
バークを継承し、民主政治に潜む「多数の暴政」を暴く
アレクシー・シャルルアンリクレレル・ド・トクヴィル「アメリカのデモクラシー」
トクヴィルは左翼リベラル派ともレッテルが貼られる事もあるが、政権交代や震災後の政治混乱などを受け、議会制民主主義のあり方自体が問われる中、パークのデモクラシー論は今こそ注目されるべきではないだろうか。
p64-67
マルクスが予言した「最期を告げる鐘」
シーデントップは「未来像をめぐる最強のライヴァルは、カールーマルクスとアレクシードウートクヴィルだとよく言われている」と述べる(前出)。御存知のとおりマルクスは社会主義・共産主義の父祖である。トクヴィルの保守思想とは対極に立つ。にもかかわらず、両者が並び評されるのは、ともに未来を千言した論者だからであろう。
マルクスの偉大さを証明する予言として共産主義者が多用するのは以下である。
「すべて株式投機では、いつかは雷が落ちるに違いないとは知っていても、自分は黄金の雨を受け集めて、安全な場所へ運んでしまってから、雷は隣人の頭に当たるということが、誰しも望むところであらう。後は野となれ山となれ!・ これがすべての資本家と、すべての資本家国民との標語である。だから、資本は、労働者の健康や寿命にたいしては、社会によってそれにたいする考慮を強制されないかぎり、何ら考慮するところがない」(マルクス『資本論』岩波文庫)
事実たとえば、日本共産党の志位和夫委員長は、二〇〇九年一月十九日夜放送のテレビ東京系の番組「日経スペシャル カンブリア宮殿」で、当時の「派遣切り」などの問題を受け、右の個所を紹介しながら「要するに、社会が強制しないと無制限の利潤追求に走ってしまって、無制限の利潤追求を個々の資本家がみんなはじめたら社会の基礎が壊れてしまって、資本主義の社会全体も壊れてしまう」と語った(二〇〇九年一月二十一日付「しんぶん赤旗」)。
たしかに、派遣切りなどの問題はマルクスの予言と重なるようにも見える。引用した冒頭部分は、いわゆるリーマンショックを予言したとも読めよう。
ただし、『資本論』は「資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される」
「資本主義的生産は、一種の自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を産み出す」とも明言した。幸いなことに、まだ「最期を告げる鐘」は鳴っていない。
デモクラシーは革命を恐れる
イギリスを念頭に、資本主義は必然的に成熟し破綻、「私有の最期を告げる鐘」が鳴り、「収奪者が収奪される」社会主義革命により共産主義が到来すると構想したマルクスとは対照的に、世代が重なるトクヴィルはこう述べた。
《デモクラシーの人々は生来革命を望まないだけでなく、これを恐れる》2下158《私は商業の習性ほど革命の習性に対立するものを他に知らない》2下160
現実に起きたフランス革命を、バーク同様、こう嫌悪した。
〈革命は統治機構を破壊したあとで、社会の基盤を動揺させ、ついには神そのものをも攻撃しようとしているかにみえたズきわめて複雑で古い社会の全体を、何の動揺も引き起こさず、理性の導き、理性の力だけによって突如として変えてしまえる、こう彼らは信じていた。何と不幸な連中だろう>(前出『旧体制と大革命』)
同様に晩年の回想録(前出)でも、こう述べた。
〈二つの革命はともに私を悲しい思いにかり立てた。しかし二度目の革命が私にひきおこした印象は、いかに堪え難く、より苦いものだったことかIズ社会主義は二月革命の基本的な性格として、また最も恐るべき想い出としてあり続けるであろう。共和政は目的としてではなく手段としてのみ、かろうじてそこに現われてくることになるズイギリスは法の思慮分別と旧来からの習慣の力によって、民衆の革命熱から身を守り、またその強力な立場と、われわれからは孤立した位置のおかげで、諸君主の怒りを受けることもなかったので、自らすすんで大陸内部の問題について、自由と正義を擁護する役割を演じるのである〉
マルクスと違い、トクヴィルは革命と社会主義を「最も恐るべき想い出として」嫌悪した。革命に対立する「商業の習性」と、革命熱から身を守る「法の思慮分別と旧来からの習慣の力」を評価する。「自由と正義を擁護する」正統的な保守の姿勢と評しえよう。
結局、イギリスなど成熟した資本主義国家で「最期を告げる鐘」は鳴らなかった。マルクスの最も有名な予言は的中しなかった。では、トクヴィルの有名な予言はどうか。
トクヴィルは東西冷戦の到来を予測しマスコミの隆盛・・・を予言した。
p74-75
われわれ日本人が学ぶべきことは多い。「主権在民」「人民主権≒地方主権」等々の「危険」や「不遜」を忘れるべきでない。日本国憲法の「国民主権」とて、例外でない。われわれ日本人は「奴隷の言葉」を話すべきでない。
ならば、デモクラシーの下で、多数による暴政を避けるために何か必要なのか。パーク同様、トクヴィルが求めたのは、神ないし宗教の力である。続けて、こう述べる。
《私は、社会のどこかに他のすべての力に勝る一つの力がなければならぬと考えてている。だが、この力の前にいかなる障害もなく、その歩みを遅らせ自制を促すこともできないとすれば、自由は危機に瀕すると思う。/全能の力は私にはそれ自体悪しきもの、危険なものに見える。そうした力を行使することは、いかなる人間の能力をも超えていると思われる。全能であっても危険でないのは神のみであろう。神はその力に見合う知恵と義とをつねに備えておられるからである。地上の権威である限り、どれほど尊敬に値し、どんなに神聖な権利を備えていようと、無制約の行動の自由、障害なしの支配権を許す気にはなれない。それゆえ私は、およそなんらかの権力に何事をもなす権利と力とが与えられるのを見たならば、暴政の芽がそこにはあると宣言し、それとは違う法の下に生きようとするであろう》I下149
が、この力の前にいかなる障害もなく、その歩みを遅らせ自制を促すこともできないとすれば、自由は危機に瀕すると思う。/全能の力は私にはそれ自体悪しきもの、危険なものに見える。そうした力を行使することは、いかなる人間の能力をも超えていると思われる。全能であっても危険でないのは神のみであろう。神はその力に見合う知恵と義とをつねに備えておられるからである。地上の権威である限り、どれほど尊敬に値し、どんなに神聖な権利を備えていようと、無制約の行動の自由、障害なしの支配権を許す気にはなれない。それゆえ私は、およそなんらかの権力に何事をもなす権利と力とが与えられるのを見たならば、暴政の芽がそこにはあると宣言し、それとは違う法の下に生きようとするであろう》I下149
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