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アインシュタインはフロイトに質問します。いまだに戦争を無くせないのは、人間の心に問題があるのではないか?と。そして人間の心を特定の方向に導き、憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか?
フロイトの回答
P27~37
権利と権力の関係から貴方は議論をはじめました。私もここから考察をはじめるのがよいと思います。ですが、私としては「権力」という言葉ではなく、「暴力」というもっとむき出しで厳しい言葉を使いたいと考えます。

権利(法)と暴力、今の人だちなら、このふたつは正反対のもの、対立するものと見なすのではないでしょうか。けれども、権力と暴力は密接に結びついているのです。権力からはすぐに暴力が出てきて、暴力からはすぐに権力が出てくるのです。

では、原始の時代に遡り、両者がどのように結びついたのか眺めてみましょう。そうすれば問題に対する解決も容易に見いだせるのではないでしょうか。話を進める中で、すでに広く知られている事柄や承認されている事柄を新たな発見であるかのように語る箇所もあるかと思いますが、ご容赦下さい。そのように議論を運ぶことで、話がスムーズに展開するのです。

人と人の間の利害の対立、これは基本的に暴力によって解決されるものです。動物たちはみなそうやって決着をつけています。人間も動物なのですから、やはり暴力で決着をつけます。ただ、人間の場合、意見の対立や思想の対立というものも生じます。しかも、きわめて抽象的なレベルで意見が衝突することさえあります。ですから、暴力とは異なる新たな解決策が求められてきます。とはいっても、それは文明が発達してからの話です。

当初、人間が小さな集団を形作っていた頃は、腕力がすべてを決しました。
物が誰に帰属するか。誰の言うことがまかり通るのか。すべては肉体の力によって決まったのです。

しかし程なく、文字通りの腕力や筋肉の力だけでなく、武器が用いられるようになります。強力な武器を手にした者、武器を巧みに使用した者が勝利を収めるのです。ということは、武器が登場したとき、すぐれた頭脳や才知がむき出しの腕力を押しのけはじめたことになります。

けれども、頭脳を使おうとも、戦争で目指されていたことに変わりはありません。戦いの相手を傷つけ、力を麻痺させ、何も要求できない状態に貶(オトシ)めようとしたのです。

では、敵を徹底的に倒すには、どうすればよいでしょうか。暴力を使い、敵が二度と立ち向かってこられないようにすればよいはずです。そう、敵を殺せばよいのです。敵を殺害することには、二つの利点があります。第一に、その敵と再びあいまみえる必要がなくなります。第二に、他の敵への見せしめになります。いや、それだけではありません。敵を殺害すると、本能的な衝動が満足させられるのです(この点については、あとでもう1度立ち返りたいと思います)。

しかし敵を葬ろうとしたとき、新たな考えが浮かび、敵を殺すのをやめるかもしれません。恐怖心を徹底的に植えつけたうえで、敵を生かしておき、何かの労働に使おう! 暴力で敵を殺さず、敵を屈服させるだけで満足するようになるのです。

これこそ、敵に情けをかけることのはじまりにほかなりません。とはいえ、敵を生かしておいた以上、敵がたえず復讐心をたぎらせていると考えざるを得ません。勝利者の身の安全がやや損なわれることになります。

ともあれ、はじめは、力の強い者が支配権を握りました。むき出しの暴力、さもなければ才知に裏打ちされた暴力が支配者を決めたのです。

誰もが知っていることですが、このようなあり方は、社会が発展していくにつれて、少しずつ変わっていきました。暴力による支配から、法(権利)による支配へ変わっていったのです。
しかし、どのようにして法(権利)による支配へ変わっていったのでしょうか? 答えは一つしか考えられません。多くの弱い人間が結集し、一人の権力者の強大な力に対抗したに違いありません。「団結は力なり!」 団結の力で暴力が打ち砕かれたのです。

この団結した人間の力が法(権利)としてあらわれ、一人の人間の暴力に対抗したのです。法(権利)とは、連帯した人間たちの力、共同体の権力にほかならないのです。ただし、この力が暴力であることに変わりはありません。歯向かう人間がいれば、やはり暴力に訴えます。暴力を使って自分の意志を押し通し、自分の目的を追求していくのです。

相違点はただ一つ。一人の人間の暴力ではなく、多数の人間の暴力が幅を効かすだけなのです。

しかし、暴力の支配から新しい法(権利)の支配へ移るにあたってば、人間の心のほうにも新たなものが芽生えていなければなりません。一つの条件が満たされていなければならないのです。多数の人間たちの意見の一致と協力、それが安定したもので、長く続かなければならないのです。

もし多くの人間の協力がつかの間のものにすぎず、一人の権力者を追い払ったあとには、団結心が失われたとしたらどうなるでしょう。何も成し遂げたことにはなりません。他の人間だちより自分の力が優っているそう考える新たな一人の人間が登場し、ふたたび暴力による独裁をはじめるでしょう。際限なくこのパワーゲームが繰り返されていくでしょう。

ですから、法や権利に支えられた共同体を持続的なものにしなければならないのです。幾つもの組織を創設し、社会を有機的なものにする。規則作り反抗が起きて社会を壊さないように先手を打つ。規則、つまり法律を守らせる。法にのっとった暴力を行使できる機関を定める ---- そうしなければならないのです。

共通の利益に支えられたこのような共同体を作ろう。多くの人がそう思うときには、人々の間に感情の結びつきが生まれていなければなりません。団結心です。この感情があるからこそ、共同体は強固な力を持てるのです。

これで、重要なことはすでに言い尽くした感があります。個人の粗暴な暴力が克服されるには、権力が多数の人間の集団へ移行する必要がありますし、この人間集団を一つにつなぎとめるのは、メンバーの間に生まれる感情の絆、一体感なのです。

以下に述べることは、この本質的な点を繰り返し、詳しく説明しただけです。

さて、社会が同じ能力、同じ強さの人間ばかりから成り立っているなら、問題はさして難しくありません。安全な共同生活を営めるようにするために、個々の人間の自由----自分の持てる力を他人への暴力として用いることができる自由----をどの程度まで制限せねばならないのか。社会がそのことを掟(法律)として定めてしまえば、それで問題は解決します。 けれども、個人と社会の掟の間にこのようなバランスの取れた状態が実現するなど、理論の中の話にすぎません。現実の社会の中には、そもそものはじめから、バラバラな能力と バラバラ な力を待った人間たちが住んでいます。男もいれば、女もいます。大人もいれば、子どももいます。戦争や征服が起きれば、勝者と敗者に分かれ、勝者と敗者は主人と奴隷という関係に変わっていきます。

こうなると、社会の法(権利)とは、現実の不平等な力関係を映し出すものになっていきます。法律は支配者たちによって作り出され、支配者に都合のよいものになっていくのです。支配されている人間たちの権利など、あまり考慮されないのです。

すると社会の中には、法を揺るがす(と同時に法を発展させていく)二つの要素があることになります。 一つは、支配者層のメンバーたちの動き。なおも残された制限を突き破り、「法による支配」から「暴力による支配」へ歴史を押し戻そうとします。もう一つは、抑圧された人間たちが絶えず繰り広げていく運動。自分たちの力を増大させ、それを法の中に反映させようとします。支配者たちと異なり、「不平等な法」を「万人に平等な法」に変革しようとするのです。

この第二の方向が強くあらわれるのは、社会の中の力関係が変化していくようなときです。例えば、歴史の変革期です。このようなケースでは、法はしだいに新たな力関係に即したものになっていきます。

しかし多くの場合、力関係の新たな動向を支配者たちは十分に汲み取ろうとしません。そのため、ともすれば反乱や内戦が起きがちであり、「法による支配」が一時的に消え去って、暴力がすべてを決する状態に逆戻りしてしまいます。とはいえ、最後には新たな法秩序が生み出されます。(ちなみに、法のあり方を変えるもう一つの要素があります。社会のメンバーたちの文化です。文化が変われば、法のあり方が変わっていくのです。が、この変化は暴力を介さずに行われるもので、ここでの文脈には相応しくありません。のちの文脈で取り上げるべきテーマです)

そのようなわけですから、「法によって支配される」社会が一度できあがっても、利害の対立が起きれば、暴力が問題を解決するようになってしまうのです。これは避けがたいことです。しかし皆、同じ土地の上で共同生活を営んでいる以上、いつまでもむき出しの暴力の対立を放っておくこともできません。そのため、社会生活が成り立っているところでは、すみやかに問題を収拾しようとする傾向が強くなります。平和的な解決が実現する可能性が高くなるのです。

しかし、人類の歴史に目を向ければ、数限りない争いや対立が生じています。一つの社会と別の社会の対立、一つの社会と複数の社会の対立、大きな単位の集団と小さな単位の集団の対立、都市、地方、部族、民族、国家の間の対立です。これらの対立は、ほとんどの場合、戦争という力比べによって決着をみてきました。

そしてどんな集団でも戦争に参加すれば、強奪か完全な服従のどちらかに行き着いたのです。戦争とは、一方の側か相手を征服することで終わるものなのです。けれども、征服戦争、侵略戦争のすべてを一括し、それに対して統一的な評価を下すような真似はできません。

なるほど、モンゴル人やトルコ人の侵略戦争は災いしかもたらしていません。ですが、「暴力による支配」から「法による支配」への転換を促した戦争もあります。かつてよりも大きな政治的単位を作り上げ、その中では「暴力」を禁じ、法秩序の力で争いの決着をつけるようにしたのです。

ローマ人の行った征服のことを考えてみて下さい。地中海の国々に見事なローマの平和(パックスロマーナ)」をもたらしたではないですか。フランスの国王たちの征服欲を思い出して下さい。フランスを平和的に統一し、フランスという国を栄えさせたではないですか。

とすれば、逆説的に聞こえるかもしれませんが、こう認めねばならないことになります。人々が焦がれてやまない「永遠の平和」を達成するのに、戦争は決して不適切な手段ではないだろう、と。戦争は大きな単位の社会を生み出し、強大な中央集権的な権力を作り上げることができるのです。中央集権的な権力で暴力を管理させ、そのことで新たな戦争を二度と引き起こせないようにできるのです。

しかし、現実には戦争は「永遠の平和」を実現させてはいません。なぜでしょうか。征服によって勝ち得た状態は、長続きしないものだからです。暴力の力で様々な部分や様々な単位を強引に一つにまとめても、それをいつまでもつなぎ止めておくことができず、新たに作り出された大きな統一体も瓦解していくのです。

そればかりではありません。どのような大がかりな征服であれ、これまでのところ世界全体を統一するものではありませんでした。いずれも部分的な統一にすぎず、新しくできあがった大きな単位同士が争うことになり、以前にも増して暴力によって決着をつけようという傾向が出てきたのです。

その結果、どうなったでしょうか。夥しい数の小さな戦争、というより絶え間なく繰り返されてきた小さな戦争は影をひそめ、巨大な戦争が起きるようになりました。以前ほど頻繁に戦火があがるわけではありませんが、ひとたび戦争が勃発すれば、その惨状は凄まじいものとなったのです。
フロイトはここでローマ人の戦争行為が「パクスロマーナ:ローマの平和」をもたらした例をあげています。日本でも徳川家康が戦国時代を勝ち抜き、暴力によって、乱世を終わらせて平和をもたらすことができました。
しかし、過去「永遠の平和」を実現させたことはありません。ローマ帝国でもモンゴル帝国といった大帝国が何度か成立しましたが、いずれも崩壊し、分裂していきました。人類史上最大の帝国であったモンゴルでさえも、ユーラシア大陸の一部を制したに過ぎません。地球全土を「天下統一」した国は無いし、今後ともないでしょう。
結論として、フロイトはアインシュタインの見解に同意するものの、アインシュタインがいうような国際的機関が成立しないことにも同意しています。