『SUGIHARA DOLLAR スギハラ・ダラー 手嶋龍一 著(新潮社)』を読む
フィクションとノンフィクションが混ざっているが、どうしても切り抜いておきたい箇所がある。
①②③に加えて、おそらく手嶋氏のこの物語の背骨の部分にあたる大切な箇所だと思います。
p275~278
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/bb/Bundesarchiv_Bild_183-1983-0825-303%2C_Gedenkst%C3%A4tte_Buchenwald%2C_Wachturm%2C_Stacheldrahtzaun.jpg/406px-Bundesarchiv_Bild_183-1983-0825-303%2C_Gedenkst%C3%A4tte_Buchenwald%2C_Wachturm%2C_Stacheldrahtzaun.jpgブーヘンヴァルト強制収容所の解放に立ち会おうと、従軍議員団がほどなくこの地を訪れた。
その一団にワシントン州選出の下院議員スクープ・ジャクソンの姿があった。彼はスノホミッシュ郡の検事として、密造酒と違法なギャンブルを次々に摘発して名をあげ、二十代の若さで連邦議会に議席を得たばかりだった。そして真珠湾攻撃を機に陸軍に投じ、ヨーロッバ戦線を転戦してナチス・ドイツの敗戦を目撃した。
中央広場に一本の枯木がすっくと立っていた。
ジャクソン議員が正門から望み見たこの枯木こそが、彼の人生を変え、後に世界の針路をも捻家たちに引き継がれていった。それはやがて超大国アメリカをイラク戦争へと駆り立てていく思想の源流 となった。
スクープ.ジャクソンは一九五二年には連邦の上院議員となり、一貫して軍事委員会に所属すふるる。そして、西側同盟の盟主アメリカの安全保障政策の舵取りに絶大な影響力を揮う有力議員となっていった。
最新鋭の長距離核ミサイルの配備は、アメリカの安全保障政策にいかなる影響を与えるのか。
そんな難解なテーマにとり懸かれていたスクープ・ジャクソンのもとに、ふたりの大学院生がアシスタントとしてやってきた。ポール・ウォルフォウィッツとリチャード・パールだった。
ふたりは後にネオコンを代表する戦略家となる。ポールとリチャードは、ともにユダヤ系の血を引く天才肌の青年だった。両親はナチスの圧政を逃れて、自由の国アメリカにからくも逃れたのだが、叔父や叔母、そして従兄弟たちはみな、アウシュビッツをはじめとする強制収容所で命を落としている。
崇高な民主主義の理念を圧政で虐げられている人々に押し広げて行く-ポールとリチャードは、アメリカ民主主義が内に秘める圧倒的な力によって明白なる使命を成し遂げるというジャクソン流の理念に強く惹かれていった。
ポール・ウォルフォウイッツは、シカゴ大学で核戦略論を専攻する学究の道を選んだが、一方のリチャード・パールは請われてジャクソン上院議員の補佐官となった。やがてパールはジャクソン上院議員を支えて、対ソ強硬路線の演出者となる。
超大国が持つあらゆる力を存分に駆使して、全体主義体制に風穴をこじ開けていく。そんな思想が法案として結晶したのが「ジャクソン・ヴァニック修正条項」だった。
ブレジネフのソ連は、農業政策の失敗から、小麦の不足に苦しんでいた。その一方でアメリカの穀倉地帯は供給過剰に陥っていた。
ジャクソンとパールは、こうした米ソのギャップに目をつけ、アメリカがソ連への穀物の輸出に道を拓く法案を提案した。その見返りとして、ソ連国内に閉じ込められているユダヤ人の国外移住を認めさせる付帯条項をさりげなく法案に押しこんだのだった。
アメリカの法案審議史上で永く「真に天才的な」と称賛された立法だった。条文の筆を執ったのは、ジャクソンの補佐官、リチャード・パールだった。後にレーガン政権の国防次官補として米ソ軍縮交渉に臨み、対ソ強硬派として「闇のプリンス」と呼ばれた逸材だ。
だが「ジャクソン.ヴァニック修正条項」が成立しても、現実にソ連国内に幽閉されているユダヤ人が出国するには巨額のドルが必要だった。ユダヤ系の人々の出国には多大な費用をソ連側に支払うことが暗黙の取り決めとなっていたからだ。それゆえ、ユダヤ人の出国を促す救援組織は、膨大な額のドルを調達しなければならなかった。アメリカと欧州に張り巡らされたユダヤ・コネクションは、ユーロドルや金融先物商品の売買でその資金を調達していった。
そのオペレーションの背後にあって、司令塔の役割を果たす陰の存在があった。
p296~297
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3b/Ohshima%26Ribbentrop.jpg/250px-Ohshima%26Ribbentrop.jpg「ポーランド秘密情報都の有カメンバーの大半は、ポーランド国籍をもつユダヤ系の軍人だったと承知しています」「そう、亡命ポーランド政府が、大戦中にヨーロッパ大陸に配していた最高の情報士官といっていい。このリビコフスキー情報は、ベルリンの大島情報の対極に位置していた。大島は『ヒトラーの弁護人』と呼ぱれたように、終始、ナチス・ドイツ側の情報に操られていた。イギリス上陸か、対ソ侵攻か、を巡る情報戦がその典型だった」「ナチス・ドイツ軍は、ドーバー海峡を渡って、イギリスに上陸作戦を敢行する――。ベルリン の大島電は、一貫してそう大本営に打電し続けていましたからね」「マイケル、その通り。一方のストックホルム発の小野寺信武官の公電は、ナチス・ドイツは、ロンドンではなく、モスクワを目指すと大本営に報告していた。ドイツの対ソ侵攻を見通して誤らなかった」
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7c/Falkenhorst_onodera_morath_fjell_festning_1943_triple_28_cm_triple_naval_gun_gneisenau.jpg/200px-Falkenhorst_onodera_morath_fjell_festning_1943_triple_28_cm_triple_naval_gun_gneisenau.jpg「ジョン、その小野寺電報の情報源が、ミハイル・リビコフスキーだったというわけですか」「そうだ、ポーランド、バルト三国、ドイツ、そしてウクライナに張り巡らしていたポーランドの情報網から入ってくるナチス・ドイツの情報を精綴に分析し、ヒトラーは対ソ戦、そうバルバロッサ作戦の準備に入ったと看破した。その見事な分析は、ストックホルム発の小野寺電にそのまま投影されている」
果たしてリビコフスキー情報の通りにヒトラーはソ連攻略に踏み切った。さすがにナチス・ドイツ側も対ソ侵攻の直前には大島駐在武官に開戦を内報している。その後も、リビコフスキーは、ナチス・ドイツ軍のモスクワ攻略の失敗を冷静に見通している。
リビコフスキーがロンドンに去った一九四四年以降も、ポーランド秘密情報部は、律儀にも極秘情報を小野寺信駐在武官のもとに届け続けた。ストックホルムにあったポーランド亡命政府のブジェスクフィンスキー駐在武官が、リビコフスキーに代わって小野寺信に第一級の情報を手渡していたのだ。その質の高さはアメリカ側の傍受記録から明らかだった。
http://blog.trend-review.net/blog/%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BC%9A%E8%AB%87.jpg小野寺の武官室兼住居にしていたアパートの郵便受けに極秘の書簡がそっと届けられた。英米の情報機関がこのアパートを監視して、ワシントンとロンドンに報告している。このため、ブジェスクフィンスキーは息子をクーリエに仕立てていたのである。
そうした極秘情報のなかにきらめくようなダイヤモンドが含まれていた。一九四五年二月に黒海沿岸の保養地ヤルタで開かれたルーズベルト、チャーチル、スターリンの首脳会談で合意されたヤルタ協定。その公式発表文には含まれていなかった密約部分が、小野寺信駐在武官にもたらされたのだった。ジョンは一枚の傍受記録を示した。
ソ連邦はドイツが降伏して後三ヶ月を準備期間として対日参戦する
p324
スターリンの後継者のひとり、ニキータ・フルシチョフは、第二十回ソ連共産党大会で、昨日まで神のように崇めていたスターリンを、各国代表を締め出した上で徹底して批判した。
スタシェフスキは、モスクワに燃えるような憤りを抱き、祖国ポーランドを彼らの手で支配させてなるものかと決意する。そしてポーランド生まれのユダヤ人ジャーナリスト、フリップ・ベンに「フルシチョフ秘密報告」をひそかに流したのだった。やがてそれはイスラエルのカウンター・インテリジェンス機関「シン・ベト」の手に渡っていった。
「シン.ベト」は、「モサド」が対外諜報機関であるのに対して、イスラエル国内へ敵対者が侵入するのを防ぐ防諜機関だった。第二次世界大戦が終了すると、新しく建国されつつあった新生イスラエルに東側陣営から大量のユダヤ人が流れ込んできた。イスラエル政府首脳は、共産主義の浸透を防ぐ狙いもあって、この「シン・ベト」に、東ヨーロッパに根を張るポーランド情報網との連携を強めさせた。これに超弩級のインテリジェンスが引っかかってきたのだった。
この秘密報告はやがてアメリカのCIAに渡り、有力紙「ニューヨーク・タイムズ」にリークされた。このスクープは世界の共産主義運動を激しく揺さぶらずにはおかなかった。「スターリン批判」は、冷たい戦争の行方にも、中ソ関係の行方にも、甚大なインパクトを与えたのだった。
「モスクワからワルシャワを経てエルサレムヘ。鉄のカ-テンを貫く情報の流れは、あなたがたポーランド系ユダヤ人の情報ネットワークを抜きには語れません。あなたがたはナイーブなマルキストなどではなかった。全てをお見通しだったのでしょう」
p279~281 下記老婆は確かモデルがいたと思ったが日本語のネットでは確認できなかった
この老婆こそ「ブナの森の女モーゼ」と人々から呼ばれて畏れられた収容所の北極星だった。
彼女の名はエステル・シェニラー。囚われ人の尊敬を一身に集めたクラコフ出身のユダヤ人だった。
エステルは幾多の同胞の命を救っただけではない。時には若い収容者を説き伏せて裏切り者のカポーに仕立て、ゲシュタポの手下として送り込んだ。バイオリン、チェロ、ピアノ、フルートのプロの演奏家だった者たちを見つけ出しては「ブーヘンヴァルト楽団」を編成し、強制収容所長の妻の誕生日にはモーツァルトのコンチェルトで祝い彼らを手玉にとった。
エステルの収容棟の軒下には夜毎に鳩がやってきた。エステルは、大豆を鷲掴みにしては惜しげもなく投げ与えた。この幾粒の豆さえあれば、薄いスープで何人かの囚われ人が数日は命を繋くことができるものを。収容者たちは恨めしそうに、その光景を見ていたのだが、彼女にそう言える者などいなかった。エステルの風貌には近寄りがたい威厳が漉っていたからだ。
http://www.geocities.jp/torikai0029/bundes9063/Getto/Bild_101I-134-0766-22.jpgブーヘンヴァルトのエステルと地下のポーランド秘密情報部。鳩は両者を行き交う伝書使だった。
略
エステルは刻々と変化する全ヨーロッパの情勢を適確に掴んで誤らなかった。
二十世紀のバビロンの囚われ人をひとりでも多く生き永らえさせる-エステルが自らに課した使命だった。
略
クラコフのユダヤ人街「オクラングラックの家」の仲間たちによると、エステルはイスラエルが建国された一九四八年まで生きていたという。彼女の働きで強制収容所から辛くも助かった一団が乗り込んだ貨物船が、アントワープ港からアカバ湾に向けて出港するのを見届けて、パリの裏町に帰りつき、屋根裏部屋で息絶えたと伝えられている。
「わがバビロンの虜囚は、ロシアの白い大地にいまなお幽閉されている。あの連中を救いだしてやらねば。いいね、ソフィーにそう伝えておくれ」
ブーヘンヴァルト強制収容所で、神のような働きをみせ、ユダヤ同胞の伝説となったエステ ル・シェニラーは、枕もとで看取った仲問のひとりにこう言い遺して逝ったという。
p355 物語の最後にフリスクが松山雷児の生前葬で語った言葉で手嶋龍一氏の語りたかった事が終る
「僕は一九七〇年代初め、仲間から気が触れていると言われながら、ドルが金の呪縛から逃れて、変動相場制に移行すると信じて疑わなかった。そうなる以外に、ドルの先物商品をマiカンタイル取引所に登場させることが叶わなかったからでもある。固定相場制のもとでの為替の先物商品など自家撞着でしかないのだから――」
そして、次なる地平を熱っぽく旧友に語って倦むことを知らなかった。
「向こう四年のうちに、人民元はかならず変動相場制に移行する。だが、自由な為替の取引のためには、為替の損失を避けるヘッジの機能がどうしても欠かせない。このアメリカの市場で、僕が身をもって示したのはまさにそのことだった。中国も日を経ずして、金融の先物市場にかならずや門戸を開くことになる。来年の末までには株価指数の先物取引が始まると僕は見ている」
【参考】

スターリンの後継者のひとり、ニキータ・フルシチョフは、第二十回ソ連共産党大会で、昨日まで神のように崇めていたスターリンを、各国代表を締め出した上で徹底して批判した。 
コメント