
――成長し続けるという誤解
エコノミストは、経済成長はめいっぱい大きくすべきことだと教わるしかし生態学者や環境保護論者は、いいことずくめというわけにはいかないと思っている。エコノミストが用いるモデルは、いくつかの細部――氷山が解けること、資源が澗渇すること、こうしたことに関する将釆の世代の意見など――をしかるべく計算に入れることをしない。実は、本当の信用収縮は、銀行に関係するものではなく、環境にかかわるものだ。何世紀かの間、私たちは森林、海、燃料資源、他の生物種を酒渇させてきて、そろそろそのつけを払わなければならない。本章では、エコノミストが後生大事にする経済成長という信仰が、私たちはもっと大きな生態系の一部にすぎないという現実と衝突しつつあることを明らかにする。また、この対立を解消し、金融シスデムを他の世界とつりあわせる新しい経済の進め方を探る。
2006年以降世界各地で蜂群崩壊症候群(ほうぐんほうかいしょうこうぐん、Colony Collapse Disorder、CCD)が確認されている。CCDとは一夜にしてミツバチが原因不明に大量に失踪する現象である。「疫病説」(イスラエル急性麻痺ウィルス (IAPVなど)、「栄養失調説」、「ネオニコチノイドやイミダクロプリドなどの殺虫剤説」、「電磁波説」「害虫予防のための遺伝子組み換え農作物説」、「ミツバチへの過労働・環境の変化によるストレス説」など様々な説が科学者より提示されているが、原因は依然特定されていない。
閉じた経済
人々は、地中から原油を掘り出すようになってからほとんどずっと、「原油の頭打ち」を心配してきた。しかし、供給澗渇についての過去の心配が外れ続けたからといって、いつかそうなることを免れられるわけではない。炭素燃料との長いつきあいも後半の段階にさしかかっていると考えるのは、妥当なことに見えるし、ジェヴォンズにはわかっていたように、エネルギー供給は、私たちの長期的未来にとっては不可欠だ。ところが奇怪なことに、主流派の経済理論は、原油のことも、魚のことも、ミツバチのことも、あるいは人間世界の外にある何についても、ほとんど何も言ってこなかった。こういうところが、そうしたものの価格が実際の価値を反映していない理由の一つだし、経済は永遠に成長できるという神話を支えるのもそれだ。
新古典派経済学は、人間行動の数理モデルを再現している。システム学者のジョン・D・スターマンの見るところでは、「モデルで最も重要な前提は、方程式の中にはなく、そこにはないものが重要だ。その説明書きにはなく、語られていないものだ。コンピュータのディスプレイに現れる変数にはなく、その周囲の空白にあるものだ」。その新古典派経済学には見あたらないものの一つ――大きな一つ――として、地球の他の部分が挙げられる。新古典派経済学は、人間の経済が、生物(ミツバチや小麦など)、生物による産物(蜂蜜や原油など)、生活に必要な資源(真水など)からなる生命圏の中にあることを、完全に無視する。伝統的に、エコノミストは生産に三つの因子――土地、労働力、資本――を見ていた。ところが、新古典派経済学では、労働力と資本だけが重要な役割を演じている。自然資源はリストから除外されるか、おざなりに言及されるだけだった。一九七四年、ある「桂冠」経済学者は、「世界は実は、天然資源なしでもやっていけます」とさえ言っている。人間の工夫と技術が、必ず代替資源をもたらすことができるからだという。ジェヴォンズの限りある世界で指数関数的に成長するとどうなるかという心配は、新古典派経済学には含まれなくなった。天然資源について考えるときは、それが基本的に無限であると仮定された。エネルギー経済学者のモリス・アデルマンは一九九三年、「鉱物は無尽蔵で、洞渇することはない」と書いた。「投資が続けば、証明されている埋蔵量にプラスアルファを生み、地中にある巨大な在庫量は、掘り出されてもその一方で絶えず更新される。……当初どれくらいあったとか、最後にはどれだけ残っているかというのは、わからないし、どうでもいい」。ジルニフヴォーの指摘では、マンキューの今も用いられている教科書『マンキュー経済学』にすら、経済成長に関する章に天然貸源や工ネルギーは出て来ない。その結果、「天然資源は問題になりえないー経済学者にとってはそうなのだ」。この省略の根底は・一種の否認だ・生態経済学者のハーマン.デイリーは著書『持続可能な発展の経済学』で、一九九二年の世界銀行の報告に関する作業をめぐる話を語っている。その報告は「開発と環境」というテーマだった。草案の段階では、経済と環境の関係についての図が入っていた。そこには、「『経済』を四角で囲んだものと、『入力』と書いた、入ってくる矢印と、『出力』と書いた、出て行く矢印が描かれていた1それだけだった」。デイリーは、少なくとも、経済を囲む四角を囲んで、環境というもっと大きな四角があるべきではないかと言った。次の段階の草案には、大きな四角はあったが、それには何の表示もなかった。デイリーは、「その大きな四角には、『環境』とついていないといけません。でないと、ただの飾りです」と指摘した。その次の草案では、図全体が消えていた。まるで経済学は現実から遊離して、超越してしまったあまり、物理的な世界がなくてもやっていけると考えているかのようだ。
この特異な姿勢のわけは、ジェヴォンズらの成果から派生した、経済は美しく調整された機械だという思想に根さしている完壁に調整された法則に従って動作する、閉じた装置ということだ。この装置は、走らせるためにもちろん燃料を必要とし、動きをなめらかにするために油も差さなければならないが、それは開けた市場で幅広い供給者から自由に入手できる。そうしたものの地中にある蓄えは、エコノミストにとっては、ランボルギー二のオーナーにとってガソリンの備蓄がどれだけあるかというのと同じくらい、心配の種にはならない。それは当然にあるものと思われているだけだ。
理論によれば、この閉じた経済システムの中では、「需要と供給の法則」が資源を装置の各部品に適正に配置する。しかしこの「法則」は、人間の経済の中では少々暖昧にでも使えるが、自然世界での経済の範囲ではまったく成り立たない。経済には、海に魚が何匹いるかとか、地中に原油がどれだけあるかを正確に測定する方法はない。供給のコストは採掘のコストだけを計算に人れる。それだけでも多数の因子に左右されるし、欠乏の尺度まで得られるように調節するのはすんなりとは行かない。
漁師がグラントハンクスでの漁をやめたのは、費用がかかりすきるからではなかったある年、魚が全然いなくなったから、やめたのだ。
実は、デイリーが記すように「資源価格は大部分、窓意による1めったに認識されることのない事実だ」。敏感と見られている自由市場で価格が出していた信号は、そのふるまいが少々逆説的だっただけでなく、完全に歪んでいた。二〇〇八年の商品市場での価格を眺めわたしてみるとよくわかる。

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