3.11の東日本大震災は、日本文明を世界に知らしめ、私も日本文明について考えるきっかけとなりました。6回にわたって「強い日本を目指す道」、また3回にわけて「日本文明とは何か」を記事としましたが、今回からは日本文明論でも若干ネガティブな部分についても論じた本を取り上げたいと思います。本書は世間と言うキーワードで日本社会の、日本人の本質を論じています。また、刑法39条と少年法についても、世間=空気や穢れ思想など日本人の本質と絡めて論じられております。
私達は自分が世間というメガネを掛けているか否かを認識する事で、よくも悪くも作用する世間という集団的無意識に支配されない自分を見出すことができるのではないかと思いました。
はじめに
(略)統計が明らかにするように、ここ四〇年ぐらいを考えても、日本の治安はまったく悪化していない。
日本の犯罪発生率の低さや治安の良さは、西欧にはない、日本独特の「世間」の存在を考えないと説明がつかない。歴史学者の阿部謹也さんがいうように、日本人は、依然として「世間」にがんじがらめに縛られている。犯罪は、「法」に反する行為であるはるか以前に、「世間がゆるさない」のである。つまり、犯罪者は「世間」から「はずされ」てしまう。日本人は「世間を離れては生きてゆけない」と思っているために、この抑止力は絶対である。
つまり「世間」はもともと、真筆に謝罪する犯罪者を「ゆるす」という包摂的側面と同時に、ケガレとして犯罪者を「はずす」という排除的側面をもっていたのではないか。ようするに「世間」は、「ゆるし」と「はずし」という、ふたつの一見相矛盾するような側面をもともともっていたのではないか。
私は、それが今日、たんにこの排除的側面が、厳罰化という現象として、刑事司法の前景にあらわれたにすぎないと考えている。
たしかに、日本における近年の新自由主義の台頭は、厳罰化に代表されるように、日本社会全体にはかり知れないほどの大きな影響を与えた。しかし「世間」という観点から考えたとき、日本社会が根底において大きく変化しているとは思えない。つまり「世間」の「ゆるし」と「はずし」の構造が、相変わらず社会の根底で、通奏低音のように作動している。
「世間」は解体したのではなく、その意匠を変えているだけではないか。
そしてこの「ゆるし」と「はずし」の構造のなかで、キーワードとなっているのが謝罪である。なにか不祥事がおきたときに、「自分は悪くない」と心のなかでは思っていても、とりあえず大急ぎで謝罪し、「世間」の「ゆるし」を乞わなければならないのは、日本人が「世間」から「はずされる」ことを極端に恐れているからである。
今回の震災で暴動が起きない日本文明を世界は褒め称えているが、我々はあまり思い上がってはいけない。我々だけが知ればよい事実ではあるが、暴動が起きなかった理由の一つがこの世間の存在である。
世間の存在が犯罪を抑止する反面日本人は「世間」にがんじがらめに縛られている。世間の存在は個人という存在を侵食さえしている。
p14~17
(1)日本に社会は存在しない社会という言葉はだれでも知っているし、「社会に出る」とか「社会人」とか「社会学」とか「社会科」というように、日常的にふつうに使われている。しかし、この社会が日本には存在しないといわれたら、どう思うだろうか?
二〇年ほど前に初めて「世間」論を提起したのは、阿部謹也さんである。この阿部さんの問題提起が衝撃的であったのは、societyの翻訳語である「社会」が、明治以降、言葉はともかく、現在でも日本には実在しないと喝破したことである。つまりヨーロッパでは、八○〇年ほど前に、都市化とキリスト教の「告解」の浸透により、individualたる個人が生まれ、個人の集合体としての社会が形成された。しかし日本では、とくにキリスト教の「告解」にあたる歴史的経験がなかったために、individualの翻訳語である「個人」もまた、言葉はともかく、現在でも実在しない。そのために、これまでに個人の集合体である社会も生まれなかった。
そのかわりに万葉の時代から連綿と存在してきたのが、「世間」であった問題なのは、日本は明治以降西欧諸国から文物を輸入し、近代化をおこなってきたのだが、そうした西欧の文物の根底にあったのが個人であり、社会であったことである。土台としての個人や社会の輸入に失敗したために、その上に構築されたさまざまな制度や学問といった建造物も、土台のない空中楼閣になってしまっていることである。
じつは、「法」や「権利」という概念もまた、個人や社会を前提としているために、個人や社会が存在しない日本の「世間」においては、それらの概念がさっぱりリアリテイをもたないということになってしまったのだ。
法律家にいわせれば、これは西欧に比べて日本が「遅れている」ことになり、早く西欧に追いつかなければならない由々しき事態であることになる。しかしこれは、「進んでいる」「遅れている」というような単純な問題ではない。西欧に追いつければよいという問題ではないのだ。
ところで「世間」を英語に訳せといわれたら、どう答えるだろうか?
もちろんsocietyではないし、worldでも、communityでもない。訳せない以上、英語圏には「世間」は存在しないと考えるしかない。つまり、「世間」は現在でも、少なくとも英語圏においては存在しない人的関係のあり方である。日本人は「社会を離れては生きてゆけない」とは考えないが、「世間を離れては生きてゆけない」と固く信じている。つまり、「世間」を「はずれ」ては生きてゆけないと考えている。それは次章で詳しく説明するように、〈世間―内―存在〉、つまり「世間」のウチ側が、日本人にとって「存在論的安心」が得られるような場所となっているからである。逆に「世間」のソト側の〈世間―外―存在〉であるかぎり、「世間」の庇護を受けることはできないから、「存在論的不安」のなかにたたき込まれる。そこでは、「ゆるし」や義理・人情といった原理が作動せず、「法」や「権利」という概念しか存在しない。つまりT・ホッブズのいうような、「万人の万人にたいする敵対」の場所となっている。
日本人は「世間」の内部から「はずれ」ないために、この「存在論的不安」をもたらすような場所に追い出されないように、つねに細心の注意を払っている。よく考えるとかなり馬鹿げた努力ともいえるのだが、それは、人生における最大の問題であるといってもいいくらいなのだ。しかも「世間」は、社会と異なって、明文化はされていないが、暗黙の、しかもきわめて細かいルールからできあがっている。このルールを守らないかぎり、「世間」の一員とはみなされないのだ。
ここでは簡単に、阿部さんの議論を参考にしながら、日本入が「世間」のなかでゼッタイ守らなければならない、主要なルールを四つあげておこう。(2)「お返し」がなにより大切なのだ
第一の「世間」のルールは、「贈与・互酬の関係」である。
メールがきたときに、返信するまでなんとなく心理的に負担に感じるのは、じつは「お返し」しなければいけないという「世間」のルールがあるためである。モノではないがメールも、一種の「贈答品」として「お返し」の対象となるからだ。
「お返し」で一番わかりやすいのは、お中元・お歳暮である。夏のお中元、冬のお歳暮のシーズンになると、デバートにずらっと商品が並ぶ。ここ一〇年で派遣など非正規労働がかなり一般化し、上司と部下の関係がかなり希薄になってきている今でも、お中元・お歳暮がなくなったという話は聞かない。お中元・お歳暮はフメツなのだ。
この贈答関係においてもっとも大事な点は、「お返し」の場合にだいたい同じ金額・グレードのものが要求されるということだ。もらった品にたいして、あまりに安いものは失礼だが、高いものも、かえって失礼にあたる。つまり、きわめて細かいルールがあるということだ。(略)
日本では「お返し」がちゃんとできない人間は、低く評価され、「世間」からはつまはじきされることになる。一九九八年以降、日本では自殺者が三万人をこえ、その後二一年連続で高止まりしているが、先進産業国のうちでもこの自殺者の多さは、「世間」の存在を考えないと説明がつかない。つまり、病気(うつ病など)を除けば、自殺する最大の理由は経済的な問題である。会社をリストラでクビになったり、倒産や破産をしたりすれば借金が「お返し」できない。借金返済ができないことは、法律上はたかだか契約違反の問題にすぎないのだが、日本では「贈与・互酬の関係」を守れない人間だという評価になる。日本人は「世間を離れては生きてゆけない」と固く信じているから、「世間」から「はずされ」たら、蒸発するか死ぬしかなくなる。これが、日本において経済不況によって自殺者が極端に増えた理由である。(3)なぜ年齢にこだわるのか
第二の「世間」のルールは、「身分制」である。
最近よく聞く言葉に、「アラフォー」というのがある。アラウンドフォーティ、つまり大体四〇才の意味である。「アラ還」というのもあるらしい。アラウンド還暦。つまり六〇才の還暦に近い、という意味である。
だからなんなんだ、と、アラ還の私なんかは、これを聞くたびにキレそうになる。だが、このように、日本の「世間」では生理的な年齢に異常にこだわる人が多い。それは、「世間」が年齢に基づく強固な「身分制」からできあがっているからだ。
阿部さんはこれを「長幼の序」といっているが、先輩/後輩、長男/次男/三男などといういい方は、「世間」には年齢によってはっきりと序列ができあがっていることを意味する。
英語圏だと先輩/後輩といういい方はふつうしないし、家族のなかの呼び方は、シスターとブラザーだけで、そこには順番や序列はない。
日本語だと二人称が「きみ」「あなた」「お前」「てめえ」「なんじ」など、数限りなくあるが、英語だとYOUだけである。英語だと相手が大統領だろうが、友達だろうが、YOUでよい。しかし日本ではそうはいかない。このことは、「世間」においては相手の「身分」に応じて、二人称を無意識に、瞬時につかい分けていることを意味する。
日本語や英語という言葉が重要なのは、言葉は他者とのコミュニケーションの手設であるばかりではなく、モノを考え、自己表現する上で不可欠のものだからだ。言葉をつかうことによって、私たちは無意識にそれに縛られている。しかしあえて意識しないかぎり、このことには気づかない。
だから日本では、相手の「身分」がわからない状態が一番困る。仕事をする上で名刺交換が欠かせないのは、初めて会ったときに、社長であるか、部長であるか、課長であるか・ヒラの社員であるか、相手の肩書によって「身分」を確認する必要があるからだ。
日本人にとって肩書なしの関係は、ある意味不安な関係でもある。それは、日本人は、「世間」のなかに肩書があり、自分が「世間」に「身分」として組み込まれているということのなかに、「存在論的安心」をみいだすからである。日本人は自分が〈世間―内―存在〉であるかぎりにおいて、「存在論的安心」をもつことができる。
(略)
第四章でのべるように、ここ一〇年ぐらいの間に日本は本格的な「格差社会」に入ったといわれるが、もともとあった「世間」の「身分制」が、格差の拡大によって、ますますロコツにあらわれるようになっている。その結果、「世間」がもともともっていた、隣の人間にたいする「妬み」の意識が肥大化しているのである。

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