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ドイツの平和、日本の平和
たしかに、日本の敗戦も悲惨だったが、ドイツの悲惨さはそれに輪をかげたものだった。多くの日本人は、その実態を意外と知らない。

とはいえ、古今東西、戦争は勝敗がすべてである。負げたら最後、敗戦の民に正義も人権もあろうはずはない。

敗戦国は自らの運命をすべて戦勝国の裁量に一任するほかなく、程度の違いこそあれ、この法則は、遠い古代も紀元二〇〇〇年を過ぎた今日でも大して変化はない。

日本とドイツは、そうした敗者に向けられたムチをものともせず、戦後、ひたすら「世界平和」に貢献してきた。何しろ、戦後六〇年というもの、両国は、一度たりとも、自ら武器を取り戦ってこなかったのだ。

だが、日独両国には根本的な違いがある。

戦後ドイツは、現実主義的平和を標榜することで、刀の切っ先の鋭利さで、国際社会に対峙しているのに対し、日本は理想主義平和に足を取られ、シ一ークリームに蜜を掛けたような甘い絵に描いたような平和に浮かれている。

「力を正義」とする弱肉強食の時代にあつて、負げたとはいえ、少なくとも国を守る体制は固持するという鉄則を踏まえ、一歩も引かたかったドイツ国家であり、ドイツ国民である。その教訓がドィツ国民には血肉となつて、今牟きっづげている。国を守る軍隊機能が崩壊したら、国民は一体どのような悲惨な境遇におかれるか、第二次世界大戦でも思い知らされたからだ。

一方、日本は第二次世界大戦を「過去の過ち」として葬りさり、片隅に追いやった。その今日の日本の姿が、すべてを語っているといったら、言いすぎになるだろうか。

戦いに馴れた民族のしたたかさと、そうでない民族のナイーブさ

その延長線上で行なわれた「東京裁判」もまた報復裁判であ一たことは、誰しも疑う者はいまい。

裁判は市ケ谷の旧陸軍士官学校の講堂にて行なわれたが、起訴は昭和天皇の誕告に合わせて一九四六年四月二十九日に、絞首刑の執行は、当時皇太子だった明仁親王の誕生日である十二月二十三日に合わせたことがその何よりの証拠であろう。

A級戦犯として判決を受けた指導者は28人、内訳は、死刑7人、終身死刑を宣告された16有禁固刑が二人一階段を上がつて処刑されるところなどニュルンペルク判」と何ら変わりはない。被告に突きつげられた罪状も、ニュアソスは異依るものの、うりいかにもとってつけたようで、説得力がないところなど瓜二つである。

誰がどう見ても、勝者が勝者の論理で敗者を裁いた裁判であり、その意味では「ニュルンベルク裁判」も「東京裁判」も、敗者に対する見せしめであり、「法によるリソチ」であったことは隠しようのない事実だった。

ただ一つ、ドイツと日本を比較して、大きな違いがあった。先にも記したとおりドイツ人の多くは、戦いに敗れたとはいえ、いや敗れたからこそ、この裁判の正体、そしてその本質を見抜いていたことだ。だからこそ、今もってドイツは、本音の部分では、この裁判を認めていない。

欧州は戦いの歴史に明げ暮れてきた。それだけに欧州の人々は、戦って負けたときの生き方や要領、そして智恵を身につけている。

ドイツ人にしてもそうで、たとえ戦いに敗れ、叩かれ踏まれても、一切動じない。そして未来に身を託し、次のステヅプヘとコマを進めようとする。

これこそ、戦い馴れた民族のしたたかな根性であり、ゲルマソ魂というものであろう。
「ニュルソベルク裁判」にしても然り!

一方、日本はどうか。

日本は、サンフランシスコ平和条約において独立を遂げ、国際社会に復帰したわけだが、この条約の第十一条には「日本は東京裁判のジャヅジメントを受け入れる」という条文が含まれている。
これについては、識者の間でも長年の議論があり、国会でも野党議員によって、この条文に対する施政者の解釈を問いただす質問が、何度も発せられてきた。

ドイツ人なら、この質問には次のように答えるであろう。

「あの裁判は、しょせん勝者の敗者に対する報復の政治ショーであって、裁判といえるものではたかった。そのことは戦勝国も重々承知している。平和条約で『ジャヅジメントを受け入れる』という条文を挿入させたのは、後々日本が、その裁判の不当性を指摘して賠償を求めるようなことのないように予防線を張ったまでのことで、それ以上の意味はないとするのが、国際的には常識的な見方だよ。

『東京裁判』で、戦勝国が敗戦国を『戦争犯罪国家』とレツテルを貼るために使った勝者側の歴史観を、日本人がそのまま受げ入れることになるなどとは、アメリカにしても想像もしなかったことではないか」
ところが日本では、そのアメリカの「想像もしなかったこと」が起こってしまった。

この条文を盾にして、日本を「戦争犯罪国家」と規定したところのいわゆる「東京裁判史観」を金科玉条とする国民が、日本には大量に出現してしまったのである。A級戦犯の間題にしても然りである。

これはまさに、国家の存在を根底から否定する根無し草の所業に近い。そして、このことが今日の靖国神杜をめぐる混乱のもととなっていることは、言うまでもない。

靖国神杜といえぼ、明治維新後、国のために命を捧げた人たちの霊を慰めるべく、明治天皇の勅命で一八六九年に建立された。以後実に一四〇年もの間、戦没者追悼の象徴としてその中心的役割を果たし、明治維新このかた第二次大戦にいたるまで、国家の存命を念じて戦い、尊い命を落とした人たちを祀ってきた。

あその靖国神杜だが、第二次大戦直後、あわや消減という危機に遭った。敗戦直後、日本に進駐した連合国軍の大勢は、「靖国焼却すべし」という意見で占められていたからである。ところがそんななか、当時の駐日バチカン公使代理だったビッテル神父が、マッカーサーに、「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して、敬意を払う権利と義務がある。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなげればならない」とし、「靖国神杜を焼却することは、連合国軍の侵略政策と相容れない犯罪行為である」とまで言い切った。

ちなみに、この進一言で靖国神杜の危機を救ったビツテル神父は、ドイツ人だった。彼は第一次世界大戦の勇士で、敗戦後、聖職の道を選び一九三四年(昭和九年)から日本に滞在していた。日本と同様第二次大戦において祖国が敗戦の憂き目に遭ったなか、敗戦国の国民である前に、神に仕える謙虚た一人の人間として、勝者に向かいこのような勇気ある提言を行ない、靖国神杜を救ってくれたのである。

それなのに、靖国神杜のA級戦犯の合祀を毅然として容認し、堂々とこれに参拝できないリーダーを持つ日本とは、一体なんなのだろうか。

たとえぼドイツ人なら、欧米人なら、いやどこの国の人であろうと、靖国神社が国のために戦って亡くなった尊い戦死者を祀つている神社と知ったら、どうだろう。最低限の礼儀として、恐らく、深く頭を垂れて、祈りを捧げるに違いない。

不当な裁判は受げても、自らの歴史観と矜持を決してゆるがせにしないドイツと、今日の日本人とを隔てているものとは何なのか。その違いを思うにつげ、暗澹たる気持ちになるのは、私だけではないだろう。

偶然、高山正之氏の「オバマ大統領は黒人か 変見自在」とクライン孝子氏の「大計無き国家・日本の末路」を続けて読んだ。

高山氏のコラム直後にクライン孝子氏を読むと、違和感を感じてしまった。だが、クライン孝子氏が主張するように、国境を接し長年戦争をし続けてきた国々の英知が、歴史上初めて敗戦を味わったわが国より数段上の考え方であると認めるべきだと思うのであります。

確かに、フランスや英国・ロシア、スペイン・ポルトガルが、鬼畜の行為をし続けてきたことは事実であるし、インド・中国・朝鮮・モンゴル、アラブやトルコ系の民族が残虐行為をし続けてきた。

ところが、戦勝国の国々、戦勝国でもなんでもない中国朝鮮の国論、あろうことかドイツ・日本のメディアまで、第二次世界大戦の敗戦国日本軍とドイツ軍だけが過去の歴史において残虐な軍隊・民族であるイメージ戦略に加担しているのである。

ドイツ人はこの不条理を理解した上で、ナチに責任転嫁しつつ、ヴィリー・ブラント(Willy Brandt)元西独首相(ノーベル平和賞受賞)のように、1970年には訪問先のポーランドの首都ワルシャワで、ユダヤ人ゲットー跡地で跪いて献花し、ナチス・ドイツ時代のユダヤ人虐殺について謝罪の意を表したパフォーマンスを行った。ポーランドはドイツ以上にユダヤ人を迫害した歴史的事実を踏まえた上での、嫌らしい国際政治であったことを、日本の左翼連中は皆知らない。だが、巧妙に戦後処理を行い、日本人よりはるかにしたたかに世渡りをしていることだけは事実かもしれない。

一方歴史上初めて敗戦を味わったわが国は、身の処し方もわからず戦後敗戦国の地位のまま無為に60年が経ってしまった。世界中でもっともお人よしで馬鹿な日本の左翼思想の持ち主たちは、自虐史観を金科玉条のように信じ、未だに覚醒していない。馬鹿は死んでも直らない。マスコミや教育界に巣食う馬鹿どもは、公害といって過言ではない。

両氏ともに言いたいことはアプローチは違えども同じことである。

陰謀論を信ずる者、過剰に反米反中を騒ぐのではなく、大人の思考でじっくりゲームを組み立てるのがかしこいといえよう。

執筆中