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人類文明の秘宝『日本』   馬野周二・著  徳間書店 

p229-236
戦後にはそんな人はあまり見かけなくなったが、戦前の大実業家には、功成り名遂げると、引退して茶をやるとか、書画に凝るといった人達がいた。名誉、金銭に淡白になるのだ。この物欲、金欲から離脱して、精神性に帰る過程は、すなわち現代工業文明から縄文の哲人に復帰する、先祖返りなのである。茶と花と能とは、その精神の根源を、深く上古日本の精神文明に負っている。

日本語が日本人を作る

一つの民族の性格、文明の型は、彼らが使う言語によって太枠として規定されている、そう私は考えている。二十年くらい前まで、北極空路が開かれない時代にヨーロッパから日本に帰る人達は、インドを離れてタイに着くと、急に身近かな感じを待ったものだ。インドとヨーロッパ、あるいはタイと日本は、まったく違うように見え、むしろ日本とヨーロッパは同じように思うけれども、現実にその社会に入って見ると、やはりインドは西洋でタイは東洋である、と感ぜざるをえない。

この原因は、西洋の一体性が、インドーアリアン言語を共通項としているというところにあろうし、タイと日本の近しい感覚は、同じく東洋人種という点と、仏教信仰を同じくしていることにあろう。しかし同じ東洋人種といっても、フィリピンでは日本人は異和感を覚えることが多い。

これは彼らが英語、スペイン語で長く育てられ、キリスト教が一般化しているせいであろう。

在米邦人でも、一世と二世はずいぶん異なる。日本語で子供の時から育てられたか、あるいは英語で育てられたかの差が、決定的なのである。逆にアメリカ人、ヨーロッパ人でも、日本で、日本語で育つと、心の深いところで日本人の性格を持つようになると思われる。これは肉体の物理的構造でも説明できるので、一般に左脳と右脳といわれている部分の聴覚機能が、日本語で育つと変ってしまうのだ。これは角田忠信氏の発見である。

たとえば秋の野にすだく虫の音を、日本人は情感をもって聞くが、西洋人はもちろん、お隣の韓国人も、単なる雑音として聞く。この一事で、日本語がいかに特殊か、したがって日本人とその作る文明が、他のあらゆる民族のそれと異なるかがわかろう。すなわち、日本語は日本人の存在の根源につながっているのだ。日本でなぜ音声が神になるのか(言霊)、そのわけはこの辺にあるのかも知れない。

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言語の「もと」はただ一つである  

人間は言語を、一体どの進化の時代に作り出したのだろうか。われわれ新人は、わずか三万五千年前に出現している。とすれば、その時代には現代の各言語の根本はもうできていたはずである。黄・白・黒色人種いずれも同じホモサピエンス・サピエンスで、当然その時に発生した祖先から分かれたわけである。そうすると、現在使われているあらゆる言語の「もと」はただ一つだ、と考える外はない。

彼らが世界の各地に散っていく途中で、各人種、各民族に特有の言語ができてきたと思う外はない。

事実、比較言語学というのがあって、インド・アリアン語族については、その原語から分かれて、現在のインドからイラン、ギリシア、ローマ、近代西欧語に何年くらい前に枝分かれしたかが、十分に調べられている。ところが東洋の諸言語については、インド・アリアン語族の歴史よりずっと複雑で、今のところ十分な分析はできていない。とくに日本語については、この起源は五里霧中といってよい。だから各人各様の珍説さらには奇説が現われる。

だが私は日本語は日本で作られたと考えている。もちろんホモサピエンス・サピエンス原語から出たのだが、きわめて早期に日本に渡ってきて、列島内に固定されたものと見てよいだろう。その証拠はいろいろとある。したがって、日本語はどの言語の範囲にも入らない。他の言語は多民族との摩擦の中で、いわばスレてしまっているのだから。

このような言語を数十世紀も保持してきた日本人が、他の民族とまったく異なった心情を持つことは当然であり、脳の言語部の物理構造が原初のまま今日まで変化しないで続いてきた。世上、日本人の起源や国家の由来について荒唐無稽な言説が多いが、列島全体が均一な言語で覆われ、近似した言語が近辺にさえ一つもないということは、日本人とその国家の起源が、太古から正しく列島内に局限されてきたことの、破ることのできない証である。このようにして、言語の構造が変わるほどの大量の異種族の流入は考えることはできないものとなる。

私はいろいろ世界を見て歩き、アメリカ人、ヨーロッパ人と一緒に仕事をしてきたのだが、日本人は、心中深いところで、まったく別種であることを切実に感ぜざるをえなかった。このことは、とりも直さず、日本語が他の言語と大きくちがっているということからくる。これは図表ー8示されたような文字八十個から成っているが、この文献と同類の漢字音で書かれた『間之統志(マノスベシ)』、『神名比々執(カムナヒビキ)』という本もあるという。このことはすでに述べた。
この内容を現代の言詰二要約すると、次のようになろうか(宇野多美恵氏による)。
1.万物、万象の根源は、一つの潜体であり、あらゆるものはその「始元」をここに発している。
2.したがって生物も無生物も人間に知覚されるすべての「現象」には、それと対をなす「潜象」が遍満しており、それはこの「始元」に連なっている。
3.宇宙から原子核まで、生物から文明まで、相似則が貫通している。       
ユダヤ、キリスト、イスラム教では、唯一真神としての人(神)格が存在し、人間はこの神の意志の下で生きる。そこで彼ら教徒は、いかなる行動をとっても、それは「神」に見られ、その意志によって動かされていることになる。よくいわれる彼らの契約の観念においても、彼ら相互間の約束は、実は当事者が暗黙、無意識のうちにあってもそれぞれ神と契約しているという、精神的プロセスなのである。

日本人は「神」でなく「始元」を相手にしている 

ところが日本人の間では、契約は当事者の間だけの約束で、「神」などが入ってはいない。ではわれわれは本当に当事者だけで事を済ませているのだろうか。それなら、相手が死んでしまえば、契約はなくなり勝手なことができるはずである。かくして監視者「神」のいない日本社会は、没義道(もぎどう)な無残なものとなっているはずだ。西洋人はよく日本人に、あなたの信仰はと聞く。その問の裏は、信仰のない人間は何をするか分からぬという不信感があるのだ。神のいなくなった西洋社会は恐るべきものとなろう。                           
しかし世界歴史上大国家としては、おそらく日本ほど犯罪の少ない穏やかな社会はなかっただろう。これはなぜなのか。日本には特定の神格は存在しない。外から入ってきても変質してしまう。何となれば、日本では「一神」は居ず、「万神」は万象に遍在しているからだ。                                  
われわれは主語のない言葉を普通に使う。西洋カブレの人達は、それだから日本語は曖昧で駄目だと託宣する。だが、それで十二分に意味は通じる。主語を入れると、かえってブチ壊しになるのだ。必要のある場合には主語を入れればよい。日本語はいくらでも厳密な表現ができるのである。漢文よりも日本文の方がずっと精密な表現ができる。法律などは極めて厳格な用語で書かれている。    
「有難うございます」「すみません」「もったいない」などという言葉は、西洋流に穿鑿(せんさく)すれば、訳がわからなくなる。一体誰が誰に有難いのか、すまないのか、何に対してもったいないのか。それは宇宙に遍満している「始元」に対していっているのだ。西洋人が「神に監視されている」とすると、日本人は「神に包まれている」とでもいえようか。

 日本人的精神を持っていた古代ギリシア人 

実はこのような現代の日本人の保ち続けている心理は、古代ギリシア人もある程度持っていた。彼らは「すべて神気に満つ」という日本人的精神を持っていた。われわれが早朝の人気のない神社にお参りした時の、あの感じと同じであろう。古代ギリシアと日本の親近性に注意した人はこれまでもいる。だがその理由を説明した人はいない。私の見るところ、古代ギリシア人は、なお人類文明の始源に近く、したがって「始元」が万物に遍満していることを直観できたのだろう。日本人と同じく彼らも多神教であった。                                 
日本語は非常に母音が多い。私はこのことが、日本人の性格の原因であり結果だと思っている。ホモサピエンス・サピエンス原語は、日本語と同じように母音が多かったのだ。そして太古の人達はみな、虫の音が音楽に聞こえていたのだ。だからこそ万物に神が宿っていた。彼らが民族移動して他種族と闘争し、農業社会で相克を重ねるにつれて、言語から母音が落ちていき、人の心が乾燥し、人間不信となり、「人格神」を作り出して彼と契約しなければ、社会秩序が保てなくなった。
西洋では神を二人称で呼ぶ。神もまた人間を二人称で呼ぶ。“お前”であり“あなた”である。だが日本人で神、「始原」を人称代名詞で呼ぶ者はいない。およそ、そんな発想はでようがないのだ。おそらく古代ギリシア人も同様であったろう。
アメリカ合衆国の政治学者サミュエル・P・ハンティントンが1996年著した『文明の衝突 の中で世界を8つの文明に分け、日本を単一の文明圏とみなした。ハンティントンは日本文明が100年ないし400年ごろに中華文明から派生して成立した独自の文明であるとしている。
日本文明がが中華文明と異なる大きな要素は日本語であり、日本語の感性は太古の昔から醇乎(じゅんこ)たる[混じりけがない]精神が今も宿っている。

虫の音がわかる日本人
p16-19
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/53/b8e60b16fcdf971679c062531a00652c.jpg餌取: 秋に虫が鳴くのを意識して聞くというのは、そうしてみると日本人だけの持つ風流さなのですね。

角田: ええ、中国人にさえ通じないようですよ。

餌取: そうしてみると右半球・左半球の分かれ方のお話は、日本人だけが特別なのですか・・・・・東洋人と西洋人、という具合にわかれるのではないのですか。

角田: 私がいままでに調べたインド人、香港にいる中国人、東南アジアの一部の人達・・・・・インドネシア、タイ、ベトナム人は、日本人にみられるような型は示していないようです。

餌取: 欧米と同じパターンですか。
角田: ええ。私が興味深く思ったのは朝鮮人で、これは多分日本にとても近いだろうと思われたのですが、全然違いました。

餌取: そうすると、日本人固有というわけでしょうか。
角田: そうですね。
餌取: どうして日本人にだけ、そんなに特殊な脳の働きが出てきたのでしょう。
角田: それはやはり、母音の扱い方の違いだと思いますよ。


日本語の特殊性

餌取:考えてみれは、たしかに日本語は母音主体のことばですし、それに比べて英語などは子音が主体ですね。
角田:速記術の場合なども、英語では母音は省いてしまう、それで充分わかるそうです。日本語だったら子音だけではまるで意味をなさない・・・・・。それから、よく考えてみると、アイウエオそれぞれに意味がある。あ、しまった! とか、あ、いけない! という時のア、井や胃のイ、鵜の鳥のウ、絵と柄などのエ、尾のオ・・・・・これは他の国の言葉にはない、特殊な事情ですよ。たしかに朝鮮語にイ、というのがあったのでしたが・・・・・。
餌取:なるほどねえ。それをうかがってみると、イタリア語などが音節などは日本語に似通っているとしても、やはり意味づけという点からは全く違いますね。
角田 イタリア語、スペイン語、ポルトガル語などは、発音の面ではよく似ているように思って興味をもって調べてみましたけれども、全部違いました。
餌取:母音主体ではあるけれども、その母音の一つ一つが意味を持っていることばではないわけですね。
角田:したがって日本人の脳だけが、母音に対して特殊な反応形式を示すと考えられます。ですから面白いですよ。いろいろ実験してみますと、動物の声のようなものはみんな左側にいってしまうんです。けれども楽器の音のように整然としたものは右側へいきます。これはどうも脳幹にあるスイッチのような機能の作用らしくて、日本人以外では、そのスイッチの作用の仕方が違う・・・・・。
餌取:日本人のスイッチは感度が大変敏感で、西洋人などでは右側にやってしまうような音でも拾い上げる・・・・・。
角田:そうですね。厳密に音節単位のものでなければ拾わない・・・・・単純な音の場合には右側に入れてしまっていますからね、西洋人の場合は・・・・・。自然界の音などは、楽器や機械音と同じように無意味音として処理されます。
餌取:見方によっては、西洋人のほうが、論理的なものを非常に厳しく選別しているともいえますでしょう。そのへんが、日本人は感覚的で西洋人は論理的だ、という点につながってくるのかもしれませんね。
角田:そうですね。よくいえば情緒的、感覚的、わるくいうならば感情的・・・・・。
餌取:論理的でない・・・・・。
角田:しかも、教育を受けたから論理的になる、というものでもないのです。その分野だけは論理的になりますけれども本質は変らない。
餌取:さんは耳鼻科の医学者餌取章男氏

角田忠信博士の 日本人の脳特殊説は追試が確認できないトンデモだとの説だとか、リビジョニスト(日本異質論者)の格好の材料にされるだけとの批判あるが・・・

数学者 藤原雅彦のベストセラー「国家の品格」p101
十年ほど前に、スタンフォード大学の教授が私の家に遊びに来ました。秋だったのですが、夕方ご飯を食べていると、網戸の向こうから虫の音が聞こえてきました。その時この教授は、「あのノイズは何だ」と言いました。スタンフォードの教授にとっては虫の音はノイズ、つまり雑音であったのです。
虫の音を雑音扱いされて、藤原氏はあぜんとしたという逸話である。日本人であるならば秋の夜の虫の音は美しい音色に聞こえるのだが、この米国人大学教授には雑音にすぎないのである。
このことからしても8-9歳まで日本語で育った人間の脳の働きは、西洋人のみならず日本人以外の他のすべての民族と人種とは全く異質であるという角田説の信憑性は結果として正しいと私は感じています。

小室直樹先生も、日本に日本教という「ネガ宗教」があるが日本には「宗教」と「論理」が無く、日本人はものを考えるときに、論理ではなくフィーリングで感じる(平成二十六年建国記念日に思う )と指摘している。

日本では認識過程をロゴス(論理)とパトス(感情、情念、情緒)に分けるという考え方は、西欧文化に接するまではついに生じなかったし、また現在に至っても、哲学、論理学は日本人一般には定着していないように思う──と角田博士は指摘している。
 日本人とポリネシア人を除く、他のすべての民族と人種は、左脳(言語半球)はロゴス的脳。言語は子音(音節)、そして計算。右脳(劣位半球)はパトス的脳と機械音、楽器音、自然音、そして母音、という。しかし、日本人の場合は、左脳(言語半球)は、子音のみならず母音、あらゆる人声。そして、虫の声、動物の鳴き声などの自然音、そして計算を司どる。右脳は楽器音、機械音を司るという。   渡部昇一上智大学教授は「日本語だけが変にユニークで原始の尻尾をつけたような言葉である」とさえ語っており、「西洋人も太古には日本語みたい左脳で処理される言葉だったのではないか」と続ける。

  日本以外の民族では、何度も何度も「原始の尻尾」を切られた。日本は幾度か「切られそう」にはなったがその度に生き延びた。  「日本語のユニークさ」とは、つまるところ、人類の原始太古時代の言葉が生き延びている、いや単に言葉というのではなくて、脳の仕組み、脳の働きが太古のまま維持されている、ということなのであろう。その1でも取り上げたように、縄文人は南九州での1000年ごとに起きる大噴火の度に南米やポリネシアに旅立っているので、ポリネシア人も縄文人のDNAを持っている可能性がある。

人類文明の秘宝『日本』 p276-278
キリスト教はヨーロッパ古来の信仰を根切りにした

私は世界文明が、第Ⅰ文明から第Ⅳ文明へと継承展開してきたものと考えている。それらは古代西南アジア・インダス文明、ギリシア・ローマ、インド・シナ文明、西ヨーロッパ・日本文明、そしてロシア・アメリカ文明である。これらの各文明は、先行する文明の流人によって育てられ、成長し、停滞し、死滅する。

Ⅰ~Ⅳの各文明の寿命は二千~三千年である。ユーラシア大陸の文明は西南アジアで初発し、そのパターンの根本は今日まで引き継がれている。日本第Ⅲ文明はシナ第11文明を受容して組み立てられているし、ヨーロッパ第Ⅱ文明はギリシアーローマ第Ⅱ文明の上に築かれている。しかしさらに遡ればいずれも第Ⅰ文明に行きつく。

ところで、ヨーロッパおよび日本第Ⅲ文明には、第Ⅱ文明の生んだ高等宗教が取り付いた。キリスト教と仏教である。宗教の日欧固文明に対する影響は、ヨーロッパにおけるキリスト教の方がはるかに徹底的だった。

日本での仏教は、縄文以来の日本の独特な根を切ることができず、むしろこれに同化され、仏教ならざる日本仏教が発生したのにくらべて、キリスト教はヨーロッパ古来の信仰を根切りにした。ここに、一見するといずれも同じような近代工業文明社会を持っているように見える日本と、欧米社会の深層に横たわる差異かある。

つまり日本社会の根が一万年以上の深さがあるのに対して、ヨーロッパ文明の根は、千五百年にすぎないといえよう。固有の民族精神こそ、その文明のアイデンティティーであり、達観、サトリの源であるのだから、根切られた文明では、もっとも深い意味において、真正の創造力を育てることが難しいのではあるまいか。と同時に、他文明を包摂することも困難になる。何となれば、頼るべき根がなければ、新しい文明を入れると、それに完全に占領されて、またIからやり直すことになるからだ。

 異種文明を融合し得たのは日本だけの特殊事情

日本が支那の論理と文字、インドの宗教を受け入れ、さらに西洋の科学、技術、政治制度、軍事組織を受容して変容しつつも、あくまでも中心軸を失わず、東西両洋文明のハイブリッド化しつつあるような現象を、ヨーロッパ人、アメリカ人が今後、東洋、あるいは日本を摂取することによって再現することは、あり得ない。

異種文明を融合し得だのは日本だけの特殊事情であって、それは日本人にとっては発展であり新生であっても、西洋にとっては自殺行為となる。何となれば、それはキリスト教、ユダヤ教を離脱することを意味し、人間に絶対必要な精神的規範を完全に失ってしまうからだ。彼らにはこれらの宗教の代りはないのだから。

アメリカの場合はさらに問題が複雑である。それは複合民族国家、社会である彼らは、内部における軋轢抗争が自然発生し、キリスト教という単一の規範が取り外されると、社会は崩壊するからだ。どんな国家であれ、崩壊には自衛手段がとられる。今後のアメリカの自衛手段は、かくて、人工的な強制力しかない。古代ローマの共和制から帝政への移行がそれであった。外見がいかに柔らかな大統領であろうと、その本質は、皇帝となる。その外の道はあり得ない。
日本が太古の昔より連綿と持ち続けた普遍的価値は、神社や神道に受け継がれ、自然への畏怖心、跪(ひざまずく)く心、自然への繊細で審美的な感受性といった美しい情緒です。それにインド発祥の仏教思想や儒教思想が融かされ、日本的な「もののあわれ」といった感性や高い道徳性からなる武士道精神という日本独特の思想が日本文明です。

フランスの作家オリヴィエ・ジェルマント氏は『日本待望論』(1998 年)で、「人間と天の間に太古の時代よりあった絆が失われた。これを失ったことで西洋人は窒息状態にあるが、日本の神道だけにはそれが生きている。神道こそ日本の最も重要な文化財である」という趣旨のことを語っています

4.日本の精神文化論から

はじめに

日本には古来より誇るべき精神文化がある、との見方がある。それは失われつつあり、取り戻さなければならないという。本論は、そのような精神文化の保持を切に願う人々の主張を取り上げ、彼らが我々にどのような人間になることを期待しているのかを明らかにしたい。
実際にここで取り上げるのは、お茶の水女子大学教授藤原正彦、評論家黄文雄、「日本青年会議所 」会頭の池田佳隆の三者である。

藤原はベストセラーとなった著書『国家の品格』(新潮新書、2005 年)で日本の精神文化、主に「美しい情緒」と「武士道精神」の重要性を述べている。黄は台湾に生まれながら日本の大学を出て、評論家活動を通じて『日本人よ、自分の国に誇りを持ちなさい』(飛鳥新社、2006 年)たる書物を著している。「日本青年会議所」とは、「『明るい豊かな社会』の実現を目指す指導者たらんとする」団体である。その会頭池田は、2006 年度の「新年式典会頭所信表明演説 」で日本が「かつて有してきた美しき精神性を復興させ」よと力強く語っている。

彼らが誇りとする日本の精神文化とは何か、また、なぜそれを取り戻さなければならないのか、について探る。まずは彼らが重要とする精神文化が、なぜ誇れるのかについて考えておく必要がある。それは他者からの評価に拠るところが大きい。つまり、日本を訪れた外国人が、日本のあるいは日本人のある振る舞い、ある精神が素晴らしい、と驚嘆したことが、「誇るべき」根拠となっている。故に、藤原、黄、池田の三者によって日本人が保持するべき精神を提示する時、三者に共通して、日本を訪れた外国人の日本人に対する評価を用いることが多々ある。

自然を大切にする日本人

では、彼らが取り戻したい日本の精神文化を具体的にあげる。藤原によると、それは日本人の「美しい情緒」である 。「美しい情緒」というのは「もののあわれ」とか、「自然への畏怖心」、「懐かしさ」、「自然への感受性」といったものだと言う。以下は、それぞれの精神を絶賛する文言である。尚、( )内は筆者による補足である。

彼女の本(イギリス人キャサリン・サンソムの著書『東京に暮らす―1928~1936』)を読みますと、「自然への感受性や美を感じる心という点で日本人に勝る国民はいないでしょう」と書いています。
これは日本人の「自然への感受性」の鋭さを述べたものである。

物が朽ち果てていく姿を目にすれば、誰でもこれを嘆きます。無論、欧米人でもそうです。しかし、日本人の場合、その儚いものに美を感ずる。日本文学者のドナルド・キーン(1922 年‐)氏によると、これは日本人特有の感性だそうです。儚く消えゆくものの中にすら、美的情緒を見いだしてしまう。

これは「もののあわれ」という「美しい情緒」を述べたものである。「もののあわれ」は日本特有の美的情緒だという。ちなみに藤原によると「もののあわれ」に対応する英語は存在しないようだ。

自然というのは、人間とは比較にならないほど偉大で、自然に聖なるものを感じ、自然と調和し、自然とともに生きようとした。そういう非常に素晴らしい自然観があったのです。だからこそ、神道は生まれた。この情緒が、ある意味で日本人の民族としての謙虚さを生んできた。

これは「自然への畏怖心」という「美しい情緒」を述べたものである。自然を征服すべき対象とする欧米人の自然観と比べた上での、日本人の「非常に素晴らしい自然観」とそこから生じる謙虚さの説明である。なお、神道について言及しているが、フランスの作家オリヴィエ・ジェルマント氏は『日本待望論』(1998 年)で、「人間と天の間に太古の時代よりあった絆が失われた。これを失ったことで西洋人は窒息状態にあるが、日本の神道だけにはそれが生きている。神道こそ日本の最も重要な文化財である」という趣旨のことを語っています。と、日本の神道が外国人によい評価を受けていることも記されている。

日本人の郷愁は、緊迫感とでもよべるものを伴った濃厚な情緒です。いかに濃厚かは、懐かしさを歌った文学が山ほどあることからも明らかです。

これは「懐かしさ」という「美しい情緒」の話。ここでの文学とは主に俳句や短歌、詩を指している。ちなみにこの「懐かしさ」という情緒は「郷土愛」次いで「祖国愛」となるという。「祖国愛」とは、「自国の文化、伝統、情緒、自然、そういったものをこよなく愛することです。これは美しい情緒で、世界中の国民が絶対に持っているべきもの 」であるから、この基本となる「懐かしさ」はとても重要なのだ、と。

これら四つの精神が「美しい情緒」であり、このような精神を見直していこうと藤原は言うのである。このように「美しい情緒」は自然と日本人との密接な関係から生まれてくるものである。黄も、これと似たような発言を著書『日本人よ、自分の国に誇りを持ちなさい』で展開する。日本人の自然や美に対する感度を大いに誉める外国人の声を記している。

インドの詩人ラビンドラナート・タゴール(1861-1941年)も日本の自然・風景の美を愛するとともに、日本人が老若貴賎を問わず美を味わう能力があると感動している。

ほかにもドイツの物理学者アインシュタイン(1879-1955 年)の「絵の国、詩の国」「心優しく謙譲の美徳を持つ国」など、日本に対する絶賛の言葉は少なくない。と、やはり日本人の精神が高く評価されていることを述べた上で、黄自信も日本人の自然観について、周囲の自然との融合から、季節感と密接に結びついた生活習慣や年中行事、詩歌や小説などの文学、また、音楽、芸能、建築など、日本人の情緒や美を表す作品が生まれたのである 。

日本人と自然との密接な関係が日本人の美を生みだすと分析している。

道徳心の高い日本人

次いで、日本人の道徳心の高さについて述べる。藤原は「武士道精神」の復活を願っている。藤原のいう「武士道精神」は新渡戸稲造(1862-1933)の武士道解釈によっている。

彼によると「武士道精神」たるものは、多くの日本人の行動基準、道徳基準として機能してきました。この中には慈愛、誠実、忍耐、正義、勇気、惻隠などが盛り込まれています。惻隠とは他人の不幸への敏感さです。それに加えて「名誉」と「恥」の意識もあります。名誉は命よりも重い。実に立派な考え方です。この武士道精神が、長年、日本の道徳の中核を成してきました。というもので、この「武士道精神」が日本人の道徳心の軸となっていて、「金銭よりも道徳を上に見る精神性 」や「卑怯を憎む心 」なども生まれてくるのだという。

また、黄は武士道が育んだ「敵を思いやる心」を持つ日本人の逸話をとりあげ、日本を「敵にまで優しい日本はやはり武士道の国なのだ 」と言っている。こうした「武士道精神を中核とした日本人の道徳心」が高く評価されていた。藤原は言う。

アメリカの生物学者モース(1838-1925 年)は・・・「日本に数ヶ月も滞在していると、どんな外国人でも、自分の国では道徳的教訓として重荷となっている善徳や品性を、日本人が生まれながらに持っていることに気づく。最も貧しい人々でさえ持っている」と。昭和の初め頃までに日本に長期滞在した外国人の多くは、同様のことを記しています。逆に、日本からアメリカへ行ったキリスト者の内村鑑三(1861-1930 年)や新渡戸稲造は、故国の道徳の高さに打たれました 。と、かつての日本人の道徳心が優れていたことを述べている。

また、黄も、イギリスの女性旅行家イザベラ・バード(1831-1904 年)の日本人の道徳心に対する評価を紹介している。

彼女は三等車に乗って「平民」に接し、礼儀正しく親切な日本人にただただ感心するばかりであった、と記録に残している 。

さらに、かつての日本は決して豊かではなかったが、初めてキリスト教を伝えた宣教師のフランシスコ・ザビエル(1506‐1552 年)は清貧な日本人がきわめて善良で「富」にもまして名誉を重んじていること、貧しい武士でも金持ちと同様に尊敬されていたことを記している 。やはり、日本人の道徳心は非常に優れていたと外国人から絶賛されていたと言う。

日本人の優れた精神を取り戻す

以上述べたように、日本人の精神は絶賛されていた。これを池田は総括的に表すかのように、戦前の日本を訪れた多くの外国人が、日本人の凛々しい国民性、穏やかな人柄、道徳秩序を重んじる精神に驚きました。

彼らは、日本の四季が織り成す美しき山河と、この国に力強く生きる人々の美しき精神性とが奏でるハーモニーに、感激し、将来は日本こそが世界をリードする国になりえる、と評価していたのです。と、語る。だが、先に述べたようにこれほどの評価をされていた精神を、今日の日本人は失っているというのが藤原、黄、池田三者の見解である。

従って池田は、日本人特有の高潔にして勇敢な大和魂、指導者の規範であり自己犠牲をもいとわない武士道精神、思いやり溢れ、利他の心溢れる許容性豊かな道徳心といった伝統的な日本の精神性を復興し、心美しき民による、かつての「美しき日本」を再興するのです。と、かつての日本人の精神の復活を願うのである。

さらに、ここで注目したいのは「かつての『美しき日本』を再興する」との文句である。日本の精神復活の先には日本という国家が意識されている。黄も同様、いくら英明な君主や「人類の太陽」となる 領 袖がいても、それなりの民度を持つ国民がいなければ品格ある国家にはなれない。かつての日本は訪れた人々から、愚民・乱民の国ではなく品格ある国だと見なされていた。と「品格ある国家」を意識している。

続いて、藤原も、その著『国家の品格』という書名からも明らかであるが、日本人それぞれが情緒と形(=武士道精神)を身につけることです。それが国家の品格となります。品格が高い国に対して、世界は敬意を払い、必ずや真似をしようとします。

と言うように、日本人各々がよい精神を身につけ、よい国民となり、よい国家を形成すると三者が口をそろえて言うのである。さらに付け加えるならば、よい国家どころか世界が「敬意を払」う国家である点も見逃せない。日本が最も優れた国家になるといわんばかりで、同じように黄も、国内から見ても、世界から見ても、日本は普通の国というより強い国でなければならない。それは日本人一人ひとりの誇りにとどまらず、日本のためであるとともに世界のためでもある。という。

そして池田。市民の意識が変われば世論が変わる。世論が変われば政治が変わり、日本が変わる。日本が変われば、世界さえも平和へと変革できるのです。このように三者共々、日本人がかつての精神を取り戻せば、世界に影響を及ぼすことが可能であると信じている。

むすび

これまでみてきた三者の主張をまとめる。かつての日本人の自然や美に対する感覚、道徳心は日本を訪れた外国人に絶賛されてきた。だから、このよい評価を得ていた日本の精神文化は取り戻すべきだ。そういう国民から構成される、日本という国家は「品格ある」国家として、世界に貢献するに至る、と言うのである。世界を左右するであろう、かつての日本人の精神に頗る自信を持っているのだ。内閣総理大臣安倍晋三もこの点について自信を持っているようだ。

日本人は、昔から道徳を重んじてきた民族である。儒教から礼節を学び、仏教の禅からは自らを律する精神を、そして神道からは祖先を尊崇し、自然を畏怖するこころを学んできた。寛容なこころは、日本人の特質のひとつでもある。
日本にはかつての素晴らしい精神があったが、残念ながら現代の日本には上記のような精神は非常に希薄になっている。例えば上記引用慶応大学の論文著者のように依然東京裁判史観から覚醒できていない情けない日本人が非常に多い。

論文著者は、[その精神が日本人に「固有」だの、日本人の「特質」だのと捉えることは非常にナンセンスである。それが日本人しか持ちえない精神であると、そのことを理由に自信をもってしまうと、藤原の言うところの「日本人の民族としての謙虚さ」の精神を見失うことに等しい。]と書いている。普通に祖国を愛する行為をナショナリズムは悪と洗脳されていた。お茶の水女子大学教授藤原正彦、評論家黄文雄、「日本青年会議所 」会頭の池田佳隆の三者に対してまるで批判になっていない。80年代初頭、大学の学友たちに日本がいかに素晴らしいか説明する行為はとても難しかった。

更に、[もし我々に「謙虚さ」があるならば、他国の人々に誉められたとしても、誉められた精神については、日本人以外の人々もそれを受け入れる余地があったのであり、従って、その精神は他国の人々にも通底しているものである、と認識するべきである。これこそが「謙虚」な姿勢ではあるまいか。]と、批判しているのだが・・まるで性善説の日本人的視点であって、おもわず笑ってしまった。この東京裁判史観から脱却できない感性では支那・朝鮮人やアングロサクソン人とは議論すらできないであろう。

日本以外では、太古には存在した自然と調和を保った高い精神性や道徳性が、いずれかの時点で切断されて消滅している。しかし日本だけはそれが生き続けている。我々保守主義の守るべきものはまさにこの、太古より連綿と続く日本文明そのものなのだ。 日本文明は21世紀人類のを救う使命が託されていると信じている。