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小野田寛郎氏が今年の1月16日にお亡くなりになった。それから小野田さん関連の本を読んだ。戸井十月氏と小野田さんの本は本当に面白かった。

ルバング島でのサバイバル生活は30年それを体験したものでなければ書きえない冒険談義でした。だが、小野田さんの語る終戦は知らなかったという話にどうしても納得できないし、中野学校とは単なるスパイ学校ではない。日米開戦の早期に日本の敗戦を予想し戦後を見越した準備をしたした組織である。

事実、斉藤充功氏が取材した戦後の中野学校出身者の貴重な証言は、歴史の闇に隠れた真実を照ら
す貴重なものです。

証言 陸軍中野学校 卒業生たちの追想
p181~193
小野田少尉と丸福金貨
昭和四九年(一九七四年)三月一二日、フィリピンのルバング島から陸庫中野学校二俣分校出身の小野田寛郎少尉が生還して三四年の年月が流れていた。

筆者が小野田にインタビューしたのは、平成二○年(二○○八年)五月、場所は都内の病院のカフェテリアであった。当時、八六歳の小野田は検査入院の手続きで病院に来ていて、ついでに取材に応じるという段収りになっていた インタビューは同伴者が手続きをする間のわずかな時間を割いて行ったが、小野田の「ルバング島の任務で話していないことがたくさんある」という一言に、筆者は身を乗り出してその先を促した だが、同伴者が席に戻ってきたためその先の話を聞く機会を逸してしまった。以来、小野田の取材は同伴者のガードが固くて実現していない。

それから二年余りが過ぎた。しかし、筆者は小野田の口から洩れた「ルバング島での任務」のことが頭から離れなかった。その真相を何とか知りたいと思った。

その後筆者は、二俣分校卒業生を訪ねて取材を続けていたが、ある時一期生の一人から「村越君が静岡にいるはずだから、訪ねてみたら」とアドバイスを受けた。その時、彼は一枚のコピーを渡してくれた。コピーは手記の一部で『日本軍埋蔵財宝始末』と表題が付されていた。その手記を記したのは、小野田と同期の一期生でフィリピン戦線に配属された村越謙三であった。

村越は、昭和一九年(一九四四年) 一二月、フィリピン防衛を担っていた第一四方面軍司令部参謀部防諜班に小野田と共に新任少尉として着任している。同期生三九人はフィリピン各地に配属されたが、そのうち二三人が任務遂行中に戦死している。

ちなみに、方面軍全体で勤務していた中野学校卒業生(二俣分校を含む)は総員で九八名であったが、戦死者六六名、戦死率は六七パーセントに達していた。

ところで、フィリピン当局がルバング島に残留日本兵がいることを知ったのは、終戦翌年の昭和二一年(一九四六年)三月、投降日本兵の情報からであった。その時点で当局は、小野田寛郎、島田庄一、小塚金七、赤津勇一の四名の名を確認していたという。

それから三年して、赤津一等兵が島の北西部で地元警察官に保護され、マニラに送られて取調べを受け、一年後に日本に送還された。取調で赤塚は当局から「埋蔵財宝」と「仲間のこと」を執拗に聞かれたというから、フィリピン当局はマルコス時代以前からルバング島の残留日本兵と埋蔵財宝についての情報を得ていたことになる。だが、その詳細が公表されることはなかった。

赤津が日本に送還された後、昭和二九年(一九五四年) 一〇月には島田伍長がフィリピン軍のレインジャー部隊に発見され射殺される。次いで、昭和四七年(一九七二年) 一〇月には小塚一等兵がジャパニーズーヒルと呼ばれていた丘の上で地元警察官に射殺された(小野田もそこにいた)。その結果、ルバング島に残ったのは小野田一人となっていた。

後述するが、小野田救出のために日本政府が予備調査を始めたのは、小野田と同期の山本繁一少尉がミンドロ島で保護されたことがきっかけになっていた。

筆者が村越家を訪ねたのは、平成二二年(二〇一〇年)夏のことだった。取材に応じてくれたのは長男(五八歳)であった。「親父が亡くなって九年になります。戦時中のことはほとんど話さない人でした。仲間がだいぶ戦死したようで、戦地では地獄を見たんでしょう。それと、中野学校のことに関しては、小野田さんの消息が報じられるようになってから、戦友の人たちと三回ほど現地に行ったことがあります。小野田さんのことだけは、なぜか父はよく話をしていました」

筆者は、持参した前出のコピーを見せて感想を聞いてみた。文章には以下の記述がある。「昭和四三年七月、大学の講師を通訳として立派な比島人が訪ねて(自宅)きて、「ベン少年から、命の恩人に礼を言ってくれ、と頼まれて来た」という。二三年間、恩を忘れぬとは感心した。数日後、通訳が再び訪れ、「実は日本軍の埋蔵財宝の地図の所有者の確認が目的で、先日の比島人はマルコス大統領の情報担当の少将(長官の名はフロレンティノービラクルシス)である」と語った」

長男は、何か思い出したようだ。
「親父がこんなものを書いていたんですか。初めて見ます。昭和四三年といえば、私か高校一年の時です。思い出しましたよ。突然、家に父を訪ねて外国人数人が来たんです。村でも評判になりました。こんな田舎に外国人なんて、珍しい時代でしたから」

長男の記憶に残る村越家への外国人の訪問とは、何が目的でめったのか?
「後で親父に聞いた話ですが、訪ねてきたのはフィリピンの軍人と大使館の人間だと言っていました。何でも、軍人はマルコス大統領の特使だと話していたそうです。当時、外国人が我が家を訪ねてきたことは県警にも知られていて、警備のために一ヶ月くらい私服の警察官が家の周りを警備していたことを覚えています」

五八歳の長男が高校一年の時に体験した外国人の突然の訪問。それは四二年前の一九六八年ということになり、年号は昭和四三年である。

村越謙三宅を訪ねてきたフィリピン人は、軍人と大使館員であったと長男は父親から聞かされていた。村越とフィリピンを繋ぐ糸は、彼が遺した『日本軍埋蔵財宝始末』という手記のみである。

手記にあるベン少年とは「ベン・ファミン少年」のことで、手記の続きには「秘密保持の為に処置した方が良いという意見もあったので、自分か菊水隊転出の後を考えてトランク、布類を持たせて家に帰した者である」と記されている。村越は、戦地でベン・ファミン少年とは面識があった。そして少年にトランクを預けていた。では、肝心のトランクの中身はどんなものであったのか。

トランクを村越に預けたのは、同期の森井重次少尉(ヌエバビスカ州パンパンで戦死)であり、森井は村越に「日本軍が戦争に負けた時の、ゲリラ戦のための資金資材の埋蔵場所を記した地図だ」と話したそうだ。

フィリピンの埋蔵財宝といえば、『山下財宝』を連想する読者もいるだろう。現地では、今日でもその発掘が続けられている。

ちなみに、村越が転出した菊水隊とは三五軍が編成した「陸の特攻隊」とも呼ばれた切り込み隊であり、米軍との戦闘で隊員だった二俣一期生は村越を除いて全員戦死している。

小野田少尉のルバング島における「残置諜者」としての真の任務は何であったのか。
小野田の任務については、アメリカのジャーナリスト、スターリングーシーグレーブ夫妻が共著で平成一五年(二〇〇三年)五月にロンドンで『GOLD WARRIORS(黄金の戦士たち)』という四五〇頁のペーパーバック本を出版している。

この本は未訳だか、チャプター11に興味深い記述があったので、小野田に関する記述を抜粋して訳してみた。小見出しは『POINTING THE WAY(道案内)』と付けられている。「彼(ベン)は戦時中、竹田皇子とともに財宝金庫の隠匿にルバング島で数週間過ごした。その時、ベンは小野田に会っていた。その施設を守るよう小野田に命じたのは竹田皇子であることをベンは知っていた。だから、命令は竹田皇子だけが解除できるのだ。数週間後、散人の日本の役人が小野田に投降を説得するためフィリピンに到着した。注目は谷口義美少佐に集まった。テレビでは小野田の司令官だと紹介された(中略)。数日後、小野田は日本に帰還した。だが、彼は近代的な日本にぱ馴染めないと主張し、ブラジルのマターグロッツソにある大きな日本人所有の農園に送られた。ルバングの財宝が回収されるまで、誰も彼を訪ねて来られないように多くの護衛が付けられた。ルバング島での回収(筆者注:隠匿軍資金)は裕福な日本人旅行者のためのリゾート開発を装い、笹川が成し遂げた。それはマルコスの要望でやったことだと笹川ぱ言った(後略)」

昭和四九年(一九七四年)三月九日、小野田は救出隊に参加していた中野学校の元上官谷口義美少佐から任務解除の命令を口頭で伝達され、この日を以ってルバング島における戦闘は終わった。同月 一一日にはヘリで大統領府のあるマラカニアン宮殿に運ばれマルコス大統領に謁見。日本(羽田飛行場)に帰国したのはて一二日であった。

フィリピンでは、小野田が救出される一八年前の昭和三一年(一九五六年) 一〇月にも、ミンドロ島で二俣一期生の山本繁一少尉他三人の日本兵が救出され、ロハスからマニラに護送されていた。この時の引率者は、日本大使館(日比友好条約が締結されたのは同年七月)の中川豊一書記官であったが、機内で中川は山本に「取調べの時は中野学校出身のことは話さないように」と釘を刺したという。

中川の情報源は、二俣同期の末次一郎からであった。
しかし、山本ら四人が日本への帰国に際して乗船したのは、貨物船『山萩丸』の三等船室であった。上陸地は門司港で、四人は一一月二八日に日本の地を踏んだ。歓迎する日本人はほとんどいなかった。

一方、小野田の帰国は熱烈な歓迎を受け、その後日本中に「ルバング島の英雄・オノダ」ブームが巻き起こることになる。この違いは何であろうか。

その後、時が経つにつれ小野田のルバング島における真の任務について『山下財宝』との絡みで語られることが多くなった。

山本は当時の大統領マグサイサイと謁見することもなかったが、小野田はマラカニアン宮殿でマルコス大統領と謁見している。その後、大統領の側近同席でマルコスと話し合う時間があったそうだ。

もちろん、会談内容はオフレコで小野田もマルコスとの会談については今日に至るも一切語っていない。これは筆者の推論だが、会談の席で小野田はマルコスに「ルバング島で守ってきた日本車の隠匿財宝」の在り処について語ったのではあるまいか。大統領との謁見。フィリピン政府の破格の小野田への待遇。そして帰国。その一連の様子は日本で報道され、小野田フィバーとなったわけだ。

それから二九年後、前述の『GOLD WARRIORSが、取材に基づく事実(?)として出版し「山下財宝と小野田少尉」の関わりを暴露した。

文中に出てくる「竹田皇子」とは昭和天皇の従弟で旧皇族の竹田宮恒徳王のことであり、宮は昭和 一八年(一九四三年)当時、参謀本部作戦課の少佐参謀(宮田参謀を名乗っていた)として比島に派遣され、マニラで軍務に就いていた。また「ベン」なる人物は「ベン・ヴァレモレス(村越謙三の手記ではベン・ファミン少年)」のことで、彼が竹田宮の従者として働いていたとシーグレーブは記述している。

また、文中の「谷口義美少佐」は中野学校二甲出身の情報将校で、小野田がマニラに着任する以前から第一四方面軍参謀部別班(看板は南方自然科学研究所)の班長として情報活動に就いていた人物である。「マルコス」とは当時のフィリピン大統領。「笹川」は東京裁判でA級戦犯として巣鴨プリズンに収容された後釈放され、戦後は日本のドンと呼ばれ競艇の収益金の配分を一手に握った日本船舶振興会の会長として君臨した笹川良一のことである。

シーグレーブは小野田寛郎―竹田宮―ベン・ヴァレモレスー笹川良一―マルコス大統領の関係を「財宝」に結び付けて論じているが、決定的な誤りは小野田寛郎と竹田宮の接点を取り違えたことにあるに小野田寛郎が二俣分校を卒業してフィリピンに着任したのは前出の村越と同じ昭和一九年一二月。竹田官が派遣軍の参謀職を解かれ昭和一八年八月に中佐に進級して満州の関東軍参謀として転出した後、内地の第一総軍防衛主任参謀に転属したのが四五年七月。満州時代もそれ以後も、竹田宮はフィリピンには戻っていない。このような初歩的なミスが散見できるシーグレーブの著作は、果たして「取材に基づいた事実」を記述したものなのか、疑問を提さざるを得ない。

ところで、冒頭で記したように、小野田は「ルバング島の任務で話していないことがたくさんある」と語っている。小野田は任務の真相を私に話したかったのだろうか。残念ながら、その先は語らずに終わってしまった。だが、小野田のその言葉が気にかかり、筆者が同期生への取材を続けたことは既述の通りである。そして探し当てたのが前出の村越謙三の長男であった。

彼の父親は、貴重な手記を遺していた。手記の続きは、次のように記されていた。
「この時(昭和四三年)以来、マニラから地図を解読して(財宝資材の)埋蔵場所を教えてくれ、また我々は大統領の命令でやっているので生命の保障は必ずするからマニラに来でくれ、とひっきりなしに電話がめった。そして四四年の秋マニラ在往の、バンクマン(銀行員)が地図一〇枚を持参して、解読してくれと懇願した。地図には上部に時計が記してしてあり、一枚に金参千萬と記してあり、計参億であった」

そして、下記の結語はこう結ばれている。
「昭和五四年四月、マルコス大統領と関係の深い某日本人が現地人の絵図を持参し、解読を求めてきたが、金に絡んだ話は危険が多いので、いずれも断り今日に及んでいる」
村越家にフィリピン人が最初にアプローチしてきたのは小野田が帰国する六年前で、帰国してからも一度日本人が訪ねてきていた。目的はいずれも「地図の解読」依頼であったが、小野田がそれらの人物と接触していたのかどうかは不明である。

執拗に村越家を訪ねてきたフィリピン人。彼らは持参した地図が山下財宝の在り処を示す地図と信じていたのだろう。この時、彼らが持参した地図は、ルバング島とは関係のない場所に隠匿された財宝を示す地図で、その地図こそ戦死した森井少尉が村越に預けた地図であり、村越はその地図をトランクに詰めて「ベン・ファミン少年」に渡したに違いあるまい。このトランクは何らかの経緯を経て、マルコス政権に回収されたようである。フィリピン人が最初に村越を訪ねてきた時、マルコスはすでに大統領に就任して三年目になっていた。ルバング島の残留日本兵についての情報も、当然マルコスは掴んでいたことになるが、代理人たちは村越にルバング島のことは質問しなかったという。

小野田と同期でフィリピン戦線に配属された岡山在住のB氏は、小野田の二九年間のルバング島生活を、「小野田がルバングで守ったのは丸福金貨だと思うよ。戦地は終戦末期になると軍票はまったく使えず、物資の調達は丸福でやっていた。ルソンからルバングに運んだのは安全性を考えての方面軍の命令だったと思うよ。目的は軍資金の隠匿、それ以外考えられない」と、小野田の「残置諜者」としての使命を推測した。

筆者がB氏に「小野田さんが守った軍資金は小野田さんの帰国後に笹川がマルコスと組んで発掘してしまったのではないのか」と聞くと、B氏は「笹川とマルコスの関係はわからない」と答えている。

笹川がルバング島の開発を目的に、現地に「リゾート施設」なるものを計画して建設を始めたのは事実で、その時期は小野田が帰国してからのことであった。開発は途中で中止されたものの、「リゾート施設」建設を理由にすれば土木機械を堂々と使えるわけである。開発は「隠匿された軍資金の発掘」が目的ではなかったのか。そして、手がかりの「地図」を笹川に渡したのが小野田であった、と私は想像した。ところで、B氏の話に出てきた丸福金貨とはいかなるものなのか。   
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丸福金貨
 「丸福金貨ぱ戦争末期の私生児で、大蔵省や造幣局の記録にも載っていない(中略)。前線軍部の物資調達用に密かに鋳造された金貨であった。

福・禄・寿の三種類を作り、そのうち比島方面に向けられたのが、マルの中に福の字を浮き上がらせたこの純金メダルであった」(ミノル・フクミツ『モンテンルパの戦犯釈放と幻の財宝』)。

 金貨カタログによれば、量目は「直径三センチ、厚さ三ミリ、重量二一・二二グラム、品位一〇〇〇/二四」とある。要するに純金であった。この丸福金貨はメダル仕様で、戦後フィリピン各地で発見されているが、その総量は一千枚にも満たない。大本営の情報参謀(中佐)であった堀栄三ぱ、自著『大本営参謀の情報戦記』(文春文庫)の中でフィリピンに運ばれた丸福について記していた。

 「その量は金貨五〇枚ずつの木箱入り一〇箱を単位に頑丈な木箱で梱包、それが五○梱包あったから、金貨の数は二万五千枚になる。表面に福の字が刻印されていたので関係者は「マル福金貨」と呼んでいた」

 丸福一枚の重さは三一・二二、グラム。二万五千枚だと、その重量・はネットで約し八〇キロ、取材当時の金価格は地金ペースで一グラム三九〇〇円台であったから、七八〇キロの総額は三〇億四千万円ということになるい過去、ルソンやミンダナオで発見された数が推定で1000枚といわれており、残りの二万四千枚が仮にルバング島に軍資金として運び込まれたとしても、想像を絶するというほどの金塊ではない。『山下財宝』はルバング島とは関係なく、憶測に天上屋を重ねた結果、途方もない数量に膨らんでしまった幻の山吹色なのかもしれない。

 元帝国陸軍少尉小野田寛郎。彼は、本当にルバング島で山下方面軍の財宝を守るための番人として、二九年間もの長きにわたって「残置諜者」の任務を全うしたのであろうか。同期生の何人かは「小野田は間違いなく丸福を守り通したはず」と答えている。それが「残置諜者」としての小野田の使命だったのだろうか。

 彼は、帰国に際して「天皇陛下万歳」と連呼した。しかし、帰国後は一転、天皇批判も辞さなかった。その心中を察するに、「天皇の金塊」を守ったことが「帝国軍人最後の奴隷」と自らの生き方を揶揄したのではないか。ルバング島では、未だ残り二万四千枚の「丸福金貨」が発見されたという公式発表はない。当然であろう。財宝は既に二〇数年前に当時の独裁者マルコス大統領の手で回収されていたのだから。そして協力したのが笹川良一、この推論、決して的を外しているとは思わないのだが。

 小野田寛郎、現在九一歳。中野学校二俣分校一期生出身。「残置諜者」の任務を全うして職務を完了したが、その後一度もルバング島を訪ねてはいない。いつの日か、彼が「ルバング島の真実」を語ってくれることを期待している。
小野田さんは何も語らず1月17日お亡くなりになった。

>小野田もマルコスとの会談については今日に至るも一切語っていない。
小野田さんはマルコストの会談について何か喋ったかいまのところ確認はできないが、
戸井十月氏の小野田寛郎終わらない戦いには小野田少尉とマルコス大統領との会談内容が書かれてある。
p121
フィリピン空軍の大型ヘリは、ルバング島からマニラヘ小野川を運んだ。マラカニアン宮殿で待っていたマルコス大統領は、小野田の肩を抱いてこう言った。
「あなたは立派な軍人だ。私もゲリラ隊長として四年間戦ったが、三十年間もジャングルで生き抜いた強い意志は尊敬に値する。われわれは、それぞれの目的のもとに戦った。しかし、戦いはもう終わった。私はこの国の大統領として、あなたの過去の行為のすべてを赦します」 小野田の全身から力が抜けた。
ルバン島での住民やフィリピン軍・警察に対する、強制徴用・殺傷事件に関する罪状は一切不問として許され、小野田さんがあるいわ心を開いたかもしれませんね。

小野田さんの本当の任務と上司とはだれであるか?垣間見える部分がある。

わがルバン島の30年戦争
P46-49
私か読み終るのを待って高橋参謀が言った。
「敵のルソン島攻撃を阻止するため、まず、ルバン飛行場の滑走路と桟橋を破壊せよ。また、敵が上陸して、飛行場を使用せる場合は、敵機の爆破及び搭乗員の殺傷をはがれ」
かたわらから谷口少佐が言い添えた。
「游撃戦の指導には最低二名が必要だが、現状はそれを許さない。お前一人では苦しいだろうが、がんばってくれ。いいか、はじめてのことを一人でやろうとすると、その人間の性質上、必ず欠陥が生じる。骨の折れるのはわかっている。しっかりやってくれ」
残る一名、山崎操は師団の予備要員ときまって命令下達が終り、私たちは師団長へ申告することになった。たまたまこのとき、第十四方面軍参謀長の武藤章中将が陣地視察の帰りに師団司令部に寄り、いま、師団長室にいるという。

私たちはまず、武藤参謀長に申告した。
申告が終ると、参謀長は私たちをゆっくり見わたして言った。
「お前たちが来ていることは知っていたが、忙しくて会う機会がなかった。偶然、ここで会えたことは首もうれしい。戦局不利なときだ。全力をあげて任務を遂行してくれ。いいな、頼んだぞ」 有名な参謀長からしかに激励されたのは意外だった。
つづいて師団長に申告しようとすると、
「ああ、膿はいい、膿はいい。参謀長閣下に申告したんだから……」
師団長、横山静雄中将は、手をあげて私たちを押しとどめてから、私のほうにじっと目をそそいで、こう言った。
「玉砕はいっさい、まかりならぬ。三年でも、五年でも、がんばれ。必ず、迎えに行く。それまで、兵隊が一人でも残っているあいだは、ヤシの実をかじってでも、その兵隊を使ってがんばってくれ。いいか。重ねていうが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」
小がらで温和な風貌をした師団長は、静かな口調で命令し、激励した。
私は大きな声で、「はいツ」と答え、二俣で受けた教育を思い起こし、決意を新たにした。
師団長がじきじきに一見習士官を励ます。これはめったにないことであろう。任務の重大さを痛感しないわけにはいかなかった。私は胸の中で自分に誓った。
「よし、きっとやる。たとえ草の根をかじっても生きながらえて、命令を守らねばならぬ。」

 私の直属上官はだれか

ここで軍の命令系統を簡単に説明しておこう。
軍人は、いかなる場合もすべて直属上官の命令によって動かねばならない。そして命令権を持つの は師団長、連隊長、中隊長である。小隊長、分隊長は、いわばその補佐で、俗にいう小隊命令や分隊命令は、中隊長の命令を伝達するにすぎない。
たとえば、ある兵隊が歩哨に立っているところに、他の部隊の上級将校がきて、別のことを命じたとする。歩哨はこれに従う必要はない。
「自分はいま小哨長の命令で歩哨に立っています。命令が解かれるまで、ここを一歩も動くわけにはいきません」
相手がたとえ大将でも同しである。つまり直属上官以外の任務上の命令は、きかなくてもいいのである。
私は二俣で第十四方面軍へ転属を命じられ、さらに杉兵団に配属された。私には直属の中隊長も、連隊長もいないい私の直属の上官は杉兵団長――横山中将ということになる。別班長の谷口少佐も、口頭で命令を下達した高僑参謀も、私の直属上官ではない。両少佐とも指示権、区処権はあっても、私に対する命令権はない‥私かルバンヘ派遣されたのは、あくまでも横山師団長の命令によってであった。

もう一つ、説明しておきたいのは、「区処」という言葉である これは独特の軍隊用語で、命令権を持たぬ上級者が、下級者に対して、その行動を一時指導するだけの権限である。

つまり、私が命じられたのは、あくまでも游撃戦の指導であって、指揮ではない。この指揮権を持 たぬことが、その後私を何十回となく歯ぎしりさせることになった。

申告を終えて参謀室に戻ると、高橋参謀が笑いながら私に目を向け、 「おい、小野田、ルバンヘ行って驚くなよ。何しろ、あすこは日本一の部隊なんだからな」
すると谷口少佐が、すかさず口をはさんだ。「いまのは、冗談だぞ」
かたわらの山口後方班長がニヤッと笑って言った。
「しかし、ルバンは宝の島だ。いまどき、あんな島は、どこにもない。食い物だけはたっぷりある。小野田、安心していけ」
こんなやりとりのあとで谷口少佐は、表情を引きしめて、つけ加えた。
「本来なら異民族を部下に持って戦わねばならないわれわれ秘密戦士が、陛下の赤子をお預り申せるのだから、それだけでも光栄と思わなきゃならん。そうだろ、小野田」
「はいッ」私はまた大きな声で返事をした。
私たち游撃戦士は、戦場におもむいたら、異民族を使って作戦を展開するように教育されてきた。それなのに、陛下の赤子――皇軍の兵士を部下に持つことができるのだから、その光栄に感謝して、しっかりやれというわけである。確かに、言葉がわかるだけでも有利である。
さらに谷口少佐は、私に二枚の地図を渡しながら念を押した。
「ルバンは戦略上、きわめて重要な島だ。たとえ、どんなに游撃戦がやりにくくても、みだりに他の島へ移動してはならんぞ」
いくら偶然であるとはいえ、第十四方面軍参謀長の武藤章中将が見習士官の赴任の為、直々に訓示をしていることを示唆している。やはり秘密の命令があったような可能性を匂わせている。

中野学校の上司であるならば「玉砕はいっさい、まかりならぬ。三年でも、五年でも、がんばれ。必ず、迎えに行く。」と言っても不思議ではないが、戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』という指示が徹底している正規の陸軍師団長が指示してという下りは些か不自然ではないか?

「游撃戦がやりにくくても、みだりに他の島へ移動してはならん」島外に出るなという命令だ・・・遊撃戦をしかけるなら、場合によっては近所の無人島を基地とすることだってありうる。この命令は合理性に欠け不自然ではなかろうか?

参謀たちが更にP85とP101にすごく不自然な一文が載っている。
P85
私はまだ自分の特殊任務を島田伍長にも小塚一等兵にも打ち明けていなかった。
p91では小野田少尉の派遣理由は游撃戦の指揮であることは、投降組も敵も全員知っていることを書いてある。
にもかかわらず
P101「わたしはまだ自分の特殊任務をについて、彼にはっきり打ち明けてなかったが・・・」
游撃戦以外に特殊任務があることを小野田氏は自分の自伝の片隅にほのめかしているのではないか?私にはそう思えてならない。