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 大飯原発3、4号機の運転禁止を命じた21日の福井地裁判決は、原発から半径250キロという広範囲に事故の影響が及ぶとし、その圏内に住む原告の訴えを認めた。根拠は福島第1原発事故直後、原子力委員会委員長だった近藤駿介氏がまとめた「最悪シナリオ」と呼ばれる資料だ。

資料は当時の菅直人首相の指示で、近藤氏が平成23年3月25日に作成。第1原発1号機の水素爆発をきっかけに作業員が全員退避、1~3号機の原子炉格納容器が破損し、1~4号機の使用済み燃料プールで燃料が溶融して大量の放射性物質が放出されるなど、事故が連鎖的に発生するとの想定だった。

この結果、住民の強制移転が必要な区域が第1原発の半径170キロ以上、希望者の移転を認める区域が東京都を含む半径250キロ以上に及ぶ可能性があるとしている。今回の判決は「250キロという数字は緊急時に想定された数字にしかすぎないが、ただちに過大と判断できない」と、一定の信頼性があると認めた。


大飯原発3、4号機の再稼働をめぐり、福井地裁は原子力規制委員会が「世界一厳しい」とされる新規制基準に適合するか審査中という時期に運転差し止めを命じた。原発行政に影響を及ぼす可能性をどこまで考慮したのか。あまりに拙速で「脱原発ありき」の判断と言わざるを得ない。

判決は、関西電力の安全対策を「楽観的な見通しのもとに初めて成り立ち得る脆弱(ぜいじゃく)なもの」と指摘。緊急時に原子炉を冷やす機能と放射性物質を閉じ込める機能に欠陥があるとした。ただ、その理由は「冷却システムが崩壊すると(関電が)想定する揺れよりも、大きな地震がこないという確たる根拠はない」などとするだけで、欠陥と言い切れるほどの具体性はない。

もっとも関電の安全対策が後手に回ったことも事実だ。昨年7月に2基の審査を申請後、規制委から周辺の3つの活断層が連動した揺れが起きる可能性や、想定する震源が深すぎる点を指摘され、原発施設の耐震設計のもとになる基準地震動を2度も見直した。再稼働が暗礁に乗り上げていることからも想定が甘かった点は否めない。

判決は「原発に求められる安全性や信頼性は極めて高度なものでなければならない」とした。その指摘は当然だとしても、そもそも「100%の絶対安全」などあり得ない。

さらに判決は、原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても「国富の流出や喪失というべきでない」と言及。国富を「豊かな国土に国民が根を下ろして生活していること」と定義し、それを取り戻せなくなることが「国富の喪失だ」という現実を軽視した“思想”もにじませた。

上級審では、ゼロリスクに固執せず、脱原発による国力低下という現実のリスクも踏まえた理性的な審理が求められる。(林佳代子)

大飯原発3・4号機の差し止めを命じた福井地裁の判決に感動した人もいるようですが、関西電力は控訴したので、この差し止め命令には意味がありません。だからどうでもいいのですが、これは反原発派の幼稚な理屈の典型でおもしろいので、こども向けに解説しておきましょう。判決にはこう書いてあります。        
このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。

裁判所が日本語をまちがえて使ってはいけません。国富とは、政府が国民経済計算で出している国民の資産の集計で、主な資産は金融資産です。非金融資産としては不動産や建物などの固定資産がメインで「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していること」という概念は含まれていません。

百歩ゆずって、土地が汚染されて減価することを「国富の喪失」だとしましょう。福島でそういう事故が起こったことはよい子のみなさんも知っていると思いますが、この樋口英明という裁判長は1度起こった事故は、すぐ100%の確率でまた起こると信じているようです。これは飛行機事故が起こった直後は、みんな飛行機がこわくなって乗らなくなるのと同じ錯覚です。

実際には逆で、福島で起こったような1000年に1度クラスの地震は、もうプレートが動いてエネルギーが放出されたので、向こう1000年は起こらないでしょう。それ以外の地域でも、地質学をもとにして震度と確率が地域ごとに予想されています。ところが判決は                                       
地震は太古の昔から存在し、繰り返し発生している現象ではあるがその発生頻度は必ずしも高いものではない上に、正確な記録は近時のものに限られることからすると、頼るべき過去のデータは極めて限られたものにならざるをえない。したがって、大飯原発には1260ガルを超える地震は来ないとの確実な科学的根拠に基づく想定は本来的に不可能である。

つまり「科学は信用できない。どんな原発も史上最大の地震には耐えられないからだめだ」というのです。こんな基準で差し止めたら、日本中の建物はすべて使用禁止です。樋口裁判官が道を歩いていたら交通事故で死ぬリスクはゼロではないから、自動車も禁止です。

こういう笑い話になるのは、樋口裁判官が確率という言葉を知らないからです。大飯原発で事故が起こる確率は100%ではありません。 

リスク=被害×確率

なので、福島と同じ規模の災害を想定してはいけないのです。原子力委員会は苛酷事故の起こる確率を「500炉年に1度」(炉年=原子炉の数×年数)と想定しています。これは非常に高い想定確率ですが、これを採用すると、大飯3・4号機のどちらかで今後20年間に苛酷事故が起こる確率は、20年×2/500年=0.08つまり8%です。福島で利用不可能になった土地の価値が5兆円だとすると、これから発生する損害の期待値は、確率をかけて

5兆円×0.08=4000億円

です。これは原発停止で失われる国富(年2~3兆円)の2ヶ月分ぐらいで、保険でカバーできます。つまり経済的被害のリスク評価をすると、原発の停止で失われる国富のほうがはるかに大きいのです。このように確率をかけないでゼロリスクを求めるのが、文系のおじさんの特徴です。

もちろん事後には事故は起こるか起こらないかで、8%だけ起こるということはありません。しかし事前には、この確率に対応した対策を考えるのです。たとえば「降水確率90%」のときは傘をもっていくが、「降水確率5%」だったら普通はもって出ない。樋口裁判官は、降水確率0%でも科学を信用しないで、1年中傘をもって歩くのでしょう。

ただ福井県の人々が、こういう恐怖を抱くのはわかります。マスコミがおもしろがって騒いでいるからです。その錯覚を科学的な知見と法的な論理でただすことが裁判所の役割なのに、この判決は「こわいから止めて!」と幼稚園児のように泣き叫んでいるだけ。よい子のみなさんは、樋口裁判官のようなだだっ子にはならないでください。
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厚木基地訴訟 抑止力損なう判断疑問だ
2014.5.24 03:05 [msn産経]

 安全保障の根幹に影響を及ぼしかねない司法の判断に、疑問を抱かざるを得ない。

神奈川県の厚木基地の騒音被害をめぐる訴訟で、横浜地裁が自衛隊機の夜間飛行差し止めを初めて命じたことだ。

海上自衛隊が米軍と共同使用する同基地は、警戒監視や災害派遣などの拠点になっている。自衛隊は常時、さまざまな事態に備えなければならない。時間を区切り飛行を禁止されれば、活動は大きな制約を受ける。

小野寺五典防衛相が「受け入れ難い」と述べたのは当然だろう。政府は控訴し、国の守りに支障が生じることのないよう、必要な対応を講じるべきだ。

騒音被害を受ける住民対策や騒音そのものを減らす努力は、むろん重要であり、引き続き力を入れなければならない。

これまでの厚木騒音訴訟では騒音の違法性から国が過去分の損害賠償を命じられたが、飛行差し止めは請求が退けられてきた。

平成19年に提訴された今回の4次訴訟では、民事訴訟で受け入れられなかった飛行差し止めを行政訴訟で請求した。判決は、自衛隊機の飛行は政府による公権力の行使にあたるとして、差し止めを認めた。

だが、高度な公共性、公益性を持つ国の防衛に関し、自衛隊の運用に直結する内容を含む判断を司法が示すのは妥当だろうか。

厚木基地では、すでに周辺住民に配慮して夜間や早朝の飛行を原則自粛している。だが、任務が深夜に及ぶことも多く、午後10時から翌午前6時までという時間規制は非現実的だ。海洋進出を活発化させる中国への監視活動の強化が求められているのに、抑止力低下につながる。

判決が「防衛相がやむを得ないと認める場合」は除くとした点も例示がなく、具体的に何を指すのか分からない。

一方、米軍機の飛行について「国の支配が及ばない第三者の行為」として差し止めを認めなかったのは当然だ。問題は、騒音の原因の大半が離着陸訓練などを繰り返す米海軍機にあることだ。

米軍機の飛行規制に関する日米合意について、飛行時間や高度などが厳格に守られているかをチェックする方が、自衛隊機の差し止めよりも効果的だろう。政府も米側に協力を求めていくべきだ。

関西電力大飯原発3、4号機の再稼働と、厚木基地での自衛隊機の夜間・早朝飛行をそれぞれ差し止めた福井、横浜両地裁判決が出た。この二つの裁判についてわたしは民主主義の弊害としか思えない。「国富」「公益」という言葉を用いているが、国益、公共の福祉といった視点を著しく欠いたものだと私は思う。

私は、横浜市青葉区に住む市民だ。わたしの家の上空を厚木基地へ向かう米軍機が夜間爆音を鳴らし飛行している。1977年に発生した横浜米軍機墜落事故現場からもそう遠くはない住宅地に2001年家を買った。私の家は家内の実家の近所でもあるので、米軍機の騒音は家を買う前から承知しており、時に凄まじい爆音を経験することもあるが、厚木基地訴訟を行った住人に対して強い違和感を感じざるをえない。
そもそも、綾瀬市と大和市にある厚木基地は戦前より厚木海軍飛行場として存在しており、もし騒音が耐えられないのなら訴訟住人達はそこに家を買うべきではない。先祖代々の土地に住んでいる原告がいたとしても、騒音が耐えられないのであれば、自分の稼いだ金で、もう少し静かな街に家を買えばよいのだ。 

大飯原発訴訟の住人は、少しは科学や確率の勉強でもすればよいのだ。私から言わせれば、この二つの訴訟の原告達は、国家全体、世界全体を俯瞰する視点など持つことなく、いぜい半径500mにしか関心をを払わない醜いエゴイストである。

なぜ、このような民主主義の弊害としか思えないような判決が下されたかを考えるとき、日本の民主主義教育が死んでいることに原因があるように思える。

民主主義の代名詞であるフランス革命の理論的根拠を作ったジャンジャック・ルソー「教育無きところにデモクラシーは生まれない」と言った。

戦後日本で行なわれてきた教育がまったくのデタラメであったため日本には健全なデモクラシーは育っていない。民主主義という言葉の意味も知らないプロ市民達が振り回すエゴイズムをデモクラシーと勘違いして、真のデモクラシーが危機に立たされている。

 戦後日本の教育は「民主化」された。戦前の反動ファッショ教育は払拭され、学校は民主化近代化されたたなどと思っている人がいまだに居るが、戦後日本で行なわれてきた教育は民主主義教育でも何でもない。

戦後教育の大方針は、昭和22年(1947年)に作られた教育基本法によって定められ、その弊害が甚だしく平成18年(2006年)改正が行われた。旧教育基本法は終戦後間もなく成立した。成立当時、この法律の中には民主主義国家米国のデモクラシーの精神がいっぱい詰まっているに違いないと信じて疑わなかった。いや、教育関係者(例えば私の日教組だった父親など)今でもそう信じている人はたくさんいる。この教育基本法にデモクラシーの精神が込められているとは言い難い。

このような判決がまかり通ると、誰もが民主主義は弊害だらけで、民主主義は止めた方がいいと考える人が増えてしまうであろう。

米国は、建国当時英雄ワシントンに古代ローマのカエサルのようなディクタトル(独裁官)や、初代国王になってくれという声があった。しかし、賢明なワシントンのおかげで建国当時のアメリカは独裁政治にはならなかった。

米国独立の父・ジェファーソンは教育こそ民主主義の防波堤であると教育に力を注いだのである。戦後日本の教育ほどアメリカ式教育から遠いものは無い。アメリカ式教育の根本とは何か。日本の戦後教育と真逆の対極である「国民(ネーション)の育成」である。 つまり、アメリカ人としての誇りを持たせ、アメリカ合衆国への忠誠心(愛国心)を涵養する。次に、アメリカ人としての生活のしかた(American ways of life)を教えることにある。米国式の教育は自分の意見の違った人間を理解し自分の意見を相手に伝えそして社会に適合する人間を育成することにある。

戦争の強さとは、人口の多寡、兵器の質もさることながら、民族国家度合・民度の高低にある。第二次大戦直後、あまりにも強い日本帝国陸海軍を再び作らせない為に、米国は日本人の民度を下げる為に画策を行った。そこで行なわれたのが、戦後教育であった。 日本の教育から徹底して民族教育の要素を除去する非アメリカ的な教育をすることによって、日本がふたたび強国になる道を塞いだのである。

アメリカ自身による日本の教育の「非アメリカ化」、このアメリカの目論見は、見事に成功したと言うべきであろう。 まことにルソーやジェファソンの指摘は正しい。教育なきところに、民主主義は育だない。

教育が骨抜きにされた結果、今の日本に、対米報復戦を行なえるだけのパワーやガッツなど、どこにも見あたらなくなった。それどころか、もはや民主主義も資本主義も機能しなくなって、日本そのものの明日さえ怪しくなっている。政治はダメでも経済だけは、かつてジャパンアズ・No1と称えられた栄光の国だとは思えないほどである。

民主主義教育、民族教育が行なわれないから、今裁判を判決した裁判官や政治家も官僚もますます堕落した。

日本の裁判制度は数多くの問題点を抱えている。日経BP
(1)判検交流(裁判官と検察官の交流人事)などにより検察に有利な判決が出やすい(疑わしきは罰する)

(2)国会の証人喚問以外で偽証が罪に問われることがほとんどなく、裁判は嘘のつき合いになっている

(3)多くの裁判官が官舎と裁判所の往復で暮らし、一般人との交流が少ないため、世間知らずで非常識な判決が出る

(4)裁判所や判決に対するチェック機能がなく、外部からの矯正作用が働きにくい
裁判官は天下国家を考える人種ではない。
 政治家は「国家のためには命を捨ててもおしくない」と思わないから、大胆な改革など行なえない。官僚に反抗されたら、へなへなと腰砕けになる。 その官僚もまた「自分たちは国家、国民への奉仕者である」という観念がないから、国民の税金を流用しても、良心の呵責を覚えない。自分たちの安楽こそが最優先で、天下り先の特殊法人を守るのには熱心だが、天下国家の先行きや国民が死のうと責任を感じなくなってしまう。
さらに付け加えれば、戦前には「お国のためにならない政治家」を暗殺する右翼や、国家権力に実力で対抗しようと考えた左翼が存在したが、そうした勢力は右も左も消えてしまった。それが戦後教育の正体であって、教育滅びて、民主主義も資本主義も朽ち果てた。

米国の教育が素晴らしいと言っているのではない、民主主義教育とは社会に適合した人間を育てることであり、我儘なエゴイストを生み出さないようにしなくてはならない。日本の戦後教育は民主主義教育とかけ離れた大飯原発訴訟原告や、厚木基地騒音訴訟原告のような、民主主義を振りかざすエゴイスト達を産み落としたにすぎない。

今回の2判決は、日本の教育を徹底的に愛国心をもつ教育に改革しないと日本の民主主義だけではなく、日本の未来も見えないことに警告をならすことになると私は思う。