イメージ 1

p47-48
歴史の中の経済


リストの根本的教訓は、経済分析は歴史から切り離すことはできず、永遠に妥当する唯一の最適な経済運営を確定することは不可能だ、ということであ誕。もちろん、歴史の目的=終わりという仮説、最後の審判の直前の千年紀という仮説を認めるなら、話は別だが。リストは、自由貿易の批判者ではあるが、保護が最終的・決定的な解決であると、われわれに述べることは決してない。

自由貿易論者が、最大限の市場開放は絶対的な理想であると、われわれに断言するのとは、大言いである。彼に言わせれば、関税とは、追いつくための技術にすぎず、その後に国民経済の再開放が行われることもあり得るし、さらにまた別の閉鎖がやって来るかも知れないのである。

これが、自由貿易論者と保護主義者を分つ大きな差異である。前者は、この世の終わりに至るまで安定した、経済的天国というものを定義することができると信じる。後者は、経済運営は、歴史の動きに追随しなければならず、国内市場を保護することが、時として必要となるが、常に必要なわけではない、と考える。

しかしもしかしたら、いっかある日、自分はリストを乗り越えることができると感じる経済学者が現れて、市場の自由も保護も、それ自体で良いということはいかなる時点においてもないのであり、経済の最大限の活力を保証するのは、まさに一方から他方へ、ついで他方から一方への動きである、ということを証明して、この馬鹿げた論争から最終的に脱出するということが、ないとは言えない。そうすればわれわれもこの論争から脱出することができるだろう。正直にに言う必要かあるが、この論争は一九世紀半ばから大して進歩していないのである。
p89-91
保護主義と国際自由主義

 二〇〇八年九月の経済・金融危機の加速化以来、西洋諸国の政治・メディア階層には、ある一つの恐怖が取り付いている。「保護主義」の復帰という恐怖である。

G7からG20にかけて、彼らは次のように倦むことなく繰り返すのである。すなわち、一九二九年の株暴落を大恐慌に変えたのは、関税障壁の引き上げであり、このような危機に効果的に対処するには、何よりもまず保護主義という「民族主義の悪魔」に抵抗する必ガがあるのだ、と。保護主義は不可避的に、国際通商の崩壊に通じ、引いては戦争へと通じるのであるから。類推論法というものは、経済学という人間科学も含めて、科学の歴史の中で素晴らしい発想の源となって来た。

アイザックーニュートンやアルベルト・アインシュタインは言うに及ばず、アダム・スミスやジョン・メイナード・ケインズも、この論法に訴えている。しかし、熟達していない者の手にかかると、類推――特に唯一の実例から発する歴史的類推――はしばしば、怠惰か知的不誠実が思いつくような安易な短絡にすぎないものとなってそまう。

一九二九年の実例を論拠として、保護主義に傾こうとする傾向に警鐘を鳴らそうとする現在の事態は、上のような短絡の驚くべき具体例に他ならない。一九三〇年代に保護主義が採用された――これはとりわけケインズその人によって推進されたものである――が、これはその後に起こった不況の主たる原因ではなかった。その不況は、金融投機によって引き起こされ、ドイツのハインリッヒ・ブリューニングとフランスのピエール・ラヴァルのデフレ政策によって激化したのである。

保護主義は、最悪のケースとして、ドイツやフランスのような中規模の国において、危機に対する不適切な対応となったが最良のケースとして、国内生産物の需要に支援をもたらすことによって、部分的な経済復興に貢献することさえありえたのである。

一九三一年にイギリス本国とその海外領土の間の「帝国特恵」システムを創設したオタワ協約を結んだ、イギリスとその帝国のケースがそれである。いずれの場合も、時の指導者たちは、保護主義に向かうに当たって、直前の経済不況から教訓を引き出そうとする現仕の指導者だちと同じ誤りを犯していた。つまり。一八七〇年から一八八○年の大不況からの脱却は、保護主義のお陰であると考えられたのである。

今日の保護主義に対する攻撃は、あたかも知的マジノ線とでもいうべきもので、世界資本主義の再編成に関するより実質的な討論がなされることを、頭から禁じてしまうのである。

歴史的類推に依拠して、有益な分析を行おうとするなら、できるだけ長期間にわたっていくっもの実例を踏まえなければならない。保護主義は一九三〇年代に始まるものではない。フランス革命とナポレオン戦争の直後から、イギリスという当時の産業の中枢部のすぐ外側の周縁部、すなわちフランス、ドイツ、アメリカ合衆国において展開した、極めて激しい知的・イデオロギー的論争の産物なのである。

この保護主義は、二〇世紀の全体主義イデオロギーに結びつくものではなく、「反自由主義的」なものでさえない。啓蒙と大革命から生まれた自由主義の中に根ざすむのであった。

その賛同者たちは、それを現実主義的、愛国的、反コスモポリタン的な自由主義と定義し、さらには世界市場が押しつける束縛に直面した諸社会階級間の国内的連帯性の表現と定義していた。

逆説的なことであるが、この経済的愛国主義ないし国民主義は、それ自体が、フランス・ドイツ・アメリカの三国を横断して行われた国を超えた論争の果実であった。

やがて保護主義思想は、西洋世界からラテン・アメリカと東アジアに輸出されるようになる。経済政策としては指導階層から不信の目で見られているとしても、イデオロギーとしての保護主義は、特にアメリカ合衆国やフランスのように、政治的な面で社会が奥深くまで民主化されて行く局面に保護主義の優位が緊密に結びついていたような国においては、いまだに有権者の間に強力な牽引力を保持しているのである。

p104-105
 保護主義は、一九世紀末からとくにドイツにおいて、外国人排斥的民族主義の温床となった。
これは一九一四年から一九四五年までの間ヽヨーロッパで猖獗を極めることになる。
しかしチェール、リスト、キャレイの例を見ると、保護主義は、最初は民族主義的な支配への渇望の表現ではなく、むしろイギリス帝国支配力に対抗する「被支配」諸国の間の知的交流の果実であった。

これらの例はまた、保護主義が、「消費者」よりも「市民」を重視する、左派ないし中道左派の平等主義的自主義が見せる経済的な相貌であることを示している、今日でも。一九世紀においても、自由貿易と保護主義のそれぞれの賛同者たちの多くが、自由貿易と保護主義の闘いは善と悪の戦いであるがごとくに思い込んでいるが、それは全く違う。保護関税は自動的に戦争につながるものではなく、自由貿易は自動的に平和を保障するものでもない。

一八六二年にフランスとプロイセンの間で結ばれた通商条約は、一八七〇年の戦争の勃発を妨げなかったのである。関税はヽ輸入された製品に課せられる税であって、それ以上でもそれ以下でもない。どんな税もそうであるように、富の創出に対して逆効果となることもあればプラスの効果となることもある。関税の政治的意味と、経済的帰結は、歴史の流れを通して著しく多様なのである。
どうも、この保護主義を容認する理論はいまひとつ私には理解できない。


執筆中