天皇はなぜ万世一系なのか平成の御世で百二十五代目、皇統は連綿とつづいてきた。その権力統治構造をつぶさに見ると、あることに気づく。はたして日本で貴ばれるものは「世襲」なのか、そ
れとも「才能」か?日本中世史の第一人者がその謎を解き明かす両期的日本論!
本郷和人(ほんごう かずと)
1960年、東京生まれ。東京大学史料編纂所准教授.東大文学部・同大学院で石井進氏・五味文彦氏に師事し、日本中世史を学ぶ。専攻は中世政治史、古文書学。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。主著に『中世朝廷訴訟の研究」(東京大学出版会)、『天皇はなぜ生き残ったか』(新潮新書)、『新・中世王権論』(新人物往来社)、『武力による政治の誕生』(講談社選書メチエ)、『武士から王へ』(ちくま新書)などがある。
1960年、東京生まれ。東京大学史料編纂所准教授.東大文学部・同大学院で石井進氏・五味文彦氏に師事し、日本中世史を学ぶ。専攻は中世政治史、古文書学。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。主著に『中世朝廷訴訟の研究」(東京大学出版会)、『天皇はなぜ生き残ったか』(新潮新書)、『新・中世王権論』(新人物往来社)、『武力による政治の誕生』(講談社選書メチエ)、『武士から王へ』(ちくま新書)などがある。
本書は所謂皇国史観の本ではございません。世襲と才能の登用の間で揺れ動いた日本人の人事問題を考察し、その結果誕生したのが、結果として続いてきた万世一系の天皇という知恵であることを論じていている本です。
わたくしは、保守主義者で尊王思想を支持していますが、神話としての万世一系ではなくシステムとしての万世一系の皇室という知恵を支持したい。
本書は中世の貴族社会や僧侶の人事にかかわる実例を上げ、人事は日本人の一大関心事であったこと。そのなかで中堅貴族は生き残る為に専門職をみつけ家業としたり、武士は所領を安堵する為に命を懸けて戦い、所領を世襲する。人事において才能と世襲をうまくバランスをとる難しさはいつの世も同じであると思ったのであります。
p59
朝廷の人事では年功が重んじられている。けれども、年功に依拠してばかりいるならば、十九歳の権中納言は生まれようがありません。年功だけではない。でも、家実の出世の道すがら、格別なトラブルが起きた形跡はない。だれも憤慨している風はない。
これはなぜなのでしょうか。
ここに実は、「家格」というコンセプトが必要になってきます。上・中級貴族はおおよそ四つの家柄に分類することができる。摂関家、清華家、羽林(うりん)家、それに名家です。家柄には格があり、摂関家が最上で、名家がもっとも下位に位置づけられています。自分が属する家柄よりも上位の人が、先に昇進していく。これは仕方がないのです。良い気はしないでしょうけれど、ちっとも恥ではありません。ところが自分と同等、もしくは下位の家柄の人に追い越される。これが厳密な意味での超越です。耐えられぬ恥辱となるのです。
p58~61
家格です。家格の名称が厳密に定まったのは江戸時代なのですが、便利なのでこれを用いることにしましょう。家格は先述したように、上から摂関家、清華家、羽林家の順で、一番下が名家です。江戸時代には清華家の下に大臣家を設定しますけれども、中世においては両者は同一のものとして扱えます。摂関家は名称の通り、摂政・関白になれる特別な家です。平安時代、摂関政治を行って朝廷をリードした藤原本家の子孫たちです。鎌倉時代初期に、まず近衛、松殿、九条の三家が成立しました。このうち、松殿家は政争に敗れ(滅亡した木紳義仲と組んでしまった)、早々に没落します。近衛家からは、鎌倉中期に別に鷹司家が立てられた。九条家からは同じころに二条と一条家が分立しました。この五つが摂政・関白に就任できる家として、所謂「五摂家」が成立しました。
五摂家の嫡子ともなると昇進はたいへんに早く、近衛中将から蔵人頭・参議を飛び越して、直に中納言に任じることが多いようです。先に例に出した近衛家実もそうでした。その後、早々に左大臣か太政大臣に昇りつめ、摂政もしくは関白になります。頃合いを見てさっさと引退し、間違っても老残の身をさらしたりはしません。「前関白太政大臣」の肩書きは、現職にいるのと同じくらい、政治的な発言権を有していました。家格が厳然と機能しているので、実際の官職にこだわる必要がないのです。
清華家は中世では大臣家とも呼ばれます。つまり、大臣になれる家なのです。有力な清華家の嫡子は近衛中将から蔵人頭を飛び越して直に参議に任じている人が多いようです。
二十代前半で中納言くらいでしょうか。大納言から大臣に進むのですが、重箱の隅を突きますと、①内大臣→右大臣→左大臣→太政大臣、と順々に昇進する家が清華家の中でも格が高いのです。さきほど、摂関家の貴公子は蔵人頭や参議を飛び越していく、生言いましたが、大臣は飛び越さないのがえらい。三条・西園寺・徳大寺家などがこれにあたります。
②内大臣→太政大臣、と左右の大臣を経験しないで、状況を見ながら太政大臣に任じる家がそれに次ぎます。土御門・久我・堀川家など。
③内大臣にだけなって引退する。これが三番目です。
羽林家は、大納言もしくは中納言にまで昇進します。羽林とは近衛府の次官である近衛中将・近衛少将の中国風の呼び方であり、「武官コース」を経由することに由来した名なのです。家の先祖は摂関家・清華家の庶子であることがほとんどで、その家独自の特徴を内外に提示しないと、数代後の没落が待っています。生き残るのはたいへんですから、常に厳しい立場に立たされている家々といえましよう。『神皇正統記』の著者として有名な北畠親房を出した北畠家を例にすると、家の初代は親房の曾祖父の雅家で、清華家に属する中院家の庶子でした。彼の子息の師親は、大覚寺統へのひたすらな献身と、深い学識の習得を家の特徴として打ち出し、大納言に至る家格を維持しようとしています。
昇進コースでいうと、以上すべての家は「武官コース」を通っていきます。他方、最後の名家だけは「実務官コース」。吉田・葉室・二条・坊城・中御門.勧修寺などの家がこれにあたります。本章で例に挙げた中御門経任、姉小路忠方、平仲兼、吉田隆長はみな名家の人々です。忠方も仲兼も、羽林以上の家の人に追い越されたなら、不快には思ったでしょうが、怒りはしなかった。同じ名家出身の中御門経任、吉田隆長に超越されたので、激怒して官を辞したわけです。もう少しだけ薀蓄を語ると、名家の人々は家格は低い。けれども、実務官としてのスキルをもっている。これに目を付けたのが、院政を行う上皇たちです。とくに鎌倉時代中期から、後嵯峨上皇以降の歴代の上皇は、彼らを積極的に登用した。彼らを白らの手足として活用することにより、摂関家や清華家などの伝統的な上流貴族を敬して遠ざけ、それまでとは異なる機能的な朝廷行政を目指したのです。能動的な行政者たらんとする上皇と、実務に堪能な名家の人々。この組み合わせによって、鎌倉時代の朝廷政治は推進されていきます。
(1)朝廷における権勢とは
p154~156
これまで色々と書き並べてはきたのですが、これらは実に簡単にまとめることができます。日本の支配者層、貴族や武士についてみるならば、世襲は圧倒的に強力な理念であった、結局はそれに尽きるのです。
中国大陸では科挙が実施され、新しい才能が絶え問なく補充される。彼らは官僚として出世を競いながら、総体として皇帝の権力を支えます。ですから、皇帝権力は彼らのサポートを受けて、他の権力者を圧倒することができる。これに比べて日本では才能を基準としての登用や抜擢がない。権勢を得た者は自己の権力を子孫に伝えることをくり返しますので、代を重ねるごとに抜きがたい勢力を築いていきます。天皇も、後の世の将軍も、彼らの存在に手厚い配慮をする必要があるのです。
時間軸に添って、日本の「権力のかたち」を見ていきましょう。古代に導入された律令制は、本来は天皇だけをただ一人の王とし、その前ではすべての人が臣として横並びであるという「一君万民思想」を標榜していました。それは経済的には、全ての土地と民百姓は天皇の所有に帰するので、権勢者が勝手に私有したり世襲できないという「王土王民思想」になります。
東アジアに見られる律令国家は、①土地を貸与(班出という)し、その見返りとして②税を納入させ、③兵役を課す。また、これを国内で均等に行うために④地方行政制度を確立する。この四つを基本的な要素として有しています。ところがこれを満足させるためには、「1、法の整備」と、「Ⅱ、多くの官僚の育成」がどうしても必要になるのです。
ところが、日本では、もう何度もくり返していますが、官僚の育成を行わなかった。ですから、律令制は社会に根付くわけがなかった。大宝律令の制定は七〇一年ですが、早くも七四三年には、土地の私有を認めた墾田永年私財法が作られています。最近の古代史の研究者は、この法は律令制が進展するのを側面から援護したもの、との評価を与えているようですが、どうも木を見て森を見ない議論であるような気がしてなりません。先にも記したように、律令制の基本は「王土王民」です。それがもう破綻している、と考えるのが本筋ではないでしょうか。実際にこれ以降、私有地に近い荘園が各地に設けられ、その数は増加の一途を辿っていきます。
平安京への遷都が実現し、平安時代が始まると、律令制の衰退は次第に明らかになっていきます。右記③、朝廷の直轄軍は姿を消していき、④も有名無実になっていく。九〇〇年頃には、国司が任地に赴かなくなります。県知事は東京で賛沢に暮らしていて、現地は部下に任せきりにしているようなものです。①については、醍醐天皇が九〇二年に実施した班田が最後、といわれています。
こうした状況の中で、「一君万民」というありかたにも、揺らぎが生じてきます。天皇の政治的な突出に歯止めがかかり、実力を蓄えた貴族たちが台頭してきます。その代表が摂政(天皇が女性、もしくは子どものときに置かれる)や関白(天皇が成人男性のときに置かれる)として天皇権限を代行する、藤原北家の一流です。
下克上というけれど
p172~173
いかに実力重視の戦乱の時代とはいえ、やはり家柄が大事だったのです。つづく
それは大名家だけではなく、大名を支える家臣団にもいえることです。強力な軍隊や支配体制を作るために、大名たちは才能をどんどん抜擢したでしょうか。いいえ、そんなことはできませんでした。名もない素浪人を重く用いたりしたら、有力な国人領主たちが納得しません。彼らの協力を得られなければ、大名は自滅する他ないのです。だから大名たちは、従来の秩序を無視するわけにはいきませんでした。
数多い戦国大名の中でも、才能の抜擢ができたのは、わずかに武田信玄と織田信長くらいではないでしょうか。信玄は有能な家臣に伝統ある家を嗣がせ、重臣として用いました。山県昌景(謀反人として処罰された飯富虎呂の弟)、馬場信春(もと教米右氏)、香坂昌信(豪農の出身)がこれです。より大胆な抜擢をしたのはいうまでもなく織田信長で、羽柴秀吉、滝川一益がこれにあたります。明智光秀も土岐源氏とはいうものの、出自が確かではないようです。
まとめましょう。戦国時代の戦乱によって、伝統的な秩序には大きな改変が加えられました。伝統の力は後退し、実力が前面に押し出されるようになりました。ですが、それでも一足飛びに「能力がすべて」という風潮が生まれたわけではありません。戦国大名もその重臣たちも、伝統的な勢力から生まれています。世襲の力はまだまだ強力で、伝統・世襲を基礎として、そのうえで能力の有無が問われたのが戦国時代である、といえそうです。

コメント