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欠乏感の根っこを焼き払う

君が幸福であることができるようにと。
「欲しいよう、足りないよう、もっともっと」
と、君の中でうごめいている
欠乏感(たりなさ)という植物の根っこを掘って、焼き払うこと。
ビーフナ草という植物の根っこから香料を抽出したい人が
ビーフナ草の根っこを掘ろうとするかのごとく、
欠乏感という名の呪われた草の根っこを掘り崩すといい。
苦しみの悪魔がまたもや君をとらえて、
君の心を乱れさせることのないように。
法句経337

渇愛の根っこを掘り崩す

渇愛の荒れ狂った川の流れは、
癌があちこちに転移するのにも似て、
あっちへこっちへ流れていっては、転移する。
満たしたと思えばすぐに、足りなくなる。
その渇愛をごまかしたくて、
「あれが欲しい」
「もっとかっこいい仕事がしたい」
「みんなにもっと尊敬してほしい」
と、わがままという名の植物がどんどん生い茂っては君を苦しめる。
それらの植物が生えたことに、君がはっと気づけたならば、
智慧のスコップでその植物の根っこを掘り崩すように。
法句経340

歪んだ愛情という呪縛

家族や恋人や子飼いの部下など身近な人々に対しては、
愛情があるからこそついつい甘えてしまって、
「私を大事に思ってくれているなら、このくらいはしてくれるはず」
と思い込んでしまう。
けれども、そのわがままな欲求はたいていの場合、
満たされず、憂鬱になる。
このように愛情による執着が強すぎると、
自分のことを大事に思ってくれるかどうか不安になり、恐れが生じる。
すなわち、歪んだ愛情ゆえに、憂鬱さや恐れが生じる。
歪んだ愛情という呪縛から解放されるなら、
もはや君に憂鬱さや恐れは存在しなくなるだろう。
法句経212


鉄の鎖よりも強く
私たちを縛っているもの


たとえ君が鉄の鎖で縛られても、本の拘束具で拘束されても、麻ひも
でグルグル巻きにされても、それらは「強力な呪縛」ではない。
自分の獲いだお金への執着や、買いこんできては増えてゆく物への執
着や、「私の子どもはこうなれ、こうはなるな」「私のパートナーはこう
なれ、こうはなるな」という支配欲への執着。
智慧ある者にとっては、これらのあくことなき執着こそが、「強力な
呪縛」に見える。
その呪縛は、ゆるやかに見せかけて実はぎゅうぎゅうギワギワしつこ
くからみつき、あまりに逃れ難きものゆえに。
これらの呪縛を断ち切った君は、「こうしてほしい」「ああしてほしい」
と求める浅ましさから自由となるだろう。
法句経345、346

自分に与えられているものに幸せを見る

君の手に与えられたものがたとえどんなにわずかでも、君がそこに幸
せを見つけるなら、「足るを知る」充足感で心はきれいに澄んでいく。
そのきれいな心の波は、目に見えない高次の生きものたちを喜ばせて
惹きつけるだろう。
法句経366


「ある」と「ない」に動じない

君の頭に浮かんだ考えや君の持ちものについて
「これは自分のだもん、手放したくないよー」なんて、
君がしがみつかなくなるなら。
褒めてもらえないとか、
愛されてないとか、
約束を守ってもらえないとか、
君が「ない」に対して嘆かないなら。
「ある」にこだわらず、「ない」に嘆かず、
君の心は無敵とばかりにやわらかくなる。
経集950

欲望とは苦なり

心の中にうごめく欲望に向かって、
たとえ世界中のお金をシャワーのように降らせてみても、
欲が満足することはない。
満足するどころか、
快感が生じたのちにだんだん空しくなり、苦しくなる。
苦しくなってムズムズしてくるために、
それを静めるためにさらに何か別のものが欲しくなり、
欲望がうごめきだすだろう。
欲望の実現によって得られる脳内の快感反応は
ほんの一瞬のものにすぎず、
その後は禁断症状のように空しさや不安がやってくる。
欲望とは、苦なり」と体感したならば、
最高の楽しさを「欲しい欲しい」と求める心が静まる。
この「欲しい欲しいと泣き叫ぶ心の寂しさを静めること」をこそ
求めるならば、
君は私の生徒と呼ばれるにふさわしい。
法句経186、187

確かに求めないことは魂の平静の為には素晴らしいことだ。

だが、自分の子供がお腹をすかせヒモジイ思いをしているにもかかわらず求めない事などできようか?この冬を越す為に十分な食料を求める事は悪であるはずがない。

苦労せず食料を確保したいという「欲」という気持ちから農業が始まり、文明が進化していったのだ。空を飛びたいと欲したから人類は飛行機を発明し、星になりたいと宇宙ロケットを開発したのだ。

欲や求めることは人類が人間でいる理由なのだ。何も欲せずにただ、ジャングルでバナナを食べて活きていたなら我々は猿のままだったのだ。

魂の平静を保つ為に 日々仕事に励む者にはブッタの言葉は意義がある。
そして、その言葉も自分の頭で考えてこそ意義がある。

一言一句真理であると暗記し唱える原理主義者は仏教の本質を見誤るだろう。

多くの場合教団とか宗教を職業にしている人間が吐く言葉など偽善欺瞞にすぎないと感じてしまう。父母が檀家の寺の住職の生臭さは異臭を放ち、私の代ではその寺の世話にはならないつもりだ。

もっとも尊い言葉は、日々黙々と労働をして苦労を重ねた人間の言葉だと思う。

日本の仏教はインド仏教いやブッタの言葉とその労働価値観において180度異なる。その代表的な思想家が江戸初期の禅僧 鈴木正三(しょうさん)である。

正三は関が原の戦いでも軍功をたてた元旗本である。42歳のとき出家して禅僧となった。

正三は出家前に儒学を信奉する同僚から「仏法は世法に背く(仏法は隠遁などを奨励して世を良くすることにつながらない)」と言わ れたので、反論として『盲安杖(もうあんじょう)』(盲人の安心のための杖)を著した。

そのなかで仏教(禅宗)の立場から人間とて守るべき 10ヶ条を書いたがこの10ヶ条は正三の思想の基本となっている。

 1.生死を知りて楽しみ有事
 2.己を顧て己を知るべきこと
 3.物毎に他の心に至るべき事
 4.信有りて忠孝を勤べき事
 5.分限を見分て其性々を知るべき事
 6.住る所をはなれて徳有事
 7.己を忘れて己を守るべき事
 8.立ちあがりてひとり慎べき事
 9.心をほろぼして心をそだつべき事
 10.小利をすてて大利に至べき事

出家後次々に「武士日用」「農人日用」「職人日用」「商人日用」を著した。あわせて『四民日用』として出版され、江戸期を通じその思想は広く支持され、近代資本主義の萌芽期であった日本に普及していったのであります。


凡夫は大病人であり、仏は大医王であるから、凡夫は三毒(貪、嗔、迷(愚痴))を知ること、仏道修行とは、このような煩悩、悪徳を除滅するために、我執を去って本来の心(真の正直)を明らかにすることと説いている。

武士は世を治める役人であるから、とくに、勇猛堅固の心を奮い起こし、生死を超越して平常心で勤めを果たすことが仏道修行であると説いている。


農人と生を受けしことは天より授けたまわる世界 養育の役人なり。
さればこの身を一筋に天道に任せたてま つり、かりにも身のためを思わずして、まさに天道の奉公 に農業をなし、五穀を作り出して仏陀神明を祭り、万民の 命をたすけ、虫類などにいたるまで施すべしと大誓願をな して、ひと鍬ひと鍬に、南無阿弥陀仏、なむあみだ仏と唱 え、一鎌一鎌に住して、他念なく農業をなさんには、田畑 も清浄の地となり、五穀も清浄食となって、食する人、煩 悩を消滅するの薬なるべし。

 (農民と生まれたことは、天から任命されて世界を養う役 人となるということである。したがって自分の身を一筋に 天道に任せて、かりそめにも自分の事を考えず、天道への 奉公として農業をなし、五穀を作って仏陀神明を祭り、万 民の命を助け、虫類などに至るまで施しを行おうと大誓願 をなして、一鍬入れる毎に、南無阿弥陀仏と仏を唱え、一 鎌毎に心を入れて、一心に農業に勤しめば、田畑も清浄の 地となり、五穀も清浄の食べ物となって、食べる人の煩悩 を消滅させる薬になる。) 

 「仏行」とは、俗世間を出家した僧侶のみが行う宗教的行事で はなく、一般人が自らの仕事に打ち込む、その日常生活そのも のにあるとしたのである。

〔問〕職人問云(といていふ)、後世菩薩大切の事なりいへども、家業を営に隙(すけき、暇)なし、日夜渡世をかせぐ計なり、何としてか仏果に至るべきや。
〔答〕答云(こたえていふ)、何の事業も皆仏行なり。

鍛冶番匠をはじめとして、諸職人なくしては、世の中は様々な道具を調えることができない。武士なくしては世の中の秩序が保てない。 農民がいなくては食べ物が得られない。商人がいなくては、様   ざまなものを自在に流通させることができない。こうして諸々の職業がお互いに助け合って、世の中が成り立っている、と正三は説いた。


    その身をなげうって、一筋に国土のため万民のためと思
        い入れて、自国のものを他国に移し、他国のものをわが国
        に持ち来りて・・・山々を越えて、身心を責め、大河小
        河を渡って心を清め、漫々たる海上に船をうかぶる時は、
        この身を捨てて念仏し、一生はただ浮世の旅なる事を観じ
        て、一切執着を捨て、欲をはなれ商いせんには、諸天これ
        を守護し、神明利生を施して、得利もすぐれ、福徳充満の
        人となる。
その身を捧げて、一筋に国土のため万民のためと決心して、自国の物産を他国に売り、他国の物産をわが国に買い入れて・・・山々を越えて心身を鍛え、大河小河を渡って心を清め、満々たる海上に船を浮かべる時は、この身を思わずして念仏を唱え、一生はただ浮世の旅である事を悟って、一切の執着を捨て、欲を離れて商いをするには、諸天が商いを守護し、神の明らかな徳で助けてくれるので、利益もあがり、徳の豊かな人になる。

物を右から左に流すだけで利潤を得るなどと、蔑まれていた商人たちの中にも、これを読んで、自ら職業に励むことが、自己を高め、充実した人生への道だと知って、いよいよ事業に励む人も少なくなかったであろう。

商人にとって、商売に精進することが「仏行」であるとすれば、そこから得られる利潤をどう考えるのか? 武家上がりの正三は、剛毅果断にも次のように説いた。

         売買せん人は、まず得利の増すべき心づかいを修行すべ
        し。その心づかいと言うは他の事にあらず。身命を天道に
        なげうって、一筋に正直の道を学ぶべし。

売買をしようとする人は、まず利益を増す心づかいを修業すべきである。その心づかいとはほかでもない。身命を天道に捧げて、一筋に正直の道を学ぶべきである。

商売が「仏行」である以上、まず利益が上がるように心づかいを学ぶべきだと言う。それも人を騙して利益を上げよう、と言うのではなく、「一筋に正直の道」を踏み外さずに利益を増すよう学ぶべきだ、というのである。

士農工商と職業こそ違えど、人はみな心中に仏性を持っているのであり、自らの職業に打ち込むことで、その仏性を開発し、世のため人のために尽くせる、という考え方は、人間はすべて平等である、という近代的な人間観につながっていた。


これは日本の近代資本主義の精神を培っただけでなく、人間が人間らしく生きる知恵が詰っている。わたしはブッダの教えより発展してこの鈴木正三の教えに至った日本の思想を誇りに思う。

ブッタの言葉は 毒にも薬にもなる。知能指数が低い人間が読み盲信すれば毒にしかならない。自分の頭で考えてこそ有益な言葉である事を自覚してほしい。

ブッタの言葉はR25指定かもしらん。

小池先生スイマセン!