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日本語ローマ字化で国家解体
http://www.uniqlo.jp/uniqlock/swf/blog_small.swf?user_id=Bo4uxIuSX6BfwXZCもう一つ、文字政策も戦後システムの重要な一面です。戦前日本には常用漢字表がありましたが、戦後は当用漢字表になり、一丸八一年に再び常用漢字にもどりました。当用漢字というのは、当座用いる漢字という意味で、その前提にあったのは、日本語を最終的にはローマ字表記にするという考え方です。
日本語ローマ字化の中心になったのは東京大学の言語学教室です。戦後、日本の言語学は音韻論を主として発達しましたが、その中心になったのが服部四郎教授の言語学教室で、驚くべきことに紀要もほとんどローマ字表記でした。音韻論が中心になったのはなぜかというと、ローマ字化すると、分かち書きしなければならない。漢字仮名交りなら「これは鉛筆です」と分かち書きしないでいいけれども、ローマ字だと、korehaで切るのかko-re-haと切るのか、決めなければならない。それを音韻論で決めていこうというのです。
当用漢字は、直ぐに全部をローマ字表記にすると混乱するから「当用漢字」として定めたもので、だから字数もきびしく制限されたわけです。
本当に日本語のローマ字表記化か成功していたら、どうなっていたのでしょう。実は、いまの日本語の漢字仮名交り表記があるために、私たちには文字による情報の人手が非常にしやすくなっているのです。視覚的な把握力に優れたシステムだから、ものすごく速い時間で情報を頭に入れることができる。もしローマ字表記だったら、視覚による情報の把握度が格段に落ちることは間違いありません。
それなのになぜ漢字制限とかロ-マ字化をしようとしたのかというと、「日本人は漢字仮名交りという悪魔の文字システムを使っている。まっとうな文明国には読めないような文字を使っているから世界に反逆する思想を待ったのだ」という考えがあったのです。これは私か勝手に言っているのではなくて、言語学者の鈴木孝夫氏と田中克彦氏が『対論言語学が輝いていた時代』(岩波書店、二〇〇八年)という対談本の中で語っていることです。
「アメリカの言語学が、まったく新しい学問として日本に登場できたのは、アメリカの占領政策と深い関係があるのです。その占領政策は何かというと、日本語をローマ字書きにして、国語イデオロギーを解体しようとしたことです」「それで漢字をやめさせようという考えがあった。日本語は分かち書きしない言語だから、まず、どこに単語の切れ目があるかを知らなければならない。服部さんはこれをずいぶんやりましたよね。(略)その前提としての『音韻論と正書法』は、日本語をいかにしたらローマ字で音素表記ができるかという問題を扱っている。服部さんは結果としてアメリカの占領政策と一致する形で、方法も内容も日本にもってきた」(田中氏)。
「アメリカ軍が日本を支配するときに、とにかく日本人の書いているものが読めなければ、悪いことを言っているのかいいことを言っているのか、コントロールが利かない。だから、ほんとうはフィリピンみたいに英語を使わせれば、占領はいちばん簡単だけれど、日本語廃止論というのはあまりに現実ばなれしている。じゃ、せめて文字だけは悪魔の文字をやめてもらって、ローマ字にすれば、アメリカ人が少しは楽になる、という政策があった」(鈴木氏)。非常に説得力かおる話だと思います。こういった文化的なところから敵を切り崩していくのが、帝国主義の一番深いやり方なのです。
国家と文字システムについて、たとえばロシア語では、一九一七年のロシア革命後、三つの文字を排除しました。そのために、特殊な訓練を受けないと革命前のロシア語が読めなくなってしまった。ボリシェビキ政権、ソ連政権は、革命前の知的遺産のうち、国民にしらしめたほうがいいと思うものだけを選んで新しい文字表記で出すことにしたわけです。
中国の簡体字改革にも同じ意味があります。敗戦後の日本でもそれと似たことが起きていたのです。戦前との連続性が断たれようとしたわけです。
韓国が“従軍慰安婦”の証拠だと提示した証拠の中に戦前の新聞広告ががあった。見ると、そこには「募集」という漢字がくっきり書かれている。 慰安所で働く売春婦は「強制徴集された」と主張された韓国が国を挙げて主張していてこの体たらく。爆笑しつつ、漢字を読めなくなった国民を哀れに思った。

韓国人達は歴史を忘れたというより漢字を忘れ、歴史も知らず、サッカー東アジア・カップ男子日韓戦での韓国応援団の反日パフォーマンス問題で、FIFAより執行猶予中の身で“罪”を犯しながら、それを相手のせいにし、そっちの方が重罪だと声高に叫ぶ独善的な姿勢には、まったくうんざりだ。こういった歴史を知らず歴史を妄想する韓国人を生んだのは漢字を排除しハングル表記にし、漢文で書かれた自国の歴史を読めなくなった影響が多分にあると思う。日本も漢字を廃止しローマ字書きにしていたら隣の民族のように白痴になっていたかもしれません。
AVを撮られてインジヤ(隠者)となった女の子の話を書いている。そこだけゴシック活字で異質な章にしているのですが、私か去年その本を梨本さんから寄贈されたときは意図がわからなかった。実は、人は人を実験材料にしてはいけない、それをやるとアウシュビッツや七三一部隊と同じような構造で、大人の世界の悪を知らない未熟な女の子をアダルトビデオに勧誘することは、魂を殺す作業に荷担することになると言っていたのです。p205-207
非常に説得力があると思いました。アダルトビデオで働いて傷つき、トラウマを抱えて一生働けなくなった女性たちが数千人単位にもなっている。実はこういう異常な事態が日本社会を弱くしているのです。
梨本さんは、自らの作品を通じて「これでいいのだろうか」と説得するというプリミティブなやり方で対抗しようとしている。こういう地道な努力が、社会を強化するのです。
同胞意識をもち、かつ民族に縛られない
新・帝国主義の時代において国家機能が強化されようとしていることはここまで述べてきました。国家と同時に社会も強化される必要があります。そのためにはどうすればよいか。
そこでまず回復しないといけないのは、人間の隣には人開かいるという、同胞意識です。日本に生まれてきている人に、一人も無意味な人はいない。そういう相互関連の中で生きているという皮膚感覚を持てるかどうかが大切で、現在の閉塞状況を一人ひとりが生きのびるためには、自分のネットワークをつくることが重要です。
そして国家は悪いものだけれど、だからこそ大切にする。こういうことは弁証法的な関係になるものです。政治家に対しても、信頼できないからこそ、きちんと対応するというふうにしなければならない。そういう逆説によっていろいろなものを繋いでいくことです。
この場合、日本で生まれたということが大事なのです。世界市民では難しい。人間は抽象的な存在ではないのですから、具体的な場所を離れてはありえない。そこで一人の人間が、たとえば大阪人というアイデンティティと、関西人というアイデンティティと、日本人というアイデンティティと、それぞれ密度が違ういろいろな複合域を持っているわけです。
その中で気を付けなければいけないのが、民族というアイデンティティで、これは学術的には二百数十年の歴史しかない概念だと知ることです。しかし、それがあたかも原始から永遠に続くもののように見えている。その二重性を認識しておくのが大事です。民族という概念は、いまもっとも流行っている「宗教」であって、しかし渦中にいるとそのことが見えなくなりがちです。
われわれは通常、さまざまな概念を巡って演技をしているのですけれども、ときには舞台の上で本気になって命まで投げ出す人間もいる。それをさせるのが「民族」という概念なのだと知っておくべきです。
ただし同胞の「絆」と言っても、これも抽象的な話にしていては駄目で、仕事や勉強などで具体的に助け合わなければいけない。「真理は具体的」なのですから、働いて飯を食って行く中で仲間を見つけることです。
読書人階級を再生せよ
そこで私か必要を強く感じるのが、階級としてのインテリゲンチャの重要性です。かつての論壇、文壇は階級だったわけです。編集者も階級だった。その中では独特の言葉が通用して、独特のルールがあった。ギルド的な、技術者集団の中間団体です。国家でもなければ個人でもなく、私的な利益ばかりを追求するわけでもない。自分たちの持っている情報は、学会などの形で社会に還元する。
時代の圧力に対抗するにはこういう中間団体を強化するしか道はない。なんでもオープンにしてフラット化すればよい、というものではありません。
新書を読むような人はやはり読書人階級に属しているのです。ものごとの理屈とか意味を知りたいという欲望が強い人たちで、他の人たちと少し違うわけです。読書が人間の習慣になったのは新しい現象で、日本で読書の広がりが出てきたのは円本が出版された昭和の初め頃からでしょうから、まだ八十年くらいのものではないですか。円本が出るまでは、本は異常に高かった。いずれにせよ、現代でも日常的に読書する人間は特殊な階級に属しているという自己意識を持つ必要があると思います。
読書人口は、私の皮膚感覚ではどの国でも総人口の五パーセント程度だから、日本では五、六百万人ではないでしょうか。その人たちは学歴とか職業とか社会的地位に関係なく、共通の言語を持っている。そしてその人たちによって、世の中は変わって行くと思うのです。
それができなければ、資本主義の論理にやられてしまう。資本はマルクス経済学から見るとある意味では簡単で、社会の外部的なものです。商品交換という、本来共同体と共同体の間で行われていたことが、共同体の内部に浸透してきたわけです。そして共同体内を徹底的に変えてしまって、人間の存在そのものを破壊するシステムになってしまった。これが資本主義です。この現実をマルクスは百五十年前に明らかにしています。
しかし資本主義に対して即自的に反発するナチス経済学や皇道経済学のようなもの現下のTPP亡国論などはいけません。あるいは、経済学的ロマン主義と呼ぶべきかもしれませんが、この人たちは現代の魔術師です。ルーマニアで二〇一一年末、魔女が逮捕されるという事件がありましたが、あれと同じで、信じるとは救われるということで、予言をしたり、呪ったりする。経済学にはこうした魔術がしのびこんできやすいのです。
だから私たちは、知的に鍛えておかなければならないのです。
経済学は科学だといっても、もともと近代の科学は魔術の発想から始まった。科学は、技法を習得した人が手続き通りにやれば、誰でも同じ結果になるわけです。実は呪いも、丑の刻参りは丑の刻にしきたりに従って五寸釘を打てば必ず呪いをかけられるわけで、近代科学の発想と同じです。
キリスト教がなぜ魔術(=近代科学)を禁止したかといえば、神様は気まぐれで、私はありとあらゆるものだと言って突然怒り出したりするのであって、理屈で測れるものではないからです。したがって人間が神について考えるのではなくて、神の言うことを虚心坦懐に聞くことが重要になります。その転換が」九一八年の『ロマ書』で神学者カール・パルトが言った神の再発見です。近代的な知性の限界をどう捉えるかという問題です。
宗教学ではなく神学が大切なのです。宗教学というのは宗教を観察の対象として見るむので、むしろ無神論、唯物論の系譜ですが、対して教学や神学は宗教に対して主体的なコミットメントをするもので、いまはこちらが必要です。本は日々読むべきだと思うのです。空気を吸い、ご飯を食べるのと同じぐらい脳にとって大切なメインテナンスだと思うのです。
私は何度も死にたくなるよな挫折感を味わったと思っています。しかし、日々の読書によって何度救われたかわかりません。ある種読書は私にとっての宗教かもしれません。生きていくのに必要な人間の叡智は読書からだと私は確信しています。その1 その2 その3 その4 その5

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