
小野田元少尉がお亡くなりになった。ちょうどこの本を読んでいる最中に小野田氏の訃報を聞いた。小野田元少尉は侍であった。旧帝国陸軍の軍人として、日本人として、いや人間として尊敬できる人物であったが、その対極ににある悪の権化の代表は「辻政信」だろう。
本書は辻を絶対悪として書いている。本書を読むとこの辻政信さえいなければ帝国陸軍や日本はどれだけ汚名を注がれずにに済んだであろう。
本書を読んだ印象からすると辻は、石原莞爾に師事して以降、自分を日本軍の枠から離れ、皇国軍人ではなく、辻政信という個人を世界に売り込みたいと言う野望に目覚めたのではないかと私は思う。自分をルーズベルト・スターリン・ヒトラー・蒋介石に売り込む為の実績つくりを大東亜戦争中に行ったのではないであろうか?その為に武士、人間と言ったモラルを捨て、皇軍の名誉を汚し、日本軍は世界一残虐な軍隊であるというイメージつくりを辻が独断で行ったのではないかと疑いたくなる事実が沢山出てくる。
事実辻政信という軍人の存在は、帝国陸軍史上、いや日本近代史上で最悪の汚点である。ノモンハン事件において、いったん捕虜になったのち帰還してきた将校や兵士に、何の権限もなく自殺強要を行い自決させた。更にノモンハンの停戦交渉にやってきたソ連の外交使節団に暗殺の脅迫して事件を拗らせた。
陸軍皇統派一層を目的とした謀略陸軍士官学校事件(11月20日事件)を引き起こし2.26事件を誘発させた。辻は戦争中投降捕虜虐殺命令を勝手に軍上層部の命令を偽造して乱発した。フィリピンバターン半島で米軍捕虜の大量虐殺を独断で企てたが、実行されなかった。もし実行されていたら戦後日本の発展はなかったろう。 シンガポール華僑虐殺事件イギリス軍捕虜の人肉試食事件。ガダルカナル島の戦いの無謀な作戦も辻の無責任さは有名だが、ポートモレスビー作戦も大本営の決定前に独断で攻略命令にすり変えたため作戦が実行されたとの説もある 。この作戦の無謀さは多くの人が指摘していたが、結果的に数多くの犠牲者を出しながら日本軍は何ら成果を残さないまま転進した。
これに匹敵するであろう狂気の悪はすこし差を開けられ麻原彰晃かもしれない。近代以降日本のあらゆる凶悪犯の「悪」を軽々超えてしまう存在だ。 いったい、これはどの絶望的な人物が、軍内部の規律によって罰せられることがなかったばかりか、理不尽なまでに戦勝国によって些細なことで戦犯として厳しく指定されていったが、指定も逮捕も免れていた。もし事後法にて裁いた東京裁判を正当化するのならば日本の戦争犯罪の張本人は辻政信だ。辻を裁かなかったことで東京裁判は茶番でしかなくなった。
戦争犯罪人から逃れた方法が日本を裏切り、蒋介石と取引しスパイの可能性である。本書はそのことを露わにした。
辻は終戦をバンコクで迎えた、そしてあろうことか、シンガポール華僑虐殺事件の張本人であるにもかかわらず重慶の蒋介石の元へ逃避行を行ったのである。
蒋介石は戦争全体を通じて一番欲していたものそれは中国国内戦線各地において、自らが指揮する諜報機関の総力を持って「日本=ジェノサイド(大量虐殺)国家」であるという物語を世界全体に信じ込ませることに他ならなかった。蒋介石のこの謀略は、その当時の世界にあってかなり不完全だが、成功を収めた。
今日、中国共産党が行なっている「日本=ジェノサイド(大量虐殺)国家」という宣伝工作の大半は、共産党のオリジナルではなく、国民党がかつて徹底して行なった宣伝工作の受け売りに他ならない。もちろん、事実の問題からすれば、日本はナチスドイツのような計画的ジェノサイト国家ではまったくなかった。しかし、その日本にあってただ一人例外的行動をなして、蒋介石の意図通り「日本=ジェノサイド国家」の汚名をあえて着せようとした人物がいたのである。その人物こそ辻政信なのである。
辻は昭和20年8月10日の時点でポツダム宣言受諾を知り、8月11日サイゴン飛び、先輩林秀澄大佐と次のような会話を交わした。
辻:「日本の降伏後、東亜の盟主は誰ですか?」
林:「蒋介石だよ。しかし、蒋介石には毛沢東と言う毛虱がついている。蒋介石の反共作戦を援助すべきだ。ときに辻君。重慶に行かんか」と尋ねると辻は「はい、自分は重慶に行くつもりであります」
辻:「日本の降伏後、東亜の盟主は誰ですか?」
林:「蒋介石だよ。しかし、蒋介石には毛沢東と言う毛虱がついている。蒋介石の反共作戦を援助すべきだ。ときに辻君。重慶に行かんか」と尋ねると辻は「はい、自分は重慶に行くつもりであります」
ノモンハンはじめ各戦場で捕虜生還者に対し「恥を知れ」と自殺強要をしていた張本人であるはずの辻は、武士でも人としても最悪の人間であった。
逃げ足は早く、8月15、タイの僧侶に変装した辻氏は7人の部下とともにメナム河畔の寺院に潜み、タイ脱出の機会を窺う。タイに英軍が進駐してきたのは9月2日。
イギリスの東南アジア軍の最高司令官・マウントバッテン元帥は英軍捕虜人肉事件もあり、BC級戦犯の筆頭として「草の根を分けても辻参謀を捜しだせ」と命令を下していた。
開戦当時にマレー・シンガポール作戦を行った山下奉文中将麾下の第二十五軍にあって、作戦主任参謀だったのが辻中佐(当時)であった。英軍の防衛線を突破してシンガポールが陥落させたのだが、占領後、シンガポール華僑虐殺事件が発生している。英軍は虐殺の命令を下したのは辻作戦主任参謀調査済であった。
辻は英軍に逮捕されれば、軍事法廷で戦犯として処刑されるのは避けられなかった。そこで辻は運を天に委せて、蒋介石の懐に飛び込む挙に出ている。バンコクのスリオン街に重慶藍衣社の本部があったが、そこに単身で逃げ込んでいる。特務機関・藍衣社のボスは戴笠将軍。
支那派遣軍総司令部第三課長時代に辻は、昭和19年蒋介石の母堂の慰霊祭を行っている。奇怪な振る舞いなのだが、ご本人は重慶政府との和平工作を考えていたという。田々宮氏は第三課の兼任参謀だった三笠宮が、蒋介石の故郷の写真を持っていて「お母さんのお墓だけでも祀ってあげたいですね」と言ったのを、辻氏が聞いていて”法要作戦”を思いついただけと手厳しい。
だが逃げ込んだ藍衣社では、慰霊祭の殺し文句がきいたらしい。さらに「重慶に赴き、戴笠将軍及び蒋介石主席に会見し日華合作の第一歩を開きたい」と大風呂敷を広げたから、バンコクの藍衣社幹部たちは本気にして、二人の護衛をつけて辻氏のバンコク脱出を助けている。昭和21年3月19日に辻氏は、目的地の重慶に着いた。
しかし一番当てにしていた戴笠将軍が、5日後の24日南京で飛行機事故によって急死してしまった。蒋介石は辻氏とは会おうともしなかった。敗戦国の一参謀将校と国民政府を率いる蒋介石では格が違う。日華合作の第一歩を開くどころか、招かれざる客という扱いを受けている。
蒋介石政府は重慶から南京に還都し、辻氏も南京に送られて、一枚の辞令を交付されている。「史政信 国防部第二庁弁公 部長白崇禧」。第二庁は情報部門で、そこで一介の職員の扱い。昭和23年5月27日に辻氏は引揚船で帰国した。大陸では中華人民解放軍が延安奪回作戦に成功し、風雲急を告げていた。
蒋介石は日本軍の大陸打通作戦で大惨敗を喫し、太平洋線で日本軍と死に物狂いで戦っている米国から失望されもはや見放されていた。米国は戦後の中国大陸は毛沢東の政権に任せる方がいいのではないかと考えるようになっていて、ドイツからもソ連からも米国からも見放されはじめた蒋介石は、己の保身の為再度日本から資金援助を引き出すことを考えていた。
そこに飛び込んできたのが辻政信である。蒋介石は辻をエージェントとして日本に送り返し、日本に再度国民党を援助させようと考えたのである。
日本では蒋介石といえば日本の兵学校で学び「以徳報恩」演説により私を含めた保守派は親日家と錯誤していたが事実はだいぶ違う。それでも結果として終戦後中国大陸に残された日本人の大虐殺は行われなかったことは評価すべきかもしれない。
辻と蒋介石の関係を説明するには宮崎氏の書評を読んでほしい。
書評『蒋介石の密使 辻政信』 宮崎正弘 【杜父魚ブログ】
蒋介石の「以徳報恩」なる世紀の欺瞞と親日家ぶる演出はなぜ生まれたのか。
気絶するほどの欺瞞、偽善、悪魔の詐欺師は某参謀に共通した・・・。
■渡辺望『蒋介石の密使 辻政信』(祥伝社新書)
個人的なことを先に書くと、辻政信は石川県出身で、金沢で育った評者(宮崎)にとっては『郷土の英雄』だった。おなじく石川県出資の作家・杉森久英が辻政信の小説を書いた。 その軍人としての闊達なほどの人生は波瀾万丈、しかも戦後はベストセラーを書いて国会議員を務め、ラオスで消息を絶った。
伴野朗、宮城賢秀らの作家も、辻をモデルに冒険小説を書いた。
本書は、そうした庶民的人気の高い辻政信の虚像を、CIAなどの新しい証拠を並べて実像を暴き出し、地獄の底にたたき落とすほどの破壊力を持っている。
まさに新角度からの分析であり、意表を突かれる新資料が網羅されている。
すなわち辻は関東軍の一介の参謀でありながら無謀な軍事作戦を好み、部下に畏怖され、大量の犠牲を怖れずに滅茶苦茶な作戦要項を発令した。しかもそのうちの幾つかが偽の命令書だった。
シンガポールでは華人虐殺を命令し、ノモンハンでも強硬派、そして大東亜戦争で日本の敗色が濃くなるとさっと身を翻して、あろうことか敵の蒋介石の代理人として南京へ赴き、戦後パージが解かれ裁判に引っ張り出される心配が消えるやいなや、こんどはCIAにも接触し、あげくに法螺話をまとめた伝記を発行したらベストセラーとなり、その人気を背に衆議院議員に立候補して連続三回当選。参議院一回当選。あげくのはて「アジア情勢の調査に行く」と言い残してラオスで僧侶に変装し、そのまま行方不明となった。
石川県で辻政信人気が極めて高かったのは、彼が戦後、アジアに身を隠していたと称した冒険的な逃避行を本当の話として受け取ったからだ。
ところが真実は、終戦前から蒋介石に投降する準備をし、いやそればかりか中華民国の利益のために、蒋介石の偽装親日演出を助言し、日本人に対して「仇に報いるに徳を以てなす」などという、史上空前の偽善を拡大宣伝した片棒を担いだ売国奴だったというのだ。
新発見のCIA資料を基にして、辻政信の行動と軌跡を改めて追求すると、従来の伝記や噂や第三者の証言と大いなる齟齬が発見される。
料亭に入り浸る高級将校を殴って日本軍人相手の高級料亭を放火したというのは本当だが、彼がそこまで軍人の綱紀粛正に走り、「女遊び」を嫌ったという病的な潔癖癖は、どうやら出生地が金沢でなく、山中温泉だったこと、色香と淫靡な温泉町の売春宿が環境だった辻は、はやくから故郷を抜け出すために、猛勉強したのも、この幼年期の精神的トロウマによるところが大きいと著者は指摘する。
そして次は病的なサディストの面を併せ持ち、やっかいなことに石原莞爾を尊敬しており、この点でまた病的に女遊びが嫌いな東条英機とウマがあった。
梟雄かと思えば「魔の参謀」だったというのが結論だが、しかし一介の参謀にすぎない軍人の暴走を止めることができなかった軍の全体の空気と、そのシステムの欠陥こそが問題ではないだろうか。
▼日本にとって問題は蒋介石が展開した世紀の欺瞞だ
さて今稿の後半部を、評者(宮崎)は辻政信よりも、むしろ蒋介石に光をあてて、この未曾有の詐欺師的な政治家の実態を対照してみよう。
蒋介石は日本に留学したほどで、だからといって「親日家」ではなかった。強く親日家を偽装した。それは孫文が親日を偽装すると民間の愛国活動家やら右翼の頭目たちがころりと騙されて、資金を貢いだからである。資金ばかりか愛人も世話した。蒋介石はそれをみていた。だから第一回の親日家演出をやって、日本に高く売り込んだ。
途中で米国に擦り寄り、米国から資金援助と武器援助にありつくや、日本は不要となった。このパターンは孫文をまねたもので、日本に何回も「亡命」して骨の髄まで日本からカネを搾り取りながらも、孫文は最後に日本を裏切ってソ連に援助を求めた。
蒋介石もソ連とは異様に親しかった。
日本軍は昭和十九年四月から大陸打通作戦を開始し、太平洋方面での惨憺たる敗北とは対照的に「河南省、湖南省、広西省にいたる1400キロの戦線で中国国民党を次々と撃破、洛陽、長砂、衡陽、桂林などの中国側の重要拠点を次々と陥落した。この会戦での中国軍(つまり蒋介石軍)の敗北ぶりのひどさ」ときたら史上稀なほどに無様であり、なにしろ寄せ集めの兵隊はまっすぐ歩くこともできず、援助をえるための「員数合わせ」、訓練も受けていない。
しかも蒋介石軍は米英から蒋介石援助ルートをつうじてふんだんに武器、食料を貰っていたにもかかわらず大敗北したのだ。
スティルエル将軍は軍事顧問として派遣されていたが、克明な報告を残しており、蒋介石軍の「一個師団は五千人を超えていない」「兵士は給料をもらえず、栄養失調と病気に悩まされているが、軍隊に医療班もない」「汚職がはびこっていて賞罰がひどく不公平である」「兵士達は商売にはしっている」「中国の赤十字は、ヤミ市場の本場である」
ルーズベルトは怒った。おおよそ現代の貨幣価値に置き換えると、十兆円ちかくを米国は蒋介石支援にあてた。「にもかかわらず、中国大陸で蒋介石は一度も日本に勝てない」
この状況の報告に米国はフライングタイガーの空爆を強化した。つまり、あの戦争は日本vs中華民国ではなく、日本vs英米軍との戦争であり、蒋介石は英米にすっかり信用を失って、ヤルタには呼ばれず、蒋介石不在のカイロ宣言も、あとから署名を強要されたほどだった。
▼するりと闘うべき敵と自分を引き入れる味方を入れ替える芸術的処世
蒋介石は、と著者は続ける。
「アメリカがもはや自分を見限ろうとしていることを、はっきりと意識した。彼はこれまでの政治的人生のパターンに従って、自分が闘うべき敵と、自分を引き入れるべき味方を入れ替える時期にきていることに気がついたのだ。ここから蒋介石のおそるべき単独行動が始まる」
そこで蒋介石は「貳回目の親日家」を演ずる必要に迫られた。
台湾に逃げ込んで、台湾支配は国際法上いささかの合法性もないのに、蒋介石の台湾支配を正当化するためにも、台湾経済復興のためにも、どうしても日本の援助が必要だった。
そこで演じられた世紀の芝居が「以徳報恩」である。
蒋介石にとっては徹頭徹尾、便宜的打算的である。最愛の妻を離縁してアメリカへ追いやり宋美齢と結婚したのは孔家のカネが目当てであり、宋美齢のキリスト教に便乗したのも、各地で蒋介石別荘をみればわかる。
キリスト教徒は演技である。わざとらしい礼拝室にマリア像がある。評者は、台北の陽明山でも南京や廬山の宋美齢別荘でも目撃したがマリア像がでんと応接室の中央に置かれていた。
蒋介石は利用する者はあくまでも利用した。だから利用しがいのある辻政信がタイミング良く登場するや国民党国防部から、共産党作戦計画に従事した。辻にとってもその歴史感覚に「愛国」の基軸にないことが、よく理解できる。
つまり帝国軍人参謀だった辻政信がある日、唐突に敵国の密使になっても感覚的に平気だったのは、武士道精神の虚実を老かいに使い分け、人間の最低限度の恥を超える、一種魔女的な要素を身につけていたのだ。その意味で蒋介石と辻政信は一卵性双生児のようである。
本書はラオスから忽然と消えた辻の、その後のルートを克明に追うが、それは本書を読む楽しみだから、この稿では書かないことにする。
蒋介石がなぜ「以徳報恩」演説をしたか補足しなくてはならない。昭和19年4月~19年劣勢な南洋戦線とは異なり帝国陸軍が行った大陸打通作戦で日本軍は大勝利し、国民党は大惨敗を喫してしまった。もはや多額の資金をつぎ込み日本軍と血みどろの戦いをしていた米国のルーズベルトはまともに日本軍と戦闘できない蒋介石と国民党を見限ることにした。
1943年11月22日に行われたカイロ会談には蒋介石が呼ばれたが、1945年2月4日~11日のヤルタ会談にはもはや呼ばれなくなってしまった。ルーズベルトとチャーチルは中国に相談することなくソ連が満州から対日参戦することを決定してしまった。
蒋介石と国民党の本質は海外勢力から援助を引き出して生き延びようとする今の北朝鮮とまるで同じである。軍隊としても国家としてもまるでその体を成していなかった。
辻は日本に帰国して、厚顔無恥にも自分のことを正当化するベストセラー逃走潜伏中の記録「潜行三千里」を発表し「十五対一」などを発表、国民的人気を得て衆議院議員となった。当選4回、岸を批判して自民党を除名となった直後、参議院全国区に鞍替えして当選。この時期蒋介石のエージェントとして服部卓四朗らと組み、国民党の台湾防衛に旧帝国陸軍根本中将らを軍事顧問として送り台湾防衛に成功した。
戦後辻の悪行が次々と暴かれ始めた、1961年突如辻は参議院に対して東南アジアの視察を目的として40日間の休暇を申請し、4月4日に公用旅券で日本を出発した。
辻は北ベトナムでホー・チ・ミンに会うことを望んでいた。予定では1ヶ月程度の日程であったが5月半ばになっても帰国しないため、家族の依頼により外務省は現地公館に対して調査を指令している。辻はラオス入りを支援した旧日本軍兵士・現地軍将校が4月21日に目撃したのを最後に消息を絶った。その後の調査によって、仏教の僧侶に扮してラオス北部のジャール平原へ単身向かったことが判明している。
失踪の真相を巡って様々な説が主張された。虎か毒蛇に襲われ死亡した、アジアの政治に介入するのを恐れたCIAが暗殺した、ベトナムで反共義勇軍で戦って死亡などの情報が流れた。ラオスで消息を絶ってから9年後の1970年4月13日従軍カメラマンの楊光宇による証言によると、1961年4月に辻はパテート・ラーオに捕らえられ、「中国語なら少しわかる」という辻の申し出により、中立派軍からカンカイの司令部にいた従軍カメラマン楊が通訳にかり出された。
6月頃に楊は、脱走しビエンチャンへ向かうのに協力して欲しいと辻から報酬を引き換えに持ちかけられたが、ほどなく軍の命令により北京へ写真の研修に向かい、1962年3月にラオスへ戻った。カンカイには既に辻の姿はなく、パテート・ラーオの司令官や兵士からは「辻は逃げた」、「楊が北京に向ってから1ヶ月ほど経って姿が見えなくなった」などと言われ行方不明となった。その後辻は僧衣をつけていたことや軍歴・経歴からスパイと疑われ、フランス軍将校の関与により処刑されたという証言がある。
しかし、本書ではCIAが入手した情報が確度は低いとされながらも載っている。辻は中国共産党の懐に飛び込もうとして毛沢東に会いに行こうとした。
p189
①辻はビエンチャンに一度戻ることに成功したあと、雲南省の中国共産党過激派に誘拐され、雲南省に軟禁されている。辻はかつて国民党と蒋介石に行ったように共産党・毛沢東の懐に飛び込もうとした。
②中国共産党は、辻を思想改造したあと、エージェントとして利用し、党の戦略企画部長のポストを与えようと考えている。
③同時に、辻の身柄帰還について、日本政府と身代金などを取引きする用意も、中国共産党にはある。
そして共産党のポストを手に入れハノイに乗り込み今度は世界に対しセンセーショナルを巻き起こそうとしたと考えられます。これは著者だけでなく男の性はそう変わるものではないから、私(Ddog)もその可能性を考えていましたが、この著者の研究の足元にも及びません。引用します
p192-195
辻のラオス潜入は知人や周囲への偽装であり、彼はもともと、中国本土に向かうことを計画していたのではないだろうか。辻と中国共産党の共謀に、中国共産党の子分のパテトーラオが最初から加わっていた可能性さえある。文章も読みやすく、是非本書を戦後史秘史として一読することをお勧めします。
有馬氏はあくまで雲南省共産党の拉致ととらえるが、私は拉致というよりは、あらかじめ同意のあった連行であったと思う。
ホーチミンとの会談は、確かに彼の重要目的の一つだったかもしれない。しかし、中国国内に潜入し、中国共産党の戦略企画部長のポストに就いてからの方が、ベトナム和平工作は、はるかにセンセーショナルでスムーズにいく。ホーチミンとの会談という目的は二次的なものだったのだろう。つまりどの時点かはわからないが、辻は中国共産党と示し合わせることに成功し、それによって、中国に潜入することが辻の第一目的になったのではないか、ということである。
辻は、かつて終戦時、中国国民党に対して行なったと同じこと、その懐に飛び込むことを、中国共産党に対して今一度行なおうとしたということである。辻にしてみれば、ビエンチャンからの失踪は、終戦のときのあのバンコクでの失踪と同じものだった。
パテト・ラオはかつての重慶藍衣社であり、目指すところは重慶ではなく、雲南あるいは北京であった。謀略がすべて成功し、辻政信がかつての国民党でそうであったように、中国共
産党幹部になったとすれば、これはアジアだけでなく、全世界を揺るがすような大事件になったであろう。
辻はラオス行きの直前、大統領に就任したばかりのケネディに、中共の国連加盟をアメリカが推進することを要請する意見書を送っている(秦郁彦『昭和史の軍人たち』)。この時期はまだ、台湾政府は大陸反攻の意欲に燃えており、中共の国連加盟の可能性はまだ絵空事であった。にもかかわらず、辻は中国共産党に、自分の新たな野心を預けようとしたのである。
辻が今一度見ようとした見果てぬ「夢」
しかしそうした事態の読みは、あまりにも辻の独りよがりだったのであろう。まず辻と共産党との問には、かつての辻と蒋介石の間のような、長期間にわたって培った蜜月は何もない。大東亜戦争の時期全体を通じて辻、が幾度もつくった「手土産」を、何も持っていなかったのである。
辻は自著で、周恩来はじめ、自分が面会した中国共産党幹部の人格を高く評価しているが、共産党幹部への辻への態度はまったく表面的な装いにすぎず、毛沢東も周恩来も、蒋介石と違って、辻に対して根本的な信頼は、ほとんど持っていなかったと見るべきであろう。辻が中国共産党の「信頼」を得るためには、かつて中国国民党に対して行なったような時間をかけた、規模の大きい「手土産」の数々が必要ではなかったか。たとえば中国共産党員の政治活動をサポートしたり、党員の命を助けたりというような行動を、戦前・戦後の辻はまったくしていなかった。
またこのCIA文書に「改造」ということがあることが非常に気にかかる。いくら口八丁の辻であっても、思想改造されて自分を共産党的人間に変換することには(たとえ演技であったとしても)、さすがに激しいためらいがあったに違いない。ソビエト共産党や中国共産党の思想改造教育の過酷さは、辻が知っている日本の憲兵隊や特高警察の比では、まったくない。
私は、雲南省共産党のもとに庇護されるまで、辻の謀略は計算通りに進行したのではないかと思う。しかし思想改造の段階になって、辻と共産党の間に致命的な難敵が生じ、辻は客人から囚人へと待遇を変えられたのではないかと推測する。CIA文書も、雲南省に監禁されているという指摘をもって、辻に関しての記述は終わってしまっている。つまり、辻の命運は、雲南の地で、ついに尽きたと解釈すべきであろう。
同じ頃、雲南省からそう離れていない台湾では、蒋介石が、親日派への白色テロを繰り返しながら、次第に遠のく大陸反攻の可能性に絶望を感じていた。大陸に戻ることが絶望的になるにつれて、蒋介石の顔は、若い頃とは比べ物にならないような温和なものになっていった。世界の列強に依存しまくり、辻のような魔性を利用しまくる必要性から解放されたからだろうか。個人的な好みの問題をいえば、晩年の蒋介石の柔和な表情が、私はなぜか好きである。
蒋介石のもとにも、ラオスや雲南省での、辻の活動の情報は入っていたに違いない。自分の人生の暗黒部分に最もきっちりと付き合ってくれた日本人の最後の報に、安穏とした後半生を過ごしつつあった蒋介石は、いったいどのような思いを馳せたであろうか。

コメント