
第5章『無理数」で読むホモ・エコノミクス113
――効率では割り切れない
――効率では割り切れない
p113
今度は、主流のエコノミストが経済を含理的で効率的と見ることに注目しよう。これは、個々の投資家は含理的に意志決定するという考えに基づいている。こんな見方をするエコノミストは、久しく買い物をしていないらしい。経済的な判断をするときに、論理や理性を便うことは確かにあるが、他の人の意見や広告に左右されることもあるし、とくに理由もなく頭に入り込んでいる、ランダムな強迫観念に左右されることもある。実は、市場の存続は、信頼や自信といった感情的なものに依存している。信頼なしには信用もなく、自信がなければ危ない橋も渡れない。本章では、経済学理論が含理性に力点を置いても、現実世界では通用せず、エコノミストどうしやエコノミスト教育で通用する話であることを示し、金銭は情緒的なものだという事実を考慮に入れた新たな経済を論ずる。p129-131
p136-137カーネマンとトヴェルスキーは、長く共同研究を続ける間に、私たちは含理的に意志決定するという新古典派の前提に対してもろに疑問を投げかける結果をいくつか見いだした。平均人なるものがあるとすれば、それには明瞭な心理的な偏りがあるのだ。たとえば、損と得に対する態度が対称的ではない――損に対する方がおよそ二倍敏感になるので、リスクは避けようとする。最近の出来事によって方向が偏るので、このところ市場が上昇していれば、その流れが続くものと予想する。変化を嫌い、所有しているものは、同等のものと交換するより手許に残す方を好み、長年信じていることを放棄するのを嫌う。極端なことが起きる可能性を過小評価し、そういう出来事に対処する自分の能力は過大評価する。
人が集まれば意志決定がもっと上手にできて、何らかの形で人はそうしていると思われるかもしれない。しかしカーネマンが明らかにするところでは、「ある集団の全員に同様の偏りがある場合、集団は個人より劣る。集団はもっと極端になる傾向があるからだ:・…多くの場面で、リスクシフトと呼ばれるリスクを冒すようになる現象がある。
つまり集団は個人よりも危ない橋を渡りやすい」。集団は、楽観的になって、疑いを抑圧し、集団思考を見せる傾向もある。市場のようなもっと大きな非公式の集団では、これが群衆行動に置き換わる。投資家が一斉に市場になだれ込んだり引き上げたりするようなことだ。
カーネマンとトヴェルスキーは、行動経済学の分野を生み出すのに貢献した。この分野は近年、さらに新しい神経経済学という、脳をスキャンして脳が経済的判断をどう取り扱っているかを明らかにするなどの手法を使う分野によって補完されている。スキャンしてみると、たとえば報酬の約束は、その報酬がすぐ得られるか、後になるかによって、脳に影響する部分が異なる。すぐに報酬が得られる場合の方が強い反応を引き起こす。だから人は老後のために十分な蓄えを残さないのかもしれない。
実は、補経学的な理由で感情の情報を処理できない患者を調べると、感情的な入力がないと意志決定はきわめて難しいことが示される。私たちが、新古典派モデルが求めるような、本当に無限の計算能力があって感情がないとしたら、株を買うこともできないだろう。
バブルのことは言わない
行動経済学や神経経済学での発見は、金融システムの見方を変える。マネタリストの論じ方では、インフレが定着し、政府のコントロールが効かないのは、労働者は合理的にインフレが続くと予測するからで、そのため労働者は賃金の引き上げを要求する。しかし先のシステムー現象と見ることもできる。インフレーションが何年か続くと、それを無作為な出来事とは見ず、定着した流れと見る傾向がある(これは、不十分な数のデータに基づいてパターンを見るという、少数の法則の典型例)。同時に、私たちの価格上昇の感じ方は、アンカリング慣れた価格と比較し、変化に敏感になる――にふりまわされる。損に偏って反応する姿勢は、麟買力の低下の方が賃上げより重く見られることを意味する。他の労働者の賃上げ交渉を見れば、自分は取り残されるのではないかと恐れる。その結果、正のフィードバックが生じ、インフレがインフレを呼ぶ。当然、通貨供給や経済の全体的な状態など、他の因子の出番もあるが、人間側の問題は、単に合理的な期待だけにあるのではない非合理な期待も問題なのだ。(略)信用収縮を経て、こういう懐疑論はやっと変わるかもしれない。シラーは住宅バブルを警告した数少ないエコノミストの一人だった。リチャード・セイラーも行動経済学を唱え、著書『実践行動経済学』は、オバマ政権にも影響を与えている。そのセイラiが二〇〇九年の『フィナンシャル・タイムズ』紙に、「従来の経済学は、人がきわめて合理的-超合理的1で感情がないものと仮定している。そこで仮定されている人々はコンピュータのように計算し、自己抑制にも問題はない。食べ過ぎもせず、飲み過ぎもせず、老後のために貯金をして、ちょうどいい額を貯めるーまずどれだけ貯金す必必要があるかを計算し、宗教のようにそのための額をとっておく。実際の人間はそんなものではない」と語っている。したがって政府は、人々が健全な金融的意志決定をするよう「仕向けてやる」ことを考えるのがよい。たとえば、何もしなければ老後の計画に加入するようにしておいて、そうしたくないと思う労働者はそこから脱退することを選ばなければならないというように。
もちろん、これがケインズ的で政府がいちばんよくわかっているという考えだと思う人もいる。確かに、行動経済学者が合理的思考の経済学者や政府の立案に携わる人々の間に一定の支持を勝ち取った理由の一端は、それが直感的なシステム1行動人間がしぱしぱ見せる部分――の否定的な面に注意を向ける傾向があり、論理的なシステム2行動の欠点――問違ったリスクモデルや政府の計画によってしはしは明らかにされるものを小さく見るからだ(後で見るように、フェミニスムのエコノミストなど、人間の感情のようなものにもっと積極的な出番を割り振ってきた人々は、状況をもっと厳しく見ている)。論理がいつも直感より優れているわけではないし、厳密に合理的と見える行動も、もっと広い文脈の理解と結びついていなければ、破壊的で不合理だったということにもなる。ナッジングの方が強制よりいいかもしれない理由の一つはそれだ。
行動心理学を採り入れるのにいちばん熱心なのは、市場で商売をしたり広告をしたりする人々らしい。神経心理学者のデーヴィッド・ルイスが記すところでは、購買の決断は、事後的に合理化することがあるとはいえ、「論理的というより感情的で、脳のいちばん古い部分で生まれる」という。小売業者や広告業者は、その点を理解するうえではエコノミストよりずっと先を行っている。買い物が考案されて以来、売る方が私たちに買うよう仕向けているからだ。たとえば、クレジットカード会社は、販売会社にお金を出し、ダイレクトメールを出す一週間ほど前に、将来の顧客に電話をかけさせ、何も知らないふりをして近い将来大きな買い物をされる予定はありませんかと訊ねてもらっておくと、送ったダイレクトメールヘの反応が良くなることを知っている。
エージェントベース.モデルは、明らかにこの問題点を免れておらず、現実経済のいくつかの面を捉える不完全な図と見るのがせいぜいのところだ。しかし、多数のエージェントを入れている場合が多いといっても、それで必ずしも、従来のモデルより複雑だということにはならない。エージェントはたいてい、あまり数の多くない命令で記述されるからだ。複雑系の特性は、局所的な水準でシステムを記述する規則はきわめて単純なのに、そこから驚くほど豊かな動きが創発的に出現することがある点だ。エージェントベース・モデルは、予測可能なポケット、つまりパラメータを変えてもあまりぶれない〔そのため予測しやすい〕特徴を特定するのにも使える。有効な使い方の一つに、まず詳細なモデルを作り、それを使って、創発的に出現する動きの面をとらえるもっと単純なモデルを導くとい
うのもある。
しかし、経済的予測の主な問題点は、モデルが単純かどうかということより、株式市場の暴落などの経済に特徴的なことの多くが、もともと予測できないということに関係している。モデルのねらいは予測できないことを予測することではなく、金融システムがもっと堅牢になるように設計するのを助けることであるはずだ。正統的なモデルは、投資家の非合理、群衆行動、破壊的なフィードバック.ループなどの作用を無視し、その緒果、金融システムの破綻がそれぞれ、まったくの予想外のこととして出て来るように見える。安定し、ノーマルで、合理的であることにこだわることで、モデルは私たちが誤りから学ぶことを妨げ、そのため、独自のリスクを生んでしまう。
ほんの何行かのプログラムで現実の人々のふるまいを現実そっくりにまねられるモデルは決して出てこないだろう。人間の脳は知られている中ではいちばん複雑なものだ(少なくとも私たちの脳はそう言う)。しかし欠点はあっても、トレンドに追従するような現象を説明する粗いモデルや不完全な情報でも、現在の方法を大幅に改善できるだけの良さはあるかもしれない。工ージェントベース・モデルは、都市での交通の流れのような創発的なふるまいを、ドライバーそれぞれの頭の中にあることをシミユレートしなくても、役に立つ形でシミュレートすることができる。またそれと同様に、個々人の意志決定について知らなくても、通貨の流れのある面をモデル化し、金融市場の構造を改善する助けになることもできる。

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