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戦前の日本の外交は、陸海軍、国粋主義者、朝鮮独立テロリスト、米、英、ソ連、ドイツ、フランス、中共・国民党・・・そういった曲者達と、満州や大陸権益といった難題の前で、様々な駆け引きや苦闘していた。本書はリアルに解明している。著者井上教授はかなり意欲的に書いている。

例えば、松岡全権代表がリットン調査団の満州問題報告で国際連盟を脱会する経緯は私にとって目から鱗だ。松岡は脱会に最後の最後まで反対していたのだ。
p84-86
国際連盟総会が対日非難の報告と勧告案を可決しても、日本はこの決定を無視すれば足りる。
問題は起きない。ところがさらに日本の現地車が軍事作戦を始めると、国際連盟はこれを日本による新たな対中国武力攻撃と解釈して、第一六条に基づく制裁行動に出る。ここに日本にとって最大の危機が訪れる。同書の見通しの的確さはこの指摘にあった。

ジュネーヴでは松岡ら日本代表団も同様の見通しの下で、脱退回避に努めていた。ところが東京の外務省本省が消極的な姿勢になっていく。松岡は反問した。「第四項に移る場合、既に脱退の方針を御決定相成居るものと解し……差支無きや」。内田(康哉)外相は指示する。「最悪の場合、政府に於て脱退の決意を有することは申す迄もなき義なり」。松岡は私信に記した。「日本政府の御意向小生には頓と了解出来不申」。

「失敗した。失敗した。失敗した」

東京の外務省本省は悲観論に包まれていた。「一方には熱河問題もあることだし……いま三項によってあれこれしてみたところで無駄な話だ」。現地車の熱河作戦(万里の長城に近接する満州国の領土内にある熱河地方への侵攻作戦)の実行が時間の問題になっていた。

外務省は国際連盟規約解釈のプロ中のプロである。熱河作戦の国際的なインパクトが何を日本にもたらすか、知らないはずはなかった。内田外相らは考えた。このままだと規約第一五条第四項による決着へと向かう。そこに熱河作戦が始まればどうなるか。さきの小冊子があらかじめ注意を喚起していたように、第一六条の適用のおそれが出てくる。そうなる前に、日本から率先して脱退してしまえばよい。内田は指示しか。国際連盟臨時総会が対日非難勧告を採択するならば、脱退の意思表示として、議場から引き揚げる。

国際連盟臨時総会は、二月二四目、規約第一五条第四項に基づく対日非難勧告案の採択に進。

他方で極東からの急迫を伝える情報がもたらされた。熱河作戦の開始である。こうなると」刻も早く脱退しなくてはならなかった。

松岡ら日本代表団は、どうすべきか態度を決めかねていた。陸軍が派遣した要員のある者は「知らぬ顔の半兵衛を決め込めばよい」と言った。対日非難勧告が出ても、反対の意思表示をしたのち、国際連盟内に居残ればよい。そのような考えだった。外務省が派遣した外交官の方が脱退に傾いていた。本省と同じ認識である。意見が分かれるなかで、松岡はどちらとも意思表示ができず悩んでおり、迷っていた。


松岡は意を決した。本国政府に対する抗議の意味を込めて打電する。「事茲に至りたる以上、何~遅疑すら処無く断然脱退の処置を執るに非ずんば、徒に外間の嘲笑を招くに過ぎずと確信す。

東京の本省ははこれを抗議と受け取ることなく、渡りに船とばかりに脱退を指示する。内田外相訓令は用意周到だった。「反対投票に当りては単純なる引揚に非ることを示す趣旨の適当の声明をなすことと到度考なり」。松岡らが総会議場から引き揚げても、それは勧告に反対の態度を示しかにすぎず、脱退の意思表示ではない。

これと相前後して熱河作戦が起きればどうなるか。国際連盟側は勧告に不服なため、新たな戦争を開始したと解釈する。そうなれば対日経済制裁の最悪のシナリオとなる。このような事態に立ち至ることを避けるためには、脱退の意思表示として総会議場から退場しなくてはならなかった。

松岡は「堂々と」退場する。これは松岡のパフォーマンスではない。本省の指示どおりの行動だ
った。単に引き揚げるだけでは、「閉会に伴う当然の引揚と同一視」されるおそれがあった。脱退
の意思表示として引き揚げなくてはならない。この本省の指示に従って、松岡はやむなく、決別の
演説ののち、「堂々と」議場後方の出目へと向かった。引き揚げる際に松岡は独り言を繰り返しか。
「失敗した。失敗した。失敗した」。

欧州諸国との新しい外交関係の模索
p87
その後のジュネーヴ情勢
国際連盟のジュネーヴの総会議場から退場した松岡は、帰国後、ラジオをとおして国民に直接、訴えた。「私は徒らに彼等の認識不足を叫ぶことは出来ない。そういうことをいつまでもいっている人は、自分かヨーロッパの特殊事情の認識を欠いているのであります」。脱退の「立役者」として英雄となったはずの松岡が国民に求めたのは、欧州の複雑な事情に対する理解だった。

松岡は言う。欧州は「欧州人戦争の直前の不安な状態、及び危険な状態より、更に甚だしい状態」に陥っている。その上うな危機的な状況のなかで、「小国」にとって国際連盟は自国の安全保障の生入叩線」である。「小国」を非難するのは当たらない。欧州情勢を理解することが重要である、松岡はそう強調した。

これはに松岡の個人的な考えではない。外務省の基本的な立場と同じである。外務省亜細亜局第一課は、松岡へが総会議場から退場した翌日(二月二五目)付で報告書をまとめている。同報告書の脱退に至る経緯の説明は冷静で正確である。「今次聯盟の大勢を作れる小国側の態度は格別日本を憎悪し、支那を愛好すと云うに非ず」。事実、そうだったことは、すでにみたとおりである。
(略)

脱退後の欧州外交基軸
p90-94
 日本の欧州外交の基軸は、国際連盟脱退通告後も対英仏協調に変わりがなかった。イギリスとは翌年(一九三四年)にかけて不可侵協定構想が具体化する。日仏間でも両国は外交関係の部分的な修復を試みる。エリオ外相は、日中紛争をめぐる国際連盟におけるフランスの立場をあらためて説明した。「決して日本を目途としたるものに非ず。欧州に於て他日同様の事件発生を防止せんが為聯盟規約の完全なる適用を主張したるに過ぎず」。エリオは付け加えた。「日仏間の国交は依然親善関係を持続せんことを希望する」。

日仏外交関係の修復は二つの方向から進む。一つは満州国をめぐる経済協調の模索として始まる。もう一つは、対独警戒心を共通項とした、対ソ関係の改善による両国の間接的な接近である。

日本はこの年の秋、ソ連=満州国間の北満(東支)鉄道買収交渉の仲介国となって、満州国をめぐる対ソ外交関係の緊張緩和を図る。

ていた。松島(肇)駐伊大使は観測した。「独伊間特殊の交情関係に拘らず独蘇衝突の際伊国が中立を守るべきことを明にすることに依り独逸『ナチス』の蘇聯邦に対する無謀の暴挙を牽制するの効果ある」。
欧州情勢は複雑だった。この年(一九三三年)の秋にはイタリアが伊ソ不可侵条約案を提起し

このような状況のなかで、ドイツが国際連盟から脱退する。永井は日本がドイツと十把ひとからげにされたくはなかった。東京の本省が「日独黙約」説を打ち消し、ドイツの脱退によっても「日本の聯盟に対する態度に何等変更無きを声明」しかことを了解しながらも、永井はドイツに対する警戒を怠らなかった。

ファシズム国家への警戒
ナチスードイツに対する警戒は日本国内でも同様だった。欧米関係の外事警察は「最も当面的にして且重要性を有する」事項として、「軍事国情調査の防止取締」や「コミンテルンの赤化工作の防しに」などと並んで、「ナチス支部」の「活動に留意」することを挙げている。「其の趨く処を察知して川内に於ける安寧の維持に努むる」ことが目的だった。

~日本のナチス支部は一九三三(昭和八)年に、東京、横浜、神戸、大阪、九州に設けられる。
ズムはドイツ国民の政治的自覚より産れたるものとは思えない」。それでも政権を奪取できたのは、「彼ヒットラー一流の宣伝」によるとする。
党員数は合計で約二二〇名だった。これらをまとめる「全日本支部」は二年後に創設される。しかし具体的活動を開始せず、名目上京浜支部及阪神支部等を統轄するに過ぎざる実情」だった

その結果、どうなったか。同論考はナチズムを非難する。「ナチスはナチスの政敵を虐殺し、ドイツ文化の源泉たる学者を殺し、幾多の文献を焼却して愛国心を以ってナチスの専売と宣伝し、既に五百有余の法令を頻発してヒットラー一流の政治工作を実行しつつある」。

なぜドイツ国民はヒトラーを選んだのか。「大戦以来悲惨の極にあって藁をも掴む悲境のドン底にあるドイツ国民が、一時的方便として彼にドイツ及ドイツ国民の運命を托したまでである」。

同論考は繰り返す。「全ドイツ国民の心からなるナチスとは受取れない」。

ヒトラーに対する警戒は大戦百戦への警戒だった。欧州には「ドイツが又大戦争を始めやしないかと云う危惧」があるという。同論考はヒトラーの責任を追及する。「一九一四年から一九一八年に至る人我当時と同程度位にドイツをして諸外国に不評ならしめた其の責任はヒットラー政府である」。

二のようなヒトラーのドイツと日本が同じ「ファシズム」国家であるはずはなかった。しかももう一つの「ファシズム」国家イタリアの動向は、日独との利害対立を顕在化させかねなかった。

日本の国際連盟脱退に続いてドイツも脱退した。しかしイタリアは脱退しなかった。杉村(陽大川 但伊大使は以下のように観測した。「徒らに脱退して国際協力の埓外に孤立するよりも仏と結びて聯盟内に勢力を張る方有利なるべく:::伊は容易に脱退せざるものなり」。

p102-103
国際連盟脱退によって、日本は国際社会の孤児となった。この強固な歴史理解に対して、本章は別の見方を示した。国際連盟脱退をめぐって、日本と欧州諸国との相互理解が進む。

それでも脱退したのは、〈協調のための脱退〉と呼ぶべき歴史の逆説が働いたからである。

日本国内ではほばすべての主要な政治勢力が脱退に反対だった。ジュネーヴ情勢の緊迫化のなかで、脱退論を唱えるようになるのは、国際協調派の外交官である。彼らは考えた。満州事変の拡大にともなう対外危機(国際連盟やアメリカによる対日経済制裁)を回避し、自ら進んで脱退することで、満州事変を国際連盟の審議の対象から外す。そうすれば、国際連盟の枠外で欧米諸国との外交関係の部分的な修復が可能になる。

事実、国際連盟脱退通告後、状況は予想どおりに進展する。対外危機は沈静化に向かう。

日本は新しい地域国際機構の構想をとおして、欧州諸国と外交関係の再設定を試みるようになる。



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