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佐藤直樹[さとう・なおき]

1951年、宮城県に生まれる。九州工業大学・大学院教授。九州大学大学院博士課程修了。専攻は刑事法学、現象学、世間学。
1999年「日本世間学会」創立時に、初代代表幹事として参画。
なお、「日本世間学会」は2011年現在、年2回東京で研究大会を開催している。

著書に、『「世間」の現象学』『刑法39条はもういらない』(以上、青弓社)などがある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 今回の震災と原発事故は日本文明=日本人の強さと弱さを露呈した。
 
無責任な東電の清水社長や無能な菅直人が特殊な人間で、極端に日本人離れしてどうしようもなく無能な人間というよりも、あまりにも平均的な日本人であり、個人で責任とか決断ができない凡人であったことを私は痛感している。
 
また、マスコミやネットで正義感ぶって、原発反対運動の推進や事故の責任を東電単独犯のように口角泡を飛ばしている日本人もあまりにも平均的な世間に流されているだけの情けない日本人なのである。
 
本書を読むと日本人の弱点を見事に分析している。
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(2)日本人の「存在論的安心」
(略)
まず小宮さんは、日本の低犯罪率の理由を文化的要因にもとめる。明治期に日本は西欧法は輸入できたが、その精神を輸入できなかったために、伝統的生活に手をつけることはできなかったという。そのために、制度は西欧的であっても、その精神は伝統的なものというギヤップをかかえることになった、と。
 
この小宮さんの指摘について「世間」論的にいえば、「世間」において「法」や「権利」が通用しないのは、明治期にはいってきた西欧近代の「法」や「権利」が、あくまでも表面的なものにとどまり、「世問」に浸透しなかったからである。法は、societyとしての社会の存在を前提としているが、社会は明治期に名前だけを輸入したものの、現在でも実体としてのsocietyは存在しない。
その上で小宮さんは、日本における集団のつくり方は、会社や学校などの地域に根ざすローカルなものであるが、西欧においては趣味などの個人的志向に応じて集団がつくられる、と指摘する。
しかも日本においては、この集団にはウチとヨソという厳格な区別があるが、西欧においては、集団とその外部世界との境界がそれほど明確ではないので、ウチとヨソの区別がない。日本では、ウチ世界とその内部に存在する個人との境界は明確ではないが、西欧では逆に、集団と個人との境界ははっきり区切られているとする。
これは小宮さんの論文に掲載されているものだが、図1をみてほしい。
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図1

日本では、ウチとヨソを厳格に分けるものとして、その境界が太線の円で示されている。
 
しかし、個人(Individual)とウチとの境界はあいまいなため、点線の円として示される。ところが西欧では、個人と集団(Group)との境界は太線の円であらわされ、はっきりと区別されるが、逆に集団と外部世界(Outside)との境界は点線の円であらわされ、あまり区別がない。ここでの矢印は、境界が希薄なため、矢印の向きに影響を与える関係があることを示している。
 
この日本の集団におけるウチとヨソの区別という指摘は、きわめて重要である。
私にいわせれば、小宮さんは「世間」という言葉を直接つかっていないが、日本の地域や場所に根ざす集団という言葉を「世間」といいかえて考えれば、そのまま「世間」論になる。
 
すなわち、日本の集団である「世間」においてはIndividualたる個人は存在しないから、「世間」とその構成員との問の境界はあいまいなものとなる。換言すれば、「世間」はいつも個人に干渉する。つまり、うるさい。しかも、ウチとしての「世間」と、ソト(小宮さんのいうヨソ)としての「世間」の外部との区別はきわめて明確である。
 
ところが西欧においては、Individualたる個人が厳然と存在するから、これとsocietyたる社会との境界は明確である。換言すれば、社会と個人はいつも対立する。対立関係が明確なため、社会も個人への干渉を最小なものにとどめる。しかも、一つの集団である杜会と、その外部である社会との問には、ウチとソトの区別はないので、その境界はあいまいである。
 
小宮さんは、日本の集団が細かいルールをもたなければならない理由を、集団自身が地域に根ざすローカルなものであるがゆえに、もともと利害が異なる異質な者から構成されているので、細かなルールをつくり、集団に情緒的な参加をうながすことによって、集団を維持しなけれはならないからだという。また、集団を守るために、その構成貝が他の集団に属することをきわめて嫌がる。
 
このルールのうちもっとも重要なのが「義理」である。「義理」を守り集団に包摂されることによって、人々は社会学者のA.ギデンズのいう「存在論的安心」(自分がここに存在している理由に自分で確信がもてること。これにたいして「存在論的不安」は、そうした確信がもてない不安のこと)を得ることができる。ウチとヨソを区別するために、ウチにおいてはこの「義理」の原理がはたらくが、ヨソにおける非構成員にたいしては、「義理」の原理がはたらかず、「法」や「権利」という原理を行使することになる。
 
これにたいして西欧の集団では、もともとローカルなものでなく、利害や趣味で一致している同質的な者から構成されているから、日本ほど細かいルールが必要ではないし、集団への情緒的参加をうながす必要もない。
 
またウチとヨソの区別がないために、集団のウチであってもヨソであっても、「法」や「権利」という原理がはたらくことになるとする。しかもひとつの集団の構成員は、ウチとヨソの区別がないために、複数の集団に属することができるという。
これも小宮さんの論文に掲載されているものだが、図2をみてほしい。
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所属しているというような安心感を与えているという。つまり会社は、「存在論的安心」の基盤を与えているというのである。
 
そして日本の会社では、この「存在論的安心」とひきかえに、強い非公式のルールに服することを要求されるとする。たとえば、新入社員研修では、会社への忠誠心をたたき込まれる。また、家族抜きの海外への二~三年の単身赴任にも従わなければならない。
 
そうしてい労働者は「再-社会化」され、高度な自己抑制ができる労働者に育つ、と。
 
「世間」論の立場からいえば、会社もまた典型的な「世間」である。小宮さん(いう「会社への忠誠心」や「高度な自己抑制」の結果として、日本の会社では、西欧社会ではおよそ考えられないような、過労死や過労自殺が頻発する。
 
会社では、「共通の時間意識」が作動するため個人の範囲がはっきりしない。そのため個人の職務範囲である「職務分掌」が不明確で、どこからどこまでが自分の仕事なのかがあいまいである。そのために「世間」で期待される几帳面な性格の人間ほど、他人の仕事をに引き受けてしまい、これが過労死や過労自殺の原因となる。
 
また会社では個人が存在しないために、「権利」を主張するのがむずかしい。たとえば日本の会社では、年次有給休暇を全部消化することは事実上できない。
 
それか労働者の「憲利」であるにもかかわらず、である。新聞記者で、夏休みに一ヵ月の有総休暇を取つてヨーロッパに取材旅行に行ったら懲戒処分となり、それを裁判所に訴えたら、最高裁で敗訴するという、徹底的な「はずし」に遭ったケースすらある(最高裁平成四年六月二三日第三小法廷判決)。
 
日本の伝統的な雇用関係である終身雇用制や年功序列制は、前者が会社が生涯の生活保障をするから従業員は会社に忠誠をつくせよなという、「贈与・互酬の関係」にもとづくものだし、後者は、年齢の上昇によって給料を上げるという「身分制」にもとづくものである。
 
つまり「世間」のルールに沿うかたちで、社員に「存在論的安心」を与えてきたのだ。
 
しかし現在、この日本的雇用関係が「強い個人」を前提とする成果主義の導入によって崩壊しつつあり、そのことが職場のうつ病の増加など病理現象をもたらしている。「強い個人」はもともと社会の存在を前提としたものであって、日本の「世間」では存在しえないものであり、成果主義自体が「世間」にとっては無理難題というべきものなのだ。
 
さらに「世間」はウチとソトをはっきりと区別する。そのために、小宮さんもいっているが、社員である間は毎日のように飲み歩いていた同僚が、いったん退職して会社との関係が切れると、なんの連絡もしてこなくなる。「世間」における人間関係が、個人と個人の関係ではなく、いわば会社員という「世間」のなかの身分にもとづくものだからである。
 
つまり退職するということは、その人間が会社というく世問-内-存在Vから〈世間-外-存在〉に移動し、「はずされる」ということだから、会社という「世間」のウチでどんなに親しい間柄であっても、ソトに行ってしまえばたんに「他人」あるいは「ヨソ者」にすぎない。
 
日本では夫が退職したあとで、妻と二人きりの生活になり、精神的にボロボロになり、急速に認知症になったり、DVにはしったりすることが多いのは、自分が所属していた会社という「世間」からはずれ、それまでの「存在論的安心」をもつことができた地位をうしなってしまい、「存在論的不安」のなかに置かれるからである。
この図2を見てわたしは、陰謀論に嵌る日本人的弱点を発見した。
日本では、一つのグループに属すると、ありとあらゆる事がすべて共有される。
悪く言えば一味みたいな考え方だ。
 
具体的に言えば、例えばビルダーズバーグ会議に出席している人間は、すべてフリーメーソンであり、裏ですべて闇の指令によって動いている。日本の原発廃炉を利権と考える企業や個人はすべて意思統一されているような発想は、実に日本人的思考に基づいた考え方である。
 
個人が確立している西欧社会では、一つの会議に出席しているからと言って、何から何までその会議のメンバーの利権を共有するという考え方はナンセンスな理由がよく解る。