http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php

http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163721200#

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ユダヤ系ドイツ人文化批評ヴァルター・べンヤミンは、「蔵書を見れぼその所有者の多くのことその趣味、興味、習慣-が分かる、と語った。その人が手元に残した本も捨ててしまった本も、読んだ本も読ま
ないことにした本もすべて、その人の人とたりのなにがしかを物語る」と語った。
ないことにした本もすべて、その人の人とたりのなにがしかを物語る」と語った。
私も、書斎の本棚は、何を読んできたかで、その人の人格なり、人となりがわかると思っています。それゆえ私のブログのプロフィール写真は書斎の本棚とさせていただいております。
本書のタイトルの原題は、”HITLER'S PRIVATE LIBRARY”です。1晩に1冊以上の本を読破していたヒトラーの本棚にはいったいどんな本が並んでいたのか?、本書はそんな疑問に答えてくれる本です。
ヒトラーという人物の評価は独裁者の代名詞であり、スターリン、毛沢東とならび大量の人間の命を奪う結果をもたらした極悪人・異常な狂人であるイメージが我々に刷り込まれている。
伝えられる資料によればヒトラーは生涯禁酒・禁煙で、芸術・建築・美術・ワグナーの楽劇を好んだ読書家であり清廉な人物であり、そのイメージとあまりにかけ離れた存在であることに驚く。
異常な狂人にドイツ国民が熱狂することはない。天才的経済運営で、第一次世界大戦の敗戦と世界恐慌の直撃を受けたどん底のドイツを立て直したのはヒトラーの功績であり、彼の指導力にドイツ国民は熱狂したのである。
第二次世界大戦を引き起こしてたのも、領土的野心というより彼なりに本気で世界平和を願っていたのではないだろうか?と思える。しかし、結果として貧しい何百万というユダヤ人や、同時代の多くの人々を戦争による悲劇に突き落とした責任は免れない。しかし、反ユダヤ主義の考え方はヒトラーの個人的な異常な考え方ではなく、当時のヨーロッパやアメリカではユダヤ人排斥は、一般的な考え方にすぎなかった。
画学生Adolf Hitlerがどうやってドイツ総統アドルフ・ヒトラーとなったのか、著者ライバック氏は、アメリカの議会図書館に眠っていたヒトラーの蔵書1200冊、米国ブラウン大学の80冊をはじめとして、欧米の公共図書館、個人宅に眠るヒトラーの蔵書を見つけ出し、ヒトラーの元蔵書を丹念に調べた。それらの蔵書にはヒトラー自身が気になった箇所に平行線を引き、感嘆符・疑問符印がついており、ヒトラーの読書の足跡をたどることができた。歴史年代と具体的なエピソードと、説明によって、いかにしてヒトラーが書に影響されていったかまで解き明かしています。

Book1 芸術家の夢の名残
マックス・オスボルン『ベルリン』
第一次大戦の激戦下、勤勉な働きをみせていた伝令兵。
彼の楽しみは、休暇に首都べルリンを観光することだった。
1915年ヒトラー26歳
ベルリンのガイドブックでも、醜悪で非ドイツ的なものまでふくまれている。ドイツ的であるものは「プロイセンの大地に根づいた古代ギリシャ」を理想とした建物だ。このガイドブックを手に入れて四半世紀後、ヒトラーはベルリンの改造に取り掛かったのである。
マックス・オスボルン『ベルリン』
第一次大戦の激戦下、勤勉な働きをみせていた伝令兵。
彼の楽しみは、休暇に首都べルリンを観光することだった。
1915年ヒトラー26歳
ベルリンのガイドブックでも、醜悪で非ドイツ的なものまでふくまれている。ドイツ的であるものは「プロイセンの大地に根づいた古代ギリシャ」を理想とした建物だ。このガイドブックを手に入れて四半世紀後、ヒトラーはベルリンの改造に取り掛かったのである。
Book2 反ユダヤ思想との邂逅(かいこう)
ディートリヒ・エッカート『戯曲ぺール・ギュント』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%83%88
敗戦の混乱の中で元伍長は自分の師と出合った。
その師も彼の中に眠っていた煽動の才能に魅入られていった。
1921年ヒトラー32歳
ディートリヒ・エッカートはヒトラーにとっては親友であり、パトロンでもあり、父親代わりであった。
エッカートは熱狂的な愛国的民族主義者であり、過激な反ユダヤ主義者でもあった。彼はヒトラーの政治的メンター(師匠)であったのだ。
ディートリヒ・エッカート『戯曲ぺール・ギュント』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%83%88
敗戦の混乱の中で元伍長は自分の師と出合った。
その師も彼の中に眠っていた煽動の才能に魅入られていった。
1921年ヒトラー32歳
ディートリヒ・エッカートはヒトラーにとっては親友であり、パトロンでもあり、父親代わりであった。
エッカートは熱狂的な愛国的民族主義者であり、過激な反ユダヤ主義者でもあった。彼はヒトラーの政治的メンター(師匠)であったのだ。
Book3 封印された『我が闘争』第三巻
アドルフ・ヒトラー『我が闘争』第三巻
「あの本が出版されなくてよかった」。後に彼は側近に語る。
出版社の金庫にしまいこまれたまま、それは忘れ去られた。
1928年ヒトラー39歳
【我が闘争】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E3%81%8C%E9%97%98%E4%BA%89
アドルフ・ヒトラー『我が闘争』第三巻
「あの本が出版されなくてよかった」。後に彼は側近に語る。
出版社の金庫にしまいこまれたまま、それは忘れ去られた。
1928年ヒトラー39歳
【我が闘争】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E3%81%8C%E9%97%98%E4%BA%89
我が党争のネタ本は、ヘンリー・フォードが書いて出版した本のドイツ語版である、『国際ユダヤ人』であった。ヒトラーは「当時、私や私の友人たちはこの本から実に深い印象を受けた」と述べている。
ある演説でヒトラーは、フォードの実業家としての天才的創造力を賞賛して彼を「最も偉大たる人物」と呼び、フオードを、アメリカにおけるいわゆるユダヤ人共産主義者の脅威(アメリカではユダヤ人が「評議員」を務めている、とヒトラーは主張していた)に対する防波堤と見なしていた。
ある演説でヒトラーは、フォードの実業家としての天才的創造力を賞賛して彼を「最も偉大たる人物」と呼び、フオードを、アメリカにおけるいわゆるユダヤ人共産主義者の脅威(アメリカではユダヤ人が「評議員」を務めている、とヒトラーは主張していた)に対する防波堤と見なしていた。
p109「フォードは私のインスピレーションだ」
ヒトラーにとってフォードは、一般労働者に対するその進歩的見解ゆえに、理想的な立志伝中の人物だった。収益の増大に応じてフォードが労働老の賃金を二倍にした話は有名である。 それと同じくらい有名だったのが、フォードの反ユダヤ主義である。1920年から1922年にかけて「ディアポーソ・イソディペソデソト」紙に九二回にわたって連載された論文の中で、彼はその激烈な反ユダヤ主義を公然とぶちまけた。これらの論文は実際にはフォードの二人の側近によって書かれたのだが、のちにフォードの名前で二巻の単行本として出版された。そこには、『シオンの長老の議定書』で明らかにたったとされる、いわゆるユダヤ人の陰謀が詳述されていた。 『シオンの長老の議定書』とは、ユダヤ人の世界支配計画について書かれている偽造文書で、原文はロシア語である。 ヒトラーは、アメリカに次いで最もこの世界支配計画の脅威にさらされているのはドイツである、というフォードの言葉にショックを受けた。「今やドイツは、おそらくアメリカ以外では、世界で最もユダヤ人に支配されている内側からと同時に外側からも国である。今なら、『シオンの長老の議定書』に挙げられているものよりもさらにずっと強力な事実を列挙することができるだろう」とフォードは主張している。 ドイツ政府の要職からユダヤ人を締め出す努力がたされてきたとはいえ、ユダヤ人はドイツの生活及び経済の重要た位置に居座っている、と彼は言う。第二巻はわずか700部しか売れなかった。当時第一次世界大戦の従軍記がベストセラーとなっていたので、ヒトラーは第三巻を自分の従軍記として書いたらしい。しかし、未完のうちに処分され存在しないという。
Book4 ユダヤ人絶滅計画の原点
マディソン・グラント『偉大な人種の消滅』'''
アメリカを移民制限に導いたその書は、彼の『聖書』となり、
ナチスが政権をとると、ユダヤ人の根絶計画の礎となった。
マディソン・グラント『偉大な人種の消滅』'''
アメリカを移民制限に導いたその書は、彼の『聖書』となり、
ナチスが政権をとると、ユダヤ人の根絶計画の礎となった。
Book5 総統の座右の思想書
ボール・ド・ラガルド『ドイツ論』
「本当は、二ーチェはあまり好きではないのです」
では誰が、彼の思想の源となり、ナチスドイツの原則となったのか。
1933年ヒトラー44歳
ボール・ド・ラガルド『ドイツ論』
「本当は、二ーチェはあまり好きではないのです」
では誰が、彼の思想の源となり、ナチスドイツの原則となったのか。
1933年ヒトラー44歳
Book6 ヴァチカンのナチス分断工作の書
アロイス・フーダル『国家社会主義の基礎』
キリスト教への弾圧を続けるナチス。彼らと反共で
手を結べると信じた司教は一書をしたため彼に献じたが。
1936年ヒトラー47歳
アロイス・フーダル『国家社会主義の基礎』
キリスト教への弾圧を続けるナチス。彼らと反共で
手を結べると信じた司教は一書をしたため彼に献じたが。
1936年ヒトラー47歳
Book7 オカルト本にのめりこむ
マクシミリアン・リーデル『世界の法則』
天才のなすことに理由は要らない。オカルト本の主張に
背を押されるようにして、彼はポーランド攻撃を命じた。
1939年ヒトラー50歳
マクシミリアン・リーデル『世界の法則』
天才のなすことに理由は要らない。オカルト本の主張に
背を押されるようにして、彼はポーランド攻撃を命じた。
1939年ヒトラー50歳
Book8 参謀は、将軍よりも軍事年鑑
フーゴ・ロクス『シュリーフェン』
彼の蔵書の半数七〇〇〇冊は、軍事に関わるものだった。
詰め込んだ知識で彼は対立する将軍たちと渡り合おうとする。
1941年ヒトラー52歳
フーゴ・ロクス『シュリーフェン』
彼の蔵書の半数七〇〇〇冊は、軍事に関わるものだった。
詰め込んだ知識で彼は対立する将軍たちと渡り合おうとする。
1941年ヒトラー52歳
Book9 老冒険家との親密な交友
スヴェン・ヘディン『大陸の戦争におけるアメリカ』
彼にとって生涯の英雄だった探検家ヘディン。目下の戦争のさなか
ドイツを擁護する書を世に問い、彼を感激させる。
1942年ヒトラー53歳
スヴェン・ヘディン『大陸の戦争におけるアメリカ』
彼にとって生涯の英雄だった探検家ヘディン。目下の戦争のさなか
ドイツを擁護する書を世に問い、彼を感激させる。
1942年ヒトラー53歳
Book10 奇跡は起きなかった
トマス・カーライルフリードリヒ大王』'''
ベルリン陥落前夜。彼はかつてのプロイセン王に身を重ねる。
敵国の女王が死に、からくも救われた奇跡の大王に。
1945年ヒトラー自決56歳
トマス・カーライルフリードリヒ大王』'''
ベルリン陥落前夜。彼はかつてのプロイセン王に身を重ねる。
敵国の女王が死に、からくも救われた奇跡の大王に。
1945年ヒトラー自決56歳

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