東京電力福島第1原子力発電所の事故後も、耐震性を中心に、日本の原発技術に対する新興国の信頼は揺らいでいない。一部先進国で脱原発の動きが強まるものの、経済成長を支える安定的な電力供給へのニーズを背景に、原発導入を計画する国は拡大している。政府は、東日本大震災後の国内経済の立て直しにもつながる原発輸出戦略を引き続き推進していく考えだ。いきなり本書と関係ないニュースと思われるが、本書の主題は宮崎駿の大きなテーマは共生であることだ。
「これまで通り連携」
「脱原発に向かっているのは元から原発に懐疑的だった国。多くは日本に期待してくれている」。資源エネルギー庁幹部は、福島第1原発事故後の世界の原発ニーズをこう分析する。
昨年10月に日本と原発建設で合意したベトナムのハイ副首相は5月下旬、東京で海江田万里経済産業相と会談し、「これまで通り日本との連携を進めていく」と表明した。トルコやヨルダンも日本との原発交渉を継続する方針だ。
これらの国が日本に期待するのは、日本の原発がフランス、ロシア、韓国など地震の少ない国の原発に比べ、耐震性などの基準が高いと評価しているからだ。特に、日本と同じ地震国のトルコやヨルダンの信頼は厚い。
増大する需要
新興国には「大量の化石燃料が必要な火力発電だけでは、電力需要に追い付かない」(資源エネルギー庁)事情がある。日本エネルギー経済研究所の村上朋子・原子力グループリーダーは「東欧では、エネルギー源のロシア依存から抜け出そうという安全保障上の理由からも、原発志向が強まっている」と話す。
日本の原発関連企業も、動きを再開した。日立製作所は1日、米ゼネラル・エレクトリック(GE)との合弁会社がリトアニアの原発計画に応札したと公表した。この計画には、東芝も米子会社が応札している。
三菱重工も、平成26年度に原子力事業の受注額を6千億円に拡大するという目標を維持し、今後は全体の6割を海外で稼ぐとしている。
国際的な責任
先進国ではドイツ、イタリア、スイスなどで脱原発の動きが進む。ただ、米国、フランスといった原子力大国や、電力不足に悩む中国やインドは原発推進の姿勢を変えていない。「世界的にみれば安全性を確認しながら原発を利用していく国が圧倒的多数」(村上氏)だ。
日本が原発輸出を控えれば、代わりに中国やロシアの原発が増える。経産省には「安全な原発の普及は日本の国際的な責任」との声もある。しかし、事故後に東電が海外事業を縮小するなど、建設から運転・管理までサポートするソフト面での態勢が整わなくなっており、「原発を初めて導入する国のニーズにどう応えるか」、新たな課題も浮上している。
映画もののけ姫において荻原氏の分析では「人間と自然の共生」だけではなく「漂白民と定住民の共生」「障害者との共生」「男女の共生」の四つが描かれています。
風の谷のナウシカでも「人間と二つの自然(普通の自然と腐海)また、ナウシカや紅の豚、天空の城ラピュタ、ハウルの動く城などでは機械との共生が描かれています。
それならば人類と原子力の共生は可能なのか・・・宮崎駿がどう考えているかまずは下の動画を見て下さい。
(※Yahooブログの皆さん!Google動画もこのブログに貼れました!知りませんでした!)
1995年ちょうどオウム事件があった頃にチャゲ&アスカとのコラボで作られた実験映画On Your Mark この解釈をめぐって様々な解釈がされています。なかには原発擁護動画を作ったことを謝罪しろと酷い無責任な意見を言うひともいます。
宮崎自身は下記のように言っています。拡大(クリック)してお読み下さい。

残念ながらOnYourMarkは本書では取り上げていない。宮崎駿の原発に対する微妙な気持ちや葛藤が想像できる。
3.11後スタジオジブリに横断幕が掲げられた。
あくまでもスタジオジブリは、完全原発を否定しているのではなく、緩やかな希望である。
しかも、汚染土壌を浄化する腐海ならぬひまわりが描かれている。
私だって、他に安定的に電気が供給される方法が確立されたなら
原発の電気ぬきの生活がしたい。
だが、そんなことは現状は非常に厳しい。現実的には原発との共生を探るべきだと私は思うが、宮崎駿やスタジオジブリも同じ事を考えているのではないか?それがこの横断幕ではないだろうか?
本書で人間と機械との共生について書かれた部分も抜粋。
p108~112
いまやわたしたち人間は機械なしで生活することはできなくなりました。いまさらいうまでもありません。現代人は機械と「共」に暮らしているのです。たとえば、家のなかを見渡してみましょう。照明器具をはじめとして数多くの電気製品があります。ガス器具もあるでしょう。ゼンマイ仕掛けの時計もまだ使われています。
そして通勤、通学で利用される電車、自動車、自転車ももちろん機械です。工場に出勤すれば、周囲はほとんど機械ということになります(かくいうわたしもこの原稿をパソコンという機械で作成しています)。
これら機械と〈共生〉するとは、機械を嫌悪し、これを全面的に退けることではありません(かつて産業革命時のイギリスでは、機械に仕事を奪われることを恐れた職人たちが工場の機械を次々に打ち壊す出来事がありました。「ラッダイト運動」です)。また、機械との〈共生〉とは、(映画『モダンタイムス』〈一九三六〉のチャーリーのように)機械に振り回され、機械の奴隷となって人問性を失ってしまうことでもありません。大切なことは、わたしたちが人間らしさを失うことなく機械とうまく付き合ってゆくことです。それが「機械との共生」においてたいへん重要なポイントです。
ナウシカの愛機はメーヴェです。メーヴェにはエンジンがついています。しかし重さはわずか十二キロです。「凧」とよばれることもあります。風の力をうまく利用して飛ぶからです。ナウシカはむやみにエンジンを蒸かしたりはしません。彼女はガンシップをあやつることもできます。足をうまく使って操作することさえできます。そのガンシップは全長八メートルの戦闘攻撃機です。コミック版『風の谷のナウシカ』で、ガンシップについてナウシカは「なんてみにくい船かしら。私はメーヴェのほうが好き。ガンシップは風を斬り裂くけどメーヴェは風にのるのだもか……」(第一巻、三二頁)と語っています。
おそらくは機械といっても、メーヴェまでならよいのです。しかし速度が五百キロにも達するガンシップとなると、もういけません。さらにそれよりサイズの大きいコルベット、バカガラス、ブリッグなどとなると、もってのほかです。これらの巨大な飛行機は、あからさまに「みにく」くデザインされています。
たしかに宮崎駿にはエコロジストの一面があります。しかし「ディープ」なエコロジストではありません。「巨大産業社会」に対して宮崎は嫌悪感をいだいているようです。「僕はテクノロジーは好きじゃありません。仕方なく日本で一番燃費の少ない自動車に乗っていますけれど〔・・・・・・〕。」しかし、機械という機械をすべて憎んだり排除したりしようとしているわけではありません。たとえば、『天空の城ラピュタ』の企画原案には次のように記されていました。
機械がまだ機械の楽しさをもつ時代。科学が必ずしも人間を不幸にするとは定まっていないころ〔・・・・・・〕職工は腕を誇り、〔・・・・・・〕この世界に登場する機械たちは、大量生産の工場製品ではなく、手づくりのあたたかさを持っている。電灯はなく、ランプやガス灯であり、水道のかわりに、豊かな水をあふれさす泉や井戸があり、乗物たちは風がわりな手づくりの発明品揃いである。主人公の少年パズーが乗るオーニソプター(はばたき機)もそのひとつで、ナウシカのメーヴェと比すべき重要なキャラクターになる(宮崎駿『出発点』三九六頁以下)。
結果的に、「オーニソプター(はぱたき機)」は「ナウシカのメーヴェと比すべき重要なキャラクターに」はなりませんでした。しかし当初はそのようなキャラクターとして構想されていたのです。「手づくりのあたたかさ」をもった「発明品」としてイメージされていたのです。
「あたたかさ」をもった愛すべき機械……、「大量生産」品ではなく「手づくり」の一点物の機械…、それは宮崎作品にしばしば登場します。たとえばポルコ・ロッソの愛機サボイアS-21。真っ赤な翼の「きれいな」飛行艇です。この飛行艇については、「たった一艇だけつくられたんだが、あぶなくてとべねえってんで、倉庫で挨をかぶってたのさ」とポルコが語っています。セッティングが「過激」なので「離着水」がとくに難しいらしいです。
しかし、エンジンのほうが「いよいよいかん」とのこと。交換しなければならないのでしょうか。とにかく、西に遠く離れたイタリア内陸部、ミラノのピッコロエ場まで運ばなければなりません。
とりあえずはアジトを飛びたちました。が、やはり不調です。そこでやさしく声をかけてやります。「ミニフノまでもってくれよ、エンジンちゃん。」「いい子だ、ガンバレ、ホレホレ。」機嫌を取ってやると、やや調子を取り戻します。「そうそう、いい子だよ、エンジンちやん。」
ボロボロのオートバイだけどこだわって直し直ししてずっと乗っているとか、そういうのが好きですね。それはある種特別な関係がそこに発生するんですね。すると、僕〔宮崎駿〕の妄想ですけれども、あらゆる機械というのは〔……〕まったくの自己犠牲で動いてくれる。炎天下でエンジンを回していると、このエンジン、よく熱くても我慢しているなと思うことがありますね、時々エンコすることもあるけれど(稲葉振一郎『ナウシカ解読ユートピアの臨界』窓社、一九九六年、二〇六頁)。
宮崎駿は機械に対して擬人化した愛着がある。
では原発も量産された機械ではない。ならば手作りの一品の機械のようだボロボロだが直して使おうと彼は考えているだろうか?
未来少年コナンに登場する機械文明の象徴インダストリアは実は宇宙発電所の受信装置であり、その副動力エネルギーは原子力発電であった。未来少年コナンではその原発エネルギーをなんとか延命して使おうとする老科学者達の奮闘するシーンがあった。老科学者達は人類の残した文明を次の世代へと継承しようと奮闘するのだが、悪用しようとするレプカ。いかにクリーンエネルギーでも利用する者によって善にも悪になる。

宇宙発電所からエネルギーを受信する感動的シーン
原子力も「善」にも「悪」にもなる。原子力発電所は本来「善」であったはずだ。
宮崎駿もそう思っていたのだろう。機械(原発)自体は悪ではないはずだ。
原子力以外のエネルギー源があればそれにこしたことはない。未来少年コナンのインダスとリアの描き方が宮崎駿の考え方ではないだろうか?
そして、文明や原子力発電所も滅びたとしても地球はやがて回復する、機械や人類の文明すら地球の一部なのだ・・・それが宮崎駿の機械との共生思想の底流のような気がします。



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