは試合開始25分過ぎだった。三沢さんは、メーンイベントの60分1本勝負のGHCタッグ選手権試合に若手の潮崎豪(27)と組んでタイトルに挑戦。王者組の斎藤彰俊(43)のバックドロップを受け、後頭部をマットに強打し、意識不明となった。

 浅子覚トレーナー(38)がリングに上がり、声を掛けたが、三沢さんは息をしていない状態で心臓が止まっていた。観客席に居合わせた医師がリングに駆け上がり、心臓マッサージ、自動体外式除細動器(AED)による蘇生が試みられたが三沢さんは全く動かなかった。この間リングサイドのファンから「ミサワ、ミサワ」とコールが上がり、搬送後も約2300人の観客で埋まった会場は騒然とした状態が続いていたという。

 複数の関係者によれば一時は心臓が動いたというが、搬送先の広島大学病院の集中治療室での懸命の救命措置のかいもなく、一度も意識が戻らぬまま午後10時10分に帰らぬ人となった。救急車に付き添った百田光雄副社長(60)が最期をみとったという。選手らは試合後、病院に駆け付け一時は解散。宿泊先の市内ホテルで待機していたが、14日午前0時前に再び病院に全員呼ばれて訃報(ふほう)を伝えられたという。まだ46歳。18日には47歳の誕生日を控えていた。

 広島県警は試合関係者らから事情を聞き、当時の状況を調べている。

 レスラー歴28年の三沢さんはレスリングの名門、足利工大付高出身で3年時に世界ジュニア選手権に出場、国体で優勝した。81年3月に故・ジャイアント馬場さんの全日本プロレスに入門し同年8月21日にデビュー。蝶野正洋、武藤敬司、05年7月11日に急死した橋本真也さんらと肩を並べるトップレスラーで、00年7月7日にプロレス団体のノアを旗揚げし、社長業との二足のワラジをはく激務をこなしてきた。2代目タイガーマスクとしても知られ、華麗な空中殺法や投げ技の「エメラルドフロウジョン」は代名詞。「プロレスの教科書」とも評されるほどレスリングの基本に忠実で「受け身の天才」とも言われてきた。

 岩石落としとも言われるプロレス技「バックドロップ」は後方から相手を抱え上げ真っ逆さまに後頭部を叩きつける技。死因は不明だが、基本とも言われるプロレス技で受け身に失敗したとも思えない。観客の一人は「お客さんもザワザワするぐらい変だった。(最初から)三沢らしからぬ精彩を欠いた動きだった」と試合時の三沢さんの様子を話していた。

 ◆三沢 光晴(みさわ・みつはる)1962年6月18日、北海道・夕張市生まれ。46歳。81年8月に全日本プロレスでデビュー。以後、2代目タイガーマスクへの変身を経て全日本のエースに君臨。2000年8月に全日本を退団しノアを旗揚げし社長に就任。06年9月にはグローバル・レスリング連盟初代会長に就任した。得意技はエルボー。185センチ、118キロ。血液型O。

 ◆プロレスリング・ノア 2000年6月に全日本プロレスを離脱した三沢光晴を中心に結成されたプロレス団体。三沢を含む約50人の全日本離脱者が集まり、日本プロレス史上最大規模の団体となる。同年8月のディファ有明での旗揚げ戦以降、有明コロシアム、東京ドーム、日本武道館などで興行を開催。近年では全日本や新日本プロレスなど他団体との交流も見られる。地方興行の観客動員の減少や、今年に入って地上波テレビ中継が打ち切られるなど、近年は人気の低迷が目立っている。団体名の由来は旧約聖書に登場する「ノアの箱舟」から。

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熱狂的プロレスファンというわけではないが、三沢光春と同世代の一人の男として、自分と三沢の人生を重ね思うと、早すぎる死は残念でならない。そして己の職業に身を尽くして死んでいった一人の男に、黙祷を捧げるものである。

打たれても投げられても立ち上がってくるところから「ゾンビ三沢」「受け身の天才」「ハイブリットボディ」と言われた男がバックドロップで死亡するとは・・・・。

熱狂的ファンの間では、三沢光春最強説もあった。ストイックなプロレスに対する姿勢、資質最強説を裏付ける話題には事欠かなかった。

真のスター、スポーツにおけるカリスマ性とは、アントニオ猪木・長嶋茂雄のようにすべて超越するか、ジャイアント馬場や王貞治のようにストイックな求道者、若しくは初代タイガーマスク佐山聡・イチローのような天才を感じさせる、何か特殊な実績+αであると思う。生前スタートしてのカリスマ性+αが三沢選手には若干欠けていた。

カリスマ性に劣る理由は、彼は現世の世俗の垢の中で苦闘する経営者の香りがしていたからではないだろうか?自ら決起し全日本プロレスを脱退してみたものの、プロレスはパチンコと同じく大衆娯楽がマニア化し、マニアの為の興業産業となっていくなか、大所帯ノアを立ち上げ、選手と関係者の生活の責任を一気に背負い込んだ影を三沢選手は背負っていた。その影がもう一段スター、カリスマへステップアップできなかった理由かもしれません。

ここ数年彼の顔は、プロレスラーというより苦悩する経営者の顔に見えていた、三沢選手は選手やプロレス関係者雇用を守る三沢社長として苦悩していたに違いない。

マットで殉死したのは三沢選手ではなく三沢社長であったのかもしれない。

興業であるプロレスを悪戯に八百長と決め付ける心無い中傷が、プロレスを、格闘技としてのK-1、娯楽としてのハッスルへの二極化させた。このことが、プロレス文化を衰退に追いやる原因であったかもしれない。三沢は、プロレスはプロレスであって格闘技であり、娯楽であるという答えを、ノアを通して証明したかったのであろう。

プロレス側の三沢としてみれば「素人が余計な口出しをするな!」といった気持ちが常にあったと思う。そして最後に「プロレスは遊びじゃない命懸けの興業だ!」一命を賭し証明して見せたのだと思う。

かの力道山のように、死して三沢選手は本当のカリスマになれるかもしれない。

残されたプロレス団体は三沢を神格化する作業ができるか否か、ここ一ヶ月が勝負であろう。神格化できなければプロレスそのものが更に衰退するかもしれない。

最後に斎藤彰俊選手が選手生命を絶たれることが無いよう心から祈るものです。
いっそのこと、「三沢殺し斎藤」として今後開き直ったふりをして、最凶の悪役レスラーとして活躍してもらいたい。

<追記6/15>

やはり、今年3月にテレビ地上波中継を打ち切られてからは金策に頭を痛めていたことがこの悲劇の原因であるとの指摘が相次いでいる。

冒頭の動画で、徳光和夫本人は悪気はないのだろうが、日テレ関係者としては、我々が殺したようなものだといった、懺悔の言葉が欲しかった。

【過酷極める中小企業社長業】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090615-00000016-ykf-spo

【TV地上波打ち切られ】

 社長業の心労も重なった。1999年にジャイアント馬場さんの死去による内部抗争に伴い、全日本を脱退した三沢さんが2000年7月に旗揚げしたノア。資本金1000万円で従業員は30人という企業だ。

 日本では米国で大人気のWWEのように株式を上場している団体はなく、全日本、新日本とともに「メジャー」と呼ばれるノアでさえこのような中小企業。他の団体は、零細企業といっていい。かつてのプロレス人気に陰りが見える中、三沢さんはこの不況下で苦しむ一般の中小企業の社長同様、金策に必死だったという。

 今年3月、日本テレビがノアの地上波中継を打ち切った。現在はCS放送の「日テレG+」と「サムライ」が中継しているが、「放映権料が年間1億5000万円とも2億円ともいわれた地上波に比べると、CS放送のそれは微々たるものでケタ違い。三沢社長は大幅な収入減に頭を抱え、体調が悪いとも漏らしていた」(プロレス関係者)といわれる。

 日テレ関係者が、その経緯をこう説明する。「ウチは昨年9月の中間連結決算で赤字に転落してから、『費用対効果』を旗印に思い切った経費節減を断行しています。巨人戦のナイター中継を減らし、メジャーリーグの放送権からは手を引きました。ノアの地上波打ち切りも同じ流れの中にある」。100年に一度という不況が、日テレの財政を圧迫。間接的に中小企業のノアを資金難に陥らせたという構図だ。

心から冥福をお祈りします。