イメージ 1


拙者は食えん !日本でも一汁一菜の質素な食事しか食べていなかった武士が、空腹にも関わらず、欧米や行きの船中で洋食のご馳走を前に痩せ我慢して拙者は食えんと言い放つ光景が目に浮かぶ、とても秀逸なタイトルだ。その秀逸なタイトルに惹かれ読み出したのだが、タイトル通り、とても興味深く面白い本でした。是非、皆さんに紹介したいと思います。

p2-5
日本人の海外渡航も始まり、まず幕府の使節団が海を渡った。ある者は往路の船中で、またある者は波濤万里を越えてたどり着いた先で、初めて西洋料理なるものの洗礼を受けた。今改めて彼らの残した日記や旅行記類を影ぐと、そこには慣れぬ食事に戸惑い、嘆き、苦しみ、怒りを発する場面が随所に登場する。

贅を凝らし、美しく盛りつけられた料理が目の前に並んでいるというのに、彼らの口に合わず、ほとんどの者が「食するに能わず」であった。その姿には可笑しさを通り越し、哀れさすら覚えるっ生まれてこのかた米、魚、野菜を食べていた者がいきなり、肉、乳製品主体の料理に接するのだから無理からぬことであった。

もちろん短期間に適応する者もいなかったわけではないが、大半の者たちは空腹を満たすため、止むを得ずそれらを口にしたのだった。しかし何とか馴染もうと努めるものの、最後まで違和感や抵抗感を捨て切れぬまま帰国する者も少なからずいた。たかが食い物、されど食い物なのである。

本書では日本人の西洋料理との「出会い」の歴史を通観したうえで、とりわけ開国直後から明治に至るまでの間に海を渡った幕府の各使節団や幕府および西国雄藩が派遣した留学生かちなど、いわゆる初期渡航者に絞って彼らの洋食との格闘シーンをたどってみた。彼らがいつ、どんな場面で、何を食し、その時どのように反応し、日本と異なる食文化に何を思い、そしていかに受容していったかを紹介する。


正直なところ、開国直後に海を渡った日本人が「食」についてこれほど多くの記録を残しているとは思わなかった。というのも当時の男たち、とりわけ武士にとって、食べ物についてあれこれ口にしたり、文字にするのは恥ずべきことであると思っていたからである。現に遣米使節団に加わった玉虫左太夫などは「日本魂のある者外国に来り、拘々として飲食の小事に管繋すべきものあらんや」(『航米日録』)と述べ、飲食など瑣末な小事にこだわるべきでないとしている。

ところがよくよく考えてみると、彼らが「食」について書き綴ったのは、ほとんどが他人に読まれることを意識していない個人の日記や旅行記であり、そこにそれぞれの心情を思いのままに叶露したとしても不思議はない。
玉虫と同じ遣米使節団で副使を務めた村川範正も次のように述べている。

「もとより人に見すべきものにはあらず、たゞ海外へ航して神国の尊き事を知り、また風土、人情の異なる様、海路の辛苫まで忘れ果てんも本意なければ、其折の日記をつづりて御恵のかしこさを子孫に知らせ欲しく……」(『遣米使日記』)

彼らは初めて異国の食物に接して、まさに驚天動地、そのショックを書き残さずにはいられなかったのである。
それでも中には第二回遣欧使節団の岩松太郎のように食べ物について、あまりくどくどと古くのが憚られたのか、「食事の節品物不相替故以下別段不記」(変わり映えのしない料理なので特に記さない)などと再三、断り書きを入れている。しかしその舌の根が乾かぬうちにまたぞろ食べた物をせっせと書き付けている。彼が継続して記録に残してくれたお蔭で、当時の旅行者の食体験をつぶさに知ることができるのであるから、わたしにとっても彼はありがたい恩人である。


米や野菜に漬け物、月に数度魚を食べる貧乏武士達が当時の欧米の食事をどう受け入れたのか考えてみれば、牛に肉を食べさせるようなものである。

ちなみに牛に牛肉片を加えた餌を食べさせた結果、狂牛病が発生した。流石に人間である武士も肉や乳製品主体の洋食を嫌々食べても狂侍病にはならなかったようだ。

p22-25
まずは日本人として最初にカレーを見だのは誰かということだが、これには二人の候補者がいる。彼らはいずれも文久三(一八六三)年、幕府の第二回遣欧使節団(池田使節団)に加わった者たちで、一人は三宅復一(のちに秀)もう一人は岩松太郎である。
このうら三宅説を唱える人たちは彼の日記の中にインド人たちが船上で奇妙なものを食べていたと記述を論拠にしている。たとえば吉田よし子の『カレーなる物語』では次のような。文が引用されている。

「飯の上にトウガラシ細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にて掻きまわして手づかみで食す。至って汚なき物なり」

カレーという言葉こそ使っていないが、これは間違いなくカレーライスと見てよい。
ところがわたしが三宅の残した日記や関係書にあたった限りでは、このような記述を見出すことはできなかった。それどころか三宅の文章とされるものとそっくりの記述を岩松太郎の『航海日記』の中に発見した。

「食事の節、脇より見るに、飯の上ヘトウガラシ細味に致し、芋のどろどろの様な物を掛け、此を手にてまぜ、手にて食す、至ってきたなき人物の者なり」(『航海日記』岩根太郎・以下岩松日記)

両人の言わんとするところは同じだが、文言が微妙に違っている。また吉田によると、三宅が目撃したドロドロした物を食べていたのはインド人ということだが、岩松は亜剌比亜(アラビア)人としている。

一体、これをどう理解すべきなのか苦しむところだが、三宅と岩松がカレ-ライスなるものを見だのはいずれも乗っていたフランス郵船がセイロン(現スリランカ)を出航して間もない頃としているので、同時期とみてよい。要はこの記述が二人のうちのどちらによってなされたかということである。

ただし二人が日本人として最初の目撃者だと断定することもできない。なぜならそれはあくまでも記録上のことで、彼らより以前に朱印船で東南アジアヘ出掛けたり、各地の日本人町に暮らしていた者の中にカレーを目撃したり、□にした者がいないとは言い切れないからである。

二人めはカレーという言葉を日本人として最初に使った渋沢篤太夫、のちの大実業家渋沢栄一である。渋沢は日本が初めて出展した慶応三(一八六七)年のパリ万博へ、一五代将軍徳川慶喜の名代として派遣される昭武の随員として向かう際、イギリス領セイロンでカレー料理を見て次のように記している。

「カレイとて胡椒を加へたる鶏の者汁に桂枝の葉を入るものを亦(また)名物とす」(『航西日記』)
渋沢が見だのは、いわゆるチキンカレーだったのだろう。

そしてもう一人は山川健次郎という一六歳の旧会津藩士である。山川は明治四(一八七二)年、アメリカ留学へ向かうため、ジャパン号というアメリカ船で太平洋を横断中にライスカレーと出会っている。彼はこの時の体験を旧制武蔵高等学校の校長か務めていた昭和四(一九二九)年、海外留学へ向かう学生たちの前で披露した。

「船に乗って私の最も苦しんだのは食物です。その頃西洋の事を書いた本で福沢先生の『西洋旅行案内』(正式には『西洋旅案内』=熊田注)というものがありました。それを私共も精読して行きましたが、食物には皆困るから、梅干や佃煮を持って行くがよいという様な事が書いてありましたが、書生の身分であるからそんな贅沢は出来んので洋食を試みましたが、何しろ西洋の食物なんて云うものは食べた事がない。あの変な臭いがするのがまず第一に困って、船に乗って食わないで居ると、船の医者が飯を食べにやいかんと勧めて呉れたが、しかしどうしても食う気になれない。それで私は始めにライスカレーを食って見る気になって、あの上につけるゴテゴテしたものは食う気になれない。それでその時杏子の砂糖漬けがあったから、之を副食物にして米飯を食し、飢を凌ぎましたこともありました」(『山川老先生六十年前外遊の思出』)

この時山川がライスカレーを選んだのは食堂のメニューの中で、ただ一つ米飯を使った料理だったからである。しかしそれが口に合わなかった。山国の武家育ちの少年が受けた最初のカルチャーショツクとは洋食の発する変な臭いであり、ゴテゴテしたカレーの姿であった。
今日の日本人にとって国民食となったカレーだが、印度人が手づかみでカレーを喰っている姿を最初に見た日本人は至って「汚なき物なり」という印象であったのだろう。
p35-41
開国前夜の西洋料理~ぺリー主催の饗宴

徳川幕府は武力をちらつかせながら開国を迫るアメリカの強硬姿勢に屈し、嘉水七(一八五四)年三月三日(三・一二)、一二条からなる日米和親条約に調印する。その主な内容は下田、箱館の二港の開港、薪水・食料などの供給、外交官の下田への駐在許可、最恵国待遇の承認などである。これによって二百年以上続いた幕府の鎖国体制に終止符が打たれた。
アメリカ側全権の東インド艦隊司令長官マシュー・C・ペリーは条約の調印日を前にした二月二九日(三・二七)、自分たちの主張がほぼ盛り込まれる見込みがついたとして、ポーハタン号に日本側の関係者を招いて大饗宴を催した。この日招かれたのは全権の林大学頭をはじめ、四名の応接掛(交渉委員)、通訳、浦賀奉行所の役人、それに従者たちなど総勢約七〇名で、これだけ多くの日本人がまとまって西洋風の宴席に出席するのは徳川幕府始まって以来のことである。

「わたしは日本人に対して、アメリカ人の歓待について好印象を与えようと決心し、よって来艦すべき多くの人々に極めて豊富な御馳走をしようとの労を惜しまなかった」(『ペリー提督日本遠征日記』以下遠征記)

事実ペリーはこの日のためにパリ仕込みの腕利きコックを伴っていた。コックは甲板で飼育されてきた牛、羊、鶏をはじめ、ハムなどの貯蔵肉、魚、野菜、果物などを惜しみなく使って極上の料理を用意した。また酒もシャンパン、マディラワイン、シェリーパンチ、ウイスキーなど、あらゆる種類のものが取り揃えられ、出番を待っていた。こうして艦上ながら陸上のどんな高級レストランにも引けを取らぬ最上のもてなしが日本人のために準備されたのである。

当日は風があったものの晴天に恵まれた。林ら一行は午後二時頃、ペリー艦隊の一隻マセドニアン号を訪れ、教練、装弾、大砲発射など乗組員による軍事演習を視察したあと、饗宴の会場となるポーハタン号へ移った。

艦上ではすでに宴会の準備が整えられていた。両国の幹部用には提督室があてがわれ、そのほかの日本人とアメリカ人士官たちには後部甲板にテントでおおわれた宴席が設けられた。

いよいよ宴が始まり、パン、スープ、魚や各種の肉料理、野菜、果物、甘いケーキなどが次々と運ばれてきた。日本人たちは身分の上下を問わず、貪欲に食い、かつ飲んだ。

「荘重にして威厳のある態度を持していた林は、控え目に飲食をしたが、凡ての料理を賞味し、あらゆる種類の葡萄酒をチビリチビリと飲んた」遠征記

さすがに林は主席委員を務めるだけあって慎み深く、落ち着いた態度で異国料理を口にし、酒を飲んだようである。

しかしそれ以外の交渉委員は極めて旺盛な食欲を示し、とりわけ松崎満太郎という序列五番目の男は桁はずれの健啖ぶりを見せ、大喰いのアメリカ人さえもびっくりさせた。料理の中で日本人がとりわけ気に入ったのが牛舌で、誰もが「これは旨い、第一の御馳走」と絶賛した。

一方、下級役人や従者たちが集まる後部甲板でも賑やかな宴が繰り広げられた。ここでも日本人たちは水夫が運んで来る料理を次々と平らげ、皿はたちまち空になった。ただしどれだけの日本人が味わいながら食べていたのかは疑問である。現にアメリカ人記者も日本人が積極的に料理を口にしたのは、旨いからというより、物珍しさや好奇心によるものと見ており、その証拠に日本人たちがテーブルに運ばれてくる料理や果物などについて一つずつ、その名前を知りたがり、全部味見をしたことからも明らかだとしている。

もちろんこの日、招かれた日本人すべてが西洋料理を初めて口にしたというわけではない。すでにアメリカ側から接待を受けていた者がいたからである。彼らは本交渉を前に下準備にあたった浦賀奉行所の与力・香山栄左衛門ら九名で、二月三日(三・一)、 ペリー艦隊の一隻サスケハナ号のブキャナン艦長より夕食会に招かれている。

『ニューヨークータイムズ』は日本で外国式の夕食会が開かれだのはおそらくこれが史上初めてのことであると報じているが、長崎・出島では長年オランダ風宴会が開かれ、日本人も多く出席していたから断じてよいものかどうか。ともあれこの日、香山たちはアメリカ流の食事に忌避感を示すこともなく、大いに食べ、飲んだ。日本人たちはとりわけ七面鳥の料理を珍しがり、仲間たちへ見せてやりたいので持ち帰ってもよいかと許可を求めた。アメリカ側か了解すると、彼らは七面鳥ばかりでなく、残ったさまざまな食べ物まで紙に包み、帰っていった。

同じような光景はこの日のポーハタン号でも見られた。日本人たちは皿に少しでも残っている物があれば、何でもかんでも紙に包んで着物の胸元にしまい込んだ。酸っぱいものであれ、甘いものであれ、タンパク質のものであれ、脂肪質のものであれ、見境なくごちゃごちゃに詰め込むのだった。中には鶏の丸焼を一羽そのまま懐に入れる者までいた。アメリカ人たちは日本人のこうした振る舞いに眉をひそめたが、ペリーは寛大な態度でそれを許した。

「(料理を紙に包んで持ち帰ることは)彼等の貪食の結果でも、教養不足によるものでもなく、この国の風習であった。この習慣は一般的なものであって、彼等自身がそうするばかりでなく、アメリカ人が日本人の饗宴に与るときも賓客にそれを強いた」(遠征記)

それにしても彼らは岸へ戻ったあと、胸元ヘパンパンに詰め込んだ食べ物をどのように処分したのだろうか。

ペリーは乗組員たちに対し「条約締結が成功するかどうかは、ひとえにこの日の接待の成果にかかっている」と、檄を飛ばしていたこともあって、アメリカ人たちは熱心に料理や酒を勧めたっ日本人たちも遠慮せず、上機嫌でこれに応えた。酒の中では特にシャンパンやワインを好み、湯水の如く飲み続けた。日本人もアメリカ人も酔うほどに゛日本国の皇帝のために」「アメリカ大統領のために」と、大声で乾杯を繰り返し、しばしば軍楽隊の演奏がかき消されるほどだった。

こうした喧騒の中、日本人で最初から最後まで冷静さを失わなかったのは林だけだった。

「呑んだくれの同僚達全部が無節制に歓楽しているのに、正気でいられたのは実際林一人であった」(遠征記)

夕暮れになり、一行の船を去る時間が近づいた。ほとんどの日本人は酔っ払っていた。その時、 ハプニングが起こった。酔った松崎満太郎がヨロヨロしながらペリーに近づき、いきなり首に両手を回し、抱きついたのである、いやしくも相手はアメリカ艦隊のトップである。松崎は抱擁しながら「日本もアメリカも心は一つ」と、日本語で何度も叫び、ついにはペリーの新品の肩章を潰してしまった。ペリーの側近たちも一瞬、ひやりとしたが、ペリー本人はいささかも動ずることなく、「条約締結がスムースに行われるのなら、あの時彼にキスをさせてもよかった」と、冗談混じりに語ったという。それほどペリーは条約交渉に並々ならぬ決意で臨んでいたということである。

饗宴に関する詳しい記録は日本側に乏しく、わずかに全権林の行動を記した『亜墨利加応接掛林大学頭等墨夷応接録』に次のような記述があるだけである。

「二月二九日大学頭始、役々(役人たち)八ツ時より異船へ参り、初めマセドニアと申(す)軍船へ行(き)、船中調練見物、夫よりホ(ポ)ウハタンと申(す)汽船(行き)、饗応有之候、七ツ半時帰り中(し)候」

翌日、本交渉に先立ち、林はペリーに礼を述べている。

「晦日大学頭曰(く)、昨日は大勢其船へ罷越、馳走に相成候設 辱 存候、へ(ぺ)ルリ曰(く)、昨日は船へ御大被成下候処、誠に御粗末之儀に付、失敬之段遺憾に存候」
前目、酔い払ってペリーに抱きついた松崎もこの~ぱかりは神妙な面持ちでアメリカ人に接した。自分のとった行動にきまり悪さを感じていたためだろう。
酔ってペリーに抱きついた武士がいた!
>日本人たちは皿に少しでも残っている物があれば、何でもかんでも紙に包んで着物の胸元にしまい込んだ。酸っぱいものであれ、甘いものであれ、タンパク質のものであれ、脂肪質のものであれ、見境なくごちゃごちゃに詰め込むのだった。中には鶏の丸焼を一羽そのまま懐に入れる者までいた。
これは恥ずかしい!誇り高き武士サムライは空想の産物だったのか?

幕府の船として初めて太平洋を往復した咸臨丸の食事は基本米飯と漬物や干物の和食であった。同乗した米国人は別途甲板上の七輪で食事を作ったという。

サンフランシスコに上陸した一行は最初の洋食の洗礼を受ける。
p55
「夕暮士官数人上陸(彼等は皆下級士官たり)。キャピタン、ブルック並びに其友人に案内せられてインターネシャナル茶店(インターナショナルホテル)にて食事をなす。肉汁、鳥類其他種々の品にて気味悪るながらも能く食せり、但し匙、熊手等を用る時は馴れざる故か、小児の如き手附にて甚可笑し。その後時刻過てシャープと云える菓手屋に入り、雪菓子を食す(雪菓子は氷を卸して砂糖を交えたる物なり)」

佐々倉らは慣れぬ手つきで本場の西洋料理と格闘し、日本人として初めて雪菓子、つまりアイスクリームを食べた。

>熊手等を用る時は馴れざる故か・・・ なるほどフォークは熊手か・・・
アイスクリームは雪菓子か・・・

面白いエピソードが載っていた。咸臨丸に乗ってサンフランシスコに到着した福沢諭吉が天ぷら鍋を倒してボヤ騒ぎを起こしたとのことだ。

p58-59
 三月三日(三・二四)、咸臨丸はサンフランシスコ湾内の北部にあるメアーアイランドのアメリカ海車造船所へ侈動する。航海中に傷んだ船体の修理をするためで、船がドックに入っている間、下級のの水夫たちは陸に上がり、アメリカ側が用意した造船所近くの宿舎で生活することになった。本来ならここで食事は現地のものに切り替わるはずであったが、水夫たちは絶対に日本食でなくては駄目だと言い張り、日本から持参した食材で自炊を続けた。これを知った近くの住民たちが頻繁に魚の差し入れをしてくれたので、水夫たちも副食物に不自由することはなかった。
魚と言えば、福沢諭吉は宿舎で鮫の天ぷらを揚げようとしてボヤ騒ぎを起こしている。
メアーアイランドに滞在中の三月六日(三・二七)の夕方、彼は厨房で、手に入れた鮫を天ぷらにしようとしたところ、油鍋が倒れ、大きな大の手が上がった。日本の木造家屋であれば間違いなく大火事になるところだったが、幸い「石室の故、更に其患(うれい)なし」と、同僚の長尾幸作が日記に書いている。しかし筆まめの福沢もさすがに自身の失態については口をつぐんだままである。


執筆中