
次に「持たざる国」を「持てる国」にする計画を建て宗教的な世界最終戦争を目論んだ石原莞爾中将の思想を紐解きたい。
p175
石原莞爾は一八八九(明治二二)年、山形県の鶴岡で生まれました。(宮沢)賢治より七つ年上になります。父親は元は庄内藩士で警察官でした。莞爾は軍人を志し、一九〇二年に仙台陸軍地方幼年学校に入学。日露戦争があったのはこの仙台時代。東京陸軍中央幼年学校を経て、一九〇七年、陸軍士官学校に進みます。二一期生でした。ちなみに小畑敏四郎や永田鉄山は一六期、東条英機は一七期、阿南惟幾は一八期です。
(略)
石原は田中智学に傾倒し、一九二〇年の四月に国柱会の信行員になったわけですが、これは彼が陸軍大学校を卒業したのち、中支那派遣隊司令部付将校として漢口に赴任しようとする直前のことでした。なぜ、石原は智学に惹かれたのか。それは恐らく、智学が石原に、日本は何か何でも「持たざる国」から「持てる国」へと変身せねばならぬとの確信を与えたからでしょう。石原は智学の教えによって自らの思想と行動の原理を打ち立てたのです。
「統制派」の経済主義
「持てる国」と「持たざる国」。石原に限らず、第一次世界大戦の時代を経験した日本陸軍の軍人たちは、この二つの言葉にうなされていました。
第一次世界大戦で戦争のかたちはがらりと変わった。これからの大戦争は基本的には物量戦で消耗戦で補給戦で新兵器開発戦だ。要するに総力戦だ。総動員戦だ。鉄鋼生産量はどれだけか、石油の備蓄はどうか、食糧生産はどうなるか……。総動員されるべき事柄は山ほどある。どれもだいたい数字で勘定できる。その総計の多寡が戦争の結果を自ずと定めるだろう。例外は考えにくい。「持てる国」が圧倒的に有利である。
それはそうに違いありません。第一次世界大戦の現実を真摯に観察すれば誰の目にも明らかです。そのへんを素直に認めようとした陸軍軍人たちも大勢いました。特に砲兵畑や工兵畑に。しかしその先はどうなるでしょうか。日本は「持てる国」でしょうか。いや、「持たざる国」です。
国土は狭い。資源に乏しい。近代的総力戦にはおよそ向いていない。短期間で「持てる国」に生まれ変われるとは到底思えない。駄目ではないか。勝てないではないか。そこで荒木貞夫や小畑敏四郎ら、のちに「皇道派」と称される陸軍軍人たちは、大戦争にはなるたけ参加しないという極めて現実的な道に徹しようとしました。限定的な短期戦争しか行わない。それでさえ兵器や弾丸は不足するかもしれない。けれど「持たざる国」なのだ。軍備で背伸びすれば、国民経済に無理が生じる。国家や軍隊が反発を買いやすくなる。天皇制の存続の危機にもつながりかねない。
ロシア革命みたいなことが日本でも起きたら大変だ。だからなるべくお金をかけず無形戦力で補う。つまり作戦上の創意工夫と兵士たちのガンバリズムに頼ることにしたのです。
「皇道派」の人脈は、大正末期から昭和初期にかけて陸軍の覇権を握りました。極端な精神主義と初動のみに賭ける短期戦争論を基調とする『統帥綱領』等、重要作戦マニュアルの改訂にも成功しました。陸軍の思想を統一してゆけるようにも思われました。 が、そうは問屋が卸しませんでした。日本は「持たざる国」には違いない。しかし、表向きは第一次世界大戦の戦勝国として、世界の列強に数えられるまでになっている。小畑のようなつましく地味すぎる考え方では世界の中での日本の地位を主張できない。「持たざる国」を少しでも「持てる国」に変えてゆこうではないか。そのために知恵を絞るべきである。もちろん「持たざる国」を゜持てる国」にするなどという話は陸軍だけでは実現不能だ。国家の方針の問題だ。国を富ませなくてはいけない。急激な経済成長を奇跡的に達成でもしてくれたら、いちばんありかたい。軍の悩みは一挙に解決する。とにかく軍人が経済の心配をせざるをえない時代に突入したのだ。ならば、軍人としての身の程をわきまえつつも政界や官界や財界にだって、ある程度の働きかけを行うことさえ、時には必要ではないか。
そうした考え方を代表し、荒木や小畑と対立することになった陸軍軍人の旗手と言えば永田鉄山です。先述のように永田は小畑と陸軍士官学校以来の親友でした。けれど、「持てる国」と「持たざる国」を巡る思想の対立が、ふたりを分け隔てることになったのです。そして永田の周囲に集った陸軍軍人たちがのちに「統制派」と呼ばれるようになり、荒木や小畑から車内の覇権を取り返してゆきます。
(略)
「皇道派」は「持たざる国」でも「持てる国」に対してなお戦争をやり続けてしまえるほどの神がかった精神主義に関心があり、「統制派」はっ持たざる国」を「持てる国」に近づけるための算盤勘定、経済運営に関心があるのです。「持たざる国」が無駄なく資金を運用し効率的に経済発展を遂げるには、経済を市場のメカニズムに任せて自由放任にするよりも、統制経済や計画経済の手法に頼るのが適切ではないでしょうか。事実「統制派」と呼ばれた陸軍軍人の中には永田鉄山や石原莞爾、鈴木真一や池田席久など社会主義や共産主義の経済運営に強い関心を寄せる者が多かったのです。
p190-193
近代世界の苛烈な生存競争に勝ち残った二つの国が遠からず武力によって雌雄を決する。一方は西洋文明の代表国としてのアメリカである。もう一方は『法華経』の信仰を体現する日本でなければならない。これは石原の宗教的確信です。世界情勢を分析しての評論や学問ではない。
日本がアメリカに勝利して『法華経』の約束する理想郷をついに世界にもたらすのだ。世界最終戦争に日本が勝ち残ると、現世はそのまま仏国土に変じて永遠の理想郷と化す。理想郷にはもう戦争はない。だから本当に最終戦争である。そのためには「持てる国」のアメリカに負けぬ国力を日本が持つ必要がある。しかし、そんなことが可能でしょうか。
(略)
一九二八年一月、鈴木真一主宰の陸軍将校勉強会「木曜会」で日米の最終戦争の必然を力説し、同席していた永田鉄山に呆れられた石原は、同年夏、関東車参謀に任じられ、秋には旅順に赴任します。別に石原本人がそういう人事を希望したのではありません。陸軍の巨人な組織はいちいち希望を聞いてくれるようには出来ていません。たまたまと言うべきでしょう。
石原はそこに超越的なものの導きを感じていたものと思われます。伊勢神宮での啓示から一年を経ずして満洲の日本陸軍の中枢に入ったのですから。石原の計画に基づく満洲事変が起きたのは一九三一年九月一八日です。翌三二年三月一日には満洲国が建国されました。
石原は満洲で何がしたかったのでしょうか。どうすれば日本が最短で「持てる国」になれると思ったのでしょうか。言うまでもなく満洲に眠る豊富な資源を開発し、その地を世界的な重化学工業地帯へと育てることです。そして満洲の産業力を日本本国と連携させる。日本本土だけでは資源もなければ人口も足りない。朝鮮と台湾を合わせても世界に冠たる重化学工業を築くのは厳しい。だが満洲があれば可能である。当時は満洲の資源調査がまだまだ行き届いていたわけでもありません。未知不可測な要素がずいぶんある。それでも石原は突き進みました。やはり伊勢神宮での霊験のせいなのでしょう。
ただし、資源や工場だけあってもしようがない。産業を大きくするには人の力が不可欠です。豊富な労働力や知識力が要求される。当然日本人だけでは賄えません。だいたい日本がアメリカと最終戦争を行うのは『法華経』の教えの広がる東洋の仏教世界の代表者としてです。広くアジアに助けて貰って最終戦争の場に送り出して頂かねばならない。いわゆる「五族協和」の理念がここに生まれます1日本人、満洲人、中国人、朝鮮人、蒙古人という、満洲に生きる五つの民族が対等の立場で助け合ってこそ初めて満洲国は理想的な産業国家への道を歩めるというわけです。
たとえば煩悶青年の伊地知則彦が石原に傾倒した最大の理由は、やはりこの「五族協和」でしょう。
満洲国での「五族協和」の延長線上に生まれるのが中国を含めた広いアジアの連帯をはかる東亜連盟の運動になります。その中心にも石原が居ました。彼が「『戦争史大観』の由来記」を発表した雑誌は、この連盟の機関誌でした。
「持たざる国」を「持てる国」にする方法
ところで、石原の世界最終戦争とはどのような戦争なのでしょうか。「持てる国」と「持てる国」との総力戦です。「皇道派」の荒木貞夫や小畑敏四郎や鈴木率道らの思い描いた戦争、つまり「持たざる国」が物資の不足を精神力で補って無理々々に行う局地的で短期の殲滅戦争などとは規模が違います。世界大戦争なのです。かといって第一次世界大戦型の長期総力戦とも違います。徹底的な総力戦ながら、あっという間に終わる。それが石原の想像した世界最終戦争です。
石原によれば、第一次世界大戦的な総力戦、すなわち大国同士が何年にもわたって国力を絞り尽くし、消耗に耐え補給を切らさなかった方が勝つ戦争は、まだ近代戦の最終形態を表現してはいません。大戦争はその先で再び短い戦争に転ずると石原は言うのです。準備や前哨戦はいろいろあるでしょうが、戦争の本体は戦国時代の多くの合戦のように数日か一日か、もしかして数時間で終わってしまう。そんな戦争ができるようになると、ついに最終戦争時代だと石原は説きます。
なぜ、そんなに短く終わるのでしょう? 二〇世紀は科学の時代だからです。日露戦争ではまだせいぜい大砲と機関銃でした。それが約一〇年後の第一次世界大戦では戦車と飛行機と毒ガスと潜水艦です。兵器の破壊力は今後も加速度的に進化するでしょう。一瞬で大都市や国家そのものを破壊する、とてつもない兵器が現れる日も遠くないのかもしれません。最終戦争の決め手は結局最終兵器なのです。石原は最終兵器という言い方はせずに決戦兵器と呼んでいますけれど。ともあれ、あっという間に終わるのです。
決戦兵器は科学力と技術力の究極の結晶としてしか発明されないでしょう。その背景には巨大な重化学工業が存在せねばならないでしょう。研究開発のためには膨大な投資が必要でしょう。
決戦兵器を開発できるのはやはり「持てる国」なのです。「持たざる国」が決戦兵器を作り出すとは考えにくい。
p204-205
石原莞爾は日本を「持てる国」にするまで何十年か長期の大戦争をしてはいけないと考えました。小畑敏四郎は、日本はどこまで行っても「持たざる国」なのだから「持てる国」と正面きっての大戦争をやはりしてはいけないと思いました。原子爆弾は1933年(昭和8年)ハンガリー系ユダヤ人物理学者レオ・シラードによって、中性子を用いた連鎖反応のアイデアを思いつき、理論的な可能性を提案された。石原はそれより前に原爆や大陸間弾道弾の出現を予想していたことになる。
でも彼らのヴィジョンは、軍の中で軍人の本分を尽くしているだけでは達成される性質のものではありませんでした。どこの国とどういうタイプの戦争をするかしないかは結局かなり政治の問題だからです。石原も小畑も、あるいは石原の先輩格の永田鉄山も、それぞれの立場から政治に働きかけられないかと知恵を絞りました。けれども大日本帝国の法制度ないしは政治文化は、軍人の政治的振る舞いをはねつけるように出来ていました。
思想的軍人は排斥される運命にありました。そうやって大勢が消えてゆきました。満洲国は石原の手を、『統帥綱領』は小畑の手をそれぞれ離れ、生みの親が与えたかった歴史的使命とまったく無縁の道を歩き出しました。
日本を「持てる国」にするまで何十年か長期の大戦争をしてはいけないと考えました。ある意味で正しい選択であったと思うが、現実問題として、米国から突き付けられた南部仏印進駐撤回や満州や大陸からの撤退などとても飲めなかった。
もし石原が陸軍の中心にいて日本は艱難辛苦を耐えることができたであろうか?
石原の世界最終戦争のifはあくまでもifにすぎない・・・

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