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本書は、マッカーサーの側近中の側近GHQのG2=7参謀第二部長(諜報・治安担当)チャールズAロビー少将の回顧録である。

回顧録といっても、彼自身のことはほとんど書いていない。彼のボスであるダグラスマッカーサーと連合国の日本占領時代と1950年に起きた朝鮮戦争当時の事件に関することが中心になっている。

冒頭でウィロビー将軍は日米は戦うべきでなかったと述べている。
p16
この回想録をまとめるにあたって、私がまず第一に言いたいことは、太平洋戦争はやるべきではなかったということである。米日は戦うべきではなかったのだ。日本は米国にとって本当の敵ではなかったし、米国は日本にとっての本当の敵ではなかったはずである。歴史の歯車がほんの少し狂ったせいで、本来、戦うべきではなかった米日が凄惨な戦争に突入したのだから。
私が書いたもののすべての基調となるのは、日本との戦争、あるいはドイツとの戦争は西側の自殺行為であったということである。たとえ日本がどんな誤りを犯すとしても、どんな野望を持つとしても、米国が日本を叩きのめすなら、それは日本という米国にとっての最良の防壁を自ら崩してしまうことになるのである。ところが、あの不幸な戦争の結果、ロシア、中国を牽制してあまりあったはずの日本およびドイツの敗戦のゆえに、現在(編注:1971年現在)では、共産主義国家とされているソ連、かつてのツァーリ支配下のロシアそのままの圧政をしくソ連の指揮による破壊転覆の異常な発達が、今日われわれにとっての頭痛のタネとなっているのである。
共産主義国家のいわゆる『革命の輸出』と呼ばれる破壊工作は、もし、わが国が日本を東洋の管理者、ドイツを西洋の管理者にしていたなら、けっして現在のような脅威の対象にはならなかったはずである。わが国はこれら二国と協働戦線を組むかわりに、破壊してしまった。…
日米は共産主義国家に嵌められて開戦したのだと述べている。

この本には日本国内でソ連のスパイとして活躍した、リヒアルトーソルゲに関する興味ある話も述べられている。

ゾルゲ事件は戦後チャールズ・A・ウィロビー将軍が引き継ぎ米国内またGHQ内の共産スパイを次々に追放して行った。これはマッカーサーのもう一人の副官GS=民政担当のニューディーラー ホイットニー少将と日本占領下で占領統治をめぐり確執がいかにひどかたか理解するにかなり参考となる。 なぜ、トルーマン系のCIAとG2傘下のキャノン機関が対立しマッカーサーとともにキャノン機関が消滅した理由もわかった。

戦後日本と朝鮮戦争でのインテリジェンス分野においてウィロビー将軍の活動には輝かしいものがある。マッカーサーとトルーマンの対立の真相も理解できた。やはり日本に原爆を投下したトルーマンがマッカーサーの原爆使用に反対してマッカーサーを首にしたのではなく、トルーマンのマッカーサーへの嫉妬ともいえない無理解が、朝鮮半島に戦火を起こし国連軍を窮地に追いやりマッカーサーら現場を苦しめていたようだ。

ウィロビー陸軍少将は優秀なインテリジェンスオフィサーであった。数ヶ国語を流暢に使い、教養があり、広く戦史を読んだ優秀な雄弁家であり、すぐれた記憶力を持った人徳がある人物だ。

 ウィロビー将軍は1892年3月8日、ドイツのハイデルベルクでカールーアンドリュー・ボンーケエッペーウェイデンバッハとして生まれた。教育は18歳までヨーロッパで受け、そして親戚と一緒に暮らすべくアメリカヘ渡った。渡米後、市民権を得た将軍は約3年間、米国陸軍軍人として勤務したあとペンシルベニア州のゲティスバーグ大学に入り、卒業した。

1918年、将軍は米陸軍将校に任官され、アメリカの対独戦に参戦、当時フランスにあった米国遠征軍部隊で勤務した。

ベネズエラ、コロンビア、エクアドル駐在のアメリカ公使館付武官として勤務している。その後はしばらくのあいだ陸軍部隊に勤務のあと、約十年間は将校学生として専門的軍事学を学び、その後の歩兵学校と参謀指揮大学の教官として勤務した。

日本との戦いが始まった翌年の1942年、将軍はフィリピン政府からフィリピン軍の組織と訓練を要請されていたダグラスーマッカーサー将軍の参謀に任命された。それからまもなく将軍はマッカーサー司令官の情報参謀になり、以後十年間、太平洋戦争から朝鮮戦争に至るあいだ、マッカーサー将軍と行動をともにするのである。

情報官の任務は、司令官がそれを活用して作戦を成功させることができるよう、最善の情報資料を評価分析し、まとめて司令官に提供することにある。

しかし、情報官たちは作戦が成功した時の勲功は司令官に与えられ、失敗した時の責めは情報官に負わされることを知っている。作戦の成否にかかわらず、情報官は効果に対して沈黙を保ち、司令官に忠誠をつくさねばならない。

実際本書を読む限り彼のインテリジェンス能力には卓越したものを感じさせる。
p81-82
 私の率いるG2は終戦前から日本軍の構造を詳細に知っていたから、一九四五年八月のマニラでの降伏交渉に際して重要な役割を果たしたように、このときも日本車を復員させ、武装解除するための基本条件を整えるのには困らなかった。そこで四年間にわたる苛烈な戦闘を通じて、日本軍の組織を完璧に知っていたG2とG3(参謀第三部=作戦担当)は、最初の計画を引き継いで、日本本土における日本軍の復員監視にあたったのだった。

日本軍の兵員を武装解除し、除隊させるという複雑な業務を、われわれは日本側の技術的・行政的能力を十分に活用するため、当時まだ存在していた日本の陸・海両相に委ねた(その後「復員局」が担当)。
この複雑な仕事はあらゆるものに優先して行われ、GHQ、第八軍および米海軍が監督と統轄にあたった。

無条件降伏をしたとはいえ、その保有する軍事力の九〇パーセントを撃滅されたドイツとは違い、当時の日本本土はまだ巨大な武装陣地であった。そこに「申し訳程度の部隊」を引き連れて上陸するという、マッカーサーの当初の大変な軍事的危険――日本軍五十七個師団、十四個旅団、四十五個連隊に相対する米軍は二個師団半という明らかなギャンブル――の当否は、おそらく後世の軍事専門家たちが判断を下すであろう。なにしろ日本の東海岸にあるすべての戦略上の上陸地域は日本軍によって完璧に固められていたし、しかもこれらの地域は沖縄にくらべてはるかに大きな戦闘力を持っていた。本州、九州、四国にいたる東海岸沿いには、戦略的上陸適地が五、六ヵ所あった。

日本の大本営は、米軍がこれらのどこに上陸しても多大な損害を与えるだけの十分なる師団、旅団を保有していたのである。沖縄では日本車はわずか二個師団半の兵力で、米軍の上陸作戦に際して、わが方に合計四万から六万名の死傷者を出させた。それに加えてあの「神風特攻」という玉砕攻撃まで敢行してきたことを忘れてはなるまい。こうした軍事上の可能性があったのだから、わが軍が一発も発砲することなく、しかも一人の死傷者も出さずに日本本土を占領することなど、まさに奇跡以外の何ものでもあるまい。だが、事実が示すように。奇跡”は起こったのだ。いや、それは奇跡と呼ぶべきではなく、計算された作戦と呼ぶべきであろう。

すなわち既存の日本政府、天皇という伝統的な心理作用を活用するという単純な方法で、日本人の鋭敏な緊張感はまるで魔法でも使ったかのごとくほぐれてしまったのだ。他の方法は、どれひとつとして実用的ではなかった。マッカーサー元帥は、これら既存の政治的、軍事的、社会的ファクターについて良く知っていたし、日本人の心を鋭く見通していたからこそ、こういう方法のもたらす効果をあらかじめ計算し、利用できたのである。

かように既存の日本政府機関を如才なく活用し、これを適切に組み替えることによって本土のすべての日本軍は一九四五年十二月早々には武装解除された。そして、そのほとんどは両親や兄弟、愛する妻や子供たちのいる故郷や家々に帰っていった。
米軍は日本での成功体験が過信となってしまったのだ、日本が日露戦争に勝利してしまったように・・・・アフガン戦争やイラク戦争をしてしまった・・・ウィロビー少将のような卓越したインテリジェンスオフィサーもいない上に、アフガンやイラクには天皇陛下は存在しないのだ。

ウィロビー少将はゾルゲ事件を丹念に調査し日本と米国に張り巡らされたソ連の諜報組織の壊滅にも尽力した。GHQ内にもぐりこんだニューディーラーを装ったソ連に同調する職員を多数炙りだし排除していった。

また、少将は正確無比な戦前のゾルゲのスパイ活動を知ると、ゾルゲ事件ソルゲ一昧に対する調査に少将は多大な関心を持った。少将は直接、この事件を調べることにした。カウンターインテリジェンスとしてG2の総合特殊作戦本部(JSOB)直属行動部隊「Z機関」 (通称キャノン機関)を開設し、その長として活情報将校ジャック・Y・キャノン中佐(当時は少佐)を充てた。

キャノン機関は中野学校OBとも接触があり、松本清張は「日本の黒い霧」で下山事件で犯人としているが、共産主義者の巣窟国鉄を合理化しようとする下山総裁を反共の立場を取るキャノン機関が謀殺することはありえない。

ありえるとすればG2・キャノン機関と対立するGS側でトルーマンとも気脈が通じたOSSから改変したばかりのCIAがキャノン機関傘下の亜細亜産業に近づき引き起こしたように私は思える。

A級戦犯の処刑と公職追放

「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙二出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢カハ永久二除去セラレザルベカラズ」 (「ポツダム宣言」第六項)

 GHQの基本方針は日本の民主化にあった。そのための第一歩はポツダム宣言にもられた戦争犯罪人を処刑し、戦争協力者をすべての公職から追放することであった。占領初期の数カ月間にわたって、もっとも重要な渉外情報活動の一つは、A級戦犯容疑者たちの逮捕である。数百名にのぽる容疑者リストから選ばれた最初の連中は、一九四五年九月中に身柄を拘束された。

(略)

 対日理事会のメンバーたちは、極東国際軍事裁判をドイツ戦犯を裁いたニュルンベルク裁判の東京版に仕立て上げようと目論んでいた。だが、マッカーサーは頑としてこれに賛成しなかった。

マッカーサーは一人の歴史家として、かつてアメリカの南北戦争で敗北した南部が、戦争終了後数十年を経ても北部に対する深い恨みを抱き続けたことを知っていたからである。

 公職追放は一九四六年一月四日、マッカーサーにより指令が出された。その対象者の範囲は直接軍務に携わった指導者たちはもとより、政治・経済・社会・言論の各界に及び、その後の二年間に約二十万人以上が追放されている。その過程でGSとG2との対立は最高潮に達した。というのも、GSは。民主化”という口実のもとに、彼等が行おうとしていた。左寄り”とも思える政策の邪魔になる人間を次から次へと追放してしまったからである。日本人からもアメリカ人からも、そしてGHQの内部からも「GSは日本の最良の頭脳を取り除いてしまった」という批判の声が高まった。とりわけGSの次長ケーディス大佐に対する非難はとみに高くなっていた。

 公職追放はGHQが直接の手を下さず、日本政府が自ら実行する方法をとったのだが、実際はGSが指導し、ときとして強引な手法も用いた。そのGSのおかしな態度は、たとえば社会党代議士の場合に暴露された。CICなどからの報告によれば、その代議士は松本治一郎といい、戦争中 「東条選挙」 (編注・一九四二年の翼賛選挙)で推薦議員になっていて、GSの方針からみれば当然、追放の対象となるべきであった。ところが、GSはその代議士が革新系であるからか、あたかも手加減を加えているかのようにさえ報告書からはうかがえた。

 当時、ケーディス大佐は語ったという。
 「推薦議員を追放せよという指令を出した覚えはない。そんなことは日本政府の考えに基づくものだから、日本側が処理すべきだ。ただし松本治一郎はどんな理由があっても追放しないつもりでいる」

 一九四九年一月一日、吉田茂首相はホイットニー局長に宛てて、こんな書簡を送っている。

 「日本政府はすべての人を公正に、かつ法にあくまでも忠実に行動している。その結果、松本氏を追放者のなかに入れることに決定した。この推薦を貴下が承認されるものと信じる」 ところが、GSは吉田首相の要望を社会党に対する攻撃とでも受け取ったのか、一九五〇年の追放リストからその代議士だけを除外してしまった。私にはこの間の事情をはっきり説明することはできないが、松本の追放解除を許可したGSも、ついに一九五一年には折れて松本を再追放したのであった。

 GSは日本自由党総裁・鳩山一郎の追放も狙っていた。鳩山は次の総選挙後の最有力首相候補だった。CICからの報告によれば、この件に関して、当時、日本共産党がGSにかなりの。鳩山情報゛を流していた形跡がある。

一、田中義一内閣のとき、書記官長として大陸侵攻の基礎となった東方会議を主宰。
一、日本の民主化に一番悪い影響を与えた治安維持法を起案したときの書記官長。
一、自由主義学者を弾圧した滝川事件【京都帝国大思想弾圧事件】のときの文部大臣。


 わがG2では、GSがよもや鳩山を追放しようとは思ってもいなかった。しかし鳩山は追放された。ここで興味があるのは、当時の共産党機関紙『アカハタ』の鳩山攻撃記事と、GSの発表した説明とが酷似していたことである。こうしたことから、鳩山の追放が政治情勢のかね合いからなされても仕方ない要素があったことは事実である。

マッカーサーがA級戦犯を裁くことに反対していたことは初めて知った。