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サラエボの銃声は日本を震撼させた。複数政党制、長期停滞、格差社会・・・・・・、現代日本が抱える課題の原点は第一次世界大戦にあった!

◆著者紹介
井上寿一(いのうえ・としかず)

1956年、東京都生まれ。一橋大学社会学部卒業。同大学院法学研究科博士課程、学習院大学法学部教授などを経て、現在、学習院大学学長。法学博士。専攻は日本政治外交史。主な著書に、『危機のなかの協調外交――日中戦争に至る対外政策の形成と展開』(山川出版社、吉田茂賞)、『日中戦争下の日本』『戦前昭和の国家構想』(講談社選書メチエ)、『吉田茂と昭和史』『戦前昭和の社会 1926-1945』(講談社現代新書)、『戦前日本の「グローバリズム」』(新潮選書)、『昭和史の逆説』(新潮新書)、『山県有朋と明治国家』(NHKブックス)、『政友会と民政党』(中公新書)、『理想だらけの戦時下日本』(ちくま新書)などがある。



サラエボの銃声は日本を震撼させた。複数政党制、長期停滞、格差社会・・・・・・、現代日本が抱える課題の原点は第一次世界大戦にあった!

2014年は第一次世界大戦の開戦100年目です。その影響は第二次世界大戦以上で日本にも深く及んでいました。大戦前後の日本社会を観察すると「複数政党制への過渡期」「好景気から長期停滞へ」「大衆社会のなかの格差拡大」という、まさに今日的な課題がみえてきます。この戦争が浮かびあがらせた課題は21世紀の現在も構造としては変わっていないのです。本書は、さまざまな側面から「現代日本」の始まりを考える一冊です。


『第一次世界大戦と日本』(講談社現代新書)を書くことになったきっかけをさかのぼると、2011年のフランス・アルザスでの不思議な体験にたどり着く。

宮崎駿監督の『ハウルの動く城』に出てくる町は夢のなかのようなフィクションではない。実在する。山の向こうはドイツとの国境に近いフランス東部アルザス地方の町コルマールがモデルである。

コルマールからアルザスワインのブドウ畑を横目に、車で20分ほどのところにアルザス・欧州日本学研究所がある。これは夢かと錯覚する。フランス人スタッフが流暢な日本語を話している。「ボンジュール」とあいさつすると、「こんにちは」と返される。2011年から毎年9月初旬、夢のなかのようなこの研究所を訪れている。

欧州の若手日本研究者とのワークショップは楽しかった。最初の年、大正時代の政党の財政政策(!)を研究しているイタリア人研究者に「なぜ日本なのか、中国の方がいいのではないか?」と疑問を投げかけた。愚かな質問だったと今も悔やんでいる。「そりゃあビジネスへの関心だったら中国でしょう。でも日本への関心は多様です」。教えることよりも学ぶことばかりのワークショップだった。

レストランでの夕食後、皆で付近を散策した。そこにキリスト教の教会があった。ドイツ人の若手研究者が指し示した。そのさきを見ると、戦没者の名前が教会の壁に刻まれている。この地域からの戦没者は第一次世界大戦の方が第二次世界大戦よりも多い。すぐには吞み込めなかった。平均的な意識の日本人にとって、戦争といえばアジア太平洋戦争(第二次世界大戦―アジア太平洋戦線)である。第一次世界大戦は忘却の彼方に押しやられている。

翌年の九月、今度はひとりで確認した。戦没者数の差はまちがいなかった。ヨーロッパにとってこの世界大戦が持つ重い意味を伝えているかのようだった。それでは日本にとって第一次世界大戦はどのような意味を持つのか。考えてみることにした。

100年前と今との間に類似点があることに気付いた。第一に、当時の日本は今日と同様に、格差社会の問題に直面していた。第二に、第一次世界大戦にともなう戦争景気と戦後の反動不況の長期化は、バブル経済とその後の長期経済停滞と重なる。第三に、当時も今も政党政治システムの模索の時代として似ている。この世界大戦をはさんで非政党内閣から政党内閣と二大政党制へ、政権交代(2009年)と自民党の政権復帰(2012年)後の複数政党制の模索へ、政党政治状況が類似する。

100年前の日本とは今の日本のことか。史料を読みながら、何度もそう思った。当時の人々に感情移入せずにはいられなかった。本書の登場人物はそのような人々ばかりである。

なかには無名氏もいる。第一次世界大戦後、顕在化する格差拡大社会のなかで、朝鮮人は悲惨な生活を強いられていた。朝鮮人の生活状況を調査した東京府の担当者は言う。「彼等が原因となって、発生する処の数々の社会的諸問題の責任は、彼等自身の力に依りて解決を望むより、むしろ吾々と共同的努力に依って、之が解決を待たなければならない」。100年後の今、近隣諸国に対する不寛容なムードが広がっている。当時から学ぶべきことは多い。

引用したエピソードにはどれも強く感情移入している。とくに気に入っているのは、石井菊次郎と安達峰一郎の出会いである。ふたりの「国際会議屋」外交官は、大学生の頃、討論会で出会った。石井の発言に「ノン、ノン」と流暢なフランス語で反論したのが安達だった。

ふたりは外務省で机をならべて同じ仕事をするかのように、強い信頼関係を築く。外国語を自由に操り国際法に通暁する彼らが会議外交の最前線に立つ。石井は中立的な立場から、国際連盟で欧州の国境線と民族をめぐる問題の解決に力を尽くす。安達は常設国際司法裁判所の所長の地位に就く。日本は国際協調外交を展開する。彼らのような「国際会議屋」のプロフェッショナル外交は、今日の日本でも、政治家のアマチュア外交と比較して、もっと積極的に評価されてよいのではないか。

第一次世界大戦が日本にもたらしたのは何か。開戦から一〇〇年の今年、議論が活性化することを願う。
私(Ddog)は井上先生の著書のファンである。明治~昭和戦前期の日本について「暗黒の戦前」という戦後GHQが流布したプロパガンダを打破する痛快な著書が多い。過去を断罪も美化もせず、ありのままの戦前の日本を追体験できる。

本書はちょうど100年前の日本と第一次世界大戦のかかわりについて一つ一つ丁寧に解説されています。

そのなかのエピソードの一つとして、初めて知った興味深いエピソードがある。日本は海軍を派遣し、陸軍は欧州に派兵されなかったのだが、日本人の義勇兵が第一次世界大戦の欧州大陸で多数戦っていた。現代日本では先日日本人元大学生がイスラム国へ参加しようとして刑法の私戦予備及び陰謀罪等が適用されたが、当時は現代と違いそのような刑法がなかったせいか、多くの日本人が参加したようだ。また、従軍看護婦も赤十字社から派遣されていたそうだ。
P218-221
義勇兵

欧州大陸に日本兵がいた。海軍が地中海に艦隊を派遣したのに対して、陸軍は派兵しなかったはずである。それなのになぜ欧州大陸で日本兵が戦っていたのか。彼らは在外日本人の義勇兵だった。

欧州大戦が勃発する。在外日本人が立ち上がる。なかでも在カナダの日本人義勇兵が多かった。欧州大戦に対する見方は、在外とくにカナダと日本国内とではまったくちかっていた。カナダ人にとって欧州は故郷である。欧州を救うために、カナダ人と在カナダ日本人の協力の気運が高まった。

在カナダ日本人義勇兵には別の目的もあった。欧州大戦に参加することで、日本の信用至局めて、帰化日本人の参政権と平等待遇を獲得する。これがもうひとつの目的だった。

フランスもイギリスもロシアも「黄色義勇軍」を歓迎した。日本の正規軍が参戦すれば、代償を用意しなければならず、やっかいである。義勇軍であれば、欧州車の指揮下に入って戦うのだから都合がよい、欧州連合国側にはそのような判断があった。

日本国内ではカナダの日本人義勇兵に賛否両論があった。「無謀の暴挙だと評する者茶気が過ぎると貶す者、痛快だというもの、排日感情融和の妙策圭褒める者、邦人権利獲得の賢案と称える者」などさまざまだった。このような賛否両論かおりながら、カナダの日本人義勇兵は志願者が二百余名に上った。

フランスなどの欧州大陸で彼らは勇敢に戦う。新聞は報じる。日本人義勇兵は「敵の壕内に侵入し機関銃の猛射やスナイパーの狙撃にも屈せず敏捷に小幅を利用し間断なき光弾を潜り投弾を為し」だ。

アルザスで殊勲を立てた宮城県出身の佐藤徳次は、イギリスの最高勲章ヴィクトリア十字章を授けられた。しかしその直後に戦死した。最初の戦死者が出だのは前年(一九一六年)一〇月九日のことだった。岐阜県出身の志賀貞吉がソンム戦線で「弾丸命中して即座に無惨の戦死を遂げ」だ。

志賀の戦死を伝える同志の義勇兵の手紙は、悲惨な戦場の現実を描写している。「首も手足もなき死体は諸処に放棄せられ、ようやく負傷兵を始末後送するのみにて、実に悲惨の極にござ候」。

戦死者の数が増していく。大正六(一九一七)年六月二四日付の新聞報道によれば、カナダからの義勇兵は戦死二二、負傷六〇、行方不明五であり、この数字は今後「非常の数に上るべく想像せらる」といった状況だった。戦死者は五四名に達した。
義勇兵の活躍と犠牲によって、カナダの帰化日本人は参政権を獲得できたのか。獲得できた。しかしそれは欧州大戦終結から一二年後の昭和六(一九三一)年のことだった。


従軍看護婦

戦時下の欧州大陸に向かったのは義勇兵だけではない。従軍看護婦もそうだった。日本赤十字社はフランス派遣の救護班を組織する。ふたりの看護婦長と二〇人の看護婦、遣英救護班の先遣隊として五人の看護婦が大正三(一九一四)年一二月一六日、新橋駅に集合した。赤十字救護班の看護婦はカ-キ色の制服姿だった。
新聞各社にカメラを向けられながら、一行は横浜へ出発する。横浜の埠頭では約四〇〇人に見送られて船上の人となった。

救護班一行がパリに到着して開院式を挙げたのは、翌年四月三日のことだった。式にはフランスの陸海軍関係者、前駐日大使、フランス赤十字や日仏協会の関係者、一〇〇名あまりが参列した。担当する病院のベッド数は一五〇、一二八名の重傷者が収容されていた。新聞は日本人従軍看護婦を「シヤンゼリゼーの花」と報じる一方で、看護婦のフランス語能力に不安を感じているようで、「本国赤十字社に於ても一行に対して余りに過ぎた幻影を懐いてはならぬ」と釘を刺している。それでも日本人従軍看護婦が「日仏友好の好個の表明」であることに変わりなかった。

このように日本は欧州大陸の戦場においても、義勇兵や従軍看護婦をとおして、当事国意識を強めた。
海軍の活躍についても海軍主計中尉片岡覚太郎氏の「遠征記」を通して再現された項があり、非常に興味深かった。
P56-67
日本海軍、地中海へ

欧州人戦が始まると、イギリスは地中海へ日本海軍の派遣を求めるようになった。日本は断った。日英同盟の適用範囲は地理上インドまでのアジアと決まっていた。遠く地中海は日英同盟の適用範囲外だった。

今の日米同盟の極東条項とは異なる。日米同盟の適用範囲は「極東」である。しかしこの「極東」は地理的な意味ではない。「極東」の平和と安全を守るためならば、「極東」以外の地域でも在日米軍は使用できる。

日米同盟は「人」=アメリカ(在日米軍)と「物」=日本(在日米軍基地の提供等)の同盟である。対する日英同盟は「人」と「人」との対等な軍事同盟だった。

対等な軍事同盟である以上、日英同盟に参戦義務はなかった。日本は大戦勃発当初の一九一四大正三年八月四日、中立を宣言している。それでも八月二三日になると、ドイツに対して宣戦布告する。中国大陸のドイツ権益が目当てだったことは明らかである。

そうはいっても中国大陸と地中海はちがいすぎる。権益を確保するためでもなく、なぜ地中海に艦隊を派遣しなければならないのか。国民の理解は得られそうもなかった。
海軍はイギリスに不信感を抱いていた。中国大陸で日本がドイツとの戦線を拡大すると、イギリスは日本の兵力の行使範囲を制限しようとしたからである。なぜイギリスは日本の軍事行動を抑制しようとしたのか。中国に既得権益を持つイギリスは、日本の参戦によって、自国の権益が危うくなるのをおそれたからである。イギリスの態度は不条理だった。海軍内で不満が漏れた。イギリスは九月に続いて一一月に二度目の派遣要請をおこなった。日本側は応じなかった。

一九一七年になると状況が変化する。この年の二月一日、ドイツが無制限潜水艦作戦を宣言したからである。アメリカが立ち上がる。日本政府は二月一〇日の閣議で海軍の地中海派遣を決定する。ドイツの潜水艦は翌三月、アメリカの船舶三隻を撃沈した。

中立国の船舶を撃沈する。このような戦時国際法にもとる作戦を宣言したドイツと戦う。日本海軍の地中海派遣は国際正義の観点から正当化される。寺内正毅首相はドイツの無制限潜水艦戦を非難する。「天人共に許さざる罪悪であるから人類公道を擁護する為之を鷹懲する」。寺内にとって国際正義とは武士道精神のことである。寺内は言う。無制限潜水艦戦によって「味方連合国」を「見殺にするのでは日本の武士道が立だない」。日本は軍国主義(=ドイツ)と民主主義(=連合国)の戦争に本格的に参戦することを決めた。

日本が派遣したのは巡洋艦一隻と駆逐艦一二隻による第二特務艦隊である。第二特務艦隊の駆逐艦「松」に片岡覚太郎主計中尉が乗り組んでいた。片岡は地中海派遣の記録を残している。

この記録は作家のC・W・ニコル氏が片岡の孫から提供を受けたものである。ニコル氏は言う。「この若い士官の、率直で、正直で、ユーモラスな記述に惹かれた」。作家の阿川弘之氏も片岡のことを知っていた。なぜ阿川氏は片岡を知っていたのか。「何故なら私か海軍に入っだ昭和十七年当時、此の人は海軍主計中将で、築地の海軍経理学校長だったから」。海軍経理学校とは将校相当官の主計科士官となるための海軍の教育機関である。一八八八年二月一八日生まれの片岡は一九〇九年入学の海軍経理学校一期生だった。海軍兵学校とは異なるルートで海軍将校になった片岡の『遠征記』は、軍内業務日誌や戦闘詳報とは異なり、精彩に富む記述になっている。以下ではこの遠征記録から日本海軍の地中海派遣を再現する。

佐世保から出発する前に片岡は記す。「世界の禍源はこれを東にしては支那、西にして『バルカン』半島にあり」。この「識者の言」から片岡は、中国での対独戦と地中海遠征によって、欧州大戦が日本にとって世界大戦になったことを確認する。
欧州出兵は「猫の額のような青島を攻め落したり洋中の飛石のような南洋群島に旭旗を翻したりした」のとはわけがちがう。欧州でドイツは「三面に敵を受けながら、御得意の科学の力を極度に応用して、毒瓦斯を放ったり、飛行船を飛ばしたり、潜水艇を使っては無辜の商船を撃沈したり、人道も国際法も知らぬ顔に荒れ廻」つていたからである。

白色人種対有色人種

日本海軍の地中海派遣は、日英同盟に基づいて欧州の連合国とともに戦うのが目的だった。ところが片岡はこれとは別の目的によって高揚感を得ている。片岡は誇示する。「何かというと二目目にはジャップと軽蔑した西洋人の鼻先に、ジャップが自分で拵えた艦を持って行って、骨のあるジャップの腕ッ節を見せてやる。世の中にこれ程愉快なことがまたとあろうか」。

片岡は白色人種対有色人種の観点から参戦の目的を示している。この参戦目的はドイツ皇帝ウィルヘルム二世の黄禍論に対する応答でもある。黄禍論とは何か。黄色人種が白色人種に禍をもたらす。一九世紀末から二〇世紀の初頭にかけて、黄色人種の台頭に対する白色人種の危機感が強くなった。日露戦争によって黄色人種の日本が白色人種のロシアを破ったことも、黄色人種の台頭の現われだった。ドイツ皇帝ウィルヘルム二世はこのような黄色人種脅威論を持っていた。

片岡はドイツ皇帝の黄禍論に敵愾心を抱く。「潜望鏡に写る妙な旗の影に……『ハハア日本か。先生到頭出て来たな、それにしては恐ろしく貧弱だな。イヤなに構うことはない、青島の仇だ、一泡吹かしてくれようか』と微笑んでいるカイゼル暫の顔が眼の前にちらつく」。

石炭補給のため、エジプトのアレキサンドリアに寄港した時の印象は、悪くなかった。「『アラブ』の人足が、全身を真黒にして、大きな筑に入れた石炭を担ぎ込む。同色人種と思って、肩身が広かったのか、作業が案外に早く進捗する」。
しかしほどなくして印象は変わる。チュニジアのビゼルトに上陸した際のことである。「貧弱な珈琲店がある。その前に珈琲碗を持ちながら、日の傾くのを忘れたような老人が、二人、しきりに何か話し合っている。赤い帽汚れた白服、贔屓目に見ても、これでは一流所の文明国と対等の交際は危ぶまれる。人種平等は前途なお遼遠である」。

人種平等の観念を持ちながらも、片岡は福沢諭吉の脱亜論のような議論を展開するようになる。片岡は批判する。「折角生れながらの自分の土地を、自分等のうちで統治して行くことが出来ないで、他国の主権の下に屈服していることを、同情すると共に、意気地ない、楡安(とうあん)的な、卑屈な――約言すれば被征服者に共通な――態度気象を実に慊(あきた)らず思う。
時によっては、腹立たしいまでに、歯痒く思うことがある。彼等の眼前には、ただ、今日の日がある、爛(ただ)れた浅間しい現在の生活があるばかりである。理想もない、自覚もない。向上の意気もなければ、発憤するだけの勇気もない」。

片岡は「征服者」に対しても批判的である。「西洋人は一体に命を惜む。……命が惜しいようでは戦争には勝たれない。文明が進んで人間怜俐になると、だんだん命を惜み出す。そして成るべく機械に戦争をさして、人間はその蔭から見物するというような横着なことを考え出す」。これはまるで『葉隠』の「武士道と云うは死ぬ事と見つけたり」のような物言いである。

日英異文化交流

日英の共同作戦行動は、別の見方をすれば、異文化交流だった。イギリスの将官が乗艦する。片岡たちは食事の接待に手を焼いた。「吾人は握飯に沢庵を齧(かじ)っても済まされるが、先生達には少し都合が悪い。殊に一緒に食事をすると一層苦しい。お互いに洋食の時は、構わないが、麺麹(ぱん)の相手が飯をかきこむ時、作法の相違はまだしもとして、こんな時には、得て先方からいろんなことを話しかける。それがこの上もない迷惑だ。さらぬだに話の相手に不適任な僕等は、戦争のために来たので、会話をしに来だのではないという頭がある」。

それでも夜食にパンや卵、ローストビーフを出して、片岡は接待役を務めた。接待されたイギリス海軍少佐は背が高い。くの字に体を折り曲げても、天井に頭がつかえる。起居に不自由があったことは想像に難くない。よく眠れないのか、生あくびをかみ殺している。耐えかねて就寝時刻を尋ねる。何時でもよいと片岡は答える。それでは一〇時に就寝するという。ベッドのカーテンを開けて起床は何時かとの問いに片岡は八時起床、八時三○分朝食と返事しながら、翌朝、一足先に朝食を済ませる。「茶漬で麺麹の相手も妙」だと思ったからである。遅れたイギリスの海軍少佐は「ひどい奴だ」と肩をたたいた。

片岡はあきらめた。「国粋保存を忠君愛国の第一義と心得ている僕等」はイギリス将官と食事を別にした。
一見のどかで平和そうなエピソードではあっても、ここは地中海の戦場だった。ドイツの潜水艦はクラゲのように波間を漂う。姿が見えそうな時もあれば見えない時もる。片岡たちは地中海が目前に迫る頃から、ジグザグの稽古をしたり、英式手旗信号の練習をしたり、救命袗(きゅうめいしん:ライフジャケット)を各員に渡したり」し始めた。

対潜水艦戦は勝手がちがった。潜水艦の潜望鏡が水面に現われたかに見えると、二、三秒後には潜没する。片岡たちは潜水艦の航跡の前方で爆雷攻撃をおこなう。攻撃後、付近を捜索した。戦果はなかった。「潜水艇相手の戦闘は非常に歩の悪い喧嘩で、こちらがやられると、眼前に負けたところが見えるが、敵を仕止めても、参ったところを押えるわけには行かないから、奏功の確実を、絶対に断言することは困難」だったからである。不利な戦いが続く。

日本海軍の役割は対潜水艦戦と輸送護衛である。一九一七年六月のその日もそうだった。駆逐艦「松」の乗組員片岡は、その日の午後、照りつける日の光のなかで、うとうととまどろみかけた。「榊がやられました」。最前まで僚艦「榊」と並走していた「松」の片岡には信じられなかった。艦の前半分か砕かれている。勇ましい姿はもはやない。煙に包まれて停止している。魚雷が「榊」の左舷艦橋下に命中した。船体は前方に傾いて爆煙のなかに頭を突っ込んだ。一瞬の出来事だった。

すでに前月、トランシルバニア号の救助作業中に、「松」が雷撃されたことがあった。今度の被害はそれどころではなかった。艦長以下五九名が戦死、負傷者二二名を出した。艦長は海中に吹き飛ばされたようで、姿かたちが見えなかった。「酸鼻の状到底名状することが出来ない」ほどだった。片岡は痛感した。「最前迄の平和の海はたちまちにして修羅の巷と早変りした」。幸い「榊」は沈没を免れた。

無線が急を告げる。日本海軍は連合国軍と共同作戦中である。味方がつぎつぎと救助に駆けつける。真っ先に近づいたのはイギリスの駆逐艦「リップル」だった。「リップル」は付近の敵もものかは、停止しボートを降ろす。負傷者を移送する。曳航を始める。イギリスの駆逐艦「ゼッド」が後方の護衛位置につく。イギリス軍艦「パートリッジ二世」と掃海船「ガゼル」が救助に加わる。救助する側か救助された。

片岡はイギリス海軍に感謝した。「吾人は四月以来九ヵ月、勇敢に地中海に活動した。しかし地中海に活動するものの中で、吾人は僅かなる一部分である」。対するイギリス軍はどうか。「勇敢、義侠は、必ずしも日本人の専売でない」。日英協調の絆は強くなった。

戦時下のパリ

片岡たちは不眠不休で戦っていたのではない。戦争は長期化していた。休息もしなくては長期戦を戦えなかった。片岡たちはフランスに上陸し、パリをめざす。

移動中の列車内はもちろん、ホテル、レストラン、カフェ、バー、およそ人の出入りする場所はどこにもものものしい掲示があった。「沈黙なれ、心許すな。壁に耳あり」。パリは戦時下だった。エッフェル塔は戦時無線電信用に用いられている。昇るのは禁止だった。凱旋門は土嚢で囲われている。ナポレオンの墓も防護が施されている。「火の消えたように寂れた」パリは、「花の粧を捨て、武装して敵弾を待ち受け」ていた。西部戦線が不利な展開を示していた。それゆえ「常には美しい仏蘭西人の顔が曇っているように」見えた。パリ行の列車には乗れる。しかしパリから南下する列車はだめだった。逃げ出す人が多くなっていた。

「眼前の戦況を救うの途は、軍隊の増派の外にない」。連合国軍は大輸送船隊(ビッグ・コンボイ)を組む。片岡たちの日本海軍はこのビッグ・コンボイを前後五回にわたって護送する。片岡は誇らしかった。「何しろ大部隊の航海で、雄壮なることは、この上もない。そしていずれも揃いも揃った快速な船で、不穏な海を並んで走って行く堂々たる光景は、絵のように美しかった」。

片岡たちは行く先々で厚遇を受けた。ホテルはアップグレード、レストランは上席で列車運賃は無料か半額、四分の一だった。軍服の効用だったことはまちがいない。「武装した都には、武装した人間が一番よくもてた」。

厚遇には犠牲があった。マルタ島に記念碑が立っている。銅版には日本語で任務中に亡くなったすべての艦隊員の名前と階級が彫り込まれているという。
こうして一年九ヵ月に及ぶ第二特務艦隊の任務は終わった。地中海のマルタ島を基地として護衛回数は三四八回に上る。護衛した船舶数七八八隻の大半はイギリス船籍で、軍艦二一隻、輸送船六二三隻だった。

第二特務艦隊の規模(二回)はアメリカ海軍の派遣と比較すれば、見劣りする。米海軍は駆逐艦六四隻、駆潜艇七七隻を派遣した。撃沈は日本海軍○隻に対して米海軍は一〇隻だった。

ささやかな貢献にすぎなかった。それでも第二特務艦隊は連合国側から評価された。第二特務艦隊の出勤率(出動日数÷三〇日)約七〇パーセント、対するイギリス軍六〇パーセント、フランス・イタリア軍四五パ-セントだったからである。さらに第二特務艦隊の「敏速、勇敢な救助活動と被害者に対する暖かい配慮」も高く評価されたという。

大戦終結後、パリ講和会議が開催される。第二特務艦隊は講和会議の開催中、
イギリス、フランス、ベルギー、イタリアなどを訪問する。日本が五大国の一員に列することになったデモンストレーション効果は大きかった。同時に日本は連合国間協調のネットワークのなかに参入することになった。

第二特務艦隊の軍事的な貢献は限定的だった。それでも地中海での共同作戦をとおして、日本は欧州大戦後の国際協調の潮流に乗るきっかけを手にした。
他方で日本海軍の地中海派遣は個別利害確保の観点が濃厚だった。日本はあらかじめイギリスから講和会議の際に、ドイツの権益だった中国山東省と南洋諸島に関して日本の要求を支持するように求めていたからである。

以上のような地中海派遣をめぐる理想主義と現実主義の均衡は、欧州人戦後の日本外交の基調となっていく。
海軍は地中海に派兵したが、陸軍は欧州に派兵しなかった。なぜ陸軍は応じようとしなかったのか。その理由を井上先生が解説している。
p79-83
陸軍の欧州戦線派兵問題

海軍は地中海に派兵した。陸軍はどうだったのか。戦争勃発の一ヵ月後にはロシアが日本に派兵を要請している。翌一九一五年になると戦況が連合国側に不利に転じる。派兵要請が強まる。一九一七年になるとアメリカが参戦する。それでも日本は派兵を決めかねていた。

連合国側からの派兵要請に積極的だったのは欧州大陸在勤の外交官である。たとえば松井慶四郎駐仏大使は本省に対して、このままでは「連合国としての温き感情は之がため或は冷却するに至る」と警告している。松井はアメリカ参戦のインパクトを重視する。アメリカの参戦によって、この戦争は「人道」をめぐる戦争になった。このような国際正義を目的とする戦争に加わらないと、「其反動も亦軽からざるべし」。
松井は戦後国際秩序を視野に入れながら、派兵が重要であることを強調した。

内田康哉駐露大使も同じ考えだった。派兵要請に対して不可能と弁明したところで、国際世論が反発する。そうなると「甚だ面白からざる立場に陥る」おそれがある。内田はそうならないためにも派兵すべきだ、と促した。

連合国の世論を気にするのは珍田捨巳駐英大使も同様だった。珍田は日本の欧州出兵不可能論によって「対日感情は暫時面白からざるものあり」と報告している。日本は日英同盟の相手国からも批判を招きつつあった。

再三の派兵要請にもかかわらず、なぜ陸軍は応じようとしなかったのか。

第一に、欧州大戦の行方が見えにくかったからである。欧州戦線は塹壕戦となり、膠着していた。このままでは「勝敗付き難く列国共に怨を呑んで一時」の休戦となるだろう。陸軍はそう観測した。この観測の背景には陸軍の伝統的な親独感情があった。なかには大島健一陸軍次官のようにドイツの勝利を断言する者すらいた。陸車内の風潮は「公然と日独同盟説を高唱し、日本が連合国側に立ちて宣戦したるを大なる失蹟なり」と批判するまでになっていた。日英同盟があるにもかかわらず、陸軍は戦後の極東におけるイギリスとの利害対立を見越していた。イギリスを抑制するためにドイツに接近する。この観点から陸軍は欧州派兵をためらった。

第二に、派兵にかかわる膨大なコストに見合うだけの利益が得られそうになかったからである。陸軍は試算した。欧州戦線で戦果を上げるには二○師団を派遣しなくてはならない。二〇師団を海路派兵するには五〇〇万トンの船舶を必要とする。しかし日本には七〇万トンの船舶しかない。少数兵力の派遣では効果がなかった。
このように説明したものの、アメリカの参戦によって、日本は連合国の理解を得ることがむずかしくなっていく。世界最大の軍事大国・経済大国=アメリカの参戦によって、連合国は輸送船舶や経費の調達が容易になったからである。それでも日本側は「輸送上の困難」を上げて、派兵を渋った。

第三に、日本陸軍は自衛軍だったからである。陸軍の所見は言う。陸軍の任務は「祖国の防衛、国権の擁護」であって、「欧西に出すべき考慮を建軍の一因に加えたることなし」。それゆえ欧州戦線に「出兵の義務を生ずべき理由存在せず」。これが陸軍の基本的な立場だった。

しかしこれら三つの理由は建前にすぎなかった。実際のところ陸軍は二〇個師団の派遣が可能であるとも述べている。それでも欧州への出兵を拒んだのは、この戦争に別の目的で参戦したからである。別の参戦目的とは何か。それは「東洋平和の禍根」を取り除くことだった。

青島をめぐる日独戦争

日本陸軍は、親独感情を背景に、欧州戦線への派兵を拒んだ。しかし日本陸軍の親独感情もどこまで本当なのか、怪しかった。なぜならば日本陸軍は、欧州大戦に乗じて、中国のドイツ領青島をめぐって戦争を始めたからである。

一八九八(明治三一年)に中国山東半島の膠州湾を租借したドイツは、青島に要塞を構築した。日本陸軍はこの青島要塞を攻略する。一〇月三一日の総攻撃開始後八日目、要塞は日本軍の手に落ちる。

「猫の額のような青島」であっても、短時日のうちに攻略に成功したのにはわけがあった。ドイツ軍司令官は一一月一日に記す。「火砲の凄まじい有様は何うであったか。吾人は適当の詞を以て形容することが出来ぬ。一全弾は防楯を貫き、一門は戦闘力を失うまでに毀れて居た」。一一月五日になると、日本軍は「我背面にある砲台からも撃ち出して、終に吾人は敵の十字火に陥った」。

これらの記述が端的に示すように、勝敗は火力の差だった。より広く物量の差と言い換えてもよい。日本車は日清・日露戦争とは異なる戦争を戦って勝った。かつてのような肉弾戦、白兵戦は影をひそめた。歩兵の突撃前に、砲戦であらかた決着がついていた。

日本陸軍は、日露戦争後、兵器の近代化を進めていた。兵器の近代化は三八式(明治三八〈一九〇五〉年式)兵器の整備を促す。火砲については、三八式野砲、三八式一〇センチ加農砲、三八式コーセンチ榴弾砲、三八式一五センチ榴弾砲による兵器体系が確立する。

日本陸軍は最新装置を備えた世界水準の火砲を持つことになった。日本陸軍はこれらの三八式火砲を総動員して青島を攻略した。

あとがら考えれば皮肉なことに、三八式火砲は日露戦争末期にドイツから輸入して国産化したものだった。

他方で欧州戦線でも砲撃戦が中心となっていた。多数の重砲による大量の砲弾が飛び交った。歩兵の出る幕はなかった。歩兵が突撃する前に敵の陣地を破壊しなくてはならなかった。しかし両陣営ともに塹壕を掘っていた。塹壕陣地をめぐる砲撃戦が続く。塹壕戦によって戦線は膠着した。

青島攻略は守備隊程度が相手だったから容易に片づいた。そうではあっても、欧州戦線と青島攻略が交差していたのほまちがいない。戦闘の規模は異なるものの、どちらも総力戦だったからである。戦争の勝敗は物量が決める。日本は欧州戦線と連動する青島攻略でこのことを学んだ。
当時の日本を代表するジャーナリスト徳富蘇峰は日本が第一次世界大戦 欧州に陸軍を派遣しなかったことについて鋭い指摘をした。「欧州やロシアや米国も、第一次世界大戦で高い代価を支払ったて戦争と平和について心底学べたことがあったが、日本は戦争の舞台に立たず見物席で呑気にしているばかりであったがゆえに、学び損ねてしまった。その学習の差がじきに国難を招き、日本を滅ぼすことにつながりかねない」蘇峰は警笛を発したのでした。

約四半世紀後、日本はまさに蘇峰の予言通りとなった。

第一次世界大戦青島攻略戦において日本陸軍の神尾光臣将軍は、近代的な新しい戦争で、旅順攻略における乃木将軍の失敗を繰り返さなかった。

神尾将軍は西南戦争に出征し、日清戦争では大山巌の情報参謀、日露戦争では乃木将軍傘下の旅順攻囲軍の歩兵第二二旅団長であった。

戦史的には青島攻略は、戦意のないドイツ軍相手に楽勝の戦いで済まされていますが、青島攻略が楽勝で終わったのは旅順攻撃の戦訓を十分に生かした神尾将軍の功績が非常に大きい。旅順よりは小さいとはいえドイツが心血注いだ要塞である青島を大きな犠牲を払わず陥落させたのは神尾将軍が近代戦はいかに戦うか熟知していたからこそ大勝できたのであって、神尾将軍の功績が非常に大き

神尾将軍が行った近代戦とは、歩兵が突撃して砲兵が支援する戦争ではなく、砲兵の火力で片づけてしまい、歩兵は後始末に行くだけといった戦争です。火力の強い方、弾数の多いほうが勝つ、白兵戦や突撃戦ではない、遠距離から物量で圧倒しようという戦争です。

青島攻略戦で近代戦を行った帝国陸軍が第二次世界大戦におい近代戦との対極にある精神主義に陥り、なぜ玉砕や特攻をする軍隊になってしまったのか・・・

現代に視点を移すと、「集団的自衛権」の議論が行われている、日英同盟を軸に考察するとリベラル派は日英同盟が第二次世界大戦を引き起こした、だから「集団的自衛権」は問題があると言っているのだが、本当に第一次世界大戦前後の歴史を正しく理解していない。

日英同盟があったにもかかわらず日本が欧州に派兵しなかった。そのことが日英同盟の解消が行われ、第二次世界大戦への引き金となった事実の方を強調したい。
集団的自衛権議論において、人と人軍隊と軍隊の信頼感が平和を構築するうえで重要であることを第一次世界大戦と日英同盟の視点から私は強調したい。

戦後長く続いた属国的日米安保条約から日本は北朝鮮、中国の脅威に向き合うために集団的自衛権に踏み、日米の連携をより深め、日米同盟をより対等な同盟関係に進化すべきなのだ。

左翼やリベラルの連中は脳天気としか言いようがない。中国が尖閣を足場に沖縄侵略を目論んでいることに目をつぶり、日本が米国の戦争に引き込まれることばかりを騒いでいる。

違うのだ、日米同盟があるにもかかわらず米国の方が日中の紛争に巻き込まれないようにしようとしている動きがあることを知らないのだろうか。もちろんそんなことを言っている連中は左翼リベラルな民主党と、外国のことに感心の無い共和党のティーパーティの連中である。だがこれは日本にとって憂慮すべき深刻な問題なのだ。

日米で連携して中国の脅威と向き合わなければ日本は中国の属国になってしまう。現在日本が米国の属国であるが、紛いなりにも民主主義国家である米国の属国の方がまだましであるのだが、私はいずれは日米同盟が対等な関係へとなって米国の属国から脱皮してほしいと思っている。今日のチベットやウイグルのような惨状を見れば見るほど、集団的自衛権は日米同盟を対等な同盟関係にするには必須な問題だと思う。

対等であるからにはアメリカの戦争に巻き込まれる危険性を犯さなければ、日本の戦争にアメリカを巻き込むができないのである。

つまり、アメリカが引き起こすあらゆる戦争に、日本は同盟国と責任を共有してはじめて、対等な日米同盟が成立するのである。集団的自衛権には慎重でなければならないという卑怯者達は永遠に日本は米国か中国の属国でいいと考えていると言える。日本人として人間として卑しい連中だ。





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