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 イメージ 2湯は、以後、根本を「顧問閣下」と呼ぶようになる。根本を蒋介石から「借り受けた」という意識で常に根本と接するのである。

作戦立案をはじめ、湯は、根本の考えをどの幕僚のものより尊重するようになる。日常の生活においても、食事の際には一番の上席に根本を座らせ、風呂ですら根本が先に入らなければ、自分が入ることはなかった。根本が恐縮して辞退しても、湯はそれを許さなかった。そこまで湯は「根本中将」を尊重したのである。
 顧問閣下 林保源=根本中将        

イメージ 3それは、秀才と謳(うた)われ、日本の明治大学と陸軍士官学校に学んだ親日家湯恩伯の面目躍如たるものだった。
およそ一時間の「蒋・根本会談」は終わった。

根本らが辞去する際、蒋介石は、来た時以上の堅い握手を交わした。
「くれぐれも暑さに気をつけてください」蒋介石は、そう労うのを忘れなかった。
 
湯恩伯将軍
蒋介石にとっても、劣勢の国府軍がまさか根本が加わっただけで「勝利を得る」とは思っていない。だが、「何かが起こるかもしれない」という祈るような気持ちであったことは間違いないだろう。

こうして、根本らは、八月下旬、湯恩伯に従い、廈門(アモイ)に同行することになったのである。
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心配りはそれだけにとどまらなかった。一か月の小遣いとして根本には銀百元、吉川(民間人で、根本中将配下の対中国情報部員)には銀八十元、吉村と浅田哲大尉には銀五十元ずつ、さらに、まだ若い岡本秀俊少尉と中尾一行曹長、そして民間人の照屋林蔚(沖縄の女傑として有名な実業家 照屋敏子の夫)には銀三十元ずつが渡された。これは湯恩伯の指示によるものだった。

二十一日には、湯恩伯総司令が着任した。さっそく湯は根本らに軍服を新調することを命じた。彼らを幹部たちに紹介するためである。

根本らは、劉少将の案内で洋服屋、靴屋に行き軍服、帽子、靴などを注文した。将校用の茶色の国府軍の軍服に袖を通した一行は、身も心も引き締まった。
湯は、蒋介石の意向として、それぞれに中国名を賦与した。名前は、蒋介石自らが考えた、とのことだった。
根本博は「林保源」、吉村是二は「林良材」、吉川源三は「周志淑」、浅田哲は「宋義哲」、岡本秀俊は「陳萬全」、中尾一行は「劉台源」、照屋林蔚は「劉徳全」であった。

もはや「日本人」ではない。国府軍の「軍人」としての地位が彼らには与えられたのである。

新軍装に身を包んだ根本は、湯恩伯総司令と共に前線の各兵団を巡視するために出発した。
湯総司令は、各兵団長と会見する際、必要に応じて林保源こと根本博を幹部たちに紹介していった。もちろん、紹介された名は、「林保源」である。だが、根本に語りかける時、湯は「顧問閣下」と呼び、敬意を払うのを忘れなかった。

兵団長たちは林保源将軍こと、根本博に最敬礼した。もちろんこの人物が、終戦時に北支那方面軍司令官として、降伏文書にまで調印した日本側の要人であったことなど、誰も知らない。

しかし、総司令・湯恩伯の態度から、極めて重要な人物であることだけは明らかだった。
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総司令と、その総司令さえ一目置く顧問閣下。
二人の巡視を受ける兵団長たちは、いよいよ戦闘が迫っていることを肌で感じとっていた。
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廈門(アモイ)からの撤退

廈門は、福建省の中でも有数の商都であり、同時に軍の要衝でもある。

十七世紀に、かの鄭成功が本拠としたこの島は、東南アジア貿易で繁栄した歴史を持つ。十九世紀半ばには、アヘン戦争でイギリスに占領され、そのため、外国人に対して廈門港が開放された。
島の繁栄は、頻繁に出入りする外国船によって盤石になるが、栄えれば栄えるほど諸外国が触手を伸ばしてくるのも、また必然だった。

一九三七年、盧溝橋事件で日中の全面戦争が始まると、翌年には日本軍が廈門を占領している。そして、日本の敗戦までは日本海軍の支配下で商業、軍事両面で重要な港湾都市として栄えるのである。

根本が湯総司令と共に巡視した時、商民だけで、ゆうに二十万人を超える人間が島内に生活していた。

根本には、即座に「この島は守れない」ということがわかった。
島とはいえ、大陸からわずか二キロしか離れていない。しかも北、西、南の三方が大陸と向かい合っている。

三方から総攻撃を受ければ、ひとたまりもない。まして敵は勢いに乗っている共産軍である。

商業都市は食糧の自給もできないため、持久戦にも適さない。この島に固執すれば、廈門、金門は一挙に敵の地に陥ちるだろう。最初の巡視で根本には、それがひと目で見てとれた。

しかし、これは迂闊には口に出せないことだった。「廈門放棄」とは、福建攻防戦の敗北をそのまま意味する言葉だからだ。国府軍内部に計り知れない動揺が起こることは間違いない。

廈門は、それほど重要な地だったのである。

だが、前線の配備の概要を視察した根本は、いつかはこれを湯総司令に進言しなければならない、と思った。それが軍事顧問である自分の役目である、と。その時、湯はどういう反応を示すだろうか。根本にも、それは予想がつかなかった。

廈門の視察が終わると、次いで金門島を視察した。廈門と金門島との間には、いわゆる小金門島がある。一行は、ここには寄らずに先に大金門島に上陸した。

のどかな漁村がそこにはあった。説明によれば、全島が、おもに花崗岩から成る島であり、これといって農業には適さない島である。

根本は、金門島に、守備部隊が置かれていないことに仰天する。

湯も同じ思いだったらしい。ただちに自分の唯一の直轄兵力である衛隊一個団の中から、二個営を大小金門島の警備に投入した。湯はすでに、金門島には一個営を置いている。「営」とは「大隊」に相当し、四百人から五百人の兵力を有するに過ぎない。
根本中将は単なる軍事官僚ではなかった、諜報や分析に長けた戦略家であった。金門島の人口は公称10万であったが、出稼ぎに行って実数は4万人に満たないこと、土地は痩せてはいるが、甘藷や雑穀が取れ、孤立しても自活できる島であること、かつて侵攻する清を鄭成功が金門島に本拠地を置き、廈門を対清レジスタンスの前進基地とした理由を理解した。
 
根本中将は廈門を放棄する苦渋の決断を湯総司令に求め、湯総司令は金門島を台湾防衛の拠点とする苦渋の決断を下した。
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古寧頭(こねいとう)の戦い
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根本は、吉川源二中佐を日本に帰国させた九月以来、金門の一戦に希望をかけて日夜、島内を巡視し、陣地の構築、交通路の整備、飛行場の開設などに邁進していた。

洞窟や岩陰に至るまで、根本は見逃さず、指示を与えた。海軍を持たない共産軍は、近辺の漁村からかき集めた小型の木造漁業帆船(ジャンク船)を連ねて、海峡を押し渡ってくることは確実だ。彼らにとって、それ以外に金門島攻略の方法はない。

唯一、戦力が上まわる海軍力をもって、上陸を阻止するのか、それとも上陸させてから殲滅するのか。これは、どんな名将であろうと「判断に迷う」ものだった。

海で戦えば一時的な勝利はできるに違いない。しかし、敵の損害は少なく、そのため長期にわたって金門島を防衛しつづけるのは不可能だろう。夜陰に乗じて仕掛けてくる敵の襲撃から、周囲を海に囲まれた金門島を守り抜くことは到底できないからだ。

最も望ましいのは、敵を上陸させて大兵力を「一挙に殲滅する」ことであるのはわかっている。雌雄を決しなければ、一時的な勝利では金門防衛戦は「成功」とは言えないからである。

しかし、言うまでもなく、それはイチかバチかだった。果たして、自分は国府軍を勝利に導くことができるのか竈そのためにはどうすればいいのか。
根本は考えつづけていた。なかでも、共産軍が海峡を押し渡る時に使う船をどうするか。その処置が最大のポイントと言えた。

敵船を対岸に戻してしまえば、増援部隊がやって来る。また戻れば、さらに増援部隊が来る。

つまり、船を返さないこと、すなわち「焼き払う」ことさえできれば、金門防衛戦を勝利に導くことができる。根本はそう考えていた。
そのためには、油をどこに隠し、どう兵員を散らして一挙にこれを焼き払うか。そこに勝敗の帰趨がかかっている。

根本は、海岸や岩陰に穴を掘ることを考えた。塹壕である。ここに兵を潜伏させるのである。

塹壕戦は、日本陸軍が得意とする戦法だ。戦車など、敵の兵力が上まわっている場合、日本兵は必ず塹壕を掘って土に潜った。

大きな塹壕を掘ることができない場合は、兵一人一人が自分が入るだけの穴を掘り、そこでひたすら戦闘のその時まで耐え忍び、敵戦車や歩兵が接近してから戦うのである。

根本の指導は、どこに塹壕を掘り、どこに兵を潜ませるか、という具体的で細かな点に及んだ。敵が海岸に船を乗りつけて上陸する時、敵兵が前進するや、海岸や岩陰に穴を掘って隠れていた者がすぐに敵船を襲撃するのである。そして、帆と舵と擢に油をかけて「焼き払う」のだ。

ジャンクが帰れないようにすれぱ、後続部隊の輸送を阻止できる。そうなれば、上陸した敵兵は袋のねずみだ。兵士に動揺も走るだろう。
根本はそう考えて陣地構築と塹壕戦の指導をおこなった。
 
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根本は、敵上陸地点を金門島北部の中心・后江湾に面した砂浜と見ていた。
「敵はここから上陸して、島を東西に分断しようとするに違いない。後続部隊をどんどん送り込んで、中央部分から左右(東西)に攻め広げていく」
それが、根本の読みだった。
 
幸いなことに、敵は、敗走を重ねる国府軍を舐めている。十月一日には、すでに中華人民共和国の成立が、毛沢東によって全世界に向けて宣言されていた。
"内戦"は、すでに決着がついている。少なくとも世界のジャーナリズムはそう見ていた。
 
福建省のさらに果てまで、かつての中国の盟主・蒋介石の軍隊は追い詰められているのだ。
一度、大勢が決した戦争が逆転することは、歴史が物語る通り、あり得ることではないのだ。
しかし、だからこそ相手は油断している。そこにつけ入るスキがある。根本はそう考えていた。
 
船さえ焼き払えば、こっちのものだった。増援部隊が来なければ、敵の火力はたかが知れている。ジャンク船で運んで来ることができるのは、兵隊だけだ。銃かそれに類するものしか火力はないだろう。もしそうなら、こっちには戦車もあれば、野砲もある。火力では圧倒的にこっちが有利だ。上陸させた敵を海岸線から引き入れて包み込めば、一挙に殲滅できるはずである。
 
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根本の頭にあったのは、毛利元就の「厳島の戦い」である。この戦国の名将は、中国地方の盟主となっていた陶晴賢の大軍を厳島に誘い込んで撃滅した。
元就は、陶晴賢の軍を厳島におびき寄せるためにあらゆる謀略情報を流した。その上で大軍を殲滅した戦いは、「海上」ではなく「陸上」であったからこそ可能だった。敵の第二、第三の波状攻撃を防ぐためには、敵の大軍を誘い込んで一挙に全滅させるしかない。
 
根本は、この厳島の戦い を念頭に置いていたのである。
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そして、共産党軍は実際に上陸すると、ことの見事に根本中将の罠にかかった。
塹壕に隠れた国民党軍にジャンクを全て焼き払われ、退路を断たれ、新たな援軍も補給も来ない。それに加えて金門の熊と称された米国製M5A軽戦車が八面六臂の活躍をして、火力を持たない共産党軍は悲惨な運命を辿りました。
 
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 M5A軽戦車
 
イメージ 11共産党軍は追い詰められた古寧頭村に村民を楯に抵抗しはじめた。根本中将は巻き添えで一般の村民が大勢死ぬと判断し、包囲していた海岸部分を開け、退路を開いたうえで、反対側から猛攻を加えた。共産党軍は古寧頭村から海岸線へ撤退させることに成功し、村民の犠牲を最小限におさえた。
 
日没後、今度は海より海岸の共産党軍へ砲艇から砲撃し共産党軍は殲滅された。
後退に後退を重ねた国民党軍が初めてと言っていい大勝利だった。
 
その後、根本中将が築いた金門島は共産党の進撃を止め、台湾を共産党の侵攻から防ぐ要塞となった。
 
その後1958年8月23日に勃発した有名な金門砲撃戦にも金門要塞は持ちこたえ台湾を防衛したのである。
 
根本中将は廈門を放棄し金門島を防衛する決断を下し、台湾を共産党から防衛する事に成功し、蒋介石から受けた恩義を見事に返したのである。