イメージ 1

p26-27
このような支離滅裂な文章を読むと、これらの「国策」を作成した当時の政策担当者の知性と能力に疑いを持って当然だろう。そして、戦後流布された、視野が狭い馬鹿な軍人が日本を戦争に引きずり込んだというイメージに納得してしまうかもしれない。では、そんなに彼らは愚かだったのだろうか。答えは否である。

「国策」の決定者たち

戦前の軍は、その人材調達において、国民に最も門戸を開放していた組織であった。成績優秀でも経済上の理由から高等学校への進学を諦めざるを得ない階層の子弟の進学先は、陸士(陸軍士官学校)・海兵(海軍兵学校)か、師範学校(小学校教員を養成する)であった。その門戸の広さは、他の政府機関と比較しても歴然としている。そして、軍の人事は徹底した成績主義であった。つまり、最も幅広い階層から優秀な人間を集めて、さらに栄達に向けて組織内で競わせる、きわめて公平な組織が戦前の軍だったのである。

戦後、教育の機会均等が進み、より多くの優秀な人材が霞ヶ関に集まるようになった。一番人気は今も昔も財務省(旧大蔵省)である。その優秀な彼らが、バブル経済とその後の「失われた十年」を招来したことは、記憶に新しい。問題は、そのような官僚の能力にではなく、組織が持つ行動原理にこそ存在した。結果論から軍人を馬鹿呼ばわりすることは簡単である。しかし、そのような態度は、膨大な犠牲を払った戦争から教訓を得る貴重な機会を失わせることになるだろ。

イメージ 2
「国策」決定の手順
p38-41
 さて、「国策」は、どのような過程を経て、正式決定されたのだろうか。
問題は、「軍部」や陸軍が決して一枚岩ではなく、むしろパラパラたったことである。例えば、参謀本部では次長直属の第二十班が戦争指導を担当し「国策」の策定にあたったが、作戦部長~第二課(作戦課)のラインも「国策」を起草してイニシアチブを握ろうとしていた。つまり、「国策」は初発の時点から、軍官僚機構内の主導権争いを反映していたのである。

これらの原案は、次に部内調整というハードルをクリアしなければならなかった。官僚は、その主管業務の専門性を根拠に、所属する部署の利害を「国策」に盛り込もうとする。巨大組織の常として、この段階から紙の上での戦いが始まっているのである。

特に陸軍は組織が大きかったため、内部の調整が大変たった(図3)。二十班は参謀本部内をまとめた後(第1ステージ)、軍務局の軍事課長・軍務課長(及び高級課員)らと摺り合わせて(第2ステージ)、海軍に提示する(第3ステージ)。陸軍の二十班に当たるのが、海軍の軍令部第一(作戦)部長直属(甲部員・乙部員)であった。彼らは同じ軍今部の作戦課長、海軍省軍務局のI・二課長らと協議し、局部長レベルにあげる。

問題がなければ、そのまま大本営陸海軍部の原案として連絡懇談会に提案されることになる(第4ステージ)。しかし、事務当局の折衝でまとまらない場合は、省部の局部長レベルで攻防が繰り広げられた(陸海軍の軍務局長と作戦部長の四名が主)。開戦直前の日米交渉のような重大問題は、このレペルでの調整がメインとなり(外交問題なので、外務省のアメリカ局長がメンバーに加わる)、最後は大臣・統帥部長クラスの直接交渉まで待ち上がった。それでもまとまらなければ、玉虫色の作文で問題を先送りするか、それもできずに突き詰めれば内閣崩壊である。

また、連絡懇談会に提案されたからといって、「国策」はすんなりと可決されたわけではない。先の「対仏印、泰施策要綱」のように、会議が紛糾した挙げ句に本文と矛盾する文章が末尾にべたべたと添付される例は典型である。

そして、連絡懇談会で決定された「国策」をどのように取り扱うかは、その場の判断に任された。軽易なものは関係者限りの申し合わせとなるが、重要事項は天皇に説明された。その場合、統帥部から上奏(天皇に申し上げること)するか、首相が上奏するか、それとも両者が共同で上奏するかは、重要度・必要性に応じて対応された。上奏した後の扱いもさまざまであった。単に天皇の耳に入れるだけか、それとも裁可を仰いで允裁(臣下の申し出を許す)を得るかで、拘束力は異なる。先述したように、より重要な案件は宮中で御前会議を開催して同じ案件を決定し、権威付けがはかられた。その際、天皇は原則的には発言しないこととなっており、枢密院議長が代理をつとめていた。

このようなコンセンサス方式による文案の決定のありようは、先に指摘した特徴を「国策」に刻印した。明確な意思決定が困難な場合の「国策」決定の特徴を改めて整理すると、

①「両論併記」=一つの「国策」の中に二つの選択肢を併記する。二つどころか、多様な指向性を盛り込み過ぎて同床異夢的な性恪が露呈する場合もある

②「非(避)決定」=国策の決定自体取り止めたり、文言を削除して先送りにすることで対立を回避する

③ 同時に他の文書を採択することで決定された「国策」を相対化ないしは、その機能を相殺する

「両論併記」に象徴される「国策」内部の矛盾は言うに及ばず、それに従って策定された筈の具体策との矛盾など、その例は枚挙に暇がない。つまり、政策担当者の対立が露呈しないレベルの内容でとりあえず「決定したことにする」のが「国策」決定の制度であった(「両論併記」については、その提唱者である古沢南『戦争拡大の構図』青木書店 86年、を、「非決定」については、拙著『日米開戦の政治過程』吉川弘文館 98年、”非決定”という恐るべき「制度」『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 下』NHK取材班編著 NHK出版11年、を参照)。
結局は日本という平和な談合国家の構造的欠陥であると思うのです。

私は憲法改正論者ですが、未だに憲法九条を守ろうという守旧派の方々はもちろんのこと、プログレッシブな保守派で改憲に賛成の方々ですらこの欠陥に気が付いているのは少数派だと思います。

憲法を改正したとしても、その憲法が日本国の構造を組織の利益より国益よ優先する仕組みに変化させなければ日本の未来は暗いと思います。

P44-47
官僚や政治家特有のレトリックである。現代でもその傾向は顕著だが、折衝の過程で拠って立つ論拠を変更することは、彼らの常套手段である。人間である以上、相手や状況によってレトリックを変えることは珍しいことではないが、政治家や官僚の場合は筋金入りである。

そして、この時期の日本外交の重要なキーパーソンだった松岡洋右外務大臣(第二次近衛内閣)は、能弁かつ支離滅裂な言動で有名な人物であった。松岡は連絡懇談会の席上で目まぐるしく意見を変え、そのレトリックが一八〇度ひっくりかえった場合もあった(典型的な例は、シンガポール攻略論〈南進〉から撃ソ論〈北進〉 への転向である)。そのような発言をどれだけ集積しても、彼が何を考えていたかを理解できるとは思えなくなるのが、通常の感覚だろう。これは松岡と折衝していた当事者でも同様だった。

しかし、このような松岡の逸脱的な言動も、広いパースペクティブと長いタイムスパンから検証すれば、それなりの合理性を有していた。当事者のなかにも、たとえ松岡が興奮して喋りまくっても、一晩おけば頭が冷えて冷静な判断をすると観察している者もいたのである。 問題は、松岡が何を喋ったかではなく、その言説がどのような効果をもたせようとして発せられたか、かつどのように政局を動かしたかである。松岡の支離滅裂な言動の奥底にどのような考えがあったかを示す逸話がある。彼のゴーストライターを自称する外務官僚の加瀬俊一に対して、松岡が語った言葉である。「外務省にデモが押しかけてきたらどうするか。大手をひろげて立ちはだかってはいけない。デモは凶暴になるばかりだ。いいかね、デモの先頭に立ってつっ走るんだ。いっしょに走る。そして、次の角でうまくまがるんだ」(『加瀬俊一選集 戦争と平和シリー ズV 日本外交の旗手』山手書房 84年)。

同様のことは他の政治勢力にも指摘できる。「国策」の折衝過程は、説得のための論理が横行 する場面でもあった。特に松岡はブラフを多用する政治家だったため、松岡を説得する側も勢い 強硬な言質を弄することがしばしばたった。つまり、文言をめぐる紙の上のパドルと相手を説得するための言葉のパドルが常に繰り広げられていた。戦いである以上、勝利が自己目的化してレトリックの整合性が軽視されるのも当然だろう。これが、日本の政策決定の常態だったのである。

このように、日本の意思決定システムは、「船頭多くして船山に登る」状態だった。何か有効な解決策を実行しようとしても、誰かが強硬に反対すれば決定できない。まさに独裁政治の対極であった。

ゴミ箱モデル

このような混沌に満ちた意思決定状況は、果たして日本に特有だったのだろうか。実は、そう でもない。日本よりもリーダーシップや責任体系が明確とされるアメリカにおいても、意思決定状況をカオスと捉えて説明しようとする議論がある。社会学者コーエン、マーチ、オルセンブルウェー)らが提唱した「ゴミ箱モデル」である。

この議論は、人間がさまざまな選択肢の中から最適のものを選ぶとする合理的意思決定モデルとは対極にあり、意思決定は場当たり的な決定の積み重ねと説明される。そもそも、我々が住む世界では、選択肢と予想される結果との関係が曖昧である。さらに、その選択に関与する集団(これも一定ではなく、入れ替わりがある)の関心や目標も曖昧である。そのような条件の下での選択は、まさにゴミ箱(選択機会)にポンポンとゴミ(条件)が投げ込まれるように決定される。いったん決定されればゴミ箱は退場するが、状況に応じて新たなゴミ箱が登場し、同様の過程が生起するというのである。つまり、全く異なる条件下での選択が繰り返されるため、そこには時間軸を貫く一定の構想は存在せず、局面局面の場当たり的な決定しか見いだせない(ゴミ箱モデルに関する平易な解説は、鎌田伸一 「対米開戦経緯と意思決定モデル」『軍事史学』99・100合併号、90年、を参照)。

このようなモデルで考えれば、開戦過程で投げ込まれた条件は何だったかを検討することが課題となろう。また、政治学者丸山員男は、日本の政治を神輿に喩えた(確固たる中心がなく、多くの担ぎ手が押し合いへし合いしているうちに物事が思いもかけぬ方向へ流れて行く)が、常に変動する神輿の担ぎ手を確定することは重要である。陸海軍の中堅幕僚(陸軍省、海軍省という軍政担当と、参謀本部と軍令部という統帥部に、それぞれ存在)、局部長(陸海の軍務局長と作戦部長)、陸海両相(陸軍大臣と海軍大臣)と陸海統帥部長(参謀総長と軍1 部総長)、文官の閣僚では外務大臣、その下のアメリカ局長。予算を司る大蔵大臣、統制経済の下で「物の予算」に相当する物資動員計画を担当する企両院総裁、そして、それら閣僚の筆頭である総理大臣。政策決定に直接的な責任があったのは彼らである。さらに統治権の総攬者であり、陸海軍の大元帥である天皇も、検討の対象となる。加えて、明治憲法体制では、これら以外の勢力も無縁ではなかった。大皇の弟である高松宮、枢密院、さらには重臣(総理大臣経験者)も意思決定過程から完全に疎外されていたわけではない。

となると、なぜ日米開戦のような重大問題で、これら当事者全員の意思統一が可能となったのだろうか。それは、日米間戦が、それ自体を目的として追求された結果、選択されたわけではなかったことも一因である。これから、そのプロセスを詳しく見ていくが、その中で明らかになってくることは、むしろ、効果的な戦争回避策を決定することができなかったため、最もましな選択肢を選んだところ、それが日米開戦だったという事実である。

(略)
本書はこのゴミ箱モデルを使い昭和16年開戦に至る過程が本当によく分析されています。詳細は本書を是非ご一読下さい。

最後に昭和天皇が、帝国憲法を順守しながらも、いかに、開戦に抵抗していたかの部分。文字数の関係で画像です。
p66-68
イメージ 3