
オサマ・ビンラディンが2011年5月2日パキスタンの首都イスラマバードから約60キロメートル北東にある町アボタバードの外れにある豪奢な邸宅で米海軍の特殊部隊に急襲され殺害された。
2001年9.11のテロ以降、CIAのビンラディン追跡専門チームが10年近くも追いながら、その姿をとらえることができなかった。
9.11が米国による自作自演のテロの噂の根拠の一つがオサマ・ビンラディンをCIAが匿っているのではないかという疑惑であった。
サウジアラビアでも有数の大富豪の御曹司がアフガンでの対ソ連義勇軍を組織し、ソ連退却後居場所をなくしたその残党の処遇のために反米思想を旗印とした組織
アルカイダを結成した。
母国サウジアラビアも追放されたビンラディンの軌跡をたどると、世間の陰謀論者が信じる9.11陰謀説の大部分は妄想の類であることがわかる。
しかしながら9.11についてはWTCビル爆破などという荒唐無稽な陰謀説を私は信じないまでも、何らかの当局の関与もしくは黙認については未だに疑念を棄てきれないでいる。
p40-46
アルカイダの誕生
アッサムはペシヤワールの「信奉者の家」創設の直後に、イスラム義勇兵を世界各地で募集し、ペシヤワールに送り込むための組織を設立し、「奉仕者事務所」(マクタブーアルーキダマット)と名づけている。
ビンラディンは当初はアッサムの使い走りのような存在だったが、やがて実家の財力とコネクションで、奉仕者事務所の中心的メンバーとなった。ビンラディン財閥の出先として中東各国に展開していたビンラディン商会の事務所が、その拠点に活用された。彼は要するに、風変わりなサウジアラビア人のスポンサーのひとりというポジションだったのだ。
ただ、これらの工作におけるCIAのカウンターパートナーはあくまでアッザムであり、ビンラディンが直接CIA工作員と接触したことはなかったようだ。
ビンラディンはまた、こうした活動と並行して、何度もアフガニスタンの戦場で実戦に参加しているが、とくに有能なゲリラ戦士というわけではなかった。かといって、アッサムのようにイスラムの深い神学を修めたわけでもなく、舌鋒鋭い演説が得意だつたわけでもない。
そんなビンラディンがアラブ人義勇兵の顔役として大きく成長したきっかけは、80年代後半にソ連でゴルバチョフによるペレストロイカがはじまり、アフガニスタンからソ連が手を引きはしめたことだっ。東西冷戦が急速に雪解けムードに向かい、ソ連軍の撤退が秒読み段階となったのだ。
そのため、10年近くも続いたアフガニスタン紛争は、結果的にはソ連軍が敗北し、ゲリラ側の勝利で終息する流れになった。それにともない、CIAはアフガニスタンから手を引きはじめ、海外からのゲリラヘの資金や武器の流れも急速に縮小していく。
アフガンーゲリラ各派は、ソ連軍撤退後の主導権をめぐって、今度は仲間内で熾烈な抗争状態に陥った。こうした状況に、もはや。ソ連軍から同じイスラム教徒を守る”という大義で集結していたアラブ人義勇兵の存在意義も失われた。
アラブ人義勇兵たちは、自らの新たな道を選択する必要に迫られたが、そこでビンラディンは路線の違いから、師匠であるアブドラーアッザムと距離を置くようになり、88年に仲間を集めて自らの組織を結成する。それが「アルカイダ」(拠点・基地という意味)だった。
湾岸危機で反米思想に目覚める
翌89年、アラブ人義勇兵の支柱だったアッサムは、ペシヤワールで何者かに暗殺される。CIAのウラエ作の詳細を知る人物がこの世から消えたことで、CIAはもう心置きなくこの地を去ることができた。
指導者を失い、さらにはそれまで戦士としてCIA資金やサウジ資金で生活していたアラブ人義勇兵たちは、戦争が終わってCIAが撤退すれば、もはやただの無一文の男たちだった。ビンラディンのアルカイダは、要するに、寄る辺を失った仲間たちの生活の面倒をみる組織として、事実上スタートした。
その後ビンラディン自身は、ペシヤワールで元義勇兵の生活支援組織を運営しつつ、89年中にはサウジアラビアに帰国、そのまま中東各地でのイスラム過激派勢力の支援に乗り出していった。
当時、中東各国では、アフガニスタンでともにソ連軍と戦ったイスラム義勇兵仲間が帰国し、それぞれの国で世俗的な勢力への批判を強めていた。元アフガン義勇兵たちは「自分たちはあの強大なソ連軍を倒したのだ」という自信に満ちており、次は中東全域をイスラム回帰へ導くという新たな目標を掲げていた。
この時期、ビンラディン自身もイエメンのイスラム過激派勢力支援に深く関わった形跡がある。
もっとも、こうしたビンラディンらの運動は、当時はまだ泡沫レベルであり、アメリカ情報当局もとくに注目はしなかった。ビンラディンの名前がようやくCIAに認知されたのは、おそらく90年秋頃のことだ。
その年の8月、イラク軍が突如クウェートを侵略し、いわゆる。湾岸危機”が勃発する。強力なイラク軍の脅威に直面したサウジアラビア政府は、防衛戦略として米軍の駐留を認めた。これに対し、強く反発したのがビンラディンだった。彼は「イスラムの聖地メッカを擁する王国の地に、異教徒軍を引き入れるべきではない」と訴え、「米軍を撤退させ、代わりに元アフガン義勇兵を中心とするイスラム同志軍を作る」との建白書を国王に提出した。
このビンラディンの提案は、あまりに突飛で、当然ながら退けられたが、それに不満を待ったビンラディンは、徐々にサウジ政権批判へと言動をエスカレートしていっだ。CIAはその頃、組織を挙げて中東・湾岸情勢の分析にあたっていたから、そんなビンラディンの動きもある程度は把握したはずだが、それでもこの頃はまだ、せいぜい。跳ねっ返りの御曹司”くらいに認識していたものと思われる。
母国サウジアラビアからの追放
一方、サウジアラビア政府はそんなビンラディンを持て余し、ビンラディン財閥本家を通じて圧力をかけた。ビンラディンはサウジアラビア国内に居づらくなり、 91年の湾岸戦争の後、当時イスラム原理主義政権が誕生したばかりのスーダンに移住した。
ビンラディンはこの頃から明確に、サウジアラビア政権批判に加え、アメリカ批判に転じた。80年代のアフガニスタンで、イスラム世界を侵略した共産主義者の軍隊と戦ったビンラディンは、90年代の次なる攻撃目標を、やはりイスラム世界を土足で踏み荒らしている欧米の異教徒たち、なかでもその筆頭であるアメリカヘと定めたのである。そこから、ビンラディンとアメリカの約20年にわたる死闘が繰り広げられることになる。
(略)
ビンラディンは、94年にはビンラディン財閥本家から絶縁を宣言され、サウジアラビア政府から国籍も剥奪された。彼が亡父から受け継いだ遺産の残金もサウジアラビア当局によって凍結されたが、彼にはすでに自前のビジネスによる豊富な資金源があり、その後も元義勇兵人脈の最大のスポンサーとして活動を続けた。
また、実家から絶縁されたとはいえ、サウジアラビア上流階級出身のビンラディンには、本国の富豪に知己が多くいた。縁者も含め、彼はそういった知人筋からの資金ルートをいくつか持っていたとみられる。
サウジアラビア情報機関GIDはおそらく、そうしたネットワークのいくつかを把握していたと思われるが、有力者一族に対する遠慮もあって、徹底的な取り締まりは行わなかった。GIDを長年統率してきた王族のトルキー・アルーファイサル王子は、CIAとも密接な協力関係にある人物だったが、ビンラディン情報はほとんどアメリカ側には伝えていない。
しかし、。イスラム過激派を支援するサウジアラビア人ビジネスマン”の存在を、その頃になるとCIAも。危険分子の予備軍”として、徐々に注目しはじめていた。
陰謀説の根拠の一つがビンラディン家とブッシュ家の繋がりであるとか、ビンラディンとCIAのコネクションであったが、CIAとの繋がりに薄く、サウジのビンラディン本家からも絶縁されていた。
ビンラディンはイスラム戦士の失業対策としてテロ稼業を始めた。冷戦の終結は同じく冷戦を戦った主役であるCIAもその存在意義を失いかけていた。
予算規模を削減されたCIAはその存在意義を対テロ対策にその活路を見出そうとしたのである。97年・99年にはCIAによるビンラディン暗殺計画が計画されたがパキスタン国内のクーデターなどで実現はしなかった。

コメント