『SUGIHARA DOLLAR スギハラ・ダラー 手嶋龍一 著(新潮社)』を読む
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャクソン・ヴァニック修正条項は米ソ冷戦を終らす結果をもたらしたが、その裏にユダヤ諜報機関の存在があり、国益の為にインテリジェンスがどれだけ大切なのか思い知ります。
 
ジャクソン・ヴァニック修正条項
p159~161
こうした負の連鎖を断ち切るために起死回生の一発がほしい――。
マイケルの父が望みをつないだのは、米ソ首脳会談の行方だった。地元紙の「ザ・オクラホマン」が、近くモスクワで行われる米ソ首脳の折衝で穀物の対ソ連向け輸出問題が主なテーマとなるだろうと伝えていた。
マイケル・シニアは、仲問の農場主を誘って、地元選出のヘンリー・ベルマン上院議員の補佐官に働きかけを行っていた。オクラホマ産の小麦をソ連に輸出できるよう懸命のロビー活動を繰り広げていたのだった。だがベルマン事務所の反応は鈍かった。第二次世界大戦中、硫黄島上陸作戦に加わり、勲功賞に輝いたこの保守派の共和党員にとって、小麦の対ソ輸出は赤いロシアに塩を送ることに等しく、割り切れない感情を抱いていたからである。
その一方で、ベルマン上院議員とて、大切な後援者である農場主たちをないがしろにするわけにはいかなかった。自らもカンザス州境に近いビリングスで農場を経営しているだけに、農業不況で苦しむ人々の暮らしぶりは手に取るように分かっていた。
西側同盟の盟主として反共の姿勢を貫き、同時にソ連へのアメリカ産小麦を輸出する方策はないだろうか」この一見矛盾する命題を鮮やかに解いてみせたのが、民主党のヘンリー・M・スクープ・ジャクソン上院議員だった。
小麦の不足に悩むソ連にアメリカ産小麦の輸出を認める。だがその見返りに、ソ連領内にいるユダヤ人の出国をソ連政府に認めさせる――。
一見すると何の関連もない二つの命題を、予算関連の法案に絡めて上下両院を通してしまった。
そのマジックのように鮮やかな手並みは、ベルマン上院議員を唖然とさせた。
このジャクソン・ヴアニック修正条項によって、小麦の対ソ輸出が可能となり、中西部の穀物地帯に大きな恩恵がもたらされただけではない。ソビェト連邦に閉じ込められていた多くのユダヤ人の出国に道を拓くことで、やがて冷たい戦争を西側陣営の勝利に導くひとつの布石となった。
(略)
小麦生産業界の大物たちは、ハート、ダークセントといった有力議員の名を冠した議員会館を次々に訪れて説得工作を繰り広げていく。彼らセネターに鮮烈な印象を与えたのは、やはりスクープ・ジャクソン上院議員の事務所だった。上院議員その人ではない。鷹のように鋭い眼をもった補佐官の存在だった。浅黒い肌をした立法担当の補佐官は、セネターと見紛うばかりに、威厳に満ち溢れていた。このユダヤ系の青年補佐官こそ、リチャード・パールであり、ジャクソン・ヴァニック修正条項の生みの親だった。
 
イメージ 1リチャード・ノーマン・パール (Richard Norman Perle,
1941年9月16日 - ) 民主党支持者(現在でも党員ではある)で1969年から1980年までは民主党の対ソ強硬派として知られたヘンリー・M・ジャクソン上院議員の補佐官を務めていた。 レーガン政権で国防次官補を務め、1987年から2004年まで国防政策諮問委員会のメンバーであった。また2001年から2003年までブッシュ政権下で同委員会委員長であったが、イラク戦争中に武器商人のアドナン・カショーギとの癒着が発覚。道義的責任をとる形でパールは同委員長を辞任した。
ポール・ウォルフォウィッツと共にイラク戦争の急先鋒で、サダム・フセイン政権を数か月で破ることが出来ると主張した。サダム追放後の首班としてアフマド・チャラビーを考えていた。フセイン政権それ自体の打倒は1ヶ月もたたないうちに成功裏に終わる。同戦争に関しては肯定的な立場を崩さない一方、大量破壊兵器情報の誤りや、フセイン政権崩壊時に十分な兵力増強を行わなかったことなど一定の責任に言及している。北朝鮮の核の脅威に対してはバビロン作戦を参考に、寧辺等の核施設への限定空爆に言及している。
現在、国防政策委員会の代表。アメリカ新世紀プロジェクト (PNAC) のメンバーであり、ブッシュ政権の思想基盤の提供者とされる。イスラエルで相当な時間を過ごしており、保守的なリクードの支持者と見られており、ベンヤミン・ネタニヤフが最初に首相を務めた際には補佐官を務めていた。  
 
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/34/HenryJackson.jpgヘンリー・マーティン・"スクープ"・ジャクソンHenry Martin "Scoop" Jackson, 1912年5月31日 - 1983年9月1日
上述のように、ジャクソンは国防・安全保障政策の専門家として知られていた。そのスタンスは、反共的で強硬なものであった。彼はデタント政策に一貫して反対しており、特にSALT IIには強硬に反対した。さらに、1974年の貿易法の審議に際し、いわゆるジャクソン・ヴァニク修正を提案した。このときの共同提案者は、チャールズ・ヴァニク下院議員(民主党、オハイオ州選出)である。これは、市場主義経済をとらない国々、移民の自由を制限している国々との通商を基本的に禁ずるものであり、主にソ連圏、共産圏を念頭においていた。
このように対外的な強硬姿勢、アメリカの自由民主主義を全世界的に広めるという目的のためには軍事的な手段をも用いるというのが彼のスタンスであった。こうしたスタンスは、いわゆる「ネオコン」に通ずるものがある。事実、「ネオコン」の代表格と見られているリチャード・パールは彼の政策スタッフであった。さらにはポール・ウォルフォウィッツ、ダグラス・ファイスといった「ネオコン」人脈の中心的人物も、70年代にジャクソンの下で働いていた。このことから、ジャクソンを「ネオコン」の源流の一人とみなす傾向が強い。
p153
http://www.sinzirarenai.com/battlefields/vietnam%20war.jpgだが、基軸通貨ドルは、ブレトンウッズ会議で定められた固定相場に縛られたままだった。これではドル通貨を取引所に上場することなど夢のまた夢だった。
その一方で西側同盟の盟主アメリカは、ヨーロッパの戦略正面でソ連と冷たい戦争を戦わなければならず、アジアではベトナム戦争の激化で日々膨大な戦費を垂れ流し続けた。これによってアメリカから夥しいドルが流出していった。金・ドル本位制のゆえに、それは金の流出を意味したのである。
アメリカは一時二万トンを超す金を保有していたが、ベトナム戦争が泥沼化した一九六八年には、一万トンを下回るまでになっていた。一九七一年の四月にはドルの切り下げを予測した国際投機筋がマルクを買ってドルを売る動きを強める。ブレトンウッズ会議で決められた為替の公定価格が決壊する危険が迫っていたのである。
p154~155
イメージ 2ニクソンはいつもの陰気な表情でテレビの画面に現れた。
「アメリカのみなさん。今日は重要なお知らせがあります。アメリカ政府は、外国政府が保有する米ドルとアメリカ政府が保有する金との交換を一時停止するための大統領令に署名したことをお伝えします。あわせてアメリカヘの輸入品に十パーセントの輸入課徴金をかけることを決定いたしました」
金とドルの交換停止を宣言したニクソン演説。これが金融の世界にどれほどの衝撃を与えるか、アンドレイはすぐさま読み取った。基軸通貨ドルの価値を根底で支えていた金とのリンクが外されてしまう。ドルの価値は相対的には下がっていくのだろう。だがそれはドルを新たな金融商品にと考えていたアンドレイにとって天祐でもあった。
ドルと主要通貨との固定相場制がすぐに崩れることはないかもしれない。だがいずれは、ドルは各国の通貨に連動してその価値を変動させることになるだろう。シベリア鉄遺の旅で体験した世界が蘇る日は遠くあるまい。
ニクソン・ショック直後は、水面下で激しいドル売り、マルク買いの投機が続いたが、ドルに対する各国通貨の交換比率はいまだに固定されたままだった。
だが、それから四ヶ月後、ニクソン政権は、ワシントンのスミソニアン博物館に主要国の蔵相・中央銀行の総裁を一堂に招いて会議を開く。このスミソニアン会議で基軸通貨ドルの切り下げが諮られた。ドルが固定相場制から解き放たれ、最終的には一ドルが三〇八円になるよう誘導されていった。これによって基軸通貨ドルといえども、アメリカの国力、とりわけ経済力に応じて、その時々のレートで他の主要通貨と交換されるシステムが出現した。それは、世界の基軸通貨ドルも、小麦や株や債券と同じように刻々と値を変える存在となったことを意味する。
実は、アメリカ政府の輌を逃れたユーロ・ドルは、冷たい戦争の深まりと共に生まれでていた。
ソ連もドルを必要としていたからだ。冷戦の主敵の求めに応じて、ロンドンのシティにユーロ・ドルは滞留して秘かに取引されていたのだった。ニクソン・ショックは、冷戦の私生児だったユーロ・ドルを正式に認知する儀式でもあった。
究極の先物商品「ドルマネー」をシカゴ・マーカンタイル取引所に上場させる-アンドレイのとてつもない閃きが現実のものとなる機会が訪れたのである。
そしてついに翌年、アンドレイは、シカゴ・マーカンタイル取引所に「国際金融市場」をオープンさせた。ドルを先物商品として扱う世界初の市場が誕生した。
2001年5月ウェストポイントの卒業式で、当時の国防副長官ポール・ウォルフォウィッツ氏が国防総省の高官、陸軍の将官、卒業する八百七十二名の士官候補生とその親族で埋めつくされた講堂で以下のスピーチをした。
p122~123
「しかしながら、まことに遺憾なことなのだが、真珠湾への攻撃がありうるという情報当局の警告はことごとくが無視されてしまつた。奇襲を窺わせる直接的な兆候さえあったにもかかわらず――。それらもまた見逃されてしまったのです」
(略)
「この真珠湾への奇襲こそ、若き日の私に戦略というものを究めたいという気持ちを起こさせたのです。当時、真珠湾に生じていた巨大な力の空白こそが、アドミラル.ヤマモトを奇襲に駆り立てました。そしてアメリカ側のインテリジェンスが十分でなかったことが、奇襲を劇的なまでに成功させたのでした」
核の時代を迎えて、超大国アメリカに再び奇襲攻撃が仕掛けられるような事態を許してはならない。若き日のウォルフォウィッツはそう考え、二十世紀のアメリカが生んだ偉大な戦略理論家、アルバート・ウォルステッターの門を叩いたのだった。ウォルフォウィッツの胸中には、わが同胞を「核のホロコースト」に直面させてはならないという決意が張っていたのだろう。「想定を超える事件はわれらが眼前で頻発しています。にもかかわらず、われわれはそこから何も学ぶことなく、再び奇襲を許そうとしている。愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶといいます」
ウォルフォウィッツは、間もなく軍務に就く士官候補生たちに、国家を防衛する責任の重さを諭してスピーチを締めくくった。
一般にこのことから、ネオコン達が9.11をインサイドジョブしたと疑われる一つの根拠としているが、もし、9.11が自作自演だとしたら、逆にこのようなスピーチをしないのではないか?と思います。
 
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b0/Paul_Wolfowitz.jpg/200px-Paul_Wolfowitz.jpgポール・ダンデス・ウォルフォウィッツ(Paul Dundes Wolfowitz,1943年12月22日 - )は、アメリカ合衆国のユダヤ系政治家・第10代世界銀行総裁(2005年6月1日 - 2007年6月30日)。
代表的なネオコンの論客の一人であり、米国で最も強硬なタカ派政治家。親イスラエル派で親台派である。イラク戦争の建築家的存在。中東民主化構想の発案者でもあるが、現在イラクを含む中東政策に関しては一切口を閉ざしている。