
序章:時代の危機に、ヤマト復活
第1章:サブカルチャーの誕生
第1章:サブカルチャーの誕生
第2章:ヤマトの作者は誰?
第3章:大切なコトはみなヤマトから学んだ
第4章:ヤマトは軍国主義か?
第5章:西暦2199年、過去への旅
第6章:孤独を脱した古代進が選んだ道
第7章:アニメビジネスの誕生
第8章:続編検証:変節と不変のヤマト魂
第9章:日本人乗組員だけが語れる物語
367ページの大作で、中身も濃く読むのに3日を要してしまいました。
宇宙戦艦ヤマトのブームは70年代後半にサブカルチャーブームを芽生えさせ、その後80年代に発生したオタク文化は宇宙戦艦ヤマト無くして語れない。また今でこそ世界に冠たるアニメ産業なるものがこの宇宙戦艦ヤマトブームがあってこそ存在することを論じた本です。いわば「宇宙戦艦ヤマト学」とでも命名してもいいような濃厚な一冊です。
地球を救うためなぜ戦艦大和が甦るのか
p17~19
「地球の絶滅まであと●●●日」。あまりに有名なこのフレーズは、最初のテレビシリーズ『宇宙戦艦ヤマト』(以降『パート1』と表記)で毎回最後に提示される。これはインパクト狙いだけでなく、時代の反映でもあった。
『ヤマト』がはじめて放映された1974四年、日本の実質経済成長率は前年の8%を大きく下回るマイナス1.2%を記録した。2008年の実質経済成長率は前年の1.8%を下回るマイナス3.7%の下げ幅5.5%ダウンだが、戦後上り坂で来た日本にとって1974年の下げ幅9.2%ダウンは今より大きなショックだったに違いない。
この経済の落ち込みは、前年に勃発したオイルショックによるものである。
オイルショックだけでなく、当時の日本は大きな岐路にさしかかっていた。
戦後日本は、池田首相の所得倍増論に代表される、「国富」を充実させるための産業振興策を最優先した。戦後一貫して続いた保守政権は富の分配ではなく、所得の底上げを意図した。その到達点が、田中首相が提唱した列島改造論という日本中を巻き込んだ開発ブームである。
だが開発のひずみは環境破壊、公害病、ゴミ問題という形で現れていた。そして、右肩上がりの景気に取り残された人々、つまりいまふうに言えば格差も歴然として残っていた。
そんな戦後最大の危機の時代に、『ヤマト』は作られた。その企画意図をプロデューサーの西崎義展(故人、2010年11月7日死去)はこう記している。「公害、物価高、オイルショック以後一気にあらわれた産業社会のゆがみ。それは、驚異的な経済成長を遂げた日本の社会構造を、根底からゆり動かすものであった。産業社会の歯車となってしまった人間。精神面での孤立感は、避けようもない事実としてあらわれた。……私たちは、ただの歯車ではない。モノとは次元のちがう『人間』なのだ。人間はどんなことがあっても夢と希望をすててはならない」(『宇宙戦艦ヤマト劇場版』パンフレットより)。日本経済と社会の危機は、このとき広く共有され、そこに警鐘を鳴らす作品は幾つか作られた。たとえば、小松左京のSF小説『日本沈没』(1973年)。ここでは、巨大地震で日本列島が破壊され、沈没するという究極の危機に日本人はどう立ち向かっていくかが描かれた。アニメでは『科学忍者隊ガッチャマン』(1972年)がまずあげられる。地球が一体となって環境危機に当たろうとした時勢を背景に、科学を悪用するギャラクターと正義の科学側のガッチャマンの戦いを描いたものだ。1975年の『宇宙の騎士テッカマン』では、絶望的なまでに進行した地球環境の汚染のため、主人公は第二の地球を探すという、よりストレートなメッセージ性を持つ(実際は太陽系を出たあたりで打ち切りで終わる)。『ヤマト』もまた、一見こうした時流に沿った作品のようにも見える。『ヤマト』究極の疑問に、「地球を救うため、なぜ戦艦大和が甦るのか」がある。単純に考えれば、第二次世界大戦時に海中に没した戦艦の構造物を宇宙船に転用できるはずがない。むしろ、これは作品構造から考えるべきだろう。なぜ、戦艦大和を物語が必要としたのかを。『ヤマト』は古代進を中心とした若者の物語だが、ほかのアニメ作品との大きな違いは、老人にスポットライトが当たっていること。もっとも重要な老人、沖田十三艦長は、 「明日のために今日の屈辱に耐えるんだ」と、決して諦めず、生きて生き抜くことが人間にとって大切であると訴える。彼の言葉は、古代進たち若手だけでなく、物語全体を導く指標となる。一方で、ときに肩の力が入りすぎ、ときにゆるみすぎてしまう若者を横からさりげなくサポートするのが、佐渡酒造、徳川彦左衛門の面々だ。現代社会は、若さn進歩という思想がおおいつくしている。日進月歩を遥かに超えたスピードの現代ビジネスでは、老練という言葉はいまやほとんど罪悪ですらある。そして『ヤマト』の特長を老練や成熟の大切さだけで片付けられないのが、工場班長(続編では技術班長、技師長とも)、真田志郎の存在である。彼はいわば万能科学者なのだが、自らの存在理由をときに否定する。「機械が人間を殺す。そんなことがあって良いものか。科学は人間の幸せのためにこそあるものであり、人間は科学を超えたものだ」(『パート1』第一八話)。彼は科学=進歩の否定と言わないまでも、疑念を常に持っている。つまり、『ヤマト』は若さ=進歩=科学の力だけで、地球を救うわけではない。環境汚染は科学がもたらしたのなら、科学を良い方に使えばいいとはならない。むしろ、そうした思想を超えたところに『ヤマト』は根ざしている。戦艦大和、つまり古いものが復権する意味はここにある。これをナショナリズム、軍国主義と捉えたのでは、当時の時代感覚を読み損なうことになるだろう。これが同時代の作品との決定的な違いだ。
・・・・・70年代のスローライフ宣言が意味するもの・・・・
p20~22
p20~22
1970年代に時代を動かした言葉がある。それは、電通の藤岡和賀夫の手による「ディスカバー・ジャパン」(1970年)。彼が作った広告キャンペーン企画書にはこうある。「旅は見る旅ではなく、自分を創る旅です。日本を発見し、自分自身を再発見する心の充足です。 『DISCOVER JAPAN』と呼んでみましょう」
(森彰英『「ディスカバー.ジャパン」の時代』交通サービス、2007年)。このころオイルショックだけでなく、「追いつき追い越せ」であくせく働いてきた日本人は、環境汚染という矛盾、そして幾ばくかの空虚感に直面し、ふと立ち止まることの必要に気づき始めた。そんな時代の空気を敏感に読み取り、国鉄(現JR)が打ち出したキャンペーンの、時代に残る名キャッチコピーが「ディスカバー・ジャパン」だった。身近な日本を再発見することは、とりもなおさず、ひそやかなもの、強くないものを見つめ直すことであった。
そしてこのころ、30年ぶりの日本兵の帰還という事件もあった。一九七二年にグアム島で横井庄一伍長が、1974年にはフィリピン・ルバング島で小野田寛郎少尉が発見されたのである。これは戦後、富のみを追い求める日本への過去からの逆襲であったと言える。
このころ、民俗学者・宮本常一の再評価も始まっていた。彼の『忘れられた日本人』(未來社、1960年)は近代化の波の中でも密かに息づいていた古き日本の習俗を集めた本だが、徐々に共感を集め、未來社より1968年から著作集の刊行が始まっている。
1960年代後半から活動を開始した唐十郎や寺山修司のアングラ演劇もまた、進歩への強烈な否定が根底にあった。彼らが表現したのは、取り残された日本の原風景であり、土俗の復権であった。
「公害や消費の『飽和』感が意識されることによって振り子がもう一度逆転し始め、『伝統的精神』や『田園や村落』がふたたび日本の価値観の中に再編入され始めている」
(川上宏「飽和期の消費者」、『ブレーン』1972年7月号)。そして、この時代を代表するキャッチコピーがもうひとつある。「せまい日本、そんなに急いでどこへ行く」。1972年に公募で選ばれた交通安全標語だ。
この時代、どこか今と似てはいないだろうか。経済は立ちゆかなくなり、人々の間には大きな格差が生まれ、自殺者は増加一方だ。社会のすべての制度も金属疲労を起こしている。あくせく働き、前へ前へと進んでいくのではなく、足下を見つめ直すこと。最近のスローライフは、まるであのころのキャッチコピーに化粧直しをしたようだ。
戦艦大和が甦り、老人・沖田艦長が「生きて生き抜け」という信念を貫き、若者・古代進が戦うことにためらいを見せる。そうした物語を持つ『宇宙戦艦ヤマト』はあのころの時代意識とシンクロしたからこそ、多くの人の共感を得たように思われる。
そして、かつての危機は消え去ったわけではなく、息を吹き返し、再び私たちの前に姿を現している。いま、私たちは『宇宙戦艦ヤマト』を振り返ったとき、そこになにを『発見』できるだろうか。
・・・・ブラウン管の中の未知の体験・・・・
p29~32
あのころ、『宇宙戦艦ヤマト』が登場した衝撃は、斬新な作品という月並みな言葉では言い表せない。むしろ新しい体験という言い方がふさわしいだろう。
『ヤマト』誕生の1974年を基点にして、戦後直後の29年前、そして36年後の現代を比べると、現代のほうが生活スタイルの変化は大きいかも知れない。
(略)1974年当時の家庭の娯楽はテレビとラジオしかなかった。それも決まった時間にテレビの前に座らないとお目当ての番組に出会えない。その意味では、このころのテレビは映像があるとは言え、アクセス性はラジオとさほど変わらない。ビデオ録画などは、一部の金持ちや趣味人の世界だった。
そうした「貧しい」メディア環境の中で登場した『ヤマト』は、当時ちょっとしたショックだった。ブラウン管の中では、想像もできない世界が広がっていたからだ。なにしろ、銀河系を飛び出し、大マゼラン雲(『ヤマト』の中では大マゼラン星雲と呼ばれていたが、実際はこの呼称)まで旅をするのだから。まだ『スター・ウォーズ』がアメリカで公開される三年前のことだ。低視聴率で惨敗した番組が映画として復活したのは、ひとえに逆境でも決して諦めない西崎義展プロデューサーの惰熱のなせるわざだった。一方で、再放送にあるまじき20%台の高視聴率、ファン活動の充実、『OUT』などの雑誌や書籍の記録的売り上げは、大きな追い風ともなった。ファンが作り上げたブームは、一種のムーブメントと言えた。自分が好きなものを行動に表すことで、形になって跳ね返ってくる。いわば参加型のメディアは、はじめての経験だった。これを社会学的に表現すると、「消費が社会参加そのものである」(鳥居直隆「日本人の消費生態論」、『ブレーン』1972年7月号)となる。(略)オイルショックを脱し日本が再び上り坂に向かう熱気のなか、社会は「世界に誇れる日本」というかたち、つまり自信を欲していた。そこに新しい表現であるアニメという格好の存在が現れたのだ。そして『ヤマト』は一般メディアに注目されるという形で時代に後押しされていく。「産業社会のゆがみ」への疑問をメッセージに込めたという作品の成り立ちからいえば、奇妙な星回りと言えるかもしれない。この数年後、エズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979年)がベストセラーになり、文化面ではYMOのワールドツアーの成功が盛んに報道されていく。これまで、『ヤマト』はアニメというジャンルのなかで評価されてきた。しかしそれは、ある意味で片面的だったかも知れない。それはファンである少年少女はともかく、一般からは『ヤマト』はアニメ作品というよりも一般エンタテインメント作のひとつとして評価されたからだ。(略)

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