
会社の帰りに「九条を守れ」のプラカードを持った、デモに参加したであろう70代の老夫婦を駅のホームで見かけた。当ブログの左翼投稿者のように徹底的に言い負かして、人格否定までしてやりたい衝動に駆られたのだが、さすがに思いとどまった。
おそらく、国会前で安保法案反対と叫ぶ老人達(そのほとんどは実際の戦場など経験していない戦後教育=東京裁判史観に最も強く洗脳された世代)は、どんなに論理的に説明したとしても無駄であろう。彼らにとって「憲法九条」は神典として信仰の対象にしている、憲法九条は彼らにとっての宗教だから、中国が戦後秩序を覆し、沖縄を獲りに来ているといった国際情勢が理解できないのか?と説得しても意味がない。論理で責めても、信仰であって是非を考えることをしないのだから、共産党のアジ演説に野次を飛ばす私でも老人虐めは思い留まりました。
池田信夫・戦後、なぜ左翼は社会を変えられなかったのか
先日原宿の勉強会で防衛大学のS教授が、終戦直後はマスコミからアカデミズム、
世論は今の基準でいえば極左だった。あれだけ鬼畜米英と叫んでいたマスコミや世論が終戦を境にGHQの洗脳前から終戦のショックもあったのだろうが、あまりの変わり身の早さは日本人の特性なのか?ということをおっしゃっておりました。
例えば、昭和21年 5月、皇居前広場 で25万人を集めた食料メーデーでにおける、「朕はタラフク食ってるぞ」のプラカードなど、枚挙がいとわない。
S教授の調べでは、あれだけ本土決戦を叫んでいた帝国陸軍軍人が誰一人、本土において占領軍に切り込み攻撃をした者がいなかったというのだことを指摘されていた。もちろん占守島の戦いや、樺太の戦いなど終戦直後民間人を守る為に抵抗した軍、インドネシアなどその後のアジア各国の独立戦争に参加した兵士はいたのだが、本土を占領した米英軍に対し、イラクやアフガニスタンで行われているような自爆テロは皆無なのである。
私は、私は日本帝国陸海軍が軍規に忠実でったこと、天皇陛下の玉音放送の力が絶大であった為であろうが、日本の将棋のルールの特性や戦国時代の戦(いくさ)のルールからして、負けたら相手側に付き持ち駒になるのが日本の戦のルールが日本の伝統ではなかろうかという仮説をS教授にぶつけてみた。私の意見に同調していただいた。
1959年皇后美智子妃殿下が皇室に嫁ぐ際、皇室からの使者が正田家に非公式の打診をしたが、正田家側は、再三固辞した。天皇家に対し、ある心配を吐露したと言う。皇室の仕来りで虐められるからだろうと言うこともあったが、「革命が起きた時、
美智子の命(身の上)はどうなるのでしょう?」という点であったと言う。1959年キューバ革命が起きるなど日本も世界は革命前夜の空気が流れていたと言う。
ところが、戦後リベラルと自称する左翼達は革命はおろか、ただ、反対論を言い続け、代替え案を提案実行したり何一つ社会をよく変えることは無かった。ただただ、
社会の秩序を乱し、古き良き日本を否定するだけで、何一つ日本の役に立つことなど無かった。その為日本は徐々に世論の軸が左から右へっていったのである。安倍政権は右翼でもなんでもなく、世論の軸が中庸へ戻ったにすぎないと私は思っている。
ということもあり、本書が目に留まり読んでみました。
池田信夫・戦後、なぜ左翼は社会を変えられなかったのか
池田信夫著『戦後リベラルの終焉』(PHP新書)
【YahooNewsBussiness】PHP Biz Online 衆知 2015/6/11 10:11 池田信夫
本書は戦後の歴史をたどりつつ、歴史を変えることのできなかったリベラルな知識人の挫折の原因をさぐる「敗者の戦後史」である(「はじめに」より)。
全面講和から安保反対、反原発運動に至るまで、日本の左翼は理想主義的なスローガンに終始し、保守陣営への対案を示してこなかった。2014年の朝日新聞の大誤報は、そんな「戦後リベラル」たちの終焉を示していたと言えるだろう。
戦後70年を経たいま、「革新」という幻想はこれからどこへ行くのか。「敗者の戦後史」から逆照射すれば、未来の日本への道筋が見えてくる。
日本を「普通の国」へと変える論点がわかる、刺激的な論考!
本書の構成は
第1章 朝日新聞の挫折
第2章 「平和主義」のユートピア
第3章 メディアが日本を戦争に巻き込んだ
第4章 メディアがつくった原発の恐怖
第5章 労働者の地獄への道は善意で舗装されている
第6章 進歩的文化人の劣化
第7章 「オール野党」になった政治
第8章 戦後リベラルの栄光と挫折
第9章 左翼はなぜ敗北したのか
では、内容の一部をご紹介します。
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左翼はなぜ敗北したのか
終戦直後の日本の知識人は、ほとんど左翼と同義といってもよいが、当時のアカデミズムの中心だった知識人の意見がまったく政治を変えることができず、既得権の擁護と対米追従しか政策のなかった自民党が戦後の歴史をつくったのはなぜだろうか。
その最大の原因は、自民党が英米の保守党とは違って、良くも悪くもイデオロギーをもたないからだろう。それは特定の政治的主張のもとにあつまる結社というよりは、地元の面倒を見る政治家とその個人後援会の集合体であり、野党はこれに対抗できる集票基盤をもたない。
この状況は、戦後70年たっても変わらないので、「平和憲法を守れ」とか「非武装中立」のような理念を対置しても、ほとんどの国民は関心をもたない。彼らの生活を改善する具体的な対案を左翼は出せなかったのだ。
◆全共闘運動というバブル
学生運動は60年安保の敗北で勢いを失ったが、60年代後半の世界的なベトナム反戦運動と結びついて、学生運動が盛り上がった。それが各大学でできた全共闘(全学共闘会議)だが、これは全学連のような全国組織をもつわけではなく、自然発生的にできたノンセクト・ラディカルの集団だった。
それは一種のバブルだったが、規模は世界的だった。フランスでは革命運動が政権を追い詰め、アメリカでも極左のマクガバンが大統領候補になった。当時は頭の悪い学生でも「反帝反スタ」とかいえば格好よく見えたので、「おれ意識高い」と見せるために、デモに行ったのだ。
ノンセクト・ラディカルは、思想的にはマルクス主義とはいえない。当時、社会主義国の実態は学生にも知られるようになり、それが「地上の楽園」ではないことはわかっていた。60年安保のころは、それを「スターリニズム」と批判していたのだが、反スターリニズムを自称する党派も似たようなものだった。
だから党派をきらう学生の集まった全共闘は、アナーキズムに近かった。それを支えたのは、ベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)に始まった反戦運動の現状否定的な情熱だったが、全共闘が掲げた闘争の目的は学費値上げ反対といったプチブル的な要求ばかりで、何が実現すれば闘争に勝利したことになるのか、彼らにもわからなかった。
ただ街頭デモで機動隊と闘うことには、スポーツのような快感があった。最盛期には、日比谷公会堂を埋め尽くす数千人の群衆が集まり、これだけいれば何かできるのではないかという気分もあった。しかし肝心の何をするのかが、はっきりしなかった。当初は「大学解体」というのが辛うじて全共闘運動の統一スローガンだったが、これも具体的に何をするのかは不明だった。
60年安保のときと違うのは、貧しさがモチベーションになっていなかったことだ。それは当時もっとも熱心に読まれたマルクスのテキストが『経済学・哲学草稿』だったことでもわかる。ここで彼が論じたのは、労働者の疎外だった。それは世界的にマルクスの初期の文献が発掘されて研究が進んだという面もあったが、もっと大きいのは『資本論』でマルクスが予言した労働者の窮乏化という現象が起こらなかったことだ。
戦後しばらくは日本も発展途上国に近い状況にあり、飢えと貧困を克服することが何よりも切実な欲求だった。資本主義は、限られた富を資本家が独占するシステムとして憎まれ、社会主義は「無政府主義的な」資本主義に代わって計画的に経済を運営することによってすべての人々を豊かにする経済システムだと考えられた。
しかし60年代後半までには、そういう幻想も消えていた。労働者が不満をもったのは賃金ではなく、工場の単純労働で「疎外」されているという気分だった。これはヘーゲルやマルクスの「本質の対象化」という意味のEntfremdungとは違うのだが、世界的にそういうロマンティックな意味で使われるようになった。
この時期にスターになったのがマルクーゼやハーバーマスなどのフランクフルト学派で、マルクーゼは資本主義を「寛容的抑圧」の体制と規定し、それに反逆する学生を支援した。彼らも既存の社会主義は批判しており、具体的な未来像を描いていたわけではないが、「資本主義も社会主義も人間疎外だ」という時代の気分には合致していた。
しかしアナーキズムは、その定義によって組織として持続することがむずかしい。全共闘の中でも中核や革マルなどの党派が分派活動をやり、それに反発するノンセクトが離反して、1969年にピークを記録した全共闘運動は、5年もたたないうちに消滅した。
私が大学に入ったのは、この学生運動の衰退期だった。キャンパスで白昼に殺人事件が起こり、犯行声明まで出ているのに、警察は家宅捜索もしなかった。公安は、明らかに極左が内ゲバで自滅するのを放置したのだ。彼らのねらい通り、内ゲバの激化とともに極左勢力は急速に衰退した。
◆公害反対運動の心情倫理
70年代以降は、連合赤軍のように少数の極左が出る一方で、大部分の学生は戦線を離脱し、「ノンポリ」化が進んだ。そういう中で、新左翼のよりどころは公害反対運動になった。公害は資本主義のもたらす必然的な悪であり、公害病患者はプロレタリアートに代わって左翼のアイコンになった。
しかし新左翼の運動そのものは世界的に退潮期に入ったので、運動の主役はマルクス主義者というよりはエコロジストだった。彼らの思想的な背景はさまざまだが、反企業的な面は新左翼を継承していた。
中西準子は、日本の反公害運動の草分けだ。宇井純の弟子で、高木仁三郎などと同じ第二世代である。70年代の反公害運動は、今よりはるかに困難だった。そもそも公害というのがよく知られていないうえに、情報が出てこない。役所も企業をかばい、民放も新聞もスポンサーに遠慮してほとんど伝えなかった。
参議院議員までつとめた共産党員の子として生まれ、マルクス主義の影響を受けた中西は、東大の助手時代に反公害運動に身を投じ、その結果として23年間、助手を続ける。しかし反対だけでは何も変わらないと気づき、流域下水道に代わって小規模な「いい下水道」を提案する。これが藤沢市などに採用されて、日本の下水道は大きく変わった。
しかし小規模な下水道でも、ごく微量の発癌物質は残る。それをどうしようか思い悩んでいるとき、中西は1987年にアメリカの議会図書館で「発癌リスクの許容度」のデータを見てショックを受ける。それまでの「安全管理」は、死者をゼロにすることが目的で、一定の死亡率を許容することはありえなかったが、これを機に彼女は「リスク」という概念を日本で広めようとする。
しかし反対派は彼女を「体制側に転向した裏切り者」と批判し、離れていった。彼女はその後、横浜国立大学や産業技術総合研究所で、日本で初めて「リスク」と名のついた研究組織をつくり、さまざまなリスクを定量的に調査する。チェルノブイリ事故の現場も調査し、最大のリスクは強制退去による生活破壊だったことを知る。
流域下水道は環境に悪いばかりでなく、きれいな水と汚水を混ぜて処理するので効率が悪く、流域全体をつなぐインフラに莫大なコストがかかる。汚水だけを個別に処理する中西の方式のほうがコストが安いので、全国の市町村が彼女の提案を受け入れ、小規模下水道が普及した。工場も「下水」に混ぜて流すのではなく「汚水」として管理するため、環境基準を守るようになった。
純粋な「汚染ゼロ」の心情倫理を主張した人々は何も変えられなかったが、汚染のリスクを最小化した中西は日本の下水道を変え、環境を改善したのだ。運動の目的が政府や大企業を糾弾してストレスを解消することならゼロリスクを叫んで原発を止めるのが気持ちいいだろうが、その代わりに石炭火力を焚いたら環境汚染は悪化する。
行政も企業も環境汚染を最小限にしたいとは思っているが、「リスクをゼロにしろ」といわれても、ビジネスをやめるわけには行かない。結果的には絶対反対の運動は無視され、社会を変えることはできないのだ。
《PHP新書『戦後リベラルの終焉』第9章より》
◇池田信夫(いけだ・のぶお)
〔株〕アゴラ研究所所長、SBI大学院大学客員教授、学術博士(慶應義塾大学)
1978年東京大学経済学部を卒業後、NHKに入社。報道番組の制作に携わり、1993年に退社。1997年慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科博士課程を中退。国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現職。日本を代表するブロガーとして積極的な言論活動を展開している。著書に『資本主義の正体』(PHP研究所)、『原発「危険神話」の崩壊』(PHP新書)、『朝日新聞 世紀の大誤報』(アスペクト)、『日本人のためのピケティ入門』(東洋経済新報)他多数
全面講和から安保反対、反原発運動、そして今の国会前安保法案反対デモに至るまで、日本の左翼は理想主義的なスローガンに終始し、保守陣営への対案を示してこなかった。
戦争直後の国際状況であれば、憲法九条も日本の選択肢として、けっして荒唐無稽ではなかったかもしれない。しかしながら、吉田内閣以降、与党も野党も政治家は選挙区や業界に対し結果に責任を負わないで美辞麗句を並び立ていい顔をして、不人気なことを役所や官僚にやらせる仕組みになってしまったのである。
そんな国民に迎合する国会議員が憲法を改正できるわけがなく、日本はオール野党の無責任な国として、安全保障をはじめとする国家の根幹にかかわる重要なことを政治家も国民も真剣に向き合ってこなかったのだ。
日本の保守主義とは何だったのか?
p66-69
憲法を改正することは悪くないが、それは今でもそれほど大きな問題なのだろうか。終戦直後に日本が絶対平和主義の憲法をつくったのは「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の押しつけ」ではない。「第二次夫戦が最終戦争で、枢軸国がなくなればもう戦争は起こらない」というのが、丸山眞男から石原莞爾に至る幅広い日本人の認識で、憲法改正のときも第九条にはほとんどにべ対がなかった。
しかし一九四八年ごろから冷戦が始まり、日本でもレッドパージなどの「逆コース」で、岸信介などの戦犯容疑者が公職に復帰する。これに反対する「護憲勢力」が左翼の中心となり、吉田茂はこれを利用して軽武装で軍事費を節約した。彼は平和主義者ではなく、憲法第九条は日本を警戒するアメリカやアジア諸国に対する「間近な政治的効果に重きを置いたもの」たった、とのちに回想している。
しかし結果的には、この吉田ドクトリンが、戦後の日本の方向を決めてしまった。そのコアにあったのは、米ソが連合国として戦ったポツダム体制だった。ここでは日本を徹底的に無力化するために軍帽を奪い、共産党や労働組合を育成して民主化することが最優先の課題だった。これが安倍首相の敵視する「戦後レジーム」だ。
冷戦が始まるとポツダム体制は崩れ、日本はアメリカの同盟国になったが、それでも自民党は政権党でありながら憲法改正をめざす「異端」で、野党は憲法を守る「正統」だというねじれた関係が、ずっと続いてきた。一貫して少数だった野党が憲法を守ることができたのは、朝日新聞に代表される護憲勢力の力が大きい。
一九五〇年ごろに寿命が終わっていた体制を吉田が延命し、自民党内のハト派や「全面講和」を求める左翼が守り、絶対平和主義が日本の国是になってしまった。日本は実質的にはアメリカと一体で核武装したが、国内的には「戦争放棄」の建て前を崩さなかった。だから戦後七十年たって、戦後レジームの柱だった朝日新聞が崩壊する影響は小さくない。
ポツダム体制も冷戦も終わったあと、世界経済では先進国と新興国の対立が深まっている。特に政治的にもプレゼンスを増す中国をどう扱うかが厄介な問題だ。かつて支配者と被支配者の立場にあり、冷戦では同盟国に準ずる位置にいた韓国がどっち側に入るかは意外に重要だが、慰安婦騒動では儒教ブロックの愚民国家であることを証明した。
安倍首相が「戦争をしたがっている」とか「ヒトラーだ」という類の話があるが、良くも悪くも彼にはヒトラーのような信念も指導力もない。憲法改正は、今では政治的スローガンとしてもほとんど意味がない。
自民党は「保守主義」の党だといわれるが、彼らが体系的な保守主義の教典をもっているわけではない。右派の論壇誌を読んでも、慰安婦問題と南京事件と靖国神社の話が繰り返さ九ているだけで、憲法改正以外に積極的な政策はほとんど書かれていない。自民党の保守とは英米的なconservativeではなく、単なる現状維持なのだ。
その保守は国家権力を必要とするものではなく、近世までの日本人は狭い村のなかで掟を守って生活してきた。近代以降、「大きな社会」に統合されるなかで、日本は君主制を輸入し、昔からいた天皇をそこにすえた。しかしそれは西洋的な君主とはまったく違う空虚な記号だから、天皇家である必要さえない。
戦後の保守勢力は「憲法改正」という無内容なスローガンを中心にすえ、野党は「憲法を守れ」という以外の政策をもたないことで自民党の長期政権を支えてきた。自民党の長期政権を支えた最大の味方は、無能な野党だったのである。
反原発運動や朝日新聞を痛快にぶった切り池田信夫節が炸裂する本書であるが、
変節漢「清水幾太郎」、「大江健三郎」「内田樹」「孫崎享」「白井聡」「小熊英二」も痛快にぶった切っている。
清水幾太郎の覇権と忘却
p128-130
集団的自衛権をめぐる騒動は、六〇年安保に似ている。当時も安保条約なんてほとんどの人は知らず、新聞が「アメリカの戦争に巻き込まれる」という不安をあおって騒ぎを作り出したのだ。最初は一部の学生・知識人にとどまっていた運動が、一九六〇年六月の国会通過の数力月前から、急に盛り上がった。そのきっかけが、全学連主流派(ブント)の国会突入だった。
清本幾太郎は、六〇年安保の主人公だった。今では忘れられた人物だが、当時は「今こそ国会へ」というアジテーションを発表し、全学連を支援する声明を出した。このときの騒動をのちに振り返って、清水は「何をやりたかったのか自分でもわからない」といっている。
戦中は読売新聞の論説委員として戦争に協力し、戦後はマルクス主義に近い立場をとった清水が、六〇年安保で「進歩的知識人」のまとめ役になったのは、共産党の人気が落ちたからだ。どの時代でも、彼はつねにド役として脚光を浴びていたいという欲望から逃れられなかった。
しかし六〇年安保が不発に終わったあと、彼は論壇の主役をはずれ、進歩派は古本隆明のように極左に流れるか、丸山眞男のようにに書斎に撤退してしまう。しかし撤退すべき本業をもたない清水は、つねに注目を浴びようと「右旋回」を始める。彼は『諸君!』の常連になり、一九八〇年に発表した『日本よ国家たれ――核の選択』で大反響を呼ぶ。
清水の軌跡は、朝日新聞に重なる。戦時中は軍国主義だった朝日は、戦後は絶対平和主義に転向する。六〇年安保のときも、清水と同じように「安保粂約は憲法違反だ」とか「強行採決は民主主義の破壊だ」という論陣を張ったが、条約の内容にはふれなかった。それは旧安保を日本にとって有利に改正するものだったからだ。
そして清水が『日本よ国家たれ――核の選択』を書いたころ、朝日新聞は原発推進の論陣を張る。これも動機は同じだ。「革新陣営」の賞味期限が切れ、「現実派」のほうが受けるようになったからだ。このころは石油危機の衝撃もあり、大江健三郎まで含む多くの人々が「原子力の平和利用」に希望を見出していた。
もし清水が生きていたら、今ごろ「原発ゼロ」の論陣を張っていることは確実だ。その動機は、原発推進から大転換を遂げた朝日新聞と同じだ。それが格好いいからである。原発が本当に危険かどうかとか、エネルギー供給がどうなるかには興味がない。彼の生き方は徹底したマーケティングだった。中身が正しいかどうかより、その入れ物が売れるかどうかが彼の関心事であり、つねに新しい包装紙を求め続けたのだ。
大江健三郎という病
p131-134
大江健三郎と鎌田慧が二〇一五年の三月十日に記者会見し、「日本の政治家には事故に対する反省や再出発という意思がまったくない」と批判した。大江八十歳、鎌田七十六歳。自分たちが科学的根拠のない放射能の恐怖をあおった反省もなしに開き直る進歩的文化人も、この二人の老人しかいなくなったようだ。
大江は、終戦直後に愛媛県の農村で聞いた新憲法の感動をいまだにもち続けている「大きな子供」である。彼は、沖縄の慶良間守備隊長だった赤松嘉次元大尉の遺族から、名誉毀損訴訟を起こされた『沖縄ノート』で、次のように記す。
新聞は、慶良間諸島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶亡れる男[赤松元大尉]が、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。[中略]かれは二十五年ぶりの屠殺者と生者残りの犠壮者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にどっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想までもいたちえたであろう。(『沖縄ノート』P208-211)
といった独特の悪文で、たった一つの新聞記事をもとにして、赤松大尉を(ナチの戦犯として処刑された)アイヒマンにたとえて罵倒する妄想が八ページにわたって延々と続く。この事実関係は、一九七三年に曽野綾千加現地調査を行なって書いた『ある神話の背景』でくつがえされた。赤松大尉は住民に「自決するな」と命じていたことが生存者の証言で明らかにされ、軍が自決を命じたと申告したのは遺族年金をもらうための嘘だったという「詫び証文」まで出てきたのだ。
にもかかわらず、大江と岩波書店は、それから三十年以上もこの本を重版してきた。彼らの人権感覚は、どうなっているのだろうか。訴訟に対しても、彼らは「軍が命令を出したかどうかは本質的な問題ではない」などと逃げ回っている。これは慰安婦について事実関係が反証されたら「強制連行は本質的な問題ではない」と論点をすり替える朝日新聞と同じだ。
一審の大阪地裁は「軍の命令があったと証拠上は断定できないが、関与はあった」という理由で原告の申し立てを退けた。これは「ノーベル賞作家」に配慮した問題のすり替えである。原告は赤松大尉が集団自決を命令したかどうかを問うているのであって、軍の関ソの有無を争ってはいない。軍の関与なしに手榴弾を人手することは不可能である。
二審判決も事実関係を曖昧にし、命令があったかどうかはわからないが大江が命令を「真実と信じる相当の理由加あった」という理由で、出版を差し止めるほどの事由はないとして控訴を棄却した(最高裁で確定)。確かに出版差し止めというのは、民主主義国では軽々に認めてはならないが、原告が差し止め訴訟を起こしたのは、大江側か記述の修正をしなかったからだ。
裁判を通じて明らかになったのは、赤松大尉は住民を「屠殺」するどころか、集団自決を思いとどまるよう伝えていたということだった。裁判では思わぬ事実も出てきた。大江を支援する先頭に立っていた金城重明牧師(元沖縄キリスト教短大学長)が、渡嘉敷島でゴボウ剣で数十人を刺殺したことを法廷で認めたのだ。こうした集団的な狂気が、どうして生まれたのかを追究するのが作家の仕事だろう。
戦争は軍部が暴走して起こしたもので、国民は無垢な被害者だという大江の幼稚な歴史観は、軍はすべて悪だという「平和憲法」的な思い込みでしかない。集団自決をもたらしたのは軍ではなく、人々を駆り立てる空気だったのだ。旗を振って戦勝を祝ったのは国民であり、それを積極的に煽動したのは新聞だった。彼らは戦後も解散させられることなく、責任を軍に押しつけてみずからの戦争犯罪に口をぬぐってきたのだ。
壊れゆく内田樹
p134-137
かつて進歩的文化人の総本山だった東大法学部の影加薄くなってから、マイナーな大学教授か代役をつとめるようになった。その代表が、内田樹(神戸女学院大学名誉教授)だろう。
彼の文章には特徴がある。「グローバリズム」やら「国民国家」とやらについて批判的に語ることと、初歩的な誤りがたくさんあることだ。たとえば、ブログで彼はこう書く。
グローバル化に即応した「歴史の古今換え」が進行している。「慰安婦問」や「南京事件」について日本を免罪しようとする「自虐史観論者」たちの語る歴史がそれである。
彼らが「慰安婦制度に軍部は関与していない」とか「南京事件などというものは存在しなかった」ということをかまびすしく言い立てるのはヽその主張が国際的に認知される見通しがあるからではない。全く逆である。
この短い文章に、大きな間違いが三つもある。
第一に自虐史観とは「自国の歴史の負の部分をことさら強調する歴史観」を保守派の人々が批判するときに使う言葉であり、内田はその意味を真逆に取り違えている。
第二に「慰安婦制度に軍部は関与していない」などと主張する人は、どこにもいない。政府見解でも、軍が慰安所の設置などに関与したことは認めている。たぶん内田は、関与と強制運行の区別もつかないのだろう。
第三に「南京事件は存在しなかった」と主張している人もいない。南京で軍民の殺害事件があったことは歴史的事実である。問題はその規模を中国が「三〇万人」というのは、当時の南京市の人口が二五万人だったことから考えてもありえない、という人々がいるだけだ。
「壊れゆく日本という国」という記事では、彼は「『国民国家としての日本』が解体過程に入った」というのだが、その国民国家を壊しているのは「グローバル企業」だといい、トヨタを槍玉に挙げる。
トヨタ自動車は先般、国内生産三〇〇万台という。これまで死守してきたラインを放棄せざるを得ないと報じられた。国内の雇用を確保し、地元経済を潤し、国庫に法人税を納めるということを優先していると、コスト面で国際競争に勝てないからであろう。「中略」
わが国の大企業は軒並み「グローバル企業化」したか、しつつある。いずれすべての企業がグローバル化するだろう。繰り返し言うが、株式会社のロジックどしてその選択は合理的である。だが、企業のグローバル化を国民国家の政府が国民を犠牲にしてまで支援するというのは筋目が違うだろう。
この「政府が国民を犠牲にしてまで支援する」というのは、彼によれば大飯原発の再稼働のことらしいが、トヨタに電力を供給しているのは中部電力だから大飯とは無関係だ。経産省の試算によれば、原発停止によって三年半で一〇兆円以上の国富が失われた。内田はグローバル企業は「原発を再稼働させて製造コストを外部化」し、国民に負担させているのだというが、これは逆だ。
彼はトヨタの納税額を調べたことがあるだろうか。トヨタは二〇一四年三月には七六七八億円の法人税を払った。これは日本企業のトップであり、国税収入の一.五パーセントにのぼる。むしろ投資家からは、トヨタが義理堅く国内で納税し、グローバル化か足りないことが批判されているのだ。カネは印税のように降ってくるのではなく――グローバルだろうとなかろうと――企業で働いている人々が稼いでいるのだ。
日本はアメリカの属国か
p137-140
古賀茂明と並んで左派の元官僚としてテレビによく登場するのが、孫崎享である。彼は元外交官だが、「アメリカ陰謀論者」として知られる。ベストセラーになった『戦後史の正体』は「戦後の日本の外交・経済政策はすべてアメリカの陰謀で決まり、それに逆らった首相はすべて失脚した」という陰謀史観である。
対米従属に徹した吉田茂が長期政権を維持した一方、GHQに抵抗した片山哲や芦田均などの政権は短命に終わったいしかしこれは占領時代なのだから、ある意味では当然だ。安保条約の本当の目的は、条約そのものより同時に締結された日米行政協定(現在の地位協定)にあったという。
これは日本国内の基地を米軍が自由に使用でき、日本が撤退を求めても撤退しなくてよいこと、米兵の裁判は米軍が行なうことなどを定めた協定で、その米軍の権益を守るのが安保条約だった。最初の条約は米車の駐留を認める一方で日本を防衛する義務のない不平等条約だったが、それを改正したのが一九六〇年の新安保条約である。
ここまではいいのだが、安保を改正した「自主独立派」の岸信介が反政府デモで退陣したのはアメリカの陰謀だという。これは残念ながら、岸がCIAから多額の資金援助を受けた工作員だったという事実と矛盾する。
ロッキード事件が日中国交を進めた田中角栄を倒すアメリカの陰謀だったという話も、逆にCIAの失敗だったことがCIA文書で明らかにされている。CIAが日本の政権をあやつろうとしたことは事実だが、彼らは孫崎が信じているほど全知全能ではないのだ。
それ以降の話に至っては支離滅裂な憶測ばかりで、特に孫崎が経済政策を理解していないのは重症だ。TPP(環太平洋パートナー協定)もアメリカの陰謀だというが、私か討論会で「陰謀をめぐらしている具体的な根拠を示せ」といったら孫崎は何も答えられなかった。
彼は鳩山由紀夫元首相の「東アジア共同体研究所」の理事だが、中国の脅威か増すなかで、そんな共同体が実現する可能性はゼロである。地位協定があるかぎり日本が属国だということは事実だが、日米同盟を破棄して、今の憲法で十分な防衛力が構築できるのか。
サンフランシスコ体制で植えつけられた平和ボケのおかけで、日本では左翼も右翼も戦争にリアリティをもてない。残念ながら、今の日本がアメリカから独立することは困難で危険である。そこには空想的平和主義か明治ナショナリズムかという感情的な対立しかないからだ。
白井聡の『永続敗戦論』は、団塊世代の被害妄想が団塊ジュニアの世代まで「遺伝」していることを示している。全体の論旨は目新しいものではなく、『戦後史の正体』と同じ被害妄想史観である。実質的な占領統治が続いているというのは多くの人の歴史認識であり、他ならぬ安倍首相がそれをもっとも強く意識している。彼のいう「戦後レジーム」は、白井のいう『永続続敗戦状態」とほぼ同じだ。
それは白井や孫崎には屈辱だろうが、多くの日本人はアメリカの核の傘にただ乗りして平和と繁栄を享受してきたいむしろ問題は、この平和加いつまで維持できるのかということだ。白井は安倍首相を始めとする右派が憲法を改正しようとしてアメリカとの対立が深まるというが、これは逆だ゜アメリカは極東の軍事的負担を軽減するために、集団的自衛権や軍事力強化で日本に自立を求めているのだ。
ただ日米同盟が終わるリスクが大きいという白井の予想は正しい。そのとき彼は日本が憲法を改正して、また対米戦争をやるという妄想を抱いているようだが、これも逆だ。今最大のリスクは北朝鮮の政権崩壊であり、そのとき起こりうる「第二次朝鮮戦争」に対して、日本はほとんど準備ができていない。彼はこういう「有事」のリスクにまっかにく関心をもたないで「アジアヘの侵略責任」を語っている。
まあ、左翼の論客は・・・クズだということだ・・・
SEALDSはどうせ数年内に内ゲバをはじめるだろうし、反安倍を叫んでいたホームの老夫婦は死んでも**は治らないだろう。
我々保守派は、憲法改正だけがスローガンではなく、日本と世界の未来に対し、我々はいかに振る舞うべきか、考えようではないか!
戦前の保守派が目指した、大アジア主義の復活は単に地理が近いだけで、華夷秩序から抜け出せない支那や朝鮮半島と日本は運命を共にするべきではない。
日本の自主独立も
>サンフランシスコ体制で植えつけられた平和ボケのおかけで、日本では左翼も右翼も戦争にリアリティをもてない。残念ながら、今の日本がアメリカから独立することは困難で危険である。そこには空想的平和主義か明治ナショナリズムかという感情的な対立しかないからだ。
今のところ困難である。
だが、米国はあくまでも国益を重視し日本を利用しようとするわけであり、日本もその米国を利用しなければならない。そのエゴが合致するような対等な日米同盟が当面目指すべき国体であろう。
親米ポチ的な、親米保守ではない保守、それを消極的親米保守と私は呼ぶ。
保守は何を守るのか?けっして現状維持ではなく、日本的な価値観(時代と共に遷ろうのだが・・・)日本的な美徳とされるもの、世界に尊敬される日本を守る。
けっして守旧派ではなく、つねに改革する保守、いわばプログレッシブ進歩的な保守、プログレッシブ保守である!

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