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 松平永芳は宮司退任直後の二〇〇二年、A級合祀(一九七八年十月十七日)を決断した経緯について、次のように述べている。

私は就任前から、「すべて日本が悪い」という「東京裁判史観」を否定しないかぎり、日本 の精神復興はできないと考えておりました。それで就任早々書類や総代会議事録を調べますと、その数年前に、総代さんのほうから「最終的にA級はどうするんだ」という質問があって、合祀は既定のこと、ただその時期が宮司預かりとなっていたんですね。

私の就任したのは五十三年七月で、十月には、年に一度の合祀祭がある。合祀するときは、昔は上奏して御裁可をいただいたのですが、今でも慣習によって上奏簿を御所へもっていく。

そういう書類をつくる関係があるので、九月の少し前でしたが、「まだ間に合うか」と係に聞いたところ、大丈夫だという。それならと千数百柱をお祀りした中に、思いきって十四柱をお入れしたわけです。

その根拠は「日本とアメリカその他が完全に戦闘状態をやめたのは、国際法上、二十七年の四月二十八日」だから、処刑されたA級は「戦闘状態のさ中に敵に殺された」も同然だとされた。

(略)いささか強引な論理であるだけに、松平も各方面からの異議や苦情が出るのを予期したのか、「思いきって」と表現している。そして、それなりの配慮も忘れていない。

第一のハードルは十月六日の総代会であったが、一九七〇年の総代会で合祀は「既定のこと」(決定ずみ)という論理で臨んだと思われる。しかも八年間に総代の多くは入れ替り、合祀推進派の青木一男が健在だったから、難なく合意が得られたのだろう。

第二のハードルは政界だったが、靖国法案が流産して復活の見通しはないと判断した松平は『中外日報』(九月七日付)で、靖国は国や政治家の世話にならず、「国民総氏子」の理念に支えられて自立する方針を明らかにしじいた、「”国営化”には否定的」の大見出しを打ったこの報道で、松平は「ゴーイング・マイウェイ」を宣言したと言えよう。

第三のハードルは宮内庁筋であったが、新祭神の上奏簿を届ける(この年は十月七日)のは「慣習」にすぎないと割り切り、異議があっても独立宗教法人の決定として押し切る覚悟だったかと思われる。
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こうした極端な秘密主義のおかげとはいえ合祀の事実が半年も明るみに出なかったのは、ふしぎとしか言いようがないが、松平にとっては思わぬ幸運であったろう。マスコミも半年前の旧聞に属する既定事実をむし返し騒ぎたててもしかた、がない、と早々にあきらめてしまったからである。しかし長い目で見ると、松平が関係各界のコンセンサスを得るための根まわしを怠ったことは、不満と不信の種を植えつけてしまう。神社界も、その例外ではなかった。

たとえば神道界の理論的支柱とされ、筑波前宮司が青木ら総代会の合祀強硬派たちを抑えようと設置した「祭祀制度調査委員会」(一九六一-七六)の中心メンバーでもあった葦津珍彦は、七九年二月のある日、子息の泰国(『神社新報』編集長)を派遣して国民のコンセンサスを得られない「A級の独断専行による合祀」に抗議した。A級戦犯には「悲惨な敗戦へとミスリードした責任がある」という立場からだったが、松平は「国から名簿が来たら合祀する。それが筋だ」とくり返すだけであった。

だが葦津父子の動きは水面下にとどまる。公然化して神社界が分裂しかねないリスクを避けたのであろうが、同様の動きは宮内庁内部でも起きていた。徳川義寛(侍従次長、ついで(一九八五――八八年侍従長)の回想録(一九九七)から、要所を引用したい。

靖国神社の合祀者名簿は、いつもは十月に神社が出して来たものを陛ドのお手元に上げるこ とになっていたんですが、昭和五十三(一九七八)年は遅れて十一月に出して来た。
「A級戦犯の十四人を合祀した」と言う。私は「一般にもわかって問題になるのではないか」と文句を言った、が……私は東条さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、と言ったんです。永野修身さんも死刑になっていないけれど、まあ永野さんは軍人だから。
でも当時、「そちらの勉強不足だ」みたいな感じで言われ、押し切られた……国を危うきに至らしめたとされた人も合祀するのでは、異論も出るでしょう。筑波さんのように、慎重を期してそのまま延ばしておけばよかったんですよ。

関連して昭和天皇が亡くなられた直後の一九八九年(平成一) 一月十六日付の朝日新聞に、次のような記事が掲載されている。

イメージ 3亡き陛下は、A級戦犯が合祀された後の靖国神社へは行かれなかった。当時の侍従長だった徳川義寛参与よると、昭和五十三年秋にひそかに合祀される前、神社側から打診があり。
「そんなことをしたら陛下は行かれなくなる」と伝えたという。

徳川の二つの証言をつなぎあわせると、合祀の前に神社側から打診があり、反対の「御内意」を伝えたにもかかわらず神社は合祀を強行し、一か月後に合祀者名簿を届けてきたという経過になる。ただし打診した日、名簿を受けとった日付は不明、またやりとりの当事者が誰だったのかもはっきりしない。

これに対し、靖国神社はのちに「七日新祭神合祀ノ儀上奏並二十八日勅使御差遣申請ノタメ池田権宮司、宮内庁侍従職及掌典職へ出向ス。古河禰宜、林権禰宜随行ス」と記載されている十月七日の社務日誌(図5-I)を公開、この日に上奏文とA級をふくむ全合祀者の名簿を宮内庁へ届けたはずで、前日に総代会の了承を経ているから手続き上の過怠はないと反論する。

だが、松平永芳宮司ら一部総代の善意の暴走が昭和天皇の逆鱗に触れたのは間違いなさそうだ。

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そこで徳川説と靖国の言い分をめぐる関係者の諸説(一部は要旨)を列挙して、争点をさらにしぼってみることにしたい。

○馬場久夫談話録(二〇〇七年)
十月七日とは別に十一月頃、池田権宮司に横地主典が随行して上奏名簿を  宮内庁へ届けたと記憶する。そのさいだったか、「これでは陛下はお参りでき  なくなる」と言われたと横地から 聞いた。
その後、参龍の席で数人の神職が池田権宮司を囲んで「なぜあんなことをし  たのか」と聞くと、応待した侍従から「これで陛下はお参りに行けなくなります   が、いいんですね」と念を押され「わかっています」と答えたとのことであった。  A級合祀はいわゆる「事後承諾」だったと思う。

○林昭太郎談(二〇〇七年三月七日)
十月七日、合祀事務を担当する調査課長の私は古河調査部長とともに、池   田権宮司に随行して宮内庁へ行った。A級十四名の「昭和殉難者」は厚い表  紙をつけた別冊となっていたが、七日に持参した記憶はない。横地はおくれて  それを届けたのかもしれない。「事後承諾」説に同感する。

○岩井克己談
『侍従長の遺言』は宮内庁詰記者として親しかった私が、徳川からのヒアリン  グをまとめたものだが、神社から十月七日の社務日誌に上奏簿を届けた記   録があると抗議され、徳川からの聞きちがいかなと思って、第三刷では「十一  月」を「ふだんよりおそく」と訂正した。

○伊藤智永(毎日新聞記者)の著書
十月七日の「上奏」は合祀者名簿を提出しない目頭での方針伝達に過ぎず、  恐らくは表現も婉曲だったため、宮内庁側はA級戦犯を合祀に含める方針に  ついての単なる「打診」と受け止め、懸念を伝えて制止した。
ところが松平は、戦後の上奏は戦前のような実質的な裁可の権限を伴わな   いのをいいことに、この目頭伝達を以て「上奏」済みと主張し、A級戦犯を含   む「上奏簿」の提出は、合祀が済んだ後で行った。

○松本健一 『畏るべき昭和天皇』
A級合祀の数年後、中曽根首相は「近隣諸国の国民感情に配慮し、首相の   公式参拝を取りやめた。岩見隆夫『陛下の御質問』(一九九二)によると、富   田宮内庁長官から中曽根のもとに、「靖国の問題などの処置はきわめて適切  であった。よくやった、そういう気持ちを伝えなさいと陛下から言われておりま  す」との伝言がもたらされたという。

○富田メモの公表を受けて開催された緊急総代会(二〇〇六年七月二十八日  )における神社側の説明資料(要旨)
昭和四十五年六月の総代会で「速やかに合祀すべきだ」と青木一男氏から   提案があり、筑波宮司が「時期は慎重に考慮し、御方針に従い合祀する」と   述べた。同五十三年十月六日の総代会で、松平宮司から提案があり「一同   異存なし」と再度了承している。翌七日に宮中へ報告した。松平宮司は決して  独断と偏見で決めたのではない。総代会で何度も決めておいて、最後に宮内  庁に相談した。

さて以上のような諸証言をどう読み解くかだが、整理すると次のような複数の筋書が想定できよう。

1、十月七日に上奏文と西田中尉を筆頭者とする出身府県別の合祀予定者名簿  を宮内庁へ届けたさい、A級の十四名は、
a 出身地の府県別に分散して記載し、池田権宮司、が目頭で総代会(六日)   の決定に基づき。合祀を予定していると報告(打診)した。
b 名簿から外した。
2、宮内庁側は担当の徳川侍従次長を中心に対応に苦慮したが、総代(加藤進  、東園佐和子)からの情報もあり、松平宮司の決意が固いと察し、法的な対    抗手段がないことも考慮して、
a 静観せざるをえなかった。
b そんなことをしたら陛下は親拝しなくなると伝え、翻意を期待したが、空振り   に終った。
3、十月十七日の合祀後、松平宮司はA級の合祀に正当性を与えるため、「昭和  殉難者」というカテゴリーの新設を考案、「昭和殉難者(仮称) 一覧表」(図5  ー2)を宮内庁に届け、異議が出ないと見定めたうえ十一月二十四日に、「仮  称」を外した宮司達を発出した。そのさいA級のみを抜きだして浄書した簿冊  を届けたとすれば、「遅れて十一月に出してきた」と徳川が記憶違いした可能  性もある。