
戦う者たちへ
日本の大義と武士道
荒谷卓(あらや・たかし)氏
昭和34年(1959)秋田県件まれ。大館鳳鳴高校、東京理科人学を卒莱後、昭和57年陸上自衛隊に人隊。福岡19普通科連隊、調査学校、第一空挺団、弘前39普連勤務後、ドイツ連邦軍指揮人学留学(平成7-9年)。陸幕防衛部、防衛局防衛政策課戦略研究窓勤務を経て、米国特殊作戦学校留学(平成14~15年)。帰国後、編成準備隊長を経て特殊作戦群初代群長となる。平成20年退官。1等陸佐。乎成21年、明治神宮武道場「至誠館」館長に就任し、現在に至る。鹿島の太刀、合気道六段。
本書は、まさに、拝読させていただいたという気持ちになる一冊である。
荒谷氏の経歴だけでも尊敬に値するのだが、本書の隅々に充たされた「気」には隙が無い。荒谷氏は武士そのものである。
もし、三島由紀夫が決起を思いとどまることが出来たならば、自衛隊に荒谷氏のような武士を見出していたに違いない。日本にもまだまだ捨てたものではなく、隠れた有能な人材がいると、希望を見出したような気がします。
鳩山のごとき腑抜けな男が総理大臣を勤めるのではなく、荒谷氏のような人物にこの日本を託したいと感じたのが本書の感想である。
読者の皆様へp1~5
「ダチョウは危険が迫ったとき、頭を砂に突っ込んで危険を見ないようにする」という。こたとれは「不安全」な実態から目をそむけて「安心」を欲する、象徴的な警え話である。
今の日本人の多くは、この警え話でいうところの「ダチョウ」に似ていないだろうか?.
言い換えれば、不安全なものを不安全と認める勇気が失われているのではないか?略現実に拉致被害者が多数存在している。にもかかわらず政府は、「拉致はあってはならない」と言うだけで、新たな拉致防止の具体策もとらず、あたかも粒致は過去の出来事であるかのような態度である。通常、このような事案に対しては、まずは新たな被害者を出さないための対策をとったうえで、すでに被害にあった人たちの救出にあたるべきところだ。現憲法の前文に記されている「平和を愛する諸国民の公正と信義」に期待するあまり、国際社会に「悪意」などあるはずがないと信じれば、毅然とした政治的対応など必要なくなる。また、諸外国に「危険と悪意の存在を認めると、対決を余儀なくされるので不安だ」というなら、まさに危険に目をつぶる「ダチョウ」である。日本人が、もはや地域社会や国際社会の不安全な現実に立ち向かう気概を失っているとすれば、憂慮すべきことである。冷戦後の国際社会の構造は、日本にとって極めて深刻な状況に向かいつつあるにもかかわらず、目の前の経済動向に翻弄されている。また、かつては世界でも有数の治安状態のいい国だった日本が、伝統的社会規範や道徳の崩壊から、今や白分のためには家族でさえ傷つけるような危険な社会へと変貌しつつある。戦後、日本人の精神が荒廃した根源は教育にある。戦後の教育は、教育基本法によって憲法の思想を普及することに主眼を置いた。その憲法の思想とは何か。たとえば、憲法九条だ。この戦争放棄をうたった精神は、インド独立運動のガンジーのように、自己を犠牲にしても武器の前に無抵抗で戦う崇高なる非暴力の精神とはまったく無縁のものである。九条は人権という美名の下に、社会集団に対する犠牲的精神を嫌うエゴイストを正当化し、「侵略国の国旗を揚げて歓迎することはあっても、戦いは放棄する」という「精神価値の放棄」を日本人にあたえた。これは、奴隷的精神である。敵意のあるものに対して、一方が「戦わない」と宣言したからといって、平穏でいられることなど、現実にはありえない。いじめっ子に、無抵抗でいたらどうなるか予想がつくはずだ。憲法九条の精神では、同胞が拉致され、その家族が苦悩している状況を自らの問題として考えることもなく、ましてや理不尽を正すためには戦いも辞さないという発想はまったく出、てこないだろう。結局、戦後の日本人が憲法精神に従って放棄したのは「戦争」ではなく、「戦うことも辞さない正義心を持った生き方」なのではないか。「世のため人のため」に精一杯尽くすことを良しとし、「少なくとも人様に迷惑をかけないように」と教えていた日本の社会道徳は、「自分のためにだけ生きる」憲法思想に取って代わられ、上から下まで自己の欲求を最優先する輩が日本を占有している。日本人本来の美しくて強い精神文化である「家族のような国を創ろう」という神武天皇建国の精神や、「正しいと信ずることを貫き通すためには、自分の肉体の生死など気にかけない」という武士道の犠牲的精神は憲法思想の敵として追い詰められてきた。経済成長と経済効率がすべてで、何事も金に置き換えて価値判断するようになった戦後の日本人は、金儲けのためには戦うが、公共の理念や正義のためには戦わない。最近は、個人の利益のためにすら戦わない無気力な人問がいるようだが、戦わない種族は保護でもされないかぎり絶滅する。略
現代の戦闘者へp8~11
しかし、戦後、自衛隊は長きにわたり政治的に「存在すること」だけを期待され、国土防衛と言いながら、現実味のない教育訓練を繰り返してきた隊員は、大過なく退職を迎えることを当然と感じ、「死」に直面する場合の精神的訓練を受けてきていない。
彼らに「自分は何のために死を覚悟してまで行動するのだろうか」という自問が出てくるのは当然であろう。
あるいは「自分はいざというとき本当に引き金を引けるだろうか」という疑問も、「何の目的で人を殺してまで行動するのかLという問題に置き換えられよう。
要するに、自己および他人の死をも踏まえた行動哲学の欠如という問題に直面するのである。海外での自衛隊の活動は国益のためと称しているが、国のために命を捧げた靖国の御霊に対し、一貫して冷淡な態度をとる政府の下では、その犠牲的精神と行為は顧みられることはなく、単純なる経済的国益のために隊員の生命を犠牲にすることはできない。
私は、特殊作戦群長として当時の部下にこう言った。
政治・宗教テロリストは、彼らの正義に基づいて決死の覚悟で行動している。彼らと戦うなら、それに負けない正義と覚悟を持ち合わせなくては勝てない。また逆に、正義感も持ち合わせずに「命令ならば殺します。命令ならば死にます」という機械人間は、戦闘員として不適切な人物ζ言わざるを得ない。必要なのは、任務行動に際して、他人や自分の「死」に直面しても正義を貫き行動できる精神的支柱を備えた戦闘員である。ましてや、指揮官は自分だけでなく部下の生死に関しても責任を有する。部下が何のために人を殺し、自分の死をも許容するのかについて、責任を深く自覚しなくてはならない。
何よりも、日本の戦士たる自衛官にあっては、武士道を実践することが日本の核心的な伝統を継承しつつ日本を守ることになる。それは、領土や経済的利益を守るよりはるかに重要なことである。日本人が日本人でなくなって、土地や金にしがみついていたのでは日本を守っているとは言えまい。
略
また、近代国家において軍隊は、政治に管理された国家の一機能集団であるが、同時に軍
人は国家における徳操(とくそう:公共心)の象徴として存在していることも忘れてはいけない。
明治天皇の御製に「靖国の社にいつく鏡こそやまと心の光なりけれ」とある。
靖国の英霊のやまと心を継承し体現できるのは、邪気・邪悪な心に侵された日本人ではなく、徳操を備え正気に満ちた現代の武士たる戦闘者である。
自ら、日本の戦闘者たらんと願うものは、日本の歴史を背負い、武士道を受け継ぐ武人として雄々しく生きてもらいたい。
二、「大義」を喪失した日本p23~25
つづくでは、なぜ現在の日本に、日本文化の価値観を基盤にした戦略展開ができないのか。それ
は、戦後の憲法の価値観が日本の伝統的価値観を否定した上に成り立っていることに起因する。
終戦交渉において、日本側は「国体護持」を標構して終戦を受け入れたが、実際には、憲法を根底から変えられたことで「国体の護持」はあいまいとなった。
「国体」を英訳すれば「コンスティチューション」、つまり「憲法」である。憲法を抜本的に変えるということは、国体を変えるということに他ならない。
さらには、憲法と並ぶ皇室典範が内容を改窺され、一法律に置かれたことの意味は大きい。
象徴としての天皇の御位と万世一系の世襲は残されたことで、国体は守られたとも解されているが、それが戦後保守派の甘えとなり、占領政策からの脱却が遅々として進まず、むしろ 深く定着してしまった原因となっているように思われる。現行の日本国憲法は、ホイットニー少将率いるGHQ民政局内の改憲作業チーム(ケーディス大佐以下二十一人のスタッフ)により、わずか一週問で作成された。スタッフの一人にルース・エラーマンという女性がいた。彼女は改憲チームの全体を統轄する運営委員会の一員で、ケーディス大佐の秘書的な存在であった。その彼女が書き残した日誌には「日本の歴史を書き換えるという名状しがたい情熱に取りつかれた」とある。つまり、日本の歴史と伝統を否定し、米国、厳密に言えば、彼らスタッフの価値観で日本を変革することが憲法起草の原動力となっていたのである。明治憲法は、日本の伝統・文化を維持しつつ、欧米の近代国家システムを導入するため、明治天皇が、明治九年に「国憲起草を命ずる詔勅」を発してから十二年余にわたり国民の意見を広く求めて議論し、参議のみならず民問からも百以上の憲法草案が提出されたうえで制定された。一方、現在の憲法は、国民の関与が及ばぬところで、比較にならないほどの短期間のうちに作り換えられた。現憲法の草案を事前に承知していた日本国民はいったい何人いたのか。現憲法が民主的プロセスを得て成立したという人は、日本国民の総意ではなく、米国の指示に従うことを「民主的」と言っているのだろう。その中で、日本の歴史認識、すなわち神話から不断につながる日本人の価値観を継承された明治憲法の告文、勅語、上諭がすべて破棄され、現憲法前文にある英米の価値観に改められたことで、日本人が歩んで来た二千有余年の歴史は葬り去られた形となった。日本人の価値基準の革命を意図して、アメリカの独立宣言と同じ趣旨の文言で憲法は書き換えられ、これを核心として、戦後の日本がスタートを切った。この米国の精神価値を軸に作られた戦後憲法の思想を、日本国民に徹底するため、昭和二十二年に教育基本法が制定された。この法律には、明確に『日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する』と記されている。(略)
戦後教育を受けてきた戦後世代の日本人は、自分のルーツについて完全に記憶を奪われ、本来の日本とはいかなるものかを亡失している。我々の先祖が幾多の犠牲と努力を重ねて創り上げてきた日本があった。それを、身を犠牲にしても護り通そうとした英霊がいた。その英霊を殺傷し、日本を賠」かた相手の価値観を教育され、疑うことなく信奉しているのが現代の日本だ。(略)
日本の経済人が、今日の米国に依存した経済システムを作り上げた。
彼ら経済人は、日本が事実上の占領国家になろうと気にもとめず、防衛に関わる費用負担が回避でき、ただただ経済の高度成長を追求することが望ましいと考えた。そして、日本国憲法下で絶大なる社会勢力となり、政治をコントロールする十分な実力を持った。
一方、政党はただ票を集め、政権を維持するために経済界の欲するままに動くシステムを完成させた。この結果、占領政策を是正し誇りある独立国家再生を願う国民の希望は道を閉ざされた。
現下の日本の状況は、完全に従属的な政治経済システムに組み込まれ、戦後のこうした流れにある政財界人が、今なお日本の政治・経済を支配している。このままの体制では、幾多の日本人が血と汗を流し、二千数百年の年月をかけて築き上げた日本の大義は永久に歴史から葬り去られ、埋没したまま朽ち果ててしまうおそれがある。
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