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島田裕巳氏はオウム真理教を擁護して、私も島田氏を真理が読めない宗教学者として白眼視した。オウムと関わる前は村上春樹氏の1Q84のモデルとなったヤマギシ会にも参加し筋金入りの愚か者と思っていた。

だが、島田裕巳氏は批判を甘受し逃げ隠れせず執筆を続けた。私は彼の宗教論については山折哲雄氏と同じように評価したい。新進気鋭では釈徹宗氏もいい。

本日(2011年10月10日)欧州銀デクシアがギリシャ国債の影響で初の破綻となった。
世界経済はこの現実からもはや逃げることができない。

P20-21
日本の文化、とくに仏教を中心とした日本の宗教的な文化のなかでは、死という事柄が重視され、いかに死ぬかということがもっとも重要な課題と目されてきた。
そのあたりのことについて、西欧社会に禅を紹介した鈴木人拙は、『禅と日本文化』(岩波新書)のなかで、「日本人は別段、生の哲学は持たないかもしれぬが、たしかに死の哲学は持っている」と指摘している。
日本人の死の哲学と言ったとき、よく引用されるのが江戸時代の中期に、肥前国(現在の佐賀県・長崎県)鍋島藩の藩士であった山本常朝が記した『葉隠』という書物のなかにある「武士道といふ、死ぬ事と見付けたり」ということばである。

この考え方は、『葉隠』だけに見られるものではなく、同時代に武士の生き方について説かれた他の書物のなかにも見出すことができる。たとえば、兵学者で広島藩、会津藩、福井藩などで軍学を講じた大道寺友山は、その著書『武道初心集』のなかで、武士にとって最も肝要な考えは、元旦の暁より大晦日の終わりの一刻まで日夜念頭にもたなければならぬは死という観念である、と述べている。

人はいつか必ず死ぬ。死なない人間はいない。それは人間が生物の一員である限り、免れることのできない運命であり、人間の生命は無限ではない。しかも、人はいつ死ぬか分からない。震災という事態は改めて私たちにその事実を突きつけた。
だが島田氏は平時と戦時によってその生死感が異なるという。
p30-33
新渡戸は、若い武士たちの覚悟の切腹や、忠義のために子どもを犠牲にすることを手放しで礼賛しているわけではない。ただ少なくとも、そうした行為に及んでしまう武士の精神、武士道のあり方を高く評価し、そこに日本人としての誇りを見出そうとしている。新渡戸は、ベルギーの法学の大家に対して、『武士道』という著作を通して、キリスト教の倫理道徳に勝るとも劣らない日本人の精神性の気高さを誇示しようとしたのである。

けれども、『葉隠』や『武道初心集』が死ぬ覚悟をめぐって観念的な方向にむかってしまったのと同じように、新渡戸の描く武士道も、現実には存在しなかった虚構の世界である。だからこそ彼は、歌舞伎(浄瑠璃)の世界に根拠を見出すしかなかった。死ぬ覚悟を強調し、死の美学を追求しようとする武士道は、あくまで虚構の上に築かれたフィクションであるとも言えるのだ。

それでも、『葉隠』にある「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」ということばは、明治以降近代化を進めた日本が、欧米列強と軍事的にも対抗し、戦争の時代に入っていくと、戦場に赴く人間を死へと駆り立てていくスローガンとしての役割を果たすようになっていく。

軍人に引き継がれた思想
戦場に赴いた軍人たちは、自分を武士になぞらえ、死ぬ覚悟をもつことを理想とするようになっていった。それは、実際の戦場で敵に追い詰められた際の自決や玉砕という行為に結びついた。降伏して捕虜になるよりも、死を選ぶということが軍人のあり方として称揚されたのである。

さらにそれは戦争末期における特別攻撃隊に発展していく。特攻は、戦闘機や魚雷艇に乗り込んだ人間が、敵の空けや戦艦に体当たりをするもので、自分の命を犠牲にすることが前提になっていた。特攻隊に加わった人間たちは、すでに車隊に召集された時点で死ぬ覚悟を囚めており、その点では、特攻に加わることは特別なことではなかったのかもしれない。だが、死ぬ覚悟を固めることが武士道と結びつけられ、死ぬことに価値がりえられることで、特攻は美化されていったのである。

戦争が終わると、価値観は一八〇度転換した。戦時中の軍国主義に対する反省が起こり、『葉隠』が説く死ぬ覚悟や死の美学は、戦争を肯定し、それを美化する試みとして、まっこうからその価値を否定されるようになっていく。

しかし、『葉隠』が書かれたのは、武士が戦場に赴くことがなくなった時代であり、それはむしろ戦後の状況に近かった。その点では、差し迫った危機が遠ざかった時代にこそ、『葉隠』や『武士道』に示された観念的な思想、死の哲学は意味をもち、広く受け入れられる可能性をもっていた。

実際にその可能性を追求したのが作家の三島由紀夫である。三島は、一九六七(昭和四二)年九月に『葉隠入門』(新潮文庫)という本を刊行している。この本で三島が執筆した部分は短く、後半は『葉隠』からの抜粋になっている。この本が刊行されたのは、三島が、彼が組織した「楯の会」の会員たちとともに市谷の自衛隊に乱入し、自決する三年ほど前のことだった。『葉隠入門』に書かれた三島の死についての考え方をたどっていくと、なぜ彼が自決という行為に走ったのか、その背景が理解されてくる。

葉隠れや武士道の精神は平時の精神に過ぎないのである。

五輪の書を書いた宮本武蔵は葉隠れの精神とは一線を引いている。
p44-47
武蔵が生きていた時代には、まだ戦乱が続いており、自分の身を守るために、あるいは仕えている主君に報いるためには、剣の腕を鍛え上げ、その力で生き抜いていかなければならなかった。自分が剣で敗れるということは、個人としての敗北にとどまらず、多くの人間を危険にさらすことを意味した。もし武蔵が死の美学を強調し、美しく死ぬことに意義を見出したとすれば、それは他者の命を犠牲にすることに直結した。

それは武蔵のような剣士にだけ言えることではない。戦いが日常化した世の中においては、誰もが戦うことによって生き抜いていかなければならなかった。それは、武蔵が『五輪書』で語っているように、出家にも、女や百姓にも共通して言えることだった。

その意味で重要なのは、死ぬ覚悟ではなく、「生きる覚悟」であった。平和で穏やかな日常が続くなかでは、死ぬ覚悟を説くことが美しく思える。だが、戦乱が続き、平穏な日々が存在しないときにおいては、何としてでも生き抜いていくということが求められる。死の美学など少しも必要とはされないのである。

自分のために、他者のために

死ぬ覚悟という言い方はよく聞く。だが、生きる覚悟という言い方は、当たり前過ぎるのか、それほど聞くことはない。その上、生きる覚悟の方が、死ぬ覚悟をするよりもはるかに容易に思えるかもしれない。
けれども、本当に重要なのは、そして、より難しいのは、死ぬ覚悟ではなく、生きる覚悟の方である。

武蔵のような剣士が戦場に赴いたとする。戦場にあれば、死の危険性は身近に追っている。大坂夏の陣でも、島原の乱でも、相手にする敵は違うが、相対する二つの陣営は死に物狂いで戦った。そうした場に自分の身をおけば、そこから逃げるわけにはいかない。その際には、実際に死の可能性があるため、自分の死を覚悟するしかなく、それ以外の選択肢はない。戦場にある者は、自動的に死ぬ覚悟をしている。

では、戦場において生きる覚悟をするとしたら、どうなるのだろうか。戦闘が激しいものであればあるほど、命の危険は大きくなり、その場面を生き抜くことは難しくなる。

あるいは、自分の命を守ろうとして逃げ腰になれば、同じ陣営に属する仲間を犠牲にしなければならない。

それでも生きる覚悟を決めたとしたら、死に物狂いで戦いつつ、自らの命を守り続け、しかも、仲間の命を救っていかなければならない。たんに自分の命を守るだけでは、それは本当の戦いにはならない。戦いは二つの集団同士のぶつかり合いであり、集団が勝利を収めなければ意味をなさないからだ。そして、自分の属する集団が負ければ、自分の命も危うくなる。敵は、生き残った相手方を皆殺しにしようとするかもしれないからである。

武蔵は、『兵法三十五箇条』や『五輪書』に書かれているように、いかなる戦場に赴いても、あるいはいかなる戦闘の場面に遭遇しても、それを生き抜いていく覚悟を決め、そのためにはどういった工夫と鍛錬が必要であるかを見出そうと試みた。実際、生涯において一度も負けを経験することなく、六〇年あまりの生涯をまっとうした。その点で、武蔵は生きる覚悟をもって、それを貫き通したのである。

死ぬ覚悟をしたとしても、それで死ぬわけではない。逆に、覚悟を決めていてもいなくても、突然死に襲われることはある。その点で、死ぬ覚悟と死とは直結しない。その意味で、死ぬ覚悟はやはり観念に過ぎない面がある。

死をつねに意識することで、今の行為にすべてを集中できるという効用はあるかもしれない。だが、その思いを継続させることは難しい。念頭に死があるなら、あくびなど出ないはずで、『葉隠』にあるように、あくびを止める方法など説く必要もない。また、酒席につらなること自体、死ぬ覚悟の対極にあるはずである。

死を覚悟したときにいかに振るまうか

問題は、実際に死が身近に追っている場面に遭遇したときに、どう振る舞うかである。
その際に、すでに死ぬ覚悟を決めているとして死を受け入れるなら、それですべては終わってしまう。いさぎよく見える死に方はできるかもしれないが、それでは自己満足に過ぎない。三島由紀夫の自決には、まさにその面があった。
なるほど、この箇所だけでも本書を読んだ価値がある。生きる覚悟の方が死ぬ覚悟よりもより強い意思が必要だ・・・

三島も1970年に死に急ぐのではなく、冷戦が崩壊した1990年代まで生きてくれてくれれば今日の日本も憲法を改正し、今日の日本のようなテイタラクな状態は避けられたかもしれません。もしかしたら三島都知事なども見られたかもしれません。三島首相にでもなっていれば・・・今頃北方領土や竹島問題は解決していたかもしれない。