http://www.uniqlo.jp/uniqlock/swf/blog_small.swf?user_id=Bo4uxIuSX6BfwXZC
2010年7月『「気候文明史」副題:世界を変えた8万年の攻防 田家 康 著(日本経済新聞社)』を読むをその1~5まで書いた。本書でいえば132/320ページ。
2010年の猛暑も酷かったが今年(2013年)の梅雨明けの猛暑も酷く、「気候文明史」の5の先をまとめたくなり3年ぶりに その6 から書き出します。


異常気象は果たして異常気象なのであろうか?人類が誕生して以来地球の気候変動は激しく動き、「気候文明史」副題:世界を変えた8万年の攻防を読むとむしろ現代は気候的に平穏な時期なのである。


4 日本列島の場合‥気候変動と縄文・弥生時代
p133
三内丸山遺跡の温暖な気候

6000年前、メソポタミア南部に人目が集まりウバイド文化が花開いた頃、日本では青森県の三内丸山遺跡が繁栄し、縄文前期から中期と区分される時代にかけて1500年の間、大集落を形成した。縄文海進により海面水位が上昇し、陸奥湾は三内丸山遺跡のすぐ北まで入りこみ、遺跡のあった集落は陸奥湾での漁掃と背後にある森林での狩猟採集に非常に適した立地条件になっていた。

三内丸山遺跡に住んでいた人々は、堅果類の中でアク抜きの必要のないクリを主食とした。
5700年前頃の土壌の中には、クリの花粉の出現率が90%を超える層がある。クリは虫を介して花粉が運ばれる虫媒花であり、大量の花粉を空気中に撒き散らす必要がないため、自然状態の土壌では花粉の出現率が10%以下しかない。このことから、遺跡の土壌に残る多量のクリの花粉は人為的に集められたものであり、三内丸山遺跡に住んでいた人々がクリを大量に集め、調理していたことがわかる。

三内丸山遺跡には最盛期におよそ500人が居住しており、一人あたり年間146キログラムのクリを消費していたと考えられる。この人数を維持する食糧の確保のため、遺跡川辺の原乍林を伐採して50ヘクタールのクリ林を造成し、6000本から一万本のクリを植林していた。クリ林では、よい実のなるクリを選んで植林さ胆ていたようで、また遺跡からはクリ以外に、ヒョウタンミゴボウエゴマ、マメ類もみつかっている。
イメージ 3
p134-135まとめ
しかし縄文中期5500年前に寒冷化⇒小海退⇒三内丸山遺跡は沿岸から内陸となってしまう。この時期対馬暖流の勢いが弱まり気温の低下、降水量の低下⇒クリ・どんぐりの不作⇒集落の放棄

縄文中期、東日本関東の沿岸集落も同様に食料危機となる。⇒ナラ・クリを求め関東西部~八ヶ岳山麓など内陸型集落を形成

4200年前以降、極東地域で南西モンスーンが弱る。⇒日本列島の気候が冷涼で湿
潤となる。4500年前に針葉樹の花粉が増加、4600~4200年前の180年間に気温が約一度低下したと推定される。⇒中部山岳地帯で繁栄していた集落4000年前に縄文中期文化は崩壊。

国立民族学博物館の小山修三教授による縄文時代の日本列島の推定人口
10000年前 日本列島が大陸から離れて島国となった。気温2度ほど低い。
8000年前 2万人 海水面も30メートルほど低かったが、海水面の高さが戻る。
5000年前 8万人  最適温暖期 縄文海進 海水面4~5メートル高くなる
4200年前 26万人  寒冷化直前 縄文中期
4000年前-3000年前 縄文後期 16万人 気温2度前後低下。
3000年前-2300年前 縄文晩期 76000人海面も低下し漁労が壊滅的打撃受ける。

縄文中期文化の崩壊は、ちょうどメソポタミアのシュメール文明が滅び、円シフトが第一中間期として混乱に陥った時代と時期を同じくする。また、この時代に、中国でも良渚遺跡、石家河文化、宝撤文化といった長江文明は、4000年前頃に急速に衰退。仰詔文化を代表とする北方の黄河文明にとって代わられている。
長江文明の衰退は大洪水によって起きたとする説もあるが、日本や西アジアを襲った気候変化と無縁ではない。

ローマの盛衰とその時代



【センター世界史】共和政ローマ(2)グラックス兄弟の改革





ロ-マ帝国が繁栄したのは紀元前2世紀から紀元4世紀の500~600年間の温暖期にパックスロマーナと称される大帝国を築きやがて寒冷期の到来とともに混乱していった。

ローマ人はワインを飲み小麦で作ったパンを食べていた。ワインはヨーロッパ全般に栽培されているがぶどうの栽培地はローマ人によって持ち込まれた。群の遠征と密接にかかわっている。

ぶどうの栽培地が北部ヨーロッパまで広がったのはローマ人の嗜好や栽培技術が伝わったこともあるが気候が温暖化した要因が大きい。

2800年前から前進していたアルプス氷河は2300年前ごろから後退し、BC218年カルタゴのハンニバル将軍は開通したばかりのアルプスの峠を象軍を引き連れ北イタリアに現れた。BC1世紀今度はカエサルが峠を南から越えガリア全域の支配に乗り出した。


気候の温暖化とローマの繁栄は一致していた。中国との交易もシルクロード中継地点である中央アジアの降水量が増えオアシス都市が発展した要因が大きい。シルクロード交易は紀元前290年頃から紀元300年頃までの400年以上の間活況を呈したが、寒冷化によって内陸部で干ばつが発生し、やがて衰退していった。

p144-147
 悪天候が阻んだゲルマンの地

寒冷化や干ばつは、食糧不足を生じ、為政者への反乱や民族移動による衝突を起こす。歴史を変えるに至った気候の変動とは、これまでみてきたような五〇年、一〇〇年、あるいは数百年単位で続くものであった。しかし、ときに数年の異常気象、さらにはある一目の極端な気象現象により、歴史が塗り変えられることがある。特に戦争のように、短く凝縮した時間の中でその後の社会のあり方を問う場合、極端な気象現象が闘いの帰趨を決めるケースがある。ウェザーファクターとよばれるもので、紀元九年、ローマ帝国がゲルマン人に完敗したトイトブルク森の戦いで大きな要素となった。

初代皇帝アウグストゥスの時代、ゲルマニア総督であったウアルスは三個師団二万人を率いてライン川を越え、ゲルマン大の住む地域の制圧に乗り出した。ローマ帝国の国境を、ライン川より東方のエルベ川まで広げようという構想があったからだ。

しかし、ドイツ北西部ニーダーザクセン州のオスナブリュック近郊に侵入したローマ軍は、対するケルスキー族の王子アルミニウスの巧妙な仕掛けにより、森の中へと誘いこまれた。同年九月、進軍するローマ軍の縦列は一五キロメートルにも伸び、声が届かないほど長くなっていた。森にはアルミニウスの率いる一万人あまりの兵が隠れていたのだった。

カシウスーディオの『ローマ史』第五六巻によれば、このとき、激しい雷とともに暴風雨が到来し、アルミニウスはこの悪天候を利用して戦闘を開始したのである。雷を恐れるローマ兵は混乱し、加えて森の中の戦闘となったために、ローマ軍の武器である弓矢や投石器は無力となった。ウアルスは戦死、ほとんどの兵士も殺戮された。

トイトブルク森の戦いは、歴史の分岐点であった。その後もローマ軍は数年にわたってライッ川を渡河したものの、ティベリウスはローマ帝国の勢力をライン川西岸にとどめるための城壁を築いた。こうして偶然襲った雷雨がラテン文化圏を定め、ドイツとフランスを分けることになったのである。

トイトブルク森の戦いは、十九世紀以降、ドイツで民族主義の象徴として扱われるようになる。一八七五年、領邦国家のドイツを統一した首相ビスマルクは、戦地に近いグローテッベルクにアルミニウスの像を建設した。


気候悪化の中での内憂外患

二世紀に入ると、ヨーロッパの気候は次第に寒冷化の傾向を示すようになる。
上空の気団の配置が変わり、地中海性気候と北部の大陸性気候の境界は南下した。それまでデンマークからフランスにかけてのヨーロッパ大陸北縁に位置していた前線は、イタリア半島上空に横たわるようになったと推測される。

もともと首都ローマは洪水災害を受けやすい地形ではあったが、五賢帝以後の皇帝マルクス・アウレリウスーアントニヌスの時代から、自然災害がたびたび起きるようになった。

一六一年には、地中海周辺で例年になく夏に雨が多く降り、天候不順から小麦を中心とした農作物が不作となり、秋になるとティベル川が氾濫して多くの公共施設が冠水した。皇帝マクリスヌ統治時の二一七年八月下旬には、突然の激しい雷雨に見舞われ、落雷でコロセウムに火災が起き、フォロ・ロマーノは広い範囲で浸水したと記録されている。

ヨーロッパ内陸部の気候が寒冷化すると、カスピ海を含む中央アジア内陸部で気候が乾燥化し、降水量が減少するという関係がある。二〇五年から二九五年にかけて、ノルウェー西部で氷河が前進する頃、カスピ海の水位が低下し、アジア内陸部の気候が乾燥化した。この干ばつは貿易路を衰退させただけでなく、草原の砂漠化によって遊牧民の生活基盤を崩していった。

そして内陸部の気候の変化が、ゲルマン人の大移動のきっかけともなった。二世紀後半以降、ライン川沿いに築かれた城壁を破りローマ領土内への侵入を企てたゲルマン人は、ローマ帝国に隣接していた部族ではなかった。ゴート族、ブルグント族、サルマディア族といった北海にほど近いドイツ北東部の奥地に住んでいた部族が、家族を連れて南西方向に移動してきたのである。

四世紀後半になると、ヨーロッパ東部に騎馬民族のフン族が現れ、領地を奪われたゲルマン人のゴート族、ヴァンダル族などは、押し出されるようにライン川やドナウ川を越えてローマ帝国に流れこんだ。フン族が混乱の根源であることは、当時の歴史家マルケリヌスーアミナヌスも喝破していた。              (略)

ローマ帝国の衰亡について、一般的な歴史の教科書では、皇帝の乱立や市民の階層化、さらには小作制の拡大というような内的理由を重視し、その上で蛮族の侵入という外的要因が論じられている。

ゲルマン人の圧力は常にあったもので、内政さえしっかりしていればゲルマン人の部族に帝国内を蹂躙されることはなかったと考える。しかし、気候変動という要因を加えることにより、はるかにわかりやすい構図が描けるのではないだろうか。

ともあれ四世紀以降、周辺地域での民族の大移動が活発の度を増すと、ローマ帝国はゲルマン人の侵入に国力を挙げて対処しなければならなくなり、同時に首都ローマを中心とした自然災害による損害や、地中海一帯での農業の不作による経済活動の衰退に悩まされることになった。アルプス山麓のツェルマットにある年輪をみると、三〇〇年代後半まではまだしも安定した気候であったが、四〇〇年から四一五年にかけては変動が大きくなり、寒冷期の様相が顕著になっている。

ローマにとって内憂外患という状況は、かつてこの国を育んできた温暖な気候が変わり、寒冷化に転じる気候変動の中で起きているのである。