借りぐらしのアリエッティ ノーカット版 予告
今日借り暮らしのアリエッティを観てまいりました。秀作でした。
14歳の小人の少女・アリエッティは、東京の小金井(スタジオジブリがある街)あたりにある旧家の床下で、人間の生活品を借りながら、両親と密かに慎ましく暮らしていた。
しかし、彼女らは人間に見られてはいけないという掟があった。
そんなある日、その屋敷に一週間後に心臓の手術を控えた少年・翔がやってきた。アリエッティは翔に自分の姿を見られてしまった。その少年の両親は離婚して外交官の母親は息子が大手術だというのに海外で仕事。一週間後の心臓の手術を独り大叔母の家で待つことになっていた。言い方が悪いがカツマーな母親による一種のネグレクトでもある。
翔の母親も、翔の祖母の妹にあたる大叔母(牧貞子)も、その父もお手伝いのハルさんも、薄々この屋敷に小人達が住んでいることを察していたが、あえて捜そうとはしなかった。だが、少年は、アリエッティの世界へ一歩踏み込んでしまったのだ。
アリエッティの落とした角砂糖を届けたり、外交官だった曽祖父が小人の為に英国より取り寄せたドールハウスをアリエッティの家に据えつけたり・・・
アリエッティ一家は引越しを決意する。そんな矢先、翔の残したバールからお手伝いさんのハルにアリエッティの家を発見され、母親のホミリーがハルさんに捕まってしまったのだ。アリエッティは翔に助けを求め、二人協力してアリエッティ母親ホミリーを助けることに成功する。その晩一家は引越しをするが、お別れをちゃんとしていなかったアリエッティは、翔に対し少し未練が残ってしまった。
家ネコのバルはそんなアリエッティと翔の心を察したのか、翔をアリエッティのところまで案内するのであった。けして実らない淡い恋心を抱いた二人に、最後のお別れの挨拶を朝日が昇る崖の上ですることができたのでした。
これは、原作のメアリー・ノートンのファンタジー小説『床下の小人たち』を1995年スタジオジブリの青春恋愛作品「耳をすませば」の世界で演じた作品だったのだ。なんとなく家ネコのバルは「耳をすませば」と「ネコの恩返し」に出てくるネコのムーンにそっくりだ。しかもエンディングも「耳をすませば」の感動的なエンディングのオマージュなのだ。
米林監督は、「耳すませば」を見て「青春を感じた」ことがジブリに入ろうと思ったきっかけとか・・・なるほど。
まだ観ていない方は観る前に一度、「耳すませば」を観てから観るともっと色々な点に気づくかもしれませんね。
もう一つ、本作品は秘密の花園へのオマージュでもある。翔がベットで読んでいた本がバーネットの秘密の花園であるが、秘密の花園に登場する少年は生来病弱でベッドから殆んど出たことが無く、両親に愛された記憶の無い少年・・・まるで翔そのものではないか・・・!
ただ、盛りだくさんに詰め込んだせいか、上映時間94分はあっという間に過ぎ、短すぎるような印象を残してしまった。上映時間の短さはストリーを盛り上げるには些か影響してしまったかもしれない。また、翔の手術は成功したのか?新しい家はどんなところか?気になるままで終らせないで・・・・などと考えると、あと10分~20分欲しかったかもしれない。私はけして嫌いではないのですが、ゲド戦記も、もっと長編でやればあそこまでボロクソに言われずに済んだのに・・・。この作品も同じように批判する人が出るでしょう。
二人の淡い恋はロミオとジュリエットよりも難しい越えられない壁があり、その壁で苦悩する二人は観たくはなかった。上映時間が短いおかげで、二人の淡い恋はこれ以上進めなかったことに一観客としてほっとした点も否めない。
ネット上ではこの作品を軽薄に批判する人もいる。でもそういった人達は、宮崎駿の思想が巧みにお織り込まれたこの深い哲学性に気がつかないからだと思います。
宮崎駿の想いは失われ往く自然環境や、滅び行くものへの愛情に溢れているのです。この作品も「ナウシカ」や「もののけ姫」や「平成たぬき合戦ぽんぽこ」同様そういった人間と自然、異界の生き物との共存を考えさせられる作品でもあるのです。
異なる種族は出会ってはいけない。それぞれの世界で生きている方が幸せな場合もある。人間にある好奇心に潜む無邪気さは、社会の秩序をいつしか破壊することもある。
宮崎駿の偉いところは、元左翼崩れが主張する偽善的エコ思想とは一線を隔している。この作品でも、人間にある好奇心に潜む無邪気さは、無謬であるがゆえに社会の秩序を混乱に陥れ、いつしか伝統的な生活を破壊する警告ともとれる。
簡単に言うと、戦争反対=平和憲法を守れみたいな、無邪気な人間たちによって、日本の伝統的な暮しや価値観が破壊されているのだ!
滅び行くものとして、隣のトトロに出てきたような森もそうだが、日本にはこの牧家のような広大な敷地を持つ旧家が残りにくい法税制制度であることも、宮崎は考えているのだろうか?今回の物語の舞台の95%を占める和洋折衷の魅力的な古い館がなくなって行くことも、日本人が大切なものを次々失っていると警告していると感じるのです。この家のモデルは青森にある盛美園という旧家とのことです。
小人の世界とは闇や影の世界の隠喩ではなかろうか?小人の居場所をなくしているとは、闇や影の部分を次々に暴きたてることが正義であるかのような暴挙に対する警告とも解釈できるのです。
スピリチャルな「座敷わらし」やツチノコのようなUMA(未確認静物)もある種闇でもある。確かに、そういった闇の生き物がいそいうな場所が次々と日本から消失しているが、私にはもっと別な大切な闇の世界の秩序を壊していることを気づくべきと感じました。日本人の多くはその喪失していく闇の大切さに気がついていない・・・
日本の闇や影で暮してきた人達とは、任侠と呼ばれる人達ではないのか?暴力団(任侠)を追い詰める事が正義なのか?任侠社会というものは、古くから日本の最底辺のセーフティネットでもあったことを皆忘れている。
暴対法以後、一部のマフィア化した組織は栄え、社会の底辺を支えていたような任侠の人達は困窮してしまい、最底辺でいきるのがやっとの人達をかえって困らせているように思えてならない。
暴力団追放の美名の下に、任侠の世界をこれ以上壊していいものか?私にはこの小人達は、もしかしたらある意味では社会の最下層で生きている人達ではないのか?・・・と思った。(少々飛躍しすぎたかな?)闇の世界をなくした世界は、光さえ失った世界でもあるのだ。
都会の片隅で起きた悲劇、育児放棄で失われた幼い命・・・闇の社会とともに社会の最下層の生きていく糧や人情を破壊した日本が払わなければならない代償は重い。
借り暮らしアリエッティの中でアリエッティの父ポッドは、「我々はなんとしても生き続けなくてはならない」(記憶なので少々違うかも)と、家族の大切さ、生きる大切さを、恥ずかしげも無く語っているが、声優”三浦友和”が語ると、やたらとカッコいい。宮崎駿が伝えたいことはまさにこのことだろう。
映画のエンディングはアリエッティの仲間の小人野生児スピラーが、アリエッティに好意を抱き、生命がこの後も続くことを示唆して終った。
スピラー
【蛇足】この野生児スピラーは未来少年コナンに登場した野生児ジムシィに性格も風貌もどこか似ています。
ジムシィ
コメント