湊かなえさんの「贖罪」は小説として面白かったが、「罪に対する償い、贖罪とはいったいなんであろうか?そもそも罪とは悪とはなにか?」といった疑問を湧き上がらせてしまった。
私の10/3記事切ない話:『赤い靴の真実』と新型インフルエンザでも取り上げた 幼児虐待ごみ箱閉じ込め窒息死事件の判決が18日下され継父菅野美広被告(35)は懲役11年となった。はたして11年の懲役で贖罪できるのか?懲役20年なら許せるのか?事件内容を知ればしるほど死刑にしても余りある非道な犯罪であったと思う。
湊かなえさんの「贖罪」で比較した 菊地寛の「恩讐の彼方に」http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/496_19866.htmlあらすじ
主人を切り殺した贖罪から20年かけ一人の人間の力だけで3町(327.3m)の岩をくりぬき洞門を開こうとする老僧、そして仇と狙う遺児が現れ本懐を果そうとするが、村人達の懇願から貫通後に仇を討つことで思いとどまる。1年半後二人して鎚打つ姿があったが、遂にその時が来た。「最後は二人はそこにすべてを忘れて、感激の涙にむせび合う」贖罪と許しの物語である。
を調べているうちに、本書にめぐり合った。この「恩讐の彼方に」が大正8年正月号中央公論に掲載され、同年4月号に同じく凶悪犯罪の罪と罰について深く考えさせられる小説「ある抗議書」http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1341_19214.htmlが発表されていることが書いてあった。
「ある抗議書」
凶悪犯に親族を殺された人物から、司法大臣閣下へ宛てた抗議書。「九人もの人を殺した坂下鶴吉は、獄中でキリスト教に改宗し、すっかり心を入れ替えて処刑されたそうです。彼は天国へ行ったかもしれません。それに対して被害者たちは、地獄の苦しみで死んでいったのだから、地獄へ落ちたのでしょう。殺した者が天国へ、殺された人が地獄へ。これで良いのでしょうか?」
もしも、坂下鶴吉の欣々然たる最期が、――国家の刑罰に対してなんの恐怖をも感じない態度が、彼の悪人としての根性から自発的に出たものならば、私はなんとも申しません。九人の人間を殺しながら欣々然として絞首台上に立ち得るような恐ろしい人間に姉夫婦が殺されたことを、不幸中の不幸と諦めるほかはありません。が、坂下鶴吉のかかる態度は彼の自発的のものではなくして、彼が在監中キリスト教に改宗した結果なのであります。私は、今ここでキリスト教そのものに対してなんの非難をするのではありません。キリスト教が罪人の教化に努めようとすることは、当然なことかも知れませんが、キリスト教の感化が、本当に効果を示して坂下鶴吉の場合の如く、絞首台に上ることが天国へ行く梯子段にでも上るようになっては、それで刑罰の目的が達せられるでしょうか。世の中に於て、多くの人間を殺し、多くの婦女を辱(はずか)しめた悪人が、監獄に入ると、キリスト教の感化を受け、死の苦悶を少しも感ぜず、天国へでも行く心持で、易々と死んで行っては、刑罰の効果は何処にあるのです。キリスト教にとっては、如何にも本懐の至りかも知れませんが、その男に依って、殺され辱しめられた多くの男女、もしくは私の如き遺族の無念は何処で晴らされるのです。
人間の罪とは、国家の刑罰とは、贖罪とは、そして悪とは何か深く考えさせられるものであります。
幼児虐待ごみ箱閉じ込め窒息死事件の菅野美広被告(35)は懲役11年、模範囚なら8・9年ではたして反省するのでしょうか?殺人事件の時効が無くなる事は当然と思いますが、国家の刑罰について考えさせられるものであります。
凶悪な犯罪者が許されるのは無限に近い贖罪行為が積み重ねられて初めて可能になるもので、国家による刑罰、法による死刑は贖罪とはならないであろう。(だからといって死刑制度は不用ではない)
死刑制度を反対する人達がいるが、その理由のなかに、「死刑囚の何割かは高徳を積んだ修行僧の如く人間に変化する、死刑を執行する刑務官が刑の執行にとても耐えられなくなることもある、そのような人間を国家がなぜ殺さなければいけないのか?」というものだ。一見理屈があるようにも見えるが、死刑という現実があってこそ起き得る懺悔や後悔による変化であり、「死刑廃止を唱える人達」は犠牲者の家族の心情、被害者の心情を考えない「偽善者」にすぎない。
日本では読みかえられた善悪二元論 p71
日本の仏教において善悪の問題はどのように考えられてきたのか。それが次の問題である。 インドの仏教で「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」とは、文字どおりに解釈すると、「すべての人間には仏性があり、仏になりうる種が宿っている」という考え方である。ここにおいては、すべての人間は完全に平等であり、異端的な存在として排除される人間は一人もいない。 この立場からすると、仏教は、キリスト教的善悪二元論を超えて、善悪を超える仏性一元論であるということができるかもしれない。 この「一切衆生悉有仏性」の考え方は、大乗仏教の最重要の経典とされる大乗の『涅槃経(ねはんきょう)』で説かれている。 (略) ただ日本の仏教の歴史のなかでそのことを例外的に正面から真剣に考えたのが、親鸞だったのではないかと私は思う。彼こそは善悪の問題を宗教のレベルでとことんつきつめて考えた人間であったと思う。つまり一闡提(いっせんだい:仏法を誹謗する人間・異教徒)のような悪人でも救われるのかどうかというこ とを、本気で考え続げたのが親鸞であった。 そしてこのテーマについて、一般には親鸞の『歎異抄』のなかの悪人正機説が取りあげられる。 特に明治以後そのように考えられるよらになったが、私はかならずしもそうは思わない。親鸞の悪人成仏論を『歎異抄』の世界だけで考えるのはきわめて不十分だと思うからだ。 (略) 親鸞はその『教行信証』のなかで、父を殺して王位についた阿闍世(あじゃせ)王のような悪人でも阿弥陀仏によって救われることができるのかどうか、という問いを発している。ところが彼はそこで、そのような悪人が無条件に成仏できるとは言っていない。なぜなら後から述べるように、阿闍世王のような父殺しの罪を犯した人間が救われるには、善き師につくことと繊悔することが必要だと言っているからである。 つまり、悪を犯した人間でも救われるのかどうかということは、親鸞にとっては命をかげた問いかげであった。そう簡単に、悪人こそ救われるのだ、とは言っていないのである。 しかし、こういう問いを発した親鸞は日本の仏教史のうえではむしろ例外であったと思う。日本の仏教は全体の流れから言えぼ、善悪の問題について無頓着であったからだ。それは一つには、中国経由の仏教の影響もあっただろう。仏教では、中国に伝わった段階で、「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじようぶつ)」ということがいわれるようになる。 仏になるのは人間だげではなくて、草も木もすべてのものが仏になるのだという考え方である。これは、最近のエコロジー運動においてよく利用される言葉だが、ここに至ると、善悪の問題はほとんど消えてし まう。 一闡提を排除するとかしないとか、仏法を誹諺する人間はどうだとかこうだとかいう議論は、ここではもう意味がなくなってしまう。特に日本にそのような思想が入ってきたときに、そういうことになってしまったのではないかと思う。
しかし、『歎異抄』は、成立から数世紀の間ほとんど知られて来なかった。しかし江戸時代中期になって、荻生徂徠や本居宣長などの影響により再発見された。
『歎異抄』は、日本古来の考え方やその後の日本仏教の考え方「諸行無常」「因果応報の感覚」とは異質な考え方である。行為における個人の能力や責任と、そういう個人的なものを超える大きな力のはたらきが同時に意識されている。人間の行為を善と悪の二方向に分げることを困難にする原因がそこにあるがゆえに、表に出てこなかったと考えられる。
キリスト教の終末論と仏教の末法思想
神を信じるものは生き残ることができ、あるいは終末のときにあっても天国に行って永遠に生き続げることができる。そうでないものは悲劇的な死に直面し、あるいは地獄に堕ちる。キリスト教の善悪二元論からすれば、ノアの箱舟のような思想が出てくるのは当然のことである。
仏教では、末法に滅びのときにはすべての人間が滅びると考える。生き残る人間は一人もいない。無常とはそういうことである。一切のものに永遠性はないと考えるのであり、仏法を信じるものだげが生き残るという考え方はそこからは出てこない。
すべてのものが無常であるとする日本人の考え方は、すべてのものは滅びるという思想をもちだすことによって、人間的な善悪の問題を空無化してしまうというところに特色がある。
善悪についての考え方が日本人にまったくなかったわげではない。ただそれが、キリスト教杜会におげるように、個人の立場や責任において、あるいは杜会は善悪を選り分けたりコントロールする方向に動かなかった。
神を信じるものは生き残ることができ、あるいは終末のときにあっても天国に行って永遠に生き続げることができる。そうでないものは悲劇的な死に直面し、あるいは地獄に堕ちる。キリスト教の善悪二元論からすれば、ノアの箱舟のような思想が出てくるのは当然のことである。
仏教では、末法に滅びのときにはすべての人間が滅びると考える。生き残る人間は一人もいない。無常とはそういうことである。一切のものに永遠性はないと考えるのであり、仏法を信じるものだげが生き残るという考え方はそこからは出てこない。
すべてのものが無常であるとする日本人の考え方は、すべてのものは滅びるという思想をもちだすことによって、人間的な善悪の問題を空無化してしまうというところに特色がある。
善悪についての考え方が日本人にまったくなかったわげではない。ただそれが、キリスト教杜会におげるように、個人の立場や責任において、あるいは杜会は善悪を選り分けたりコントロールする方向に動かなかった。
日本古来の神道という自然と共生する考え方がああり、仏教が「無常観」「浄土観」という思想が加わり、儒教からは、「五倫五常」(五倫:父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)(五常:仁・義・礼・智・信)自己修養の考え方か加えられた。キリスト教および近代西洋思想からは、自由・平等・博愛、それに加えて個人主義の考え方が今日の日本人の価値観を形成している。
私が尊敬する山本七平氏は日本人の思想を多元的価値観を認める世界のありようを「日本教」であると表現した。。さまざまのカミや神、仏や菩薩たちが、それぞれに自立性を保ちながら共存する世界である。
既存宗教から「日本教」の時代へ
(略) 地球上では、いま、さまざまなところで、宗教間や民族間の対立・葛藤が原因となって紛争や戦争が起こっている。皮肉なことに宗教がそれ自体の力で、そういう紛争を解決することができない状況に追い込まれているのである。とすれぼ、もはや特定の宗教が、快刀乱麻を断つがごとくに問題を解決すると考えることの方がおかしい。この点からいっても、伝統的な宗教は確実に本質的な改変を迫られているのではないだろうか。 21世紀の宗教は、したがって教祖や教義をそなえる体系化されたものではなくなっていくのかもしれない。攻撃的な自已主張をする宗教は、すでに二十一世紀をみちびく宗教たりえなくなっているのではないかと私は思う。 (略) ただ、このような時代の大きな転換期において、多元的価値を共存させる日本の伝統的な宗教観や自然観が、あるいは一つの意味ある役割を果たすことにたるのではないだろうか。そのような可能性に私はいちるの望みを託したいと思っているのである。


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