
チャーチルはナチスとの対決の道を選択したが、客観的に見てイギリスの形勢は不利であった。
第二次世界大戦前夜のドイツは、人口が8千万人でそのうち労働人口は4100万人いた。対するイギリスは人口が4600万人で労働人口はドイツの半分にも満たなかった。ドイツの1938年時の総所得は、時価換算で72億6千万ポンド、イギリスのそれは52億4200万ポンドであった。
さらにドイツは軍事費としてイギリスの5倍の予算を充てていた。ドイツの17億1千万ポンドに対し、イギリスの軍事予算はわずかに3億5800万ポンドに過ぎなかった。 加えてドイツでは、ヒトラーが導入した大規模な公共事業と再軍備計画により、
1936年末までにほとんど完全雇用が実現していたが、イギリスでは第2次世界大戦勃発時の1939年9月に130万人もの失業者がいた。
1940年中頃までのアメリカは、とてもイギリスを助けて参戦できるような態勢にはなかった。中立法で法的に中立を守らなければならなかったし、何よりも「孤立主義」が蔓延していた。
さらにその孤立主義的傾向は、ヒトラーのエージェントや親ナチス派財界による巧みな宣伝工作により、さらに強められていたのである。
しかしアメリカからの援助なしに、イギリスは戦争に勝つことはできない。そこでチャーチルは、「アメリカを戦争に引き込む」ために大がかりな工作を行なうことを決意したのである。たとえ友好国であろうと国益の為にはスパイ行為を行い、内政世論を操作することは、独立国家として当たり前の行為である。
今日米国が友好国を盗聴していることはむしろ常識であって、日本も日米オレンジ交渉や、牛肉の自由化交渉の際には情報が筒抜けであったことはインテリであれば常識の範囲だ。
アメリカを戦争に引き込んだチャーチル
p87-89
一九四○年四月九日午前五時、ヒトラーの命令を受けたドイツ軍は、デンマークとノルウェーヘの侵攻を開始し、ヨーロッパ大陸における本格的な戦争の幕加切って落とされた。ヒトラーのドイツ軍は破竹の勢いで大陸を席捲し、五月には両国を占領し、すさまじい勢いでオランダとベルギー、それにルクセンブルクをも支配下に治めた。そして五月の終わりまでに、フランスも軍事的敗北の瀬戸際にまで追いつめられ、イギリスは孤立無援でヒトラーの脅威にさらされることになった。チャーチルのスパイ「イントレビット」の暗躍
しかしドイツの装甲部隊があと二日でダンケルクに到達し、あと一歩でイギリスの
遠征軍を一掃できる地点まで追っていた五月二十四日、ヒトラーはドイツ機甲部隊の進撃を停止する命令を下しか。なぜヒトラーがこのとき進撃停止命令を出したのかは、第二次世界大戦史の謎の一つである。歴史家はさまざまな解釈を試みているが、その一つは「ヒトラーがイギリスとの和平を求めていた」というものである。ヒトラーはイギリスとの戦争は望んでいなかったし、ドイツがイギリスと組んで共産主義ソ連と戦うことを夢見ていたのは確かなことである。実際、攻撃停止命令を出したこの日、ヒトラーは「六週間以内に世界に平和がやってきて、私はイギリスと紳士協定を結んでいるであろう」とのコメントを残している。ヨーロッパ大陸の大半を支配下に治めたヒトラーは、イギリスが和平を願い出るだろうと考えていたのかもしれない。
実際イギリス側にも敗北感が漂い、政権内部にすらヒトラーとの和平を求める声が上がっていた。その和平派の中心になっていたハリファックス外相は、「フランス軍 の敗退は事実上戦争の終焉を意味する。今こそ和平交渉により、できるかぎり良い条件を引き出すのが、外務大臣としての務めだ」と考え、イタリアを介して和平交渉を開始しようとしていた。
しかしこうした政権内の敗北主義者に対し、一歩も引かずに戦いの継続を主張した人物が、ウィンストン・チャーチル首相であった。チャーチルはハリファックスに対し、「必要ならば一人でも戦い続ける」と宣言し、和平交渉には断固反対の立場を押し通したのだった。
ハリファックス外相があきらめかけたように、イギリス一国でドイツを倒すことは不可能に近かった。しかしチャーチルには一つの戦略があった。単独では戦わない。
アメリカを引き込むという戦略である。一九四〇年六月四日、チャーチル首相は下院で行なった演説の中で、「イギリスは断固、最後まで戦い続ける」と語った後、その締めくくりに「神のご都合の良いときに、新大陸がその力をもって旧大陸の救出と解放に乗り出してくるときまで」と語り、新大陸、つまりアメリカ合衆国が、イギリスを助けて参戦する日を待ち望むメッセージを織り込んだ。チャーチル首相は、「最後まで戦い続ける」と力強く宣言してみたものの、アメリカの援助と介入なしに最後まで戦い続けることができないことを重々承知していた。
しかし頼みの綱であるアメリカは、前章で見たように中立法に縛られ、孤立主義に流され、そしてナチスの効果的なプロパガンダ攻勢をまともに受け、とてもイギリスを助けて参戦できるような状態ではなかった。そんな状況の中でチャーチルは、「神のご都合の良いとき」をただひたすら祈り、待ち続けていたのだろうか。
否、この謀略好きなイギリス帝国の棟梁は、そんな柔な政治家ではなかった。実はチャーチルはこの頃すでに、「アメリカを参戦させるため」の壮大な計画を実行に移していたのである。
第一次世界大戦前、イギリスはウイリアム・ワイズマン卿というスパイをアメリカに送り、アメリカを戦争に引きこむためのプロパガンダ、情報活動を行わせたが、チャーチル首相はこの先達の例にならい、ウイリアム・S・スティーブンソン、暗号名で「イントレピッド」と呼ばれたカナダ生まれの紳士を、アメリカ合衆国に送り込んだ。
「イントレピッド」が持つ数多くのビジネス利権の中で、情報活動という観点から最も重要なものは、自動車のスチール・ボディを製造していたプレスト・スチール社であった。当時、この会社はイギリスの主な自動車メーカーのボディ部分の実に90%を製造していたというから驚くべき会社である。このスチール・ビジネスを通じて「イントレピッド」は、ドイツがヴェルサイユ条約に違反して大量のスチールを軍事産業向けに転用している事実を突き止めた。
「イントレピッド」の本当の肩書は、南北アメリカにおける英情報活動の責任者で、彼に与えられた任務は・英秘密情報部MI6とアメリカFBIとの間で可能なかぎり高度な協力関係を築くこと
・西半球全体における敵国の妨害活動・破壊活動を迎え撃つこと
・イギリスが戦争を遂行する上で必要かつ十分な援助を保障すること
・そして最終的にはアメリカを参戦させることであった。
その活動を全面的にサポートしてくれるアメリカ人に恵まれた。
他ならぬルーズベルト大統領である。
ルーズベルト大統領は強硬な反ナチス思想の持ち主で、「イギリスを助けるためにできるかぎりの援助をしたい」と考えていた。
カナダで撮影された「ナチスの残虐行為」
p103-106
このほかにも「イントレピッド」たちは、さまざまなダミー組織を設立して孤立主今も昔も、アングロサクソンといわず、日本以外の国は平気で嘘をつき、相手を負かそうとする。国際社会とはそういうものだ。
義者や親ナチス派に徹底的な攻撃を加え続けた。無党派反ナチス連盟、人権保護連盟、民主主義の友、自由のための闘争委員会、イギリス労働者を支援するアメリカ労働者委員会、連合国支援によるアメリカ防衛委員会(通称ホワイト委員会)などが、「イントレピッド」と連携して活動した団体として記録されている。
この中でももっとも過激だった自由のための闘争委員会は、メディアをフル活用してアメリカの孤立主義者や親ナチス派を糾弾するキャンペーンを展開した。 特に彼らは自動車王ヘンリー・フォードや、アメリカ第一委員会で活動していた飛行家チャールズーリンドバーグ等の有名人に的を絞った。「ヘンリー・フォードはヒトラーのスピーカーだ」、「フォードはヒトラーに頼まれて反米プロパガンダを行なっている非国民だ」、「リンドバーグはすでにヒトラーによってアメリカの『総統』に選ばれた危険人物だ」などといった内容のセンセーショナルな記事が紙面に踊り、またパンフレットがばらまかれたのである。
「イントレピッド」はまた、ボストンに拠点を置く短波ラジオの放送局WRULにも資金援助を行なった。このラジオ局は、強力な五万ワットの短波送信機を持ち、世界中に多くのリスナーを抱えていた。「イントレピッド」は密かに毎月WRULに資金援助をし、この放送局をイギリスのプロパガンダの道具に変身させた。そして『ニューヨーク・ヘラルドートリビューン』紙等の大新聞と同様、このラジオ放送局も反ナチスのプロパガンダ放送を大量に流すようになった。
「イットレピッド」たちがアメリカの世論を変え、「イギリスを助けて参戦しよう」
という風潮を作り出すには、イギリスと戦っているナチスドイツの残虐性をことさら強調してアメリカ国民に訴える必要があった。
「イットレピッド」のイギリス治安調整局(BSC)は、協力関係にある新聞やコラムニストを通にて、「いかにナチスが占領地で残虐であったか」というような内容のニュースを無数に配信し、キリスト教徒のアメリカ人の同情を得るために、「ナチスが教会や修道院を破壊している」といった内容のニュースも多数流し続けた。しかしこうしたニュースの中には、まったく事実にもとづかず、はじめからイギリスの情報機関によって握造されたものも多く含まれていた。
アメリカでのプロパガンダ作戦を展開する際に、「イントレピッド」たちは一つ現実的な問題に直面した。ナチスの残虐行為を宣伝するために必要な写真が圧倒的に不足していたのである。この問題を解消するためにどのような解決策がとられたのだろうか?
アメリカの歴史学者トーマス・E・マールが、最近公開されたイギリスの外交文書のBSCのファイルの中から、次の興味深い書簡を発見した。「イントレピッド」たちの問題を解決するために、イギリスの特殊性戦部(SOE)のエリックーマーシュウィッツが次の書簡を送っていたのである。書簡の日付は一九四一年十一月二十六日となっている。
「心配には及びません。私の部署ではカナダで残虐行為の撮影を行なっていますから、簡単にしかも定期的に残虐な写真を提供することができます」
いわゆるやらせ写真がSOEによって大量生産され、それがアメリカの「イントレピッド」のもとに送られ、「ナチスの残虐行為」として全米のメディアに配信されていたのである。
チャーチルは更に、ハリウッドにハンガリー出身のイギリスの映画プロジューサー兼MI6のアレキサンダー・コルダというスパイを送った。
反ナチスに共鳴しているワーナーブラザースやフリー映画プロジューサー・ウォルター・ウェンジャーを使い、反ナチス映画、アルフレッド・ヒッチコック監督で「海外特派員」を製作した。これを機にハリウッドは反ナチス映画がブームとなりハリウッドは当時の中立政策支持の米国世論とは異なり、著しくイギリス側へ偏向していった。
ここにネットで検索するとヒットするチャーチルの言葉がある。
チャーチルの回顧録より
日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手を捩じ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、いままで以上の要求をしろという。無理を承知で要求してみると、今度は、笑みを浮かべていた日本人はまったく別人の顔になって、
「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことをいうとは、あなたは話の分らない人だ。ことここにいたっては、刺し違えるしかない」といって突っかかってくる。
これは、昭和十六年(1941)年十二月十日、マレー半島クァンタンの沖合いでイギリスが誇る戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの二隻が日本軍によって撃沈されたときの日記だが、チャーチルは、これによってイギリスはシンガポールを失い、インドでも大英帝国の威信を失うのではないかと心配しながら書いている。
チャーチルは、「日本にこれほどの力があったのならもっと早くいってほしかった。日本人は外交を知らない」と書いている。つまり、日本は相手に礼儀を尽くしているだけで外交をしていない、外交はかけひきのゲームであって誠心誠意では困る、ということらしい。
そういえば自分の本棚にある本のどれかに書いてあったと思て勇んで紹介したのだが、「はて?」「チャーチルと日本はそんな交渉をしただろうか?」と、疑問に思った。
電子化されているチャーチルの回顧録(The Second World War Winston S. Churchill Prince of Wales)を読むことができるので、電子化された本の中をPrince of Walesで検索し、近辺のページを調べたが私は見つけることが出来なかった。
怪しいと思い更にネット検索すると、同じく疑問を持った人がいて、誰が言い出しっぺか、調べた人がいる。 おそらく、この話は日下公人『これからの10年 - 日本経済、谷底からの再出発』(1997年)158-159頁がこのエピソードの発信元の可能性がある。被疑者は 日下公人氏、私の本棚に10冊以上日下氏の本がある、なるほど・・・
だが、米国を戦争に参加させたいチャーチルとルーズベルトは日本に米国を攻撃させるよう仕向ける政治工作を仕掛けたのだから”さもありなん”のお話だ。
日米交渉決裂の裏でチャーチルがしたこと
p114-119
日本軍による真珠湾への奇襲攻撃は、第二次世界天戦史の中でももっとも白熱した議論がなされ、数多くの研究論文や書物が書かれたテーマの一つであろう。多くの歴史家や評論家たちが、「ルーズベルト大統領は日本の攻撃計画を事前に知りながら、あえて攻撃をやらせた」、それはイギリスを助けてドイツとの戦争をするためで、「日本との戦争をうまく使って裏木戸から参戦しようとしたのだ」と信じている。
このいわゆる「ルーズベルト陰謀説」は跡を絶たず、最近でもロバート・B・スティネットが『真珠湾の真実』(妹尾作大男監訳、文語春秋、二〇〇一年)を発表し、「陰謀説」の決定版として一部でもてはやされた。
しかし同書は秦郁彦編『検証・真珠湾の謎と真実』(PHP研究所、二〇〇一年)で徹底的な批判を受け、完全に論破された感がある。
日米開戦にいたる過程でもっとも重要な日の一つが、一九四一年十一月二十六日たったことには、歴史家の間でも異論はないだろう。この日にアメリカの対日政策が一転し、同国が事実上の最後通牒といえるハル・ノートを日本側に提示し、日米の決裂が決定的となったからである。アメリカがなぜこの日に対日政策を転換したのかについては、いまだに歴史家たちの間で意見が分かれており、これは第二次世界大戦史のミステリーの一つとされている。
実はこの突然の外交政策転換の裏に、チャーチルの存在があったとする説がある。日本ではあまり注目されていないが、イギリスの歴史家ジョン・コステロが『真珠湾、クラーク基地の悲劇』(左近允尚敏訳、啓正社、一九九八年)の中で、日米交渉決裂に関してチャーチルが果たした役割について、きわめて重要な事実を明らかにしているのだ。
チャーチルがアメリカを一刻も早く戦争に引き込むために莫大な労力を費やし、懸命に秘密作戦を展開していたという文脈から考えると、このコステロの書は示唆に富んでいる。いったいチャーチルは日米交渉を決裂させるためにどんな役割を演じたのだろうか? 主に同書を参考にしつつ順を追って見ていこう。
まず一九四一年七月までに、アメリカの太平洋防衛の最前線が、ハワイからフィリピンに移されていた事実を確認しておく必要があるだろう。アメリカは当時、大西洋と太平洋で同時に増大しつつあった脅威、つまりドイツと日本の脅威にどのように対処するかに頭を悩ませていた。
アメリカ海軍はもともと一つの大洋戦を戦うことを想定して編成されており、両大洋で同時に戦争が起きることは想定外だったからである。そこでルーズベルト政権は、海車力を大西洋に集中し、太平洋では日本に対し防衛的な態勢を整える「ヨーロッパ第一主義」の戦略を採用していた。そして太平洋方面で日本のさらなる拡大主義を抑制するために、フィリピンを増援することが決定されたのである。
とりわけこの七月には、日本車がインドシナヘ侵攻したとの情報がワシントンに届き、ルーズベルト政権は日本に貿易制裁を加える決定を下していた。この制裁により日本への石油の禁輸措置がとられ、日本車が蘭印の石油資源を武力で占領する危険が高まったため、アメリカにとりフィリピンの増援は急務となっていた。
しかしよく言われるように、ルーズベルトはこうした措置により日本を追いつめ、アメリカに攻撃を仕掛けるように仕向けたわけではなかった。ドイツとの戦争に集中するため、フィリピン増援により日本の行動をあくまで「抑止」しようと考えていたのである。日本を対英米蘭戦へと導いた原因の一つである石油の禁輸に関しても、ルーズベルトは全面的な禁輸が日本を窒息死させることを心得ていたので、低品位ガソリンについては三十六年のレベルで供給を続けるつもりでおり、わざわざ野村吉三郎駐米大使を呼んで「石油は完全に断つわけではない」と保障までしていた。
ところがルーズベルト政権内の対日強硬派、とりわけイックス内務相とアチソン国務次官が禁輸措置を運用面で勝手に強化し、事実上の石油全面禁輸をスタートさせていたのである。輸出許可制度を管轄する立場にあったイックスとアチソンは、財務省の役人たちに、日本側の提出した書類にいちいち文句をつけるように命じたため、実質的に石油の全面禁輸措置が開始されてしまったのであった。
ルーズベルト大統領が日本を追い込むことを望んでいなかっただけでなく、アメリカの軍部も早期の日本との対決は避けたがっていた。理由は単純でフィリピンがあまりにも脆弱だったためである。フィリピンの防衛態勢が最低限整うのは早く見積もっても一九四一年十二月の中旬。それまでは、否、できれば翌年の一月か二月まで日本に対し適当な「アメ」を与えて交渉を引き延ばし、フィリピン増援を完了させるというのが、アメリカ陸海軍の狙いであった。しかし政権内の一部の強硬派が石油全面禁輸を勝手にスタートさせたため、アメリカは軍事的な準備が整わないうちに、外交的に相手を追いつめるという矛盾した政策を推し進めることになったのである。
当時日本は石油供給の九十八パーセントをアメリカに依存していたため、アメリカの対日石油全面禁輸は大変な打撃だった。日本政府はアメリカと交渉による解決策を見出したいと思っていたが、もし交渉で妥協点が見出せなかった場合には、対英米戦争というリスクを負っても蘭印の石油をとりに行くことを決定せざるをえなかった。
そして日本政府は、日米交渉完了の期限を十一月二十五日に設定し、この日までに何らかの合意が得られない場合、翌日には攻撃部隊が真珠湾攻撃のために出撃することになったのである。
こうした日本政府の決定を受けて、日米交渉は一九四一年十一月に入り、新たな局面を迎えた。十一月四日、野村駐米大使は、「交渉の重要性」にかんがみ、外交官である来栖三郎をワシントンに派遣するとの指示を東京から受けとった。その通知には、現在の交渉が行きづまったときには、「両国の関係は大混乱の瀬戸際になる」と記されていた。
実はアメリカはこうした東京と駐米日本大使館の間のやりとりを知りうる立場にいた。よく知られているように、アメリカは日本政府が各国大使館との間の外交通信用として使用していた暗号を解読することに成功しており、一九四〇年十月以降、日本の最高機密の外交電報を読んでいた。アメリカ陸軍はこうした日本の外交電報から得られ田情報を、コードネームで「マジック」と呼んでいた。この月に入ってからの「マジック」は、日本側がいかに差し迫った危機的な状況にあるかを、繰り返し伝えていたのである。
十一月五日に東京から送られた電報は、日本政府からアメリカ側に提示する二つの提案を含んでいた。それによるとA提案は、日本が「恒久的な解決として受け入れられる条件」を記したもので、野村大使はこの提案を「もっとも早い時期に」アメリカ側に提示するよう指示されていた。というのも「早さが絶対的に重要な要素」だからであった。
もう一つのB提案はアメリカとの暫定協定案で、「日米間の見解にいちじるしい相違がある場合」に提示することになっていた。東京は再び野村大使に「状況は危機的であり、二つの提案はアメリカとの解決に達するうえでの政府の最終提案である」と念を押して警告していた。この急報はさらに、「この協定のためのすべての準備を、今月二十五目までに完了させなければならない。いかなる遅れも許されない」と伝え、デッドラインが刻々と迫っていることを強調していた。
決定されていたはずの「日本との妥協」
ハル国務長官は、野村大使からA提案を受けとったとき、すでに更に妥協したB提案があることを知っていた。インドシナから日本が撤退すれば石油の禁輸と経済的圧迫を弱めることでルーズベルトは国務省ホーンベック極東課長に対し「日本の暫定妥協案をベースとして妥協する準備をするよう」命じ、ハルにメモを渡していた。
メモには
p121
「日本がインドシナだけでなく満州とソ連の国境や南アジアにこれ以上、軍を派遣しないことを条件に石油禁輸の一部を解除する。もし、アメリカがドイツに開戦することがあっても、日本は三国同盟を理由に参戦しない。代わりにアメリカは日本を中国に『紹介』する労をとる」と記されていた。そして翌日ハルは、「日本車が仏印から撤兵すれば、アメリカはその見返りに資産凍結措置を撤回する」というアメリカ政府の意志を、野村、来栖両大使に慎重に伝えた。また「もしそれにより平穏な状況が続くならば、アメリカはシンガポールに軍艦を送ったり、フィリピンの軍事施設を強化する必要はなくなる」と付け加えた。この時点で日米間には、一時的な妥協をするためのわずかな可能性がまだ残されていたのである。
ハル国務長官は、日本側か提示した「中国の蒋介石への援助停止」要求を受け入れるわけにはいかないとしながらも、前向きに検討することを約束。このハル長官の対応は非常に前向きな印象を日本側に与えたため、野村、来栖両大使は東京に対し、交渉の最終期限の延長を申し出、11月29日まで待つことにした。
十一月二十四日、ハルはアメリカから日本に提示する暫定協定案の対案を完成させた。同案は「日本が南部仏印から撤兵し、北部仏印の兵力も二万五千人に限定し、来る三ヵ月間は軍事的進出を自制することと引き換えに、アメリカは日本との貿易関係を回復させ、日本の民事に限って必要な量の石油輸出を再開すること」を提案していた。とりあえず三ヵ月間は軍事行動を控え、その間に未解決の諸問題に関してさらに交渉を続けることを、このハル対案は提案していたのである。
このアメリカの暫定協定案は、日本側の「蒋介石への援助停止」という要求は退け、代わりにフィリピンを日本と蒋との直接交渉の場所とすることを提案していた。この暫定協定案には、蒋介石一派による反対が予期されたため、彼らをなだめる目的で、「アメリカとの恒久的和解のために日本が応じなければならない」十項目の要求リストが別紙として添付された。
翌二十五日の朝、ハル国務艮官はノックス海軍長官、スティムソン陸軍長官を自室に招き暫定協定案に対する支持をとりっけた。そしてその日の午後には、大統領執務室において主要閣僚による軍事会議が開かれ、暫定協定案についての話し合いが持たれた。スティムソンはこのとき、「細部について東京が同意することには疑問がある」としながらも、フィリピン増援のための時間稼ぎをするためなら「どんな手段も歓迎する」と述べた。この後一同は、東京が受け入れなかった場合について議論をしたが、何はともあれこの暫定協定案は、ルーズベルト大統領と主要閣僚の正式な承認を得て、日本側に提示することが決定されたのであった。
ところが翌二十六日の午後、野村、来栖両大使が国務省でハルから受けとった提案は、日本との暫定協定を結ぶためのものではなく、その暫定協定案に別紙として添付されるはずだった十項目のリストだった。前述したように、これは日本がアメリカとの恒久的和解を達成するために満たすべき基本条件で、それゆえこの差し迫った時期にはとうてい受け入れがたいきびしい内容のものだった。日本の両大使は、後にハルーノートとして知られるようになるこの十項目のリストを見たとき、「これはアメリカが日本に突きつけた最後通牒である」という以外の解釈を見出すことは事実上不可能だったのである。
日本は仏領インドシナの南部から軍隊を引き揚げ、インドシナの北部に二万五千だけを残して、これ以上の武力的進出を行なわないことを約束する代わりに、アメリカは食料品、薬品、生絹とともに、民需用に限って1ヵ月ごとの取り決めで石油の輸出を再開することで妥協寸前だったということだ。
極東と太平洋の平和を永続させるための恒久的な協定を成立させる目的で、暫定協定は三ヵ月ごとに見直されることになろう。たとえこれが失敗に終わったとしても、アメリカはフィリピン防衛の為の準備時間を得ることが出来るので。もしかしたら1941年に太平洋戦争は勃発しなかったかもしれない。
この提案を聞いたチャーチルは日本を利用し米国を戦争に引き込もうとしていたのだから、窮地に立たされた。イギリスを置き去りにしてアメリカが日本との直接衝突を回避するように思えたのだ。

駐日英大使サー・ロバートークレイギーはこの暫定案を支持した。 数年後にグレイギー駐日大使は駐日大使終了の外務大臣宛ての報告書のなかで 「一九四一年十二月に、日本車のインドシナ撤兵を含めて日本との妥協に達することができていたとすれば、日本との戦争は不可避ではなかったろう」と報告した。グレイギー駐日大使はイギリス外務省一の交渉の達人で、九年間国際軍縮交渉を手かけて大成功を収めていた。彼は決して日本を支持していなかったし、常に日本を拡張主義的であり、極端に軍国主義的だと考えていた。 暫定協定を受け入れていれば戦争は避けられて、そのうちにヨーロッパでのドイツとの戦争の流れが変わり、日本の過激派は権力を失ったろうというのがクレイギーの考え方であった。
※クレイギー報告書の詳細についてはジェイムズ・ラスブリッジャー/エリック・ネイル共著の「真珠湾の裏切り」の補遺で読むことができる。
米国を戦争に引きずり込まないと第二次世界大戦に勝てないと確信しているチャーチルはこの日米の戦争回避の妥協をなにがなんでもぶち壊せねばならなかった。
コメント