
昨年だったか一昨年であったか?カツマーVsカヤマー論争があったかと思う。
勝間和代Vs香山リカの女性生き方の論争であったかと思います。
『しがみつかない生き方』(幻冬舎新書)の帯に書かれた「〈勝間和代〉を目指さない」の大きな文字
勝間和代さんは若いビジネスウーマン・ビジネスマンのカリスマである。皆様の周囲にはかならず、カツマー信者のカン違い女が一人や二人はいると思います。
勝間的な努力至上主義的生き方は多くの脱落者を生み、そのボロボロになった人を救う精神科医の香山リカさん。
3.11以降香山リカ的生き方がむしろ注目されているようにも思います。
もちろん、勝間的な努力が美しいという生き方を否定するものではないが、誰しもが勝者となれないのが世の中と云うもの。カツマー的生き方をしてきた人間こそ香山リカ先生にお世話になる価値があるかもしれません。
私もカツマーの本は読みますが、いまひとつ信者になれません。が、香山リカさんの本は二十数年読み続けています。そして、リカ先生に癒され続けています。
本書も60数ページの薄い本であるが、自分を信頼して生きていくことも大切さを説くリカ先生のエッセンスは十分に詰っています。
p16~20
「まさか私がこんな目に遭うなんて!」でも、そういう考え方には限界があるのです。診察室にやってきて、自分が巻き込まれた困難や苦しさについてお話をされる方たちは、みんな口をそろえて同じ言葉を発します。
その言葉とは、「まさか私が1」です。「まさか私が」、「とても想像できなかった」、「私がまさかこんな目に遭うとは」、「まさか私の家族がこうなるとは」、「まさか私が付き合っていた人が、こんなひどい人だとは」、「まさか私の会社が突然なくなってしまうとは」、「まさか私が、いま住んでいる家を追い出されてホームレスになってしまうとは」……まったく考えなかった。
そういう人のなかで、「いや、やつぱりそうなりました。私は昔から自分の人生がこうなると思っていたんですよ」なんていう人は、まず見たことがありません。
みなさん、自分は普通だと思っているのです。世間並みの生き方をして、世間並みの努力をしていれば、そんなにものすごく幸せな状況でなくても、まあそこそこの人生をおくれるもんだとばつかり思っていた。それなのに、こんなことが待っていたとは、予想できなかったという話をされるのです。
ですから、私もそういう話を聞いていると怖くなってしまうのです。予想できないことが誰の身にも起きるということは、それが私に起きたって不思議ではないというふうに、つい考えてしまいます。ですから、考えないようにしていても、これは限界があるわけです。考えないようにしていても、トラブルや病気が起きてしまう。
アンチエイジングの心理
しかし、いちばんはつきりしているのは、考えないようにしても、人問は年をとってきて、病気になったり、からだの調子を壊したりする。これはどんなに否定しようとしても否定できない事実です。
さきほど、不安定になればなるほど、逆に不安の問題を考えないようにしようとする人々が増えるという話をしましたけれども、実は最近は、人間は年をとるんだということさえ考えないようにしたいという人たちがいるようです。みなさんもときどきテレビなどでご覧になることもあるかもしれませんが、最近、医者のなかでアンチエイジングなどという若返り医療をやっている人たちが非常に増えてきています。あるいは、若返り健康法が増えてきました。女性雑誌などでも、四〇代以ヒの方が読む雑誌では「四〇は女の現役」、「五〇代でも恋愛をしましょう」、「六〇代で、ますます可愛い」などという特集が組まれたりして、年齢が上がってもまだ女性として輝いているんだ、現役だ、恋愛を楽しんでいる、という主張がさかんに言われるようになっています。もちろん、年齢を重ねても、おしゃれを楽しんだり恋愛を楽しんだり、いろいろな趣味を楽しんだりすることは素晴らしいことです。何歳になっても自信をもって、外に出て明るい洋服を着て、買い物に行ったりして楽しめばいいと思います。けれども、そうやって年齢にかかわらずに楽しんだりする部分もあれば、身体的なことなど、年齢にさからえないという部分もありますよね。にもかかわらず、少しでも身体のどこかに老い、いわゆる加齢の兆候が現れると、もうパニック状態になって、「しわをとってください」、「たるんできた皮膚をどうにかしてください」と言ってやってくる。(略)もちろん、からだを若々しく保つということはよいことなのですが、でも限界はあります。どうしてもさからえない年齢の積み重ねというものがあるわけです。でも、それを認めようとしない。「私はまだまだ大丈夫だ」、「脳を鍛えれば若返るんだ」、「いろんな方法を使えば見た目も若返ることはできるんだ」という、何千年も前のクレオパトラや楊貴妃が追い求めていたような、不老不死を求めるようなことも最近みられます。たぶん、こういう人たちが出てきているというのは、若返り医療の技術が進んできたからというわけではなく、もっと心理的な何かがあると思います。それはつまり、私たちの社会や生活のなかに、とても見たくない、考えたくないということが増えてきた。逆にどこかで明日は我が身かもしれない、私もそういう弱い立場になるかもしれないということに、直観的に、みんなうすうす気づいている。だからこそ、それを否定するために、むしろパニックのように、若返りたい、、元気になりたい、まだまだ現役として仕事や恋愛をエンジョイしたいというような反応が出てきているような気がします。つまり、現実を受け入れられない。受け入れてしまったら、自分はとても怖い。いまの社会はそうなってしまったら最後、助からない。誰も助けてくれない。いわゆる負け組、弱い人ということで切り捨てられ、見捨てられてしまう……。「それはあなたの自己責任でしょ」と、これまで自分が人に言っていな言葉を、そのまま言われるような立場になつてしまうということを、どこかでうすうす気づいているわけです。だから、年齢を否定したり、若返りに必死になったりして、とにかく私にはそんなひどいことは起きないという最後の虚しい抵抗をする人たちが、いま、増えているのだと思います。
p26~29
回復していく心そういうなかで、社会の雰囲気に追いつめられて、自分のことしか見えなくなる。そうすると他人を排除して、「あの人は自己責任でああなったんだ。私だけは大丈夫」と、そういう人を見ないようにしたりする。自分だけを守るような、そんな社会の雰囲気が生まれてくるので、それをなんとかしないといけない。
また、もうひとつ、私たち個人のレベルで、大事なことがあります。ただでさえ、生きているだけで自信がなくなってしまう、そういういまの社会のなかで、なんとか私たちはこれでいいんだ、他人を押しのけるのではなく、私自身の生き方でいいじゃないかと自分に言い聞かせる。これもまた、いまの時代を生きていくうえで大事なことではないかと思うのです。
おどおどびくびくして、遅れてしまうんではないか、蹴落とされてしまうんではないか、私の選択は間違っていたんじゃないか、そんなふうに人の目を気にして生きていくのではなくて、もっと、これでいいんだ、私のやっていることは間違いではないんだというふうに、ひとりひとり、自分を信頼して生きていくことも大切なのではないかと思います。
最初に申し上げましたように、人生ってままならない、思いもかけないようなアクシデントやトラブルの連続です。しかしながら、同時に、でも、たいていのことは、たとえば、精神科に来てもらえれば、ソーシャルワーカーの人とか、精神科医とかが、時間をかけて、知恵を出し合って、いつしょに考えれば、問題は解決していく。病気は回復していく。あるいは、生活が困窮してしまっても、知恵を出し合って、社会のサービスを使って、助けてくれる人を見つけることもできるということです。(略)これは年齢に関係ありません。六〇代、七〇代、八○代の方が傷つかれると、もうこんなお年でこんなひどい経験をしたら絶望的だとつい思ってしまうのですが、でもその方たちが、またその後の人生のなかでそれを受け止めて、きちんと向き合って、プラスに変えていって、また新してあく自分の人生を組み立てていくという姿にも何度も出逢ってきました。そうすると、心のなかの回復力は何歳になってもあることがわかります。自分をしっかり信じて、時間をかけて、解決の糸口があるんだということを信じてもらいたいと思います。明日は我が身、だれもが、苦しい立場に追い込まれることがあるかもしれない。でも目を背けたり、他人のせいだと思って対応しようとしていてもどうにもならない。だれにでも、そういうことが起こりうるのが人生なんだから、そしてそういうことが起きたらお互い様なんだから、といって助け合っていかないと何も始まらないような時代なんだと思います。そういうなかで、自分に備わっているあたりまえの感覚、あたりまえの感情、自分の心のなかにある底力を信じて、ちょっとしたことで自分を否定したり、自分が間違っていたのかしらと思ったり、パニックになったりせずに、腰をすえて、どっしりと落ち着いて、生きていけたらいいなと思います。
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