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イメージ 3日本と台湾との歴史の絆は母親が日本人の義士「鄭成功」以来深い絆がある。
 
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1945年第二次世界大戦終戦後中国大陸において毛沢東率いる共産党軍と蒋介石率いる国民党軍の内戦は、血で血を洗っていた。1948年淮海(わいかい)戦役に大敗した国民党軍は敗走に次ぐ敗走で北京・南京・上海と主要都市は落ち台湾へ落ち延びて行った。
 
 
 
 
イメージ 5勢いに乗る共産党は中華人民共和国の成立を宣言し、台湾へ落ち延びた蒋介石は、中国大陸最後の大都市廈門市(アモイ)が陥落寸前、大陸に橋頭堡を無くしては台湾すら危ういところまで追い詰められていた。
 
 
 
そんな最中、1945年終戦の際多くの日本人の命を救った蒋介石に恩義を感じ部下の元参謀4人東亜修好会の通訳日本人2人を連れ蒋介石を救いにはせ参じた日本人がいた。
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元日本陸軍北支那方面軍司令官・根本博中将。

終戦後の昭和二十年八月二十日、内蒙古の在留邦人四万の命を助けるために敢然と武装解除を拒絶し、ソ連軍と激戦を展開、そしてその後、支那派遣軍の将兵や在留邦人を内地に帰国させるために奔走した人物である。
在留邦人や日本の将兵が国府軍の庇護の下、無事、帰国を果たした時、根本はそのことにかぎりない「恩義」を感じながら最後の船で日本へ帰っていった。
しかし、今度は国府軍が共産軍との戦いに敗れ、絶体絶命の存亡の危機に陥った時、まさかその日本の元司令官が「自分たちを助けに来てくれる」と、台湾の誰が予想しただろうか。
「義には義をもって返す」軍人でありながらヒューマニズムの思想に抱かれ、生涯、その生き方を貫いた戦略家。
戦後、大転換を遂げた価値観によって混乱の波間を漂いつづけた日本で、なぜ彼のような軍人が存在しえたのか。
「命」を守り、「義」を守った陸軍中将。彼のしたことは、その偉業から六十年を経た今も、決して色槌せることはない。だが、同時にそのために多くの命が喪われたのも、また事実である。
六十年前の出来事は、現代に何を問いかけているのだろうか。
この歴史に埋もれた事実、著者門田氏の努力でその真相が語り継がれれることとなった。

日本に留学していた蒋介石と根本中将は大正15年日本で初めて会って以来、東亜の平和に関して何度か話す機会があったと言う。

蒋介石が1943年のカイロ会談でルーズベルト、チャーチルと日本の戦後について会談した際、「日本国民が自ら決めることが望ましいと」事実上天皇制が存続した奇跡の要因の一つとなった。

1945年12月17日、根本中将と蒋介石は敗軍の将として蒋介石と会談をしている。
p81~83
根本にはこの時、敵の総帥である蒋介石に対して、言葉では言い表せない感謝の気持ちがあった。それは、日本の国体、すなわち天皇制の存続に関する問題である。

二年前の一九四三年十一月にエジプトのカイロでおこなわれた「カイロ会談」は、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相と中華民国主席の蒋介石の三者によるものである。

ここで連合国側の「日本の無条件降伏を目指す」という大方針や「北海道、本州、四国、九州の四島のみを日本の領土とする」ことなど、連合国の対日基本方針が定められている。

この会談のなかで、蒋介石は天皇制度について意見を述べ、それが「天皇制の存続につながった」ことを根本は知る。カイロ会談に随行した蒋介石の部下の海軍武官から根本は直接、会談の内情を聞かされたのである。
事実、蒋介石は、一九四三年十一月二十三日午後七時半からの晩餐会の席上、ルーズベルトから日本の将来の国体問題について意見を求められ、「日本の軍閥がまた立ち上がり、日本の政治に二度と関与することのないよう徹底的に取り除かねばならないが、日本の国体をどうするかについては、日本の新進のしっかりとした考えを持つ人々に自ら解決させるのが望ましい。我々は日本国民が自由な意志で自分たちの政府の形を選ぶのを尊重すべきである」と述べ、戦後になってから「日本国民が自ら決める」ことを主張し、ルーズベルトの賛同を得たという(「中華民國三十三年元旦告全國軍民同胞書」より)。
これは根本にとって大きな意味を持つことだった。無条件降伏でありながら天皇制、すなわち「国体」を存続できたことは、大元帥のもとでひたすら軍務に励んだ軍人としてはかり知れない喜びだったのである。そして、前月から在留邦人の故国日本への帰国も始まっていた。部下将兵たちが命に代えて守り抜いた人たちが続々、日本への帰還を果たしていくことに対しても、根本は深い喜びを感じていた。
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根本は、敗軍の将としてこの時、死を覚悟して蒋介石の宿舎を訪ねている。だが、それ以上に感謝の思いが強かったのである。
根本は、椅子が二脚しかない書斎で蒋介石と対面した。

根本が部屋に入っていくと、蒋介石は、武官長官の商震上将、戦区司令長官の孫連仲上将など高官を立たせたまま、根本の手を取り、椅子に座らせた。

恐縮する根本に蒋介石は、にっこりと微笑みかけた。
「今でも私は東亜の平和は日本と手を握って行く以外にはないと思うんだよ」蒋介石は、そう口を開いた。
「今まで日本は少々、思いあがっていたのではないだろうか。しかし、今度はこれで私たちと日本は対等に手を組めるだろう。あなたは至急、帰国して、日本再建のために努力をして欲しい」
ねぎらいの言葉と共に、蒋は、諭すように根本に語りかけた。その態度には、戦勝国代表の騎りは微塵も感じられなかった、と根本はのちに回想している。

根本は感謝の言葉を蒋介石に述べた後、こう答えた。
「しかし閣下、私は三十五万の兵を残して先に帰国することはできません。北支那方面軍の司令官として、私は戦争の責任を問われなければなりません」
自ら北支那方面軍のトップとしての戦争責任を取ろうとする根本に、蒋介石は首をゆっくりと横に振った。
「戦争犯罪人の処罰は連合国の申し合わせだから仕方がない。しかし、いたずらに多数の戦犯を摘発し、日本の恨みは買いたくない」

そう言うと、蒋介石はさらにこう続けた。
「戦争である以上、罪は双方ともが犯している。だが、連合国からの強い要請もあるので、戦争以外のことで最も悪質なことをやった者だけにしぼって、戦犯として処理したい。中国側の責任者についても、その点、十分の注意を与えているつもりだが、もし日本側に不満があれば、遠慮なく申し出てください」

蒋介石の"日本の恨みは買いたくない。という言葉は、ある意味、リアルな表現である。この時、世界中が固唾を呑んで中国での「国共内戦」の行方を見守っていた。
台湾へ密航し蒋介石と会うまでの凄まじい命懸けの経緯は本書を読まれて欲しい。

蒋介石と根本中将が会談する前日、根本中将の台湾での盟友となった湯恩伯将軍と会っている。

p118~120
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指定の時間に指定の場所に到着すると、湯将軍自ら玄関まで出迎えた。茶菓や煙草で雑談をしている間に、根本は将軍の部下である将領たちを紹介された。

ほとんどが、談話に不自由がないほど日本語が堪能だった。湯恩伯は日本の明治大学と陸軍上官学校を出た知日派であり、部下には日本留学組や日本語が堪能なものが集まっていた。

湯はこれまで根本と面識こそなかったものの、その名前と実力のほどはかねて知っている。
根本たちは、湯とその幕僚たちと十年の知己に再会したごとく、すぐ打ち解けた。

湯の幕僚たちは、根本たちが「命をかけて」東シナ海を渡ってきたことに同じ軍人として感動を覚えていた。

敗走を重ねる国府軍の士気は、著しく衰えている。すでに内戦の大勢が決していることは誰の目にも明らかだった。わざわざ負け馬に乗る人間など中国にはいない。しかし、この日本人たちは、かつての敵である自分たちを助けるために、わざわざ海を越えてやって来てくれたのである。

彼らは、そのことに心を動かされていた。かつて刃を交えたことなど、忘却の彼方に置き去ったかのように、皆が腹の底から笑い合った。

根本は、そのようすを見て、無性に嬉しかった。「ここまでやって来た甲斐があった」という思いが胸に広がる。根本は、台湾まで彼らと「一緒に死ぬ」ために来たのである。

終戦時の日本同胞に対する蒋介石の恩義。それは、北支那方面軍司令官として、内地への引き揚げを一手に引き受けた自分が一番知っている。

敗戦に際し、自決を決意していた自分が今、生きているのは、あの時、内蒙古にいた四万人の在留邦人と三十五万人の北支那方面軍の部下を内地に送還してくれた寛大な蒋介石の方針によるものであったことは確かだった。

国民政府の要人と折衝を繰り返しながら、わずか一年という短期聞の内に日本への帰還を完遂できたことは、奇跡というほかない。それは、多くの日本人をシベリアに連れ去ったソ連の独裁者・スターリンとあまりに違っていた。

その恩義を日本人は忘れていない。そのことを、身をもって示すために、自分はわざわざここまでやって来たのだ。

根本はこうして国府軍の幹部たちと杯を交わしていることが、夢のように思えて仕方なかった。心地よい酔いが、その思いをさらに深くした。

「乾杯、乾杯」と、中国式の乾杯がつづいた。日本の旧軍人に対して敬意を忘れない宴会は、午後十時が過ぎてもつづいた。
やがて宴会が終わり、根本らが帰る時、湯恩伯は一行を玄関まで見送った。その時、湯が根本に近づき、こうささやいた。

「大総統が明日お会いすると仰っています。私が、宿舎に迎えに参ります」
その瞬間、根本の表情が引き締まった。
それは、今か今かと根本が待ちわびた会見だった。
「ありがとうこざいます。お待ちしております」
背筋をすっと伸ぱすと、根本はそう答えた。
蒋介石と根本元中将の会談
p124~125
(略)
と、間髪を容れずに根本が言うと、「好、好、好」と、蒋介石は再び満面に笑みをたたえた。おもむろにうしろを振り返った蒋は、そこに直立している湯恩伯に向かってこう言った。

「福建行きの話はしてあるのか?」
「いやまだです」

と、湯将軍。根本は初めて”福建行き”という言葉を聞く。蒋介石は、根本の方に向きなおった。そして真剣な表情でこう言った。

「近日中に湯恩伯が福建方面に行きます。差し支えなければ湯と同行して福建方面の状況を観ていただきたい」根本らの意思を確認した以上、蒋介石は、その力をどうしても貸してもらいたかったのだ。

長かった日中戦争で、蒋介石は日本軍の実力はいやというほど思い知らされている。
なにより日本軍の規律と闘志は、国府軍を遥かに凌駕していた。そして、陸士、陸大を出た日本陸軍のエリートたちが立案する作戦に苦汁を嘗めつづけた経験は、蒋介石にとって忘れようとしても忘れられるものではなかった。

その中でも先頭を走りつづけた日本の将軍が、命を捨ててわざわざやって来てくれたのである。これに「力を貸してもらう」ことに、誰に異存があろうか。

蒋介石は、風雲急を告げる福建攻防戦に、根本らの力をどうしても借りたかったのである。

根本は、蒋介石の要請に対して即座に、「私は、福建でもどこでもまいります」と、快諾した。同席した吉川大佐も、大きく頷いている。

蒋介石は感激した面持ちで、「ありがとう、ありがとう」と繰り返した。
「顧問閣下」の誕生である。
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